2023年2月 8日 (水)

「レジェンド&バタフライ」信長を作った女

現在オンエアされている大河ドラマ「どうする家康」の脚本家古沢良太が手掛けるもう一つの戦国ドラマです。
「どうする家康」では食えないタヌキ親父のイメージで語られることが多い家康を、優柔不断で自信がない男という新しいイメージで描いています。
本作では信長を主人公に据えていますが、今まで語り尽くされた感のあるこの男をどのように料理するのでしょうか。
信長は「魔王」と形容されることが多く、苛烈なキャラクターとして描かれることが一般的です。
「どうする家康」の信長もこのようなイメージで描かれていますね。
また信長はそれまでの価値観を大きく変えたビジョンを持つ男として描かれていることも多々あります。
楽市・楽座といった経済の新しい仕組みを作ったり、外国との交易にも積極的であったりという点がそのようなイメージを作ってきたのかもしれません。
しかしながら、本作の信長はそうではありません。
劇中、「魔王」と形容されることはありますが、それは自らの信念を持ってそうなっていったということではありません。
本作の信長は決して愚鈍ではありませんが、ビジョナリーではないように思いました。
しかし、なぜ彼は一介の戦国大名から京まで登り、将軍以上の威光を獲得することができたのでしょうか。
本作ではその答えを信長の妻、濃姫に求めます。
濃姫は織田家が治める終わりの隣国、美濃の斎藤道三の娘で、戦略結婚で信長の妻となりました。
彼女は歴史上ではあまり触れられることがなく、その生涯は明らかではありません。
本作では男まさりの性格であり、また大きな野望を持つ女性として描かれます。
彼女が夫、信長に影響を与えていくのです。
本作は歴史物ではなく、戦国時代を舞台にしていますが、ラブストーリーとだと言えます。
信長は濃姫に恋し(それはあまり態度に表しませんが)、彼女の夢を叶えるために、行動していったと言えます。
信長は、彼女の夢を自分の夢とした。
純で、ある意味苛烈な恋であったのだと思います。
妻の夢を叶えるために、魔王となったわけですから。
しかし、魔王が行った所業に濃姫は心を痛めます。
だから再び、魔王は人に戻りました。
それが恋する妻の望みであったから。
信長がそれに自覚的であったかどうかはわかりませんが、彼女の望みを叶えたいという気持ちで彼は行動し続けた。
ある意味、濃姫が信長を作ったと言えるでしょう。
あまりに信長の思いが純だったので、正直恥ずかしくなるような気分にもなりました。
上で書いたように時代劇というよりは、ラブストーリーであったからです。
前日に見た「仕掛人」がザ・時代劇であったので、落差を感じましたが、こういうテイストであれば今の若い人にも時代劇を受け入れやすいかとも思いました。

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2022年12月30日 (金)

