2025年1月19日 (日)

「室町無頼」今までにない時代劇ヒーロー

時代劇好きなんですが、映画化やドラマ化される時代というのはかなり限られています。
戦国時代や幕末などのドラマチックな要素がある時代が取り上げられやすいと思います。
最近でこそ、NHKの大河ドラマで平安時代や鎌倉時代、江戸時代中期が取り上げられていますが。
本作で取り上げられるのは、室町時代。
この時代を扱っている映画は、個人的にあまり記憶にないですね。
本作が舞台となるのは室町時代末期、天変地異や飢饉が起こり、人々がどん底のような暮らしを強いられている時代です。
多くの民が餓死し、世の中が荒れ果てていました。
世情が荒れる中、次第に幕府の威光は翳り、次第に大名たちが力を持つようになり、最終的には応仁の乱が起こり、戦国時代へと時代は移ります。
この世紀末的描写は本作でも冒頭から描かれており、まさに世紀末といった様相です。
スタッフたちは企画の時から「マッドマックス」や「北斗の拳」をイメージしていたということです。
民が搾取され地獄のような苦しみに苛まれる中、各地で徳政一揆が発生します。
そのうちの一つ寛正の土一揆を指揮したのが蓮田兵衛という浪人、本作の主人公です。
まさに彼は弱き者のために立ち上がるヒーローです。
本作は画作りや音楽などからわかるように往年のマカロニウエスタンを意識しているように思いますが、それらに登場する流れ者の主人公のようでもあります。
兵衛を演じるのは大泉洋さん。
兵衛は役割的にはさすらいのヒーローなのですが、大泉さん自身とした飄々とした佇まいがかけ合わさって、独特なキャラクターとなっていると思いました。
飄々とした姿と切れ味鋭い兵法者としての顔が見られ、今までにない時代劇ヒーローとなっていたと思います。
本作のクライマックスは一揆となり、京都守護と一揆側との大人数の激突になります。
この大規模なアクションシーンは非常に力が入っていて見応えありました。
最近ではなかなか見られない規模感であったと思います。
さらには長回しなども多用しており、その場にいるような臨場感がありました。
兵衛に拾われ、一人前の兵法者として育てられた才蔵の1カット長回しのアクションシーンがありますが、これが大変カロリーがかかっているシーンで、息つく暇がありません。
当然カットはわからないように割っているとは思いますが、カメラが縦横無尽に動き回り、かつ才蔵を演じる長尾謙杜さんのキレがあるアクションは見事。
久しぶりに見応えのある時代劇アクションを見せてもらいました。

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2024年12月25日 (水)

「モアナと伝説の海2」強いヒロイン

2017年に公開された「モアナと伝説の海」の続編です。
前作ではどのような感想を書いていたのかと、前回レビューを見直してみました。
それまでにディズニープリンセスの系譜とはモアナは異なり、自分自身のパーソナルな問題を解決すべく行動するのではなく、社会のために行動すると書いていました。
本作を見てみて改めて、同じように感じました。
モアナは人々のために行動を起こします。
そして今回は故郷の島の人々のためでなく、広い海の中でバラバラになってしまった人々を再び繋ぎ、繁栄をもたらすために行動を起こします。
前作と異なるのは、モアナには心強い仲間たちがついていること。
以前はたった一人で行動を起こしましたが、今回は彼女に共感し一緒に旅をしようとする仲間たちがいます。
前回はためらいもあり、挫折も経験しましたが、今回のモアナには揺らぎがありません。
人々を再び繋ぐことは皆にとって必ず良いことが起こると確信しています。
だからこそモアナは強い。
最近のディズニーのプリンセスは強い女性が多いですが、その中でも群を抜いて強いのがモアナであると思います。
人々のつながりを断つために伝説の島モトゥフェトゥを沈めたのはナロという神です。
しかし、ナロはなぜそのようなことをしたのでしょうか。
その理由は本作の中では明らかにされていません。
人と人が交わることにより、文化は発展していきます。
しかし、それがきっかけとなり争いも起こる。
本作は続編も示唆されるような終わり方でした。
人々が再びつながり合ったその後、モアナのいる世界にはどのようなことが起こるのでしょうか。
それが次回で語られるのかもしれません。

