2016年12月30日 (金)

「バイオハザード:ザ・ファイナル」 原点回帰

「バイオハザード」シリーズの6作目にして最終作(最終作になるはず)。
結局1作目を撮ったポール・W・S・アンダーソンが最終作も監督となりました。
彼の「バイオハザード」愛と奥さん(ミラ・ジョボヴィッチ)ラブは半端ない。
本作の舞台はシリーズの出発点であるラクーンシティに戻ります。
物語の原点ハイブへアリスはTウィルスを根絶できる薬を手に入れるため再び侵入をします。
そういう意味では原点回帰、1作目が思い浮かぶストーリーで、シンプルな展開ではあります。
監督もずっとこのシリーズに関わっているわけですので、奇をてらうことはなく、「バイオハザード」とはかくあるべきという安定感のある展開になっています。
そのため驚きということはないのですが、シリーズを全部観てきた自分としては安心して観れました。
ワンパターンちゃ、ワンパターンなんですけれど。
しかし、この監督はカット割りが細かいので観ていてちょっと疲れます。
しかも3Dで観てしまったので。
一応ファイナルということで、アリスを中心にアクションも作られていましたね。
彼女は身体能力も元々高いですが、相変わらずキレがいいです。
2児の母には思えないですね。
これにてこのシリーズは終了ということですが、最後はまた作ろうと思えば作れそうな感じで終わりましたね。

日本からはローラさんが出演!と取り上げられていましたが、ほぼ瞬殺でしたね。
アンデッドになって襲ってくるかと思いきや、喰われて終了でありました。

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2016年12月19日 (月)

「ファンタスティックビーストと魔法使いの旅」 子供の可能性を閉ざしてはならない


「ハリー・ポッター」シリーズ完結からおよそ5年、待望の新シリーズのスタートです。
監督は「ハリー・ポッター」シリーズの最後の4作の演出を担当し、このシリーズの世界観を知り尽くしているデイビッド・イェーツ、そして原作者であるJ.K.ローリングが初めて映画の脚本を書いたことでも話題となっています。
「ファンタスティックビースト」の舞台となるのは、「ハリー・ポッター」から時間と場所を変え、1920年代のアメリカのNYとなっています。
主人公は魔法生物の研究者ニュート・スキャマンダーとなりますが、実はこの方は「ハリー・ポッター」の方でも名前は登場しています。
映画タイトルの「Fantastic Beasts & Where to Find Them」は、実はハリーが劇中で使う教科書の名前と同じで、その著者がニュート・スキャマンダーなのですね。
今後もこのシリーズと「ハリー・ポッター」のリンクがいくつか登場してくるかもしれませんね。
ニュートの同級生でレストレンジの名前が出てきましたし、今後の展開が楽しみです。
「ハリー・ポッター」シリーズはファンタジーでありながらも、人の闇の部分を描くダークな一面を持っていました。
本作もその特徴を引き継いでいます。
アメリカで魔法族に対して排斥運動を行っている女性メアリー・ルーは何人もの養子を抱えて、運動を手伝わせています。
その中の一人クレデンスは実は魔法族であったのですが、継母に魔法を禁じられ、加えて虐待を受けています。
それにより彼は自身の中に抑圧された暗い気持ちを抱き続け、それがとうとうオブスキュラスという闇の魔力を持つ化け物に変化してしまいます。
その強大な力をコントロールできず、破壊を続けるオブスキュラス=クレデンス。
スキャマンダーたちは暴走を止め、クレデンスの心を救うことができるのか・・・。
メアリー・ルーの行為は虐待そのものであり、そして子供たちが持つ可能性を親が摘んでしまうことの不遜さを描いています。
子供はそれぞれに違う個性を持ち、そのいいところを引き出し伸ばしてあげることこそが親の役割。
その個性を受け止めてあげることが大切なのですよね。
ご自身も子の親であるローリングの考えがストレートに表れている作品だなと感じました。

