2017年12月 6日 (水)

「鋼の錬金術師」 等価交換の法則

公開前に試写会で観た知人の評価はイマイチ。
原作とのイメージが違うというのが理由でしたが(特にヨーロッパ的な設定なのに全員日本人というところ)、自分は原作を全く読んでいないのでフラットな気持ちで鑑賞しました。
原作を読んでいなかったからか、事前に期待しすぎていなかったからか、結構楽しめました。
日本人が演じているというのも、それほど気になりませんでしたね。
よほど「進撃の巨人」の方が気になった(苦笑)。
曽利監督なのでCGバリバリで作り物めいた感じに仕上がっているのかなと思っていたら、意外にもナチュラルな感触の画だったように思います。
冒頭の街のシーンなどで海外ロケで本当の街並みが出ていたので、そういう自然な空気感が出ていたのかもしれません。
CGはかなり使ってはいましたが、そのような空気にうまく馴染んでいたと思います。
海外でも日本でもファンタジーでCGを使いすぎて、作り物感というか、箱庭感が出てきてしまっている作品も見受けられますからね。
上手にCGを使っていると思いました。
原作の数巻分をまとめて一本の映画にしているようですが、うまくコンパクトにまとめられていたと思います。
エドたち、軍人たち、そしてホムンクルスたちの三つ巴で、それぞれがそれぞれの思惑で動き、ストーリーが展開していきますが、複雑さが程よいバランスでした。
観ていてストレスがなく、気軽に楽しめます。
「等価交換の法則」というのは「鋼の錬金術師」の特徴的な設定だと思いますが、この設定がうまく機能していました。
何かを得るには何かを失わなければならない。
古来、錬金術とは価値のないものから価値のあるものを生み出す試みのことでした。
いわば無価値から価値を生み出すのが錬金術なわけですが、この物語においては得たい価値と同じ価値のものを差し出さなければ得られないというのが、面白いです。
錬金術によって生み出される無機物から生み出される人工生命をホムンクルスと言いますが、この物語においてはやはり生命を生み出すには生命を犠牲にしなくてはいけないということとなります。
それではどの生命が無価値で、どの生命が価値があるのか、という難問にエドたちは向かいあることとなるのです。
結局その答えは出せずに保留となるのですが、これは答えを出すことはできない問題であり、それを出さないということも一つの答えにも思います。
それほどに生命というものは価値があり、無価値なものはないということなのかもしれません。
エドとアルの兄弟の互いへの思いなどについても見所でありました。
後半にあった二人の盛大な兄弟喧嘩も良かったです。
近くにいても思いが通じあいにくいこともあります。
それが一気に噴き出して、正直に自分の気持ちを言って、ようやく伝わる。
近くにいるからこそ伝わりにくく、だから時々正直に言える時間も必要だなと思いました。
2作目もありそうな雰囲気で終わりましたが、どうでしょうか?
個人的には続きを観てみたいと思いました。

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2017年11月11日 (土)

「ブレードランナー2049」 自分は何者であるのか?

映画のみならず様々な作品に影響を与えた「ブレードランナー」の続編になります。
本作見る前にオリジナルを観ておかなくてはと思っていたのですが(なんせ35年の前の作品ですから)、結局見ないままに鑑賞。
ついていけるかと不安がありつつもなんとか大丈夫でした。
監督はリドリー・スコットではなく、ドゥニ・ヴィルヌーヴになりました。
リドリー・スコットは製作総指揮として関与しています。
オリジナルの「ブレードランナー」が伝説と化しているのは、サイバーパンクの走りのような世界観、そしてエッジーな映像が80年代当時としては非常にクールであり衝撃的であったからだと思います。
今回はドゥニ・ヴィルヌーヴが監督となりましたが、彼も彼独特のエッジーな映像を撮る人(リドリー・スコットはまた違いますが)であるので、非常に「ブレードランナー」の世界観とマッチすると感じました。
ドゥニらしく、また「ブレードランナー」らしい映像となっていました。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの作品はなんだかんだとよく観ているのですが、エッジの効いた映像、無機質な手触り、解釈を要求する物語といったところがあり、一般受けしにくい監督であるなと思っていました(映画マニア的には見応えあるのですが)。
しかし「メッセージ」あたりからバジェットが大きい作品を撮るようになり、いい感じで一般的にも大丈夫な塩梅を掴んできたようなところがあります。
インディペンデントの監督がメジャーをやると、その監督らしさがなくなって他のブロックバスター映画と同じような雰囲気になってしまうことが多いのですが、ドゥニ・ヴィルヌーヴの場合は彼らしさを保ちながらも、一般的にも受け入れられる作品に仕上げているように思います。
選んでいる作品も彼の個性に合っているものを選んでいますよね。
「ブレードランナー」はまさにドゥニ・ヴィルヌーヴにぴったりだと思います。
なので、続編を彼が撮ると聞いて全く心配はしていませんでした。
期待通りの仕上がりです。

