2015年7月 5日 (日)

「予告犯」 「区別」する側の態度の蔓延

前作の「白ゆき姫殺人事件」ではネットに溢れる匿名のつぶやきが根拠のない「真実」を作り出していく怖さを中村義洋監督は描きました。
本作「予告犯」でも、犯人グループらの行動によりネットの世論が方向付けられていく様子が描写されます。
そういう点においては、本作は前作の「白ゆき姫殺人事件」の延長線上にあるとも言えますが(「ゴールデンスランバー」もこの線上かもしれません)、僕は本作は中村監督のデビュー作「アヒルと鴨のコインロッカー」と同じような雰囲気を感じました。
ある事件が起こる。
その事件の背景を明かしていく中で、犯人らの背景にある悲しい事実が浮かび上がっていく。
この二つの作品では、犯人はある意味、社会から脱落してしまった者と言えます。
本人たちがどうこうということだけでなく、生まれた時の境遇やその後の立場からなどから、社会からあぶれてしまった。
しかしそういった差別や区別というものは、いったんレッテル化してしまうと、本人たちががんばったと言ってもそれをなかなか覆すことはできません。
格差社会、二極化と言われて久しいですが、それが固定化してしまっているのが社会の課題なのでしょう。
奥野の回想シーンにある事務所のシーンは見ていて、辛くなってしまう場面です。
自分とは違うもの(往往にして自分たちよりも社会的な立場が低い者)を「区別」という態度は、自分自身の立場を安泰なものであると認識しているためにやっているのかもしれません。
それが側から見ると、とてもいやらしく醜く見えてしまいます。
しかし、これほど露骨でないにしても、少なからず似通った場面というのは社会の中でもありますよね。
自分だってやっているかもしれないという怖さもあります。
そういった「区別」をする態度が「アヒルと鴨のコインロッカー」が作られたときよりも、今の方がより多く現れているかもしれません。
自分の立場に自信が持てない人が増えてきているのでしょうか。
だから自分よりも立場が低い人々を「区別」しようとする。
ネット上での匿名での無責任なつぶやきも、同様な気持ちから発生しているかもしれません(そういう意味では「白ゆき姫殺人事件」も通じる)。
「区別」される側である4人の友情が切ないです。
この切なさは「アヒルと鴨のコインロッカー」のときにも感じたものでした。
「区別」される者同士での、友情、思いやり。
誰かのために何かをしてあげられるならば、自分のことを犠牲にしてもいいという気持ち。
「アヒルと鴨のコインロッカー」のドルジも亡くなってしまった友人のために行動をしました。
さきほど書いた「区別」する側の態度は、そのことにより自分の立場を安泰と考えたいという自分中心の者考え方でした。
4人組の行動は、自分のためではなく誰かのためのもの。
彼らの行動が尊く見えるのは、「区別」する側の態度が現代には蔓延しているからかもしれません。

「アヒルと鴨のコインロッカー」の記事はこちら→

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2013年9月14日 (土)

「許されざる者(2013)」 背中に負う十字架

クリント・イーストウッドの「許されざる者」が公開されたのは日本では1993年で、僕はまだ社会に出て2、3年のひよっこ。
その頃は西部劇に対して勧善懲悪のわかりやすいイメージを持っていたのですが、「許されざる者」はそのようなステレオタイプ的なわかりやすい人物造形ではないかったため、若い自分にはとっつきにくい印象がありました。
それから見直すこともなく、今回日本にてリメイクされた「許されざる者」を観てきました。
多少なりとも人生経験した今の自分はこの物語を理解できるのでしょうか・・・。
ちなみに今回のレビューはイーストウッドの「許されざる者」との比較という視点は全く入っていません(見直していないためはっきりと物語を記憶していないため)。

