2016年12月20日 (火)

「仮面ライダーキバ」<平成仮面ライダー振り返り-Part9-> キャラに思い入れが最後までできず・・・

「平成仮面ライダー振り返り」という企画をこのブログで不定期にやっているのですけれど、もう始まってからすでに6年くらい経ちました。
この企画を始めたきっかけが、「ディケイド」が平成仮面ライダーの10年を総括するという内容であると知ったことなのですよね。
そうであるならば、自分でも今までの平成仮面ライダーを見直してみようと。
と言いながら、第9作の「仮面ライダーキバ」を見直しするまで、こんなにかかってしまいました。
しみじみ・・・。

さて「仮面ライダーキバ」ですが、オンエアしていたときから自分の中では得意な作品でありませんでした。
毎週の放送が楽しみで待っているというよりは、付き合って観ているという感じでしたでしょうか。
1作目の「クウガ」から振り返り企画をやってみると、苦手な作品も改めて見直してみることによって改めて面白さに気付くということもありました(「仮面ライダーブレイド」とか)が、「キバ」に関しては苦手意識は最後まで変わらなかったですね。
この作品はいくつか苦手な部分があるのですが、自分でも改めてわかったのが中盤から終盤にかけて過去と現在で繰り広げられるメロドラマ的な要素がその一つです。
現在編では主人公紅渡とその兄である登太牙、そして深央との三角関係が、過去編では渡の父親である紅音也と、麻生ゆりとファンガイアの真夜との三角関係が描かれます。
誤解、すれ違い、迷いなどそれぞれのキャラクターの恋愛における心の揺れが描写されるのですが、それらから昼メロのような印象を受けました。
三角関係なのでまどろっこしいところがあるおは当たり前なのですが、日アサからそんなの見せられてもねえ、という感じでした。
あと主人公の渡のキャラクターが全般的に弱弱しく、ヒーローらしからぬ様子であったのも個人的にはマイナスでした。
やはりヒーローには強さを求めたい。
その強さは肉体的なものであったり、精神的なものであったり、いろいろあると思いますが、ヒーローものとしては譲れないポイントかなと。
前作「電王」の良太郎は腕っぷしはからっきしだけれど、彼が強かったのは心ですよね。
彼は意外と自分の想いについては揺るがない。
それが彼の強さであったと思います。
そういった強さを紅渡にはあまり感じられないんですよね。
あとこれはリアルタイムで視聴したあとのレビューにも書いていたのですが、物語の構成上の複雑さ(過去編と現代編が錯そうする)が観ていても、わかりにくかったかなと。
平成仮面ライダーがどんどん複雑になっている時期で、いろいろと凝ったことをしていくようになったのですけれど(そのチャレンジをする姿勢は否定しません)、観る側を置いてきぼりにしている感は感じましたね。
「ディケイド」をはさみ、「W」でシンプルなわかりやすい構成に戻していますが、これは「キバ」で物語がインフレに達したからだと思います。
「キバ」についてはあまり思い入れがあるキャラはいなかったのですが、再度見直すとリアルタイム視聴のときにうざくてあまり好きではなかった名護さんが、だんだん気になってきました。

続いて「ディケイド」を振り返り中です。
こちらは半年分なので、もう少し早く振り返りレビューができるかな?

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2016年10月 9日 (日)

「仮面ライダーゴースト」 ゴーストのように印象薄い

歴史上の偉人の力を借りてフォームチェンジするというアイデア、ビジュアル的にも上着(パーカー)を装着したようなスタイリングと、従来のライダーとは異なるネガポジ反転のフェイスデザインなど、平成仮面ライダーらしい新しいアイデアが詰まった「仮面ライダーゴースト」でしたが、全体的に盛り上がりに欠ける印象を持ちました。
最近の平成ライダー「鎧武」「ドライブ」と比べても1年間続く物語のけん引力が弱かったかなと。
「鎧武」は当初からは想像できない展開で大河ドラマ性がありましたし、「ドライブ」についても進之助の殉職、真の悪役である蛮野が登場してからは大きく物語が動きました。
それに比べて「ゴースト」は特に終盤での引きの弱さが感じられました。
主人公タケルは第1回で眼魔に殺されてしまいますが、仮面ライダーゴーストとして復活。
しかし、これはあくまでゴーストとしての復活で本当に人間として蘇るには、99日(途中で1度リセット)間で15個の眼魂を集めなくてはいけないという設定になっています。
この設定を有効に使えば、タイムリミットサスペンス的な物語のけん引力がもっと出てきたはずだと思うのですが、さほど強くは感じられなかったのですよね。
劇場版のときのレビューにも書きましたが、中盤で一度タイムリミットが訪れる時を描いたのですが、割とあっさりリセットされてしまい、その重みがちょっと減じたように感じました。
その後もそれほどそこにストーリーの重点を置いたわけではなかったので、結果終盤の盛り上がりにはつながらなかった仕掛けであったかなと。
主人公のタケルもちょっと弱いキャラクターであったようにも感じます。
ホワッとしていていい青年なのですが、ちょっとクセがない。
真面目で正義感があるのだけれど、キャラクターとして弱かった。
主人公のキャラが弱いと物語全体の個性も弱く感じられるのですよね。
Amazonプライムビデオ用にオリジナルで作られた「仮面ライダーアマゾンズ」の制作発表会で東映の白倉プロデューサー(いままで数多くの平成仮面ライダーをプロデューサーを務めていた)が、「最近の仮面ライダーは面白いですか?」という問いを記者さんたちにしたという記事を読みました。
確かに平成仮面ライダーというコンテンツは「ゴースト」で17作目になり、歴史あるシリーズとなってきました。
意外性のあるモチーフやビジュアルを打ち出すという平成仮面ライダーらしさはまだ持っていると思いますが、物語や世界観においてはわりと手堅いという印象があります(最近でチャレンジャブルだったのは「鎧武」かな)。
TV番組だと周囲からの期待度が高く、失敗ができないということがあるかもしれないですが・・・。
またこれだったら当たるという成功法則が制作側ではあって、それによって手堅い作りになっているのかもしれません。
外さないというセンスは番組をずっと続けていくにあたってはとっても大事なことなのですが、驚くような冒険というのも見てみたかったりもします(ファンというのは欲深いですね)。
次の仮面ライダー「エグゼイド」もスタートしていますが、ビジュアル的なインパクトは申し分ありません。
あとはあまり手堅くまとめず、平成仮面ライダーとして新しいチャレンジをしていってほしいと思います。