ストーリーとしても非常に面白かったです。
ネタバレになってしまうので細かくは書きませんが、提示された謎が解決されたと思いきや、それがまたひっくり返るというのが、なかなかに面白い。
アクションなどは多いわけではなく、またかなり長い作品の割には、退屈することもなく、最後まで見せてくれました。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの映像美と巧みなストーリーテリングのためだと思います。
「ブレードランナー」という作品は、自分が何ものであるかというアイデンティティの揺らぎがテーマであると考えます(原作のフィリップ・K・ディックの作品は唯一信じられる自分というものが信じられなくなるというテーマが多い)。
主人公のKは最初からレプリカントであることはわかっています。
彼のタイプは人間に従順であり、かつてのレプリカントのような反乱的な要素はありません。
そういう意味では彼は何者でもない。
ただの道具であると言えます。
しかし操作を通じて、何者でもないという彼のアイデンティティが揺らぎ、何かであるかもしれないという予感が彼を不安にします。
前作のデッカードとは逆の揺らぎであるとも言えます。
Kの揺らぎに観客は共感し、そして最後の結末に切なさを感じます。
ただ彼は彼として何者であるかはわかったのではないかと思いました。

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2017年7月31日 (月)

「パワーレンジャー」 メタモルフォーゼ

日本のアニメや漫画、特撮のコンテンツが海外でリメイクされると、「何だこりゃ」ということが多いですよね。
解釈や文化的な背景の違いから、そういうことが起こるのだと思うので、いたしかたないところなのかもしれません。
本作「パワーレンジャー」は日本でおなじみの「スーパー戦隊」(「恐竜戦隊ジュウレンジャー」)シリーズをベースにアメリカで完全新作として制作したものです。
アメリカでは日本の「スーパー戦隊」シリーズの日本人出演者部分をアメリカ人に差し替えたものを「パワーレンジャー」シリーズとして放送し、人気を博しています。
今回この作品を見に行くときは、冒頭に書いた「何だこりゃ」となることを半ば覚悟して見に行きました。
しかし、蓋を開けてみると思いのほか見ごたえもあり、(もちろん日本の「スーパー戦隊」とは違うのですが)よくできた作品に仕上がっていたと思います。