時は明治、ところは北海道。
主人公十兵衛は元幕府側の侍で、戊辰戦争を戦い新政府軍に追われ北海道まで流れてきました。
幕末の戦いの中で彼は「人斬り十兵衛」と敵味方に恐れられる存在でしたが、あるときを境にフツリとその姿を消しました。
彼は北海道の地で、妻と出会い「他の生き方がある」ということに気づいたのです。
しかしその妻も亡くなり、十兵衛は二人の子供と共に痩せた土地を日々耕す生活を送っていました。
ある日、彼の元に旧知の金吾が訪れます。
開拓村で女郎を傷つけたにもかかわらず軽い罪でしか咎められなかった男二人に賞金がかけられた、その男を一緒に始末しないかと。
十兵衛はもう人殺しはしないという亡き妻と約束があるため、それを断ります。
そういう十兵衛に金吾は「お前は忘れても、過去は忘れちゃくれない」と言います。
かつて十兵衛は多くの人を殺しました。
彼はそれを悔い、その罪を償うかのように人々から離れ、粗末な暮らしを続けています。
しかしそのような暮らしを続けていても、決してその罪はなくなることはない。
彼はいつまでも「許されざる者」であるのです。
十兵衛はそうであることを受け入れ、その重みを背負って生きていくことを決めた男でした。
彼は人を殺す、その罪を妻と出会うまでは自覚することはなかった。
十兵衛は人を殺すことによって否応なく背負ってしまう十字架の重みを知っています。
しかし、この物語に登場する人々はその重みに気づいていない。
十兵衛を賞金稼ぎに誘う金吾は、人殺しを自分の将来のための手段と捉えていたように思います。
また五郎は己の生まれや、アイヌへの仕打ちへの怒りにより、人を殺そうとします。
彼らに自分たちの恨みを晴らそうと依頼をする女郎たちもそうです。
彼らが賞金首の一人を殺したことを知ったとき女郎が「ほんとに殺っちまったのかい・・・」と洩らすつぶやきは彼女たちが人を殺すことに対しリアリティを持っていなかったことがわかります。
金吾はいざ人を殺そうとしたとき、それによって背負う十字架の重さに気づきます。
五郎は初めて人を殺した時、腕の震えがとまらず、背負ってしまった罪に恐れをなします。
十兵衛はその重さがどれだけ重いのか、それを下ろすことなく生きうる限りずっとかついでいかなくてはいけないということを知っているからこそ、彼らがそれ以上背負い込まないように、彼らの代わりとなってもう一度十字架を背負おうとするのです。
女郎の一人なつめは十兵衛がたたずむ背中を見て、そこに背負った罪の重さに気づきます。
金吾も自分の背負った十字架の重みに気づいたと思いました。
だからこそ最後まで十兵衛のことは口を割らなかった。
五郎もなつめも自分の罪を自覚し、そしてそれを十兵衛に背負わせてしまったことを知っているからこそ、彼の子供の世話をみようとしたのでしょう。

登場人物の中で強烈な印象を残すのが十兵衛の敵役となる一蔵です。
彼は自分が背負っている十字架に自覚がありません。
おそらく死ぬまで彼は自分がしていることは間違っていないと思っていたでしょう。
幕末、世は多いに荒れた。
自分が治める街だけは、平和を保ちたい。
どんな手段をとっても。
彼には彼なりの正義があったのかもしれません。
女郎を傷つけた男たちを軽微の罪としたのも、開拓村にとって彼らが貴重な馬をもたらすことができるからでしょう。
彼らを殺してしまっては、村全体からみると損になると。
一蔵からすれば十兵衛の行動は理解不能であり、十兵衛からしても一蔵の仕打ちは許せるものではない。
彼らの価値観が激突したのが、最後の戦いでしょう。
ある意味、生き方をかけた戦いと言ってもよく、渡辺謙さんと佐藤浩市さんの演技も相まって、鬼気迫る感じがしました。

人間というものは善悪がきれいにわかれるようなものではない、ということを少しはわかってきている年なので、オリジナルを観た時の若いときよりは、作品を理解できるようになったかな。

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2013年1月13日 (日)

「映画 妖怪人間ベム」 そうか、イエスか

まったく観に行くつもりはなかったのですが、なんとはなしに。
テレビドラマも観ていませんでしたし、オリジナルのアニメも内容はほとんど知らなかったもので。
知っていたのは「早く人間になりた〜い」ってセリフだけ。
そういうことで全く期待値もなかったからか、観終わって持った印象はけっこう良くできているな、でした。

ベム、ベラ、ベロ(この名前も知ってた)の3人の妖怪人間は、ある博士の研究から生み出されました。
しかしその博士が急逝し、放置されたその研究途中の物質から3人は誕生したのです。
この3人は人間の善良な部分だけを持つ生命体であったわけです。
実はそのとき同じ物質から、別の生命体「名前の無い男」が生まれていました。
「名前の無い男」は言わば悪の塊であり、彼が(ベロの言う)「緑ドロドロ」を人間たちに注入すると、その人間は自身の悪の心を暴走させてしまいます。
テレビシリーズはそういった悪の心を暴走させた人間と、そしてその元となった「名前の無い男」との戦いが描かれていたようですね。
人間というものは、その中に善良な部分と悪の部分を両方合わせ持っているもの。
同じ人物が時にはとても親切であり、また別の時にはとても意地悪であるというのもよくあることです。
日々、内面で善の心と悪の心が葛藤しているのが、人間と言ってもいいかもしれません。
ですので、ベム、ベラ、ベロが「人間になる」ためには、人間が持っている悪の側面も持たなければいけないというわけですね。
「名前の無い男」が自身を取り込めと、ベムに言うのはそういう意味でしょう。
3人の妖怪人間は感情が高ぶると醜い姿に変貌します。
そのため映画の冒頭に描かれているように、人助けをしたとしても、その容貌のために助けた人間に迫害され、追われてしまうのです。
それでもベム、ベラ、ベロは人を助ける。
人の中にはそういった醜い心だけではなく、善良な心もあるということを知っているから。
終盤の場面で、人を救おうとするためにベムが「俺達が犠牲になる」という言葉を残し、醜い姿になって警官隊の前にいく場面がありました。
ああ、なるほど、この3人はイエス・キリスト的な存在なのかもしれないと思ったわけです。
彼らは醜い心を持った医薬メーカー社長を含め、彼ら自身が犠牲になることにより人を救いました。
これは人の原罪を背負うために自ら磔となったイエスを髣髴とさせます。
彼らがその醜い姿のために迫害されることも、イエスのイメージに繋がります。
そういえば彼らが「人間になる」ことができるための草が生えていた廃墟の鉄骨は十字架のような形をしていました。
これは制作者側にもそういったイメージがあったということでしょうね。

