2024年12月14日 (土)

「六人の嘘つきな大学生」残った棘

大手IT企業の最終面接に残った六人の就活生。
彼らはその過程で絆を育んでいったが、最終面接で次々と明らかになっていく彼らの過去の暴露から、脆くも関係性が崩れていってしまう。
自分自身も採用の面接をしたりすることがあるのだけれども、就活生は自分のいいところを見せようとするものです。
それは当たり前で、就活に限らず、特に知らない人に対しては自然とそうなってしまうのが人間です。
就活生もしっかりと準備をしてくるので、採用する側はより深く深く質問をしていき、少しでも相手の本質を引き出そうとするわけなので、就活はある種の心理戦とも言えるかもしれないですね。
心理ミステリーとして就活という場はいい選択だと思いました。
人には裏表があるということ、そしてさまざまな伏線が回収されていくということで、私は2007年の「キサラギ」という作品を思い浮かべましたが、本作はそれを演出した佐藤祐市監督なんですね。
ですので、その辺りの伏線回収などは上手です。
中盤の彼らの過去が暴露されていくところは、見ていてもしんどいところがありました。
その前の事前面接や自主的なワークショップの彼らを見ているとしっかりしている子たちに見えましたが、それでもまだ彼らは社会人になる前の子供ともいえます。
なので、予期せぬ過去が晒された時、彼らは一様に動揺します。
この動揺っぷりが見ていて苦しい。
そこまで彼らを追い込まなければいけないのかと。
人の裏の醜さを暴露していく様子は、あまり邦画にはない感じだなと思いました。
どちらかと言えば韓国映画(私は苦手)のようなドロドロとしたような印象を受け、居心地の悪さを感じました。
しかし、終盤にかけては彼らの本当の本当の姿も明らかにされ、救われます。
この辺りの伏線回収と安心感は名作「キサラギ」の監督ならではと思いました。
中盤の追い込みがあるからこそ、終盤の救いがより印象的になります。
ただ気になったのは、真犯人の動機です。
動機は終盤に明らかになりますが、個人的にはここまでする動機とは思えないところもありました。
彼にとっては「それほど」のことだったのかもしれませんが、そうなってしまう彼のバックボーンはもう少し語られてもいいかと思いました。
救いがあると書きましたが、ある登場人物にだけは救いはありません。
見終えた時には救いはありそうな印象にもなるのですが、けど改めて考えると彼の人生は救われなかった。
その点が可哀想で、ちょっと棘が残ったような気分になったのも確かです。

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2024年11月16日 (土)

「レッド・ワン」ギャップを楽しもう

あと一月ほどでクリスマス。
クリスマスを舞台にしたり、題材にした作品も数々ありますが、本作はまた一風変わったアプローチです。
サンタクロースが子供たちにプレゼントを配るのを年に一度の一大ミッションとし、そのために存在する軍隊のような秘密の組織。
そのトップがサンタクロースで、そのコールサインが「レッド・ワン」。
アメリカ大統領の専用機のコールサインがエアフォース・ワンですが、まさにそんな感じですね。
クリスマス、サンタクロースというとほのぼのしたファンタジーなイメージですが、本作はアクション・テクノスリラーといった感じ。
そのアンマッチ感が楽しいです。
本作はこのようなアンマッチ感がところどころにありますね。
主人公の一人でサンタクロースの護衛隊長カラムを演じるのはドウェイン・ジョンソン。
言わずと知れた”ロック様”ですが、彼の役回りは今まで演じてきたキャラクターのイメージそのままです。
ですが、その役割がサンタクロースを守り、無事にクリスマスのイベントを成し遂げること、というところにギャップがありますよね。
もう一人の主人公はジャック・オマリーで演じるのはクリス・エヴァンス。
クリスはこちらは正義感あふれる”キャップ”のイメージが強いですが、本作で演じるジャックはダメダメな父親です。
この場合は、役者としてのイメージと演じる役のギャップがあります。
このように本作は至る所にパブリックなイメージと愛はするギャップを用意していて、その落差が楽しいです。
お話としてはそれほど複雑ではなく、子供から大人まで楽しめます。
子供はギャップの前提となるパブリックイメージは持っていないと思いますが、それがなくても素直に楽しめると思います(実際、一緒に見た小学生の娘はとても楽しんでいました)。
大人は上で書いたギャップがわかるので、それはそれで楽しい。
クリスマスシーズンに向けてのいいファミリー映画だと思います。
途中で登場したサンタクロースの義理の弟と言われるクランプスという半神は全く知りませんでしたが、ヨーロッパではクリスマスの時期に悪い子に罰を与える伝説があるようですね。
その辺りもうまくストーリーで拾っています。
なんか日本のナマハゲみたいですね。
ビジュアルも含めて。

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2024年7月 4日 (木)

「ルックバック」背中を見ろ!