「パワーレンジャー」シリーズは初期は定着していくのに苦労したという話を聞きます。
まず「変身」という概念が実はアメリカではわかりにくいものであるということがありました。
アメリカのスーパーヒーローを見ると、見た目は変わることはあってもそれはスーツを着ていたりということで、ヒーロー本人の能力が変身前後で大きく変わるということがまずありません。
スーパーマンはクラーク・ケントの時もそのスーパーパワーは持っているし、アイアンマンことトニー・スタークはあくまでスーツの力で強化されるわけです。
ウルトラマンにせよ、仮面ライダーにしろ、日本の「変身」は能力からまるで姿形まで変わってしまいます。
その点がアメリカのスーパーヒーローからすると大きく違います。
しかし長年にわたり「パワーレンジャー」は放送し続けることにより、日本的な「変身」という概念もなじみ深いものになっていたようです。
「パワーレンジャー」シリーズでは変身をするときに「モーフィン」という掛け声をかけます。
この「モーフィン」という掛け声は「metamorphose(メタモルフォーゼ)」という言葉からつくられたモーフィングからとられたと言われています。
この「metamorphose」とは「変態」という意味です。
ここでいう「変態」はいわゆるHENTAIという意味ではなく(笑)、蝶が成長に従い、青虫から蛹、そして蝶と形態を変えていくことを指しています。
今回の映画「パワーレンジャー」がよくできていると思うのは、この「変態」という概念を映画の核に上手に据えているところでした。
「なりたい自分になればいい」というセリフが劇中で出てきます。
今回の「パワーレンジャー」のメンバーはいずれも挫折を経験したり、周囲にうまく溶け込めない悩み事を持つティーンエイジャーたちです。
かれらは日々学校生活をしていく中で、自分らしくいられないという悩みを抱えています。
周囲に合わせて変わっていかなければならない、大人にならなければならないという悩みは誰でも10代のころは持ちますよね。
けれどやはり自分がなりたいものになっていかなけば、ストレスをかかえていくだけ。
劇中でメンバーはなかなか変身ができません。
それは皆が気持ちを一つにできないからということもありますが、自分自身がなりたい自分になりたいと本当に願うか、そのための努力を惜しまないかという覚悟ができるかどうかにかかっているとも言えます。
仲間たちの支えもあり、メンバーはひとりひとりその覚悟を決めていき、やがて変身ができるようになります。
それは蛹が蝶に変わるほどの大きな変化です。
まさにメタモルフォーゼです。
日本特有の「変身」という概念を理解し、それをティーンエイジャーの成長と合わせて描いた本作は、よくある表面的な模倣に終わるリメイク品とは一線を画すように思えました。
アクション・特撮パートにおいては最近のハリウッドムービーらしいていすとでしたが、それはそれでかっこがいい。
最後の合体ロボが「トランスフォーマー」的なのはご愛敬というところでしょうか。
なにか続編がありそうな終わり方。
次は追加戦士でグリーンが登場か?

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2017年7月18日 (火)

「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」 最後の自由人

予告編でちらっとキーラ・ナイトレイが出てたので、初期作品との関係があるのかなと思ったら、最初にオーランド・ブルームまで出てきてびっくりしました。
1作目は2003年だから15年も経っているんですよね。
キーラ・ナイトレイはその間も美しさをキープしているので、驚きです。
そういえば、若かりし頃のジャック・スパロウもでてきましたが、あれはCGですよね?
ジョニー・デップの演技をモーション・キャプチャーしたのかしらん。

本作は雰囲気的には1作目に近い感じがしましたね。
ヘンリー・ターナーとカリーナ・スミスの関係は、ウィルとエリザベスの関係を彷彿とさせます。
また本作はヘンリー、カリーナそれぞれの親子の物語と、ポセイドンの槍という宝物探しの話が絡み合いながら進んでいき、それに宿敵であるサラザールという海賊ハンターが絡みます。
以前ジャック・スパロウは狂言回しである、といったことを記事に書いたことがありますが、まさに本作もそのような立ち位置でした。
ジャックは物語をかき回して、推進する役割ですが、あまりそれらの物語に積極的に関与していくわけではありません。
ラストでヘンリーとカリーナ、ウィルとエリザベスが大団円をむかえますが、ジャックはそれを見て「くだらない」と言って、自由に航海を続けます。
彼にとって自由で縛られないことこそが最も重要であり、恋人や妻であっても、それは己を縛るものでしかないと感じるのでしょう。
そういえば、仲間が去ると言ったときも、それに対しては何も言わず、仕方ないなといった感じでしたよね。
英語タイトルの副題は「Dead Men Tell No Tales」で「死人に口なし」という意味ですが、日本語の副題は「最後の海賊」でした。
まったくオリジナルと関係ないタイトルですが、大航海時代を経て人々が定住し安定を求め、海賊自体もいなくなっていく時代の中、ジャックだけが自由を求め続けているという意味で、ジャックが「最後の海賊」であるというようにもとれます。
ジャックは最後の自由人なのかもしれませんね。