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2016年5月 2日 (月)

「仮面ライダー電王」<平成仮面ライダー振り返り-Part8> その後に影響を与えたエポックな作品

平成仮面ライダーシリーズは現在(2016年)に放送されている「仮面ライダーゴースト」で17作目。
改めて過去の作品を振り返っていると10作目である「仮面ライダーディケイド」がちょうど境目になっているように思えます。
「ディケイド」は意識的にそれまでの平成仮面ライダーを総括していて、その後の第2期とも呼べる現在につながるライダーはある意味手堅く作られているように感じる時もあります。
もちろん2人で一人のライダーとなったり、車にライダーが乗ったりと設定上今までにないチャレンジをしているのですが、第1期(「ディケイド」まで)はひっくり返るほどに驚いたことがしばしばあったので、物足りないところもあります。
現在は成功の方程式ができていて、周囲から期待もされているので、なかなか冒険しにくいというところもあると思いますが。
驚くことが多かった第1期の中でも飛び抜けて驚いたのが、こちら「仮面ライダー電王」ではないでしょうか。
仮面ライダーが電車に乗って、時を旅するって設定をオンエア前に聞いた時、どんな風になっちゃうのか想像できなかったものでした。
何しろ主役の仮面ライダーがあまり格好良くない(笑)。
おもちゃ大丈夫かと心配になってしまいました。
(蓋を開けてみると、電車が顔の線路を走ってきて仮面を作って変身するというトンデモなくインパクトのある変身シーンで、かっこいいとか悪いとかいう次元を越えてしまった)
当時のレビューを読むと、最初はそれほど話に乗り切れなかったと書いているので、長年のライダーファンだからか固定観念があって戸惑ったのかもしれません。
しかし「電王」はそういった特撮ファン以外の人にも当たって、一般的にもブレイクしたライダーでした。
今、若手の俳優の中でも演技派の筆頭でもある佐藤健さんも本作で一気にメジャーになりました(本作を見直してみても、彼の演技はうまい)。
最初乗り切れなかったのは、時を旅するという設定のため、今までの仮面ライダーよりもちょっと全体の話が複雑に感じたところでしょうか(例えば特異点の設定とか)。
しかし今見直してみると、かなり最初の頃からしっかりと設定を考えているように感じました。
もちろん「仮面ライダー」シリーズなので、最初からきっちりとゴールを決めているとは思いませんが、ところどころにおいていた伏線をきれいにさらっていったと思います。
ヒロインのハナ役の白鳥百合子さんの途中降板とかアクシデントもありましたが、苦肉の策のコハナの設定も最初から考えていたかのようにしっくりきました(この辺はさすが小林靖子さん)。

また「電王」はその後の平成仮面ライダーの展開を考えると重要な役割を担っています。
今でこそ「ライダー大戦」とか「オールライダー大集合」いった映画、テレビシリーズのイベント回などで、ライダーもしくはスーパー戦隊とのクロスオーバーというのは当たり前になっています。
けれども「電王」当時はそのようなことは考えられませんでした。
しかし、「電王」で時間を自由に行き来することができる設定(デンライナー)ができました。
これはその後のクロスオーバーしていくには非常に使い易い便利な設定ということに制作サイドは気づいたのでしょう。
そして「ディケイド」で自由に空間(時空)を行き来できる設定が取り入れられ、ライダー世界がクロスオーバーすることとなります。
今でこそクロスオーバーが当たり前なので、細かい設定(なぜライダーが同じ空間にいるか)などということを説明することが必要なくなってしまいましたが、なんでもありのその素地を作ったのが「電王」であると言えます。
そういう意味で「電王」はこの作品が面白いということだけではなく、平成仮面ライダーシリーズ全体に影響を与えたということで極めてエポックであると思います。
そういう視点で冒頭の話題になるのですが、最近の平成仮面ライダーシリーズは単体で面白い、面白くない云々ではなく、今後のシリーズに影響を与えそうなインパクトがある作品がないなと感じるところがありますね。
一期10年と考えると第2期もそろそろ終盤。
エポックな作品の登場を期待します。

