2024年11月23日 (土)

「風都探偵 仮面ライダースカルの肖像」おやっさん、カッコいいです

いやあ、おやっさん、カッコいいです。
私は自他ともに認める「仮面ライダー」ファンですが、その中でも一、二を争うほどに好きなのが「仮面ライダーW」なんですよね。
この作品が放映されたのは15年以上も前(!)なのですが、その後日談が今もコミックで連載されていて、アニメ化もされ、舞台も作られ、そしてとうとう映画まで作られました。
私以外にも多くのファンに愛されていることがわかります。
ちょうどコミックの最新刊では、主要キャラクターの一人であるときめの”ビギンズナイト”が語られたところで、本作では主人公翔太郎とフィリップの”ビギンズナイト”が語られるわけで、何か感慨深いものがあります。
彼らの”ビギンズナイト”とは、二人が仮面ライダーWに初めて変身した夜のことであり、そしてそれは二人の運命を大きく変えた夜でもありました。
その二人の運命に影響を与えるのが、鳴海荘吉ことおやっさんです。
”ビギンズナイト”は「仮面ライダーW」の劇場版「仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010」でも描かれていました。
その時、鳴海荘吉を演じていたのが吉川晃司さんでした。
それが本当に激シブでカッコ良かったんですよね。
まさにハードボイルドを体現しているようでした。
吉川さんは本作でも主題歌を担当していますが、「仮面ライダーW」のドラマの劇中歌「Nobody’s Perfect」がとても渋くていい曲で、ドラマの中でも何回か使われましたが、実際何度も泣かされました。
「Nobody’s Perfect」は本作でも劇中歌として使われており、条件反射的に泣きそうになりました・・・。
「風都探偵」は「仮面ライダーW」の正統な続編なので、描かれる”ビギンズナイト”は実写版に準拠していてリスペクトを感じます。
鳴海荘吉が仮面ライダースカルに変身する場所も劇場版のセットを意識していたように見えましたし、最後の戦いの場面もそうでした。
同じ場面をアニメで描いていながら、本作は十分な尺で描いているので、登場人物たちの心情がより細やかに描かれます。
翔太郎がおやっさんの遺志を継ぐ覚悟を決め、フィリップが自分の道を歩み始めた夜の彼らの気持ちが痛いほどに伝わります。
「風都探偵」の続編についてはまだ情報が出ていないですが、期待できますかね。
映画の最後にはジョーカードーパントの姿も現れたので、ときめの”ビギンズナイト”まで行ってもらいたいものです。

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2024年11月 2日 (土)

「八犬伝」虚と実の対決

原作は山田風太郎の「八犬伝」。
学生の頃、山田風太郎にハマっていて所謂「忍法帖シリーズ」を古本屋で買い集めて読んでいました。
「八犬伝」おそらくその頃、新刊として発売されて手に取った覚えがあります。
「八犬伝」は滝沢馬琴と葛飾北斎の交流が描かれる実の世界と、馬琴が書いた「南総里見八犬伝」の世界が交互に描かれます。
そもそもなぜ、山田風太郎の作品をよく読んでいたかというと、その頃は夢枕獏や菊地秀行といった作家による伝奇ロマンというジャンルが流行っていてよく読んでおり、彼らの原点とも言えるのが山田風太郎作品であったので、そちらにも手をだしたためでした。
伝奇ロマンというジャンルは明確な定義はないと思いますが、SFや時代劇、ファンタジーというジャンルに、オカルト的な妖しげな要素が掛け合わされたものであったと思います。
山田風太郎作品でいえば、「魔界転生」などが挙げられると思います。
そのような伝奇ロマンの日本における原点とも言えるのが、滝沢馬琴による「南総里見八犬伝」です。
ですので「八犬伝」は山田風太郎が、その原点に対して挑んだ意欲作と言えるでしょう。
さて前段が長くなりましたが、映画についてです。
原作を読んだのが何十年も前なのでほぼ記憶にないのですが、映画の展開は原作に則っているように感じました。
虚の八犬伝パートは、非常にわかりやすく描かれており、馴染みがない方にも理解しやすいと思います。
若手が中心に八犬士を演じており、イキイキと描かれていました。
ただ狙いかどうかがわからないのですが、映像としてはやや安っぽいというか、書き割り感もあり、作り物のような印象がありました。
このパートは「虚」なので、この作り物感は意図しているものである可能性もあるのですが、個人的には安っぽさが気になりました。
もう少し、時代劇らしい重厚さがあっても良かったかと思います。
対して、滝沢馬琴と葛飾北斎が登場する「実」のパートは役所広司、内野聖陽というベテランを配置し、動きはないながらもドラマとして見応えありました。
特に感心したシーンは、歌舞伎座の奈落での馬琴と鶴屋南北とのやりとりです。
このシーンは馬琴と南北のそれぞれの「物語る」ということに対する、真逆の価値観がぶつかり合う場面で非常に緊迫感がありました。
馬琴は実の世界には正義はなく、そのために虚の世界で本来あるべき正義の世界を描きたいと考えます。
そのため馬琴は正義がなされる物語「忠臣蔵」を好んでいるわけですが、南北はこのような正義こそそもそもありえないと否定します。
「東海道四谷怪談」は「忠臣蔵」をベースとしておりますが、南北の狙いは「忠臣蔵」で描かれる正義を虚とすることにありました。
彼らの主義のぶつかりは静かながらも、緊張感あるもので見応えがありました。
この場面の演出も冴え渡っていたと思います。
真っ暗な奈落に立っている馬琴に対し、南北は舞台から首だけを出して逆さまのまま馬琴と対峙します。
南北自体が首だけの存在のように見え、虚のような感じもしました。
馬琴が対峙しているものが、悪魔のようにも見えるわけです。
結果、南北の言葉は馬琴に染み入り、彼自身が自分の生き方、価値観に疑問を持つきっかけとなるのです。
ところどころ気になるところはありましたが、2時間半という長尺ながら見せ切るパワーのある作品であったと思います。
改めて原作を読み直したい気分になりました。

