2018年12月18日 (火)

「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」 広がる伏線

「ハリー・ポッター」シリーズの前日譚となる「ファンタスティック・ビースト」シリーズですが、2作目に入り「ハリー・ポッター」シリーズとのリンクする部分も出てきて、コアなファンにはたまらない展開となっていますね。
私はそれほどコアなファンではないのですので(とはいえ小説も読んでますし、映画も全部観ていますが)、サブキャラまであまり覚えているわけではないので、あまり偉そうなことは言えないのですけれど(笑)。
鑑賞後パンフレットを読んで驚いたのは、本作で登場した蛇に変身することができるミステリアスな女性が登場しましたが、あれは「ハリー・ポッター」シリーズに登場していた大蛇だったのですね。
大蛇=ナギニはヴォルデモートに仕えていましたが、それが本作に登場することで俄然本シリーズと「ハリー・ポッター」シリーズの関連が気になってきます。
本作からダンブルドアも本格的に登場し、敵役であるグリンデルバルドとの関係性も明かされました。
もしかするとグリンデルバルドとダンブルドアとヴォルデモートとの因縁なども明らかにされるかもしれません。
「ファンタスティック・ビースト」シリーズは当初3部作と言われていましたが、脚本のローリングは5部作になると言っているそう。
たしかに本作で「ハリー・ポッター」シリーズとの関連に関わるいろいろと謎が提示されているので、それがあと1作で回収しきれるとは思えないですね。
本作は5部作の中の序盤になるのでまずは大きく伏線を張っている時期なのだと思われます。
また「ハリー・ポッター」シリーズもそうでしたが、全体的にダークなトーンに転調しています。
登場人物たちもそれぞれの運命に流されて、出会い別れていくことが本作で示されました。
特に興味深いのはグリンデルバルド側につくことにしたクイニー。
この決断により、彼女は姉ともジェイコブとも敵対する関係になってしまいます。
「ハリー・ポッター」シリーズでも友人同士や肉親同士が戦いあう展開がありました。
ヴォルデモートは恐怖で人を操り支配し、それから逃れられない者が彼に取り込まれていきました。
対してグリンデルバルドは人の弱みを理解し許容することにより、人を取り込んでいくように見えます。
彼が本当に人のことを思い、仲間を増やしているのかどうかはまだ明らかになっていませんが、もし彼が人の弱さにつけこんで彼らを利用することだけを考えているのだとすると、ヴォルデモートとは違った意味で恐ろしい存在であると言えます。
これから続く彼の意図が明らかにされていくのでしょう。
ローリングの物語はファンタジーでありながらも、人間の闇の面を描いているようにおもえます。
「ハリー・ポッター」シリーズがそうであったように、本作もますますダークなトーンになっていくでしょう。
主人公でありながらまだその本質が見えてこないニュートについても、彼が抱えているものが深く掘り下げられるかもしれません。
5部作となったので、それぞれのキャラクターがより深く描かれてることは間違いないでしょう。
そしてどのように「ハリー・ポッター」に繋がるかも気になります。
次回作も楽しみに待ってみたいと思います。

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2018年11月25日 (日)

「ボヘミアン・ラプソディ」 自分の居場所

私は洋楽は疎いのですが、クイーンの曲は知っている曲が多いです。
本作で流れていた曲もほとんどが聞き覚えのあるものばかり。
クイーンの曲は様々な映画の中で使われていて印象に残っているからかもしれないですね。
そう言えば、私のクイーンの初体験は「フラッシュ・ゴードン」のテーマの「Flash」だったのではないかな(笑)。
キャッチーな「フラッシュ!アーアー!!」っていうフレーズが印象的でした。
クイーンのことは知ってはいても体系的な知識ではなかったのですが、本作の中でメンバーがクイーンは同じようなことを繰り返しおこなっていくようなことはしないというようなことを言っていましたが、その通りかもしれないと感じました。
彼らの曲を改めて聞いてみると、いわゆるヒットメーカーにありがちな同じようなパターンとかがあるわけでもなく、どの曲も他にはないユニークさを持っていますよね。
それでいて、どの曲もどこかしらクイーンらしさというのも感じます。
それが彼らのスピリットなのかもしれません。