ベム、ベラ、ベロを生み出した博士は人工的に人間を作ろうとしました。
それは完全なる人間を作ろうとしたらかもしれません。
人間というのは、そもそもが善と悪とがごちゃまぜな不完全な存在なわけですね。
ベム、ベラ、ベロは善の心を持ち、永遠に生きられる、そういう意味で人間よりも完全な人間であるかもしれません。
しかし彼らは「早く人間になりたい」と言います。
なぜ完全な彼らが不完全な人間になりたいと思うのでしょうか。
それは「孤独」なのかなと思いました。
彼らと同類であるのはあの3人だけ、それは永遠に増えもしない。
人というのは他人との関わりの中で生きていくもの。
彼らにはそれだけがありません。
3人が憧れるのはそういった人との関わりなのでしょう(本作でのベロとみちるのエピソードで象徴されるように)。
しかし多くの人間は彼らを迫害し、関わりを持つことができません。
彼らがそういったことに落胆しながらも絶望はしていません。
そして自分たちが関われなくても、自身を犠牲にして人々のそういった関わりを守ろうとするわけですね。
やはりこういったところにもイエスのイメージを感じてしまうのです。

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2012年10月 7日 (日)

「夢売るふたり」 愛の行く末

だいたい映画を観たあとすぐにレビューを書くのですが、本作はちょっと苦労しました。

自分の中で消化できなかったのですね。

しかし、つまらないわけではなく、面白い。

どのように話が展開していくかわからなかったという点で話に引き込まれました。

そもそも主人公のふたりが本心ではどのように考えているのか、感じているのかが、映画を観た直後はわからなかったかったわけです。

映画のレビューというのは登場人物を分析して、どのような意図でこのような人物が配置されているかというのを探るものですが、そういうようなことが通用しない。

特に松たか子さんが演じる里子と女性の真意というのが、わからないのですね。

もしかすると脚本を書いた西川監督もわからないかもしれない。

里子というキャラクターを配置したら、彼女がどんどん動き出してしまったという感じかもしれません。

それを映画は間近で映像として掬いとっている感じがしました。

本作が持つある種の生々しさは西川監督がそもそも持っているものですが、よりドキュメンタリーのような感覚を感じました。

貫也と里子は小料理店を営んでいた結婚10年の夫婦。

しかしその店は火事で焼失し、ふたりは再出発をしなくてはいけなくなりました。

そのとき、ひょんなきっかけからふたりは結婚詐欺を始めます。

貫也は見た目は別にいい男ではありませんが、根っから人がいいのか、心に寂しさを抱える女性の懐にすっと入っていきます。

真っ暗闇の中にいる女性は、貫也に希望を見いだすのでしょう、たちまち彼に入れこんでいくわけです。

この物語、一筋縄でいかないのが、貫也と里子が互いに持つ感情でしょう。

結婚を10年を経て、愛が覚め、打算と妥協でいっしょに暮らしている夫婦、っていうのであれば、まだわかりやすい。

そういう物語は今までもありました。

しかし、貫也と里子はおそらく互いに相手のことを好きだという気持ちを持っているのだと思います。

だからこそ、里子は貫也の浮気がバレたとき、とても怒ったわけです。

しかし、しかしです。

その後里子主導により、貫也に結婚詐欺を始めるわけです。

愛する夫が他の女を抱くことにより、お金を稼ぐことを妻が主導する。

この心理は何でしょう。

この映画は、その里子の心理の謎解きをするわけではありません。

前段で書いたように、映画は里子の行動を淡々と追っていきます。

観ている側はそれを観て、想像するしかありません。

弱気な夫を助けるためには、再びお店を開く資金がいる。

ただそのような資金はおいそれと簡単に用意できるものでもありません。

だからこその結婚詐欺であったのです。

里子は、夫が他の女を抱くということに耐えるということとの苦しみと引き換えに、夫の夢である店を開くための結婚詐欺を行ったのでしょうか。