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2024年10月20日 (日)

「ボルテスV: レガシー」同じ熱量

「超電磁マシーン ボルテスV」は1977〜78年にかけて放映されていたいわゆるスーパーロボットアニメ。
個人的には前作である「コン・バトラーV」の方が好きだったのだが、お年頃でこの辺りからスーパーロボットに興味を失った時期に当たるかと思います。
とは言いつつ、主題歌は歌えちゃったりするわけで、一通りは見ていたのでしょう。
さて本作はその「ボルテスV」をCGをふんだんに使った実写ドラマとしてフィリピンでリメイクした作品。
なんでフィリピンかというと「ボルテスV」は彼の地では何度となく再放送をされ、誰でも知っている日本のアニメとしての地位を確立しているのだそう。
知らなかった。
フィリピンのCGなんてどんなもんかいな、という疑問がありましたが、見てみるとなかなかどうしてCGロボットパートはなかなかに見応えがあります。
ここまで技術レベルが上がっているのかと驚きました。
「パシフィック・リム」の影響をもろに受けている感じで、大地を揺さぶる重量感が感じられます。
ボルテスV自体もオリジナルのデザインを残したまま現代的にリファインされていてかっこいい。
ちょうど「マジンガーZ INFINITY」のような感じのアレンジ具合ですね。
元々スーパーロボットなので、あまりリアルにリファインしても良さがなくなってしまうところですが、その辺りの匙がげんもわかっているな、という印象です。
垂涎ものはやはりボルトインのシーン(合体シーン)でしょう。
5つのメカが次々に合体し、巨大ロボットになるシークエンスは男の子なら必ず興奮することは間違いなし。
ああ、このスタッフで「コン・バトラーV」の「レッツ コンバイン」もやってほしい・・・。
ストーリーはベタと言えば、ベタ。
本作はフィリピンではドラマシリーズとして展開されていて、現在公開されているのはその劇場公開用に編集されたもの。
おそらくテレビシリーズの導入数話分をまとめたものだと思われるので、構成はどうしても物足りないところがあります。
ただベタさも含め、私が子供の頃らしい香りがするとも言えます。
そういった雰囲気や、わかっているなという感じがするのはフィリピンの制作者たちが子供の頃から「ボルテスV」に親しんでいたことが大きいのでしょう。
フィルムから熱量が伝わってきます。
見終わった後、劇場で席を立つと、ほとんどの観客は私と同世代(想定50代)。
あの頃子供だった人たちですね。
スタッフと同じく、観客も同じ熱量を持っておりました。

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2024年9月29日 (日)

「ビートルジュース ビートルジュース」彼が戻ってきた!