最後にちょっとジョニー・デップが登場してびっくりしました。
事前にあまりアナウンスはなかったと思うのですが、サプライズですよね。
このシリーズのレギュラーになるかしらん。
「ハリー・ポッター」のヴォルデモードのような役柄になるのかな。

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2016年10月17日 (月)

「ハドソン川の奇跡」 ヒューマン・ファクター

本作は2009年に起こった「ハドソン川の奇跡」と呼ばれる航空事故を題材としています。
これはニューヨークの空港を離陸したばかりの航空機の2基のエンジンの両方が推力停止となったため航行不能となり、ハドソン川不時着水をした事故です。
冬場の川への着水であったにも関わらず、乗員乗客255名がすべて生存したということで「奇跡」と呼ばれるケースとなりました。
サレンバーガー機長は奇跡を起こした英雄としてマスコミなどには取り上げられますが、事故調査委員会は彼の判断に問題があるのではないかとし、公聴会を開きます。
諸条件を入力したコンピューターやベテランパイロットによるシミュレーションでは、ハドソン川に着水しなくても、トラブルは回避できたと、彼らは主張します。
人々の命を救った機長が実は・・・というのは、以前デンゼル・ワシントンが主演をした「フライト」がありますが、本作のサレンバーガー機長は安全を第一に考える立派な人物でした。
この事故は、ちょっとでもタイミングが悪ければ、あわや大惨事というケースでした。
ましてや9.11で航空機が引き起こした大惨事の数年後のニューヨークで起こったということもあるでしょう。
事故調査委員会としては、わかりやすい犯人捜しをして決着をつけたかったという心理が働いたのかもしれません。
原因がよくわからない場合だったり、日常的に防ぐことができないことが原因だったりすると、「また同じような事件が起こるかもしれない」といった不安ばかりが世間に広がってしまう。
誰かのミスであれば、少なくとも原因がわかることにより、このケースが個人に由来する特殊なものであることと人々は思ってもらえるのではないかと。
とはいえ本作はドロドロとした陰謀論というわけではありません。
本作の中では「ヒューマン・ファクター」や「ヒューマン・エラー」という言葉が頻出します。
航空事故では「ヒューマン・エラー」が原因の事故が多数あります。
いわゆる誤操作、誤認識など人間由来のミスによる事故のことですね。
マニュアルを充実させたり(航空機を飛ばすときの手順書は何十ものステップがある)、自動化を進めたり(最近の航空機の自動航行システムはすごいらしい)ということは、なるべく人間由来のミスをなくそうという試みでしょう。
人間は必ずミスをする、これは正しい認識です。
だからといって人間の関与を全くなくすということが正しいことかどうかは議論があるところでしょう。
「ヒューマン・ファクター」という言葉は、本作ではサレンバーガー機長がよく使っていたように思いますが、「ヒューマン・エラー」のようなネガティブな意味ではなく、ポジティブな意味で使っていたように思います。
マニュアル化、自動化という対策は「人は必ずミスをする」という前提で、想定されるケースでどのように対処するべきかということを取り決めたものと言えます。
これは一見正しいのですが、「想定外」のことが起こったときには実は役に立たなくなります。
マニュアル通りにしか行動できない人のことを「マニュアルくん」と揶揄したりすることがありますが、そういう人は「想定外」の状況にヨワイ。
自動化された機械も「想定外」のことが起こった場合はエラーを起こしてしまう。
この作品で描かれている状況は、離陸直後にバードアタックを受け、全エンジン停止という状況は誰も経験をしたことがない「想定外」の状況でした。
すでにデータがそろっている状態でのコンピューターシミュレーション、何度も練習をして挑むパイロットでやっとクリアできる状況であったわけです。
「想定外」のことが起こったとき、人間はより高次なレベルでの判断(何を優先させるべきか、何が最も可能性があるか)を行うことができます。
これは誰にでもできることではなく、高い経験値、冷静な判断力、実施可能なスキルが求められます。
「想定外」の状況のとき、マニュアルも自動化技術は対応できない可能性があり、それに対応できるのが「ヒューマン・ファクター」なのかもしれません。
今後AIのディープラーニングが進んでいくと、ベテランが持っている「カン」的なものも持つようになるかもしれませんが、まだまだそれに人の命を賭けられるかというと怖いものがあります。
またこの映画で描かれたのは航空機事故で、ふつうに暮らす我々からするとかなりレアなケースのようにも思えますが、遠くない未来で自動車の自動化が進んだ場合は、このようなケースも身近になるかもしれません。
「想定外」のことが起こったとき、「ヒューマン・ファクター」で対応できるのかどうか、今後話題になることも多くなるかもしれませんね。

