2017年3月 8日 (水)

「ラ・ラ・ランド」 ミュージカルの力

以前はミュージカル映画をあまり好きではなかった。
映画の中で進んでいたドラマの途中で、突如出演者たちが歌い始めるのが、奇妙であるような感じがしたのだ。
劇中で歌うということを描くミュージカルはリアリズムとは対極の表現だと思う。
リアリズムの視点で言えば、日常の生活の中で突然歌いはじめる者などいるわけがない(いたら相当にアブナイ)。
ミュージカルは、人の行動としてはとっても不自然なことをしているわけだ。
そういう視点で自分にとってミュージカルは馴染みにくいジャンルだったわけなのだが、現在はそのような印象は持っていない。
というよりミュージカル映画は好きなジャンルになっている。
いつごろからかと思い返すとおそらく「シカゴ」あたりからだと思う。
それまで個人的にミュージカル映画の印象は古臭いイメージがあったのだが、「シカゴ」は映画的な派手なゴージャスな画作りで自分の中でイメージを一新した。
食わず嫌い的なハードルがなくなって素直に観れるようになると、意外にもミュージカルの劇中歌とはストレートにキャラクターの気持ちを伝えることができるものだということがわかってきた。
普通のセリフとしていうとかえって大仰に感じたりしてしまう言葉でもミュージカルならば言えてしまえるし、心情もストレートにそのまま口にすることができる。
だから人の気持ちを素直にまっすぐに描きたい物語はミュージカルに向いていると言える。
その視点において、本作「ラ・ラ・ランド」はミュージカルの良さを存分に発揮していると思う。
この映画は凝ったストーリー展開で観客を魅了するタイプの映画ではない。描かれているのは人が人を愛しているときの幸せな気持ちや、別れの後の切なさというとても普遍的なこころ。
セブとミアの二人が出会ったときの対立、愛し合い幸せに満ちた日々、すれちがいと挫折、その時々の気持ちが二人の歌にのせて表現されている。
歌を通じて二人の幸せや、切なさが素直に心に響いてくる。
このダイレクトに心に響かせることができるのが、ミュージカルの力なのだろう。
二人が出会い、愛し合い、そして別れるプロセスは誰しも経験したことがあるような典型的な恋愛だと思う。
だからこそその時々に感じた気持ちは観客の心の中にしまわれていて、セブやミアの素直な気持ちがのった歌に揺さぶられるのだろうと思う。
「ラ・ラ・ランド」はミュージカルでなければ陳腐な恋愛ドラマになっていたかもしれないが、ミュージカルとして作られたことにより、多くの観客の共感性を得られる作品になることができたのだろう。

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2016年6月16日 (木)

「64-ロクヨン-後編」 子への思い、届かぬいたたまれなさ

<ネタバレ部分があるので、注意してください>

前編は昭和64年に発生した誘拐事件「ロクヨン」を模倣した事件が発生したところで終わっていました。
事件が始まってすらいないところではあったので、後編も気になって公開後すぐに観に行ってきました。
模倣事件は誰が行っているのか?
誘拐された子供は助けられるのか?
そもそも「ロクヨン」の犯人は見つかるのか?
といった謎が解けていくのも見どころではあるのですが、それよりも親が子供を思う気持ちの深さ、そしてそれが届かぬ時のいたたまれなさに感じ入りました。
「ロクヨン」で娘を殺害されてしまった雨宮は十数年にもわたり、一人で犯人を追っていました。
毎日のように一軒一軒電話をかけ、自分だけが知っている犯人の声を探していたのです。
それは気の遠くなるような作業であったでしょう。
しかし、それは彼にとって唯一、愛娘と繋がっていられる行為であったのでしょう。
雨宮は年月が経ち、娘のことを忘れてしまっていきそうになることが恐ろしいと言ってしました。
彼がいかに娘を想っていても、それを直接伝えることはもうできません。
声をかけてあげたくとも届かない。
そのいたたまれなさといったら。
彼ができる唯一のことは一つ一つ電話番号を潰していくことだけ。
そうすることによって、彼は娘と繋がっていたいと思ったのかもしれません。
また、主人公三上にしても、そのいたたまれなさを抱えています。
彼に反抗的な娘に手を焼き、その気持ちを理解できないという悩みがありました。
しかし、彼は娘と正面を切って向かい会おうとはできず、その結果娘は失踪をしてしまいます。
彼も娘を愛していないわけではなく、それだからこそ娘がいなくなった時、喪失感を感じ、自分が間違ったことをしてしまったのでないかという思いを持ち続けています。
だからこそ三上は、雨宮の本当の思いを理解した時、彼が持ついたたまれなさに共感したのではないかと思います。
そして雨宮も三上が心の中に抱えている思いを察したのではないでしょうか。

