2025年12月 7日 (日)

「港のひかり」 強さとは何だ

藤井道人監督はアウトサイダーを描いている印象が強い。
ここで言うアウトサイダーとは社会の枠組みからはみ出してしまった者たちである。
昨年多くの映画賞を受賞した「正体」では、冤罪を着せられてしまった男、鏑木は名前と顔を変えながら、社会の片隅で身を隠しながら生きていた。
また「ヤクザと家族 The Family」では、社会における居場所を失ってしまったアウトサイダーとしてのヤクザが描かれている。
かつてヤクザという存在は日本映画においては一つのジャンルとなっていた。
高倉健が主人公を演じていた時代はある種のヒーローとしての立ち位置であり、北野武監督の作品などに登場するヤクザは極悪非道の悪の存在である。
善悪それぞれの面で描かれていたヤクザであるが、共通しているのは一般人にはない強さであるかもしれない。
この強さには暴力的な強さという側面もあるが、もう一つは精神的なものもあると思う。
義理とか仁義などの信念に対し、命を賭すほどの精神的な強さ。
それら複合した強さが一般人からすれば恐れ、そして畏怖の対象となっていたのがヤクザであったのかもしれない。
(これはあくまで物語上のヤクザの話である。現実世界のヤクザはそんなものではないと思う)
「ヤクザと家族 The Family」が新鮮だったのは、そのヤクザを題材としながら、現代のヤクザを弱者として描いたところであった。
警察の対暴力団の活動は近年激しくなり、どの暴力団も苦しい状況と聞く。
そして一般人からの目線も厳しい。
かつてあった畏怖のようなものはすでになく、この作品の主人公元ヤクザの山本はただ社会からはみ出した者として排斥される姿が描かれる。
「港のひかり」の主人公の三浦は、「ヤクザと家族」の山本がそのまま生きていたら、というような存在にも見えてくる。
義理や仁義という信念を心に持ちながら、社会の片隅で生きている。
「ヤクザと家族」において山本が尊敬するオヤジを演じていたのが本作の三浦役の舘ひろしであるのも興味深いところだ。
三浦は若頭の頃、心酔するオヤジに「強さとはなんだ」と問われる。
うまく答えられられない三浦に向かって、オヤジは答えを言う。
「誰かのために生きられるか」
本当の強さとは自分のために生きるのではなく、誰かのために自分の生をかけられるかということだ。
三浦はその言葉を胸に秘めて生きていく。
そしてある日、三浦は目の見えない少年幸太に出会い、彼のために生きていくことになる。
そして幸太も間近で三浦の生き方を感じることにより、彼の精神、強さを受け継いでいく。
三浦が所属していた河村組の面々、特に組長の石崎は、三浦とは対照的である。
三浦が精神としての強さを象徴しているのに対し、彼らは暴力としての強さを表している。
暴力としての強さは他者を犠牲にして自分のために生きていく。
弱肉強食の世界であり、もし隙が出た場合は、より強い者に食われてしまう。
石崎の懐刀であった八代の最後の行動などはそれを端的に表していると思う。
十数年ぶりに二人が再会した時、幸太はこう言う。
「おじさんだったらどうするか」
悩んだ時に三浦だったらどのように行動するか、と考え幸太は人生の岐路で答えを出してきていた。
誰かのために生きる、ということを第一に考えた時にどう自分は行動するべきか。
おじさんの存在、おじさんの生き方は幸太にとって生きる指針であった。
真夜中に海原を進む船にとって帰る場所を示す「港のひかり」であったのだ。
そして幸太に対し、三浦は
「強くなったな」
と答える。
自分の生き方を受け継いでくれる者を得られ、自分の人生が決して無駄ではなかったと思えた瞬間であったのだろう。
ヤクザ、警官と立場は真逆ではあるが、「誰かのために生きる」という信念は伝承された。
本当の強さが。

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2025年11月14日 (金)

