2017年3月25日 (土)

「モアナと伝説の海」 社会のためという動機

こちらの作品もディズニーのプリンセスものの系譜に属するものになるのかな。
「プリンセスと魔法のキス」あたりから、つまりはジョン・ラセターがディズニーの作品に絡むようになってから、ディズニーのヒロインの性格は大きく変わってきたと思います。
ヒロインが王子様と結ばれてめでたしめでたしとなるのではなく、彼女たちは自分たちの力で自分の進む道を見つけていくようになってきました。
相手役の男性たちは、彼女たちの行動に引っ張られていく存在になってきました。
これは女性がたくましく自分の意思で行動していくという強さを持ってきている社会を反映しているのかもしれません(男性の草食化も)。
昔のディズニープリンセスはまさにお姫様で、良き夫を得ることが幸せであるという昔の価値観を表していたものかもしれないです。
本作の主人公モアナもまさに自分で自分の生き方を決めていく女性ですし、相手役のマウイも見てくれは強面ながら、やはり彼女に導かれていくわけです。
そういう意味で「モアナと伝説の海」も最近のディズニープリンセスの系譜にあると言えます。
とは言え「アナと雪の女王」ほどのカタルシスを感じられたかというと、それほど強くはなかったように思います。
なんでかなと考えたのですが、「アナ」や「ラプンツェル」はパーソナルな愛情であったり葛藤であったりをテーマの中心においているので、感情移入しやすいということがったのかなと感じました。
「アナ」は二人主人公で、姉妹それぞれの思いのすれ違いであったり、特にエルサの心の中の葛藤が物語をドラマチックにしていました。
「ラプンツェル」は自由や愛などの気持ちもありながらも、それを封じ込めようとする母へ愛情も持っているという葛藤がテーマでありました。
本作についてはモアナ自身の誰かへの感情というものが彼女を動かしているのではありません。
彼女は社会的な責任(世界を救いたいという思い)を果たそうということで、旅に出かけます。
これは今までのディズニーのヒロインにはなかった動機であると思います。
しかし、モアナは自分のため、自分の感情のためというよりも、社会のために行動しているためか、今までのディズニーのような感情移入しやすさはなかったように思います。
ただこれが悪いわけではなく、この作品が掲げているテーマは内に内にと籠っていこうとする社会の流れ(保守的な動き)に対して、新しいことにチャレンジすること、広い世界に目を向けることの大切さを訴えているものであると感じました。
自分のことばかり考えがちな社会の中で、社会のために行動するヒロインは今の時代を反映しているものなのかもしれません。

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2017年3月 3日 (金)

「ミス・ペレグレンと奇妙なこどもたち」 他の人と違うことは弱みではなく、個性

ティム・バートンらしい作品。
彼の作品には、周囲になじめない奇妙な人々が登場することが多い。
「シザーハンズ」しかり「バットマン」シリーズしかり。
これらの作品では、社会になじめない人々は他の人とは何か違うというだけで、社会的に隅に追いやられてしまうことが描かれている。
最近の作品では「ビッグ・アイズ」の主人公マーガレットも社会になじめなかった人とも言える。
ティム・バートンの目線はそのような奇妙な人々に対してのシンパシーに満ちている。
彼は変わっていること自体をおおらかに、その人の個性として尊重して描いている。
透明人間であろうが、空気よりも軽かろうが、すべてを燃やしてしまう力を持っていようが、それはその子の個性であると肯定している。
聞くところによればティム・バートン自身も相当に変わっていた子供だったようなので、それが彼の作風にも表れているのだろう。
トランプ政権後のアメリカ社会、また最近のヨーロッパ等ではマイノリティに対して、以前よりもさらに厳しい態度をとるようになってきている。
日本でもヘイトスピーチを巡る問題が上がってきているが、同様な雰囲気を感じる。
非寛容さが蔓延してきている社会の行く末を想像すると恐ろしくもある。
ティム・バートンの初期作品では異端者・異能者は迫害されたり、搾取されたりした中で、割と悲劇的な方向の結末である印象がある。
それが彼特有のもの悲しさを作品全体にトーンとして与えていたように思うのだが、最近はちょっと変わってきている印象もある。
どのあたりからかとは明確には言えないのだが(「アリス」あたりかと思うが)、異端者・異能者が虐げられる弱者としてではなく、最後には反撃することができる人物に成長していくさまが描かれているように思う。
これは主人公たちが自分自身を認めることができる力を持つことができるようになってきているとも言える。
変わっていることにより迫害され弱者として生き続けるのではなく、自分はこうであると認め、それを周囲にも認めてもらうことができる自立できる人間として描こうというような印象を受けるのだ。
本作でもジェイクは自分自身と子供たちのために、彼らを搾取する人々と戦う。
世の中の雰囲気は非寛容へと触れていて、社会になじめにくい人々はより一層生きにくい社会になってきているわけではあるが、それらに対し、自分自身を主張できる強さは持っていたいというメッセージなのかもしれないと思う。
他の人と違っていることは個性であり、個性は大事な力であるのだろう。