また本作では、人は自分の強い思いに支配された時、他人の気持ちを思いはかることができなくなってしまうということも浮かび上がってきます。
「ロクヨン」の犯人は後編で割とあっさりとわかります。
そもそも模倣事件自体が、彼が犯人であることを明らかにさせるために仕込まれたことであるわけです。
かつて自分が行ったと同じように娘を誘拐された時に、犯人は自責の念にかられるのか。
彼は自分の娘を助けるために大金も用意します。
そのために自分は何でもやるとも言います。
彼は模倣犯に対し、娘の命を懇願した時に、かつての自分の姿は思い浮かばなかったのでしょうか。
自分が娘を思う気持ちが何ものにも勝ってしまう。
同じことは、三上にも言えます。
三上が犯人を追い詰めた時、彼は雨宮に共感し、その思いを果たしてあげるためと考えていたのでしょう。
娘のためという雨宮の思いを遂げること、それは三上自身にとっても思いを果たすことと同じになっていたのかもしれません。
だからこそ、三上は禁じ手とも言える手法で犯人を追い詰める。
そして、それにより犯人の娘の気持ちをも傷つけてしまいました。
それは犯人が他人の気持ちをわからずに犯行を行ったことと、同じことであるようにも思えます。
いかに親の子供に対する思いが強く、そのためであるならば他の人間を傷つけてしまうこともしてしまうという業の深さを描いているようにも思いました。

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2016年5月21日 (土)

「64-ロクヨン-前編」 報道の役割とは

例によって原作は未読ですが、横山秀夫さん原作の作品らしく骨太のドラマとなっていました。
本作は出演者も上手な俳優さんがたくさん出演されているので、その点でも見ごたえがありますね。
最近の邦画は前後編を間をおかずに公開するパターンが多いですが、本作もそのような構成となっています。
前編は過去の誘拐・殺人事件が新たな展開を向かえるところで終わります。
おそらく後編は犯人、動機といった事件そのものの謎を追うミステリー色の強い展開となると思いますが、前半は事件というよりは警察・新聞社の組織、そしてそこに生きる人々を広報官三上を通じて描いています。
「クライマーズハイ」でも見られましたが、そのあたりは元上毛新聞の新聞記者であった原作者の真骨頂ですね。

警察や新聞社に限らず、組織に属する人間は、組織の意思と個人の意思との間で苦しむことがあります。
得てして組織はそれ自体が意思を持つかのように振る舞い、その組織の構成員を縛ります。
組織の面子を気にし、それに反することによりはじき出されることを恐れ、保身のために動く人もいます。
これは変じゃないか、間違っているかもしれないという疑問を持つことがなく動いてしまう場合もあり、それは組織文化として非常に危険です。
本作で描かれている隠蔽がそうですね(東芝事件とか、最近の三菱自動車の件などもこれでしょう)。
そしてまた組織の意思のように見えて、トップの方の個人的な思惑が絡んでいることもあるので厄介です(派閥争い的な)。
そういう状況の中で、個人としての矜持を通そうとすると、組織からはじき出されてしまうことがあります。
本作の主人公の三上のように。
どちらの方がいい生き方なのかというのは一概には言えません。
しかし、組織の中で個人の矜持を通そうとすることは難しいがゆえに、このような主人公に強く共感し、声援を送りたくなってしまうのかもしれません。

また別の視点で、権力に対する報道という点でも問題提起を行っています。
かつての日本では報道が公権力の影響を受け戦争を推進していく一つの力となった反省から、報道は公権力が暴走することを防ぐという強い使命を持っています。
それ自体は報道の機能として正しいスタンスであると思います。
しかし、それが公権力への抑止力ということから、ただ対立することが目的化していくという変質が起こっているのではないかと本作は指摘しているような気がします。
これは報道に限らず、野党などもそういう感じがしますが。
何のための戦いなのか。
それは国民のためであるべきであるのに、いつからか戦うことが目的化してしまっている。
これは瑛太さん演じる秋川に象徴されています。
仮想敵(警察)がいなくては自分の存在意義が見出せない。
三上は、いつまで戦い続けるのか、と問います。
戦いが目的でははずだろうと。
報道は様々な情報を集め、それを国民に提示し、皆でより正しい答えを導き出せるようにするのが役割ではないかと考えます。
そういう基本的な役割をもう一度認識するべきであると言っているような気がします。