やはり本作を語る上ではクイーンのボーカリストであり、本作の主役でもあるフレディ・マーキュリーについて触れないわけにはいきません。
一般的な知識として彼がエイズで亡くなったのは知っていましたが、彼の出身がインド系であることは全く知らなかったです。
彼の人生を描いた本作を観ると、彼がどこにも自分の居場所を感じられなかったということが痛いほどに伝わってきます。
イギリスで青春時代を過ごす中で、インド系であることによる疎外感。
伝統的な価値観の家族の中で、ロックに傾倒していく自分の居心地の悪さ。
そしてバイセクシャルであることを誰にも言えないことの閉塞感。
彼は彼らしく生きていこうとすればするほど、自分の居場所を失っていってしまう。
家族のような存在であったバンドも、そして恋人のルーシーも。
自分がどこを基盤としているかがわからないとても曖昧な不安定感。
まさに流浪の民、ボヘミアンなのですよね。
彼は自分の拠り所を探し、さまよいます。
そして結局、自分の居場所は家族とも言えるバンド、クイーンだったわけです。
その唯一の居場所を見出せたのに、彼の寿命は尽きようとしていた。
けれども最後に自分の大切な場所を見つけることができたとも言えるわけですね。
ずっと自分がどこにいるべきなのかわからなかった根無し草から、ここにいてもいいと言ってもらえる場所を見つけられた。
これはフレディにとっては幸せなことだったのですよね。

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2018年9月22日 (土)

「プーと大人になった僕」 何にもしないことをする

正直言って、むかーしのディズニーのアニメーションはほとんど見ていません。
「シンデレラ」とか「白雪姫」とか、そして「くまのプーさん」も。
子供の頃は「ウルトラマン」や「仮面ライダー」や日本のアニメの方に夢中だったんですよね。
もちろん、それらディズニーのアニメのお話はしっています。
絵本やら何やらを読んでいたからでしょう。
「くまのプーさん」については絵本を読んだ記憶があります。
はちみつ食べ過ぎて、家から出れなくなったエピソードとか。
赤い風船のイメージもありますね。

大人になると時間が限りあるものだと知ってしまいます。
やらなきゃいけないことは山のようにある。
仕事もそうだし、家族のことも、その他のことも。
時間は限られているから、そういうやらなきゃいけないことをやるために細かに計画を立てる。
スケジュールを作る。
けれどもそれでも回らなくなって、何かを犠牲にしてしまう。
時間をうまくコントロールしようとしているのに、逆に時間に振り回されてしまったりする。
子供の頃は、時間が限りあるものなんてあまり思っていなかったかもしれません。
今日できなかったら明日やればいいし。
だからやりたいことを今日やる。
なーんにもやらずに、ゴロゴロしていることもある。
明日やればいいから。
大人になったら、こんなことはできません。
仕事でも効率化と叫ばれ、どれだけ生産性を上げられるかとことを考えてばかりいます(大事なことですけれどね)。
空いてる時間にぼーっとしていると何か悪いことをしている気になってしまう。
いつしか疲れ果てて、なんのために効率化しているのかもわからなくなってしまったりもするかもしれません。
ほんとは自分のしたいことをする時間を作るためだったのに。
「何にもしないことをする」とかつて子供であったクリストファー・ロビンは言いました。
今の時代、ほんとそういう風に覚悟をして「何もしない」ということをすることが大事なのかもしれないですね。
そういう風に時間を使うと、走りながらでは見えないことが見えるかもしれません。
意識的に立ち止まることもしなくてはいけないですね。
まさに「何にもしないことをする」です。

本作は時間が合わず、吹き替え版で観ました。
私は基本的には洋画は字幕派なのですけれども、本作は吹き替え版もよかったですね。
クリストファー・ロビンの声をあてていた堺雅人さんがこのキャラクターのイメージにぴったり。
このキャラクターは大人にはなっているけれど、かつて純粋だった少年の心をかすかに持っているところがあるのですよね。
それが堺さんのイメージと非常に合っていました。
いいキャスティングだったと思います。

