2023年3月 8日 (水)

「湯道」湯の道

タイトルの「湯道」というのは、本作の脚本家である小山薫堂さんが提唱している概念ですが、茶道、花道、香道、柔道、剣道と、文武問わず、とかく日本の文化には「道」という言葉がつくものが多い。
「道」という言葉を辞書で調べると、「芸術・技芸などのそれぞれの分野」などと出てきますが、これはあることの極みに達する道のりということを表しているのでしょう。
茶を飲む、花を生けるという行為は誰でもできますが、その行為の意味を考え、その意味に基づき所作を洗練させていき、極限までに突き詰めていくことが「道」なのでしょう。
行為の意味を極めるということは、自分と他者・環境の関係性を突き詰めて考えるということでもあるかと思います。
「道」は思想でもあるのでしょう。
特に日本人は自分と自然という関係性を深く考えてきた民族であると思います。
小山薫堂さんは諸外国に比べても「お風呂に入る」という行為が好きな日本人の文化が、自分と自然との関係性を見つめる行為として昇華できると考えているのでしょうか。
「道」は個人個人の行為の本質を突き詰めていく中で、意味を象徴的に表した所作、「型」というものに行き着きます。
本作でも「湯道」のさまざまな所作が紹介されていますね(フィクションですが)。
本来は「型」には意味がありますが、えてしてその型ばかり
を追求し、その心が抜けてしまうこともあります。
本作に登場する温泉評論家は温泉を極めて、「温泉は掛け流し」しか認めないという極端な考えを持っています。
しかし、なぜ湯に浸かるのかという行為の意味を見失っています。
お湯に入る時、人は何も身につけず、心を全て解放できる。
そして心の中から温まり、気持ちいいと思う。
だからこそ素直になれる。
そういったお風呂の意味合いを彼は忘れてしまい、スペックだけに気を取られてしまっているのですね。
本作に登場する「湯道」の家元も、そしてその後を継ぐ弟もお風呂の意味合いというものを理解しています。
所作や作法はその意味を表している象徴でしかない。
また「道」の危険なところは、別の考えを認めにくいということもあります。
上で書いたように道は思想なので、違う思想は受け入れにくい。
しかし、そもそもは誰でもできる行為なわけなので、それぞれのやり方があって良いはず。
意味を極めていく中で、型に収斂されていくわけですが、それだけが正しいというわけではありません。
本質的には多様であるわけです。
本作にはたくさんの登場人物が出てきますが、それぞれのお風呂の楽しみ方が描かれています。
その多様性も真実の姿であるとも思います。
小山薫堂さんは食にも造詣が深く、さまざまな著作があります。
食もそうですが、お風呂も誰もが毎日行うことです。
また小山さんは「おくりびと」で誰もが経験する大切なひとを送るという行為も描いています。
小山さんは誰もが経験する行為の本当の意味というものを考え続けている方なのかもしれません。

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2021年8月30日 (月)

「妖怪大戦争 ガーディアンズ」 あまりにいい子

2005年に公開された「妖怪大戦争」の続編で、同じく三池崇史監督です。
前作も個人的には高い評価とは言い難かったのですが、本作についても同様の印象です。
それでも前作は主人公の少年が成長していく過程が描かれているので共感性はあったのですが、本作の主人公ケイとその弟ダイはあまりにいい子であって隙がありません。
ケイは妖怪に攫われた弟のために後を追いますし、その道程で自分を襲ってきた鬼に対しても寛容な姿勢をとります。
弟のダイも兄を助けるために、恐ろしい大魔神を目覚めさせるための贄になろうとします。
あまりに出来すぎた子供たちなので、愛するための隙がなく、彼らの存在こそがファンタジーな感じがしてしまいました。
心清き二人の兄弟がある意味全ての出来事に対してのワイルドカードのように都合よく使われている感じがしました。
都合の良い感じがしたのは、全体的に盛り込まれた要素が多く、そしてそれらがうまく物語の中で構成されているような気がしなかったことによるかと思います。
収拾できずに、彼らの清き心によって鎮まったという形で全て収めているような印象でした。
東京を目指す妖怪獣に対抗するのは、兄を思うダイの心によって目覚めた大魔神です。
そしてその大魔神が暴走した時には、弟を庇うケイの行動により、大魔神は鎮まりました。
ファンタジーですから、この点についてあまり言うのもなんなのですが、安易さは禁じえません。
目覚めた大きな力を利用して、首都東京を破壊すると言うプロットは、本作でも製作者に名を連ねている荒俣宏さんの「帝都物語」でも繰り返し出てくるものです。
首都破壊を目指すのは日本の先住民族の末裔である加藤保憲です。
彼は国を奪われた者たちの恨みにより生きながらえ、天孫へ恨みを持ちつつ関東で首を刎ねられた将門を目覚めさせ、その絶大なる力により、東京を破壊しようとするのです。
本作もまさにその繰り返しではあるのですが、今回の東京壊滅を行うものが妖怪獣という存在であることがちょっと迫力不足でした。
オープニングで説明されたように妖怪獣は日本が海だった古代に陸地で化石になった海の生物たちが海へ戻りたいという気持ちによって生み出されたものらしい。
今までの「帝都物語」と比べると、あまりに弱々しい。
もっと禍々しさのようなものがあってもよかった。
またこのプロットでは加藤の存在が欠かせないような気がしていたが、最後の最後に登場してきた。
ファンサービスのような感じではあったが、どうせ出すならもっと物語の中心にしっかりと絡んだ出し方をしたほうが断然面白くなるような気がしました。

