2016年4月17日 (日)

「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」 生と死の生々しさ

こちら「ガンダム」らしくないとも言われていますが、個人的には独立した作品として毎回かなり引き込まれて観れました。
そもそも「ガンダム」らしいっていうのは何なのかということにもなりますけれども。

「鉄血の」とタイトルにあるように、本作は日曜の夕方に放映されていたにしては、「鉄」と「血」を生々しく感じる作品となっていました。
ガンダムオルフェンズを始めモビルスーツが登場して戦い合いますが、本作ではビームライフルやビームサーベルなど「ガンダム」らしい兵器は出てきません。
モビルスーツが持つ兵器は金属の大刀や鉈、銃を持っていたとしてもビーム兵器などではなく、弾丸・砲弾が発射される実弾兵器です。
大刀を叩きつけられた(斬るではない)敵のモビルスーツはひしゃげ、潰れます。
実弾が当たれば、ガツンと金属がぶち当たったような重い金属音がします。
そして中にいるパイロットはコクピットの中で、潰されて血を吐きながら死んでいきます。
ファーストガンダムでサイド6でジオンと連邦の戦いをテレビ中継で人々が見ていたシーンがありました。
あれは戦争というものの生々しさを相対的に表現するシーンであったと思いますが、それでもロボットのテレビアニメを見ている方としては、あのテレビ中継を見ているような気分は少なからずあるでしょう。
そういう自分たちに、本作は戦うということの生々しさを「鉄」と「血」を描くことによりダイレクトに伝えてきました。
主人公三日月は子供でありながら、人を殺すことに躊躇がありません。
なぜなら生きるためにはそうしないと生きてこれなかったから。
人を殺したら、かわいそうとか悲しいとかそういうレベルではないのです。
死を感じない主人公だからこそ、よりいっそう死(と生)の生々しさを感じさせました。
しかし彼は自分のためだけに人を殺しているのではありません。
彼は自分が信じている仲間のために殺している(というより自分の命すら大事に思っていない)。
彼ら鉄華団は理念とかで繋がっている、甘っちょろい仲間たちではありません。
もっと深い何か、それこそオルガがよく口にする家族というものに近いかもしれません。
思想などではなく、血で繋がっている仲間たち。
血は仲間のために己の命をささげる覚悟を持っているという関係性の象徴。
劇中鉄華団が結成される時、オルガとその兄貴分の名瀬がヤクザのように盃を交わし合いますが、これも血の結束の象徴でしょう。
そんな仲間たちであっても、いやそうやって命をささげる覚悟を持っている彼らたちだからこそ、仲間たちに容赦なく死が訪れます。
オルガの片腕であったビスケットの死は結構衝撃的でありました。
死の容赦なさというのが感じられたからだと思います。
それでも彼らは仲間たちのために命をかける。
自分の命よりも大事であるものがあると彼らには思えているからでしょう。
途中より鉄華団にメルビットという女性が参加しますが、彼女の視線は見ている我々の常識的な視点の代表です。
子供なのにそのように死にに行こうというのは間違っていると彼女は言います。
けれど彼らにとっては死や生よりも大事なものがあるということなのです。
彼らには迷いはない。
正しいか正しくないかというより、自分の生を越えて信じられるものがあるというのは羨ましいことかもしれません。
多分彼らが悩むことなく自分をかけることを持っているということに自分は惹かれたのかもしれません。
生きていれば、ささいなことで悩むことばかりです。
そんなことなく迷うことなく進む彼らが眩しく見えました。
本作、第2シーズンが秋から始まるそう。
楽しみに待っていたいと思います。

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2015年9月24日 (木)

「ガンダム Gのレコンギスタ」 複雑すぎますねえ

予約録画をしていたこちらの作品、ようやく見終えました。
富野由悠季監督が15年ぶりに作り上げた「ガンダム」のシリーズです。
舞台となるのは「宇宙世紀(ユニバーサル・センチェリー)」の未来「リギルド・センチェリー」という時代。
科学技術は戦争を誘発するものとして、禁忌として扱われ、激しく管理されている時代です。
しかし、地球に住む一部の者は封印されたデータベースを解き、その情報をもとに宇宙船を建造し、宇宙へ進出しようとします。
また、宇宙で暮らす人々もそのことによる不具合から、地球の地に降り立つことを目指します。
地球側、宇宙側でもさまざまな思惑に基づいた集団がおり、それぞれが合従連衡を繰り返し、最終的には地球侵攻作戦という一大決戦にもつれ込んでいきます。