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2016年4月29日 (金)

「手裏剣戦隊ニンニンジャー 」  オーソドックスな安定感

今年の初めから海外に長期出張に行っていたため、録画していたものをやっと見終わりました。
リアルタイムから3ヶ月遅れですね。
ちょうど最終コーナーを回っていたところで、リアルタイム視聴じゃなかったのでちょっと気分的には盛り上がりに欠けてしまいました。
前作の「烈車戦隊トッキュウジャー」が設定的にかなりトリッキーなものであったのに比べ、本作は本来のスーパー戦隊らしいオーソドックスな仕上がりであったと思います。
主人公のレッドがポジティブで作品全体を明るく前向きなトーンにしていたのも戦隊らしさにつながっていますし、主人公たちがラストニンジャの称号を得ること、そして人間を支配しようとしている牙鬼軍団と戦うという設定もシンプルで子供たちにとってもわかりやすいものであったと思います。
忍者というモチーフはスーパー戦隊シリーズとしては、「カクレンジャー」「ハリケンジャー」に続いて3回目の登場。
個人的に「忍風戦隊ハリケンジャー」は好きな作品であったので、これを越えられるかどうかというところがポイントでしたが、見終わった感想としてはちょっと及ばずというところであったでしょうか。
冒頭にオーソドックスと書きましたが、主人公たち戦隊側のキャラクター構成としては極めて真っ当なものでした。
ポジティブで積極的なアカ、クールでアカにライバル心を持っているアオ、人柄が良いキ、とても頭が良く冷静なモモ、しっかり者のシロ。
バランスがとても良いとは思いますが、もう少し冒険があってもよかったかなと思いました。
その点、「ハリケンジャー」は味方も敵も個性的なキャラクターが多く、それだけで楽しく観れたものでした。
しかしそれは「ニンニンジャー」が面白くなかったということではなく、オーソドックスな戦隊ものとして楽しめました。
特に最終回前の数話は非常に盛り上がっていたと思います。
わたくし的に好きだったキャラクターはラストニンジャ好天の息子であり、アカニンジャー天晴の父親でもある旋風(つむじ)ですね。
彼は若いころ忍者の修行をしていましたが、ある事件でニンタリティ(忍者のパワーの源)を奪われてしまいました。
そのため彼は忍者になることを断念し、ニンニンジャーたちのサポートに徹するようになったのです。
歴史に残る父親、そしてそれを超えることができそうな息子の間にあり、コンプレックスも持っているだろう旋風が、懸命に彼らをサポートする姿を描かれるエピソードが何回かありましたが、この話はよかったですね。
実は彼がニンタリティを奪われた事件も、ラストの因縁にも絡むことになり、重要な役回りであることが明らかになります。
最後、彼もまたニンジャに変身できたところはちょっとジンとくるものがありましたね。
親子三代揃い踏みのアカニンジャーは見応えがありました。
この辺は今までのスーパー戦隊にはない画でしたね。
さてすでに次回作である「動物戦隊ジュウオウジャー」も始まっています。
こちらもどちらかというとオーソドックスなテーマと作りになっているかなと思います(今のところは)。
どのように展開していくのでしょうか、オーソドックスなまま走り抜けるか、はたまたトリッキーな設定が登場してくるか。
期待していたいと思います。

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2015年10月15日 (木)