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2016年8月31日 (水)

「秘密 THE TOP SECRET」 パンドラの箱

<ネタバレ注意の記事になっています!>

この作品で描かれる事件の発端は、主人公である第九室長薪と連続殺人犯貝沼の出会いである。
重要なシーンであるので、ここを一度思い出したい。
貝沼は教会のミサに参加していた。
彼がキリスト教信者であるかは描かれていないが、身なりが貧しく、ミサ後教会の施しを受けたところを見ると、信者ではなく施しをもらいに来ていたのではないかと思われる。
ミサが終わった時、彼は椅子に忘れられていた財布を見つけ、持ち主に渡そうと立ち上がる。
しかし彼は足が悪いのかゆっくりとしか歩けず、持ち主を見失ってしまう。
その時、彼はちょっとした逡巡の後に財布を懐に入れてしまう。
おそらくそれほどの悪気はなく「まあ、いいか」「ちょっと得したな」というくらいだったのかもしれない。
しかしその一連の行為を見ていた薪は、警察であることを告げた上で、貝沼に罪を犯さないようにと言い、財布を預かる。
その上に貝沼がそういった行為をした背景をわかったように、金の施しを与えたのだ。
映画の中で描かているのはこう言った描写である。
これがどうしてその後の陰惨な事件の連鎖につながっていくのか。
おそらく、貝沼は薪に行為を見咎められ、施しをされた時に、財布を懐に入れてしまう逡巡と罪を犯そうとしているという自覚を全て、薪に見抜かれてしまったという気持ちになったのであろう。
誰でもある行為を行うときに心の中で善悪のせめぎ合いがあったりするものだ。
例えば、100円を拾ったときに誰も見ていなかったら交番に届けず、ラッキーと言ってポケットに入れてしまったり、電車で疲れて座っている時に目の前に老人が来ても寝たふりをしてしまったり。
罪の意識を感じながらもちょっとしたことをしてしまうということは誰でもあるだろう。
ただそれを誰かに「お前は気づいて席を譲らなくてはいけないと思ったのに譲らなかっただろう」と言われたら、顔から火が出るほど恥ずかしく感じるだろうし、言った相手に対し不快な気持ちも抱くことだと思う。
誰でも頭の中でちょっと人には言えないような恥ずかしいこと、不道徳なことを考える。
しかし普通は理性的に考えて大それたことを実行することはない(100円をポッケに入れてしまうことはあったとしても)。
貝沼は薪に指摘された時、自分の心にある恥ずかしい部分を露わにされたことに怒りを感じたのではないだろうか。
その相手である薪は悪意があるわけではなく、非常に純粋な気持ちで言ったということも貝原にはわかったであろう。
しかしだからこそ自分とは異なる、純粋な精神を持つ薪に苛立ちを感じたのではないか。
その純粋さを汚したいという衝動を貝原は持ったのではないかと思う。
そしてさらに薪が人の脳の記憶を読む技術を開発していることを貝沼は知った。
それはある意味人間の本分を超え、神の領域にも足を踏み出すこととも言える。
純粋な精神がさらに神の高みに登っていく。
貝沼の中に、薪を堕落させたいという衝動がより強くなっていったのだろう。
この作品には鍵というモチーフが各所に出てくる。
鍵とはみてはいけないものをしまっていくということ、禁忌の象徴。
薪は人の心がしまってある箱の鍵を開けてしまった。
その禁忌を破った時に出てくるのは絶望か、希望か。
まさに人間の心、記憶はパンドラの箱である。
貝沼から続く陰惨な事件は絶望である。
箱の中にあった暗い心を見てしまった人々は自殺をしたり、発狂したりした。
あまりの闇に触れた時、人は自分の心にも同様の闇が存在することに気づいてしまうのではないか。
自分自身すら気づいていなかた闇に絶望する。
おそらく開けてはいけない鍵なのだろう。
しかしパンドラの箱と同様に、そこにあるのは絶望だけではない。
物語の最後に出た幸せそうな風景。
これは盲目の少年のパートナーである犬が見ていた映像の記憶である。
犬が見ていたのは幸せそうな人々の光景であった。
人の世は絶望だけではなく、希望も確かに存在する。
それだけが救いであり、薪が生きていけるのもこれがあるからではないだろうか。