久しぶりの富野由悠季監督による「ガンダム」シリーズとなりましたが、非常にわかりづらい作品となっています。
もともと富野監督の作品はわかりにくいタイプのものが多いですが、その中でもかなり難しい類の話になるのではないでしょうか。
先に触れましたが、この物語にはさまざまな思惑を持った集団、登場人物が登場していきます。
時に彼らは連携し、また敵対して物語は進んでいきます。
また何人かの登場人物はその集団を渡り歩いたりするので、いっそうわかりにくさは助長されます。
本作の脚本も富野監督のものによるものですが、いわゆる「ガンダム」調のセリフ回しが多いです。
セリフで状況を説明するような場面も多いのですが、この物語特有の造語がかなり出てくるのでわかりやすいかといったらそんなことはありません。
また人間関係も説明がないことが多くとてもわかりにくい。
マスクなどはなぜ急激にベルリに敵対心を持ってしまって戦いを挑むのか、そもそも研修生であったのに部隊長になるまでになるのはなぜなのかとかそういったことはネグっているので、観ていてもすっきりとしません。
感じてほしいということなのかもしれませんが、ちょっと不親切な感じがしました。
もともと「機動戦士ガンダム」も親切なつくりではないですが、周辺でいくつも補足情報がありましたからね・・・。

「ガンダム」シリーズと言えばやはりモビルスーツをはじめとするメカニックは見どころです。
主役機「G-セルフ」を初めて見たのは雑誌の記事だったとは思いますが、ガンダムの記号性を持ちながらも、今までにないガンダム像を作ったかと思います。
小顔で目が大きく、通常のガンダムでに比べると、子供っぽい顔つきにも見えた「G-セルフ」ですが、主人公ベルリのイメージにも合っていたかと思います。
その他のモビルスーツについても魅力的なものが多かったです。
グリモア、ヘカテー、カットシー、エルフ・ブルック、マックナイフ、G-ルシファー等が好きな期待ですね。
複雑なデザインではないですが、シルエットは新しい感じがするモビルスーツたちです。
これはプラモデルが作りたくなりますね。

ようやく見終えた「Gのレコンギスタ」ですが、10月からは新作「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」が始まるんですよね。
またレビューは先になってしまうかも。

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2015年4月21日 (火)

「ガンダムビルドファイターズ」 ガンプラ文化

1979年に最初の「機動戦士ガンダム」(いわゆるファースト・ガンダム)がオンエアされてから35年以上の歴史の中でも、この作品は異色であると言えるでしょう(その後シリーズ化され「ガンダムビルドファイターズトライ」がオンエアされています)。
この作品が異色であるポイントのひとつは、歴代の「ガンダム」のモビルスーツが数々登場するところでしょう。
今までも過去のモビルスーツが別の物語に登場することはありましたが、それは基本的には同一の時間軸(例えばユニバーサル・センチェリー)の中において、ということでした。
異なる世界観の中で存在するモビルスーツが一緒に登場するというのは、かなり特異です。
それになんてったって、ガンダムのプラモデル、いわゆるガンプラでバトルをするという設定がかなり変化球的です。
40代くらいの方は「プラレス三四郎」というコミックとアニメを思い出すのではないでしょうか。 
歴代のモビルスーツが登場するということ、プラモデルという商品そのものが題材であることは、過去コンテンツが持つアイテムの掘り起こしという、おもちゃ屋さん(バンダイ)の意向が強く働いている感じはします。
歴史が長く、いまや二世代コンテンツとなった作品としては「仮面ライダー」や「ウルトラマン」がありますが、平成に入ったあたりから、作品ごとに異なる世界観を持つということが多くなりました。
それは作品世界としてのリアリティを持つことにより、大人の鑑賞にも耐えうるという効果があったかと思います。
しかし、これはおもちゃビジネス的には毎回新しい作品が生み出されることによりマーケティング活動のリセットをしなくてはいけないということでもありエネルギーのかかるものであるのだと思います(とはいえだからこそチャレンジングなアイデアが出てきたとも言えますが)。
とはいえ昭和の頃のシリーズにあった「7人ライダー大集合」とか「ウルトラ兄弟」といった過去コンテンツを売る仕組みもあるほうがなおよいことは間違いがありません。
制作サイドのシリーズをブランド化したいというニーズとも合い、「仮面ライダーディケイド」で初めてトライアルを行い、続いて「ウルトラマンギンガ」で過去のシリーズをおおきなシリーズの枠組みに取り込むことに成功しました。
この考え方を「ガンダム」に応用したのが「ガンダムビルドファイターズ」であると言えます。
同時期に「機動戦士ガンダムUC」というファースト・ガンダムの直の流れを持つ王道作品が作られているのも巧みであると思いました。
「ガンダム」というブランドイメージを守りつつも、チャレンジをしていく戦略がうかがえます。

「機動戦士ガンダムUC」はユニバーサル・センチェリーという大河ドラマを引き継ぐ往年の「ガンダム」ファン向けの作品です。
逆に言うとファースト・ガンダムを知らない人々からすると敷居が高いとも言えます(特に子供たちに対して)。
若年向けのエントリー作品としては「機動戦士ガンダムAGE」があったと思いますが、これは成功したとは言えない作品であったと思います。
キャラクターは低年齢層に受け入れやすいようなデザインになっていたのですが、物語としては割合ハードな物語(ファースト・ガンダム的な)となっていました。
そのあたりのアンバランスさが、若年ターゲットとのアンマッチを起こしていたように思います。

