2018年7月10日 (火)

「ラプラスの魔女」 これは三池作品なの?

タイトルの「ラプラスの魔女」は、フランスの数学者ラプラスが未来の決定性を表現し、のちに「ラプラスの悪魔」と呼ばれた概念からきています。
これはある瞬間における全ての物質の状態が全てわかり、それを解析できる能力があるのであれば、未来が予測できるというものです。
唱えられた19世紀には概念的なものでしたが、今の時代でしたらどうでしょうか?
様々な事象をデータ化することができ、それを解析できるコンピュータもある。
未来予測はできそうでしょうか?
けれどそれは原理的には無理です。
「ラプラスの悪魔」の概念はいわゆるニュートン物理学に基づくものです。
しかし、現在では不確定性原理により、粒子の場所と運動量を両方とも特定することは不可能とされています。
ですので、どうしても絶対的に確実な未来予測はできません。
特に気象などという様々な要因が絡まる事象では、特定の場所や時間に何かが起こると予想するのは難しいでしょう(「この辺りにこういうことが起こりそう」ということまでは言えるかもしれませんが)。
ですので、未来予測ができるという話には個人的には少々入りづらかったところがありました。
ま、フィクションなのであまりその辺突っ込んでもしょうがないのですけれども。

観に行こうと思ったきっかけは、監督が三池崇史さんだったからです。
三池さんは個人的には好きな監督なのですが、最近の作品ではあまりこれはいいと思った作品がなかったのですよね。
最近の数作品は三池監督らしくはあるのですが、どうも映画としてとっ散らかってしまっている感じを受けてしまっていました。
やりすぎと言われるくらいやってしまうというのが三池監督らしさではあるので、暴走とまとまりのバランスは難しいところではあるのですが。
さて本作ですが、観終わってみると、逆に三池監督らしさというのはほとんど感じられず、寂しい感じがしました。
言ってしまうとなんなのですが、監督名を聞かなければ誰の作品かわからなかったような印象です。
三池監督の作品は名前を聞いていなくても、観れば三池作品であることがわかる印がついてように感じるくらい個性が強いと思うのですが、それがほとんど抑えられていました。
ミステリーですので、あまり監督の個性を出しにくいということもあるのかもしれませんが、そうなるとあえて三池監督を起用した意図も良くわかりません。
主役は櫻井翔さんが演じる青江という地球化学の教授ですが、これも大変存在感がありません。
観客とともに不可能な事象を解き明かして行くというナビゲーターの役割なので致し方ないのかもしれませんが、ラストくらいにもなると、本当にそこにいるだけという感じになってしまいます。
クライマックスの場面では、他の人物たちに焦点が行ってしまっているのでナビゲータ役としても終了してしまっている感がありますね。
主人公なのに。
監督の件も、主役の件も何かチグハグな感じがする作品となっていました。
三池さんにはもっと個性が出せる作品をやってもらいたいです。

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2018年5月12日 (土)