「ラーゲリより愛を込めて」本当に生きる

2022年最後の映画鑑賞はこちらの作品。
私が生まれた頃は太平洋戦争が終結してから20年ちょっとで、すでに戦争は昔の話となっていました。
とはいえ、祖父母も、そして親(かなり幼かったと思いますが)戦争は体験しており、全くその影がなくなっていたわけでもありません。
しかし、再びウクライナ戦争により、戦争というものが引き起こす悲劇を目にすることとなっています。
たまたまではありますが、その関係国であるロシア(旧ソ連)が本作では舞台となっており、観客としてもより一層現在とリンクして観てしまいます。
シベリア抑留という出来事は歴史の勉強の中で、知識としては持っていますが、その過酷さは知りませんでした。
まず本作を見て感じるというのは、戦争というものが容易に人間性というものを剥ぎ取ってしまうということです。
日本人もロシア人も戦争という行為の中で命令に従うため、生き延びるため、人間性を捨てます。
劇中で相沢軍曹が言っていたように捨てないと生きていけないのです。
しかし、そのような状況の中で主人公の山本は最後まで人間であることを止めませんでした。
先ほど生きるために人間を捨てると書きましたが、しかしそれで本当に「生きている」と言えるのでしょうか。
自分を捨て、流されるままに生きる。
命令されることを粛々とやるために生きる。
これが「生きている」ということなのか。
山本は彼の生き様を通じて、仲間たちに「本当に生きる」ということを伝えます。
「本当に生きる」ために必要なのは「希望」、そして「希望」がなくともそれでも「生きる」」ことにより「希望」は見つかる。
それにより、彼らは生き抜くことができたのです。
本作の前半はこのような戦争の中での人間性をテーマにしているように思いました。
そして後半はタイトルに関わるテーマにに発展していきます。
タイトル「ラーゲリより愛を込めて」ということから想像していたのは、抑留された主人公が、内地にいる妻に向かって手紙を出し続けるというようなエピソードでした。
ちなみに原作は読んでいません。
しかし、本作ではなくタイトルが意味するのは山本の遺書の話だったのです。
彼は収容所でガンに侵され亡くなってしまいます。
そのため仲間たちは彼に家族に向けた遺書を書くように進めます。
しかし、収容所では日本語で記録された文書はスパイ行為として没収されてしまいます。
遺書も例外ではありません。
そのため、仲間たちは山本の遺書を分割して、4人がそれぞれ記憶し、日本に戻れた暁月には残された家族にメッセージを伝えるということにしたのです。
これは彼らに彼らが生きるための目的を与えたということかもしれません。
山本は死んでも、仲間たちに生きるための希望と目的を与えたのです。
家族にメッセージを伝えた一人松田が記憶したのは山本の母へのメッセージでした。
松田は収容所で母親が亡くなったことを知り、一時期生きる気力を無くしました。
また相沢は山本の妻へのメッセージを託されました。
彼もまた妻と子供を空襲で亡くしていたのです。
彼はそれを知った時、自らの命を断とうとしましたが、山本に止められたのです。
松田も相沢も、山本の家族にメッセージを伝えることができ、その言葉は彼ら自身の亡くなった家族へのメッセージとも重なり、彼ら自身の救いにもなったように感じました。
この脚本のアイデアは素晴らしく、見ていて大きく心を揺さぶられました。
今現在も戦争は続いています。
この映画で描かれた悲劇のようなことは今も起こっているかもしれません。
来年はそのような悲劇が起こらないように、早く戦争が終わることを願いたいです。

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2021年9月24日 (金)

「レミニセンス」過去へ向くか、未来へ向くか

バラ色のイメージがあった未来に対し、闇の中でけばけばしいネオンが輝き、雨でジトジトとしているディストピアの強烈なイメージを「ブレードランナー」を作りました。
それは良くも悪くも後続の映画に影響を与え、多くの作品でこのイメージが踏襲されました。
時代的には放射能汚染や公害などの人類の文明の負の側面がこのビジュアルに表れていたのだと思います。
本作もディストピア的なイメージを描写しますが、「ブレードランナー」とは違いました。
舞台となるのはマイアミ。
しかし、海面上昇により街に大半が水没しています。
昼間の気温がかなり高くなっているため、人々は昼間に寝て、夜に活動するというライフスタイルになっています。
これは温暖化によるものでしょうか。
人々が暮らす土地自体がなくなってしまったため、この時代は土地を持っているもの、すなわち地主が権力を握っています。
一部の持てる者が支配をしているため、人々は未来への希望を失いかけています。
<ここからネタバレありです>
主人公ニックはある装置を使い、クライアントに過去の記憶を再体験させることを生業としています。
人々は自分が幸せであった時を繰り返し繰り返し体験しようとします。
これはある種の逃避であって、あまりに過去の記憶に溺れ過ぎることは危険でもあります。
ニックや相棒のワッツは何度も同じ記憶を体験しにくるクライアントに危うさを感じつつも、彼ら自体は過去へ執着は持っていないようでした。
現実逃避の手段としてドラッグやアルコールも本作では出てきます。
ドラッグもかなり社会に浸透してしまっているようで、ニックが心惹かれるメイもかつて薬に溺れていたことが明らかになります。
ワッツはアルコール依存症のように酒を飲んでいますが、彼女にとって過去はバラ色のものではなく、忌避するものであったのでしょう。
ニックにとっても過去は価値のあるものではありませんでした。
メイに出会う前は。
会ったその時から彼女にニックは心惹かれ、そして二人で幸せな時を過ごすようになります。
しかし、ある時彼女は突然彼の前から姿を消したのです。
メイを失ったニックは彼女との思い出の記憶に溺れます。
そのような状況の中で警察から請け負った仕事の中で、メイが生きているかもしれないという気づきます。
彼は失ったものをもう一度手に入れようと探索を続けますが、結局彼女は死んでしまします。
今度こそニックは永遠に彼女を失ってしまったのです。
犯人の記憶を探ることにより、ニックはメイも彼のことを愛していたという本当の気持ちを知りますが、それでも彼女を生き返られることなどはできるわけもありません。
結局、全てのカタがついた後、ニックは記憶再生装置に接続し、永遠にメイとの思い出に浸ることとなったのです。
未来に目を向けようとしても、そこにはもうメイは失われてしまっている。
希望は全くない。
彼にとって唯一バラ色であったのは、メイと過ごした時間のみ。
ニックにはそれしか選択肢がなかったのでしょう。
彼に対し対照的であったのは相棒のワッツでしょう。
彼女はニックへ愛情を持っていたようですが、彼女も彼を失ったこととなります。
しかし、彼女には唯一未来へ目を向けられる大切なもの、自分の子供がいました。
彼女にとっての過去は忌むべきものであり、子供の存在もあり、目を未来に向けるしかなかったのだと思います。
ずっと二人で相棒としてきたニックとワッツは必然的に過去と未来へ袂を別ったのだと思います。