子供の頃、絵を描くのが好きだった。
クラスの中に一人はよくいる絵の上手い子だったと思う。
クラスの文集のイラストを頼まれたり、教科書の隅にパラパラ漫画などを描いたりしていた。
友達からも上手いと言われたりしていたと思う。
将来漫画家になれたらいいな、と思ったりもした。
けど、クラス変えをした時、もっと絵の上手い子がいて、敵わないなと感じた。
本作を見てそのことを思い出した。
絵を描くにしても、歌を歌うにしても、スポーツをするにしても一緒にやる仲間がいれば心強い。
けれど、そこには裏腹に嫉妬もある。
評価されれば天にも昇る気持ちになるし、負けたと思った時は地獄に落ちた気分になる。
主人公藤野が京本の実力を見せつけられ筆を折る場面、逆に京本にファンだと告げられた雨の日、スキップしながら家路に着くという描写が表す気持ちは、好きなことに邁進するからこそ感じてしまうものなのだろう。
その苦しさから逃れたくてやめる人も多いだろう。
けれど藤野も京本も黙々と机に向かった。
楽しさも苦しさもありながら。
この作品は藤野が机に向かっているところを背中から写すカットが幾度もある。
タイトルの「ルックバック」は後半に「背中を見ろ」という言葉として出てくるが、背中は本作のキーワードだ。
黙々と机に向かう姿は一途に絵に向き合う気持ちを表している。
というよりこれしかない、という気持ちかもしれない。
黙々と漫画に向き合った藤野はある出来事が起こった時に自分の過去を振り返り(ルックバック)激しく後悔する。
しかし「背中を見ろ」というキーワードを受け取った藤野は、歩んできた道は間違ってはいないと許される。
ラストはずっと藤野の背中が映し出されるが、それは過去を自分で認めた上で、友の思いを受けて再び絵を描くことに向かう覚悟が表されたように感じた。
本作は非常に短く、1時間程度。
そうとは思わせない密度のある作品であった。

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2024年4月 3日 (水)

「落下の解剖学」平行線の関係性

本作はアカデミー賞で脚本賞を受賞しましたが、それもわかりますね。
フランス人の夫とドイツ人の妻、そして視力に障害がある息子が暮らす山荘。
息子が犬の散歩から帰ってきた時、父親が頭から血を流して家の外で死んでいるのを発見します。
やがて夫を殺したとして妻サンドラが立件されます。
こう書くとミステリーのように聞こえますが、本作はミステリーではありません。
この事件の犯人は最後までわからないのですから。
この作品は夫婦というものがいかに分かり合えないか、ということを非情なまでに掘り下げたものとなっていて、見ているとなかなかにしんどいところもありました。
「仮面夫婦」という言葉がありますが、本作で描かられている夫婦はまさにそのような関係性でしょう。
しかし、そこまでとはいかずとも、お互いに本当に理解し合えている夫婦というのはどれだけいるのでしょう。
作中で描かれる裁判の中で、彼らの夫婦の関係性が次第に明らかになっていきます。
記録された音声が再生されますが、彼らのやりとりは聞いていると耳を塞ぎたくなるようなところもあります。
夫にしても、妻にしてもそれぞれの主張には、それぞれわかるところがあります。
しかし、彼らは互いに歩み寄ることはなく、会話は平行線です。
というより、互いに歩み寄っているつもりなのにも関わらず、相手からするとそのようには思えないというところでしょうか。
そのもどかしさがそれぞれが自分だけが自身を犠牲にして、相手だけがやりたいことをしているというように見えるのでしょう。
多かれ少なかれ、同じような感覚を持つ夫婦というのは多いのではないかと思います。
いつまで経っても平行線であるというもどかしい感覚というのは、非常にストレスフルです。
これはどちらかがひたすら我慢するか、平行線であるということを飲み込みながら互いに妥協するか、といった感じでそれぞれの夫婦がなんとか対処していっているのでしょう。
だったら別れればいいじゃないか、ということもありますが、子供がいることによりそのような思い切ったこともできにくくなります。
本作で言えば、夫は自らのミスにより子供の視力を傷つけてしまったという責任感から彼をしっかりと保護したいと思っていますし、妻は当然自分がお腹を痛めた子供ですから無条件に手放したくないと思うのも当然です。
子は鎹、と言いますが、彼らにとっては子供が彼らを結びつけている鎖のようなものになっているのかもしれません。
彼らが平行線の関係性であることは、本作での言語の使われ方でも表されています。
夫はフランス人で母国語はフランス語で、妻はドイツ人なので母国語は当然ドイツ語。
そのため彼らは家庭においては、フランス語でもなく、ドイツ語でもなく、双方の母国語ではない英語で会話をします。
二人は流暢に英語を使うとはいえ、それぞれの母国語でのニュアンスを完全に伝えられているとも思えません。
それぞれの主張が相入れられず、ずっと平行線であることを、それぞれの母国語が全く違うということで表しているようにも思えます。
結局、夫婦というものは理解し合えるようなことはあり得ないという非情な結論になっている作品でありますが、それに納得してしまう自分もいます。