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2021年2月 5日 (金)

「ヤクザと家族 The Family」 親子って何だろう?

親子って何だろう?
家族って何だろう?
自分にも娘がいて、理屈を越えて彼女のことを愛しいと思う。
それは血が繋がっているから?
血が繋がっていても、昨今は虐待という悲劇もよく聞くし、子が親を憎むという話も耳にする。
子は親を選べないと言われる。
ヤクザの世界では親子の契りというものがある。
元は他人同士ではあるが、親子の絆をお互いに結び合うのだ。
本作の主人公山本は父親を覚醒剤で亡くす。
しかし、山本自身はその親をクソ野郎と呼ぶ。
そして彼は自分を拾ってくれたヤクザの組長である柴崎と親子の契りを結ぶ。
柴崎は本当の息子のように山本を気遣い、山本を柴崎を慕う。
本当の親子以上に。
親子というのは血の繋がりではなく、互いが相手をどれほどに思っているのかということなのか。
けれどもそうとも言い切れない。
山本は刑期を終えて出所した時に、自分に娘がいたことを知る。
彼はヤクザをやめた後、愛した女性と娘と一緒に暮らすようになる。
その時間違いなく山本は娘のことを愛おしく思った。
これは理屈抜きに湧き上がる血の繋がりによる愛情なのだろう。
山本が子供の頃から可愛がってきた翼は親のことは知らないが、その親を殺した人物を知る。
翼は親のことは覚えてはいないが、親の仇を討とうと相手を襲撃しようとする。
これも血の繋がりによる愛情だろうか。
そもそも山本も親の仇であるクスリの売人を半殺しにしていた。
親子って何だろう?
血の繋がり?
それとも互いの想い?
どれが正解なのかなどないのだろう。
確かに血が繋がっていようとなかろうと、親子、家族の間には何か特別な絆がある。
親、子という役割というのではなく、この人間でなくてはならないという特別な何か。
他の誰かには代えられない絆。
かけがえのない絆。
それを感じられる関係が親子であり、家族なのかもしれない。

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2020年12月31日 (木)