「仮面ライダードライブ」 王道ヒーローではあるが、仮面ライダーとしては

本作が発表されたときに注目されたのは、ドライブは仮面ライダーでありながらバイクに乗るのではなく、自動車(トライドロン)に乗るということでした。
自動車に乗る仮面ライダーというのはBlack RXという事例がありますが、メインのマシンはあくまでバイクでした。
ありそうでなかった「自動車に乗るライダー」という設定については最後の最後まで貫き通しましたね。
シリーズが続いていくとカタのようなものができてしまいますが、「仮面ライダー=バイクに乗る」というカタを潔く崩すという点に、「仮面ライダー」というシリーズの懐の深さを感じます。
しかし「自動車に乗る仮面ライダー」という設定以外は「仮面ライダードライブ」は意外とストレートなヒーローものであったかと思いました。
平成仮面ライダーというと、主人公がちょっとひねくれていたり、迷ったりというように、キャラクターにクセがある印象が強いですが、本作の主人公泊進ノ介は職業が警察官であることもあってか、人々の命を守る、正義を守るということを、まっすぐに追いかけていたように感じます。
泊進ノ介のキャラクターには、(昭和の頃の)王道の刑事ドラマに登場する熱血な刑事のイメージが感じられますね。
「ドライブ」の前半は「事件篇」、「解決篇」の二本立てで見やすい構成をとっていましたが、こちらも王道の刑事もののフォーマットに寄っていたということでしょう。
ドライブのデザインも車をモチーフにしながらも、仮面ライダーの記号性を持った王道なデザインであったように思います。
昨年の「鎧武」は設定的(フルーツで錠前で武者)にもストーリー的(全編を大河ドラマなストーリーで貫いた)にもチャレンジをしました。
その結果が(局的にスポンサー的に)良かったのか、悪かったのかは知りませんが、斬新であったのは間違いありません。
「鎧武」の終盤は一話見逃すと話がわからなくなるような展開だったので、自分も結構夢中になってみていました。
その強さに比べると「ドライブ」の前半戦はかなりもの足りない印象がありました。
メインライターは僕が大好きな「W」でも同じポジションを務めた三条陸さんだったので、期待感もありました。
「事件篇」、「解決篇」という構成は「W」でも同じだったので、決して弱い構成ということではないのでしょうけれど、それほどまでに「鎧武」のインパクトが強かったということでしょうか。
見やすさとインパクトのバランスはなかなか難しいですね。
しかし、後半で進ノ介の父親の殉職の謎、ロイミュードの秘密等が明らかになっていく展開は物語的に引きがあったように思います。
この辺のラスト数話の怒涛の展開 は「W」でも感じましたが、さすが三条さんという印象になりますね。
終盤はそのように面白く見えたとはいえ、「仮面ライダー」シリーズとしてのエッセンスが足りないというところに、もの足りなさを感じたようにも思います。
「仮面ライダー」が「仮面ライダー」らしいと思われる点はいくつもありますが、ひとつは主人公が異形のもの(どちらかと言えば敵に近い)でありながらも、人間のために戦うということがあるかと思います。
完全に人間に受け入れられないかもしれないのに、それでも人のために戦う。
「仮面ライダー」の物語には「哀しさ」が感じられます。
記念すべき第一作「仮面ライダー」にもその「哀しさ」はありました。
平成のシリーズになっても、「555」や昨年の「鎧武」にもその「哀しさ」はありました。
けれど「ドライブ」にはそのような自分のアイデンティティに関わる「哀しさ」は感じられません。
その点において「仮面ライダー」らしさは薄いかなと思っています。
作品全体がなんとなく明るい感じがするのは、「哀しさ」がないからかもしれません。
これはあくまで「仮面ライダー」としてであって、王道のヒーローものとしては手堅い良い作品になっていると思います。
ここまで書いてきてふと思ったのは、「ドライブ」において「哀しさ」を背負っていたのはチェイスかもしれないですね。
そもそも人間ではなく、敵と同じくロイミュード。
もともと人間のためにプロトドライブとして戦い、そして魔進チェイサーとなりロイミュードに味方し、そしてまた仮面ライダーチェイサーとして人類を守るために立ち上がる。
チェイスの立ち姿に感じるもの悲しさは、まさに「仮面ライダー」の背負っている哀しさかもしれません。
新作の「仮面ライダーゴースト」はライダー自身の存在が幽霊(?)のようなものなので、まさに異形の存在ですよね。
「仮面ライダー」らしいという視点では、今回の新作には期待しています。

「太陽にほえろ!」「西部警察」等往年の刑事ドラマで、「殉職」というのはひとつのイベントになっていました。
松田優作さんの「なんじゃこりゃ~」は有名ですよね。
「ドライブ」は刑事ものをモチーフにしていますから、「殉職」というイベントでオマージュをささげたかったのでしょう、本作でも主人公泊進ノ介は「殉職」します。
そもそも「殉職」というのは公務に命をささげる行為ですから、「仮面ライダー」という存在がオフィシャルになっていないといけません。
「人知れず戦うヒーロー」では「殉職」は成立しません。
「殉職」の数話前から、「ドライブ」では「仮面ライダー」の存在が公になるというエピソードが組み立てられてきました。
途中でその存在がオフィシャルになるのは珍しいなと思っていたのですが(「ウルトラマンメビウス」等の例はありますが)、これも「殉職」をやりたかったのだろうなということで妙に納得してしました(ラストに向かっての警察の力も合わせた総力戦ということでも、オフィシャルになることは必要だったのかもしれませんけれども)。

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2015年6月 2日 (火)

「仮面ライダーカブト」<平成仮面ライダー振り返り-Part7>

平成仮面ライダー振り返り企画、前回の「響鬼」のときもブランク2年半でしたが、今回の「仮面ライダーカブト」も同様に2年半・・・。
いやはや時間がかかりましたねえ。
映画の方も観に行く機会も減っているので、致し方なしですが・・・。
現在「仮面ライダードライブ」がオンエアされていて、平成仮面ライダーシリーズも16作目となっています。
今回レビューする「仮面ライダーカブト」は7作目となりますが、今までの16作品の中で個人的には最も評価が低いのが、この作品になります。
ちなみにこのブログは平成7年にオープンしていて、当時オンエアしていた「カブト」が初めて仮面ライダーをレビューした作品でした。
今回、再視聴してみて、また当時のレビューを読んでみて思ったのは、その時の印象と今回の印象はほぼほぼ変わらないなということでした。