あとイーヨーのすごいネガティブなキャラクターが面白かったですね。
全てを悲観的に捉えてる!
ここまでネガティブだと清々しくも感じます。
アニメ版でもこんな感じなのかな。
ちょっとアニメ版見てみたくなりました。

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2018年7月15日 (日)

「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」 スピンオフの難しさ

「ローグ・ワン」に続く「スター・ウォーズ」シリーズのスピンオフです。
前回の「ローグ・ワン」ではメインストリームには関わらない名もなき人々を取り上げたことが新鮮で、彼らの献身がその後の帝国への逆襲へのきっかけとなったことが明らかにされました。
ローグ・ワンのメンバーたちが全滅してしまうという悲劇的な結末も今までの「スター・ウォーズ」シリーズとは異なり、新鮮な印象を受けました。
本作は「スター・ウォーズ」シリーズの中でも最も有名なキャラクターの一人であるハン・ソロを主人公としており、「ローグ・ワン」とは異なる難しさは持っていたと思います。
あまりにもハリソン・フォードが演じるハン・ソロのイメージが強く(私もそうですが)、彼以外の俳優が演じるハン・ソロが受け入れられるかということですね。
本作で若きハン・ソロを演じるはオールデン・エアエンライク。
私は全く彼が今まで出演した作品を見たことはなかったのですが、
上手な俳優であるとは思いました。
時折、以前のハン・ソロを彷彿とさせるような場面もありましたし。
ただやはりハリソン・フォードと比べてはしまいます。
この辺は重要なキャラクターについてスピンオフを作るということの難しさではあると思いました。
監督は職人ロン・ハワードですので、作り自体は手堅くまとめています。
こちらの作品は若手の監督を抜擢したところ、方向性の違いなどで製作サイドと意見が合わず、降板。
その後をロン・ハワードが引き継いだということです。
そのせいかこれといった新しさを感じることはありませんでした。
無難にまとまっているという感じですね。
ロン・ハワードは好きな監督なのですが、普段はもう少しエモーショナルな要素が強い監督だとは思いますが、なんとか作品として成立させるべくまとめた印象で、彼らしいという感じは受けなかったです。
ハン・ソロとトバイアスの親子・師弟を彷彿とさせる関係や、ソロとキーラの関係がもう少し深く描ければ、ロン・ハワードらしい感じが出たかなと思います。
そうすればもっとドラマチックにできたんではないでしょうか。
ストーリーとしても冗長な感じがややありましたね。
旧三部作につながるようなポイントもいくつかあり、「スター・ウォーズ」ファンとしては嬉しい部分もいくつかありましたが、それ自体は作品の出来とは別物であるので、そういったところばかりに注目がいくのもどうかとも思います。
日本では本作は好調のようですが、アメリカでは期待ほどにはいかなかった様子。
今後のスピンオフについてもいろいろ方向が変わる可能性があるとのこと。
どのように展開していくか、見守っていきたいと思います。

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2018年4月30日 (月)

「パシフィック・リム: アップライジング」 ここまでくるとトランスフォーマー?