「約束のネバーランド」 行ってらっしゃい

2020年大晦日、浜辺美波さん主演の「約束のネバーランド」を見に行ってきました。
本作は少年ジャンプで連載していた人気漫画の実写化作品ということですが、いつもの通り原作は未読です(笑)。
ですので、キャラの再現性は原作ファンから色々意見はある様ですが、私はあまり気にはなりませんでした。
どちらかというと核となる3人の設定が15歳ということだったのですが、この3人がどうしても同じ年齢には見えなかったところにしばらく違和感を感じていました。
浜辺さん、板垣くんは実年齢よりも若く見えるのでなんとか15歳に見ようと思えば見えたのですが、レイ役の城くんはもう少し幼く見えてしまったのですよね。
もう少し大人っぽい子でも良かったかもしれません。
浜辺さんの演技力は申し分なしで、板垣くんは「ジオウ」のウール役で知っていましたが、本作での演技は一皮剥けた感があり、とても上手いなと思いました。
原作未読のため先の展開はわからない中での鑑賞であったぶん、とてもハラハラしながら見れました。
3人の少年少女はとても知能レベルが高いという設定で、そして彼らを管理するイザベラも非常に頭が良い。
彼らが仲間を含めて欺きながら、脱出を計画しようとし、また阻止しようとするやりとりは少年漫画原作とは思えない、緻密な構成となっていたと思います。
最近の少年漫画はレベルが高いですね。
昨日書いた「えんとつ町のプペル」もそうでしたが、本作も与えられた価値観への反逆というお話ですね。
さらにはこれは子供がいつか親元を離れ、自分の生き方を決めていくということを描いています。
原作では最後のシーンにはイザベラは間に合っていなかった様ですが、本作での彼女の「行ってらっしゃい」は印象的でした。
彼女は彼女なりに子供たちの幸せは願っていた。
世の中の仕組みは変えられない中で、生ある限りは幸せに過ごさせてやりたい。
歪んではいますが、彼女なりの子供たちへの愛情であったのでしょう。
彼女は恐ろしい世界から彼らの幸せを守っているという気持ちであったのかもしれません。
けれどそれは彼女の価値観であり、そこから子供たちは自分の価値観で飛び立とうとします。
それはなかなか彼女にとっては受け入れ難いこと。
けれども親はいつだってそれを最後には受け入れなくてはいけない。
それが最後の「行ってらっしゃい」という言葉にあらわれているように思いました。
私にも幼い娘がいますが、やはり色々心配してしまって「危ないから・・・してはだめ」と言ってしまいがちです。
ですが、彼女もいつかそれを振り解いて旅立つ時がくるのでしょう。
自分は素直に「行ってらっしゃい」と言えるかな。

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2018年7月 7日 (土)

「焼肉ドラゴン」 家族のアイデンティティー

人間、何か自分のアイデンティティーが寄って立つものが必要なものです。
それは国であったり、会社であったり、家族であったり。
日本人などはやはり日本人であること、というのがアイデンティティーが寄って立つ柱の一つであると思うんですよね。
どの国の国民もそうだと思うのですが。
この物語の中心となる家族は、戦前に日本に連れてこられそしてそのまま日本に住むことになった朝鮮半島の人々。
いわゆる在日と呼ばれる方たちです。
彼らは想像すると、複雑なアイデンティティーを持っていると思うのですよね。
朝鮮民族であり、祖国に暮らす人々と文化を共有はしているけれども、やはり彼らと在日では置かれている環境が違うため、全く一つの価値観というわけではない。
また半島では同じ民族が二つの国に分かれている。
日本で暮らしているからといって日本人として扱われるわけでもなく、差別は受けている。
同じような環境に置かれ、共感を感じられる人々が非常に少ないマイノリティです。
だから、そういう境遇だからこそ、家族というものが非常に濃い存在になるのかもしれないです。
「焼肉ドラゴン」を切り盛りする龍吉は戦前に日本に連れてこられたが、故郷は戦争により壊滅して、家族みんなを失ってしまいました。
彼は妻と子供たちと日本で生きていくことを決めました。
子供たちは韓国語を話すことはできず、日本語しか話せません。
日本自体も戦後の復興期で、今までの価値観が大きく変わっていく時代でした。
そのような時代、龍吉はただ黙々と働き続けてきました。
小さくとも自分たち家族のいる場所を守り続けるために。
彼にとって家族だけが自分のアイデンティティーの拠り所だったのでしょう。
韓国も北朝鮮も日本も、彼の拠り所ではない。
彼にとっては家族だけ。
彼は日頃無口ですが、彼が話すときは全て家族に関する重要な場面なのですよね。
家族のことをどれだけ大切に思い、それこそが彼の全てであるかのように。
だから長男の自殺はショックであったに違いありません。
在日にとって暮らしやすいわけではない日本の環境。
差別に対抗するには、それに対抗できる実力(学力・経歴)を身につけなくてはいけない。
だからこそ長男にも頑張るように言っていたのだと思うのですが、それが息子を追い込んでしまった。
家族のために良かれと思ったのに・・・。
彼にとってはアイデンティティーが揺らぐような出来事であったと思うのですよね。
そういうことがあったからこそ、3人の娘がそれぞれの道を選んでいくとき、彼は何よりも彼女たちの気持ちを優先させた。
彼にとっては家族の幸せこそが全てであり、幸せは自分で進む道を選ぶことであると気づいたのかもしれません。
彼も若い頃に日本に強制的に連れてこられ、そして家族もそして腕も失ってしまった。
自分では道を選べなかったわけです。
息子も結果的には自分で道を選べず、追い込まれてしまった。
最後にオモニが言っていたように、家族の行く道は違うけれど、家族は繋がっているわけです。
進む道は違うけれどそれをそれぞれが選んだのであれば、辛いことがあっても幸せであるはず。
結果、彼らはそういう思いを共通に持ち、それが彼ら家族のアイデンティティーになっていくのかもしれません。