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2017年2月 6日 (月)

「マグニフィセント・セブン」 「七人の侍」の素晴らしさを再確認

「荒野の7人」のリメイク作品です。
監督はアントワーン・フークアなので男っぽい雰囲気に仕上がっていて好感が持てます。
「荒野の7人」自体がそもそも黒澤明監督の「七人の侍」をベースに作っているわけですが、本作を観ると「七人の侍」のプロットがすばらしく優れているということが改めてわかりますね。
無法者に搾取されている村の農民たちが、七人のアウトローを雇い、悪人たちを追い払おうとします。
アウトローたちは農民たちのなけなしの金を受け取り、彼らのために戦いますが、ひとりまた一人と命を落としていきます。
そのおかげで彼らと農民は無法者たちを追い払うことができ、村には平和が訪れます。
これが「七人の侍」のプロットですね。
まず優れているのがアウトローたちがそれぞれに個性的であること。
様々なバックボーンを持った男たちが偶然に集まり、無法を許さず村人たちを守るということのために戦います。
本作においても、若者から壮年まで年齢も幅広く、白人・黒人・東洋人・メキシカン、・ネイティブアメリカンなど人種も様々、南北戦争で南軍に属していた者、北軍にいた者など出自もいろいろです。
バックグラウンドが違う彼らですが、目的のためにいつしか固い絆を作っていきます。
それぞれ戦うことに関してはプロフェッショナルであり、それぞれにリスペクトを持っていくわけです。
七人の男たちが次第に結束を高めていくプロセスによって観る者が共感を高めていけるんですよね。
また決戦において一人またひとりと命を落としていく姿もぐっとくるものがあります。
自分の信じる正義のために戦い、そのために命を落とすというのは、やはり男のロマンのようなところはありますよね。
そういう姿は素直にかっこいいと思ってしまうところはあります。
そして最後には悪は敗れ、平和が訪れるというのも見ている側としてカタルシスを感じます。
七人のメンバーが全員死んでしまうというわけではないというもいい。
あまりに悲劇に寄りすぎても、ハッピーな気分にはなれないので。
こう見るとこの作品を観ていいなと思うところはすべて「七人の侍」のプロットに含まれていることなのですよね。
いかにこのプロットが優れているかどうかがわかります。
「七人の侍」にあってこの作品にないのは、実は農民は子狡く、そしてたくましく生きているということ。
ここに黒澤明は生命力のようなものを重ねていたように思いますが、この感覚は本作にはありません。
アメリカ人にはわかりにくい感覚かもしれないですね。

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2016年6月20日 (月)