「もののけ姫」文明と自然の間で

「もののけ姫」を28年ぶりに鑑賞した。
公開当時「もののけ姫」は社会現象となっていた。
当時、日本歴代興行収入1位を乗り換えたのもうなづける。
宮崎駿、スタジオジブリを世界レベルの認知に引き上げるきっかけとなった作品と言ってもいい。
しかし、初めてこの作品を見た時、個人的には非常に冷めた感想を持ったことを記憶している。
捻くれ者なので、世間が盛り上がるほど冷めてしまったというのもあったかもしれない。
中学生の時からアニメは好きで、「未来少年コナン」あたりから宮崎駿は好きだった。
アニメを作家の作品として見始めた頃だった。
特に「カリオストロの城」は好きでテレビで放映されたものをビデオで録画して何度も見たものである。
当時テレビで放映されたものは放送時間に合わせてカットされていた。
そのため「完全版」はずっと見たことがなく、遠くの大学の映研が文化祭で映写するというのを聞いてわざわざ出かけて行ったのを覚えている。
なので「もののけ姫」が大ブームとなったとき、「何を今さら」と思ったのだった。
我ながら捻くれ者である。
ただ「もののけ姫」は自分が好きであった「コナン」や「カリ城」とはトーンが異なっていることも、もう一つの理由であったと思う。
「風の谷のナウシカ」あたりから宮崎駿の作品からは、ある種の説教くささのようなものが出てきていたように感じていた。
「もののけ姫」はそのトーンが顕著に出てきたように思い、拒否感のようなものを感じたのだと思う。 では、改めて30年近く経って「もののけ姫」を見て、受け止め方は変わったのだろうか。
結論から言うと、変わった、である。
初見の時はエコ的なテーマが押し付けがましく鼻白らんだのだが、自然と文明という2つのベクトルの間で葛藤する人間の存在が描かれていると思った。
本作において自然と文明をそれぞれ象徴する女性がいて、前者がサンであり、後者がエボシ御前となる。
森を焼き、シシ神の首を狙うエボシ御前は、自然の破壊者のように描かれる。
しかし、彼女をそのような側面だけでは説明できない。
彼女は社会の弱者、女性や病人(おそらく癩病)を庇護し、彼らが自立していける社会を目指している。
そのために文明化する必要があり、自分自身を守るために武装化もしなくてはいけないと考えている。
森を焼くことは彼女の大義のために正当化される。
対して、サンは捨てられた子供であり、モロの君に育てられた。
森こそが彼女にとって母であり、家である。
森は多くの生命を生み、育んでいる。
その森を焼く人間たちは、同族であってもサンの敵である。
その首魁であるエボシ御前の首をサンは狙う。
文明も自然も、それぞれの立場に立てば、それぞれの正義がある。
そしてそれは交わらない。
平行線だ。
その二人の間に立つのがアシタカである。
アシタカは村を襲ったタタリ神を倒した時に、呪いを受ける。
そのタタリ神はエボシ御前の放った礫によって傷つき、荒ぶる神となった。
アシタカが受けた呪いは、自然の呪いでもあり、文明の呪いでもある。
森を切り開くことで木々がなくなり、山の保水力がなくなったことによって、土石流が起こる。
化石燃料を使うことにより、温暖化が進み、猛暑が毎年のようにやってくる。
今、起こっていることはアシタカが受けた呪いに重なる。
アシタカは二人の間に立つ。
彼はエボシ御前が目指す弱者も生きていける社会の共感する。
そしてまたサンが森を守ろうとする気持ちも大切にしたいと考える。
そもそも彼も蝦夷の出身で自然と共に生きてきたからだ。
前述した通り、エボシ御前とサンが目指すものは交わらない。
しかし、それでもアシタカはどこかで何か二人ともを救う道がないかを探り続ける。
彼はエボシ御前の町に住み、そしてサンが暮らす森に赴く。
その姿は今も自然と文明のバランスをどう取るべきか足掻く人類に重なる。
このように改めて感想を書いてみると、30年前の自分は浅くしかこの作品を見ていなかったことに気づく。
「もののけ姫」で語られる物語には、まさに今の時代を言い当てている先見の明があったのだ。

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2025年8月10日 (日)