父親の龍吉役をやったキム・サンホさんの演技が素晴らしく、彼中心の視点で記事を書きました。
オモニ役のイ・ジョンウンさんもそうですが、韓国の俳優さんは演技うまいですよね。

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2015年7月 5日 (日)

「予告犯」 「区別」する側の態度の蔓延

前作の「白ゆき姫殺人事件」ではネットに溢れる匿名のつぶやきが根拠のない「真実」を作り出していく怖さを中村義洋監督は描きました。
本作「予告犯」でも、犯人グループらの行動によりネットの世論が方向付けられていく様子が描写されます。
そういう点においては、本作は前作の「白ゆき姫殺人事件」の延長線上にあるとも言えますが(「ゴールデンスランバー」もこの線上かもしれません)、僕は本作は中村監督のデビュー作「アヒルと鴨のコインロッカー」と同じような雰囲気を感じました。
ある事件が起こる。
その事件の背景を明かしていく中で、犯人らの背景にある悲しい事実が浮かび上がっていく。
この二つの作品では、犯人はある意味、社会から脱落してしまった者と言えます。
本人たちがどうこうということだけでなく、生まれた時の境遇やその後の立場からなどから、社会からあぶれてしまった。
しかしそういった差別や区別というものは、いったんレッテル化してしまうと、本人たちががんばったと言ってもそれをなかなか覆すことはできません。
格差社会、二極化と言われて久しいですが、それが固定化してしまっているのが社会の課題なのでしょう。
奥野の回想シーンにある事務所のシーンは見ていて、辛くなってしまう場面です。
自分とは違うもの(往往にして自分たちよりも社会的な立場が低い者)を「区別」という態度は、自分自身の立場を安泰なものであると認識しているためにやっているのかもしれません。
それが側から見ると、とてもいやらしく醜く見えてしまいます。
しかし、これほど露骨でないにしても、少なからず似通った場面というのは社会の中でもありますよね。
自分だってやっているかもしれないという怖さもあります。
そういった「区別」をする態度が「アヒルと鴨のコインロッカー」が作られたときよりも、今の方がより多く現れているかもしれません。
自分の立場に自信が持てない人が増えてきているのでしょうか。
だから自分よりも立場が低い人々を「区別」しようとする。
ネット上での匿名での無責任なつぶやきも、同様な気持ちから発生しているかもしれません(そういう意味では「白ゆき姫殺人事件」も通じる)。
「区別」される側である4人の友情が切ないです。
この切なさは「アヒルと鴨のコインロッカー」のときにも感じたものでした。
「区別」される者同士での、友情、思いやり。
誰かのために何かをしてあげられるならば、自分のことを犠牲にしてもいいという気持ち。
「アヒルと鴨のコインロッカー」のドルジも亡くなってしまった友人のために行動をしました。
さきほど書いた「区別」する側の態度は、そのことにより自分の立場を安泰と考えたいという自分中心の者考え方でした。
4人組の行動は、自分のためではなく誰かのためのもの。
彼らの行動が尊く見えるのは、「区別」する側の態度が現代には蔓延しているからかもしれません。

「アヒルと鴨のコインロッカー」の記事はこちら→

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2013年9月14日 (土)

「許されざる者(2013)」 背中に負う十字架

クリント・イーストウッドの「許されざる者」が公開されたのは日本では1993年で、僕はまだ社会に出て2、3年のひよっこ。
その頃は西部劇に対して勧善懲悪のわかりやすいイメージを持っていたのですが、「許されざる者」はそのようなステレオタイプ的なわかりやすい人物造形ではないかったため、若い自分にはとっつきにくい印象がありました。
それから見直すこともなく、今回日本にてリメイクされた「許されざる者」を観てきました。
多少なりとも人生経験した今の自分はこの物語を理解できるのでしょうか・・・。
ちなみに今回のレビューはイーストウッドの「許されざる者」との比較という視点は全く入っていません(見直していないためはっきりと物語を記憶していないため)。