「マネーモンスター」 変わっていく関係性と変わらない関係性

意外にもジョディ・フォスターが監督をする映画を見るのは初めて。
思っていたよりも、テンポよくエンターテイメントな作品を撮るのですね。
金融工学の話が最初に色々と出てくるので素人にはちょっととっつきにくい印象がありましたが、そこさえ耐えられれば、ストーリーは先が予想できない展開で楽しめます。
ストーリーの流れが非常によく、上映時間は短いのですが密度が濃い感じがしました。
脚本が非常によくできていると思います。
登場するキャラクターも魅力的で、彼らの関係が物語が進む中で次第に変わっていくところが興味深いですね。
例えば、主人公のリー、そしてテレビ局の立てこもり犯であるカイルの関係です。
銃と爆弾で武装した犯人と人質ですから、利益相反の関係性であるのですが、次第にカイルがなぜ立てこもりをしたのか、そしてその背景にある企みの姿が明らかにつれ、リーはカイルに同情にも似た共感性を持っていきます。
またリーはカイルがデッドマンスイッチ(スイッチから手を離すと爆発する仕掛け)を仕掛けた爆弾ベストを着せられており、その受信機を警察は狙撃しようとします。
その際、リーが重傷を負う可能性あり、それを知ったリーは犯人であるカイルを盾にしようとします。
二人はそのためテレビ局を出たあとも行動を共にするのですが、それもひとつの犯人と人質の共同関係の様なものになります。
関係性が変わっていくキャラクターでいえば、他にもいて、アイビス社の広報担当者ダイアンもそうと言えます。
アイビス社とは、カイルが立てこもる原因となった株の暴落を引き起こした会社ですが、その広報担当者である彼女の立場としては、カイル、そして虚偽の情報をつかまされたリーたちと敵対関係にあるわけです。
しかし、社内で情報をたどっていくうちに、社長が不正を行っている可能性に気付いていきます。
次第にダイアンと、テレビ局プロデューサー、パティの間柄も共闘関係のようになっていきます。
逆に変わらない関係性もあります。
主人公リーと、番組プロデューサーパティの関係です。
リーがあまりに自分勝手に番組を進めるために、降板し別の局にパティは転籍しようとしていました。
しかし、事件発生後、リーとパティは揺るぎない信頼関係で事件をしのいでいきます。
事件のさなかでありながら、常に冷静さを失わず、全体を見通すことができるパティ。
臨機応変に状況の変化に合わせて、場をコントロールすることができるリー。
まったく違うタイプの二人ながら、相手が何を考えているかを察しあうことができる。
まさに阿吽の呼吸ですね。
二人の間にある信頼関係は物語が進んでも変わりません。
変わっていく関係性と変わらない関係性、これがこの作品の見どころであるかなと思います。

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2015年11月 4日 (水)

「マイ・インターン」 理想の会社

久しぶりの洋画の鑑賞になります。
このところ、今まで観た邦画の続編の公開が立て続けにあったので、そちらを優先させてしまいました。
まんまと映画会社やテレビ局の術中にはまっているような気がしますが・・・。

こちらの作品はロバート・デ・ニーロとアン・ハサウェイというキャスティングでセレクト、二人とも実力派なので安心感があります。
予告を観ているとお仕事をテーマにしたハート・ウォーミングな作品のような印象をもったので、仕事で疲れている身にはやさしい感じがしたんですよね。
ちょっとコメディ的な感覚が入っているハート・ウォーミングな作品には、さきほどの二人は適役です。

アン・ハサウェイ演じるジュールスが経営している、ネット販売のスタートアップ会社はシニア・インターン制度を始めました。
そこに応募してきたのが、ロバート・デ・ニーロが演じるベン。
彼は長年勤めあげてきた会社をリタイアし、また妻にも先立たれたやもめです。
ベンはジュールスの直属の部下として配属されました。