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2023年9月 3日 (日)

「リボルバー・リリー」100%綾瀬はるかを堪能する映画

興行成績は振るわなかったようですが、個人的には楽しめました。
本作の舞台となるのは大正時代。
この時代は西洋と日本の文化が混じり合いながらも、まだそれぞれの色が濃密に残っている印象があります。
浪漫、耽美といった言葉がこの時代を形容するのに使われますが、明治や昭和とはまた異なったコスモポリタンな匂いがあるのが、この時代の特色なような感じがあります。
そのあたりは本作では主演の綾瀬はるかさんや他のキャラクターのファッションや、セットなどでとても丁寧に表現されていて、楽しめました。
大正時代は明治時代以降政府が取ってきた政策の歪みや、政治的な意見の対立、関東大震災などによる社会不安など社会に不穏な雰囲気が起こり始めたきな臭い時代でもあります。
繁栄していながらも先行きが濁っている不穏な印象が本作でも醸し出されていました。
本作で見どころといえば、主演の綾瀬はるかさんでしょう。
彼女は普段インタビューなどではほんわかしたような雰囲気の女性ですが、役に入るとその雰囲気は鮮やかに変わります。
コメディもシリアスもできますし、情緒深くも演じることもできながらも、アクション俳優ばりの体のキレがあります。
本作では彼女の素質を活かした役となっていると思います。
彼女が演じる主人公リリーは凄腕の元殺し屋です。
本作でもアクションシーンがいくつもありますが、目も見張るほどに体の動きが良い。
そしてさらにその時の彼女の表情が良いのです。
特に目が。
アクションをしている時の綾瀬さんの目力はなかなか他の女優さんでも敵う人はいないのではないでしょうか。
今回はノースリーブの衣装を着ながらのアクションシーンがありますが、敵と格闘するときに見える彼女の二の腕の引き締まり具合も素晴らしいなと思いました。
女性らしい柔らかさも感じさせつつ、鍛えられている肉体となっていました。
役のためにその動きを覚えて演じている、という感じではないのですね。
そして彼女の良さはアクションだけではありません。
主人公の情緒を綾瀬はるかさんは見事に演じていると思います。
リリーは過去の悲しい思いを背負って生きている女性です。
本作では失ってしまった我が子を彷彿とさせ、そして理由もなく離れていってしまった良人に関わる少年を守るというのが、彼女の任務となります。
元殺し屋なので、彼女は自分の感情を押し殺すことに長けています。
しかし、ほんの少し彼女の感情が現れてくるところもあり、そこも綾瀬さんは演じることができています。
そしてまたその感情を抑えて、最終決戦に挑む姿もクールでかっこいいのですよね。
本作は100%綾瀬さんを堪能する映画です。

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2023年6月17日 (土)