前編では組織と個人、そして報道の役割といった社会的な課題をエンターテイメントの中でしっかりと提起していました。
後編ではどのような展開が待っているのでしょうか。
期待して待ちたいと思います。

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2016年4月29日 (金)

「レヴェナント:蘇りし者」 映画圧を感じる

今年のアカデミー賞を総なめにした「レヴェナント:蘇りし者」を観てきました。
アレハンドロ・G・イニャリトゥは昨年の「バードマン」に続いて2年連続の受賞です。
イニャリトゥ監督の「バードマン」にせよ「バベル」せよ難解なイメージがあるので、身構えて観に行きましたが、思いの外ストーリーはわかりやすい作品となっていました。
彼の作品を観るとき、作品に織り込まれた監督の意図をなんとか読み解こうというようなスタンスで鑑賞していました。
しかし本作については、どちらかといえば主人公ヒュー・グラスが歩んでいく険しい道のりをじっくりとドキュメンタリーのように撮っているので、知らず知らずのうちに考えて観るという感じではなくなり、引き込まれるといったような見方になっていました。
書く力が強いことを筆圧が強いと言いますが、本作は作品から感じる圧力が強い印象があります。
映画圧が強いとでも言いましょうか。
観ていてひしひしと圧力を感じ、目をそらしたり、気を抜いたりできない感じがしました。
もともとイニャリトゥ監督の作品は目をそらした途端わからなくなるので気を抜けないのですが、そういった感じとも違います。
骨太のストーリー、ストイックなディカプリオの演技、自然光だけを用いた美しい映像、監督得意の長回しも相まり、150分以上の長尺でありながらも目を離せない作品になりました。

本作は「生」をとことんストレートにテーマにした作品です。
肉体的にも精神的にもボロボロになっても、それでも生きていく。
死んだほうが楽かもしれないと思いそうな状況であっても。
妻も子も殺されている。
彼らの復讐をするために生きていこうという気持ちはあったでしょう。
けれど生きるということが生命の本質であるからこそ、本当に最後に心臓が止まるその時まで、生きることをあきらめないという気持ちが彼にはあったように思います。
死ぬことのほうが楽かもしれないのに、生きることを選択する。
生きるという過酷な道を選ぶのは、己よりも早くそれを絶たれた妻と子へ、自分が安易に死を選んでしまうことが恥ずかしいという気持ちがあるのではないでしょうか。
自分が死を軽々しく選ぶことは、彼らの生を軽くしてしまうという気持ちがあるのではないかと感じました。
グラスは復讐を遂げますが、最後は相手の運命を神に委ねるという選択をしたように、復讐することのみに生きていたのではないような気がしました。
自分が生に執着する、それが妻と子の生を価値のあるものとするという思いがあった。
そのように感じました。

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2015年11月29日 (日)