「ミッション:インポッシブル」まさに原点

「ファイナル・レコニング」でシリーズ最終と言われていて、旧作からのリンクも数々見られました。
その中でもシリーズ第1作である本作から繋がっている部分が多かったように思います。
ということで、改めてシリーズの原点を見直してみました。
一作目で最も印象的なシーンは、CIAのデータベースに侵入するシークエンスでしょう。
トム・クルーズ演じるイーサン・ハントが宙吊りになりながら、データにアクセスする場面は、派手なアクションはないのですが、緊張感が溢れる名場面だったと思います。
アクションがなくてもこれだけテンションを上げられるのは、監督のデ・パルマの演出も良かったのでしょう。
宇宙船の中のようなデータ室でハントが宙吊りになっているシーンをワイドで押さえたショット、逆にハントの顔に極端にクローズアップして流れる汗をとらえたショット。
非常に緊迫感あふれる演出でした。
このシーンは他の作品でも影響を受けたものを見ることもあり、多くのインスピレーションを与えたと思います。
このシーンに登場するCIAのアナリストがダンローで彼は最新作「ファイナル・レコニング」で重要な役割を担うことになります。
この時はそのようになることは予想もできないですよね。
確かに一作目で失態を演じた時に、キトリッジにアラスカに左遷させろと言われていました。
キトリッジも一作目から登場し、最新作にももちろん登場しています。
本作は進化が進む本シリーズの作品を見た後に見ると、シンプルに感じるところはあります。
しかし、ストーリーとしても「スパイもの」らしく何が本当かということがわからないまま進み、ストーリーとしても緊張感が続く仕立てになっています。
初めて見た時は、フェルプスが生きていたことが明らかになった時非常に驚いた記憶があります。
アクションも今見るとCG感を感じるところがありますが、それでも見応えがあります。
その後のシリーズでトム・クルーズがさまざまなアクションを本人が演じ驚かせますが、その原点がまさにこの作品なのだと実感できます。
本作はアクション映画において一つのマイルストーンになっているような気がしますし、だんだんと少なくなっているリアルで肉体を感じるアクションの貴重な流れを担っていると思います。

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2025年6月29日 (日)

「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング 」肉体を感じるアクションへのこだわり

「ミッション:インポッシブル」シリーズの最終作である「ファイナル・レコニング」、ようやく見てきました。
最終作と言われるだけあって過去作からのリンクもいくつか見られますので、ずっとシリーズのファンだった方には楽しめるところが各所ありますね。
しかし、この作品の見どころといえば、やはりイーサン・ハントことトム・クルーズのアクションでしょう。
このシリーズがまさにトム・クルーズのアクションを見る映画ではありますが、本作はその集大成とも呼んでもいいと思います。
中でも特筆すべきアクションは中盤の潜水艦の中のシークエンスと、後半のレシプロ機での空中戦です。
いずれも「ミッション:インポッシブル」らしいタイムリミットありのシークエンスとなっていますが、それぞれ違った趣があります。
潜水艦内でのアクションは派手な動きがあるわけではないですが、時間だけでなく、空間的な制約を受けながら、ミッションを果たすというシチュエーションです。
そもそも深海での作業という不自由な作業であり、空気が切れてはいけないという制約を受けています。
さらには潜水艦がバランスを崩し海溝に転がり落ちそうになり、そのため船内では魚雷がハッチを塞ぎ、退路が断たれてしまう。
生き延びるための選択肢が次々となくなっていく中で、イーサン・ハントは脱出方法を見つけられるのか。
まさに息苦しくなるような圧迫感の中、静かなアクションが進みます。
後半の見せどころとなるのが、レシプロ機でのアクションです。
予告で見ていた時は、レシプロ機ということで「トップガン」などを見た後ではスピード感などがないのではないかと思っていて、物足りないものになっているのではないかと懸念していました。
しかし、そんなことは全くありませんでした。
逆にレシプロ機というのは人が機上でさまざまなアクションができるギリギリの速さの飛行機なのかもしれません(ジェット機では速すぎる)。
人間が生身で対応できる極限の速さの中で繰り広げられるアクロバティックなアクション。
極限というのは「ミッション:インポッシブル」の一つのテーマかもしれません。
どこまで実際に飛行機でアクションをしているのかはわからないのですが、本作のこのシークエンスは人の肉体感を感じるものになっていました。 風圧を、重力を、感じる。
このシークエンスが始まる時にトム・クルーズの顔が風圧でブルブルするようなシーンがあります。
いくらジェット機よりは遅いとはいえ、レシプロ機も飛行機です。
その風圧も含め、肉体を感じられるアクションになっているため、このシークエンスのアクションは見ている我々も、肉体感を感じられるものになっているのです。
最近のアクションはCGで見たことのないものを見せてくれますが、その反面肉体感は感じにくくなっています。
アニメーション的でもあります。
そのような最近の傾向に対するアンチテーゼかのように、本作のこのシーンは、リアルな身体感があり、だからこそ余計に怖い。
「ミッション:インポッシブル」シリーズはCGアクション隆盛のこの時代の中で、肉体的なアクションにこだわり抜いた作品として光っているように思えます。
人を呼べる最後のスターとも言われるトム・クルーズのこだわりが現れているように思います。