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2016年3月30日 (水)

「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」 ジャスティスの未来は描けているのか

「アイアンマン」以来、その世界観を多彩なキャラクターで広げ、新しい作品を公開するごとに確実に成功するようになってきたマーベル・ユニバース。
それに対し、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」シリーズという大作にして大ヒット作はあったものの、他の作品では目を引くものを提供できてこれなかったDC。
マーベル・ユニバースのフェイズ3の一作目となる「シビル・ウォー キャプテン・アメリカ」では、アイアンマン勢とキャプテン・アメリカ勢と別れヒーローが対立することが描かれるという。
大ヒットを連発してきたシリーズであるから、盛り上がることは容易に想像ができる。
その影響があると思うが、DCも思い切って虎の子の2大ヒーローを激突させるという「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」を公開した。
マーベルと「アベンジャーズ」と同じように、DCコミックでもヒーローたちのチーム「ジャスティス・リーグ」というものがある。
副題にある「ジャスティスの誕生」というのは、今後DC勢も「アベンジャーズ」と同じようにヒーローチームをシリーズ化していくということなのであろう。
しかし、それはうまくいくのだろうか。
マーベルは「アベンジャーズ」に至るまで「アイアンマン」「インクレディブル・ハルク」「アイアンマン2」「マイティ・ソー」
「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」と個別の作品でそれぞれのヒーローの物語をそれぞれのテイストで描きつつも、その後クロスオーバーするための設定や伏線を丁寧に作ってきていた。
正直言って、アイアンマンにせよ、ソーにせよ、キャプテン・アメリカにせよ、それほどメジャーな存在ではなかった(特に日本人にとって)。
スーパーマンやバットマンの方がよほど有名であったと思う。
しかし、丁寧にヒーローを描き、世界観を構築してきたことにより、マーベル・ユニバースは成功をした。
プロデューサーがしっかりとロードマップを作って、ユニバースを展開してきたことがわかる。
それに対し、本作はいかにも乱暴に「バットマン」と「スーパーマン」という異なる世界観を無理やりにつなげようという無理を感じたのだ。
マーベル・ユニバースの特徴はその多彩さと、懐の深さにあると思う。
正直、「アベンジャーズ」を見る前は強化されたとはいえ人間であるキャプテン・アメリカと神様であるソーが共闘するというのは、ちょっと無理があるのではないかと思っていた。
けれども登場するヒーローたちはそれぞれ異なった強さと弱さを持っていて、それが絶妙なバランスで、シリーズが抱えそうになる無理感をなくしている。
神様でもなく怪物でもない人間であるけれども、その強い正義感が力となりチームを率いるリーダーとなるキャプテン・アメリカ。
人間を超えた力を持っているが、ロキというアキレス腱を持っていて、意外に情に弱いソー。
圧倒的なパワーを持っていながらそれをコントロールできないハルク。
それぞれの弱さをそれぞれに強さで補い合う、それが「アベンジャーズ」の絶妙なバランスを作り上げている。
対して本作「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」はかなりバランスが悪く感じてしまう。
まずスーパーマンが極めて完璧なヒーローであるというのが、バランスをとることを難しくしている。
作品中でも彼は神に例えられるが、あまりに強く、そしてその心も清廉潔白で正義感に溢れている。
クリプトンナイトという物理的な弱点は持ちつつも、マーベルのヒーローたちに比べて、ヒーローとしての弱さがない。
その完璧さは「スーパーマン」という作品世界を融通が利きにくいものとなっている。
また本作のバットマンはノーランが作り上げた「ダークナイト」の影響を色濃く残している。
「ダークナイト」の世界観はある意味完璧に作り上げてられている。
「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」は「ダークナイト」的なダークな雰囲気を引き継いでいるが、そこにスーパーマンがなかなかマッチしにくいように思うのだ。
それぞれに異なる強い世界観を持っているがゆえに。
ワンダーウーマンも登場してきたが、そのバックボーンが何もわからないので、ただの通りすがりのゲストキャラ以上の存在感を出せなかったと思う。
マーベルが丁寧に新しいキャラクターをユニバースに取り込んで行こうとするのとは異なっている。
マーベルのフェイズ3では宇宙的なスケールの「ガーディアン・オブ・ギャラクシー」と、ミクロな世界の「アントマン」、親愛なる友人「スパイダーマン」も合流するらしい。
どのようにバランスをとるのかが見ものであるが、丁寧にキャラクターを作り上げてくるマーベルはきっちりと仕事をしてくれると思う。
対してDCはジャスティス・リーグのその先のロードマップをきちんと描けているのだろうか。
本作からだけではそれは感じられなかった。
大きく水をあけられているので気持ちはわかるが、焦るなと言いたい。