ところどころ描写が入りつつも、明確な説明がなかった部分があります。

里子はどうも女性特有の病気になっていたのではないかと思われます。

ガンの本を読んでいたり、トイレでため息をついてみたり。

もしかすると夫婦の営みといったものもその病気のためにできていないかもしれません。

里子が自分で自分を慰めるシーンがありましたが、それを夫とそういったことがないことを表していたように思います。

里子は、妻としての役割を果たせていないという後ろめたさをもっていたのかもしれません。

そのため夫が他の女を抱くことにもじっと耐えたのではないかと。

夫はお金のために女を抱いているのであって、決して本気ではないということを免罪符にして。

しかし、貫也が本気で木下に情を移しそうになったとき、里子は感情が暴走しそうになります。

里子はあのときは、ほとんど冷静に考えることはできなかったでしょう。

自分が何を考えているか、里子自身もわからなかったのかもしれません。

貫也は自分ができの悪い夫であることを自覚しています。

そのため里子に貧乏くじをひかせてしまったのではなかったのではないかと悔やみます。

貫也も里子のことを愛しているのだと思います。

うまくいかない自分が唯一うまくいったのが、結婚詐欺。

それについては相手の女性を傷つけるし、また里子に対しても後ろめたさはある。

けれど貫也にとっては苦労をかけている里子に対して報いる唯一の方法であったわけです。

結婚詐欺は里子に対しての愛情の表れでもあるけれど、その行為が里子を大きく傷つけるものでもあったわけですが。

里子はたぶん結婚詐欺については自分の感情を封印するということにしたのだと思います。

だから里子は終止無表情だったり、作った笑顔をしている。

貫也はそういった里子がおそろしくもあったりするわけで、だからこそ木下のところへ逃げ込もうとしたわけです。

木下のところへ行く前に、貫也は里子の心理について「おまえはこうだ」と言うシーンがあります。

それはそれで説得力のある内容ではあったのですが、里子の心の本質ではなかったのではないかと思います。

だからこそ里子は自分のことをわかってくれていない貫也に怒りを感じたのでしょう。

結局、貫也は刑務所に入ります。

しかし里子はシャバにいることから、彼の罪は子供をかばった傷害罪であったのだろうと推察されます。

結婚詐欺については公にはされなかったのでしょう。

時が流れ、貫也がだました女性たちはそれぞれの時間が流れていきます。

大幸福というわけではないでしょうが、それぞれのたった一つの時間が流れています。

その中に、一瞬だけ輝きをもたらした貫也の入り込む余地はないのです。

里子はひとり北国の漁港で黙々と働いています。

彼女が働く港のかもめの声が聞こえます。

そしてそのかもめの声は貫也が入っている刑務所の中でも聞こえます。

そう、里子は貫也の入っている刑務所の近くで暮らしているのです。

貫也が刑期を終えて出てきたときに、彼を出迎えるのは里子のみなのでしょう。

里子がずっと貫也を愛し続けているというのはこのシーンで確信をしました。

それを全体に物語を振り返ってきたというのが、つらつらと書いてきたレビューです。

貫也にしても、里子にしてもお互いに愛情は感じているのですが、結婚詐欺を行い始めてから思いのすれ違いのようなことが起こりました。

けれどふたりの思いというのは結局はいろんなことがあっても変わらなかったということなのでしょうね。

里子役というのは難役であったと思いますが、松たか子さんは素晴らしかったですね。

「告白」の教師役もすごかったですが、本作でも存在感があります。

汚れ役に近いような役柄ですが、彼女が演じるとある種の生々しさを出しながらも、一線を越えないような品の良さがあります。

このバランスは他の女優さんじゃ、あまりないなと思いました。

阿部サダヲさんとふたりで、しっかりと芝居を魅せてくれる作品でした。

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2011年2月11日 (金)