「レディ・プレイヤー1」 情報の洪水の中での宝物

初めて本作の予告を観た時、非常にびっくりしました。
デロリアンが爆走していて、アイアン・ジャイアントが大暴れしている!
なんじゃこりゃ!と。
それでもってスピルバーグ監督作品って・・・。
そして、実際に本編を観てみると、出るわ、出るわ。
キングコングにTレックス、チェストバスターにビートル・ジュースにガンダム、メカゴジラ!!
「オレはガンダムで出る!」って、日えー。
80年〜90年に若かりし頃を過ごした自分としては、ど真ん中の映画やアニメをネタとしたアイテムがエピソードが満載。
全く気づかなかったネタもいくつもありそうです。
使っている曲も有名な曲ばかり。
版権の許諾が非常に大変だったろうなあと想像するわけですが、これができるのはやはりスピルバーグだからでしょうねえ。
スピルバーグはまさに80年代以降のクリエーターではカリスマ中のカリスマ。
彼以降のクリエーターは少なからず彼の影響を受けていると考えていいでしょう。
そのカリスマから、映画の中に自分のキャラクターやアイテムを使いたいと言われたら、イエスと言いますよね。
彼くらいの大御所でしたら、作品に対してもリスペクトをしてくれて、大切に扱ってくれそうですし。
お話の筋自体はそれほど新しいものではありません。
自分たちの世界を支配しようとする組織に対し、アウトサイダーたちが協力してその支配に対して戦う。
しかし、先ほど書いたようなネタの情報量が半端ない。
それを追いかけて行くだけで大変。
また映像のスピードも速いし、画面上の情報量も多い。
その情報を処理する速度が要求されるので、観る方も疲れます。
私は普通の劇場で観たのですが、IMAXで3Dとかだったら、ぐったりしちゃうのじゃないかなあ。
情報処理力が要求されるということでは非常に現代的ではあります。
あと何度も確認で観てしまうといったフリークの方も出るかもしれないですね。
溢れそうになるほどの情報量があるというのは、現代的かもしれません。
インターネットには見切れないほどの情報があります。
人々はその情報のシャワーをまさに浴びています。
シャワーを浴びている中で、本当に大切なことは何かを見失ってしまうということはままあることです。
主人公は戦いの中で、本当に大切なこととは何かということを見つけられたのだと思います。
先ほどお話としてはよくあるパターンと書きましたが、この物語は主人公が冒険と試練を重ねた上で、宝物を得るというパターンでもあります。
主人公が手にしたのは、リアルの世界での本物の友情と愛情でした。
情報過多の中で、本質が見極めにくい世の中で、自分が本当に感じられる愛情こそが宝物なのかもしれません。

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2018年3月30日 (金)

「リメンバー・ミー」 家族の絆

最近は数々3Dアニメーションを作るスタジオが増えてきていて、公開数も多いですが、やはりピクサーの作品は別格な感じがします。
卓越した美しい映像の素晴らしさも一段上のような気がしますが、やはりそれだけにとどまらず、非常にエモーショナルであることがピクサーらしいんですよね。
一言で言えば、必ず心を揺さぶられるところがあるということ。
ピクサーの映画が大人にも子供にも楽しめるというのは、そういうエモーショナルな部分も格別であることからだと思います。
本作は家族の絆を描く物語です。
こう書くと陳腐な感じに聞こえるのですが、誰でも何かしら自分の中に経験があるところを感じられると思います。
若い頃は家族の絆とかいうと、何かこそばゆいというか、斜に構えて見ていたところがあるのですよね。
けれど、子供ができたり、最近父を亡くしたりなんていうことがあったりすると、家族というものを考えたりするようになります。
息子と父というのは、成人になって独立してしまうとなかなかしっかりと話す機会はないものだと思います。
別段不仲というわけでもなかったのですが、それぞれが独立して自分の生活があると改めて話をすることもなかったのですよね。
照れ臭かったのもありますが。
しかし、いざ突然亡くなってしまうと、父親は自分に対してどう思っていたのだろうかと考えたりもしました。
いい息子であったのだろうかなどと。
死んだ人と話をしてみたいという人の気持ちもわからなくはなかったしもします(以前は想像もつかなかった)。
そういう意味では、本作の主人公ミゲルは死者の国に行き、記憶にもなかった先祖と一緒に冒険をします。
先祖が何を考え、何を感じていたか、それを知ります。
それは得難い経験ですよね。
そういう思いがあると、それを何かしら繋げていきたいと思うのだと思います。
繋げていきたいという気持ちが絆なのでしょう。
自分の子供にも何か自分なりに思いを残してあげたいと思いますし。
本作のココが父親を思っていた気持ちのように、娘にも思ってもらえたら嬉しいなと。
ココが最後に父親の思い出を語る場面では思わず涙が出てしまいました。

日本語版を見たのですが、ミゲルを演じていた子の歌がうますぎてびっくりしました。
まだ13歳だとか。
凄すぎです。

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2017年6月 4日 (日)