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2024年12月 7日 (土)

「室井慎次 生き続ける者」透かし見える商売っ気

青島が登場する新作の発表があり、非常に驚いているところです。
本作のラストにも登場していて、もしかしたらと思っていたところでもありましたが。
さて、本作です。
こちらは10月に公開された「室井慎次 敗れざる者」の続編です。
そちらのレビューでも書いた通り、前作は前振りのような位置付けであるため、見終わったあとは消化不良感がありました。
ですので、本作ではその感覚が解消されることを期待していました。
けれどもその期待は叶いませんでした。
本作は室井慎次というキャラクターの生き方を描き切るという目的で書かれたものだとは思います。
それであれば、真っ直ぐに彼の生き様を描けばよかったように思います。
本作はもともとBSのドラマとして企画されていたということなので、その頃はそうであったのかもしれません。
しかし、冒頭に書いたような青島が復帰し、シリーズが再起動するということが見えていた時に、本作をその呼び水にしたいという商売っ気が出てしまったような気がします。
前作を見た時から気になっていたことの一つとして、過去作品からの引用が多いというものでした。
昔からのファンからすると過去のキャラクターに関わるエピソードが出てくるのは嬉しいものです(本作でもすみれのその後に触れられていました)。
そもそも「踊る大捜査線」というシリーズがヒットした要因の一つとして、多種多様のキャラクターたちのサブエピソードが織りなすリンクが挙げられます。
ファンであればあるほど楽しめるこういった仕掛けは、MCUなどでも見られます。
こういった仕掛けは昔のファンも見に行ってみようという気持ちにさせる動機になります。
本作の事件は、室井の自宅の近くにレインボーブリッジ事件の犯人の一人の死体が埋められていたというものです。
そしてまた室井の家に転がり込む娘、杏が、日向真奈美であることもわかります。
これらは上に書いたリンクの要素です。
お客を呼ぶ仕掛けです。
しかし、それらの仕掛けは全く本作が描こうとしている室井慎次の生き様には関係がありません。
そしてタチが悪いのは、そのリンクの部分が本作のメインの筋に大きく関わっているように見えることです。
レインボーブリッジの事件から繋がるような気配がある死体遺棄事件は、結局は昔の仲間同士の仲間割れであり、室井の家の近くに埋めるように指示をした真奈美の意思はよくわからないままです。
杏のエピソードについても、母親が真奈美でなくても成立します。
かえって真奈美が刑務所で子供を産むという力技を駆使して、違和感を生み出しています。
前作では大きく事件が展開されるというような振りで終わりましたが、その結末は期待はずれでした。
客を呼び込もうと商売っ気で、伝えたかった物語な酷く濁っているように思います。
MCUはスーパーヒーロー疲れという現象に対し、従来ファンを意識したリンクの要素を以前より少なくし、それぞれのキャラクターのドラマを描く方向に舵を切っています。
それに対して「踊る」シリーズは、まさにかつてのMCUが歩んだ道を行こうとしているように見えます。
これを続けるといづ「踊る」疲れになるような気がします。

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2024年10月14日 (月)

