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「野生の島のロズ」さまざまなテーマをエモーショナルにまとめ上げた
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「湯道」湯の道
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「妖怪大戦争 ガーディアンズ」 あまりにいい子
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「ヤクザと家族 The Family」 親子って何だろう?
2020年12月31日 (木)
「約束のネバーランド」 行ってらっしゃい
2018年7月 7日 (土)
「焼肉ドラゴン」 家族のアイデンティティー
人間、何か自分のアイデンティティーが寄って立つものが必要なものです。
それは国であったり、会社であったり、家族であったり。
日本人などはやはり日本人であること、というのがアイデンティティーが寄って立つ柱の一つであると思うんですよね。
どの国の国民もそうだと思うのですが。
この物語の中心となる家族は、戦前に日本に連れてこられそしてそのまま日本に住むことになった朝鮮半島の人々。
いわゆる在日と呼ばれる方たちです。
彼らは想像すると、複雑なアイデンティティーを持っていると思うのですよね。
朝鮮民族であり、祖国に暮らす人々と文化を共有はしているけれども、やはり彼らと在日では置かれている環境が違うため、全く一つの価値観というわけではない。
また半島では同じ民族が二つの国に分かれている。
日本で暮らしているからといって日本人として扱われるわけでもなく、差別は受けている。
同じような環境に置かれ、共感を感じられる人々が非常に少ないマイノリティです。
だから、そういう境遇だからこそ、家族というものが非常に濃い存在になるのかもしれないです。
「焼肉ドラゴン」を切り盛りする龍吉は戦前に日本に連れてこられたが、故郷は戦争により壊滅して、家族みんなを失ってしまいました。
彼は妻と子供たちと日本で生きていくことを決めました。
子供たちは韓国語を話すことはできず、日本語しか話せません。
日本自体も戦後の復興期で、今までの価値観が大きく変わっていく時代でした。
そのような時代、龍吉はただ黙々と働き続けてきました。
小さくとも自分たち家族のいる場所を守り続けるために。
彼にとって家族だけが自分のアイデンティティーの拠り所だったのでしょう。
韓国も北朝鮮も日本も、彼の拠り所ではない。
彼にとっては家族だけ。
彼は日頃無口ですが、彼が話すときは全て家族に関する重要な場面なのですよね。
家族のことをどれだけ大切に思い、それこそが彼の全てであるかのように。
だから長男の自殺はショックであったに違いありません。
在日にとって暮らしやすいわけではない日本の環境。
差別に対抗するには、それに対抗できる実力(学力・経歴)を身につけなくてはいけない。
だからこそ長男にも頑張るように言っていたのだと思うのですが、それが息子を追い込んでしまった。
家族のために良かれと思ったのに・・・。
彼にとってはアイデンティティーが揺らぐような出来事であったと思うのですよね。
そういうことがあったからこそ、3人の娘がそれぞれの道を選んでいくとき、彼は何よりも彼女たちの気持ちを優先させた。
彼にとっては家族の幸せこそが全てであり、幸せは自分で進む道を選ぶことであると気づいたのかもしれません。
彼も若い頃に日本に強制的に連れてこられ、そして家族もそして腕も失ってしまった。
自分では道を選べなかったわけです。
息子も結果的には自分で道を選べず、追い込まれてしまった。
最後にオモニが言っていたように、家族の行く道は違うけれど、家族は繋がっているわけです。
進む道は違うけれどそれをそれぞれが選んだのであれば、辛いことがあっても幸せであるはず。
結果、彼らはそういう思いを共通に持ち、それが彼ら家族のアイデンティティーになっていくのかもしれません。