「ローガン」 人としてのローガン

ヒュー・ジャックマンのウルヴァリンが観れるのは、本作が最後になるそう。
タイトルが「ウルヴァリン」ではなく「ローガン」であるのは、ヒーローであるウルヴァリンではなく、人としてのローガンそのものを描こうという制作サイドの意思の表れであろうか。
「X-MEN」シリーズは大勢のヒーローが出てきて、舞台装置も派手にという見せ方が多くの人々に受け、現在のアメコミ映画全盛のきっかけを作った。
しかし、本作はそういった余計な要素を削り、ローガン一人を深く描けるような舞台設定となっている。
時は今よりも未来。
ミュータントたちの多くはいなくなり、ローガン自身もアダマンチウムの影響により、かつてのような治癒能力がなくなりかけていた。
そのためローガンは若々しさを失い、中年のような姿となっている。
ローガンはかつては獣であった。
持って生まれたヒーリングの力、そして人間によって埋め込まれたアダマンチウムによる戦闘能力により、人間とは異なる存在となり、多くの迫害を受けた。
生き残るために彼は多くの人々を傷つけた。
彼は孤独であった。
獣であった。
しかし、プロフェッサーXに出会い、多くのミュータントの仲間を得ることができた。
彼は信頼、愛といった人間らしい感情を再び手に入れ、家族のような存在を得ることができた。
しかし、それも人間たちの攻撃により失われていってしまう。
彼のヒーリング能力は彼だけを生かしてしまい、愛する人々は先に逝ってしまうことをただ見送るだけとなってしまった。
やはり彼は孤独であった。
おそらく失ってしまうだけであるならば、もう人を愛するようなことはすまいと彼は思ったのであろう。
人との関係を持たず、隠遁しているような生活を送るのは彼のそういう気持ちの表れである。
唯一、彼が関係を持っているのはかつて彼を導いてくれたプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビア。
彼はローガンにとっての擬似的な父親であるのだろう。
しかし、そういった彼は謎の少女ローラに出会う。
彼女はかつてのローガンのようであった。
自分に手を出す者どもを全て斬り殺す。
彼女も獣。
ローガンは彼女に自分と同じものを見出した。
それもそのはず、彼女はローガンの遺伝子によって能力を移植された人工的なミュータントであったのだ。
チャールズの言葉もあり、ローラと一緒に逃避行を続けるローガン。
彼の中でかつて味わったことない感情が芽生えていく。
ローラを逃がすために、彼は治癒能力が失いかけている肉体で敵と戦う。
彼の戦いはまるで子を命がけで守ろうとする獣のようだ。
そして致命的な傷を負ったローガンは、ローラの腕の中で「そうか、こういうことなのか」とつぶやき、息をひきとる。
ローガンは初めて、人間として親として、大事な存在を手に入れることができた。
もうただ己のために戦う獣ではなかった。
本当の家族を手に入れることができた。
かつて味わったことのない気持ちをローガンは感じることができたのであろう。
自分が親になったとうこともあったためか、すごくこの場面ではぐっときてしまった。
子供のためであればなんでもするという気持ちはやはり親は持つものだ。
その感情はとても深く強い。
それをローガンは最後に味わうことができた。
本作はヒーローウルヴァリンを描いた作品ではない。
人間ローガンを描いた作品である。

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2017年3月 8日 (水)