「室井慎次 敗れざる者」いまさら感と前振り感

テレビドラマ「踊る大捜査線」は夢中になって見てました。
青島風のモッズコート購入したりして。
当時の刑事ドラマの定石をことごとく無視をして(いい意味で)、新しいスタイルを生み出したと思います。
「踊る大捜査線」は刑事もの、警察ものというジャンルではなく、お仕事ムービーなんじゃないかと思います。
お仕事ムービーは今は一つのジャンルとなっていますが、その先駆けとも言えるかと思います。
シリーズ開始してから27年経ちますが、今になって突然の「踊る大捜査線」のスピンオフが本作になります。
今までも映画やスペシャルドラマなどでこのシリーズのスピンオフは数々作られてきました(スピンオフというものが定着してきたのも本作の功績かも)。
ドラマ好きであれば、リンクやカメオなどで楽しめる要素はあるのですが、作品としてはやはりパワーダウン感は否めない印象です。
やはり「踊る大捜査線」はあの湾岸署のメンバーがあってこそなんだな、と。
なので、正直「いまさら感」は感じながら、本作を見にいきました。
まず説明しておくと本作は2部作となっています。
「敗れざる者」はその前編ということになります。
そういうことなので致し方ない部分はありますが、本作は非常に前振り感ばかりを感じてしまう印象です。
後編で事件が大きく動くのかもしれないですが、そのためのさまざまな伏線らしきものを張っているだけのように見えました。
そして起こっている事件も、過去の作品での出来事が伏線となっています。
ファンにはたまらないのかもしれないですが、正直、過去の遺産で食っているような印象も受けました。
また主人公の室井慎次という男がなかなか扱いにくい。
無口であり、自分の考えを自分から話す人物ではありません。
彼は青島のようなキャラクターに影響を受け、変わっていくことによって生きていくのだと思います。
本作ではそのような人物はいませんし、彼は諦念と後悔も含め、彼の生き方自体は揺るがない男です。
なのでドラマが非常に動きにくい。
そのためか、犯罪によって身寄りを失った子供たちが出てくるのだろうと思いますが、そのような活動をしようとすることにした室井の気持ちに触れられていないため、ドラマを動かすためというような機能が見え、とってつけた感がしてしまいます。
2時間淡々と過ぎていき、感情的な盛り上がりはあまり感じらません。
1本の映画としてはなかなか見れず、後編の前振りのような印象になったというわけです。
このモヤモヤは後編で解決するのでしょうか。
後半の予告的なものはポストクレジットで見れましたが、盛り上がるような印象はありました。
感じているモヤモヤが晴れることを望みます。

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2024年8月16日 (金)

「もしも徳川家康が総理大臣になったら」自分に期待しろ

正直、見る前は色物だと思っていたのですが、意外にも現代政治へのアンチテーゼとも言える作品でした。
本作では我々も経験したようなコロナ禍の中、総理大臣や閣僚が次々に罹患して死亡。
その後、後継の政権としてAIによって過去の偉人たちを復活させ政治を行わせるという奇策が打たれたのです。
すなわち、総理大臣に徳川家康、財務大臣は豊臣秀吉、経済産業大臣に織田信長。
その他にも坂本龍馬、紫式部、北条政子、足利義満、聖徳太子、徳川吉宗に徳川綱吉、といういずれも歴史に名を残した偉人たちが閣僚となり、政治に辣腕を振います。
彼らが行う政策は奇策ではありません。
パンデミックを防ぐための都市封鎖、それにより収入がなくなった人々に向けての大規模な給付金。
その資金の一部は企業に背負わせ、また食料自給と職を増やすために農業振興を行う。
大胆ではありますが、奇策ではありません。
しかし、これには国民それぞれに痛みが伴います。
現実の政治ではこのようなことは行えません。
痛みを真摯に説得できる政治家もいなければ、それを理解しようとする選挙民もいません。
野党はただ反対のための反対をしているだけで、代案を出すことはありません。
政治家が見ているのは国民の顔色で、国民は考えることを放棄して政治家に丸投げをしています。
どうしてこうなってしまったのでしょうか。
本作の中で「自分に期待しろ」というセリフが出てきます。
人々は圧倒的な現実、出来上がってしまったシステムを前にして無力感を持ち、何か課題があっても、自分の力ではどうにもならないという諦念を持っているのかもしれません。
それだからこそ、人まかせになってしまう。
人に任せて無責任になっているから、いくらでも文句は言えてしまう。
だから政治家は国民の顔色ばかり伺い、衆愚政治になっていく。
でもそれで国の良い舵取りができるとも思えません。
やはり国民一人一人が自分なりに考える、ということが必要なのですね。
「自分に期待しろ」という言葉は、自分が何を望んでいて、自分が何ができるのかということを考えるべきということです。
何も考えないから、他人がどうにかしてくれる、と他人に期待してしまうのです。
難しいことを考えられないかもしれないですが、どの人を選ぶのが良いのか、ということくらいは考えてもいいかもしれないです。
そんなことを考える機会を与えてくれた作品でした。
劇中で豊臣秀吉が言っていた「決める、任せる、責任をとる」は上に立つ者が持つべき、考えだなと思いました。
自分的にはこれは仕事でも実践しようと思いました。
勉強になりました。
彼ら偉人ジャーズのテーマソングが「大江戸捜査網」というのも笑いました。
これ、笑える人はある年齢以上ですよね。