エンドロール後には恒例のおまけが(これだからこのシリーズは最後まで席を立てない)。
無事エリザベスのもとに戻ったウィルのところに謎の影が・・・。
続編が作られるという話もあるようですが、今度はウィルやエリザベスを中心に物語は進んでいくのでしょうか。

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2017年7月 8日 (土)

「ハクソー・リッジ」 信念を貫く

いくら自分なりの考えを持っていようと、報道や社会の大きなうねり、周囲の人々の意見などによって、容易に流される。
むしろ流されることの方が多いと思う。
選挙などで雪崩を打ったように一方の勢力に票が入ることもあるし、または誰かへのバッシングなども一気に高まることもある。
社会の空気とか、うねりとかそういう見えない力があって、それに抗うことはなかなかに難しい。
特に戦争などといった状態であれば、さらにそうだ。
後から歴史を紐解けば、なぜそのようなことになったのだろうと思うことがあっても、その時に生きる人々、社会の中においては、大きなうねりに逆らうことは困難なのだろう。
本作「ハクソー・リッジ」では第二次世界大戦の激戦の中でも決して銃を取らず、人の命を奪わず、衛生兵として人を救い続けたデズモンド・リズの物語である。
戦場においては人の命を奪うことというのは兵士にとっては避けられないものである、ということは多くの人の理解であろう。
戦争という事態が良いか悪いか別にして、そういう状態になった場合、兵士の役割を否定できるものではない。
しかし、デズモンドは兵士が国を守るために戦い、人を殺さねばならないことそのものは否定はしないが、自分自身は人を殺すことを拒絶する。
人によってはそれは虫が良い話に聞こえるかもしれない。
けれども彼は自分の命をかけて、戦場に赴き、人を救おうとする。
己だけ人を殺すことの禁忌を避けているようにも見えなくはないが、彼が歩もうとする道もまた簡単なものではない。
多くの人の非難、奇異に見る目を受け、自分の信念を貫き通す。
彼の信条自体が良いか悪いかという議論は置いておいて、強い社会のうねりがある中で、それとは異なる自分の信念を貫くというのが、いかに困難であるかは容易に想像がつく。
これは戦場という場の話だけではないと思う。
東芝事件にしても電通事件にしても、社内で問題がある行為を許容する空気ができていた場合、それに一人の社員が異を唱えることがいかに難しいかがわかるだろう。
そう考えるとデズモンドが自分の信念を守るということに対して、強い胆力を持っていたということが実感できる。
さらに当時においても米軍はそういった一般の兵士とは違う価値観を持つ者(良心的兵役拒否者)を許容する懐の深さを持っていたということである。
最近でこそ逆に価値観の許容が狭められている気もするが、それでも日本よりは懐は深いのではないだろうか。
デズモンドが信念を貫き通すには、異なる価値観を受け入れる度量がある組織があるということが必要であったのかもしれない。
対して、当時の日本軍においてはそのような多様な価値を受け入れる余地はなかった。
現代においても日本の組織はまだまだそのような度量があるようには思えない。

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2017年6月18日 (日)

「パッセンジャー」 自分を必要としてほしい

こちらも旅行中の機内で鑑賞した一本。
公開中に観たかったのですが、タイミングが合わなかったのですよね。
120年かけて5,000人の乗客を移住先へ向かう宇宙船アヴァロン。
この船はトラブルを起こす確率が極少化されており、乗客乗員は全てコールドスリープしている。
しかし、ありえないトラブルが発生し、移住する惑星に到着する90年前に二人の男女が目覚めてしまった。
このまま再び冬眠することができなければ、到着する前に二人は誰知らず死んでしまう・・・。
このくらいしか事前に知らなかったのですっかりサバイバルSF的な作品だと思っていたのですが、設定はSFながら恋愛映画でしたね。
予想に反しましたが、不意を突かれ結構感動してしまいました。
もう公開終了しているので、ネタバレ的なところにも触れますね。
本当にトラブルで目覚めてしまったのは、主人公の一人ジム。
技術者でもある彼は目覚めてから1年間もの間、事態を打開しようと様々な試みをしますが、全て失敗。
孤独に苛まれ、自殺も試みようとしますが、それもできない。
そんな時にあるコールドスリープカプセルに美しい女性を見つけます。
彼女はオーロラ。
作家である彼女の言葉に触れ、ジムは彼女に恋をします。
まるで眠れる森の美女に恋するように。
そしてまた彼はオーロラを目覚めさせる方法も気づいてしまいます。
しかし彼女を目覚めさせるということは、彼女にも過酷な運命を背負わせるということ。
ジムはそんなことはできないと思い悩みますが、結局は孤独に負け、彼女のコールドスリープを解いてしまいます。