ギレルモ・デル・トロのオタク魂が爆発していた前作「パシフィック・リム」の続編になります。
前作は巨大ロボットと怪獣という「日本の文化(?)」を真正面に挑んだ作品になっていました。
変にハリウッド的にならず、あくまでも日本の特撮的な匂いを残した仕上がりになっており、特撮ファン的には気分が上がって見ることができました。
なので、続編が作られるらしいという情報があったときは、またそれこそ期待度が高まったのですが、さてどうだったでしょうか。
最初に感想を言うと「コレジャナイ」感ですね。
確かにCGなどがさらにパワーアップしているのですが、それゆえか「パシフィック・リム」と言うよりは「トランスフォーマー」を見ている気がしてきました。
前作であった巨大ロボットを動かしているという重々しさがなくなったんですよね。
歩くにしても走るにしても非常に軽快ですし。
あまりにアクロバティックな動きをすると、巨大ロボットというよりはスパイダーマンっていうような感じがしてきました。
やっぱりロボットにしても、怪獣にしても「ドシーン、ドシーン」という巨大感、重量感は欲しいのですよ、やっぱり。
デル・トロはわかったいたように思いますが、今回の監督からはちょっとそういうところはあまり感じなかったですね。
前作と同様に二人のパイロットがイェーガーを操縦するという設定は変わりません。
この設定により、前作ではイェーガーを動かすことが非常に難しく、それゆえの重量感を感じたものですが、今回はあまりその辺にはフューチャーしていなかったですね。
二人のシンクロが重要だということが、ドラマを産んでいたとも思うのですが、そこが希薄になったため、ドラマ性も感じませんでした。
ドラマ性よりは、ドッカーンバッターンというわかりやすいアクションの比重が高まっているのは、最近のレジェンダリーの作品に共通しているというところだと思います。
以前はもう少しマニアックなところがある会社だったという印象です。
中国系の資本に買われてから、割と派手なわかりやすい話が多くなってきたような感じがします。
なんかみんな一緒の雰囲気の作品になってきた感じがします。
途中で、量産型のイェーガーがプリカーサーに乗っ取られて、半怪獣のようになる場面がありますが、ほぼ「エヴァンゲリオン」でしたね。
使徒になってしまったエヴァ。
白い機体でしたし、エヴァ感満載でした。
引用といえばそうなのですが、丸パクリだったので、これはこれでどうかなと。
メジャーになりすぎず、オタク道を走った続編になって欲しかったです。
次回作もあるような雰囲気で終わりましたよね。
敵陣に踏み込んで行く展開になっていくと、益々「パシフィック・リム」というよりは「トランスフォーマー」な感じがしてきますね・・・。

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2018年3月21日 (水)

「ブラックパンサー」 手の届く範囲

久しぶりに単体ヒーローでシンプルな作品を観れたなという感じがしました。
たくさんヒーローが出てくる「アベンジャーズ」のようなタイプの映画も楽しいですが、本作のように一人のヒーローの活躍をじっくり見れる作品も良いですね。
ブラックパンサー(ティ・チャラ)は「シビル・ウォー」でマーベル・シネマティック・ユニバースには初登場していますが、主人公となるのは初めて。
本作では彼が父の後を継ぎ、ブラックパンサーとなる過程を描いています。
彼はワカンダ王国の国王としてなるべく育てられた、それにより高潔な精神性と強い肉体を持った男です。
まさにヒーローになるべくしてなる人物で、それがかえって現在のヒーロームービー花盛りの時代においては珍しく見えるかもしれません。
最近のヒーローはヒーローになる、もしくはなってしまったことに葛藤するというタイプが多かったですから。
高潔な精神性と様々なテクノロジーを駆使する財力を持っているという点は、キャプテン・アメリカとアイアンマンを足しているようなイメージでもありますね。
ある意味、ヒーローとしては完璧であった彼ですが、その彼にも課題がなかったわけではありません。
彼は彼の葛藤があり、それが本作のドラマとなります。
彼が守ろうとしているのは、彼の祖国ワカンダのみでした。
彼の一族は人間というものの危険性を知っており、それらから自分たちを守るためにだけ卓越したテクノロジーを使ってきました。
そのためワカンダ王国は長年に渡り、平和な生活を維持できたわけですが、知っての通り外界は戦争や貧困など様々な問題が続いています。
人々を守るために存在するという意識はブラックパンサーは高い。
しかし、その「人々」とは誰なのか。
ワカンダ王国の人々だけで良いのか。
外界には苦しんでいる人々がいるのに。
それらを救う力を持っているのに、救わないのか、と。
ブラックパンサーはその視野を問われるのですね。
最近のスーパーヒーロー映画はヒーローの内面の葛藤を描くことが常道となっていますが、その切り口としては今までと異なる葛藤であったと思います。
自分の手(力)が及ぶ範囲をどこまで広げて戦うのか。
もちろん、その範囲を広げれば広げるほど困難な戦いになることはわかっている。
それでもやろうとする気持ちがヒーローらしいと思います。
次回のマーベル映画は「アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー」でそちらにもブラックパンサーは出演します。
戦いの相手は宇宙最大のビラン、サノス。
一気に宇宙規模の戦いになります。
その時にブラックパンサーは何を考えるのか。
自分が守ろうとする人々をワカンダから地球へ、そして宇宙へと広げることができるのか。
そういった視点でも「アベンジャーズ」の次回作を見てみようと思います。