最後にあれだけスーパーマンを敵対視していたバットマンが、母親の名前が同じであったということだけでコロリと気持ちを変えるのは納得いかなかった。
二人ともただのマザコンじゃないか。

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2015年11月24日 (火)

「ハンガー・ゲーム  FINAL:レボリューション」 価値観のすりこみ

「ハンガー・ゲーム」シリーズの最終作です。
正直言ってこのシリーズが最初に公開されたときは、ティーン向けの小説の映画化作品ということで、中身があまりない薄っぺらいシリーズになると思っていました(「トワイライト」シリーズのような)。
最初の作品もその内容から「バトル・ロワイヤル」的と言われていましたよね(設定は似ていますが、実はテーマは全く違うのですけれども)。
そういう点で二番煎じ的な、よくある若者向けのSFアクションシリーズ(最近だと「メイズ・ランナー」とか「ダイバージェント」等)というとらえかたをしていたのです。
しかし、シリーズが進むにつれ、物語のスケールは大きくなり、そのテーマもはっきりとしてきて、極めてメッセージ性が強いシリーズであることがわかってきました。

前作でコイン首相が腹に一物を持っている人物であることは、そこはかとなく感じさせられました。
最終作の本作で、その野望がはっきりと浮かび上がってきます。
彼女の狙いは、パネムの支配者であるスノーを追い落とし、その座に自分が座ること。
そのためにカットニスがも持つカリスマ性を利用してプロポを作り、反乱軍サイドの意思の結束を図ろうとしたのです。
もしカットニスが死んだとしても、彼女を殉教者に仕立て上げ、コインは自分の力の源としようとしています。
人は誰からも生き方を強制されるいわれはない、生き方を強制されるのであるならば、人は全力でその力に対抗する、それがこの作品のテーマなのでしょう。
ただそのような自分らしく生きたいというそれぞれの気持ちですら、巧みに利用されて誰かの欲望のための手段となってしまうという恐ろしさが現実的にはある。
熱狂した気持ちの中で、誰かの隠れた意図を見抜くのは非常に難しい。
カットニスという少女は、彼女らしい野性のカンで違和感を感じることができるのでしょう。
どのような理屈であるかはわからない、その仕掛けがどうであるかはわからない。
けれど何か変だ、おかしいという自分の中にある感触を、彼女は信じることができる。
大勢に流されない、常に自分というものがあるというのは、この物語で描かれている世界だけではなく、今現在の我々の世界でも、大切なことであるかもしれません。
パネムにしても、反乱軍サイドにしても、あるひとつの価値観がメディア(それを支配する施政者)によってさりげなくすりこもうとしています。
ゲイルは反乱軍と行動するうちに彼らの価値観をいつの間にかすりこまれてしまった。
自分がほんとうに大切にしたいもの(カットニスとその家族)よりも、コインの価値観を優先させてしまった。
だからプリムをめぐる悲劇が生まれたのだと思います。
価値観のすりこみを強制的にやられたのがピータですね。
自分の価値観が、自覚がないままにメディア等他の者たちにによって作られる。
日々のニュースでも、それに対しての人々の反応がいつの間にかある方向性を持つことがあります。
そういう世の中で、自分らしく生きるためには、我々もカットニスのような見る目、感じる心、そして強い意志が必要なのかもしれません。