「ラ・ラ・ランド」 ミュージカルの力

以前はミュージカル映画をあまり好きではなかった。
映画の中で進んでいたドラマの途中で、突如出演者たちが歌い始めるのが、奇妙であるような感じがしたのだ。
劇中で歌うということを描くミュージカルはリアリズムとは対極の表現だと思う。
リアリズムの視点で言えば、日常の生活の中で突然歌いはじめる者などいるわけがない(いたら相当にアブナイ)。
ミュージカルは、人の行動としてはとっても不自然なことをしているわけだ。
そういう視点で自分にとってミュージカルは馴染みにくいジャンルだったわけなのだが、現在はそのような印象は持っていない。
というよりミュージカル映画は好きなジャンルになっている。
いつごろからかと思い返すとおそらく「シカゴ」あたりからだと思う。
それまで個人的にミュージカル映画の印象は古臭いイメージがあったのだが、「シカゴ」は映画的な派手なゴージャスな画作りで自分の中でイメージを一新した。
食わず嫌い的なハードルがなくなって素直に観れるようになると、意外にもミュージカルの劇中歌とはストレートにキャラクターの気持ちを伝えることができるものだということがわかってきた。
普通のセリフとしていうとかえって大仰に感じたりしてしまう言葉でもミュージカルならば言えてしまえるし、心情もストレートにそのまま口にすることができる。
だから人の気持ちを素直にまっすぐに描きたい物語はミュージカルに向いていると言える。
その視点において、本作「ラ・ラ・ランド」はミュージカルの良さを存分に発揮していると思う。
この映画は凝ったストーリー展開で観客を魅了するタイプの映画ではない。描かれているのは人が人を愛しているときの幸せな気持ちや、別れの後の切なさというとても普遍的なこころ。
セブとミアの二人が出会ったときの対立、愛し合い幸せに満ちた日々、すれちがいと挫折、その時々の気持ちが二人の歌にのせて表現されている。
歌を通じて二人の幸せや、切なさが素直に心に響いてくる。
このダイレクトに心に響かせることができるのが、ミュージカルの力なのだろう。
二人が出会い、愛し合い、そして別れるプロセスは誰しも経験したことがあるような典型的な恋愛だと思う。
だからこそその時々に感じた気持ちは観客の心の中にしまわれていて、セブやミアの素直な気持ちがのった歌に揺さぶられるのだろうと思う。
「ラ・ラ・ランド」はミュージカルでなければ陳腐な恋愛ドラマになっていたかもしれないが、ミュージカルとして作られたことにより、多くの観客の共感性を得られる作品になることができたのだろう。

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2016年6月16日 (木)

「64-ロクヨン-後編」 子への思い、届かぬいたたまれなさ

<ネタバレ部分があるので、注意してください>

前編は昭和64年に発生した誘拐事件「ロクヨン」を模倣した事件が発生したところで終わっていました。
事件が始まってすらいないところではあったので、後編も気になって公開後すぐに観に行ってきました。
模倣事件は誰が行っているのか?
誘拐された子供は助けられるのか?
そもそも「ロクヨン」の犯人は見つかるのか?
といった謎が解けていくのも見どころではあるのですが、それよりも親が子供を思う気持ちの深さ、そしてそれが届かぬ時のいたたまれなさに感じ入りました。
「ロクヨン」で娘を殺害されてしまった雨宮は十数年にもわたり、一人で犯人を追っていました。
毎日のように一軒一軒電話をかけ、自分だけが知っている犯人の声を探していたのです。
それは気の遠くなるような作業であったでしょう。
しかし、それは彼にとって唯一、愛娘と繋がっていられる行為であったのでしょう。
雨宮は年月が経ち、娘のことを忘れてしまっていきそうになることが恐ろしいと言ってしました。
彼がいかに娘を想っていても、それを直接伝えることはもうできません。
声をかけてあげたくとも届かない。
そのいたたまれなさといったら。
彼ができる唯一のことは一つ一つ電話番号を潰していくことだけ。
そうすることによって、彼は娘と繋がっていたいと思ったのかもしれません。
また、主人公三上にしても、そのいたたまれなさを抱えています。
彼に反抗的な娘に手を焼き、その気持ちを理解できないという悩みがありました。
しかし、彼は娘と正面を切って向かい会おうとはできず、その結果娘は失踪をしてしまいます。
彼も娘を愛していないわけではなく、それだからこそ娘がいなくなった時、喪失感を感じ、自分が間違ったことをしてしまったのでないかという思いを持ち続けています。
だからこそ三上は、雨宮の本当の思いを理解した時、彼が持ついたたまれなさに共感したのではないかと思います。
そして雨宮も三上が心の中に抱えている思いを察したのではないでしょうか。