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2017年12月 6日 (水)

「鋼の錬金術師」 等価交換の法則

公開前に試写会で観た知人の評価はイマイチ。
原作とのイメージが違うというのが理由でしたが(特にヨーロッパ的な設定なのに全員日本人というところ)、自分は原作を全く読んでいないのでフラットな気持ちで鑑賞しました。
原作を読んでいなかったからか、事前に期待しすぎていなかったからか、結構楽しめました。
日本人が演じているというのも、それほど気になりませんでしたね。
よほど「進撃の巨人」の方が気になった(苦笑)。
曽利監督なのでCGバリバリで作り物めいた感じに仕上がっているのかなと思っていたら、意外にもナチュラルな感触の画だったように思います。
冒頭の街のシーンなどで海外ロケで本当の街並みが出ていたので、そういう自然な空気感が出ていたのかもしれません。
CGはかなり使ってはいましたが、そのような空気にうまく馴染んでいたと思います。
海外でも日本でもファンタジーでCGを使いすぎて、作り物感というか、箱庭感が出てきてしまっている作品も見受けられますからね。
上手にCGを使っていると思いました。
原作の数巻分をまとめて一本の映画にしているようですが、うまくコンパクトにまとめられていたと思います。
エドたち、軍人たち、そしてホムンクルスたちの三つ巴で、それぞれがそれぞれの思惑で動き、ストーリーが展開していきますが、複雑さが程よいバランスでした。
観ていてストレスがなく、気軽に楽しめます。
「等価交換の法則」というのは「鋼の錬金術師」の特徴的な設定だと思いますが、この設定がうまく機能していました。
何かを得るには何かを失わなければならない。
古来、錬金術とは価値のないものから価値のあるものを生み出す試みのことでした。
いわば無価値から価値を生み出すのが錬金術なわけですが、この物語においては得たい価値と同じ価値のものを差し出さなければ得られないというのが、面白いです。
錬金術によって生み出される無機物から生み出される人工生命をホムンクルスと言いますが、この物語においてはやはり生命を生み出すには生命を犠牲にしなくてはいけないということとなります。
それではどの生命が無価値で、どの生命が価値があるのか、という難問にエドたちは向かいあることとなるのです。
結局その答えは出せずに保留となるのですが、これは答えを出すことはできない問題であり、それを出さないということも一つの答えにも思います。
それほどに生命というものは価値があり、無価値なものはないということなのかもしれません。
エドとアルの兄弟の互いへの思いなどについても見所でありました。
後半にあった二人の盛大な兄弟喧嘩も良かったです。
近くにいても思いが通じあいにくいこともあります。
それが一気に噴き出して、正直に自分の気持ちを言って、ようやく伝わる。
近くにいるからこそ伝わりにくく、だから時々正直に言える時間も必要だなと思いました。
2作目もありそうな雰囲気で終わりましたが、どうでしょうか?
個人的には続きを観てみたいと思いました。

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2017年11月11日 (土)

「ブレードランナー2049」 自分は何者であるのか?

映画のみならず様々な作品に影響を与えた「ブレードランナー」の続編になります。
本作見る前にオリジナルを観ておかなくてはと思っていたのですが(なんせ35年の前の作品ですから)、結局見ないままに鑑賞。
ついていけるかと不安がありつつもなんとか大丈夫でした。
監督はリドリー・スコットではなく、ドゥニ・ヴィルヌーヴになりました。
リドリー・スコットは製作総指揮として関与しています。
オリジナルの「ブレードランナー」が伝説と化しているのは、サイバーパンクの走りのような世界観、そしてエッジーな映像が80年代当時としては非常にクールであり衝撃的であったからだと思います。
今回はドゥニ・ヴィルヌーヴが監督となりましたが、彼も彼独特のエッジーな映像を撮る人(リドリー・スコットはまた違いますが)であるので、非常に「ブレードランナー」の世界観とマッチすると感じました。
ドゥニらしく、また「ブレードランナー」らしい映像となっていました。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの作品はなんだかんだとよく観ているのですが、エッジの効いた映像、無機質な手触り、解釈を要求する物語といったところがあり、一般受けしにくい監督であるなと思っていました(映画マニア的には見応えあるのですが)。
しかし「メッセージ」あたりからバジェットが大きい作品を撮るようになり、いい感じで一般的にも大丈夫な塩梅を掴んできたようなところがあります。
インディペンデントの監督がメジャーをやると、その監督らしさがなくなって他のブロックバスター映画と同じような雰囲気になってしまうことが多いのですが、ドゥニ・ヴィルヌーヴの場合は彼らしさを保ちながらも、一般的にも受け入れられる作品に仕上げているように思います。
選んでいる作品も彼の個性に合っているものを選んでいますよね。
「ブレードランナー」はまさにドゥニ・ヴィルヌーヴにぴったりだと思います。
なので、続編を彼が撮ると聞いて全く心配はしていませんでした。
期待通りの仕上がりです。