とはいいつつも、すべてはゲームメーカーであるプルタークの意志のままであるとも言えるわけですよね。
スノーの独裁、コインの野望をつぶすために、彼はカットニスというファクターを利用した。
彼がめざした世界が人々が生きたいように生きられる社会であったから、よかったわけですが。
そういう点からみても、誰かにさりげなく価値観や生き方を決められている恐ろしさというのは感じるわけです。

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2015年10月18日 (日)

「バクマン。」 友情、努力、勝利

大場つぐみさん、小畑健さんの「DETH NOTE」コンビのコミック「バクマン。」の映画化作品です。
「DETH NOTE」とは打って変わって、このコミックは漫画に青春をかける二人の高校生の物語、現代版の「まんが道」のようなものかな。
監督は「モテキ」の大根仁さんなので、サブカル系に強そうな方なので、適任かなと思いました。
原作は20巻にも及びますし、登場してくるキャラクターの数も多いので、映画化するにあたってはどのあたりを切り取るかということがポイントになるかなと思っていました。
映画では、コミックの比較的前半の方を取り上げていましたね。
まさに好きなものに自分の全てを打ち込む「青春」という部分にフューチャーしていたように思います。
あと漫画家というとずっと机に向かっている職業なので、そこを映画としてどういう風に見せていくかというのポイントであったと思います。
そのまま映しているだけだと単調になりそうですものね。
大根監督は、二人が描いているときにプロジェクションマッピング的に漫画を映しこんでみたり、漫画の中の仮想空間での二人とエイジのバトルを描いてみたりなど、単調にならないような工夫、アイデアを盛り込んだ演出をしていました。
またセットやら小道具などには漫画好きなら、「ほー」といいそうなものが飾られていて、このあたりはサブカルに強い大根監督らしいなと思いました。
お話としては青春ものとしてストレートに描かれていて、まさにジャンプらしい「友情、努力、勝利」という構造になっているので、見やすい作品となっています。
本作は120分ですが、それでもかなり原作から削っているので、コミックを読んでた自分からすると少々物足りないところもありました。
サイコーと亜豆のくすぐったくじれったいような恋愛は原作では一つのキーでしたが、本作ではサイコーの漫画家になるためのモチベーションのひとつであって、それほど深堀されませんでした。
亜豆は象徴的なヒロインという感じでしょうか。
エイジももう少し原作では深いキャラクターであったと思いますが、映画だと嫌味なライバルくらいな印象であったので、ちょっともったいない。
本作品、続編を作ろうと思えば作れる構造であると思うので、もしかして次があればそのあたりを深堀しようという腹もあるのかもしれないですね。
サイコーが漫画をカリカリ描いているところは昔を思い出しちゃいました。
中高生のころイラストとかを描いていたので。
才能などはなかったのでプロなんてことは思いませんでしたが、あの姿を見て、久しぶりに描いてみようかという気分になりました。

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2015年10月 4日 (日)