自分がティム・バートンを知るきっかけとなり、好きになったのが「ビートルジュース」。
唯一無二とも言えるティム・バートンの不条理な世界観に完全に魅了されました。
その後は彼の作品が公開されれば、劇場に必ず足を運ぶようになりました。
彼の作品は好きな作品はいくつもあるのですが、その中で不条理さと楽しさで言ったら、今でもNo.1なのが「ビートルジュース」。
それがまさかの30数年経っての続編です。
出演者は1作目でリディアを演じたウィノナ・ライダーが同じ役で続投です。
そして彼女の娘アストリッドを演じるのが、ドラマ「ウェンズデー」で主人公を演じたジェナ・オルテガ。
「ウェンズデー」を見た時から、彼女は見た目の雰囲気が絶対にティム・バートン好みだろうと思っていましたが、やはり起用してきました。
そしてビートルジュースを演じるのはマイケル・キートン。
この役は彼でなくてはいけません。
リディアはやはり30数年を経た変化をしていましたが、ビートルジュースは全く変化を感じません。
霊界の住人なので、当たり前です。
映画のテイストはしっかりと前作を踏まえたものになっていて、旧作ファンとしては楽しめました。
監督がこだわったという、以前のようになるべくVFXを使わない映像も味わい深いです。
前作でとても好きだったシーンが「バナナボート」の場面なのですが、それを踏襲したようなシーンも本作にはありますね。
前作好きとしては、好みだった部分を押さえていてくれていてとても嬉しかったのですが、逆にいえば、新たな驚きがあったとは言い難いです。
いくつかのシーンは前作を踏襲したものであり、それはそれで嬉しく思いつつも、マンネリ感は感じました。
またドラマ部分も前作では、心を閉ざしていたリディアがメイトランド夫妻との交流を通じて、心を開いていくという過程が縦軸であり、ドラマとして背骨がしっかりした印象がありました。
本作はリディアとアストリッドの関係、そしてビートルジュースと元妻ドロレスとの関係など複数プロットが走っているので、やや複雑さがあるのと、メインのラインがわかりにくい印象がありました。
続編として変化を出す工夫だったと思いますが、塩梅が難しいですね。
あと最後に気づいたブラックなネタを。
これは制作サイドが意識していたかどうかはわからないですが・・・。
ウィレム・デフォーが演じる霊界の刑事ですが、彼は頭の半分を拳銃で吹っ飛ばされています。
彼は生前は俳優だったらしく、撮影中にダミーではなく実弾で誤射されて亡くなったようです。
1作目の「ビートルジュース」でアダム・メイトランドを演じていたのはアレック・ボールドウィンです。
彼は3年前撮影中に、実弾が込められた銃でスタッフを撃ってしまったという事故を起こします。
責任は銃を管理していたスタッフにあるようですが・・・。
これはかなりブラックなネタだなと思いました。

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2024年9月14日 (土)

「わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー!ドキドキ❤︎ゲームの世界で大冒険!」「大好き!」を伝えられる幸せ

昨年の「プリキュア」の劇場版「プリキュアオールスターズF」は娘と合計4回も見にいくほどにどハマりしました。
「F」は「プリキュア」の周年記念だったので、かなりのスケール感で描かれた作品でしたが、本作は現行シリーズである「わんだふるぷりきゅあ!」の単独作品となります(過去プリキュアのカメオはありますが)。
今回はタイトルにあるようにゲームの世界で展開されるお話なので、昨年に比べるとやや子供向けのテイストになると予想していました。
その予想自体は間違っていません。
プリキュアやこむぎ、ユキが2頭身キャラになり、3DCGで描かれていますし、ゲームの世界で行われる数々のゲームも子供向けな内容ではあります。
ただ、それだけで単なる子供向けと片付けられないのは「プリキュア」らしいところ。
そもそも今回の「わんだふるぷりきゅあ!」は動物が変身するというトリッキーなアイデアが特徴です。
主人公のこむぎは犬の時は、可愛らしい小型犬で、その言動もかなり幼い。
この設定からも今シリーズは、いつもより低年齢層を意識しているのではないかと思いました。
しかし、シリーズを見ていて、さらにはこの映画を見て、それは表面的な見方であり、テーマはもっと深いのではないかと考えました。
今回の「プリキュア」は従来のシリーズに比べ、いろはとこむぎ、まゆとユキというペアが強調されています。
飼い主とペットという関係ですが、本シリーズはこの二組のペアの間にある「友情」がテーマなのだと思います。
よくよく考えると二人の間の友情というのは、初期の「プリキュア」では重要なテーマであったはずですが、数人のチームという体制になってからは、少し薄くなっていたかもしれません。
そういう意味では本作は原点回帰しているのかもしれません。
とはいえ、この時代、大上段に友情とか、いうのは非常に恥ずかしい印象もあります。
仲が良い友達の間でも「大好き!」という言葉もなかなかに恥ずかしい。
しかし、本作では飼い主とペットという関係性となっているので、この「大好き!」という言葉が発しやすい。
この映画でもこむぎは「大好き!」という言葉を何度も言っています。
ストレートに友達に「大好き!」と言える関係に清々しさも感じます。
映画に登場したキャラクター、ナツキは子供の頃、唯一心を許したたぬきをゲームの中でキャラクターにしました。
ナツキはそのたぬきと心を通じていると思っていましたが、当然のことながらたぬきとは話はできません。
そのもどかしさがムジナを生んだのかもしれません。
言葉を発せなくても、気持ちは通じる。
けれど、好きであることを言葉を通じて伝えられればもっと幸せになれる。
いろはの友人であるさとるくんもペットの大福と、いろはとこむぎのように話ができるといいと望んでいました。
彼の願いは、この映画で叶います。
その時の彼の嬉しそうなことと言ったら。
好きな人と気持ちをきちんと言葉で伝え合えることは、幸せなのですね。
大福とさとるくんが変身したのは超びっくりしました。
それに大福はイケボだったのね・・・。