また本作では、人は自分の強い思いに支配された時、他人の気持ちを思いはかることができなくなってしまうということも浮かび上がってきます。
「ロクヨン」の犯人は後編で割とあっさりとわかります。
そもそも模倣事件自体が、彼が犯人であることを明らかにさせるために仕込まれたことであるわけです。
かつて自分が行ったと同じように娘を誘拐された時に、犯人は自責の念にかられるのか。
彼は自分の娘を助けるために大金も用意します。
そのために自分は何でもやるとも言います。
彼は模倣犯に対し、娘の命を懇願した時に、かつての自分の姿は思い浮かばなかったのでしょうか。
自分が娘を思う気持ちが何ものにも勝ってしまう。
同じことは、三上にも言えます。
三上が犯人を追い詰めた時、彼は雨宮に共感し、その思いを果たしてあげるためと考えていたのでしょう。
娘のためという雨宮の思いを遂げること、それは三上自身にとっても思いを果たすことと同じになっていたのかもしれません。
だからこそ、三上は禁じ手とも言える手法で犯人を追い詰める。
そして、それにより犯人の娘の気持ちをも傷つけてしまいました。
それは犯人が他人の気持ちをわからずに犯行を行ったことと、同じことであるようにも思えます。
いかに親の子供に対する思いが強く、そのためであるならば他の人間を傷つけてしまうこともしてしまうという業の深さを描いているようにも思いました。

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2016年5月21日 (土)

「64-ロクヨン-前編」 報道の役割とは

例によって原作は未読ですが、横山秀夫さん原作の作品らしく骨太のドラマとなっていました。
本作は出演者も上手な俳優さんがたくさん出演されているので、その点でも見ごたえがありますね。
最近の邦画は前後編を間をおかずに公開するパターンが多いですが、本作もそのような構成となっています。
前編は過去の誘拐・殺人事件が新たな展開を向かえるところで終わります。
おそらく後編は犯人、動機といった事件そのものの謎を追うミステリー色の強い展開となると思いますが、前半は事件というよりは警察・新聞社の組織、そしてそこに生きる人々を広報官三上を通じて描いています。
「クライマーズハイ」でも見られましたが、そのあたりは元上毛新聞の新聞記者であった原作者の真骨頂ですね。

警察や新聞社に限らず、組織に属する人間は、組織の意思と個人の意思との間で苦しむことがあります。
得てして組織はそれ自体が意思を持つかのように振る舞い、その組織の構成員を縛ります。
組織の面子を気にし、それに反することによりはじき出されることを恐れ、保身のために動く人もいます。
これは変じゃないか、間違っているかもしれないという疑問を持つことがなく動いてしまう場合もあり、それは組織文化として非常に危険です。
本作で描かれている隠蔽がそうですね(東芝事件とか、最近の三菱自動車の件などもこれでしょう)。
そしてまた組織の意思のように見えて、トップの方の個人的な思惑が絡んでいることもあるので厄介です(派閥争い的な)。
そういう状況の中で、個人としての矜持を通そうとすると、組織からはじき出されてしまうことがあります。
本作の主人公の三上のように。
どちらの方がいい生き方なのかというのは一概には言えません。
しかし、組織の中で個人の矜持を通そうとすることは難しいがゆえに、このような主人公に強く共感し、声援を送りたくなってしまうのかもしれません。

また別の視点で、権力に対する報道という点でも問題提起を行っています。
かつての日本では報道が公権力の影響を受け戦争を推進していく一つの力となった反省から、報道は公権力が暴走することを防ぐという強い使命を持っています。
それ自体は報道の機能として正しいスタンスであると思います。
しかし、それが公権力への抑止力ということから、ただ対立することが目的化していくという変質が起こっているのではないかと本作は指摘しているような気がします。
これは報道に限らず、野党などもそういう感じがしますが。
何のための戦いなのか。
それは国民のためであるべきであるのに、いつからか戦うことが目的化してしまっている。
これは瑛太さん演じる秋川に象徴されています。
仮想敵(警察)がいなくては自分の存在意義が見出せない。
三上は、いつまで戦い続けるのか、と問います。
戦いが目的でははずだろうと。
報道は様々な情報を集め、それを国民に提示し、皆でより正しい答えを導き出せるようにするのが役割ではないかと考えます。
そういう基本的な役割をもう一度認識するべきであると言っているような気がします。

前編では組織と個人、そして報道の役割といった社会的な課題をエンターテイメントの中でしっかりと提起していました。
後編ではどのような展開が待っているのでしょうか。
期待して待ちたいと思います。

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2016年4月29日 (金)