・キャラクターも各種設定も活かしきれておらず、物語の収拾がうまくつけられなかった

 1年の長丁場となる「仮面ライダー」シリーズは、オンエア開始直後に最終回までのストーリーが完全には決められていないと言われています(昨年の「鎧武」は珍しく最後の展開までが当初より決まっていたらしい)。
 ざっくりとした大きな流れは決めているようですが、最後の結末は物語が進み始めていく中で作られていくということ。
 おそらく物語そのものが自身の物語を語り始めたり、キャラクターが勝手に動き出したり、ということを大事にしているからだと思われます。
 あるキャラクターが、俳優の演技をフィードバックをされて、どんどん成長していくというのはしばしばありますよね。
 また1年間の長丁場ともなると不測の事態(俳優のけがや病気等)も起こりうるわけで、あんまりガチガチに決めていても仕方がないということもあるかもしれません。
 なので当初用意されていた設定や伏線が、最後まで活かしきれていない、回収できていないということは多かれ少なかれあるかと思います。
 とはいいながらも、「カブト」はそういうことが多すぎたかなと感じがします。

 いくつか気になった部分をあげていきたいと思います。

・ひよりがメカと話ができるという設定。
 この設定はひよりが普通の女性ではないということを暗示しているということであったと思いますが、彼女がネイティブであることがわかった後も、その能力を描写することはなく、またなぜ彼女だけがそのような能力を持っていることの説明がありませんでした。
 そもそもひよりというキャラクターが終盤にその存在感を急速になくしていってしまったように感じます。
 彼女の存在感がなくなると、天道が戦う理由、意味も曖昧になっていく感じがありました。

・矢車、影山の地獄兄弟
 二人とも初回登場からキャラクターが大きく変わってしまいました。
 それ自体は悪いとは言わないが、この物語の中での役割が不明確であったように思います。
 シュールな笑いをとる狂言回し的な使い方をされていただけに感じました。
 そもそもキックホッパーゼクター、パンチホッパーゼクターが彼らにどのような意図で彼らに持たされたのかもわかりにくく、そのために彼らの役割があいまいであったのだと思います。

・田所さんのネイティブ設定
 身近な人にもワーム、ネイティブが紛れているということを表すには、ダイレクトで衝撃的な設定であったと思います。
 ただし、その後の田所さんの行動にはネイティブであることが反映されているようには感じられず、そのときだけの場当たり的な展開であったように感じてしまったりもします。

・ドレイク(風間)のあいまいさ
 サソード(剣)については、その正体がワームであったということで、物語の設定の根幹に絡むキャラクターであり、重要性のあるキャラクターでありました。
 ただしドレイクについては、(風来坊という設定があるにせよ)物語そのものには直接的に絡むものではなかったかと思います。
 そもそもなぜ風間がドレイクに変身できるかについてもあまり説明がないので、物語にも絡みにくく、存在感があいまいに感じました。
 またカブトがハイパーフォームになる際、ザビーとドレイク、サソードのゼクターが必要だという設定がなかなか扱いづらいものであったと思います。
 つまりカブトハイパーフォームとザビー、ドレイク、サソードは並び立つことはできないわけです。
 ザビー(適合者がいなくなる)、サソード(装着者が死亡)というような展開となっていましが、ドレイクについてはあいまいなままであった(ドレイクゼクターがきているときは風間は何をしていたか?)。

・蓮華
 彼女は終盤に突如登場したキャラクターであったが、最後までその役割が明確ではなかったと思います。
 ただのにぎやかし、彩りという感じに終始してしまっていた感じがします。

天道というキャラクターは「総てを司る」男であるため、最強であり、ぶれないというのが基本的な設定でした。
総てを理解し、迷いがないという点で、彼は葛藤がないキャラクターです(劇場版では割と揺れていましたが)。
そのため彼の感情の揺らぎ、迷いなどで物語が展開をしていくことは基本的にないと考えられます。
昨年の「鎧武」の主人公、紘汰はまさに迷いながら成長していくキャラクターで、そのために物語にダイナミズムが生まれていました。
それに比べると、主人公が迷いがない分、物語を転がしていくのはなかなか難しいかったのかなとも思います。
だから周囲のキャラクターがとんがってしまったのかなと。

続く「電王」はいい意味で「仮面ライダー」というものを振り切り、新しい境地を開いた作品になっていきます。
またこちらについても振り返りをしていきます。
何年後になることやら・・・。

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2015年4月15日 (水)

「ハードナッツ! ~数学girlの恋する事件簿~」 「TRICK」との共通点

NHKのBSドラマとして放映し、その後地上波でもオンエアされたドラマです(地上波でオンエアされたのは昨年なので、観てからレビューがだいぶ経ってしまっていますが・・・)。
プロデューサーの一人に東宝の蒔田光治さんが名前を連ねています。
蒔田さんと言えば「TRICK」のプロデューサーとして知られていますが、本作にも「TRICK」に通じる部分がいくつか見受けられます。