「洋菓子店コアンドル」 直球な女

主人公なつめ(蒼井優さん)は思ったことをそのまま口に出し、そして思ったことにまっしぐらに突進していく女性です。
ど真ん中直球な物言いは、人によっては「カチン」とくるように受け止められるかもしれません。
正直、こんな子が自分の近くにいたら僕は「カチン」ときてるでしょう。
でもそれはなつめが自分の思うことにとっても正直で忠実だからなんですよね。
思えば人ってのは、いろんな付き合いがあったり、しがらみがあったりで、自分が思ったことを呑み込んでしまったりするものです。
そのまま口にしていたら、なつめが周囲をザワザワさせたように、やはり人間関係に波風がたってしまうでしょう。
でもあまりに呑み込みすぎてはないかい?とも思ったりもします。
なんとなくベールで包んだような言葉で話していると、そこには見えない壁みたいなものもできていたりするんですよね。
都会で孤独に感じる人が増えているっていうのは、そういう気を使いすぎてできている壁みたいなものがあるからかもしれません。
そういう壁をなつめはズケズケと突破して侵入してきます。
それがウザかったりするわけですが、けれど彼女自身も開けっぴろげで壁などないことがわかります。
そういう壁のなさ、みたいなものが心地よいのかもしれません。
十村も子供の事故以降、周囲に壁を作っていた人間の一人です。
なつめは彼の壁も直球で正面突破し、頑な彼の心を解きほぐすのです。

蒼井優さんは、そんななつめにぴったりの配役であったと思います。
彼女の女優としての素晴らしさというのは、他の作品でもそうなのですが、まるですっぴんのように見えるということ。
テクニカルに作り込んだ役作りというのとは違う、またその人になりきってしまうようなカメレオン系の女優さんとも違う。
うまく言えないのですけれど、彼女がある役をやっているとき、蒼井優という人の素というのはこの役なのではないかと思わせるところなんですよね。
それだけに役に自然であるということなのかもしれません。
この作品のなつめという役は、ちょっとKYな女の子で、大いに怒り、大いに泣き、大いに笑う、自分の気持ちに素直な子。
その怒っているときの表情や、泣き顔、微笑みなどがすべて、なつめという女の子がそのように感じているからしている表情っていう感じがするんですよね。
普通の女優だったら、演じているとき見られる視線というのを気にした上での、怒り、泣き、笑いの表情をするのだと思うのですが、彼女の場合はほんとにすっぴんの表情を見せているような感じなのです。
当然、演技なわけなのですが、演技っていうのを越えちゃっているように見せるというのが、蒼井優という女優のすごさなのかもしれません。

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2010年8月15日 (日)

「ヤギと男と男と壁と」 エスパーでソルジャーがラブでピース?

ジョージー・クルーニー、ジェフ・ブリッジス、ユアン・マクレガー、ケヴィン・スペイシー。
なんという錚々たる顔ぶれ・・・。
アメリカ軍には実際に超能力部隊というのがあったらしいです。
トンデモネタでも、アメコミでもなくって、ほんとうに。
この手のネタは僕的にはけっこうツボで、そういう彼らの(ほんとに)特殊な活動を映画化したのが本作品で、上のメンバーですから期待しないわけにはいかないでしょう。

ユアン・マクレガー演じる地方紙の記者ボブは、あるきっかけでアメリカ軍にある超能力舞台の存在を知ります。
そしてその部隊に在籍していたというキャシディ(ジョージー・クルーニー)と、偶然知り合いその取材を敢行します。
彼らは「キラキラ眼」で"遠隔視”をしたり、ヤギ(タイトルのヤギはこれ)を睨み殺したり(いわゆる「邪眼」というやつか?)する訓練を行っているといいます。
これがほんとなのか、うそなのか、映画の中ではよくわかりません。
わかるのはキャシディを含め、超能力部隊のメンバーは超大真面目っていうこと。
ちなみにキャシディはボブ(ユアン・マクレガー)に自分たち超能力部隊兵士のことを"ジェダイ"と言っています。
ここは映画ファンとしてはクスリと笑うとこなのでしょう。
そもそもその超能力部隊はベトナム戦争を経験した後、ビル・ジャンゴ(ジェフ・ブリッジス)が作り上げた部隊。
その部隊の設立の考え方には時代を映し出してか、ニューエイジ思想というか、ラブ&ピースの思想が色濃くなっています。
そもそもニューエイジ思想というのは、ベトナム戦争を経て芽生えてきたものであって、それってアメリカ軍とは基本的にものの考え方が違うんじゃないのというところのほうが、超能力部隊云々よりもトンデモで興味深い感じがします。
ニューエイジ思想っていうのは、スピリチュアルな視点で基本的に国とかを超越して、世界は一つだと考えるものですよね。
そんな中で超自然的な存在とか、超能力への憧憬みたいなものが生まれたわけです(日本でいったら雑誌「ムー」はそういう時代を背景に出版されたのだと思います)。
で、アメリカ軍ていうのは文字通りアメリカという国家の国益のために存在するわけです。
国家の軍とニューエイジ思想って真反対の考え方だと思うのですが、そのあたりを許容しちゃったりするところがアメリカという国の懐が深いところ?なのかしらん。
この作品は実在した超能力部隊のトンデモ感というより、この思想のチグハグ感を楽しむ作品なのかもしれないです。