「リトル・マーメイド(2023)」チャレンジしているのが、キャスティングのみ

娘が見たいというので、一緒に鑑賞してきました。
娘と一緒なので吹き替え版での鑑賞です。
と言いつつ、ディズニーアニメの実写化作品はなんだかんだと見に行っていますね。
最近公開されるディズニーアニメは割と鑑賞しているのですが、このところ実写化されるオリジナルのアニメは実は見ていないものが多いのです。
「美女と野獣」「アラジン」「ライオン・キング」・・・。
そのころはあまりディズニーのアニメーションには興味がなかったんですよね。
なので、実写化されたこれらの作品を見るときにオリジナルとどこが変わったという視点ではあまり語れません。
とはいえ実写化されたディズニー作品は、現代の鑑賞に耐えられるようアップデートされているところがあります。
例えば「美女と野獣」のベルや「アラジン」のジャスミンは自立思考のある女性として描かれていて、そこが魅力的であり、物語としても重要なエッセンスとなっていました。
「アラジン」は監督にガイ・リッチーを起用して、映像としても新しさを感じさせてくれました。
逆に「ライオン・キング」は映像的にはフルCGで制作したことがチャレンジではありましたが、ストーリーとしてはあまり意欲的な作りではなかったような気がします。
それでは本作「リトル・マーメイド」はどうだったでしょうか。
主人公アリエルはアニメでは白人女性として描かれていましたが、本作では黒人女性が演じています。
この点について公開前から賛否両論となっていましたが、個人的にはあまり人種にはこだわりはありません。
最近のディズニーの傾向として多様性を重んじる考えがあるので、黒人の起用もありだと思います。
本作については逆にチャレンジしているのが、この点だけであるというのが、物足りないところでしょうか。
映像としては水中の描写はCGで工夫はあるとはいえ、「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」や「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」を見た後だと、それほどのインパクトはありません。
ストーリーとしても目立って現代的にアップデートされた部分は感じませんでした。
主演のハリー・ベイリーは非常に上手な歌手だということで、字幕版で見たらちょっと印象変わったかもしれません。

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2023年2月 8日 (水)

「レジェンド&バタフライ」信長を作った女

現在オンエアされている大河ドラマ「どうする家康」の脚本家古沢良太が手掛けるもう一つの戦国ドラマです。
「どうする家康」では食えないタヌキ親父のイメージで語られることが多い家康を、優柔不断で自信がない男という新しいイメージで描いています。
本作では信長を主人公に据えていますが、今まで語り尽くされた感のあるこの男をどのように料理するのでしょうか。
信長は「魔王」と形容されることが多く、苛烈なキャラクターとして描かれることが一般的です。
「どうする家康」の信長もこのようなイメージで描かれていますね。
また信長はそれまでの価値観を大きく変えたビジョンを持つ男として描かれていることも多々あります。
楽市・楽座といった経済の新しい仕組みを作ったり、外国との交易にも積極的であったりという点がそのようなイメージを作ってきたのかもしれません。
しかしながら、本作の信長はそうではありません。
劇中、「魔王」と形容されることはありますが、それは自らの信念を持ってそうなっていったということではありません。
本作の信長は決して愚鈍ではありませんが、ビジョナリーではないように思いました。
しかし、なぜ彼は一介の戦国大名から京まで登り、将軍以上の威光を獲得することができたのでしょうか。
本作ではその答えを信長の妻、濃姫に求めます。
濃姫は織田家が治める終わりの隣国、美濃の斎藤道三の娘で、戦略結婚で信長の妻となりました。
彼女は歴史上ではあまり触れられることがなく、その生涯は明らかではありません。
本作では男まさりの性格であり、また大きな野望を持つ女性として描かれます。
彼女が夫、信長に影響を与えていくのです。
本作は歴史物ではなく、戦国時代を舞台にしていますが、ラブストーリーとだと言えます。
信長は濃姫に恋し(それはあまり態度に表しませんが)、彼女の夢を叶えるために、行動していったと言えます。
信長は、彼女の夢を自分の夢とした。
純で、ある意味苛烈な恋であったのだと思います。
妻の夢を叶えるために、魔王となったわけですから。
しかし、魔王が行った所業に濃姫は心を痛めます。
だから再び、魔王は人に戻りました。
それが恋する妻の望みであったから。
信長がそれに自覚的であったかどうかはわかりませんが、彼女の望みを叶えたいという気持ちで彼は行動し続けた。
ある意味、濃姫が信長を作ったと言えるでしょう。
あまりに信長の思いが純だったので、正直恥ずかしくなるような気分にもなりました。
上で書いたように時代劇というよりは、ラブストーリーであったからです。
前日に見た「仕掛人」がザ・時代劇であったので、落差を感じましたが、こういうテイストであれば今の若い人にも時代劇を受け入れやすいかとも思いました。