時は明治、ところは北海道。
主人公十兵衛は元幕府側の侍で、戊辰戦争を戦い新政府軍に追われ北海道まで流れてきました。
幕末の戦いの中で彼は「人斬り十兵衛」と敵味方に恐れられる存在でしたが、あるときを境にフツリとその姿を消しました。
彼は北海道の地で、妻と出会い「他の生き方がある」ということに気づいたのです。
しかしその妻も亡くなり、十兵衛は二人の子供と共に痩せた土地を日々耕す生活を送っていました。
ある日、彼の元に旧知の金吾が訪れます。
開拓村で女郎を傷つけたにもかかわらず軽い罪でしか咎められなかった男二人に賞金がかけられた、その男を一緒に始末しないかと。
十兵衛はもう人殺しはしないという亡き妻と約束があるため、それを断ります。
そういう十兵衛に金吾は「お前は忘れても、過去は忘れちゃくれない」と言います。
かつて十兵衛は多くの人を殺しました。
彼はそれを悔い、その罪を償うかのように人々から離れ、粗末な暮らしを続けています。
しかしそのような暮らしを続けていても、決してその罪はなくなることはない。
彼はいつまでも「許されざる者」であるのです。
十兵衛はそうであることを受け入れ、その重みを背負って生きていくことを決めた男でした。
彼は人を殺す、その罪を妻と出会うまでは自覚することはなかった。
十兵衛は人を殺すことによって否応なく背負ってしまう十字架の重みを知っています。
しかし、この物語に登場する人々はその重みに気づいていない。
十兵衛を賞金稼ぎに誘う金吾は、人殺しを自分の将来のための手段と捉えていたように思います。
また五郎は己の生まれや、アイヌへの仕打ちへの怒りにより、人を殺そうとします。
彼らに自分たちの恨みを晴らそうと依頼をする女郎たちもそうです。
彼らが賞金首の一人を殺したことを知ったとき女郎が「ほんとに殺っちまったのかい・・・」と洩らすつぶやきは彼女たちが人を殺すことに対しリアリティを持っていなかったことがわかります。
金吾はいざ人を殺そうとしたとき、それによって背負う十字架の重さに気づきます。
五郎は初めて人を殺した時、腕の震えがとまらず、背負ってしまった罪に恐れをなします。
十兵衛はその重さがどれだけ重いのか、それを下ろすことなく生きうる限りずっとかついでいかなくてはいけないということを知っているからこそ、彼らがそれ以上背負い込まないように、彼らの代わりとなってもう一度十字架を背負おうとするのです。
女郎の一人なつめは十兵衛がたたずむ背中を見て、そこに背負った罪の重さに気づきます。
金吾も自分の背負った十字架の重みに気づいたと思いました。
だからこそ最後まで十兵衛のことは口を割らなかった。
五郎もなつめも自分の罪を自覚し、そしてそれを十兵衛に背負わせてしまったことを知っているからこそ、彼の子供の世話をみようとしたのでしょう。

登場人物の中で強烈な印象を残すのが十兵衛の敵役となる一蔵です。
彼は自分が背負っている十字架に自覚がありません。
おそらく死ぬまで彼は自分がしていることは間違っていないと思っていたでしょう。
幕末、世は多いに荒れた。
自分が治める街だけは、平和を保ちたい。
どんな手段をとっても。
彼には彼なりの正義があったのかもしれません。
女郎を傷つけた男たちを軽微の罪としたのも、開拓村にとって彼らが貴重な馬をもたらすことができるからでしょう。
彼らを殺してしまっては、村全体からみると損になると。
一蔵からすれば十兵衛の行動は理解不能であり、十兵衛からしても一蔵の仕打ちは許せるものではない。
彼らの価値観が激突したのが、最後の戦いでしょう。
ある意味、生き方をかけた戦いと言ってもよく、渡辺謙さんと佐藤浩市さんの演技も相まって、鬼気迫る感じがしました。

人間というものは善悪がきれいにわかれるようなものではない、ということを少しはわかってきている年なので、オリジナルを観た時の若いときよりは、作品を理解できるようになったかな。

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2013年1月13日 (日)