ジュールスの会社は、いい会社ですよね。
細かいところはいろいろあるけれど、理想的な会社のように見えます。
社長であるジュールスはお客さんのことを第一にしているし、社員も意見を率直に上に言えそうで組織的にもオープンでフラットなようですよね。
社員も会社の所属意識が高く、会社(社長)の求める理想に共感しているように見えます。
ファンションを扱う会社であり、また社長も女性ということからか、女性の役割期待も高いようですね。
特に感心したのは、シニア・インターンへの若者たちの態度ですね。
シニアの人は彼らの歩んできた社会人としての確かな知恵・スキルを持っているというスタンスで接しています。
若者たちが、自分たちはまだ知らないことがたくさんあるということに自覚的で、それを知っている人たちに教えを乞いたいという文化になっているところが素晴らしいと思いました。
日本だったら、こうはいかないでしょうね。
特に新進のスタートアップ会社であればあるほど。
若者たちはおじさんたちはわかっていない、古臭いとか、ダサいとかいうイメージがあるんじゃないかな。
彼らの知恵やスキルは古いもので顧みる必要はないと感じているのかもしれない。
もちろんシニアの人々も知らないことはたくさんあります。
おじさんたちもそういう知らないことを学ぶということはなく、昔の価値観を若者に押し付けようというきらいがあるかもしれません。
本作のベンは、新しいことを学びたいというスタンスもありますし、自分の価値観(自分の武勇伝自慢等)を押し付けたりはしません。
あくまで自分の今の立場の中で、乞われた場合や、若者たちを陰ながらサポートするという役割を果たしています。
若者も、シニアも、自分たちに足りないものを自覚し、それを持っている人々に対して真摯にオープンな心で接しています。
そういう文化がある会社はすばらしいなと思いました。
結果的にジュールスは外部からCEOを招くことは止め、自分たちでやっていくことを決断しました。
けれど彼女の会社のすばらしい文化を維持していくことができれば、必ず成長していくと思いました。

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2015年8月10日 (月)

「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」 手に汗握る進化

「ミッション:インポッシブル」シリーズもすでに5作目となります。
コンスタントに作り続けられるアクションシリーズはそれほど多くないので、スパイ映画としては「007」に匹敵するシリーズとなってきたと言ってもいいでしょう。
「007」の最近のシリーズはかなりストイックな作りになっていて、かつてのロジャー・ムーアからピアース・プロスナンの頃のような派手さはありません。
これは「ボーン」シリーズなどのリアルなタイプのスパイ映画の影響を受けたと言われていますが、以前に「007」シリーズが収まっていた、派手でエンターテイメントでかっこいいスパイムービーのポジションにすっぽりと「ミッション:インポッシブル」にはまったという感じがします。
これはこれで観客にとってはいいことで、違ったテイストで、しかもレベルの高いスパイムービーをコンスタントに楽しめるのですから。
とはいっても今回の「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」は今までの2作くらいよりは、よりリアル感が強めのテイストであるように感じました。
テクノロジーに頼るというは、イーサン・ハントが己の知恵と肉体で現状を打破していく印象があります。
「ミッション:インポッシブル」シリーズの特徴としては、毎回タイプの違う監督を起用するということがあります。
今まではブライアン・デ・パルマ、ジョン・ウー、J・J・エイブラムス、ブラッド・バードとタイプの異なる個性派の監督が名を連ねています。
今回の「ローグ・ネイション」の監督はクリストファー・マッカリー。
トム・クルーズとは「アウトロー」でも組んでいる方ですね。
「アウトロー」もテクノロジーよりは、知恵と肉体で勝負という感じであり、どちらかというと未来的ではなく、やや懐かしいテイストがあった作品でした。
今回の「ローグ・ネイション」もマッカリー監督らしい雰囲気が出ていると思います。
「ミッション:インポッシブル」シリーズは主演のトム・クルーズが自分自身で多くのアクションシーンを演じているのが売りの一つです。
本作も同様にかなり意欲的にトム・クルーズはアクションにチャレンジでしているのですが、マッカリー監督のテイストは、本人が実際にやっている感というのがよく出るんですよね。
オープニングの飛行機でのシークエンスとか、後半のバイクのチェイスシーンなども本人がやっている感がすごく出ているので、手の汗を握ってしまいます。
本作が持つ、手に汗握る感というのが、また今までの作品と異なる感じが出ててよかったです。
デ・パルマやジョン・ウーは彼らの様式美みたいなのがあって(全然タイプは違いますが)、それにより新しい「ミッション:インポッシブル」を生み出しました。
エイブラムスやブラッド・バードはエンターテイメントとしての仕掛けをいろいろ盛り込む点で優れています。
今回のマッカリーはそういった仕掛けはほどほどにし、肉体感のある「手に汗握る」感じを上手に進化していて、また新しい「ミッション:インポッシブル」像を提示したように感じました。
本作のヒロインはレベッカ・ファーガソン。
知らない女優さんでしたが、綺麗な上に、知的そう。
「アウトロー」のロザムンド・パイクもそういうイメージですよね。
これは監督の好みかな。
アレック・ボールドウィンはCIA長官として登場、そして驚きは最後にはIMF長官に転職。
次回作からレギュラー?
テープの声を吹き込むのはアレック・ボールドウィンになるのかしらん。