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2024年7月 7日 (日)

「ミッシング」絶望的な無力感

自分にも小さな女の子の子供がいる。
当たり前のように繰り返される平凡な日々が愛おしく思う。
子供ができる前は自分がそのように感じることは想像できなかった。
もし突然、この子がいなくなったら、と想像するだけで身を切られるような思いになる。
本作の主人公沙織里の幼い娘が失踪した。
誰が連れ去ったのか、事故なのかもわからず3ヶ月が過ぎる。
何が起こったのかわかれば、そこに怒りが向けられるだけ楽なのかもしれない。
何もわからないからこそ、行き場のない辛さだけが募る。「もし・・・」という言葉が浮かぶ。
もし、自分がライブに行かなかったら。
もし、弟が家までちゃんと送っていたら。
自分のせい。
誰かのせい。
自分を責め、他人を責める。
自分も傷つけ、他人を傷つける。
自分の中の感情をどこにぶつけていいかわからず、自分の中でどす黒く沈殿していく。
それはマグマのように感情の中にたまり、突如爆発する。
周囲の攻撃から身を守るために暑くなった岩盤を期待は薄くする。
薄くなった岩盤は失望でマグマに破られる。
溢れ出た失望は沙織里に叫び声を上げさせる。
メディアやネットでは自分たちを容赦なく、責め立てる。
当事者の苦しみを理解することなく、原因を論う。
正論を言っているつもりで、当事者を遠慮なく傷つける。
沙織里は彼らにも翻弄される。
傷つけられるのをわかっていながら、それらに縋る。
その中のどこかに希望があるのではないかと望みを持ちながら。
しかし、その望みはしばしば裏切られる。
我が子が見つかったという情報があり警察に駆けつけるが、ガセだとわかり、沙織里は失望のあまり失禁までしてしまう。
この場面は見ていて、あまりに辛い。
沙織里が感じているのは、孤独だ。
我が子を失った悲しみ、それが自分のせいかもしれないという後悔、周りの全てへの怒り・・・。
何が悪かったのか、それすらもわからないことへの無力感。
これは身近な夫とも全ては共有ができないと思っている。
この絶望的な孤独感が全編を通して描かれている。
救われるのは、もう一人沙織里と同じように自分を責めて過ごしてきた弟、圭吾に対して、彼も同じような思いであることに気づけたところだろう。
絶望的な悲しみも後悔も、一人で背負うのでなければ、互いに救われるような気がする。

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2024年6月30日 (日)