父親の龍吉役をやったキム・サンホさんの演技が素晴らしく、彼中心の視点で記事を書きました。
オモニ役のイ・ジョンウンさんもそうですが、韓国の俳優さんは演技うまいですよね。
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2015年7月 5日 (日)
「予告犯」 「区別」する側の態度の蔓延
前作の「白ゆき姫殺人事件」ではネットに溢れる匿名のつぶやきが根拠のない「真実」を作り出していく怖さを中村義洋監督は描きました。
本作「予告犯」でも、犯人グループらの行動によりネットの世論が方向付けられていく様子が描写されます。
そういう点においては、本作は前作の「白ゆき姫殺人事件」の延長線上にあるとも言えますが(「ゴールデンスランバー」もこの線上かもしれません)、僕は本作は中村監督のデビュー作「アヒルと鴨のコインロッカー」と同じような雰囲気を感じました。
ある事件が起こる。
その事件の背景を明かしていく中で、犯人らの背景にある悲しい事実が浮かび上がっていく。
この二つの作品では、犯人はある意味、社会から脱落してしまった者と言えます。
本人たちがどうこうということだけでなく、生まれた時の境遇やその後の立場からなどから、社会からあぶれてしまった。
しかしそういった差別や区別というものは、いったんレッテル化してしまうと、本人たちががんばったと言ってもそれをなかなか覆すことはできません。
格差社会、二極化と言われて久しいですが、それが固定化してしまっているのが社会の課題なのでしょう。
奥野の回想シーンにある事務所のシーンは見ていて、辛くなってしまう場面です。
自分とは違うもの(往往にして自分たちよりも社会的な立場が低い者)を「区別」という態度は、自分自身の立場を安泰なものであると認識しているためにやっているのかもしれません。
それが側から見ると、とてもいやらしく醜く見えてしまいます。
しかし、これほど露骨でないにしても、少なからず似通った場面というのは社会の中でもありますよね。
自分だってやっているかもしれないという怖さもあります。
そういった「区別」をする態度が「アヒルと鴨のコインロッカー」が作られたときよりも、今の方がより多く現れているかもしれません。
自分の立場に自信が持てない人が増えてきているのでしょうか。
だから自分よりも立場が低い人々を「区別」しようとする。
ネット上での匿名での無責任なつぶやきも、同様な気持ちから発生しているかもしれません(そういう意味では「白ゆき姫殺人事件」も通じる)。
「区別」される側である4人の友情が切ないです。
この切なさは「アヒルと鴨のコインロッカー」のときにも感じたものでした。
「区別」される者同士での、友情、思いやり。
誰かのために何かをしてあげられるならば、自分のことを犠牲にしてもいいという気持ち。
「アヒルと鴨のコインロッカー」のドルジも亡くなってしまった友人のために行動をしました。
さきほど書いた「区別」する側の態度は、そのことにより自分の立場を安泰と考えたいという自分中心の者考え方でした。
4人組の行動は、自分のためではなく誰かのためのもの。
彼らの行動が尊く見えるのは、「区別」する側の態度が現代には蔓延しているからかもしれません。
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2013年9月14日 (土)
「許されざる者(2013)」 背中に負う十字架
クリント・イーストウッドの「許されざる者」が公開されたのは日本では1993年で、僕はまだ社会に出て2、3年のひよっこ。
その頃は西部劇に対して勧善懲悪のわかりやすいイメージを持っていたのですが、「許されざる者」はそのようなステレオタイプ的なわかりやすい人物造形ではないかったため、若い自分にはとっつきにくい印象がありました。
それから見直すこともなく、今回日本にてリメイクされた「許されざる者」を観てきました。
多少なりとも人生経験した今の自分はこの物語を理解できるのでしょうか・・・。