「ガンダムビルドファイターズ」がユニークな点としては、いわゆる「ガンダム」という作品群があり、そしてまたガンプラというものが存在している世界を舞台にしたフィクションであるということです。
いわばメタフィクション。
すべての「ガンダム」世界を包含するこの設定は、クロスオーバーに関する制約から解放することにつながったのでしょう。
すべての世界を包含するというやり口は、「仮面ライダーディケイド」が実施したのと同じ手法です。

プラモデルを作るというのは手間がかかることです。
単に立体物のガンダムがほしいということであれば、完成品のロボットフィギュアを買うのが手っ取り早い。
少々高くはありますが、自分の腕に関わらずクオリティの高いものが手に入るほうがよいという方はいるでしょう。
しかし、この番組で描いているのは、自分でアレンジした自分だけの完成品を作る過程を楽しもうという提案です。
プラモデルを作る楽しみとはその過程を楽しむこと。
子供ですら、手間をかけたくないと思う現代、作ることの楽しさを伝えるというのはいい(「バンダイ」の戦略が透けて見えるようですが)。
自分でいろいろ工夫して、苦労して作り、それが他人の目で評価され、うれしくもあり、くやしくもあり。
大仰な言い方をすれば、それが「ガンプラ文化」なのかもしれません。

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2013年10月14日 (月)

「宇宙戦艦ヤマト2199」 文句なしのリメイク作品

劇場で先行公開され、テレビでは4月から9月の間オンエアされたアニメです。
日本人ならば知らぬものはいないと言ってもいいくらい有名な作品「宇宙戦艦ヤマト」のリメイクです。
「宇宙戦艦ヤマト」については今までも続編やリメイクなどがアニメ、実写などで作られたことがありましたが、初めてオリジナルを観た時の興奮が甦ったかというとそこまでではありません。
やはり僕の世代となると「ヤマト」はビデオのない時代に再放送を食い入るように観ていたもので、その記憶が脳みそに深く深く刻み込まれているため、その理想へのハードルがとても高くなっているのですね。
しかし、本作「2199」は昔観たときの興奮が甦ったまさに王道のリメイク作品となっていると思いました。
おそらくスタッフも「ヤマト」世代であり、そのときの自分が好きだった部分を存分に再現しようとしていたのではないかと感じました。
「2199」はほぼオリジナルのストーリーラインを踏襲しています。
ガミラスに衛星爆弾で地球が破滅の危機を迎えている時に、イスカンダルよりコスモリバースシステム(旧作ではコスモクリーナー)を受けとりにくるよう使者が訪れ、そこにあったノウハウで宇宙戦艦ヤマトを建造し、遙かかなたのイスカンダルへ向かう。
本作ではオリジナルをとことん踏襲しているところと、かなり改変を加えているところとがあります。
オリジナルを意識的に踏襲しているところは音楽、そしてSE(効果音)ですね。
音楽はこれがなければ「ヤマト」ではないということで、やはり宮川泰さんの曲を使用しています。
この曲の入り方がほぼ旧作と同じような場面で入るんですよね。
このあたりの旧作品ファンの「ここは変えてくれるな」というお気に入りの場面のツボがスタッフがわかっているのだなと感心しました。
カットまでほとんど同じようなところがありますものね。
曲が足りないところは宮川泰さんのご子息である宮川彬良さんが作曲しています。
宮川彬良さんの曲である「ヤマト渦中へ」は今回ヤマトが危機の時に使われたBGMですが、けっこう好きな曲です。
SEなどもガミラス艦が進むときの「キュンキュンキューン」という音や、ショックカノンの「ギュルルル・・・」なんての音もそのまんまでした。
こういう細かいところに気をつかってくれるのはいいんですよね。
SEで新しいところでは、ヤマトが実弾を手法で撃った時、それがガミラス艦に当たる時金属的な「カンッ!!」って音がするんですよね。
このあたりはどちらかというと海戦ものの映画の影響を受けている感じで新鮮でした。
七色星団でのヤマトVSドメル艦隊の場面も宇宙戦というよりは海戦のイメージが強かったですよね。
このあたりは新解釈でカッコよかったです。
オリジナルから大きく変えているところは、古い作品のため設定が大らかで明らかに矛盾やおかしなところがあるところを整合性をとらせようとしているところですね。
そもそもヤマト一艦で巨大なガミラス帝国を滅ぼすのは無理があるということで、ガミラス帝国そのものにも反乱分子がいるということになっています。
そのあたりは肌の色が違う(青色じゃない)ガミラス人ということの矛盾にも理由をつけました。
ガミラス側だけでなく、地球側の一枚岩ではなく途中まではイズモ計画への賛同者の動き等があり、そのあたりはドラマとして複雑さを与えたと思います。
いわゆるアニメファン向けのキャラクターも何人か導入されていて、比較的硬派であった「ヤマト」がそういう方にも受け入れられるよう間口を広げた感も感じました。
個人的には冥王星海戦、七色星団での対決あたりが見応えあり、非常に満足でした。
最後のガミラス本星での「硫酸の海」「ビル型ミサイル」などは観たかったところですが、さすがに設定上突飛過ぎるということでオミットされたんでしょうね。
ここはちょっと残念。
作画レベルも非常に高かったのが満足度が高かったです。
キャラクターの作画はもちろんですが、メカ関係の作画が良かった。
おそらく3DCGを使っているとは思いますが、非常に上手い使い方だったと思います。
コスモファイターの戦いは航空戦、ヤマトとガミラス艦の戦いは海戦、をイメージしていて、SF映画の宇宙戦ではなくどちらかというと戦記映画の戦闘シーンを高度なコンピュータ技術で再現しようとしているように思いました。
非常に見応えがありました。
総合的に非常に満足度が高い作品に仕上がっていたと思います。