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2021年8月 8日 (日)

「竜とそばかす姫」 仮面をつけているのは・・・

本当の自分ってなんだろう?
自分らしく生きるってなんだろう?
どれだけの人がそれをできているんだろう?
そもそも本当の自分がわかっている人ってどれだけいるんだろうか?
リアルな社会では、好むと好まざるとにかかわらず様々な関係性が出来上がってしまう。
立場やしがらみに縛られる。
こんなことを言ったら変に思われるのではないか、嫌われるのではないか、と思い自分自身で縛る。
そうやって行動しているうちにそれが本当の自分のような気もしてくる。
逆にネットの匿名の世界では、本音の言葉が飛び交っている。
普段のリアルの場では決して発せないような言葉。
それはとてつもなく美しいものでもあったり、とてつもなく醜いものであったりもする。
ネットの世界では、皆がハンドルネームであったり、アバターであったりといったような「仮面」をつけているとも言われる。
逆にそれは「仮面をつけている」のだろうか。
「仮面をつけている」のはリアルな社会の方で、ネットの方が本性を出しているのではないか。
すずは幼い頃の体験から、好きな歌を歌えなくなっています。
しかし、仮想空間Uにおいてベルというアバターを得ることにより、彼女は自由に歌うことができるようになりました。
Uは本人の生体計測し、その人の本性が現れるようなアバターを生成するのです。
ベルというもう一つの自分を得たすずは思いのままに歌い、それが多くの人の共感を得ます。
彼女の歌に込められた本心に人は共鳴したのです。
そして誰もベルの正体には気づかない。
誰もそれが田舎の冴えない高校生だとは思わない。
みんなリアルでの「仮面」を見ているから、本性に気づかない。
「仮面をつけている」のはリアルな世界。
ベルがすずであると気づいたのはしのぶのみ(あと合唱団のおばさんもか)。
彼は言いました。
「ベルってお前だろ」
おそらく彼は母親の事件以来すずが知らず知らずのうちに自分自身でつけていた「仮面」越しに彼女の本質を見てきていた。
そレは母親に価値を見出されなかった子供という「仮面」。
しのぶはずっとすずの本質だけを見てきた。
だからベルがすずであることがすぐにわかった。
自分をわかってくれている人がいる、そのことはすずが更に自分自身を解き放っていくことに非常に大きな力となったと思う。
細田監督の作品は批判の声が上がることも多い。
この作品で批判的に指摘されている箇所としては終盤で恵たち兄弟の境遇が明らかになった時、すずが一人で彼らの元へ向かったことである。
すずはまだ高校生であり、子供。
周りの合唱のおばさんたちや友人たちはなぜ彼女だけをいかせたのか。
危険であることがわからなかったのか、と。
その指摘はわからなくはないですし、脚本的な強引さがあることは感じます。
ただ個人的にはすずはここでは一人で行かなくてはいけなかったのだと思いました。
すずがずっと抱えてきたトラウマを乗り越えるには一人で行くことに意味がある。
すずは幼い頃に体験したトラウマをずっと抱えていました。
目の前で母親を亡くした日のことを。
母親は見ず知らずの子供を救おうとして、命を落としてしまった。
残されたすずは思ったのだろう。
自分よりも見ず知らずの子供の方が大事だったの?
残されてしまった私のことを考えてくれなかったの?と。
そのことがずっと彼女の中に残り、母親にとって自分は価値がない子供であったのだ、という誤解が定着してしまい、それが彼女が自分自身を認められないことに繋がってしまったもだろう。
もちろん彼女の母親がすずを大切に思っていなかったわけはなく、ただ目の前で救われなければいけない命を放って置けなかったから、彼女は動いた。
しかし幼いすずにはそれは理解できなかった。
けれど、恵たち兄弟の状況がわかった時、すずもまた動いた。
それがもしかしたら危険な行為であることも少しは頭を過ったかもしれないけれど、目の前で危険な状況にある子供を放って置けなかった。
多分がむしゃらに動いてしまった。
そう、それは母親がとった行動と同じだったのです。
おそらくすずはようやく母親の気持ちを理解できたのです。
そして母親が決して彼女のことを大切ではないと思っていたわけではないということも。
すずは無意識に母親の行動をトレースすることにより、彼女自身のトラウマから解き放たれたのだと思います。
この作品の批判されている他の点では、ネットが本音が語られる場として描かれているが、実際には欺瞞にも満ち溢れているわけで、正しい描き方ではないとのもあります。
個人的にはこの仮想空間Uも、そして児童虐待というエピソードも、「美女と野獣」へのオマージュも、それ自体が作品のテーマとなっているわけではなく、主テーマはある少女が自分自身が規定していた呪縛から解き放たれることであると思っています。
いずれもそのための背景であるため、その点ばかりを掘り下げて指摘するのはちょっと主題とずれている気がしています。
確かに盛り込みすぎていて、かつ整理しきれていない感もあり、さらには背景であってもかなり力を入れて描いているので、主題のように見えてしまう、というのは確かにあるかと思います。
この辺の情報量の多さは細田監督のクセのようなものであるかなと私は考えています。