「TRICK」も「ハードナッツ!」の共通点を挙げるとすると、二作とも主人公は見た目は美人にも関わらず、その中身はというとちょっと(だいぶ?)変わった女性。
というより変人というところでしょうか。
「TRICK」の山田奈緒子は自称美人マジシャンですが、年がら年中貧乏で、欲深い性格。
その欲深さから、事件に巻き込まれちゃったりするわけですね。
彼女はマジシャンという職業柄、一見摩訶不思議にみえるような超能力にも、その裏には説明できる”タネ”があるというスタンスです。
「ハードナッツ!」の主人公難波くるみまた変わった習性を持つ女子大生です。
彼女は数学に天才的な才能は持っていますが、コミュニケーション能力が乏しい女の子。
でも女の子らしく恋する乙女な部分も持っています。
事件を解決するコンビとなる伴田に恋していて、なにかとつけ妄想癖あり。
主人公が事件解決に向けてペアを組むのが、主人公とは全く違うタイプの男性です。
全く別のタイプの人間がコンビを組むいうのはバディものでは定番ですよね。
「TRICK」で山田奈緒子と組むのは、上田次郎という自称天才物理学者です。
これまた山田とは違うタイプの変人ですが、まさに見たまんまのデコボココンビがドラマをかき回していたと言えます。
「ハードナッツ!」でくるみとコンビを組むのは、先にも書いたように伴田という刑事になります。
上田のような変人ではありませんが、謎の多い男として描かれていて、その部分がシリーズ後半を盛り上げる要素になっていきます。

「TRICK」の世界観はオカルト的で不可思議な世界観です。
山田も上田もすべては、手品的にしろ、科学的にしろ、なにかしら説明できるという考え方の持ち主ですが、それでも説明しきれないことがあるというのが作品のベースにあります(山田のルーツである黒門島関連のエピソード等)。
「ハードナッツ!」は、すべては数式で説明できるというだけあって、あくまで理性的。
一見不思議そうに見える出来事も、くるみは数学的な確率論や方程式で解き明かしていきます。
数学が苦手な人にとっては不可思議な出来事も、別のものの見方(数学的)で全く別の視点が開けてくる。
これは「TRICK」にも通じるところであると思います。

「TRICK」は一癖も二癖もあるキャラクター設定を演じる俳優がそれを膨らませ、さらには周辺のキャラクターもそれの上をいくようにエキセントリック化し、また演出家もまた癖のある映像・音楽で演出していたため、いい意味でのエスカレーションを起こしていたような気がします。
対して「ハードナッツ!」は主人公のくるみというキャラクターは変人ですが、その変わった感じを演じる橋本愛さんが一生懸命演じようとしているのは伝わってくるのですが、ややその演技はちょっと滑っている感じがありました。
橋本さんはシリアスな演技は上手だと思いますが、こういうコメディっぽいのは苦手なのかな。

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2015年3月 2日 (月)

「烈車戦隊トッキュウジャー」 コドモターゲットとしていいのでは

映画の方のレビューを先に書き、順番が逆になってしまいました。
こちらはテレビシリーズのレビューです。
昨年の「VSシリーズ」で最後にちらっと登場したのが「トッキュウジャー」の初お披露目であったのですが、そのときの印象はブログにも書きましたけれど、コメディ戦隊になるのかなと感じたのですよね。
蓋を開けてみると、全体的にはいつもよりも明るいトーンであることは確かでしたが、コメディという感じではありませんでしたね。
脚本の小林靖子さんらしい感じはして、過去の出来事や運命にトッキュウジャーたちが翻弄されつつも、それに打ち勝っていこうとする前向きな物語でした。
でも毎週待っているということではなく、ちょっと惰性で見てしまっているというところもありましたね。
いまいち乗り切れなかったというか。
けっしておもしろくないわけではなかったのですが。
キャラクターたちに感情移入しきれなかったのかな。
昨日の映画版のレビューでも書いたのですが、トッキュウジャーは姿形が大人になってしまった子供たちが変身する戦隊です。
だからかキャラクターに子供っぽさはあるわけで、かわいいとは思いましたけれど、感情移入って感じはなかったですね。
同じ小林靖子さんの作品の「シンケンジャー」なんかはばっちり感情移入して観ていたのですけれど。
けれど本来のターゲットである子供たちからみると、ちょうどいいくらいなのかもしれません。
終盤はずいぶんとストーリーもだいぶシリアスになってきて、面白くなってきた感じはありました。
キャラクターに感情移入はそれほどできなかったと書きましたが、トカッチとミオはなんかよかったですね。
小学生らしい初恋ぽさがあって。
なんか甘酸っぱい感じがありました。
来年の「VS」シリーズでは彼らがどんな風に大人になっているのかな。

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2015年1月 6日 (火)