「ピクセル」 特定世代じゃないとわからないかなー

自分はまさに「ゲームセンターあらし」世代で、80年代にゲームセンターに100円玉握りしめて行っていたので、懐かしい気分になる作品でした。
ゲームをするたびにお金を払うということで、ゲームをすることの「重み(そんな大したもんではないが)」は家庭用ゲーム機でゲームをするのとはちょっと違っていたかもしれませんね。
リセットなどもできないわけで、真剣勝負だったというか、ミスをしたら命取り、といった緊張感があったかも。
このように僕が子供頃の当時は「ゲームセンターで」ゲームをするのが当たり前でしたが、今の子供は家でゲームするほうが普通なのですよね。
上で書いたような感覚はわからないかもしれないですね。
ゲームセンターと言ったら、プリクラやクレーンゲームをやるところって印象なのかな(この10年くらいゲームセンターは言っていないのでわからないけど)。
この作品で紹介されているのは80年代一斉を風靡した「ギャラガ」「パックマン」「ドンキーコング」などのゲーム。
若い人はやったことがないかな〜。
自分は散々やったけど「パックマン」と「ドンキーコング」は全然うまくならなかったですねえ。
この映画の主人公が極めて秀でているパターン認識のような能力はなかったからかな。
「ギャラガ」とその前進である「ギャラクシアン」はそこそこうまかったと思う。
あと「アルカノイド」も意外と得意だったかなー。
反射系が得意だったのかも。
あと劇中でちょろっと出ていた「ミサイルコマンド」「アステロイド」も結構好きでした。
どっちにしても反射系だ。
こういったように80年代のゲームを知っている方は大いに楽しめる作品かも。
けれどまったくその辺に関わり合いのない方にとっては、、、どうでしょうねえ?
お話的にはチープではあったし、無駄に長い感じもありました。
B級の作品だとは思うので、こんなものかな。
ある世代、ある趣味に特化した作品でありました。

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2015年7月12日 (日)

「バケモノの子」 お前がいるから俺は父親になれる

細田守監督の作品はご自身のプライベートで体験したことが、お話の元になっているといいます。
「サマーウォーズ」はご結婚することになり、お相手のお家にお邪魔した時の印象がベースになっているとか。
まら「おおかみこどもの雨と雪」はご自身にお子さんができたときに感じたことが元になっていると聞きます。
本作「バケモノの子」も監督が父親として感じたことがその根っこにあるのでしょうね。
それは誰しも父親になる時に感じるものなのかもしれません。
ちょっとプライベートな話をしますと、つい最近父親になりそうな機会(妻が妊娠)がありまして。
そのときにまず感じたのは実感のなさ。
女性と違って男性はお腹の中に存在を感じないわけですから実感というのは感じにくいですよね。
けれど時間が経つにつれて、子供が生まれるんだという自覚的な気持ちが芽生えてきます。
それは自分自身がそう自覚したというよりは、子供の存在によりその気持ちが目覚めさせられたという感じに近い。
子供がいるからこそ、男は父親になれる。
こう書くと当たり前すぎる感じがするのですが、まさにそういう感覚をこの映画は描いているように感じました。
熊徹と九太は赤の他人、というよりバケモノと人間ですから種族も本来は住むところも違う。
けれど二人で暮らし、師匠と弟子という関係が、擬似的な親子関係になっていきます。
子供というものは成長していくに従い、心の中にぽっかりと穴があいていきます。
この映画では黒い穴として描いていましたが、思春期あたりで大人になろうとするとき、「自分は何者なのか」「どうしてこの世に存在しているのか」といった命題に悩む時期がきます。
これが黒い穴。
なかなか解けない問題ですから、悶々とした日々を過ごすことになります。
それでも何かしら自分の立ち位置を見据えて、進んでいけるようになるというのが大人になることかもしれません。
けれどその穴が塞ぎきれなかったとき、子供は暴走(不良になってしまったり、その他諸々問題行動を起こす)してしまうのかもしれません。
その黒い穴を塞ぐために、父親として唯一できることは、自分の生き方を見せてやること。
親の生き方を見せることにより、子供の中にひとつでもいいから生きるための指針を置いておいてあげる。
熊徹が九太の胸の中の剣になったように。
九太にとって熊徹は生きるための指針となったのです。
自分の父親はあまりいろいろと言う人ではありませんでしたが、一度ある一言を言ったことがあり、これが自分としてすごく胸に残ったことがありました。
父親は自分のことをこう思い、育んでくれたのだと。
その言葉は、九太にとっての胸の剣と同じようなものなのかもしれません。
父親だけではなくって子供はいろいろな人の力を借りて、影響を受けて、成長していく。
子供が大人になったとき、周りの人々に感謝できるようになることができれば、子育てはうまくいったということになるのかもしれません。
そういう意味で熊徹の子育ては大成功であったのでしょう。
不器用だけど、いい父親でした。