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2021年6月12日 (土)

「るろうに剣心 最終章 The Biginning」 剣心の誕生

「るろうに剣心」シリーズの最終作であり、不殺の誓を立てた緋村剣心の始まりの物語。
過去のシリーズはかつて見たことのない剣劇が見どころとなっていたアクションエンターテイメントでしたが、それらとはかなり趣を異とします。
もちろんこのシリーズならではのスピード感のあるアクションはあります。
そしてそのアクションは過去作とは、剣心が人を斬るという点が大きく異なり、それはまさにその姿は鬼神か修羅のよう。
剣心が纏っている殺気が全く違います。
しかし、本作ではそこが見せ所ではないのです。
本作で描かれる剣心、いや抜刀斎は新時代を築くために、暗殺者として剣を振るっていました。
彼は硬くそれこそが人々の幸せを守るためと信じていたのです。
ある夜、彼が幕府関係者を暗殺するときに一人の若い旗本を手にかけます。
その旗本は抜刀斎の太刀を数度受けたにもかかわらず「死ねない」と生への執着を見せます。
抜刀斎から見ればただの暗殺ターゲットでしかないわけですが、彼らにも彼らが守りたい幸せがあるということに気付かされれるわけです。
そこから彼の中で次第に自分の行動に対する迷いが生じていくのです。
私は1作目の「るろうに剣心」のレビューを書いたときに「もう一人の岡田以蔵」と書いたのですが、これはNHK大河ドラマ「龍馬伝」のなかで佐藤健さんが演じた幕末の人斬りです。
このドラマでも彼は命じられるままに人を斬り続けますが、次第に迷いが出てくる役所となっていました。
私はそこに剣心に通じるものを見たのです。
まさに本作では人斬りという行為を新時代を作るための必要悪と考えていた抜刀斎が、自分の過ちに気づき剣心となるまでの物語です。
抜刀斎としての彼は人の幸せを大きな概念としてしか、考えられていなかったのかもしれません。
実際は人にはそれぞれの幸せの形があり、大きかったり、小さかったり様々です。
剣心自体がずっと修行に明け暮れており、自分自身で幸せを感じることがなかったのでしょう。
だからそれぞれの人がそれぞれに持つ小さな幸せをイメージできなかったのかもしれません。
しかし、彼は巴と出会い、初めて幸せというものを感じます。
そしてそれがいかにかけがえのないものであるということを知ります。
それは敵の策略通り彼の弱みにもなりました。
彼はその幸せを失いますが、そこで感じた地獄のような苦しみは後の彼にとって強みになります。
自分のように人々の幸せを失わせたくないという強い思い、巴を通じて得られたその思いが、その後彼がいかに強大な敵に相対しても、決して諦めないということに繋がって行ったのでしょう。
まさに剣心の誕生の物語なのです。
その剣心を生み出した女が雪代巴です。
剣心を演じた佐藤健さんも素晴らしかったですが、巴を演じた有村架純さんが物凄くよかったです。
巴は婚約者を剣心に殺され、復讐のために彼に近づきますが、人を斬るたびに傷ついていく彼の魂に触れるにつれ、彼を愛していくようになります。
彼女自身も深く傷ついているのにもかかわらず、抜刀斎を優しく受け止め、慈しみ守る女性でした。
まさに彼女は抜刀斎ではなく、剣心を生み出した慈母だったのかもしれません。
これでこのシリーズは本当に終わりですね。
良い終わり方だったと思います。