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2024年8月24日 (土)

「フォールガイ」スタント愛

こちらの作品、監督はデヴィッド・リーチ。
彼はもともとスタントマン出身で、今まで「デッドプール2」や「ブレット・トレイン」などのキレキレかつぶっ飛んだアクション映画を撮ってきました。
個人的には「ブレット・トレイン」は大好きで、凝ったアクションシーンも素晴らしいですが、映像の独特のトーンも好きでした。
本作見た時の最初の印象は、これまでの監督の作品の比べて、トーンも物語の展開も含めて王道であるように感じました。
それもそのはずで本作の原作は80年代に放映されていたTVドラマ「俺たち賞金稼ぎ!!フォール・ガイ」ということです(私は見ていませんが)。
本作では、事件が起こって、主人公が巻き込まれ、それと並行してラブロマンスも進んでいく、という展開ですが、これが80年代的なわかりやすいストーリテリングのため、王道的な印象を受けたのだと思います。
設定などは現代に合わせてかなり変わっているようですが、ストーリー展開から感じる懐かしい感じは、もともとの原作が持っている80年代らしさが滲み出ているのかもしれません。
あと懐かしい印象を感じるのは、数あるアクションシーンが、従来のようなフィジカルなスタントで表現されていたことかもしれません。
高所からの落っこち、ヘリコプターアクション、カースタントの大ジャンプなどなど・・・。
「マトリックス」以降、ワイヤーやCGを使った別次元のアクションが生み出されて、それらが定着しましたが、本作はそれ以前のフィジカルなスタントがメインに描かれています。
これはそもそも本作がスタントマンが主人公であること、そしてデヴィッド・リーチ監督がスタント出身であり、思い入れがあるということもあるでしょう。
実際、アクションシーンの際のスタントマンたちの様子も窺える場面もあり、彼らに対するリスペクトも感じます。
期待していたトーンとは異なりましたが、アクションとそれを支えるスタントマンたちのへの愛が感じられる作品です。

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2024年8月17日 (土)