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2022年12月30日 (金)

「ラーゲリより愛を込めて」本当に生きる

2022年最後の映画鑑賞はこちらの作品。
私が生まれた頃は太平洋戦争が終結してから20年ちょっとで、すでに戦争は昔の話となっていました。
とはいえ、祖父母も、そして親(かなり幼かったと思いますが)戦争は体験しており、全くその影がなくなっていたわけでもありません。
しかし、再びウクライナ戦争により、戦争というものが引き起こす悲劇を目にすることとなっています。
たまたまではありますが、その関係国であるロシア(旧ソ連)が本作では舞台となっており、観客としてもより一層現在とリンクして観てしまいます。
シベリア抑留という出来事は歴史の勉強の中で、知識としては持っていますが、その過酷さは知りませんでした。
まず本作を見て感じるというのは、戦争というものが容易に人間性というものを剥ぎ取ってしまうということです。
日本人もロシア人も戦争という行為の中で命令に従うため、生き延びるため、人間性を捨てます。
劇中で相沢軍曹が言っていたように捨てないと生きていけないのです。
しかし、そのような状況の中で主人公の山本は最後まで人間であることを止めませんでした。
先ほど生きるために人間を捨てると書きましたが、しかしそれで本当に「生きている」と言えるのでしょうか。
自分を捨て、流されるままに生きる。
命令されることを粛々とやるために生きる。
これが「生きている」ということなのか。
山本は彼の生き様を通じて、仲間たちに「本当に生きる」ということを伝えます。
「本当に生きる」ために必要なのは「希望」、そして「希望」がなくともそれでも「生きる」」ことにより「希望」は見つかる。
それにより、彼らは生き抜くことができたのです。
本作の前半はこのような戦争の中での人間性をテーマにしているように思いました。
そして後半はタイトルに関わるテーマにに発展していきます。
タイトル「ラーゲリより愛を込めて」ということから想像していたのは、抑留された主人公が、内地にいる妻に向かって手紙を出し続けるというようなエピソードでした。
ちなみに原作は読んでいません。
しかし、本作ではなくタイトルが意味するのは山本の遺書の話だったのです。
彼は収容所でガンに侵され亡くなってしまいます。
そのため仲間たちは彼に家族に向けた遺書を書くように進めます。
しかし、収容所では日本語で記録された文書はスパイ行為として没収されてしまいます。
遺書も例外ではありません。
そのため、仲間たちは山本の遺書を分割して、4人がそれぞれ記憶し、日本に戻れた暁月には残された家族にメッセージを伝えるということにしたのです。
これは彼らに彼らが生きるための目的を与えたということかもしれません。
山本は死んでも、仲間たちに生きるための希望と目的を与えたのです。
家族にメッセージを伝えた一人松田が記憶したのは山本の母へのメッセージでした。
松田は収容所で母親が亡くなったことを知り、一時期生きる気力を無くしました。
また相沢は山本の妻へのメッセージを託されました。
彼もまた妻と子供を空襲で亡くしていたのです。
彼はそれを知った時、自らの命を断とうとしましたが、山本に止められたのです。
松田も相沢も、山本の家族にメッセージを伝えることができ、その言葉は彼ら自身の亡くなった家族へのメッセージとも重なり、彼ら自身の救いにもなったように感じました。
この脚本のアイデアは素晴らしく、見ていて大きく心を揺さぶられました。
今現在も戦争は続いています。
この映画で描かれた悲劇のようなことは今も起こっているかもしれません。
来年はそのような悲劇が起こらないように、早く戦争が終わることを願いたいです。

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2021年9月24日 (金)