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2015年7月28日 (火)

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」 今を生きる

アドレナリンマックス!
まさに血沸き肉躍るとはこのことです。
このところ80年代の作品のリメイクが続いていますが、オリジナルを真正面からスケールアップした作品で好感度大です。
その世界観が「北斗の拳」をはじめ多くの作品に多大なる影響を与えた「マッドマックス2」ですから、期待度が大きかったですが、見事にそのハードルを越えてきました。
核戦争の影響により、荒廃した地球。
水とガソリンこそが、まさにこの世界の血脈。
それを支配できる者こそが人々の王となる、弱肉強食の世界。
しかし、潔いほどにこれらの設定を細かく説明することがありません。
オープニングから、主人公マックスたちが極悪非道の悪党どもの支配から逃れ、生き延び、そして牙を剥く姿のみを描いていく。
そこには人間同士のスマートな戦いの片鱗はなく、血と汗とオイルとガソリンにまみれた獣のバトル。
荒野を疾駆するトレーラーのエンジン音は獣の咆哮にも聞こえます。
敵も味方もただ生き延びるだけのために、拳を振るい、銃を撃つ。

一緒に観に行った相方は途中で寝ておりました。
あの爆音の中でよく寝れるなあと思いましたが、本人いわく「ずっと戦っているだけでお話しがなくてつまらない」とのこと。
これはある部分は正しいかなと。
この作品は設定を説明するということにエネルギーを割いていません。
放射能で汚染された地球がどのようになってしまい、社会がどう変わっているか。
土が汚染され、遺伝子異常の子供たちが生まれる中で、人々の行動はどのような変化があるのか。
世界の背景とその結果については感じさせるだけで、説明はしません。
また主人公マックスについても時折差し込まれるフラッシュバックにより、彼がどのような生き方をしていてきたのかを感じさせるだけ。
世界にしても、人物にしても過去の説明はほとんどしない。
描くのは、ただ生き残ろうとする今の人々の生き様だけ。
それがとても潔い。
そのことが、彼らが生きるだけで精いっぱいで、彼らには「今」しかないということが伝わってきます。
もしかすると、フュリオサだけが「希望」という名の「未来」が見えたのかもしれません。
マックスも「今」だけを生きてきた男です。
けれどフュリオサを通じて、彼も「未来」を感じることができたのかもしれない。
だからこそマックスは彼女の「未来」を守るために戦えたのでしょう。
冒頭ではマックスからは空虚さしか感じられませんでしたが、砦を去る時の彼の姿には確かに「希望」が感じられました。

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2015年5月24日 (日)