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2015年6月27日 (土)

「ハンガー・ゲーム FINAL:レジスタンス」 大人たちのプロパガンダ

スノー大統領に支配されている独裁国家パネムでは、毎年「ハンガー・ゲーム」という名のサバイバル・ゲームが行われていた。
12の地区から選抜される若者たち24名が最後の一人になるまで殺しあうこのゲームは人間性のないものであるが、これに誰も異を唱えず従うということこそが、人民に国に逆らうことができないということを強く印象づける役割を果たしている。
その強固な支配のルールを、二度に渡り破った少女がカットニス・エバティーンであった。
彼女は人の悲しみや苦しみを自分のことのように感じ、また不条理な物事への怒りを抱く激しい感情を持ち、また思ったことを実現することができる強い意志と行動力を持った人物だ。
スノーが彼女を脅威と感じるのは、人々の意識を支配する「ルール」を覆すことができるということを彼女の行動により人々に印象付けたからである。
スノーにとっては世界の秩序の破壊者、人民にとっては自由の、象徴となったのである。

本作はシリーズ3作目の前編にあたる。
2作目の最後でカットニスは、スノーへ反旗を翻す組織にその身柄を確保されたところで終わる。
本作でその組織は、破滅したと言われる13番目の地区であることが明らかにされる。
大統領の目を盗み、地下で彼らは反乱の機を探っていたのだ。
カットニスの行動で、自然発生的に起こった反乱。
13地区はカットニスを革命の象徴として担ぎあげることにより、いよいよ打倒スノーの戦争を実行しようとしていたのだ。
前作の最後を観たときは、3作目ではカットニスを先頭にパネムとの大戦闘へ展開するというイメージでいた。
しかし、予想とはちょっと違っていた。
2作目で大統領はカットニスをパネムへの従順の象徴として扱おうとした。
そして反乱軍もまた彼女を、自由の象徴として扱う。
双方ともに彼女をプロパガンダの材料としてしか見ていないように思う。
反乱軍側がカットニスを使って作るプロモビデオは、いささか気持ちが悪い。
立場が変わっているだけでパネムと同じようなこと、つまりはプロパガンダによって人民をコントロールしようとする意志を感じるからだ。
反乱軍側仕切っているのはコインという女性の首相。
そして彼女をサポートするのは、前作でも登場したプルタークという人物。
指導者はコインなのだが、プルタークとの関係もやや何かありそうな予感がある。
本作最後にコインは演説を行うのだが、それを見ているプルタークは彼女の演説と同じ言葉をつぶやく。
彼女はプルタークの用意したままにしゃべっているのではないか。
思い返せば彼は元ゲーム・メイカーであった。
ゲーム・メイカーは思ったように人々を操るのはお手の物はず。
プルタークが本当のところの反乱軍の黒幕ではないかとも思った。
スノーにせよ、プルタークにせよ共通しているのは、カットニスをイメージ戦略のための駒としてか見ていないところではないだろうか。
大人たちは、純粋に思いのままに行動しようとする若者を自分たちの思惑でコントロールしようとする。
この物語は大人対若者の支配・自由をめぐる戦いの話ではないのかと思えてきた。
そうなるとカットニスのは、スノーだけでなく、コインやプルタークら、大人たちとの戦いに入っていくのではないかと思う。

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