「レミニセンス」過去へ向くか、未来へ向くか

バラ色のイメージがあった未来に対し、闇の中でけばけばしいネオンが輝き、雨でジトジトとしているディストピアの強烈なイメージを「ブレードランナー」を作りました。
それは良くも悪くも後続の映画に影響を与え、多くの作品でこのイメージが踏襲されました。
時代的には放射能汚染や公害などの人類の文明の負の側面がこのビジュアルに表れていたのだと思います。
本作もディストピア的なイメージを描写しますが、「ブレードランナー」とは違いました。
舞台となるのはマイアミ。
しかし、海面上昇により街に大半が水没しています。
昼間の気温がかなり高くなっているため、人々は昼間に寝て、夜に活動するというライフスタイルになっています。
これは温暖化によるものでしょうか。
人々が暮らす土地自体がなくなってしまったため、この時代は土地を持っているもの、すなわち地主が権力を握っています。
一部の持てる者が支配をしているため、人々は未来への希望を失いかけています。
<ここからネタバレありです>
主人公ニックはある装置を使い、クライアントに過去の記憶を再体験させることを生業としています。
人々は自分が幸せであった時を繰り返し繰り返し体験しようとします。
これはある種の逃避であって、あまりに過去の記憶に溺れ過ぎることは危険でもあります。
ニックや相棒のワッツは何度も同じ記憶を体験しにくるクライアントに危うさを感じつつも、彼ら自体は過去へ執着は持っていないようでした。
現実逃避の手段としてドラッグやアルコールも本作では出てきます。
ドラッグもかなり社会に浸透してしまっているようで、ニックが心惹かれるメイもかつて薬に溺れていたことが明らかになります。
ワッツはアルコール依存症のように酒を飲んでいますが、彼女にとって過去はバラ色のものではなく、忌避するものであったのでしょう。
ニックにとっても過去は価値のあるものではありませんでした。
メイに出会う前は。
会ったその時から彼女にニックは心惹かれ、そして二人で幸せな時を過ごすようになります。
しかし、ある時彼女は突然彼の前から姿を消したのです。
メイを失ったニックは彼女との思い出の記憶に溺れます。
そのような状況の中で警察から請け負った仕事の中で、メイが生きているかもしれないという気づきます。
彼は失ったものをもう一度手に入れようと探索を続けますが、結局彼女は死んでしまします。
今度こそニックは永遠に彼女を失ってしまったのです。
犯人の記憶を探ることにより、ニックはメイも彼のことを愛していたという本当の気持ちを知りますが、それでも彼女を生き返られることなどはできるわけもありません。
結局、全てのカタがついた後、ニックは記憶再生装置に接続し、永遠にメイとの思い出に浸ることとなったのです。
未来に目を向けようとしても、そこにはもうメイは失われてしまっている。
希望は全くない。
彼にとって唯一バラ色であったのは、メイと過ごした時間のみ。
ニックにはそれしか選択肢がなかったのでしょう。
彼に対し対照的であったのは相棒のワッツでしょう。
彼女はニックへ愛情を持っていたようですが、彼女も彼を失ったこととなります。
しかし、彼女には唯一未来へ目を向けられる大切なもの、自分の子供がいました。
彼女にとっての過去は忌むべきものであり、子供の存在もあり、目を未来に向けるしかなかったのだと思います。
ずっと二人で相棒としてきたニックとワッツは必然的に過去と未来へ袂を別ったのだと思います。

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2021年8月 8日 (日)