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2012年10月29日 (月)

「機動戦士ガンダムAGE」 世間的には評判はよろしくないが・・・

4クール(1年)にも及ぶ「機動戦士ガンダム」の新作シリーズです。
企画協力にはゲームメーカーであるレベルファイブ(「イナズマイレブン」「ダンボール戦記」等)が加わり、ゲームやコミックなどとのコラボレーションが図られました。
「機動戦士ガンダム」シリーズは熱烈なファンがいる一方、ニューエントリーが取りきれていないという悩みがあったようで、そのあたりの層でヒット作を出しているレベルファイブと取り組むこととしたのでしょう。
そのためか本作のキャラクター設定(絵柄)は、レベルファイブの他の作品と同様のテイストで、初見の時はあまりに「ガンダム」の雰囲気に合わないのではないかと危惧をしました。
子供っぽいわけですね。
初期はかなり「ガンダム」ファンからの批判はあったようです。
本作が意欲的に取り込んだ新しい設定は、1年にも及ぶシリーズであるということで、主人公が3代に渡って変わっていくということです。
フリット・アスノに始まり、その子アセム・アスノ、そしてまたその子キオ・アスノと3代に渡る物語が描かれます(フリット編、アセム編、キオ編がそれぞれ1クール、そして3世代が同時に描かれる3世代編が1クール)。
またタイトルにあるAGEの名をとったAGEシステムなるものがあり、これはガンダムの戦闘データを元にさらに強くなる武器やウェア(ガンダムのパーツ)を作り、ガンダム自体を進化させます。
これは最近の「仮面ライダー」にみられる「フォームチェンジ」のような感じで、バンダイ側の色気が感じられますね。
このように意欲的に新しい試みはいくつも盛り込まれていきましたが、最初の1クールめ「フリット編」と観たときはいかがなものかというのがありました。
新しい試みはしているものの、その基本線はファースト・ガンダムの焼き直しのような感じを受けました。
ファースト・ガンダムのニュータイプとほぼ同様の力として描かれるのが、本作ではXラウンダーというもの。
フリットはこの力を持ち、最初からガンダムを使いこなすことができます。
そしてまたフリットが惹かれる少女フリンもそのXラウンダーなのですが、その能力ゆえ、フリットの敵であるヴェイガン(このときはまだ正体不明)に利用され、命を散らします。
このあたりはアムロとララァを想起させるエピソードであります。
このフリット編は全体的にストーリー展開が早く、ややもすると御都合主義感がかなりあって、観ていても何か子供向けであるという感じがしました。
この作品がファースト・ガンダムを意識しているというのは他のいくつかのところからもうかがわれます。
2クールめの「アセム編」で登場する主人公のライバルとなるゼハートは、やはりシャアばりの仮面を身につけ戦闘をしますし。
そもそもガンダムのフォルムについては、「フリット編」のAGE-1は非常にシンプルでファースト・ガンダムを意識、「アセム編」のAGE-2はストライダー形態への変形などからZガンダムを感じさせます。
「キオ編」のAGE-3の全体的なごついフォルムはZZガンダムを髣髴とさせますし、最後のAGE-FXがファンネルの使いこなす様はνガンダムを思い浮かべさせますね。
このようにファースト・ガンダムにはじまる「宇宙世紀」シリーズを翻案しているようなところもあり、当初は少々オリジナル感を感じないというのが、本作でした。
ただ2クール目の「アセム編」から少々方向性が変化していきます。
アセムは、Xラウンダーであるフリットの子でありながら、その能力を持ち合わせていません。
偉大なパイロットである父親、そしてまた友人でもあるゼハートに対し、嫉妬・コンプレックスを持つアセムの姿はいままでとは違う新しさを感じました。
そして彼は生まれ持った能力ではなく、自分の努力によりそのスキルを増し、Xラウンダーとも戦える「スーパーパイロット」となるのです。
この立ち位置はその後の4クール目の「3世代編」にも生きてきます。
3クール目は「キオ編」でアセムの息子であるキオが主人公となります。
彼は祖父と同じくXラウンダーであり、中でもその力が強い少年です。
そして誰よりも心が優しい少年です。
彼は戦いの中、人が次々に倒れていく様を見、苦しみます。
「3世代編」ではフリット、アセム、キオの3人の考え方の違いが出て、話にドライブがかかります。
この「3世代編」はかなりおもしろかった。
大切な人(母やフリン)を失った悲しみを背景に、ヴェイガンへの復讐、その殲滅にとらわれたフリット、Xラウンダーではないということからか状況を俯瞰してみることができ地球とヴェイガンの戦力の均衡による平和を目指すアセム、敵であるヴェイガンへ人間としての共感を感じ戦わないようにするために戦うキオ。
それぞれの意志が物語の中で交錯します。
この「3世代編」の展開は当初より想定されたものかどうかはわかりませんが、結果的には「機動戦士ガンダムAGE」は3世代にも渡る戦いを大きな物語のうねりを持って描いたと思います。
当初の沈滞した感じから、うまく復活できたのではないでしょうか。
世間的に評判が芳しくないのはやはり1クール目の「フリット編」でかなりの脱落者が出たからだと思います。
ここでファンを引きつけられなかったのはやはりよろしくなかった。
しかしその後はうまく軌道修正をしてきたのではないかと個人的には思います。