「レインツリーの国」 有川作品の二つの視点

有川浩さん原作の「レインツリーの国」の映画化作品です。
彼女のファンとしては見に行かないわけにはいきません。
監督は三宅喜重さんで、「阪急電車 片道15分の奇跡」「県庁おもてなし課」に引き続きの3作目ということで、有川さんの作品の雰囲気を表現するということでは全く心配ありません。
本作は基本的にはラブストーリーのジャンルになるでしょう。
主人公の伸行も利香も芯がしっかりしていて真面目な人ですが、そのせいか恋愛偏差値が低い。
有川作品の主人公たちといういうのは概して恋愛偏差値が低く、それゆえに読んでる、観ている側としてはもどかしかったり、そのベタ甘っぽさに甘酸っぱくなったりします。
そういうところが好きだったりするのですけれどね。
しかし、有川作品はそういったベタ甘のラブストーリーだけが魅力ではありません。
大概の有川作品はそのようなラブストーリー要素と、もう一つは社会の課題を鋭くついているテーマというものがあることが多いです。
例えば今も公開されている「図書館戦争」では、郁と堂上教官のラブストーリーももちろんですが、それ以上に描かれているのが「当たり前のように手にしている自由」とは何なのかということです。
我々は自由を手にしていますが、それを守っている人たちのこと、またなぜそうなっているかということに対してとても無関心です。
そのことに対しての問題意識を「図書館戦争」は描いています。
恋愛要素とそのようなテーマ性が有川作品は持っていて、「図書館戦争」の場合は後者の比率が高い(あくまで映画の話。原作はもっと恋愛要素が高い)。
さて本作「レインツリーの国」はラブストーリー映画ですが、他の作品同様社会の課題についてのテーマも持っています。
それは障害者への差別の問題ですね。
障害者への差別は良くない、ということはだいたいの人はその通り、と思うでしょう。
彼ら彼女達へのハラスメント(利香へのセクハラやぶつかっても謝らない若者)へは観ている方は皆怒りを感じるでしょう。
けれど自分自身がぐさりときたのは、利香が言っていた「特別扱いした上から目線の憐れみ」です。
障害者達の方は特別視されたくない、ありのままに受け入れてほしい。
当然普通の人とは違うけれど、それでも自分をそのまま受け入れてほしいと思っているのですね。
自分も「上から目線の憐れみ」のような態度を取っていないかと自身を振り返ってしまいました。
自分の職場にやはり聴覚障害の方がいて、仕事でやり取りがある場合はメールや筆談で行います。
利香の職場のようなイヤな人々はおらず、皆普通に仕事を一緒にしています。
けれどもしかしたら利香が気になっていたような態度を取っていることがあるかもしれないなとも思ったりします。
また、そういう周囲の人々の話だけではなくて、本作では障害者自身の気持ちの問題にも触れています。
自分は違うということに負い目を感じ、それゆえに壁を作ってしまう。
周囲の人は自分を憐れんでいる、そんな助けはいらない。
けれど伸行のように憐れではなく、本当に好きだから何かしてあげたいという人たちもいる。
彼女のお父さん、お母さんもそうですよね。
そういう愛を素直に受け入れるということも、障害者自身には必要なことなのでしょう。
有川さんの作品というのはこういうフェアな視点を持っている点も好きですね。
有川作品では今度「植物物語」が待機中ですね。
この作品も代表作です。
いい作品に仕上がるのを期待したいと思います。

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2015年2月28日 (土)

「烈車戦隊トッキュウジャーVSキョウリュウジャー THE MOVIE」 オトナ戦隊とコドモ戦隊

この時期恒例となったスーパー戦隊シリーズの劇場版「烈車戦隊トッキュウジャーVSキョウリュウジャー THE MOVIE」に行ってきました。
「烈車戦隊トッキュウジャー」はテレビシリーズが先日終了しましたが、シリーズ当初感じていたほど乗り切れなかった感はありました。
レビューはまだ書いていないですけれど。
ですので、劇場版については観に行くかどうか迷ったのですが、行ってみると思ったよりも面白かったです。
トッキュウジャーと共演するのは、前年の戦隊キョウリュウジャーです。
この2戦隊が共演すると、それぞれの戦隊のコンセプトが明確になり、なかなか興味深かったです。
キョウリュウジャーは史上最強のスーパー戦隊と銘打っていましたが、彼らは最初から勇者であり、すでに完成されたスーパー戦隊でした。
強い奴らがチームになってさらに強いというコンセプトでしたよね。
いわば大人のスーパー戦隊と言ってもいいかもしれません。
かたやトッキュウジャーですが、シリーズで明らかになったように彼らは姿形は大人でもその精神は子供のまま。
純粋な気持ちを持った、子供の心のスーパー戦隊なわけです。
この2戦隊が共演すると、キョウリュウジャーたちのメンバーが、直球勝負のダイゴでさえも、大人に見える。
使命を自覚しているオトナたちという感じがしました。
トッキュウジャーたちについては、映画を観ていて彼らが自分自身のことを語るセリフがあったのですが、なるほどと思いました。
彼らは家族の元に帰るということを目的として戦ってきました。
そして旅をして街を訪れ、そこでシャドーラインに苦しめられる人々をひとつひとつ救ってきたわけです。
世界の平和のためってわけではない。
ひとつひとつ目の前にいる人たちを救ってきただけ。
だだ子供のうちはできることは限られている。
手が届くとこから、ひとつひとつやっていく。
そして自分の手の届く範囲は少しづつ広がっていく。
手が届くと想像できることがイマジネーション。
トッキュウジャーはこれから成長していくコドモたちなんですよね。
だから、本作で子供のままチェンジするっていうシーンがありますが、それは非常にコンセプトをはっきりと表したシーンであったなと思いました。

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2015年1月 1日 (木)

「ラストベガス」 おじいちゃんの「ハング・オーバー」?