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2025年5月 2日 (金)

「マインクラフト/ザ・ムービー」映画にも受け継がれるゲームの思想

マイクラ好きの娘と行ってきました。
ちなみに娘はクリエイティブ派で色んな建物を作っていて、私はサバイバル派で色んなところ冒険行って、掘りまくるのが好き。
マインクラフトというゲームは場を与えているだけであって、それ以外はルールがありません。
自分がしたいようにプレイをする。
娘は建物を作りますし、私は冒険をする。
楽しみ方はそれぞれ。
個性、自由、創造がマイクラを表すキーワードになると思います。
映画版もゲームが持っている思想をちゃんと押さえたものとなっていました。
登場する人びとは社会からちょっとはみ出した人たち。
かつて有名ゲーマーで今は借金まみれの中年。
頭はいいけど、学校に居場所がないもやし少年。 日常に飽き足らず、夢を追いかけてマイクラの世界に住み着いてしまった男、などなど。
うまく社会に適応できなかった人びとが主人公です。
彼らがマイクラの世界で自分たちの個性を発揮しながら、ネザーからの侵略を食い止めようとします。
現実世界は多様性と皆が言っていた時から、逆戻りしている感じがありますね。
違う価値観をお互いに認め合うというより、相手を攻撃する方に向かっていると思います。
そんな中で社会的に適応できない人たちははみ出していってしまいます。
本作では彼らが主人公です。
マイクラというゲームのもう一つのキーワードは無限だと思います。
クリエイティブモードでは資源は無限に使えますし、サバイバルモードは世界の果てはなくどこまでも行くことができる。
無限だからこそ、制約がなく、自分がやりたいようにやれる。
自分の個性を遠慮なく発揮できる。
映画でも登場人物はそれぞれの個性によって危機を乗り越え、そしてそれをお互いにリスペクトしています。
ちゃんとマイクラの思想が現れているなと思いました。
CGもよくできていて、あのマイクラの世界観がいい塩梅でリアリティで表現されていました。
クリーパーとかスケルトンとかマジ怖いです。
娘的には前段の現代パートが長かったようで、「これ、マイクラの映画?」と言っておりました。 マイクラの世界に行ってからは、楽しく見れたようです。 前半は私も少々長い感じもしましたが、あれがないと人物の成長が描けないんでね・・・。
娘よ、いつかはわかると思う。

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2025年4月19日 (土)