「マッドマックス:フュリオサ」ドラマは感じる。もっと狂気が欲しい

思い返せば前作の「マッドマックス 怒りのデスロード」はたった三日間を描いた話だった。
そこには細やかなストーリーなど気にさせないほどのエネルギーと狂気があった。
荒廃した世界で欲望のみに生きる人間の獣のような争いの中で、マックスとフュリオサが戦い抜く。
獣のような人間が登場する中で唯一人間性を持ち、そしてこの野獣のルールの中でも逞しく生きようとしているのがフュリオサであった。
前作では脇役ながらあの世界での唯一無二のキャラクターが光り、主人公を食うほどの存在感を持っていた。
そのフュリオサが本作の主人公となる。
前作はたった三日間の抗争が描かれていたが、本作ではフュリオサという戦士がどのように生まれたのかを描く物語となっている。
彼女の少女時代から前作の時代に至る、フュリオサの人生が描かれるのだ。
彼女の人生は苛烈であった。
度々大切な人を失い、そしてそれに手を下した本人に囲われるという屈辱。
しかし強い意志により、彼女は虐げられた環境から脱出し、復讐と母親の願いを叶えようとする。
まさに生命など全くない砂漠でおいても、強く生きようとするように、枯れることのない生命力が彼女の力であった。
人生を自分の力のみで切り拓こうとするフュリオサのドラマはあまりに過酷であるけれども、その逞しさに目を奪われる。
しかし、そのようなドラマ性は強く感じるものの、その反面前作のような狂気じみたエネルギーはどうしても弱く感じてします。
狙いどころが変わっているのは理解しているものの、前作に魅了された者としては、どうしても物足りなさは感じてしまった。

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2024年3月16日 (土)

「マダム・ウェブ」慈愛の心の覚醒

興行成績も評判もあまりよろしくない本作ですが、個人的には結構楽しめました。
そもそも「マダム・ウェブ」が属するSSU(ソニーズ・スパイダーマン・ユニバース)は今までも何作品も公開されていますが、どれもピンとくるものはあまりなかったので(「モービウス」は最悪だった)、期待度があまり高くなかったというのもありますが。
本作の主人公はある特殊能力に目覚める救命士のキャシー。
彼女はいずれマダム・ウェブと呼ばれるヒーローとなるわけですが、その能力は非常に変わっています。
彼女が身につける能力は未来予知未来予知。
キャシーはいずれ起こる出来事を事前にヴィジョンとして見ることができるようになるのです。
しかし、能力はそれだけで、常人離れしたパワーがあるわけでもなく、壁を這うことできるわけでもなく、銃弾を防ぐような皮膚を持っているわけではありません。
銃で撃たれたり、ナイフで刺されば、血を流して死んでしまうのです。
事実、マダム・ウェブはマーベルヒーローの中では戦闘能力としては最弱とも言われています。
しかし、だからこそ展開が面白い。
戦闘能力は常人並みで、未来予知能力は覚醒したばかりで使いこなすとまではいっていない。
敵となるのはスパイダーマンのような能力を持つエゼキエルという男であり、彼からの執拗な攻撃を避けるにはそれこそ知恵と勇気しかありません。
そして彼女がヴィジョンでエゼキエルに殺されてしまう様子を目撃してしまった三人の少女たちとの絡みも面白い。
ティーンの彼女たちはそれぞれ個性的であり、まとめるだけでも手がかかる上に、キャシーの言うことを全く聞く気がない。
彼女たちの行動がトラブルを引き寄せ、よりピンチに陥ってしまうストーリーはなかなか惹かれるものはありました。
このようにトラブルメーカーたちと一緒に逃避行を続け、かつ攻撃能力がないヒーローであるため、ピンチはなかなかハラハラするところがあります。
これ、面白くないですかね?
キャシーは幼い頃に母親に捨てられたという思いが強く、人と関わりたくないというタイプであったと思います。
しかし、一連の逃避行の中で、母親の本当の思いに気づくことができました。
3人の少女たちもそれぞれ、居場所を失っています。
母親の思いを知ったキャシーは3人の少女たちに対して、母親のような思いを持つようになったのかもしれません。
他人と関わりたくなかったキャシーは、人を強く思う慈愛の心も能力と共に覚醒したのでしょう。
それがラストバトルでの新たな能力(幽体離脱)の覚醒につながったのでしょうか。
マダム・ウェブは未来予知をすることで、より良い選択肢を選ぶことができます。
異なる選択肢を選ぶということは、新たなユニバースを生み出す行為とも言えます。
マルチバース化が進むMCU、SSUにおいて今後重要な役割を背負う可能性もありますね(とはいえ、興行が悪いのでどうなるかはわからないですが)。
最後に、キャシーの同僚の男性がベン・パーカーであることをあとで知りました。
かのスパイダーマンに登場するベンおじさんですね。
MCUのスパイダーマンにおいてはすでにベンおじさんは亡くなっていますが、ベンおじさんとピーター・パーカーの絡みはいずれ見てみたい気もします。
また、キャシーがヴィジョンで予知した3人のスパイダーウーマンたちとスパイダーマンの共演も期待したいです。