「軍師官兵衛」 男の憧れの人生

年が明けて今年の大河ドラマ「花燃ゆ」が始まったところで、ようやく前作「軍師官兵衛」のレビューです。
個人的に大河ドラマで戦国時代を舞台にした作品は、この数年あたりがないなあという印象でした。
本作についてもスタートした当初はそれほど面白いとは思いませんでした。
戦国時代の物語はそれこそ何度も見ているため、出来事それ自体には新鮮味はありません。
だからこそお馴染みの登場人物をどのような描き方をするかというところがポイントであると思うのですが、はじめはそれほど魅力的には思いませんでした。
本作の演出は割と陳腐なところがあって、正直「ださい演出だなあ」と感じていたところがあります。
しかし、中盤官兵衛が秀吉の軍師となっていくあたりから俄然面白くなってきました。
この作品がスタートする前に、たしか岡田准一さんがインタビューで、「サラリーマンの方にも共感してもらえるような物語になる」といったことを答えていたように思います。
これを聞いたとき、(当時「半沢直樹」がブームだったので)、「戦国時代の時代劇で現代サラリーマンの風刺などを見せられてもなあ」と思ったのを覚えています。
しかし、一年間観終えると確かにそのような物語になっていると思い、狙った通りの作品に仕上がったのだなと感じました。
天賦の才能を持つリーダーの元で、自分の能力を最大限に引き出してもらえる喜び。
己の力量を発揮し、それが思う通りに転がっていくときに感じる自信。
今までのとおりに評価をされてもらえない境遇の時の苦悩。
ライバルにいいようにされ、より困難な道を歩まなければいけないときの悔しさ。
自分を信じる部下たちが支えてくれ、活躍をしてくれるときの誇らしさ。
男が社会で仕事をする中で感じる様々な気持ちが、確かに黒田官兵衛という人物の生き様から同じように感じることができました。
確かにサラリーマンが共感できる物語になっています。
物語の終盤には、今まで仕えた人々がいなくなり、自分の才能そして野望を発揮できる機会を官兵衛は得ます。
そのときの官兵衛を演じた岡田准一さんの演技、表情が良かった。
自分の思うがままに振る舞う喜び、というものがとてもうまく表現できていたと思います。
俗説的には官兵衛も天下を狙ったという話がありますが、歴史的にはそれを積極的に認めるような証拠はないというのを本で読んだ気がします。
ですので本作で描かれた官兵衛は事実とは違うのかもしれないですが、最後の最後に野望のままに振る舞うことができた官兵衛の姿に憧れを感じる人も多いのではないかと思いました。
その野望は成就せず、そしてそれを止めた男の一人が息子の長政であったというのも、男としては感じるところがあるのではないでしょうか。
自分の息子の成長を身をもって感じられるというのは、男親としての喜びでもあるでしょう。
そういう意味で黒田官兵衛の生き様は男の憧れの人生でもあるかもしれません。

13年大河ドラマ「八重の桜」の記事はこちら→

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2014年9月30日 (火)

「仮面ライダー鎧武<ガイム>」 力を得て、使うということとは

今までも平成ライダーシリーズのデザインには驚かされることは何度もあった。
「仮面ライダー龍騎」しかり、「電王」しかり。
しかし、先日最終回をむかえた「仮面ライダー鎧武」を初めて見たときの驚きは、今まで以上だったと思います。
ライダーのデザインモチーフが、なんとフルーツ?、それに錠前?戦国武将?
フルーツというモチーフをヒーローものに持ってくる発想が大胆、それに錠前や戦国武将を組み合わせてくるセンスも意外性があっておもしろい。
異質なものを組み合わせることにより、新しいものを生み出すというのは、デザインの常道ではあるけれど、チャレンジングな試みではあります。
それに加えて、主人公たちはダンスバトルを繰り広げるらしいとのこと。
どうなるんだ、今回のライダーは?と思ったのは正直なところです。
とはいえ、毎回驚きを用意してくるのは「平成仮面ライダー」の常道ですからね。
今までこのシリーズが培ってきた安心感はありつつ、初回を観ました。
それでも第1話で、変身する主人公の頭上から大きなオレンジがボコンと落ちてきた画を見たときは、あまりに突拍子もない映像でびっくりしたわけですが・・・。