「ミッキー17」彼らの解放運動

主人公ミッキーは借金取りに追われる身であったため、追っ手から逃れるために植民星に向かう宇宙船に乗り込もうとします。
その時、うっかり契約してしまったのが、とんでもない契約。
人類は人間の記憶を保存し、3Dプリンタのように出力した人間の体にインストールする技術を開発していました。
つまり、死んでも何度でも生き返るということです。
ミッキーは、死んでも何度でも生き返り、仕事を続けなければいけない、という契約にサインしてしまったのです。
死んでも何度でも生き返る、っていうのは一見「死なない」ってことと同義のように聞こえて、素晴らしい感じに思えなくもないですが、実際のところはとんでもない。
命というのは死んだら終わり、一回きりのもの、という前提があるからこそ、貴重であるわけですが、それが何度でもやり直しができるとなると、その重みは自然と軽くなってしまいます。
ミッキーはまさに「エクスペンダブル(消耗品)」と呼ばれ、モルモットのように実験台にされ、消費されていきます。
人間を出力する機械は、少し前のプリンタのように少し出したら引き戻して、重ねて印刷をするというような動きをしていて、最新式機械とは思えないアナログさを醸し出しています。
これは印刷を失敗したコピー紙をぐちゃぐちゃにしてポイ捨てしてしまうような感覚に繋がり、ミッキーそのものもその程度の重みでしかないことを印象付けます。
ただし、ミッキーも契約するまでは正真正銘の人間であって、ただサインをしてしまっただけでこのような人間扱いされない状態になってしまうのも不条理ではあります。
友人であったティモなどは特にひどく、彼のためにミッキーは借金を減ってしまったわけなのに、エクスペンダブルになったミッキーに対して、全く人間扱いをしません。
彼にとってはミッキーは別の生き物になってしまったかのようです。
これも歴史的には珍しいことではなく、かつての奴隷も同じような扱いであったのかもしれません。 ミッキーは奴隷のメタファーなのかもしれません。
ちょっとした手違いからミッキー17は死んだものと見做され、ミッキー18がプリントアウトされます。
本来彼らは同時に存在してはならず、そのため彼らは殺されそうになります。
そして搾取され続けることに嫌気がさしたミッキー18は移民団の支配者であるマーシャルを殺そうとします。
まさに彼らの奴隷解放運動です。
ミッキーの恋人であるナーシャだけは彼を人間として愛しており、彼の戦いを援護します。
結果、彼らの企みは成功し、マーシャルからミッキーは解放され、そして改めて本名であるミッキー・バーンズを名乗ります。
これも奴隷解放によって苗字を手に入れた黒人に通じるものがありますね。 本作は韓国の巨匠、ポン・ジュノが監督。
彼らしいブラックなユーモアがところどころにありますが、全体的にマイルドではあります。
彼の作品は見るのにかなりエネルギーを消耗するのですが、そういう点において気軽には見れます。
本来の彼の作品が好きな方には少々物足りないかもしれませんね。

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2025年1月19日 (日)

「室町無頼」今までにない時代劇ヒーロー

時代劇好きなんですが、映画化やドラマ化される時代というのはかなり限られています。
戦国時代や幕末などのドラマチックな要素がある時代が取り上げられやすいと思います。
最近でこそ、NHKの大河ドラマで平安時代や鎌倉時代、江戸時代中期が取り上げられていますが。
本作で取り上げられるのは、室町時代。
この時代を扱っている映画は、個人的にあまり記憶にないですね。
本作が舞台となるのは室町時代末期、天変地異や飢饉が起こり、人々がどん底のような暮らしを強いられている時代です。
多くの民が餓死し、世の中が荒れ果てていました。
世情が荒れる中、次第に幕府の威光は翳り、次第に大名たちが力を持つようになり、最終的には応仁の乱が起こり、戦国時代へと時代は移ります。
この世紀末的描写は本作でも冒頭から描かれており、まさに世紀末といった様相です。
スタッフたちは企画の時から「マッドマックス」や「北斗の拳」をイメージしていたということです。
民が搾取され地獄のような苦しみに苛まれる中、各地で徳政一揆が発生します。
そのうちの一つ寛正の土一揆を指揮したのが蓮田兵衛という浪人、本作の主人公です。
まさに彼は弱き者のために立ち上がるヒーローです。
本作は画作りや音楽などからわかるように往年のマカロニウエスタンを意識しているように思いますが、それらに登場する流れ者の主人公のようでもあります。
兵衛を演じるのは大泉洋さん。
兵衛は役割的にはさすらいのヒーローなのですが、大泉さん自身とした飄々とした佇まいがかけ合わさって、独特なキャラクターとなっていると思いました。
飄々とした姿と切れ味鋭い兵法者としての顔が見られ、今までにない時代劇ヒーローとなっていたと思います。
本作のクライマックスは一揆となり、京都守護と一揆側との大人数の激突になります。
この大規模なアクションシーンは非常に力が入っていて見応えありました。
最近ではなかなか見られない規模感であったと思います。
さらには長回しなども多用しており、その場にいるような臨場感がありました。
兵衛に拾われ、一人前の兵法者として育てられた才蔵の1カット長回しのアクションシーンがありますが、これが大変カロリーがかかっているシーンで、息つく暇がありません。
当然カットはわからないように割っているとは思いますが、カメラが縦横無尽に動き回り、かつ才蔵を演じる長尾謙杜さんのキレがあるアクションは見事。
久しぶりに見応えのある時代劇アクションを見せてもらいました。