「レヴェナント:蘇りし者」 映画圧を感じる

今年のアカデミー賞を総なめにした「レヴェナント:蘇りし者」を観てきました。
アレハンドロ・G・イニャリトゥは昨年の「バードマン」に続いて2年連続の受賞です。
イニャリトゥ監督の「バードマン」にせよ「バベル」せよ難解なイメージがあるので、身構えて観に行きましたが、思いの外ストーリーはわかりやすい作品となっていました。
彼の作品を観るとき、作品に織り込まれた監督の意図をなんとか読み解こうというようなスタンスで鑑賞していました。
しかし本作については、どちらかといえば主人公ヒュー・グラスが歩んでいく険しい道のりをじっくりとドキュメンタリーのように撮っているので、知らず知らずのうちに考えて観るという感じではなくなり、引き込まれるといったような見方になっていました。
書く力が強いことを筆圧が強いと言いますが、本作は作品から感じる圧力が強い印象があります。
映画圧が強いとでも言いましょうか。
観ていてひしひしと圧力を感じ、目をそらしたり、気を抜いたりできない感じがしました。
もともとイニャリトゥ監督の作品は目をそらした途端わからなくなるので気を抜けないのですが、そういった感じとも違います。
骨太のストーリー、ストイックなディカプリオの演技、自然光だけを用いた美しい映像、監督得意の長回しも相まり、150分以上の長尺でありながらも目を離せない作品になりました。

本作は「生」をとことんストレートにテーマにした作品です。
肉体的にも精神的にもボロボロになっても、それでも生きていく。
死んだほうが楽かもしれないと思いそうな状況であっても。
妻も子も殺されている。
彼らの復讐をするために生きていこうという気持ちはあったでしょう。
けれど生きるということが生命の本質であるからこそ、本当に最後に心臓が止まるその時まで、生きることをあきらめないという気持ちが彼にはあったように思います。
死ぬことのほうが楽かもしれないのに、生きることを選択する。
生きるという過酷な道を選ぶのは、己よりも早くそれを絶たれた妻と子へ、自分が安易に死を選んでしまうことが恥ずかしいという気持ちがあるのではないでしょうか。
自分が死を軽々しく選ぶことは、彼らの生を軽くしてしまうという気持ちがあるのではないかと感じました。
グラスは復讐を遂げますが、最後は相手の運命を神に委ねるという選択をしたように、復讐することのみに生きていたのではないような気がしました。
自分が生に執着する、それが妻と子の生を価値のあるものとするという思いがあった。
そのように感じました。

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2015年11月29日 (日)