「メイズ・ランナー」 少年版「LOST」

最近は若者たちを主人公とした3部作の映画が多く公開され、ヒットしていますね。
「トワイライト」頃からだったと思いますが、「ハンガー・ゲーム」とか「ダイバージェント」(これは観てない)などと続き、本作もその系譜につながるかと思います。
いずれもティーン向けのヒット小説を原作にした映画化作品なので、ある程度のヒットが見込みやすいというのが、最近この手の作品が多い理由なのかもしれません。
日本でいったら、動員が見込める人気コミックの映画化という感じでしょうか。
ティーン向けの映画といっても、映像的には十分に凝っているので、大人が観ても満足出来る作品も多くありますよね(「ハンガー・ゲーム」など)。
本作は予告を観てみたらけっこうおもしろそうだったので、気になって見にいってきました。
この作品、数年前に一世を風靡したアメドラ「LOST」を彷彿とさせる雰囲気がありますよね。

主人公トーマスは気づくと壁に周囲を囲まれた草地にいた。
そこには自分と同じ年頃の少年ばかり。
自分には名前以外には何も記憶が残っておらず、少年たちも同様。
壁は日々その構造を変える迷路となっており、その中に入ったときは夜までに戻らないと、迷路に棲む怪物に喰われてしまうと言われている。
その地に住む少年たちは経験を重ね、独自のルールを作り社会を作っていたが、トーマスという異分子が入ってきたおかげでその小さなコミュニティは動揺する・・・。
彼らの周囲に存在する迷路はなんなのか。
何のために存在しているのか。
そして自分たちは何者なのか。
誰かの目的により、ここにいるのか。
何もかにもわからない状況の中で、少年たちを取り囲む環境が変化していく・・・。
まさに少年版「LOST」。
無人島的な雰囲気、なかなか明かされない謎、さらに広がる疑問。
この手の作品は謎について多くを書くとネタバレになるので、あまり触れられませんが・・・。
もともと「LOST」は好きだったので、こういうのは大好きです。
一瞬「蠅の王」的な展開になるのかなと思ったりもしたのですが、それほど重苦しくはなくならず、あくまで「LOST」っぽい雰囲気のあるエンターテイメントで通してくれたので、楽しめました。
本作のあと、洋画では珍しく第二作の予告編も上映されていました。
後引きしそうな予告編は、まさにアメドラな感じですねえ。

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2015年2月21日 (土)

「ミュータント・タートルズ(2015)」 ミーガン・フォックスの色気

前も実写映画化されてましたよね。
観たはずだけれど、よく覚えていないのです。
調べてみたら、製作はいまはなき香港のゴールデン・ハーベストでした。
ニンジャというより、カンフーだったのかな。
アメリカでは「ミュータント・タートルズ」ってかなり人気らしいけれど、どうもマッチョなカメのヒーローっていうのが、どうもあまりカッコよく思えないのですよねえ。
みなさんどうでしょう?
このあたりアメリカ人と日本人のセンスの違いなのかもしれません。
本作はモーション・キャプチャーをバリバリに使い、確かにアクションは見ごたえがあるところありますよね。
雪山のシークエンスはスピード感もあり、ハラハラしながら見れました。
モーション・キャプチャーはかなりこなれた技術になってきたと思います。
CGの質感も以前のようないかにもCGという感じもなく、自然に共演者やリアルな背景に馴染んでいるようになりました。
けれどやっぱりカメのヒーローに馴染めない・・・。