「映画 妖怪人間ベム」 そうか、イエスか

まったく観に行くつもりはなかったのですが、なんとはなしに。
テレビドラマも観ていませんでしたし、オリジナルのアニメも内容はほとんど知らなかったもので。
知っていたのは「早く人間になりた〜い」ってセリフだけ。
そういうことで全く期待値もなかったからか、観終わって持った印象はけっこう良くできているな、でした。

ベム、ベラ、ベロ(この名前も知ってた)の3人の妖怪人間は、ある博士の研究から生み出されました。
しかしその博士が急逝し、放置されたその研究途中の物質から3人は誕生したのです。
この3人は人間の善良な部分だけを持つ生命体であったわけです。
実はそのとき同じ物質から、別の生命体「名前の無い男」が生まれていました。
「名前の無い男」は言わば悪の塊であり、彼が(ベロの言う)「緑ドロドロ」を人間たちに注入すると、その人間は自身の悪の心を暴走させてしまいます。
テレビシリーズはそういった悪の心を暴走させた人間と、そしてその元となった「名前の無い男」との戦いが描かれていたようですね。
人間というものは、その中に善良な部分と悪の部分を両方合わせ持っているもの。
同じ人物が時にはとても親切であり、また別の時にはとても意地悪であるというのもよくあることです。
日々、内面で善の心と悪の心が葛藤しているのが、人間と言ってもいいかもしれません。
ですので、ベム、ベラ、ベロが「人間になる」ためには、人間が持っている悪の側面も持たなければいけないというわけですね。
「名前の無い男」が自身を取り込めと、ベムに言うのはそういう意味でしょう。
3人の妖怪人間は感情が高ぶると醜い姿に変貌します。
そのため映画の冒頭に描かれているように、人助けをしたとしても、その容貌のために助けた人間に迫害され、追われてしまうのです。
それでもベム、ベラ、ベロは人を助ける。
人の中にはそういった醜い心だけではなく、善良な心もあるということを知っているから。
終盤の場面で、人を救おうとするためにベムが「俺達が犠牲になる」という言葉を残し、醜い姿になって警官隊の前にいく場面がありました。
ああ、なるほど、この3人はイエス・キリスト的な存在なのかもしれないと思ったわけです。
彼らは醜い心を持った医薬メーカー社長を含め、彼ら自身が犠牲になることにより人を救いました。
これは人の原罪を背負うために自ら磔となったイエスを髣髴とさせます。
彼らがその醜い姿のために迫害されることも、イエスのイメージに繋がります。
そういえば彼らが「人間になる」ことができるための草が生えていた廃墟の鉄骨は十字架のような形をしていました。
これは制作者側にもそういったイメージがあったということでしょうね。

ベム、ベラ、ベロを生み出した博士は人工的に人間を作ろうとしました。
それは完全なる人間を作ろうとしたらかもしれません。
人間というのは、そもそもが善と悪とがごちゃまぜな不完全な存在なわけですね。
ベム、ベラ、ベロは善の心を持ち、永遠に生きられる、そういう意味で人間よりも完全な人間であるかもしれません。
しかし彼らは「早く人間になりたい」と言います。
なぜ完全な彼らが不完全な人間になりたいと思うのでしょうか。
それは「孤独」なのかなと思いました。
彼らと同類であるのはあの3人だけ、それは永遠に増えもしない。
人というのは他人との関わりの中で生きていくもの。
彼らにはそれだけがありません。
3人が憧れるのはそういった人との関わりなのでしょう(本作でのベロとみちるのエピソードで象徴されるように)。
しかし多くの人間は彼らを迫害し、関わりを持つことができません。
彼らがそういったことに落胆しながらも絶望はしていません。
そして自分たちが関われなくても、自身を犠牲にして人々のそういった関わりを守ろうとするわけですね。
やはりこういったところにもイエスのイメージを感じてしまうのです。

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2012年10月 7日 (日)