「仮面ライダー鎧武」という物語のポイントは、主人公たちが子供であったということだと思います。
沢芽市の若者たちはビートライダーズと呼ばれるダンスチームを作り、ダンスバトルを繰り広げていました。
ダンスの勝負を行い、勝利したチームがダンスのステージを獲得していく。
対して負けたチームは、踊れる場所を失ってしまう。
これはいわばダンスによる陣取りゲーム。
大人たちから見れば彼らのやっているダンスバトルは所詮子供の遊びに見えたであろうし、子供たち当人にとっても遊びの延長のゲーム感覚であったのだと思います(だから一人前になろうとした紘汰はダンスチームを「卒業」しようと思ったのだろう)。
しかし、あるとき彼らはゲームという範疇では収まらない力を手に入れました。
それはロックシード、さらには戦極ドライバーというアイテム。
ロックシードによって召喚されるインベスと呼ばれるモンスター、そして戦極ドライバーによって変身することになれるアーマードライダーという力は、子供の遊びの範疇を越え、人を傷つけ、時には命を奪うほどのパワーがありました。
これらの力により、遊びは遊びではなくなってしまう。
力を得てしまった子供たちは、その力に翻弄されていきます。
そして子供たちはその力に魅せられ、踊らされ、戸惑いながら、次第にその力の意味を考えていく。
力の意味を考えていく、そしてその力を自分のものとして使いこなしていくようになる過程は、物語の中のビートライダーズの子供たちだけに限る話ではない。
子供が大人になる過程そのもの。
子供が大人になっていく過程で、子供たちは「力」を手に入れていきます。
それは文字通りの肉体的な「力」でもあるし(誰でもいつの間にか父親よりも力が強くなったということに気付くことがあるだろう)、自分が自由にできるようになる金の「力」もそうだろうし、また女の子であれば女としての性的な「力」もそうであるかもしれない。
未熟な子供は、その精神の成長のよりも大きな力に翻弄される。
翻弄されながら、人はそれらをコントロールする術を身に着けていくのであるが、人によってはその力におぼれてしまう者もいるだろう。
その力をどう使うか、何のために使うか、それを考えていくことが成長なのかもしれません。
まさに主人公、葛葉紘汰はそのような成長過程を歩んでいきました。
紘汰が戦極ドライバーを手に入れたとき、彼はそれを自分のために遊び感覚で使いました。
しかし、人々がインベスに襲われるのを見たとき、その力を人のために、人を守るために使わねばならないと思ったのです。
そしてその力を行使するとき、その力が強大であればあるほど、少なからず犠牲になる者がでてしまうにも気づく。
その犠牲をどう考えるのか、どう向かい合うのか、それを考えることが成長であり、その到達点が大人になる覚悟であるのでしょう。
紘汰は迷いながらも前に進み、自らの道をえらんて大人になる覚悟を決めました。
彼は力を行使しつつも、その犠牲になるのは自分であるという覚悟を決めたのです。
そういった紘汰に対し、迷い、最後まで覚悟を決められなかったのが、呉島光実であると思います。
彼は自分がどうなりたいかということに対してイメージを持ちきれなかったのではないでしょうか。
だからこそ、彼は直面する場面において、(なまじ頭がよく「知力」を持っていたから)その場その場での場当たり的な対応をとってしまった。
それは先行きを見通したものではなかったため、嘘に嘘を重ねてしまうという結果となり、自分自身をさらに苦しめることになってしまったのだと思います。
彼はよりよい未来のために戦うのではなく、現状の維持、つまりは居心地の良い彼の居所を守るために戦ってきました。
時が過ぎれば必ず崩れる砂上の楼閣を懸命に作る子供であったように感じます。
その姿は痛々しい。
また二人と異なる重要な人物としてのポジションになっているのが駆紋戒斗。
彼はビートライダーズの中において、唯一最初から大人であった男でした。
戒斗は自分が歩むべき道をすでに決めていました。
そのために力を得ようとし、それをどのように使うか、そしてそれによって背負うべきものがあるということに覚悟ができていたのです。
彼が目指す世界が正しいのか正しくないかは別にして、彼はその力を背負う覚悟ができていたという点においてすでに大人であったのだと思います。
戒斗はぶれないという点において、最もヒーローらしいと言えるかもしれません。
あともう一人興味深い人物が。
最後まで生き残るとまったく思わなかった城乃内です。
彼も場当たり的な生きていくように見えたのですが、凰蓮に出会い、図らずも奇妙な師弟関係になることにより自分の力をコントロールする術を教わっていったのだと思います。
初瀬がヘルヘイムの力に呑み込まれ、インベス化したのと対照的で、大河内は彼を導く師匠を得たことにより生き延びたのです。
最終回での彼の姿を見ていると、子供が成長するにあたり、大人の導きが重要であると感じます。
光実は彼を導く存在がいなかったことが彼にとっての不幸であったのかもしれません。
兄である貴虎がそういう存在となるべきであったのですが(彼はそうありたいと思っていた)、彼はあまりに正しすぎ、そして厳格であったのです。
それは貴虎の己に対しての厳しさが表れていたのでしょうが、それはまだまだ子供である光実にとっては近づきがたい存在にしてしまったのかもしれません。
思春期の少年にとって、親を疎ましく思う感覚に近いと思います。
このように「鎧武」は子供が大人への成長過程の中で得た力に翻弄され、そしてそれをコントロールする術を得、それを行使する覚悟を決めていく姿を描いた物語と言えるのではないでしょうか。

複数ライダーによるバトルロワイヤルというと「龍騎」が思い浮かぶが、それとの違いを。
「龍騎」において、主人公真司以外は、己の願いをしっかりと決めています。
その願いの実現のために彼らは戦いあう。
そういう意味において、「龍騎」のライダーたちは覚悟を決めている大人たちの価値観(正義観)のぶつかり合いなのです。
そういう見方をすると同じように複数ライダーのバトルロワイヤルという仕掛けで似ているように感じる「龍騎」と「鎧武」であるが、違った物語として受け止められるのではないでしょうか。

前作「仮面ライダーウィザード」の記事はこちら→

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