実は年末からインフルエンザにかかってしまい、お医者さんに自宅安静を言いつけられてしまいました。
医者に行く前は高熱でうなされましたが、もらった薬を飲むと熱はすぐにさがりました。
でも熱は下がっても外に出ると他の人に感染させてしまうかもしれないということで、おとなしく年末年始はうちにおります・・・。
いつもですと年末年始は連日映画館に行っているのですけれどね、いたしかたなし。
ということで自宅で見逃していた作品を鑑賞しようということで、今回はこちら「ラストベガス」。
出ているメンバーの顔ぶれが贅沢だったので、公開時も観に行きたかったのですけれど、どうもタイミングが合わずに行けませんでした。
贅沢なメンバーとはマイケル・ダグラス、ロバート・デ・ニーロ、モーガン・フリーマン、ケヴィン・クライン。
彼らは子供の頃からいっしょに遊んでいた悪ガキ4人組。
マイケル・ダグラス演じるビリーが子供ほどに年齢が離れている女性と結婚することになったということで、4人組としてはこれをやらねばならないと他の3人が張り切ります。
それはバチェラー・パーティー!
いわゆる「独身さよならパーティー」ですね。
新郎の独身最後の夜を悪友たちがバカ騒ぎでお祝いするというあれです。
日本ではあまりやられていると聞かないですけど、アメリカ映画などを見ているとよく出てきますよね。
ラスベガスでのバチェラー・パーティーと言って思い出すのは、「ハング・オーバー」ですね。
ま、さきほど書いたメンバーが出ている作品ですので本作は「ハング・オーバー」ほど下品ではありません。
品を保った、気軽に楽しめるコメディ作品になっています。
老人であることをネタにしたアハハ、フフフと笑える箇所があり、また夫婦の絆や友情のホロリとする場面もありで、王道のハリウッドのコメディになっているかと。
お正月休みで家族でうちでDVDを観たりするにはちょうどいい作品ですね。
まさにうちがそうでした〜。

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2014年9月13日 (土)

「るろうに剣心 伝説の最期編」  人を活かし、己も生きる

「るろうに剣心 伝説の最期編」、公開初日に観賞です。
昨日は会社帰りに「京都大火編」にもう一度行ってきたので、前後編を一気見した気分で観れました。
「京都大火編」のレビューの時は後編を観てから評価したいと書きましたが、一気に観てみると一本の作品として非常に見応えのあるクオリティの高い作品だと感じました。
1作目で評価が高かったアクションシーンもよりいっそうレベルが上がり満足できるものでした。
そのアクションシーンは、前後編あわせると4時間以上の作品の中で観客を飽きさせない、いいタイミングで出てくるのですよね。
エンターテイメント作品としてとても計算されている構成であると思いました。
「京都大火編」をはじめて観た時はちょっと要素が多くて長いかなと思ったのですが、2回目の観賞の時は逆にボリュームのある原作をよくコンパクトにまとめあげたなと感じましたし、後編の「伝説の最期編」まで観るとその感想もいっそう強くなりました。

剣心は幕末の時代、より人々が自由に幸せに暮らせる新時代を作るため、倒幕派に組し、暗殺者「人斬り抜刀斎」と呼ばれ恐れられました。
多くの人の命を救うため、犠牲にならなくてはならない人の命がある。
そう思い、剣心は剣を振るったのです。
しかし、剣心が敵として殺した人々にも、その人を大切に思う家族がいる、人がいる。
自分が手にかけた人々の死を悲しむ姿を見、その心を知ったとき、剣心は剣を置きます。
多くの人の命を救うためにとはいえ、犠牲になる人があってはならない。
犠牲になった人を思い、哀しむ人を増やしてはいけない。
剣心は人を守るためにしか剣を抜かず、そして決して人を殺さないという不殺誓をたてます。
その誓が逆刃刀に象徴されます。
不殺誓を剣心と対決する剣客たちは青臭いと言います。
所詮、剣は人を殺す道具。
剣を抜いたのにも関わらず、人を殺さないというのは矛盾そのものであると。
それでも剣心は己の命を犠牲にしてでも不殺誓を守ろうという覚悟を持ちます。
特に前編の張との対決の際に、剣を抜き放ってしまった時に己の信念を守り切ることに対する弱さを感じ、より強くそう思うようになったのではないでしょうか。
それでも剣心の師匠である清十郎は、剣心が己の命を犠牲にしてでも、と思うことがまだ甘いと言います。
剣の道は人の命を活かす道。
しかし、それは自分の命を疎かにしてもいいということではない。
人の命を活かし、そして己の命も生かす。
前作で剣心は「飛天御剣流は乱世の剣、平和な時代には人を活かす神谷活心流がいい」と言いますが、飛天御剣流も人の命を活かす剣であったのですね。
それを理解できたからこそ、剣心は奥義を身につけることができたのです。