「夢売るふたり」 愛の行く末

だいたい映画を観たあとすぐにレビューを書くのですが、本作はちょっと苦労しました。

自分の中で消化できなかったのですね。

しかし、つまらないわけではなく、面白い。

どのように話が展開していくかわからなかったという点で話に引き込まれました。

そもそも主人公のふたりが本心ではどのように考えているのか、感じているのかが、映画を観た直後はわからなかったかったわけです。

映画のレビューというのは登場人物を分析して、どのような意図でこのような人物が配置されているかというのを探るものですが、そういうようなことが通用しない。

特に松たか子さんが演じる里子と女性の真意というのが、わからないのですね。

もしかすると脚本を書いた西川監督もわからないかもしれない。

里子というキャラクターを配置したら、彼女がどんどん動き出してしまったという感じかもしれません。

それを映画は間近で映像として掬いとっている感じがしました。

本作が持つある種の生々しさは西川監督がそもそも持っているものですが、よりドキュメンタリーのような感覚を感じました。

貫也と里子は小料理店を営んでいた結婚10年の夫婦。

しかしその店は火事で焼失し、ふたりは再出発をしなくてはいけなくなりました。

そのとき、ひょんなきっかけからふたりは結婚詐欺を始めます。

貫也は見た目は別にいい男ではありませんが、根っから人がいいのか、心に寂しさを抱える女性の懐にすっと入っていきます。

真っ暗闇の中にいる女性は、貫也に希望を見いだすのでしょう、たちまち彼に入れこんでいくわけです。

この物語、一筋縄でいかないのが、貫也と里子が互いに持つ感情でしょう。

結婚を10年を経て、愛が覚め、打算と妥協でいっしょに暮らしている夫婦、っていうのであれば、まだわかりやすい。

そういう物語は今までもありました。

しかし、貫也と里子はおそらく互いに相手のことを好きだという気持ちを持っているのだと思います。

だからこそ、里子は貫也の浮気がバレたとき、とても怒ったわけです。

しかし、しかしです。

その後里子主導により、貫也に結婚詐欺を始めるわけです。

愛する夫が他の女を抱くことにより、お金を稼ぐことを妻が主導する。

この心理は何でしょう。

この映画は、その里子の心理の謎解きをするわけではありません。

前段で書いたように、映画は里子の行動を淡々と追っていきます。

観ている側はそれを観て、想像するしかありません。

弱気な夫を助けるためには、再びお店を開く資金がいる。

ただそのような資金はおいそれと簡単に用意できるものでもありません。

だからこその結婚詐欺であったのです。

里子は、夫が他の女を抱くということに耐えるということとの苦しみと引き換えに、夫の夢である店を開くための結婚詐欺を行ったのでしょうか。

ところどころ描写が入りつつも、明確な説明がなかった部分があります。

里子はどうも女性特有の病気になっていたのではないかと思われます。

ガンの本を読んでいたり、トイレでため息をついてみたり。

もしかすると夫婦の営みといったものもその病気のためにできていないかもしれません。

里子が自分で自分を慰めるシーンがありましたが、それを夫とそういったことがないことを表していたように思います。

里子は、妻としての役割を果たせていないという後ろめたさをもっていたのかもしれません。

そのため夫が他の女を抱くことにもじっと耐えたのではないかと。

夫はお金のために女を抱いているのであって、決して本気ではないということを免罪符にして。

しかし、貫也が本気で木下に情を移しそうになったとき、里子は感情が暴走しそうになります。

里子はあのときは、ほとんど冷静に考えることはできなかったでしょう。

自分が何を考えているか、里子自身もわからなかったのかもしれません。

貫也は自分ができの悪い夫であることを自覚しています。

そのため里子に貧乏くじをひかせてしまったのではなかったのではないかと悔やみます。

貫也も里子のことを愛しているのだと思います。

うまくいかない自分が唯一うまくいったのが、結婚詐欺。

それについては相手の女性を傷つけるし、また里子に対しても後ろめたさはある。

けれど貫也にとっては苦労をかけている里子に対して報いる唯一の方法であったわけです。

結婚詐欺は里子に対しての愛情の表れでもあるけれど、その行為が里子を大きく傷つけるものでもあったわけですが。

里子はたぶん結婚詐欺については自分の感情を封印するということにしたのだと思います。

だから里子は終止無表情だったり、作った笑顔をしている。

貫也はそういった里子がおそろしくもあったりするわけで、だからこそ木下のところへ逃げ込もうとしたわけです。

木下のところへ行く前に、貫也は里子の心理について「おまえはこうだ」と言うシーンがあります。