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2011年11月23日 (水)

「のだめカンタービレ フィナーレ(アニメ)」 楽しい音楽の時間の始まりデス

最近オンエアでアニメを追いかけて観ることがなくなって、やっとこさDVDで観ました。
うん、きれいにフィナーレしていましたね。
原作マンガの「のだめカンタービレ」は終盤は展開にかなり苦しんでいるようなような感じがありました。
物語の最終着地点をどこにしようか迷っているような感じといいましょうか。
マンガに限らず、主人公が成長していく物語というのはどこにゴールを設定するのかというのが難しいところであります。
僕は「ジャンプ病」と読んでいるのですが、主人公がドンドン強くなる、そうなるとさらに強大な敵が出て、それを倒すと、さらに強いのが・・・という無限拡大をしていくんですよね。
ドンドン拡大できればいいのですが(「ワンピース」のように)、どこかでやはり無理が出てくるわけです。
そうなると物語がダレダレになってしまうという・・・。
「のだめカンタービレ」は最初は主人公の成長物語などという路線ではなかったと思うのですよね。
才能があるけれど、奇妙な音大生の、風変わりな日常を描くというどちらかと言えばギャグに近いセンスだったと思うんです。
それがパリへ渡ったあたりから、成長物語の要素が色濃くなってきてしまいます。
そこで展開を難しくしてしまうのは、主人公のだめが「成長したくないと思っている」キャラクターであるということです。
よくある成長物語というのは、主人公はもっと強くなるなり、上にあがりたいなりの向上心というものを持っているものですが、のだめにそういうものは一切ありません。
けれども成長ストーリーとしては物語は成長を要求する。
主人公は成長したくない。
このあたりがぶつかって物語がややぐちゃっとした感はあります。
しかしメタ目線でよく考えてみると、のだめに成長を期待している「成長物語」というのは、作品の中では千秋というキャラクターに表されているんですよね。
だからマンガの後半は千秋とのだめがぶつかりあったり、すれちがったりしてしまうわけです。
物語の期待と主人公の望みが相反しているということが、展開される物語に表れているという感じだったのかもしれません。
マンガの方はそれを連載していきながら、うまく着地をさせていくということにとても苦心しているように思いました。
それを受けてのアニメ版のフィナーレは、原作での苦闘を踏まえた上で、整理をよくしているかなと思いました。
成長してほしいと思うこと(千秋)、成長を強制されるのはいやだと思うこと(のだめ)の気持ちがすれ違うことを軸に描いていたと思います。
そして決着としては、成長するとかしないとかそういうところを論点にするのではなく、やはり「音楽は楽しいよね。好きだよね」という根本的なところを互いに共通して理解するということで終わらせています。
物語の要請ものだめの希望もここで摺り合わせられるわけですね。
原作もそうでしたが、二人の出会いであった「2台のピアノのソナタ」に収束させるというのはうまい着地点であったと思います。
まさに二人にとってはこれから「楽しい音楽の時間の始まり」ということになっていくのでしょう。

「のだめカンタービレ(アニメ)」の記事はこちら→
「のだめカンタービレ 巴里編(アニメ)」の記事はこちら→

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2011年6月12日 (日)