「竜とそばかす姫」 仮面をつけているのは・・・

本当の自分ってなんだろう?
自分らしく生きるってなんだろう?
どれだけの人がそれをできているんだろう?
そもそも本当の自分がわかっている人ってどれだけいるんだろうか?
リアルな社会では、好むと好まざるとにかかわらず様々な関係性が出来上がってしまう。
立場やしがらみに縛られる。
こんなことを言ったら変に思われるのではないか、嫌われるのではないか、と思い自分自身で縛る。
そうやって行動しているうちにそれが本当の自分のような気もしてくる。
逆にネットの匿名の世界では、本音の言葉が飛び交っている。
普段のリアルの場では決して発せないような言葉。
それはとてつもなく美しいものでもあったり、とてつもなく醜いものであったりもする。
ネットの世界では、皆がハンドルネームであったり、アバターであったりといったような「仮面」をつけているとも言われる。
逆にそれは「仮面をつけている」のだろうか。
「仮面をつけている」のはリアルな社会の方で、ネットの方が本性を出しているのではないか。
すずは幼い頃の体験から、好きな歌を歌えなくなっています。
しかし、仮想空間Uにおいてベルというアバターを得ることにより、彼女は自由に歌うことができるようになりました。
Uは本人の生体計測し、その人の本性が現れるようなアバターを生成するのです。
ベルというもう一つの自分を得たすずは思いのままに歌い、それが多くの人の共感を得ます。
彼女の歌に込められた本心に人は共鳴したのです。
そして誰もベルの正体には気づかない。
誰もそれが田舎の冴えない高校生だとは思わない。
みんなリアルでの「仮面」を見ているから、本性に気づかない。
「仮面をつけている」のはリアルな世界。
ベルがすずであると気づいたのはしのぶのみ(あと合唱団のおばさんもか)。
彼は言いました。
「ベルってお前だろ」
おそらく彼は母親の事件以来すずが知らず知らずのうちに自分自身でつけていた「仮面」越しに彼女の本質を見てきていた。
そレは母親に価値を見出されなかった子供という「仮面」。
しのぶはずっとすずの本質だけを見てきた。
だからベルがすずであることがすぐにわかった。
自分をわかってくれている人がいる、そのことはすずが更に自分自身を解き放っていくことに非常に大きな力となったと思う。
細田監督の作品は批判の声が上がることも多い。
この作品で批判的に指摘されている箇所としては終盤で恵たち兄弟の境遇が明らかになった時、すずが一人で彼らの元へ向かったことである。
すずはまだ高校生であり、子供。
周りの合唱のおばさんたちや友人たちはなぜ彼女だけをいかせたのか。
危険であることがわからなかったのか、と。
その指摘はわからなくはないですし、脚本的な強引さがあることは感じます。
ただ個人的にはすずはここでは一人で行かなくてはいけなかったのだと思いました。
すずがずっと抱えてきたトラウマを乗り越えるには一人で行くことに意味がある。
すずは幼い頃に体験したトラウマをずっと抱えていました。
目の前で母親を亡くした日のことを。
母親は見ず知らずの子供を救おうとして、命を落としてしまった。
残されたすずは思ったのだろう。
自分よりも見ず知らずの子供の方が大事だったの?
残されてしまった私のことを考えてくれなかったの?と。
そのことがずっと彼女の中に残り、母親にとって自分は価値がない子供であったのだ、という誤解が定着してしまい、それが彼女が自分自身を認められないことに繋がってしまったもだろう。
もちろん彼女の母親がすずを大切に思っていなかったわけはなく、ただ目の前で救われなければいけない命を放って置けなかったから、彼女は動いた。
しかし幼いすずにはそれは理解できなかった。
けれど、恵たち兄弟の状況がわかった時、すずもまた動いた。
それがもしかしたら危険な行為であることも少しは頭を過ったかもしれないけれど、目の前で危険な状況にある子供を放って置けなかった。
多分がむしゃらに動いてしまった。
そう、それは母親がとった行動と同じだったのです。
おそらくすずはようやく母親の気持ちを理解できたのです。
そして母親が決して彼女のことを大切ではないと思っていたわけではないということも。
すずは無意識に母親の行動をトレースすることにより、彼女自身のトラウマから解き放たれたのだと思います。
この作品の批判されている他の点では、ネットが本音が語られる場として描かれているが、実際には欺瞞にも満ち溢れているわけで、正しい描き方ではないとのもあります。
個人的にはこの仮想空間Uも、そして児童虐待というエピソードも、「美女と野獣」へのオマージュも、それ自体が作品のテーマとなっているわけではなく、主テーマはある少女が自分自身が規定していた呪縛から解き放たれることであると思っています。
いずれもそのための背景であるため、その点ばかりを掘り下げて指摘するのはちょっと主題とずれている気がしています。
確かに盛り込みすぎていて、かつ整理しきれていない感もあり、さらには背景であってもかなり力を入れて描いているので、主題のように見えてしまう、というのは確かにあるかと思います。
この辺の情報量の多さは細田監督のクセのようなものであるかなと私は考えています。

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