じゃ、なんで観に行ったんだよという話になるわけですが。
それは予告で観てミーガン・フォックスが色っぽかったから!(不純な動機)。
ミーガン・フォックスがブレイクしたのは「トランスフォーマー」でした。
ほとんどの人がこの作品でミーガン・フォックスを知ったのだろうと思いますが、たぶん多くの男性陣はそのセクシーさにやられたことでしょう。
そのあと「トランスフォーマー2」では、意味なくセクシーなことをやらされてミーガンが怒り、監督のマイケル・ベイとの関係が悪化したと聞きました。
この作品の製作のひとりにマイケル・ベイが入っているのですが、二人は和解したのでしょうかねー。
どうも馴染めないカメたちにはほとんど感情移入ができなかったので、僕は結局ずっとミーガンだけを集中的に観てました。
観ていながら、この方の色気というのはどこからくるのだろうと考えてました。
確かに美人だし、スタイルもいい。
ただそれだけではない色気があるような気が。
と考えていて、気付いたのは、この人は唇を半開きにしていることが多いのです。
唇の形もきれいですが、半開きにしているところが、妙に隙があるような感じがして、それが色気に繋がっているのではないかと。
美人の人がきりっと唇を閉めていると、ちょっと冷たくとっつきにくい印象になります。
逆に開けっ放しでいると、おつむが弱そうな感じに・・・。
ミーガン・フォックスは絶妙な感じに隙がありそうなところがあり、そこに彼女特有の色気が生まれているのではないかと結論しました。
あくまで個人的見解です(笑)。
しかし、まったく作品と関係ない話を書いてしまったなあ。

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2014年9月21日 (日)

「舞妓はレディ」 おおきに、すんまへん、おたのもうします

劇場の売り場で「『舞妓はレディ』のパンフレットください」と自分の口で言ったとき、初めて気がついた。
「舞妓はレディ」って「マイ・フェア・レディ」のもじりだったんですね。
妙なタイトルだなーとは思っていたのですが。
予告を観てても気づかなかった(恥)。
確かに、田舎出身の少女を一人前の舞妓にするべく周囲の人々が彼女に力を貸して育てあげるというお話ですから、確かに「マイ・フェア・レディ」に通じるお話ですね。
一般庶民はなかなか接することができない花街を舞台にしているので、周防監督らしくその文化について丁寧に調べてお話を作っている感じがします。
単純に舞妓さん、芸妓さんの生活を描くだけではなく、その文化、特に言葉というところに注目しているところが周防さんらしい。
文化はその土地の歴史や気候などに影響を受けてきているものですが、その中でも言葉の役割は大きい。
京ことばのまろやかさは、相手に対して丁寧に応対をするというセンスと、またあまりぎくしゃくとした対立をしないようにするといった配慮というものが現れているのかもしれませんね。
客に誘われたときとりあえず「おおきに」って言うのはまさにそういったセンスです。
センセによれば「おおきに、すんまへん、おたのもうします」というのが舞妓基本三単語ということですが、確かに相手の言うことをいったん受けて、受け流すというような感じがしますね。
まさに言葉の合気道。
とはいえ、いつもほどそこをテーマアップして堅苦しくならないのが、本作品。
あくまで舞妓になりたいという気持ちの女の子の成長物語が中心です。
主演の上白石萌音さんは初めてみましたが、あまりあか抜けない感じ(失礼!)が役にぴったりな感じがしました。
それでも最後は一人前の舞妓さんに見えてくるようになるのだから、ずいぶんがんばったのでしょうね。
脇も周防組らしく、個性ある役者さんが集まっているので安心感があります。
今回ポイントはミュージカル仕立てですが、最近のハリウッドの洗練されたミュージカルとは異なり、一昔前のやや野暮ったさのあるミュージカル風でした。
この一昔前感みたいなのは、伝統を引き継いでいる花街のイメージをうまく表しているような感じもしました。
観終えたときにあったかい気持ちになるハートウォーミングな映画でした。

竹中直人さん、渡部えりさんの「Shall We ダンス?」コンビの仮装は、笑っちゃいました。
ひさしぶりだったのにも関わらず、あの頃とまったくお二人は変わらないですねー。
あと、舞妓時代の千春のミュージカルシーンがあるのですが、それを演じていた女優さんの歌がとてもうまくてびっくりしました。
よくよく彼女の顔を見たことがあるなと思って考えると、「カノジョは嘘を愛しすぎている」の大原櫻子さんだったんですね。
うん、うまいはずだわ。

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