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2021年6月 4日 (金)

「劇場版 ポリス×戦士ラブパトリーナ!~怪盗からの挑戦!ラブでパパッとタイホせよ!」 監督はあの・・・

4歳娘に付き合って行ってきました。
自分の影響か、着実に映画好きとなっている娘が自分からこの作品を見に行きたいとのお願いがありましたもので。
しかし、TVシリーズは見ていないのだが・・・。
どうも幼稚園のお友達がこのシリーズ好きで色々話聞いているらしい。
それとこそこそ見ているYoutubeの動画などでも情報を仕入れている様子。
さすがデジタルネイティブ世代・・・。
しかし、プリキュアくらいまではついていけるが、このシリーズはちょっとなぁ・・・と思っていたら、監督はなんとあの三池崇史。
そういえば、以前美少女特撮ものをやるというのは聞いていたような・・・。
このお方、以前「ウルトラマンマックス」や「ケータイ捜査官7」を監督したこともあったので、特撮やるのは違和感はないのですけれどね。
子供向けでは「忍たま乱太郎」も撮っていたか・・・。
さて登場する少女戦士は全てオーディションで選ばれた子とうこと。
ですので、大人目線だと演技はかなり見ていてしんどい・・・。
シナリオもまあ子供向けではあります。
とはいえ娘は十分に楽しんだ様子。
女の子的にはカワイイ服の女の子が出てきて、悪い奴をやっっつけて、歌やダンスもあってで、好きなものが詰め込まれているんですよね。
とはいえ、所々三池監督テイストは忍び込まさせられていました。
さすがに血飛沫が飛んだりはしていなかったですが・・・。
敵の怪人(?)が特殊な力を持つラブダイヤモンドなるものを飲み込んでしまうのですが、それをう○こ的な状態で排出してしまうシーンがありました。
子供向けでありながら、こういうシーンを持ってくるのは三池監督らしい。
じゃ子供の反応はどうかというとバカウケでした。
子供はう○ことか大好きですからね!
自分としては見ていて疲れるなぁという感じだったのですが、娘は満足していたようなので、まあいいかという感じです。

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2021年5月 1日 (土)