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2024年12月25日 (水)

「モアナと伝説の海2」強いヒロイン

2017年に公開された「モアナと伝説の海」の続編です。
前作ではどのような感想を書いていたのかと、前回レビューを見直してみました。
それまでにディズニープリンセスの系譜とはモアナは異なり、自分自身のパーソナルな問題を解決すべく行動するのではなく、社会のために行動すると書いていました。
本作を見てみて改めて、同じように感じました。
モアナは人々のために行動を起こします。
そして今回は故郷の島の人々のためでなく、広い海の中でバラバラになってしまった人々を再び繋ぎ、繁栄をもたらすために行動を起こします。
前作と異なるのは、モアナには心強い仲間たちがついていること。
以前はたった一人で行動を起こしましたが、今回は彼女に共感し一緒に旅をしようとする仲間たちがいます。
前回はためらいもあり、挫折も経験しましたが、今回のモアナには揺らぎがありません。
人々を再び繋ぐことは皆にとって必ず良いことが起こると確信しています。
だからこそモアナは強い。
最近のディズニーのプリンセスは強い女性が多いですが、その中でも群を抜いて強いのがモアナであると思います。
人々のつながりを断つために伝説の島モトゥフェトゥを沈めたのはナロという神です。
しかし、ナロはなぜそのようなことをしたのでしょうか。
その理由は本作の中では明らかにされていません。
人と人が交わることにより、文化は発展していきます。
しかし、それがきっかけとなり争いも起こる。
本作は続編も示唆されるような終わり方でした。
人々が再びつながり合ったその後、モアナのいる世界にはどのようなことが起こるのでしょうか。
それが次回で語られるのかもしれません。

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2024年12月 7日 (土)

「室井慎次 生き続ける者」透かし見える商売っ気

青島が登場する新作の発表があり、非常に驚いているところです。
本作のラストにも登場していて、もしかしたらと思っていたところでもありましたが。
さて、本作です。
こちらは10月に公開された「室井慎次 敗れざる者」の続編です。
そちらのレビューでも書いた通り、前作は前振りのような位置付けであるため、見終わったあとは消化不良感がありました。
ですので、本作ではその感覚が解消されることを期待していました。
けれどもその期待は叶いませんでした。
本作は室井慎次というキャラクターの生き方を描き切るという目的で書かれたものだとは思います。
それであれば、真っ直ぐに彼の生き様を描けばよかったように思います。
本作はもともとBSのドラマとして企画されていたということなので、その頃はそうであったのかもしれません。
しかし、冒頭に書いたような青島が復帰し、シリーズが再起動するということが見えていた時に、本作をその呼び水にしたいという商売っ気が出てしまったような気がします。
前作を見た時から気になっていたことの一つとして、過去作品からの引用が多いというものでした。
昔からのファンからすると過去のキャラクターに関わるエピソードが出てくるのは嬉しいものです(本作でもすみれのその後に触れられていました)。
そもそも「踊る大捜査線」というシリーズがヒットした要因の一つとして、多種多様のキャラクターたちのサブエピソードが織りなすリンクが挙げられます。
ファンであればあるほど楽しめるこういった仕掛けは、MCUなどでも見られます。
こういった仕掛けは昔のファンも見に行ってみようという気持ちにさせる動機になります。
本作の事件は、室井の自宅の近くにレインボーブリッジ事件の犯人の一人の死体が埋められていたというものです。
そしてまた室井の家に転がり込む娘、杏が、日向真奈美であることもわかります。
これらは上に書いたリンクの要素です。
お客を呼ぶ仕掛けです。
しかし、それらの仕掛けは全く本作が描こうとしている室井慎次の生き様には関係がありません。
そしてタチが悪いのは、そのリンクの部分が本作のメインの筋に大きく関わっているように見えることです。
レインボーブリッジの事件から繋がるような気配がある死体遺棄事件は、結局は昔の仲間同士の仲間割れであり、室井の家の近くに埋めるように指示をした真奈美の意思はよくわからないままです。
杏のエピソードについても、母親が真奈美でなくても成立します。
かえって真奈美が刑務所で子供を産むという力技を駆使して、違和感を生み出しています。
前作では大きく事件が展開されるというような振りで終わりましたが、その結末は期待はずれでした。
客を呼び込もうと商売っ気で、伝えたかった物語な酷く濁っているように思います。
MCUはスーパーヒーロー疲れという現象に対し、従来ファンを意識したリンクの要素を以前より少なくし、それぞれのキャラクターのドラマを描く方向に舵を切っています。
それに対して「踊る」シリーズは、まさにかつてのMCUが歩んだ道を行こうとしているように見えます。
これを続けるといづ「踊る」疲れになるような気がします。