「けいおん!!」 去りゆく楽しかった日々

ブレイクした「けいおん!」の第二期シリーズになります(!が2つになっている)。
本シリーズはかなりの人気だそうで、今年の12月には劇場版も公開決定だそうです。
第二期は第一期の続きとなり、唯たち軽音部のメンバーが高校3年生になってからが描かれます。
あいかわらずたわいもない話で、高校3年生でテーマとしては必ず上がってくる「受験」もそれほど大きくは扱ってません(進路などはさすがに悩んだりしているけれど、あっさり受験は終わる)。
本作は軽音部のメンバーたちの日常というのを描いていますが、第一期と違うのは梓の視点が強く出ているところでしょうか。
梓は、高校3年生の先輩たち、唯、律、澪、紬の唯一の一つ下の後輩になります。
梓はけっこうマジメなタイプなので、どちらかとグダグダと過ごすことが多い軽音部の先輩たちにもう少し真剣に練習をしてほしいと思っています。
けれど、5人で過ごす時間も非常に楽しく、また大事に考えている娘です。
本作が唯たちが高校3年生であるということは、本人たちよりも梓の視点で強く意識されています。
唯たちが卒業してしまったら、梓はひとりぼっちになってします。
もう楽しかった日々は得られなくなってしまう。
そういう予感を梓は感じています。
なので、「けいおん!!」にはそこはかとない寂しさというものも漂っているように感じました。
決して派手ではない日常だけれど、そこには何かとても大切なものがあって。
そこからいつかは卒業しなくてはいけないという現実があるということを。
去りゆく楽しかった日々。
これはみなさんも高校時代を思い返す時になにか心に残っていることがあると思うんですよね。
相変わらずのグダグダ、キャピキャピの軽音部ですが、そういう梓の視点で見直してみるのもおもいしろいかもしれません。

主題歌は途中で変更になりましたが、2曲とも人間離れしたキー、速さで、よく歌えるなぁと感心するばかり。
唯役の豊崎愛生さんは声優さんですが、ライブもやったりするようで、その実力を見せつけられました。

第一期「けいおん!」の記事はこちら→

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2011年3月 5日 (土)

「機動戦士ガンダムOO セカンドシーズン」 ファーストガンダムへのオマージュ溢れる

久しぶり「ガンダム」シリーズを観ましたが、こちら「OO」はかなりおもしろかったです。
セカンドシーズンに入ってからは、ファーストガンダムへのオマージュが溢れ、ファーストで取り上げられたテーマについて「OO」としての解釈・結論を導きだしていたと思われます。
そう考えるとファーストシーズンはそれの前振りとなっていることがわかります。

ファーストガンダムで描かれていたのは、人類が宇宙に進出するにあたり発生していく「人の覚醒」。
この覚醒というのは、ファーストでは「ニュータイプ」と呼ばれていましたが、人の意識が自分の肉体という枠を越え、他者との意識との交流をおこない、わかりあえるといったものでした。
人の覚醒が行われていく中で、「ニュータイプ」と「オールドタイプ」との間の対立、また「ニュータイプ」同士での目標とする世界観の違いによる対立が描かれているのが、ファースト、Z、ZZまでの物語であったと思います。

「OO」シリーズはファーストシーズンでは人の覚醒というところまでは描かれていませんでしたが、セカンドシーズンに入り、その点がクローズアップされていきます。
イノベーターという人類と異なり互いの意識のリンクができる人々の登場、そして人類から覚醒した「真のイノベーター」と呼ばれるものの出現。
この「真のイノベーター」というのはファーストガンダムでいう「ニュータイプ」と限りなく近い設定であると思います。
また本作においてガンダム技術のコアとなるGN粒子という設定は、ファーストガンダムでいうミノフスキー粒子を髣髴とさせますが、単にモビルスーツを出現させるための設定背景というのではなく、「真のイノベーター」発現への重要なものとなっています。
ファーストガンダムでいう「ニュータイプ」は人類が宇宙に進出するにあたり、偶然に発現した新しいタイプの人類ということになります。
これは予期せぬものであり、だからこそその発現に人類全体が戸惑い、どのように新しいステージへ「ニュータイプ」を組み込むかということが描かれています。
「OO」シリーズにおける「真のイノベーター」というのは、イオリアからすれば人類が宇宙へ進出するにあたり、「そうならなければいけない」という必ず通過しなくてはいけないステージとして解釈されています。
おそらくイオリアは人類は常に成長というものを志向する生き物であるという認識であったのでしょう。
ですからいずれ人類は地球を離れ、太陽系、そして外宇宙へ進出していくというのは自明であったわけです。
しかしながら地球上という狭い世界のなかですら争いを続けている今の状態では、そのまま宇宙へ進出したとしてもどこかで崩壊し、それは人類滅亡に繋がってしまう恐れがある。
それをイオリアは懸念したのでしょう。
そのためには人類相互が互いに理解しあわなければならない。
そういう能力をもった人々「真のイノベーター」の出現を導く必要があったのです。
そこにいくつくためのストーリーをイオリアは描いたのです。
すなわちソレスタル・ビーイングによる武力介入に対抗するために成立する世界政府、そして強権的な世界政府に対抗するための人類の相互理解力の覚醒。
ファーストガンダムではなりゆき的な発生であった「ニュータイプ」人類の覚醒が、「OO」シリーズは一つのシナリオに基づき行われてゆくのです。