剣心が剣を置いた後、暗殺者として後を継いだのが、志々雄真実。
志々雄は倒幕派の勝ちが決まったとき、それまでの所行を口封じするため手にかけられます。
しかし九死に一生を取り留めた、志々雄はある教訓を得ます。
もう犠牲になる側にはならない。
世は弱肉強食、強い者が生き、弱い者は死ぬ。
自分は強者として生きるため、弱い者は己の犠牲になればいい、と。
剣心と志々雄は互角と思えるほどの剣の腕を持っています。
犠牲になる人々へ共感を持ち彼らを守るため剣を抜く剣心。
人々へ犠牲を強いり、強者として人を斬る志々雄。
対照的な二人は、必然的に対決の道を歩んでいきます。

剣心らの働きもあり、志々雄は破れ、世は再び平和となりました。
しかし、明治新政府は「富国強兵」を唱え、国民に犠牲を強いり、やがて周辺諸国への勢力の拡大を目指し、いくつかの戦争へ向かっていくのです。
志々雄が国盗りを成功させなくとも、彼が思い描いていたような弱肉強食の時代を歩んでいくことになっていったのは皮肉的ではあります。

「るろうに剣心 京都大火編」の記事はこちら→

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2014年9月 6日 (土)

「LUCY/ルーシー」 最初の新人類

リュック・ベンソンはつくづく強い女性が好きなんですね。
「ニキータ」「レオン」でも存在感があるのは、自分の力で厳しい環境の中で自分の生きる道を切り開いていこうとする女性でした。
本作の主人公ルーシーもその強い女性の系譜に連なるキャラクターと言っていいでしょう。
そういう意味で、主人公役にスカーレット・ヨハンソンを起用したのは適切でした。
美しく、そして強い女性という役柄には彼女はぴったりだと思います。
ただ「アベンジャーズ」で見せたような、彼女の身体能力がもっと見せてくれると思っていたのに、あまりそういう見せ場をセットしていなかったのはちょっと残念でした。
ストーリーとしても新規性を感じない。
人が進化し、いつの日か肉体の束縛を逃れ、精神生命体として生きるようになるというのは、昔からSF小説などで描かれてきたことですので、本作のアイデアにはそれほど新しさを感じません。
「2001年宇宙の旅」のように人の精神生命体への進化というのは、壮大なスケールで描かれることが多いので、本作のように一人の人物にまつわるレベルでのミニマムな描き方という点では珍しいとは思います。
しかし人の進化というよりは、ただ超能力を身につけた女性というようにも見えなくもありません。
それはそれだとしてもいいのです。
あるきっかけで超能力を身につけてしまった女性の、復讐劇という話でも十分見せることはできるでしょう。
人類の進化といったSF的アイデア、強い女性を描きたいという意図が、なんかうまく処理できていないような感じがしました。
どうも最近のリュック・ベンソンにはかつて感じた溢れる才能を感じず、ちょっと残念な感じがします。

ルーシーという主人公の女性の名前は、アフリカで発見された最初の人類とよばれる類人猿の化石の相性<ルーシー>から来ているのでしょうね(実際の<ルーシー>はアウストラロピテクスなので、ホモ・サピエンスの直系の先祖ではありませんが)。
本作の主人公にルーシーという名前が与えられたのは、新世代の人類の最初となる女性だからということなのでしょう。

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2014年8月30日 (土)