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2023年12月28日 (木)

「窓ぎわのトットちゃん」今の時代に公開される意味

ご存知黒柳徹子さんによる小説「窓際のトットちゃん」をアニメーションとして映画化。
原作が発表されたのは1981年で40年以上も昔です。
当時ベストセラーとなりましたが、なぜに今映画化されたのでしょうか。
実はベストセラーにも関わらず、私は原作を読んだことがなく、今回子供が見たいと言ったので、一緒に鑑賞してきました。
本作を見てみて、今という時代に映画化された意味がわかったような気がしました。
舞台となる時代は、日本が太平洋戦争に足を踏み入れようとしているとき。
トットちゃんは自由奔放な性格のため、普通の小学校には馴染めず、トモエ学園という自由な校風な小学校に転校します。
その学校は生徒の個性を重視する方針で、その時代においては非常に最先端の教育をしている学校でした。
そのためか世間的には異端のようにも見られてもいました。
日本は戦争に向かう道にあり個性よりは、愛国的な国民を育てる全体主義的な教育が主流でした。
そのような考え方からすれば、トモエ学園の思想は異端に他かなりません。
そのような校風のなか、トットちゃんは伸び伸びと育ちます。
様々な子供たちがいる中で、トットちゃんも学友それぞれの個性を大事にすることを学んでいきます。
これはまさに今の時代主流となってきている多様性の考え方と言えるでしょう。
戦争直前という時代においていかに先端的な考え方であったか、わかると思います。
それがなぜ今映画化されているのでしょうか。
出版されていた時期(1980年代)は日本が世界的に見ても高度に経済的発展をしていた時期で自信に溢れていた時でした(80年代後半でバブル崩壊し、日本は急速に自信を失います)。
そのためか我も我もという、自己中心的な考え方が強くなっていた時代であったようにも思います。
他人への思いやるという気持ちも薄くなってきていて、そのことに黒柳さんは警鐘を鳴らしたかったのではないかと思います。
伝説的なエピソードとして、黒柳さんが司会をしていた「ザ・ベストテン」で一般人が発した差別的なコメントに対し、生放送中に苦言を呈したという事件がありました。
それは多様性を否定するような発言であり、トモエ学園で学んできた黒柳さんとしては許せない言動であったのでしょう。
そして、今の時代です。
黒柳さんは40年ぶりに「窓ぎわのトットちゃん」の続編を発表しました。
これに関するインタビューで、昨今のアメリカの分断やウクライナの戦争など、他者に対して非寛容な風潮が非常に気になっているというようなことを話されていました。
多様性が言葉としては定着し、その価値観を誰もわかるようになってきた時代ではありますが、人の行動や世界の流れはそれに反対の動きとなっています。
今こそ、もっと等身大に多様性ということを皆がもう一度理解しなくてはいけない時期なのかもしれません。
子供はもちろんですが、大人に対してもそのようなことを考えるきっかけになる作品であると感じました。

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2023年11月19日 (日)