本当の孤独というのはどれほどまでに苦しいものなのでしょうか。
孤独とは何なのでしょうか。
人はおそらく他の誰かに必要とされたいという欲求があります。
その欲求が叶えられない時に孤独と感じるのかもしれません。
ジムは技術者ですが、彼の話を聞いているとその頃の地球は本当の技術者は必要とされなくなっていたように思えます。
コンピュータは高性能化し、システムはユニット化されて、壊れたら修理するのではなく、すぐ交換。
個としてのスキルが重要とされる時代ではないのかもしれません。
AIが進むにつれ、人間の仕事が奪われるという研究が話題になりましたが、そういう話かもしれません。
ジムは自分のスキルでやっていける場所を求め、移住プロジェクトに申し込みをしたのでしょう。
かたやオーロラは父親が著名なノンフィクションライターであり、彼女自身もその才能を持っていた。
しかし10代に目標とする父親は病で亡くなってしまった。
彼女にとっては超えて本当に自分が自分として評価されるきっかけを失ってしまったのかもしれません。
だからこそ彼女も新天地をリポートするという誰もやったことのない試みをしようとした。
そのために友人たちと永遠に別れるとしても。
ジムにしてもオーロラにしても社会に自分というものが必要とされているという実感が欲しかったのかもしれません。
しかし、彼らは新しい社会を作る前に、人々よりも90年早く目覚めてしまった。
そこには彼らしかいないとも同じ状況です。
そしてそこで彼らは愛し合いました。
大きな試練を乗り越える過程において彼らは本当にお互いに必要とし、必要とされるのかを確かめることができました。
90年後二人以外の乗員が目覚めた時、彼らを不幸な事故の犠牲者と見るでしょうか。
たった二人で生きなければいけなかったジムとオーロラを。
けれどオーロラのメッセージにあるようにむしろ二人は幸福であったのですよね。
本当に自分が必要とし、必要としてくれる相手を見つけることができたのだから。
多くの人が暮らす社会の中で暮らしていても、そこまで自分の存在意義を実感できている人はそうそうはいないような気もします。
その点において彼らは幸福だったのです。