「レインツリーの国」 有川作品の二つの視点

有川浩さん原作の「レインツリーの国」の映画化作品です。
彼女のファンとしては見に行かないわけにはいきません。
監督は三宅喜重さんで、「阪急電車 片道15分の奇跡」「県庁おもてなし課」に引き続きの3作目ということで、有川さんの作品の雰囲気を表現するということでは全く心配ありません。
本作は基本的にはラブストーリーのジャンルになるでしょう。
主人公の伸行も利香も芯がしっかりしていて真面目な人ですが、そのせいか恋愛偏差値が低い。
有川作品の主人公たちといういうのは概して恋愛偏差値が低く、それゆえに読んでる、観ている側としてはもどかしかったり、そのベタ甘っぽさに甘酸っぱくなったりします。
そういうところが好きだったりするのですけれどね。
しかし、有川作品はそういったベタ甘のラブストーリーだけが魅力ではありません。
大概の有川作品はそのようなラブストーリー要素と、もう一つは社会の課題を鋭くついているテーマというものがあることが多いです。
例えば今も公開されている「図書館戦争」では、郁と堂上教官のラブストーリーももちろんですが、それ以上に描かれているのが「当たり前のように手にしている自由」とは何なのかということです。
我々は自由を手にしていますが、それを守っている人たちのこと、またなぜそうなっているかということに対してとても無関心です。
そのことに対しての問題意識を「図書館戦争」は描いています。
恋愛要素とそのようなテーマ性が有川作品は持っていて、「図書館戦争」の場合は後者の比率が高い(あくまで映画の話。原作はもっと恋愛要素が高い)。
さて本作「レインツリーの国」はラブストーリー映画ですが、他の作品同様社会の課題についてのテーマも持っています。
それは障害者への差別の問題ですね。
障害者への差別は良くない、ということはだいたいの人はその通り、と思うでしょう。
彼ら彼女達へのハラスメント(利香へのセクハラやぶつかっても謝らない若者)へは観ている方は皆怒りを感じるでしょう。
けれど自分自身がぐさりときたのは、利香が言っていた「特別扱いした上から目線の憐れみ」です。
障害者達の方は特別視されたくない、ありのままに受け入れてほしい。
当然普通の人とは違うけれど、それでも自分をそのまま受け入れてほしいと思っているのですね。
自分も「上から目線の憐れみ」のような態度を取っていないかと自身を振り返ってしまいました。
自分の職場にやはり聴覚障害の方がいて、仕事でやり取りがある場合はメールや筆談で行います。
利香の職場のようなイヤな人々はおらず、皆普通に仕事を一緒にしています。
けれどもしかしたら利香が気になっていたような態度を取っていることがあるかもしれないなとも思ったりします。
また、そういう周囲の人々の話だけではなくて、本作では障害者自身の気持ちの問題にも触れています。
自分は違うということに負い目を感じ、それゆえに壁を作ってしまう。
周囲の人は自分を憐れんでいる、そんな助けはいらない。
けれど伸行のように憐れではなく、本当に好きだから何かしてあげたいという人たちもいる。
彼女のお父さん、お母さんもそうですよね。
そういう愛を素直に受け入れるということも、障害者自身には必要なことなのでしょう。
有川さんの作品というのはこういうフェアな視点を持っている点も好きですね。
有川作品では今度「植物物語」が待機中ですね。
この作品も代表作です。
いい作品に仕上がるのを期待したいと思います。

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2015年2月28日 (土)

「烈車戦隊トッキュウジャーVSキョウリュウジャー THE MOVIE」 オトナ戦隊とコドモ戦隊

この時期恒例となったスーパー戦隊シリーズの劇場版「烈車戦隊トッキュウジャーVSキョウリュウジャー THE MOVIE」に行ってきました。
「烈車戦隊トッキュウジャー」はテレビシリーズが先日終了しましたが、シリーズ当初感じていたほど乗り切れなかった感はありました。
レビューはまだ書いていないですけれど。
ですので、劇場版については観に行くかどうか迷ったのですが、行ってみると思ったよりも面白かったです。
トッキュウジャーと共演するのは、前年の戦隊キョウリュウジャーです。
この2戦隊が共演すると、それぞれの戦隊のコンセプトが明確になり、なかなか興味深かったです。
キョウリュウジャーは史上最強のスーパー戦隊と銘打っていましたが、彼らは最初から勇者であり、すでに完成されたスーパー戦隊でした。
強い奴らがチームになってさらに強いというコンセプトでしたよね。
いわば大人のスーパー戦隊と言ってもいいかもしれません。
かたやトッキュウジャーですが、シリーズで明らかになったように彼らは姿形は大人でもその精神は子供のまま。
純粋な気持ちを持った、子供の心のスーパー戦隊なわけです。
この2戦隊が共演すると、キョウリュウジャーたちのメンバーが、直球勝負のダイゴでさえも、大人に見える。
使命を自覚しているオトナたちという感じがしました。
トッキュウジャーたちについては、映画を観ていて彼らが自分自身のことを語るセリフがあったのですが、なるほどと思いました。
彼らは家族の元に帰るということを目的として戦ってきました。
そして旅をして街を訪れ、そこでシャドーラインに苦しめられる人々をひとつひとつ救ってきたわけです。
世界の平和のためってわけではない。
ひとつひとつ目の前にいる人たちを救ってきただけ。
だだ子供のうちはできることは限られている。
手が届くとこから、ひとつひとつやっていく。
そして自分の手の届く範囲は少しづつ広がっていく。
手が届くと想像できることがイマジネーション。
トッキュウジャーはこれから成長していくコドモたちなんですよね。
だから、本作で子供のままチェンジするっていうシーンがありますが、それは非常にコンセプトをはっきりと表したシーンであったなと思いました。

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