それはそれで説得力のある内容ではあったのですが、里子の心の本質ではなかったのではないかと思います。

だからこそ里子は自分のことをわかってくれていない貫也に怒りを感じたのでしょう。

結局、貫也は刑務所に入ります。

しかし里子はシャバにいることから、彼の罪は子供をかばった傷害罪であったのだろうと推察されます。

結婚詐欺については公にはされなかったのでしょう。

時が流れ、貫也がだました女性たちはそれぞれの時間が流れていきます。

大幸福というわけではないでしょうが、それぞれのたった一つの時間が流れています。

その中に、一瞬だけ輝きをもたらした貫也の入り込む余地はないのです。

里子はひとり北国の漁港で黙々と働いています。

彼女が働く港のかもめの声が聞こえます。

そしてそのかもめの声は貫也が入っている刑務所の中でも聞こえます。

そう、里子は貫也の入っている刑務所の近くで暮らしているのです。

貫也が刑期を終えて出てきたときに、彼を出迎えるのは里子のみなのでしょう。

里子がずっと貫也を愛し続けているというのはこのシーンで確信をしました。

それを全体に物語を振り返ってきたというのが、つらつらと書いてきたレビューです。

貫也にしても、里子にしてもお互いに愛情は感じているのですが、結婚詐欺を行い始めてから思いのすれ違いのようなことが起こりました。

けれどふたりの思いというのは結局はいろんなことがあっても変わらなかったということなのでしょうね。

里子役というのは難役であったと思いますが、松たか子さんは素晴らしかったですね。

「告白」の教師役もすごかったですが、本作でも存在感があります。

汚れ役に近いような役柄ですが、彼女が演じるとある種の生々しさを出しながらも、一線を越えないような品の良さがあります。

このバランスは他の女優さんじゃ、あまりないなと思いました。

阿部サダヲさんとふたりで、しっかりと芝居を魅せてくれる作品でした。

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2011年2月11日 (金)

「洋菓子店コアンドル」 直球な女

主人公なつめ(蒼井優さん)は思ったことをそのまま口に出し、そして思ったことにまっしぐらに突進していく女性です。
ど真ん中直球な物言いは、人によっては「カチン」とくるように受け止められるかもしれません。
正直、こんな子が自分の近くにいたら僕は「カチン」ときてるでしょう。
でもそれはなつめが自分の思うことにとっても正直で忠実だからなんですよね。
思えば人ってのは、いろんな付き合いがあったり、しがらみがあったりで、自分が思ったことを呑み込んでしまったりするものです。
そのまま口にしていたら、なつめが周囲をザワザワさせたように、やはり人間関係に波風がたってしまうでしょう。
でもあまりに呑み込みすぎてはないかい?とも思ったりもします。
なんとなくベールで包んだような言葉で話していると、そこには見えない壁みたいなものもできていたりするんですよね。
都会で孤独に感じる人が増えているっていうのは、そういう気を使いすぎてできている壁みたいなものがあるからかもしれません。
そういう壁をなつめはズケズケと突破して侵入してきます。
それがウザかったりするわけですが、けれど彼女自身も開けっぴろげで壁などないことがわかります。
そういう壁のなさ、みたいなものが心地よいのかもしれません。
十村も子供の事故以降、周囲に壁を作っていた人間の一人です。
なつめは彼の壁も直球で正面突破し、頑な彼の心を解きほぐすのです。

蒼井優さんは、そんななつめにぴったりの配役であったと思います。
彼女の女優としての素晴らしさというのは、他の作品でもそうなのですが、まるですっぴんのように見えるということ。
テクニカルに作り込んだ役作りというのとは違う、またその人になりきってしまうようなカメレオン系の女優さんとも違う。
うまく言えないのですけれど、彼女がある役をやっているとき、蒼井優という人の素というのはこの役なのではないかと思わせるところなんですよね。
それだけに役に自然であるということなのかもしれません。
この作品のなつめという役は、ちょっとKYな女の子で、大いに怒り、大いに泣き、大いに笑う、自分の気持ちに素直な子。
その怒っているときの表情や、泣き顔、微笑みなどがすべて、なつめという女の子がそのように感じているからしている表情っていう感じがするんですよね。
普通の女優だったら、演じているとき見られる視線というのを気にした上での、怒り、泣き、笑いの表情をするのだと思うのですが、彼女の場合はほんとにすっぴんの表情を見せているような感じなのです。
当然、演技なわけなのですが、演技っていうのを越えちゃっているように見せるというのが、蒼井優という女優のすごさなのかもしれません。

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