で、楽しめたかというと。
うーむ、いまいち?
途中ちょっと意識不明になってしまったし(昨日飲み過ぎ?)。
そもそも世代的にニューエイジ思想とかヒッピーとかは知識として知っているだけで、その時代の空気を知っているわけではないので、なんとも感想を書きづらい。
その時代を生きた団塊の世代あたりの方が観たら、違う感想があるかもしれません。
ズレた超能力部隊のメンバーが醸し出すクセのある笑いがある作品か、もしくはナンセンス系の映画ともともと思っていたので、ちょっと予想と違うテイストだったのでとまどったのかもしれません。
もっと奇妙キテレツな作品かと思っていたのですが、思いのほか普通に感じてしまいました。

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2010年7月17日 (土)

「ユニバーサル・ソルジャー:リジェネレーション」 ヴァン・ダムの背中が哀しい

第一作目の「ユニバーサル・ソルジャー」は世界を破壊し続ける男ローランド・エメリッヒのハリウッドデビュー作です。
そのころから細かいことは気にしないエメリッヒ節で大味でいかにもB級といった感じの作品に仕上がっておりました。
マニアならいざしらず、作品としてもことさらとりたてるところもないものなので、「ユニバーサル・ソルジャー」の続編が作られると聞いてびっくり。
何をいまさら!
とは言いながら、ジャン=クロード・ヴァン・ダムも、そしてドルフ・ラングレンも出るということで、これは観に行かなければならないと。
ドルフ・ラングレンの演じていたスコット、前作のラストでコンバインでミンチになってなかったっけ?なんて疑問も湧いたりして。

もともと第一作もB級だったけど。
続編である本作はその下をくぐってC級、D級でした。
脚本もグダグダ、演出もグダグダ。
脚本のあら探しは書くときりがないので書きません。
スコットがなぜ冷凍保存してあったのか、潔いくらい説明はありません(それともあまりのダラダラ感に耐えられずしばらく気を失っていた間にあったのかな)。
セットやロケもちゃちいのです。
ずっと廃工場での展開で、これが元原子力施設にはどうやって見えないのだなあ。
日本のテレビの特撮番組の方がよほど凝っていると思います。
アクションも見せ場なし。
ヴァン・ダムもドルフ・ラングレンのVSもけっこうあっさりなのですよ。
何を観に行ったかって、これが目的だったのに。
二人のアクションが動けない感が漂っていてなにか哀しいのです。
二人とも動きが鈍いのよ、哀しいけれど。
激しいシーンは吹き替えっぽいし。
(マッチョ祭りの「エクスペンダブルズ」はちゃんとアクションしているよね?ちょっと心配)

ということで珍しいくらいまったく見所なしの映画にできあがっていて、かえってびっくりです。
いつもは何か良いところみつけようとするのですが、見つからなかった。
残念ながら。

ラスト、なんだか知らないうちに敵を倒して、爆弾も止めて去っていくヴァン・ダムの背中が何故か哀しく見えるのは、僕だけ?
この映画を観た後に「その男、ヴァン・ダム」を観ると、さらに年老いていくことの哀しさが味わえるのでそういう気分になりたい方はどうぞ(いるか、そんな人!)。

「ユニバーサル・ソルジャー」第一作の記事はこちら→
「その男、ヴァン・ダム」の記事はこちら→

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2010年1月 3日 (日)

「よなよなペンギン」 りんたろう監督らしい映像と音

好きなアニメーション監督の一人、りんたろうさんが久しぶりに監督するということで観に行ってきました。
りんたろうさんと言えば、「銀河鉄道999」や「幻魔大戦」という作品があがるかと思いますが、僕は「カムイの剣」という作品が好き。
こちらについてはいずれこちらのブログでご紹介したいと思います。

さて本作「よなよなペンギン」についてです。
こちらの作品は日仏合作で14億円もの製作費で作られた3DCGアニメです。
本作は亡き父親が言ったペンギンも空を飛ぶことができると信じているココが、ひょんなことからゴブリンの国を訪れ、そしてその世界を救うというおとぎ話です。
それほど新味のあるストーリーではありません。
どちらかというとどこの国にもあるおとぎ話です。
世界観も和洋折衷のような感じであり、日本でもフランスでも子供たちに受け入れられることを狙っているのかもしれません。
ややそういう意味では個性が強くない作品に思えました。
3DCGアニメは、アメリカでも日本でも何本もの作品が作られている中で、映像技術的には本作が群を抜いてすばらしいわけでもありません。
テクニカルな部分ではピクサー作品の方が数段上という印象を受けました。