ストーリーとしても非常に面白かったです。
ネタバレになってしまうので細かくは書きませんが、提示された謎が解決されたと思いきや、それがまたひっくり返るというのが、なかなかに面白い。
アクションなどは多いわけではなく、またかなり長い作品の割には、退屈することもなく、最後まで見せてくれました。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの映像美と巧みなストーリーテリングのためだと思います。
「ブレードランナー」という作品は、自分が何ものであるかというアイデンティティの揺らぎがテーマであると考えます(原作のフィリップ・K・ディックの作品は唯一信じられる自分というものが信じられなくなるというテーマが多い)。
主人公のKは最初からレプリカントであることはわかっています。
彼のタイプは人間に従順であり、かつてのレプリカントのような反乱的な要素はありません。
そういう意味では彼は何者でもない。
ただの道具であると言えます。
しかし操作を通じて、何者でもないという彼のアイデンティティが揺らぎ、何かであるかもしれないという予感が彼を不安にします。
前作のデッカードとは逆の揺らぎであるとも言えます。
Kの揺らぎに観客は共感し、そして最後の結末に切なさを感じます。
ただ彼は彼として何者であるかはわかったのではないかと思いました。

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2017年7月31日 (月)

「パワーレンジャー」 メタモルフォーゼ

日本のアニメや漫画、特撮のコンテンツが海外でリメイクされると、「何だこりゃ」ということが多いですよね。
解釈や文化的な背景の違いから、そういうことが起こるのだと思うので、いたしかたないところなのかもしれません。
本作「パワーレンジャー」は日本でおなじみの「スーパー戦隊」(「恐竜戦隊ジュウレンジャー」)シリーズをベースにアメリカで完全新作として制作したものです。
アメリカでは日本の「スーパー戦隊」シリーズの日本人出演者部分をアメリカ人に差し替えたものを「パワーレンジャー」シリーズとして放送し、人気を博しています。
今回この作品を見に行くときは、冒頭に書いた「何だこりゃ」となることを半ば覚悟して見に行きました。
しかし、蓋を開けてみると思いのほか見ごたえもあり、(もちろん日本の「スーパー戦隊」とは違うのですが)よくできた作品に仕上がっていたと思います。