セカンドシーズンはファーストシーズンの4年後の設定ということで、登場人物がその歳月を経た変化があったのも感慨深いものがありました。
沙慈とルイスの関係はファーストから大きく変わり、これはファーストガンダムのアムロとララァ、Zガンダムのカミーユとフォウといった敵味方に別れた二人の悲劇といったものを引き継いでいるように思いました。
フェルトもファーストシーズンではおとなしい引っ込み思案なところもあった少女でしたが、セカンドシーズンでは力強く他のクルーを支える女性として成長しています。
彼女はロックオンの死のダメージを乗り越え、精神的に成長している様子がうかがえました。
ファーストシーズンからセカンドシーズンへ4年間という間をおいたのは、世界が変わっていく様子を描くには必要な時間であったのと、また主要人物が成長していくのにも必要な時間であったという意味で、とても上手な設定であったと思います。
これはファーストガンダムからZガンダムへの変化をも髣髴させるものであり、やはり初期ガンダムへのオマージュを強く感じました。
ファーストガンダムからZZまでの流れというのは、人類の覚醒というものを描きながらも結果的にはそれを上手に受け入れられない人類を描いており、基本的には世界的にも、それぞれの登場人物的にもハッピーな結果となっているわけではありません。
ある意味それが現実なのかもしれませんが、観終わったときはやるせなさというのを感じたりもするわけです。
けれどもそれらファーストガンダムからZZまでのシリーズへ敬意を表しながらも、「OO」シリーズが描く人類の覚醒は非常に前向きであり、そして登場人物たちも多くは良い結末をむかえています。
とても気持ちよく観終えることができました。
未来への希望を感じたとでもいいましょうか。
その前向き感が本作「OO」シリーズの特徴ではないかと思いました。

劇場版では、なんと地球外生命体が登場するということ。
テレビシリーズをDVDで観る前にその話は耳に入っていたので、聞いたときは「???なんで」と思いましたが、全シリーズを観終え、イオリア計画がわかった今ではそれは物語的には必然であるなと思いました。
やっと人類は覚醒を迎え、そして外宇宙に進出する準備が整ってきたわけです。
その先で出会う新しい出来事に人類は対処できるのか、それが劇場版で描かれるのでしょう。
こちらについてもすぐに観てみたいと思います。

ファーストシーズンに出ていたガンダムエクシアが僕は好きなデザインだったのですが、セカンドシーズンにはいり、刹那の乗る期待がOOガンダムになってしまったので、ちょっと残念でした。
しかし、最終回にエクシアが再登場してくれたのはうれしかったですねー。
あと最終回はガンキャノン的なモビルスーツもでてきていて、本作はとことんファーストガンダムへオマージュを捧げているなと思いました。

「機動戦士ガンダムOO ファーストシーズン」の記事はこちら→
「劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」の記事はこちら→

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2011年1月16日 (日)

「機動戦士ガンダムOO ファーストシーズン」 「ファウンデーション」の影響あり?

僕はもろにファースト・ガンダム世代なのですが、その後に作られた「Z」「ZZ」と観ていくうちにどうもその世界に馴染めず、自然と離れていきました。
その後も「ガンダム」と冠した作品が作られているのは知ってはいましたが、まるで食指が動きませんでした。
「Z」「ZZ」あたりでうけた幻滅感が大きかったからかもしれません。
「ガンダム」についてはそんな感じでありましたが、映画雑誌「CUT」の記事の評判が良かったので、ちょっと観てみようという気になり、このところDVDを観て、やっとファーストシーズンを観終わったところです。
最近の「ガンダム」のファンからすれば当たり前かもしれないですが、いわゆる「宇宙世紀」の世界観とはまったく違う世界の話なのですね。
平成仮面ライダーがそれぞれ別の世界観であるというのと同じ考え方ですね。
今回観てみようという気になったのは、「ダブルオー」が今僕たちが暮らしている世界から地続きの世界を取り扱っているということ。
今の世界にある大きな問題の一つ、紛争を解決しようとするのが本作の核心になります。
そういう現実的な問題についてどのように「ガンダム」が答えを出そうとしているのかが気になりました。

観始めて最初に驚いたのは、「最近のガンダムってたくさんいるんだー」ということ。
これまた最近のファンからすれば当たり前なのかもしれませんが、ファースト・ガンダム世代としては新鮮です。
ま、平成仮面ライダーもたくさん出てきますからねー。
ガンダムヴァーチェからナドレへの変化は、「仮面ライダーカブト」のキャストオフじゃんと思ってしまいました。
キャラクターデザインがお目めパッチリ系で初めは馴染めなかったのですが、観ていくうちに次第に気にならなくなりました。
テレビシリーズは作画のレベルがけっこう差があったりするものですが、本作は毎話クオリティが高いなと感心しました。
特に最終話などはかなりのハイレベルです。