僕はりんたろう監督の優れた点というのは、光と音の使い方だと思っています。
セルアニメの時、透過光というテクニックがありました。
これはセルを撮影するときに光を透過させて、べた塗りの部分とは異なる光を表現する手法です。
この使い方が非常に上手い監督でした。
例えば「銀河鉄道999」の999の機関車上部のライトの表現とか、「幻魔大戦」でのベガの登場シーンとか爆発シーンの部分とか。
基本的にデジタルアニメではセル撮影がないため透過光というテクニックは使えませんが、やはりりんたろう監督は光の使い方についてはこだわっていたと思います。
あと音については、監督は音楽や音のサウンド系と映像のシンクロについてはこだわりを持っていると思います。
「カムイの剣」での竜童組の音楽と映像のシンクロは一見一聴の価値ありです。
本作もほとんどのシーンは背景音楽があり、映像だけでなく音で物語を語っているということがわかります。
ストーリー上も音は重要なファクターとなっていましたね。

作品としてはちょっともの足りない印象を持ちましたが、やはりりんたろう監督の作品であるなと、らしさを感じたりもしました。

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2009年8月 2日 (日)

「ゆれる」 「檻」の囚われ人

「ディア・ドクター」の記事を書いたとき、同じ西川美和監督の「ゆれる」を未見と書いたら、みなさまから「良いよ!」とお薦めいただいたので、さっそく観てみました。
みなさんがお薦めしてくれるのがわかりました。
本作、とても良かったです。

「ディア・ドクター」を観たときにも思ったのですが、西川監督は物語の登場人物の気持ちについて、台詞やNAなどでいちいち細かく説明をしないんですよね。
「ディア・ドクター」の時にrose_chocolatさんからもコメントいただきましたが、何気ない情景描写で登場人物の心理をさりげなく暗示しているんです。
なのでその登場人物が何を思っているのか、感じているのかというのを、観ている僕たちが想像する余白があるんですよね。
なので本作は登場人物についていろいろな解釈ができるように思えます。
本作で深いキャラクターだと思ったのは、主人公猛(オダギリジョーさん)ではなく、その兄の稔(香川照之さん)でした。
真面目で、やさしくて、正直で、と誰にも言われる稔。
彼が何を思い、どうしてそのような行動をしたのか、僕なりに想像しました。

<ラストに触れるところがあるのでここから先は注意です>

稔と猛の生まれ故郷は、山梨のそれほど大きくない町。
家業のガソリンスタンドは稔が継ぎ、猛は飛び出すように家を出て東京でカメラマンをやっています。
猛はその町がいやでいやしょうがなかったのでしょう。
ずっとつまらない人生を送ってしまいそうな気がして。
けれどもそれは兄の稔が、家を継いでくれたからこそできたことでもあったわけです。
稔もそのような変化のない人生を好んで歩みたいと思ったわけではないように思われます。
時々、うちに秘めた不満が爆発するかのようなところからそれが窺われます。
けれど惰性だったり、踏ん切りがつかなかったりといったことがあって、仕方がないと思って人生を歩んできたように思いました。
なんとなく期待される「いい人」であらねばならないと思ってきているような感じがしました。
そんなときに起きた「事件」。
猛の視点で、稔の事件の裁判が語られて、猛の兄を思う気持ちとその生き方を否定する気持ち、そして自分自身の罪の意識と保身の意識との「ゆれる」気持ちを描いていきます。
けれど稔からすればその「事件」は千載一遇のチャンスであったのではないかと思いました。
彼は「檻」に囚われた人であったのです。
その「檻」とは生まれ故郷であり、家業のガソリンスタンドであり、老いが見え始めている親であります。
もっと別の可能性もあったかもしれないのに、いつの間にか「檻」に囚われている。
稔からすれば、その「檻」から早くに脱出した弟は、憎しみの対象ですらあったかもしれません。
けれどこの「事件」は稔を囲っている「檻」から脱出するための鍵となります。
自分をつなぎ止めていた鎖は、「事件」によって断ち切られる。
故郷との鎖も、家業との鎖も、家族との鎖も。
自分が犯していない罪を償うために7年間監獄の中で暮らすということも、実は稔にとってはどうということもなかったのかもしれません。
なぜなら収監されなければ、ずっとこれからも自分を閉じ込めている「檻」から脱出できなかったであろうからです。
いつの間にかその「檻」に閉じ込められたまま、老いて死んでいく。
たった7年間という気持ちであったかもしれません。
ラストで稔がバスに乗り込む時の表情がとても印象深く思えました。
やっと自由になれるという喜びがそこには感じられました。

なんというか、こういう風に想像させさせてくれる余白を持たせてくれる西川美和監督は素晴らしい。
こうなったら「蛇イチゴ」も観なくては。

西川美和監督作品「ディア・ドクター」の記事はこちら→

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2009年3月 7日 (土)