「るろうに剣心 最終章 The Final」 剣心アクションの集大成

緊急事態宣言が三度出てしまい、GW映画に公開予定の映画が軒並み公開延期となってしまいました。
本作はその前の週に公開直後に鑑賞に行ってきました。
人気シリーズ「るろうに剣心」の最新作で最終章となります。
第一作を見たときに本作の新しいアクションに衝撃を受けました。
日本の剣劇、いわゆるチャンバラはある種のリズムがあります。
緩急と言いますか、静と動の組み合わせが独特のリズムを産んでいると思います。
まさにチャンバラという言葉は刀が組み合う音を表していますから。
最近の映画はかなりテンポが速くなっているとは思いますが、それでも独特のリズム感はあると思います。
それが「るろうに剣心」はない。
というより、ずっと攻撃を連打しているような感じですよね。
リズム的には格闘ゲームのコンボのようなイメージが近い感じがします。
時代劇にワイヤーアクションを本格的に取り入れたところが新しいところですが、ハリウッドのようなふわっとしたワイヤーアクションとも違う。
それよりは肉と肉がぶつかり合っている感じがします。
一番近い感じがするのはいわゆるカンフー映画でしょうか。
このシリーズのアクション監督を務めている谷垣健治さんのカラーが出ているかもしれません。
本作ではアクションは「るろうに剣心」らしさをさらにパワーアップした派手なものになっているように思いました。
剣心と宗次郎がタッグを組んでの二対多のアクションシーンはかなり密度が高かったです。
二人の剣豪が縦横無尽に駆け回り敵を倒していく。
今まではひとり剣心が中心となり、敵を蹴散らしていくという無双状態でしたが、今回は二人。
カメラは剣心を追っていったかと思えば、すぐに宗次郎へ、そして再び剣心へ、目まぐるしく動きます。
そのためアクションが非常に立体的で、そのため密度が出ていたように感じました。
そして最後の剣心と縁の戦い。
剣心演じる佐藤健さんのアクションは今までの作品からも折り紙付。
そして新田真剣佑さんも父親からの遺伝からかアクションの才能が高い。
そのためこの1対1の戦いも見応えがありました。
すごいもの見たという感じはありますが、全部これらを追いきれていないので、もう一度見てみたい気になりますね。
なんかアクションの話ばかりを書いてしまいました。
本作は原作のキャラクターの再現度が高いですが、今回の敵役雪代縁もイメージ通りです。
原作よりもさらに逞しくなっている感じがし、最後の敵役として存在感がありました。
原作のこのパートはかなり現実離れしている感じもありましたが、うまく映画の世界観に咀嚼してコントロールできていると思います。
この辺りは大友監督は上手ですね。
The Finalに続いてThe Biginningも公開予定でしたが、どうなるんでしょうね・・・。

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2020年7月 1日 (水)

「ランボー ラスト・ブラッド」 原点への回帰

「ランボー」シリーズの最新作「ランボー ラスト・ブラッド」です。
最終作とは言いません。
今までも何度となく最終作っぽかったことがありますからね(笑)。
とは言いながら、本作はサブタイトルに「LAST BLOOD」あるように第一作「ランボー(RAMBO FIRST BLOOD)」と対になるところがあるかと思います。
第一作ではランボーはベトナムから帰還したばかりの兵士でしたが、国のために戦ってきたにも関わらず保安官たちに迫害され、結果的に一人だけで軍隊と戦うことになります。
彼が戦うのは、自分と仲間が命をかけて国を守ってきたという想いを、全て否定されたと感じたからでしょう。
つまりは彼は存在してきた意義、生きてきた理由を奪われたわけです。
その後の「ランボー」シリーズでは彼はヒーローとして、その当時の「アメリカの敵」と戦います。
彼が戦う理由は用意はされていますが、初回作のように自分の生きる意味を問うような戦いではなかったと言えます。
しかし、本作においては再び彼が生きてきた意味を賭けた戦いをします。
前作後、ランボーは故郷に帰り、そこで知人とその孫娘と暮らしていました。
その娘をランボーは実の娘のように愛しみ、育てます。
しかし、彼女はメキシコの人身売買組織に拐われ、薬漬けにされた上に、最後は殺されてしまいます。
ランボーは老年において生きる意味を見つけていたその娘を奪われたのです。
彼は再び自分が存在していた意義を失ったのです。
本作において人身売買組織を迎え撃つランボーには容赦はありません。
それだけに彼の内面の怒りを感じます。
見ている私の方も前作を観た後から今までの間に娘を授かりました。
それこそ目の中に入れても痛くない、ということを実感していますが、自分の娘がこのような目にあったらと考える、血が凍るような思いです。
怒りで何も見えなくなるかもしれない、とも思います。
それだけに子供の存在は自分が生きる意味を与えてくれるものだとも思います。
彼の戦いは、本作において第一作と通じるような自己の存在を賭けたものに回帰しました。
そういう意味においては本作は上手にシリーズを締め括ったと言えるかもしれません。

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2020年1月25日 (土)