「ルパン三世(2014・実写)」 あらららら・・・残念

ワールドプレミア試写会に行って観てきたという同僚の評価は「うーん?微妙」。
どうもあまりお気に召さなかったらしい。
「ルパン三世」が実写化という話を聞いたとき、自分もあまりそそられなかったのは確かです。
やっぱりアニメの印象がとても強い作品なので、それを実写で上手く越えられるかなと。
去年の「ガッチャマン」のようにならないよね?
でも北村龍平監督は「あずみ」でコミックの実写化もうまくやっているし、予告編で観た小栗旬さんのルパンも割と合っているような感じもあったので、ちょっと期待もしていたりして。
そういった期待と不安が混じった気持ちで観賞してきたわけですが。
うーん、微妙。
わかるよ、同僚のこの言葉。
コミックやアニメの実写映画化作品は日本でもアメリカでもこの何年か非常に多く作られています。
これ自体は悪いことでもなんでもないですが、コミックやアニメ等の原作の比較ができてしまうため、うまくいってる作品と失敗している作品がはっきりと出てしまいます。
日本だとコミックやアニメの実写映画化するので上手い監督というと、堤幸彦監督とか三池崇史監督などが思い浮かびます。
堤監督はどっちかというと完コピを徹底的にやるイメージですね。
「二十世紀少年」3部作はまさにそんな感じであったかと思います。
三池監督は作品の世界観をさらに実写映画としてパワーアップさせる印象があります。
え、ここまでやっちゃう?といったような。
マンガ以上にマンガ的というか。
「クローズZERO」とか「ヤッターマン」とかそういう印象ありませんか。

で、本作「ルパン三世」ですが、何かやり切れていない中途半端感が漂っていて、それが残念な印象になっているように思いました。
演技面でいうと、小栗旬さんのルパンがちょっと気になりました。
予告編で出ていた「こいつはオレがいただくぜ」とか「あらららら・・・」っていうのは、アニメのルパンっぽいしゃべり方がしたので、完コピ的なアプローチかと思っていました。
しかし全編観てみると基本的にはそういった完コピ的な考え方ではないように思え、部分部分で予告編でのアニメっぽいところを出しているので、何か「ウケ狙い」のような微妙な印象を受けたのですね。
銭形警部も同じような感じに思いましたね。
あと世界観の作り方についてもリアル方向にするのか、マンガ・アニメ的にするのかが整理し切れていなかったように感じがします。
ノーランの「ダークナイト」シリーズはコミック原作ながら徹底的にリアリズムに徹したことによって、コミックとは違う世界観を確立したと思います。
逆に三池監督などの作品は実写でありながらマンガ・アニメ的な表現をさらに実写として突き詰めているようにしていると考えます。
「ルパン三世」はそのどちらでもないので、微妙な感じがするのではないでしょうか。
例えば、ルパンのフィアット(「カリオストロの城」でも印象に残る黄色いちっちゃい車です)を敵のハマーが追っかけるチェイスシーンが上げられます。
ここで石川五右衛門が斬鉄剣を抜くわけです。
アニメだったら、ハマーはまっ二つになっているでしょう。
三池監督が演出していても、まっ二つにするかな。
本作はハマーに飛び乗った五右衛門が斬鉄剣をエンジンに刺し、それによってハマーは宙を舞います。
リアリズムにこだわった見方をすると、刀刺して車が飛ぶってどういうこと!ってなります。
「ダークナイト」でも大きなトレーラーが宙を舞ってますが、あれは張られたワイヤーにひっかかってトレーラーが飛ぶというようなシチュエーションが描かれていたと思います。
マンガ・アニメ的なアプローチであれば、やっぱりハマーをぶった切ってほしい。
そのどちらでもないから、どうもアクションシーンに爽快感がない。
このチェイスシーンは非常に不満。
フィアットをハマーにぶつけて、フィアットの方が無事だとはどうしても思えない。
マンガだからっていうのならそれでもいいですが、他のところはリアリティ重視で作っていたりするから何か気持ち悪い。
その他のアクションシーンもスローモーションと細かいカット割りを駆使して一見凄そうに見えるのですが、実はあまり大したことはしていないのですよね。
車のチェイスシーンはカット割りを駆使しても、しょぼさがぬぐい去れ切れなかったですし。

この作品、キャストが国際的なので、日本語と外国語がちゃんぽんになっているんですかな。
外国人のところは外国語に日本語を吹き替えているので、口と言葉が合っていないのはわかるのですが、
日本人キャストの日本語のところも微妙に合っていないところがあって、とっても気になりました。
演技のテンションと、セリフのテンションが違うところもいくつかあったように思います。
ディテールかもしれませんが、これけっこう大事なところだと思うのですよね。
ちゃんと気を使ってほしいと思いました。

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