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「パトリオット・デイ」 強くあれボストン

記憶に新しい2013年のボストンマラソン大会における爆破テロを題材にした作品。
タイトルの「パトリオット・デイ」はこのマラソン大会がアメリカの「愛国者の日」に開催されたことによる。
アクション映画やサスペンスでは、昔では共産圏のあの国や、秘密組織が仮想敵となっていたが、ベルリンの壁崩壊以降は、そういった役回りはテロ組織が担うようになってきた。
そういうこともあるので、テロリストというとちょっと映画の向こうのお話、言うなればフィクションのようなイメージがあった。
また日本というテロにはあまり縁がない(オウム真理教事件はあったが)国で暮らしているからかもしれない。
けれど、最近急速に世界の各地で起こっているテロは以前とは次元が異なるものとなっており、普通に生活していても巻き込まれる可能性が格段に上がっているように思う。
昔はテロが起こりそうなところにさえ行かなければ、巻き込まれることはなかったのだが、今ではどこがターゲットになるかわからない。
誰がマラソン大会で、コンサート会場でテロに合うなどと思うだろうか。
また無差別テロはまさに無差別で老若男女問わずターゲットになる可能性がある。
本作で描かれる事件でもそうだし、先日のイギリスの事件でも子供が犠牲になった。
自分に子供ができたからかもしれないが、小さい子がこういった事件で命を落とすことを聞くと、今まで以上に恐ろしさを感じる。
テロリストにも何かしらの社会に対しての言い分があるのかもしれないが、誰も人の生活や命を奪っていいものではない。
テロリズムの語源はテラー(非常な恐怖・terror)である。
一般人を含む社会に恐怖を与えることにより、社会的な動揺を誘い、自分たちの要求を通そうという考え方だ。
いかに立派な理想的な社会を築こうとしていても、その為に無関係な人々の人生を犠牲にしても良いという考えは正しくないと、やはり思う。
この作品で描かれる犯人たちには全く同情する余地がない。
彼らの犯行の理由は独りよがりな怒りからくるものであり、またその行動もずさんの一言である。
愚かとも言える彼らのために4人の命が失われ、何十人もの人々の生活が破壊されたことは許しがたい。
先にも書いたようにボストンマラソンの事件以降も世界でテロリズムが頻発している。
各国の警察もテロ封じに力を注いでいるとは思うが、完全に封じ込めるのは難しいと言える。
これからもテロが起こらなくなることはないのかもしれない。
武力だけでは解決できないかもしれない。
「強くあれボストン」というスローガンがこの映画の中で紹介されていた。
事件の犠牲者を悼むことは忘れない。
けれどもテロリストには屈しない。
なぜならその屈する可能性が見えれば、彼らはもっとそれに乗じてくるから。
テロリズムには「恐怖では社会は動じない」と見せつけるしかないのだろう。
とても勇気がいることであるとは思うが、そういう態度でいることがテロリストへの抑止力となるのかもしれない。

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2017年5月 6日 (土)

「美女と野獣(2017)」 愛の理想形

ディズニーアニメの「美女と野獣」が大ヒットした時(かれこれ25年以上前)、多くの人が観に行ったと思うのですが、自分は劇場には足を運びませんでした。
それからDVDとかでも観てないんですよね。
その頃はディズニーのアニメというと、言い方は悪いですが「女子供が観るもの」という先入観があったのですよね。
もちろん今はそんなことはなく、ディズニーアニメのクオリティは信頼していて、新作ができると観にいくようになったのですけれども。
「美女と野獣」については、最近フランスで作られた実写版も観なかったので、ストーリーもよく知りません。
という前提でこの作品の感想を書きますが、思っていたよりもよくて感動してしまいました。
元々のストーリーがとてもよくできているのでしょうね。
「美女と野獣」は愛というものの本質を正面切って描いているところに多くの人が感動をするのでしょうね。
人を好きになる時、見かけというのは重要なきっかけにはなるとは思うのですけれど、やはり愛することを続けていくには相手の内面を好きになれるかどうかというのが大事なのですよね。
見た目があまり良くなかったり、人とは違う趣味で変人と思われたりといった世間の評価というのは気になるものです。
「なんでこんな人と付き合っているの?」って言われるのが嫌というのは素直であると思います。
けれど「そんなの関係ない、この人がいいの!」と言い切れる自信にも皆憧れるところはあるのではないでしょうか。
それは相手の良いところを見つけられているという自分の判断に対する揺らぎなさみたいなものをなかなか人は持ちにくいからかもしれません。
だからこそベルや野獣が相手の良さを見つけ、それを愛することができるということに憧れるのでしょう。
あと、愛の本質という点では、自己犠牲でしょうか。
自分自身のことよりも相手のことを優先できるかどうか。
野獣は父親思いのベルの気持ちを大事にして、彼女を自由にしてあげた。
ベルは野獣を守るために危険が待っている城に戻っていった。
現実にはなかなか相手のためだけに行動するということはできないものです。
愛する人が相手でも利己的な気持ちは出てしまうもの。
ベルも野獣もなかなかできないことをやっているということで、理想を体現しているわけで、憧れになるのでしょうね。
「美女と野獣」は愛の本質、理想の姿を直球で描いているという点が共感できるところなのかもしれないです。
今の時代、ちょっとひねた目線で物事、愛などに関しても見てしまいがちですが、理想をまっすぐに描くというのはかえって目新しく、新鮮に感じるように思えました。

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2016年12月30日 (金)