「リチャード・ジュエル」 現代にも通じる問題

クリント・イーストウッド監督の40本目(!)の監督作品。
1996年のアトランタオリンピックの際にあった爆破事件に関わる実話が元となっている。
タイトルとなっているリチャード・ジュエルはオリンピックの警備員であったが、担当していた公園で不審物を発見する。
警察と協力して、一般市民を避難させようとするものの、不審物は爆発し、多くの市民が死傷してしまう。
当初ジュエルは爆発物を発見し、市民を守ろうとした英雄として扱われたが、FBIが彼を犯人として疑い始めてから、メディアも彼を犯人扱いを始める。
彼が犯人であるという具体的な証拠はないのにも関わらず、彼と家族と担当弁護士以外の世間は、彼が犯人であるという心象となってしまう。
所謂冤罪なのだが、捜査機関とマスコミという巨大な権威の前では彼らの力はあまりにも小さい。
本作の舞台となっている時代は20数年前であるのだが、これは今の時代の日本にも通じるテーマである。
今の時代にも冤罪はある。
捜査機関の思い込みによる捜査、自白の強要など。
取り調べの可視化などの改革は進んできてはいるものの、欧米に比べるとまだ緒についたばかり。
ゴーン被告の逃亡は問題があるが、彼が日本の司法制度に対して批判しているところはいくつか頷けるものもある。
またマスコミに関しても最近はより一層無責任な報道が多くなっているような気がする。
以前は裏どりなど情報の信憑性を確認する作業がまだされていたような気がするが、最近は未確認なまま報道することも多いように思う。
メディアリンチという言葉が出てくるのもわかる気がする。
そしてジュエルの時代になかった要素として出てきているのが、ネットの普及による一般市民による無責任な噂の拡散だ。
記憶に新しいところで言うと、あおり運転の同乗者の「ガラケー女」であるとして全く関係のない女性が特定され、SNS上で拡散されたという事件があった。
これも不確実な情報による思い込みから端を発する。
今までの冤罪は捜査機関、マスコミなどのパワーを持つものたちによるものであったが、一般市民がネットと言うパワーを持ち始めた現代において、自分たちも同じように冤罪を生み出してしまうこともあるかもしれないという課題意識を持たなくてはいけないと思う。
そういう意味で本作で描かれている課題は現代にも通じるものであり、さらには全く人ごとではないということ、つまりは被害者にも加害者にもなりうるということを自覚しなくてはいけないと感じた。

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2019年12月27日 (金)

「ルパン三世 THE FIRST」 もっとワクワクする冒険が見たかった

劇場版の「ルパン三世」は23年ぶりだとか。
3DCGの作品としての久しぶりの登場となります。
私の世代としては「ルパン三世」と言ったら、夕方に再放送されていたのを何度も何度も観た第1シリーズ、いわゆる緑ジャケットのルパンですね。
映画だと「ルパンVS複製人間」と「カリオストロの城」まで。
今回久しぶりに観たら、声優さんも随分と変わっていました。
石川五エ門を演じていた井上真樹夫さんも先日亡くなってしまいました・・・。
逆に次元大介だけ変わらないのは(小林清志さん)すごいと思いました。
ずいぶんおじいさんぽい声になっていましたが。
今回の監督は山崎貴さんで、今年は「ドラゴンクエスト」に引き続き、3DCG作品の監督が続いています。
「ドラゴンクエスト」については最後の「ドラゴンクエスト」ラリからぬ展開で物議を起こしましたが、今回の「ルパン三世 THE FIRST」については、非常に手堅く「ルパン三世」らしい作品として仕上げたように思いました。
逆に言えば、何か新しさを感じるようなところはあまりなかったとも言えます。
ゲストの女性キャラであるレティシアは、現代らしい行動的な女性としては描かれてはいますが、財宝の秘密のキーを持っていて、ルパン側も敵側も追う人物としては「カリオストロ」のクラリスに通じるものがあるかと思います。
ラストシーンなども「カリオストロ」を彷彿させますね。
銭形警部が率いるのは埼玉県警ですし、ルパンはフィアット使いますし、お宝頂戴した時のカードも「カリオストロ」へのオマージュでしょうか。
ですので全編既視感のようなものを感じました。
私が観たことがある劇場版は、「複製人間」にしても「カリオストロ」にしてもTVシリーズとはちょっと違う、今までのルパンとは異なる側面を体験させてくれたものでした。
そういう意味では今回の作品からはそのような新しいルパンを発見できるということはなかったように感じます。
これはかなり欲張りであるということはわかっているのですけれどね。
冒険し過ぎてあまりに外し過ぎてしまうと、これは「ルパン三世」じゃないというように言われてしまうこともわかります(「スターウォーズ」の最新作が色々言われているように)。
それでもルパンであるなら、もっとワクワクするような冒険を見せてもらいたかったと思いました。

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