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2024年10月14日 (月)

「室井慎次 敗れざる者」いまさら感と前振り感

テレビドラマ「踊る大捜査線」は夢中になって見てました。
青島風のモッズコート購入したりして。
当時の刑事ドラマの定石をことごとく無視をして(いい意味で)、新しいスタイルを生み出したと思います。
「踊る大捜査線」は刑事もの、警察ものというジャンルではなく、お仕事ムービーなんじゃないかと思います。
お仕事ムービーは今は一つのジャンルとなっていますが、その先駆けとも言えるかと思います。
シリーズ開始してから27年経ちますが、今になって突然の「踊る大捜査線」のスピンオフが本作になります。
今までも映画やスペシャルドラマなどでこのシリーズのスピンオフは数々作られてきました(スピンオフというものが定着してきたのも本作の功績かも)。
ドラマ好きであれば、リンクやカメオなどで楽しめる要素はあるのですが、作品としてはやはりパワーダウン感は否めない印象です。
やはり「踊る大捜査線」はあの湾岸署のメンバーがあってこそなんだな、と。
なので、正直「いまさら感」は感じながら、本作を見にいきました。
まず説明しておくと本作は2部作となっています。
「敗れざる者」はその前編ということになります。
そういうことなので致し方ない部分はありますが、本作は非常に前振り感ばかりを感じてしまう印象です。
後編で事件が大きく動くのかもしれないですが、そのためのさまざまな伏線らしきものを張っているだけのように見えました。
そして起こっている事件も、過去の作品での出来事が伏線となっています。
ファンにはたまらないのかもしれないですが、正直、過去の遺産で食っているような印象も受けました。
また主人公の室井慎次という男がなかなか扱いにくい。
無口であり、自分の考えを自分から話す人物ではありません。
彼は青島のようなキャラクターに影響を受け、変わっていくことによって生きていくのだと思います。
本作ではそのような人物はいませんし、彼は諦念と後悔も含め、彼の生き方自体は揺るがない男です。
なのでドラマが非常に動きにくい。
そのためか、犯罪によって身寄りを失った子供たちが出てくるのだろうと思いますが、そのような活動をしようとすることにした室井の気持ちに触れられていないため、ドラマを動かすためというような機能が見え、とってつけた感がしてしまいます。
2時間淡々と過ぎていき、感情的な盛り上がりはあまり感じらません。
1本の映画としてはなかなか見れず、後編の前振りのような印象になったというわけです。
このモヤモヤは後編で解決するのでしょうか。
後半の予告的なものはポストクレジットで見れましたが、盛り上がるような印象はありました。
感じているモヤモヤが晴れることを望みます。

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