「パワーレンジャー」シリーズは初期は定着していくのに苦労したという話を聞きます。
まず「変身」という概念が実はアメリカではわかりにくいものであるということがありました。
アメリカのスーパーヒーローを見ると、見た目は変わることはあってもそれはスーツを着ていたりということで、ヒーロー本人の能力が変身前後で大きく変わるということがまずありません。
スーパーマンはクラーク・ケントの時もそのスーパーパワーは持っているし、アイアンマンことトニー・スタークはあくまでスーツの力で強化されるわけです。
ウルトラマンにせよ、仮面ライダーにしろ、日本の「変身」は能力からまるで姿形まで変わってしまいます。
その点がアメリカのスーパーヒーローからすると大きく違います。
しかし長年にわたり「パワーレンジャー」は放送し続けることにより、日本的な「変身」という概念もなじみ深いものになっていたようです。
「パワーレンジャー」シリーズでは変身をするときに「モーフィン」という掛け声をかけます。
この「モーフィン」という掛け声は「metamorphose(メタモルフォーゼ)」という言葉からつくられたモーフィングからとられたと言われています。
この「metamorphose」とは「変態」という意味です。
ここでいう「変態」はいわゆるHENTAIという意味ではなく(笑)、蝶が成長に従い、青虫から蛹、そして蝶と形態を変えていくことを指しています。
今回の映画「パワーレンジャー」がよくできていると思うのは、この「変態」という概念を映画の核に上手に据えているところでした。
「なりたい自分になればいい」というセリフが劇中で出てきます。
今回の「パワーレンジャー」のメンバーはいずれも挫折を経験したり、周囲にうまく溶け込めない悩み事を持つティーンエイジャーたちです。
かれらは日々学校生活をしていく中で、自分らしくいられないという悩みを抱えています。
周囲に合わせて変わっていかなければならない、大人にならなければならないという悩みは誰でも10代のころは持ちますよね。
けれどやはり自分がなりたいものになっていかなけば、ストレスをかかえていくだけ。
劇中でメンバーはなかなか変身ができません。
それは皆が気持ちを一つにできないからということもありますが、自分自身がなりたい自分になりたいと本当に願うか、そのための努力を惜しまないかという覚悟ができるかどうかにかかっているとも言えます。
仲間たちの支えもあり、メンバーはひとりひとりその覚悟を決めていき、やがて変身ができるようになります。
それは蛹が蝶に変わるほどの大きな変化です。
まさにメタモルフォーゼです。
日本特有の「変身」という概念を理解し、それをティーンエイジャーの成長と合わせて描いた本作は、よくある表面的な模倣に終わるリメイク品とは一線を画すように思えました。
アクション・特撮パートにおいては最近のハリウッドムービーらしいていすとでしたが、それはそれでかっこがいい。
最後の合体ロボが「トランスフォーマー」的なのはご愛敬というところでしょうか。
なにか続編がありそうな終わり方。
次は追加戦士でグリーンが登場か?

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2017年7月18日 (火)

「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」 最後の自由人

予告編でちらっとキーラ・ナイトレイが出てたので、初期作品との関係があるのかなと思ったら、最初にオーランド・ブルームまで出てきてびっくりしました。
1作目は2003年だから15年も経っているんですよね。
キーラ・ナイトレイはその間も美しさをキープしているので、驚きです。
そういえば、若かりし頃のジャック・スパロウもでてきましたが、あれはCGですよね?
ジョニー・デップの演技をモーション・キャプチャーしたのかしらん。

本作は雰囲気的には1作目に近い感じがしましたね。
ヘンリー・ターナーとカリーナ・スミスの関係は、ウィルとエリザベスの関係を彷彿とさせます。
また本作はヘンリー、カリーナそれぞれの親子の物語と、ポセイドンの槍という宝物探しの話が絡み合いながら進んでいき、それに宿敵であるサラザールという海賊ハンターが絡みます。
以前ジャック・スパロウは狂言回しである、といったことを記事に書いたことがありますが、まさに本作もそのような立ち位置でした。
ジャックは物語をかき回して、推進する役割ですが、あまりそれらの物語に積極的に関与していくわけではありません。
ラストでヘンリーとカリーナ、ウィルとエリザベスが大団円をむかえますが、ジャックはそれを見て「くだらない」と言って、自由に航海を続けます。
彼にとって自由で縛られないことこそが最も重要であり、恋人や妻であっても、それは己を縛るものでしかないと感じるのでしょう。
そういえば、仲間が去ると言ったときも、それに対しては何も言わず、仕方ないなといった感じでしたよね。
英語タイトルの副題は「Dead Men Tell No Tales」で「死人に口なし」という意味ですが、日本語の副題は「最後の海賊」でした。
まったくオリジナルと関係ないタイトルですが、大航海時代を経て人々が定住し安定を求め、海賊自体もいなくなっていく時代の中、ジャックだけが自由を求め続けているという意味で、ジャックが「最後の海賊」であるというようにもとれます。
ジャックは最後の自由人なのかもしれませんね。

エンドロール後には恒例のおまけが(これだからこのシリーズは最後まで席を立てない)。
無事エリザベスのもとに戻ったウィルのところに謎の影が・・・。
続編が作られるという話もあるようですが、今度はウィルやエリザベスを中心に物語は進んでいくのでしょうか。

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