ちなみに今回のレビューはイーストウッドの「許されざる者」との比較という視点は全く入っていません(見直していないためはっきりと物語を記憶していないため)。
時は明治、ところは北海道。
主人公十兵衛は元幕府側の侍で、戊辰戦争を戦い新政府軍に追われ北海道まで流れてきました。
幕末の戦いの中で彼は「人斬り十兵衛」と敵味方に恐れられる存在でしたが、あるときを境にフツリとその姿を消しました。
彼は北海道の地で、妻と出会い「他の生き方がある」ということに気づいたのです。
しかしその妻も亡くなり、十兵衛は二人の子供と共に痩せた土地を日々耕す生活を送っていました。
ある日、彼の元に旧知の金吾が訪れます。
開拓村で女郎を傷つけたにもかかわらず軽い罪でしか咎められなかった男二人に賞金がかけられた、その男を一緒に始末しないかと。
十兵衛はもう人殺しはしないという亡き妻と約束があるため、それを断ります。
そういう十兵衛に金吾は「お前は忘れても、過去は忘れちゃくれない」と言います。
かつて十兵衛は多くの人を殺しました。
彼はそれを悔い、その罪を償うかのように人々から離れ、粗末な暮らしを続けています。
しかしそのような暮らしを続けていても、決してその罪はなくなることはない。
彼はいつまでも「許されざる者」であるのです。
十兵衛はそうであることを受け入れ、その重みを背負って生きていくことを決めた男でした。
彼は人を殺す、その罪を妻と出会うまでは自覚することはなかった。
十兵衛は人を殺すことによって否応なく背負ってしまう十字架の重みを知っています。
しかし、この物語に登場する人々はその重みに気づいていない。
十兵衛を賞金稼ぎに誘う金吾は、人殺しを自分の将来のための手段と捉えていたように思います。
また五郎は己の生まれや、アイヌへの仕打ちへの怒りにより、人を殺そうとします。
彼らに自分たちの恨みを晴らそうと依頼をする女郎たちもそうです。
彼らが賞金首の一人を殺したことを知ったとき女郎が「ほんとに殺っちまったのかい・・・」と洩らすつぶやきは彼女たちが人を殺すことに対しリアリティを持っていなかったことがわかります。
金吾はいざ人を殺そうとしたとき、それによって背負う十字架の重さに気づきます。
五郎は初めて人を殺した時、腕の震えがとまらず、背負ってしまった罪に恐れをなします。
十兵衛はその重さがどれだけ重いのか、それを下ろすことなく生きうる限りずっとかついでいかなくてはいけないということを知っているからこそ、彼らがそれ以上背負い込まないように、彼らの代わりとなってもう一度十字架を背負おうとするのです。
女郎の一人なつめは十兵衛がたたずむ背中を見て、そこに背負った罪の重さに気づきます。
金吾も自分の背負った十字架の重みに気づいたと思いました。
だからこそ最後まで十兵衛のことは口を割らなかった。
五郎もなつめも自分の罪を自覚し、そしてそれを十兵衛に背負わせてしまったことを知っているからこそ、彼の子供の世話をみようとしたのでしょう。
登場人物の中で強烈な印象を残すのが十兵衛の敵役となる一蔵です。
彼は自分が背負っている十字架に自覚がありません。
おそらく死ぬまで彼は自分がしていることは間違っていないと思っていたでしょう。
幕末、世は多いに荒れた。
自分が治める街だけは、平和を保ちたい。
どんな手段をとっても。
彼には彼なりの正義があったのかもしれません。
女郎を傷つけた男たちを軽微の罪としたのも、開拓村にとって彼らが貴重な馬をもたらすことができるからでしょう。
彼らを殺してしまっては、村全体からみると損になると。
一蔵からすれば十兵衛の行動は理解不能であり、十兵衛からしても一蔵の仕打ちは許せるものではない。
彼らの価値観が激突したのが、最後の戦いでしょう。
ある意味、生き方をかけた戦いと言ってもよく、渡辺謙さんと佐藤浩市さんの演技も相まって、鬼気迫る感じがしました。
人間というものは善悪がきれいにわかれるようなものではない、ということを少しはわかってきている年なので、オリジナルを観た時の若いときよりは、作品を理解できるようになったかな。