「ヤッターマン」 ディテールへのこだわりはあるが・・・

オリジナルのアニメが放映されていた時は小学生、思いっきり「ヤッターマン」世代です。
「豚もおだてりゃ木に登る」「ポチッとな」「全国の女子高生のみなさーん」「今週のビックリドッキリメカ」などなど、「ヤッターマン」の中のフレーズが映像とともに浮かんできます。
その「ヤッターマン」が実写映画化という情報が出たのは、もう1年以上も前ですよね。
「どんなふうになるのだろう?』と驚きましたが、監督は三池崇史さんということで、なんだかおもしろそうな作品ができるのではと密かに期待しておりました。
期待したのは早くに発表されていたキャスティング。
ヤッターマン1号ことガンちゃんは櫻井翔さん。
アニメのガンちゃんと風貌も似ているし、カッコ良くもコメディっぽくも演じられるので、これはぴったりだと思っていました。
なんといってもぴったりだと思ったのは、ドロンボー一味の一人ボヤッキーを演じる生瀬勝久さん。
キャスティングが発表されたときから、ボヤッキーの生き写し(!?)と思っていましたが、やはり本作見てみるとやはりその通りでした。
ドロンジョの深田恭子さんは若すぎるかなと思いましたが、あの衣装も似合っていましたし、映画版はガンちゃんとの絡みもあったので、思いのほか良かったように思います。
もう少し声に艶っぽさがあると良かったですけれども。

アニメ版のおなじみのシーンが、きちんと映画版にも取り入れられていましたので、子供の頃好きで見ていた自分としては、この点については満足。
「メカの素」→「解説しよう!」→「ビックリドッキリメカ」はそのまんまでしたね。
この場面はアニメ版の時から楽しくて好きなんですよ。
あと子供のときヤッターマン2号ことアイちゃんの変身のシーンはなんだかドキドキしていましたが、みなさんはそんなことありませんでした?
本作作っているスタッフもオリジナルを見ていたとき同じように感じてたと思うんですよね。
なんとなく本作でもそんなテイストでてます(笑)。
衣装や美術はアニメ版のテイストを活かしつつ、今風に実写用にリファインした感じでよかったと思います。
「キューティー・ハニー」の実写版に雰囲気似ているなと思ったら、衣装デザインは同じ寺田克也さんでした。
劇伴もアニメ版の曲を多く使い、リファインをしていました。
音楽のイメージというのは、けっこう残っているものなので、このあたり昔のアニメ版を知っている人は嬉しいんじゃないでしょうか。
本作、このようにアニメ版のイメージを上手く引き継ごうという工夫をしています。
「20世紀少年」が個性のある堤監督が自分のテイストを押さえつつ原作の完コピを目指しましたが、本作の監督はやはりクセのある三池崇史さんですが、監督の持ち味みたいなものが所々でていたように思えます。
このあたりのテイストは好き好きなので、苦手な人はいるかもしれませんが、僕は好きだったりします。
ただ全体として本作の出来がいいかというとそれほどではないような気がします。
ディテールとしてはアニメをよく観ていた自分、三池監督のファンである自分すると満足するところがたくさんあるのですが、全体としてはどうも強い印象が残らない。
三池監督は「クローズZERO」とか「龍が如く」とか漫画やゲーム等のオリジナリティのある世界観のある原作を自分の中で消化して、自分の色を付けた作品にするのが上手な監督だと思っています。
けれども「ヤッターマン」はなかなかに調理しにくい題材だったのかもしれません。
「キャシャーン」「スピード・レーサー」など、最近竜の子プロの作品は多く実写化されていますが、成功しているとは言いがたい。
「キューティー・ハニー」などもどうですね。
これらはそれぞれオリジナルがカルト的なファンを持つということが共通です。
長い間ファンを持ちつづけるということは、それだけ実は作品がディテールまで凝った作りになっていて追求すればするほど深みがあるということになると思います。
実写化する時、多くのファンがいるためそのディテールに気が回しすぎると、全体として何かが抜けてしまいやすくなるのかもしれません。
それは映画版としてのメッセージみたいなものかもしれません。
そのあたりの主張が、ディテールへのこだわりで感じられにくくなっているのが、印象の弱さに繋がっているのかもしれないです。
特にオリジナル「ヤッターマン」はそのようなディテールの非常に密度が濃い作品です。
そのディテールを実写化するための消化で息切れしてしまったような感じがします。
なかなかアニメや漫画の実写化というのは、難しいですね。
竜の子プロ作品では「ガッチャマン」も実写化予定だとか。
こちらは「ヤッターマン」以上に映画化するのは難物かもしれないです。
それでも期待してしまうのですけれど。

三池崇史監督作品「龍が如く<劇場版>」の記事はこちら→
三池崇史監督作品「スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ」の記事はこちら→
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