「マーベルズ」素顔のキャプテン・マーベル

アメリカでは興行がイマイチと話題になっています。
理由としてはいわゆる「マーベル疲れ」だったり、キャプテン・マーベル以外の主要キャラクターが配信で登場したキャラクターであって馴染みがないと言われていますが、定かではありません。
そのような状況はあるにせよ、個人的には作品としてはよく仕上がっているかと思います。
私は少なくとも「クアントマニア」よりは楽しめました。
最近のマーベル作品は長尺になる傾向が強いですが、本作は尺そのものが短いということで編集自体も小気味よく、さらにはキャプテン・マーベル、モニカ・ランボー、ミズ・マーベルが能力を使うと入れ替わってしまうというギミックが、作品のテンポをあげています。
入れ替わりは映像的には今までにはないものですし、見ていて面白い(撮影は大変だったと思いますが)。
最近のマーベルはMCU自体が複雑化しているため、ややこしくなり敷居が上がっている傾向がありますが、本作はキャラクターのことをよく知らなくても、このいい意味でのライトな感じでとても見やすいものになっているように思いました。
そしてそのような小気味良さだけではなく、ドラマ的にもキャプテン・マーベルへの掘り下げがあり、興味深く思いました。
キャプテン・マーベルはアベンジャーズの中でも最強と言われ、向かう所敵なし、という存在でした。
しかしそのためかキャラクターとしては、孤高でありとっつきにくい印象もありました。
アベンジャーズのヒーローたちは、トニー・スタークにしても完璧な人間ではなく、その至らなさ自体がキャラクターの魅力となっていました。
キャプテン・マーベルはその至らなさがなく、完璧すぎて隙がない印象がありました。
しかし、本作では彼女のプライベート空間も描かれますし、さらには彼女はずっとしかめ面をしている印象があります。
完璧に見えていた彼女にも、心の中に負目があり、果たせなかった責任に対する後悔があることを我々は知ります。
キャプテン・マーベルは最強であるにも関わらず、地球を離れている期間が長く、なぜ彼女は地球の数々の危機に戻ってこなかったのか、という疑問が今までもありました。
しかし、その理由が本作で明らかになります。
それは彼女が我々が思うほどに完璧ではなく、彼女が自分自身を責めていることがあるということでした。
そしてそれを誰とも共有できず、孤独でいるしかなかったことを。
キャプテン・マーベルが実の姪のように可愛がっていたモニカ・ランボーは彼女の不在を責めます。
彼女自身も自分の不在の中で母親を失い、その悲しみに暮れている時、誰もそばにはいませんでした。
頼りにしたかった、キャロルおばさんも。
しかし、モニカもキャロルおばさんも完璧ではなく、孤独に苦しんてきたことを知ります。
そして、キャプテン・マーベルをヒーローとして崇めてきたミズ・マーベルことカマラも、ただの偶像ではなく生身の人間としてのキャロルを知ります。
彼女らはアクシデントによりチームアップしなくてはいけなくなりますが、それによってそれぞれを悩みを持つ個人として認識し、それを受け入れ本当のチームとなっていきます。
しかめ面をしていたキャプテン・マーベルの表情が次第に柔らかくなっていくのが良いですね。
こんなにチャーミングな女性だったのかと改めて発見があります。
テンポも良くてキャラクターも魅力がある。
最近のマーベル作品の中でも好印象の作品です。
<ここからは未見の方は見ないでください>
さて、話題のおまけ映像についてです。
まず一つ目のケイトの登場。
フェイズ4で新しい若いキャラクターが登場するようになってきて、いずれヤング・アベンジャーズが結成されるのではと噂されていましたが、今回のこの映像で決定的になったかと思います。
登場はしてませんが、アントマンの娘=キャシー・ラングの名前も出ていたので、この三人は組むのでしょうね。
あとはアメリカ・チャベスは入るでしょう。
これだと女子ばっかりで「チャーリーズ・エンジェル」のようですが・・・・
男子は加わらないのかな。
楽しみにしたいと思います。
二つ目ですが、これはちょっと見ていて声を出してしまいました。
モニカ・ランボーは本作のラストで別の世界へ行くことになってしまいます。
そこで登場したのが、「X-MEN」のビーストです。
それも演じたのは「X-MEN:ファイナル ディシジョン」でビーストを演じたケルシー・グラマー。
チャールズという名前をビーストは口にしていましたが、これはもちろんプロフェッサーXのことでしょう。
MCUへのX-MENの合流はどのような形になるかと論議になっていましたが、別のユニバースなんでしょうか。
「マーベルズ」に続くMCUの映画は「デットプール3」で、そちらにはウルヴァリンが登場するのは決定しています。
それともリンクするのでしょうか。
こちらも気になります。

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