西暦が2300年代に入った地球。
人類はいまだに紛争を止めることが出来ない状態になっています。
世界は大きく3つの陣営にわかれせめぎ合いを行い、また太陽光発電の普及によるそれまでの石油依存型の世界とは異なるパラダイムとなり別の形での紛争が起こっています。
そのように争いのなくならない世界に対し、戦いにより紛争根絶をするという理念を掲げ紛争介入を図る組織ソレスタルビーイングが登場します。
ソレスタルビーイングの主力兵器となるのが、4機のガンダムであり、これらは今までの技術を圧倒する高機能・高性能を持ち、各国の軍隊のモビルスーツを圧倒します。
彼らの理念はイオリア・シュヘンベルグという天才が200年前に掲げたものであり、ソレスタルビーイングの活動はイオリアの量子コンピュータ「ヴェーダ」のシナリオに基づき行われていきます。
ソレスタルビーイングが地球各国の「共通の敵」となることにより、地球で対立する陣営を一つにまとめようとするのが、「ヴェーダ」のシナリオでした。
すなわちソレスタルビーイングのメンバーたちはそのシナリオ上、統一国家へ進む地球の歴史の捨て駒としての役割を担っていたのです。
一人の天才が未来を予見し、最適な道筋に導いていくというこの流れで思い浮かべたのが、SF作家アイザック・アシモフの「ファウンデーション」シリーズです。
「ファウンデーション」シリーズでも一人の天才、ハリ・セルダンが「心理歴史学」に基づき人類を導くために「ファウンデーション」という組織を作るのです。
予期せぬと思われるシナリオの変化も起こりますが、それすらセルダンは予期し、「第二ファウンデーション」すら用意しているというのは、本作でガンダムマイスターとはべつにトリニティなどをバックアップで用意しているイオリアとかぶりました。
本作は「ファウンデーション」シリーズを参考にしているのではないかなあ。

初めはそれほど期待しないで観始めた「機動戦士ガンダムOO」ですが、硬派なドラマであり、またアニメとしても見所のある展開で最後の方はけっこう夢中になってみました。
ファーストシーズンでソレスタルビーイングの犠牲を元に地球連邦という統一国家ができあがります。
けれどもいくつかの謎はまだ残ったまま。
こちらはセカンドシーズンで明らかになるということでしょうか。
このままセカンドシーズンも見始めようかと思います。

地球連邦が成立したところで思ったことです。
「OO(ダブルオー)」というタイトルは、ファースト・ガンダムの「宇宙世紀」の「00」と関係あるんでしょうかね。
本作の最終回ででてきていたガンダム「OO」は、ファースト・ガンダムのRX-78に似ていましたし。
何か関連性あるのかな。
それもセカンドシーズンで明らかになるのでしょうか。

「機動戦士ガンダムOO セカンドシーズン」の記事はこちら→
「劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」の記事はこちら→

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2010年10月 9日 (土)

「けいおん!」 居心地のよい場所、贅沢な時間

2009年にTBS系で放映されていたテレビアニメです(今年第2期が放映されました)。
いつも購読している映画雑誌「Cut」で絶賛している記事が掲載されていたので、興味がわいてレンタルしてみました。
タイトルの「けいおん!」は軽音部のことで、本作は桜ヶ丘高校の軽音部のメンバー(唯、澪、紬、律、梓)のまったりとした日常を描いています。
こちらの作品は存在は知っていましたが、デザインはお目目が大きくて、アニメ声のキャラクターで、いかにも「萌え」系のアニメだと思ってました。
「Cut」では音楽がいいという話だったので(こちらの雑誌の販売元はロッキング・オンなので音楽にフューチャーするのは当然であるけれど)、確かに女子高生のバンドを描いているアニメとは思えないほどのノリのオープニングとエンディングです。
劇中で唯たちバンドメンバーが演奏する曲は、ふわふわした歌詞の女子高生っぽい曲なんですけれど、なんかそれも歌詞の割にはカッコいい感じの曲なんですよね。
何度か聞いていると、いつの間にやら頭の中でリフレインしているような中毒性があります。
またストーリーですが、まったりとした軽音部の日常を描いているだけなので、ドラマチックに盛り上がるような展開はありません。
学生バンドをテーマにした映画や漫画ってありますが、頂点目指して突っ走るとか、挫折を味わうとかやはりドラマチックな展開がありますよね。
熱いスピリッツがあるというか(それはそれで「青春」な感じでいいのですけれど)。
けれど「けいおん!」はそういう肩肘を張ったようないかめしさはなく、そのまったりとふわふわした感じがまた、中毒性があるのですよね(けいおんのメンバーは「目指せ!武道館」と言っているけれど本人たち自身も現実感を持っていないのです)。
よく考えれば、自分が高校生の頃、部活はやっていたけど部室に行ってダラダラ何をすることもなく話をして、いつも過ごしていました。
そして文化祭の時だけ燃える!みたいな。
そういう意味では「けいおん!」は普通の高校生の生活を淡々と描いているだけなんですよね。
そこでのだらだらとした会話というのが、なんというか微笑ましいというか、自分の昔の頃を思い出したりしてなにか居心地のよい場所というような感じがします。
社会人になって思い返せば、なんとも贅沢な時間であったなあと。
もっと有意義に使っていればと思わなくもないですが、ああいう過ごし方ができるのも高校生のときくらいなのかなとも思ったりもします。
そういうノスタルジックな思いみたいなものも「けいおん!」には感じてしまうのでしょうね。
結局、好きではないお目目パッチリのキャラクターも、アニメ声も最後はまったく気にならなくなってしまっていたのでした。

第二期「けいおん!!」の記事はこちら→

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