「バイオハザード:ザ・ファイナル」 原点回帰

「バイオハザード」シリーズの6作目にして最終作(最終作になるはず)。
結局1作目を撮ったポール・W・S・アンダーソンが最終作も監督となりました。
彼の「バイオハザード」愛と奥さん(ミラ・ジョボヴィッチ)ラブは半端ない。
本作の舞台はシリーズの出発点であるラクーンシティに戻ります。
物語の原点ハイブへアリスはTウィルスを根絶できる薬を手に入れるため再び侵入をします。
そういう意味では原点回帰、1作目が思い浮かぶストーリーで、シンプルな展開ではあります。
監督もずっとこのシリーズに関わっているわけですので、奇をてらうことはなく、「バイオハザード」とはかくあるべきという安定感のある展開になっています。
そのため驚きということはないのですが、シリーズを全部観てきた自分としては安心して観れました。
ワンパターンちゃ、ワンパターンなんですけれど。
しかし、この監督はカット割りが細かいので観ていてちょっと疲れます。
しかも3Dで観てしまったので。
一応ファイナルということで、アリスを中心にアクションも作られていましたね。
彼女は身体能力も元々高いですが、相変わらずキレがいいです。
2児の母には思えないですね。
これにてこのシリーズは終了ということですが、最後はまた作ろうと思えば作れそうな感じで終わりましたね。

日本からはローラさんが出演!と取り上げられていましたが、ほぼ瞬殺でしたね。
アンデッドになって襲ってくるかと思いきや、喰われて終了でありました。

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2016年12月19日 (月)

「ファンタスティックビーストと魔法使いの旅」 子供の可能性を閉ざしてはならない


「ハリー・ポッター」シリーズ完結からおよそ5年、待望の新シリーズのスタートです。
監督は「ハリー・ポッター」シリーズの最後の4作の演出を担当し、このシリーズの世界観を知り尽くしているデイビッド・イェーツ、そして原作者であるJ.K.ローリングが初めて映画の脚本を書いたことでも話題となっています。
「ファンタスティックビースト」の舞台となるのは、「ハリー・ポッター」から時間と場所を変え、1920年代のアメリカのNYとなっています。
主人公は魔法生物の研究者ニュート・スキャマンダーとなりますが、実はこの方は「ハリー・ポッター」の方でも名前は登場しています。
映画タイトルの「Fantastic Beasts & Where to Find Them」は、実はハリーが劇中で使う教科書の名前と同じで、その著者がニュート・スキャマンダーなのですね。
今後もこのシリーズと「ハリー・ポッター」のリンクがいくつか登場してくるかもしれませんね。
ニュートの同級生でレストレンジの名前が出てきましたし、今後の展開が楽しみです。
「ハリー・ポッター」シリーズはファンタジーでありながらも、人の闇の部分を描くダークな一面を持っていました。
本作もその特徴を引き継いでいます。
アメリカで魔法族に対して排斥運動を行っている女性メアリー・ルーは何人もの養子を抱えて、運動を手伝わせています。
その中の一人クレデンスは実は魔法族であったのですが、継母に魔法を禁じられ、加えて虐待を受けています。
それにより彼は自身の中に抑圧された暗い気持ちを抱き続け、それがとうとうオブスキュラスという闇の魔力を持つ化け物に変化してしまいます。
その強大な力をコントロールできず、破壊を続けるオブスキュラス=クレデンス。
スキャマンダーたちは暴走を止め、クレデンスの心を救うことができるのか・・・。
メアリー・ルーの行為は虐待そのものであり、そして子供たちが持つ可能性を親が摘んでしまうことの不遜さを描いています。
子供はそれぞれに違う個性を持ち、そのいいところを引き出し伸ばしてあげることこそが親の役割。
その個性を受け止めてあげることが大切なのですよね。
ご自身も子の親であるローリングの考えがストレートに表れている作品だなと感じました。

最後にちょっとジョニー・デップが登場してびっくりしました。
事前にあまりアナウンスはなかったと思うのですが、サプライズですよね。
このシリーズのレギュラーになるかしらん。
「ハリー・ポッター」のヴォルデモードのような役柄になるのかな。

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