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2013年1月13日 (日)
「映画 妖怪人間ベム」 そうか、イエスか
まったく観に行くつもりはなかったのですが、なんとはなしに。
テレビドラマも観ていませんでしたし、オリジナルのアニメも内容はほとんど知らなかったもので。
知っていたのは「早く人間になりた〜い」ってセリフだけ。
そういうことで全く期待値もなかったからか、観終わって持った印象はけっこう良くできているな、でした。
ベム、ベラ、ベロ(この名前も知ってた)の3人の妖怪人間は、ある博士の研究から生み出されました。
しかしその博士が急逝し、放置されたその研究途中の物質から3人は誕生したのです。
この3人は人間の善良な部分だけを持つ生命体であったわけです。
実はそのとき同じ物質から、別の生命体「名前の無い男」が生まれていました。
「名前の無い男」は言わば悪の塊であり、彼が(ベロの言う)「緑ドロドロ」を人間たちに注入すると、その人間は自身の悪の心を暴走させてしまいます。
テレビシリーズはそういった悪の心を暴走させた人間と、そしてその元となった「名前の無い男」との戦いが描かれていたようですね。
人間というものは、その中に善良な部分と悪の部分を両方合わせ持っているもの。
同じ人物が時にはとても親切であり、また別の時にはとても意地悪であるというのもよくあることです。
日々、内面で善の心と悪の心が葛藤しているのが、人間と言ってもいいかもしれません。
ですので、ベム、ベラ、ベロが「人間になる」ためには、人間が持っている悪の側面も持たなければいけないというわけですね。
「名前の無い男」が自身を取り込めと、ベムに言うのはそういう意味でしょう。
3人の妖怪人間は感情が高ぶると醜い姿に変貌します。
そのため映画の冒頭に描かれているように、人助けをしたとしても、その容貌のために助けた人間に迫害され、追われてしまうのです。
それでもベム、ベラ、ベロは人を助ける。
人の中にはそういった醜い心だけではなく、善良な心もあるということを知っているから。
終盤の場面で、人を救おうとするためにベムが「俺達が犠牲になる」という言葉を残し、醜い姿になって警官隊の前にいく場面がありました。
ああ、なるほど、この3人はイエス・キリスト的な存在なのかもしれないと思ったわけです。
彼らは醜い心を持った医薬メーカー社長を含め、彼ら自身が犠牲になることにより人を救いました。
これは人の原罪を背負うために自ら磔となったイエスを髣髴とさせます。
彼らがその醜い姿のために迫害されることも、イエスのイメージに繋がります。
そういえば彼らが「人間になる」ことができるための草が生えていた廃墟の鉄骨は十字架のような形をしていました。
これは制作者側にもそういったイメージがあったということでしょうね。
ベム、ベラ、ベロを生み出した博士は人工的に人間を作ろうとしました。
それは完全なる人間を作ろうとしたらかもしれません。
人間というのは、そもそもが善と悪とがごちゃまぜな不完全な存在なわけですね。
ベム、ベラ、ベロは善の心を持ち、永遠に生きられる、そういう意味で人間よりも完全な人間であるかもしれません。
しかし彼らは「早く人間になりたい」と言います。
なぜ完全な彼らが不完全な人間になりたいと思うのでしょうか。
それは「孤独」なのかなと思いました。
彼らと同類であるのはあの3人だけ、それは永遠に増えもしない。
人というのは他人との関わりの中で生きていくもの。
彼らにはそれだけがありません。
3人が憧れるのはそういった人との関わりなのでしょう(本作でのベロとみちるのエピソードで象徴されるように)。
しかし多くの人間は彼らを迫害し、関わりを持つことができません。
彼らがそういったことに落胆しながらも絶望はしていません。
そして自分たちが関われなくても、自身を犠牲にして人々のそういった関わりを守ろうとするわけですね。
やはりこういったところにもイエスのイメージを感じてしまうのです。
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