「爆上戦隊ブンブンジャー 劇場BOON! プロミス・ザ・サーキット」自分のハンドルを握れ

「ゼンカイジャー」「ドンブラザーズ」「キングオージャー」と従来のスーパー戦隊シリーズの常識を覆したような作品が続いていました。
コロナ禍という前代未聞の状態の中で、新しい技術も取り入れながら、時代の閉塞感を打破しようという気概が、制作者にもあったのかもしれません。
コロナも落ち着き、平常が取り戻されてきた今年は、スーパー戦隊シリーズも、原点に回帰したような作品を送り出してきました。
それが「爆上戦隊ブンブンジャー」です。
このシリーズを見続けてきている自分としては、原点回帰なのですが、この2、3年でエントリーしてきた子供達には新鮮に見えるかもしれません。
主人公のレッドは頭脳明晰で、仲間を思う気持ちが強いリーダーシップを持つ、範道大也、ブンレッド。
最近のスーパー戦隊の中では、典型的なレッドなキャラクターですね。
他のブンブンジャーもそれぞれがプロフェッショナルな能力と個性があるメンバーが揃っています。
そういう意味では非常にスーパー戦隊らしい構成です。
ただ、今の時代を表しているなと思える部分もあります。
大也は「自分のハンドルを握れ」というセリフをしばしば言います。
これは自分自身がやりたいことを考え、実行していくのが、自分の人生であるということです。
この時代、さまざまな情報が溢れていて、非常に流されやすい。
大也はリーダーではありますが、メンバーのそれぞれの個性を非常に大事にします。
そしてその個性をいかに発揮させることができるか、そしてそのメンバーがイキイキと活躍できるのか、ということを考えています。
これは今の時代の理想の上司像にも通じるものがありますね。
子供たちも流されやすく、人と違ったことをやりたがらない。
おとなよりも同調圧力が強いのではないかと思うほど。
本作はそれぞれが違ってていい、ということを伝えてくれているようにも思います。
ちょっと話題が映画から離れてしまっていますが、映画の方は尺もちょっと短めなので、テレビシリーズの一つのお話、といった体です。
本作に登場する惑星トリクルの王女二コーラも自分の生き方を決められなかった少女です。
彼女はブンブンジャーと出会い、自分がやるべきと考える人生を歩み始めます。
最近の中では王道なスーパー戦隊である、「ブンブンジャー」。
子供達にはどんなメッセージが伝わるでしょうか。
個人的に好きなキャラクターはブンオレンジ。
大人の余裕を感じさせるキャラクターが新鮮です。

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2024年8月15日 (木)

「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」私を月に連れてって

人類が初めて月に到達したアポロ11号の着陸映像がフェイクであるという都市伝説を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
本作はそんな都市伝説をもとに、実際にそのようなプロジェクトがアポロ計画の裏で進行していたらというお話。
スカーレット・ヨハンソンが演じる主人公ケリーは敏腕のマーケティングの専門家。
彼女は手段を選ばず、時には嘘を巧みに使いながら、人の心を誘導します。
嘘をつくのは、天涯孤独の彼女がそれしか生きる術がなかったからです。
もう一人の主人公コールはNASAのミッション責任者。
彼はプロセスを重要視します。
ロケット打ち上げは一つ一つのプロセスの積み重ねで成り立っており、そのどれかがうまくいかなければ、ミッションの成功は叶わないのです。
コールはアポロ1号の火災事故が起こったミッションにも関わっており、それが彼が手順を重視することにも影響を与えています。
ケリーと時には嘘をつくことも必要であると考えており、対してコールはたった一つの齟齬も許せない。
性格としては全く逆ではありますが、二人は互いに惹かれます。
そんな時、ケリーは政府関係者モーより米国の威信をかけたアポロ11号計画の裏で、もし月面着陸が失敗した時のために、フェイク映像を作るミッションを任されます。
入念な準備をして人が望む夢を作るこのミッションとはPR専門家としてのケリーの仕事の集大成とも言え、プロとしてやりがいのあるのものであったでしょう。
そして先に書いたようにいいように話を作って生きて来ざるを得なかった彼女の人生をも表しています。
しかし、そんな彼女は誠実に自分のなすべき事に向きあっているコールに惹かれ、そんな彼を騙していることに罪の意識を感じます。
コールの生き様は本当はケリーもそうでありたかった姿なのかもしれません。
彼女が嘘と真実、今までの生き様とありたい姿の中で揺れ動きながらも、アポロ11号プロジェクトと、フェイク映像プロジェクトが並行して進んでいく様は見応えありました。
陰謀論をベースにしたアイデアながら、60年台らしいポップさと全編包み込むコメディタッチが軽快さを生んでいて、気軽に見れる作品となっています。

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2024年8月10日 (土)

「フェラーリ」夫と妻の物語

マイケル・マン監督らしく骨太な見応えがある作品となっています。
フェラーリと言えば、最近の映画だと「フォードvsフェラーリ」を思い浮かべます。
実はマイケル・マンは「フォードvsフェラーリ」では制作総指揮を務めています。
マンはフェラーリに惹かれているのでしょうか。
「フォードvsフェラーリ」でも本作の主人公であるエンツォ・フェラーリは登場していて、経営危機に陥っていた際にフォードから買収を持ちかけられた時に、契約直前で破談をしたところが描かれます。
これは、フォードがレースに反対した場合はフェラーリはレースから撤退するという内容が契約にあったためと言われています。
このエピソードからもエンツォ・フェラーリのレースに対するこだわりが感じられますが、まさに本作はエンツォのレースに対する情熱が描かれます。
「フォードvsフェラーリ」でも登場人物は魅力的に描かれていましたが、本作は主人公エンツォの人物を深く掘り下げます。
そこが本作の骨太感につながっていると思います。
エンツォは心に深い闇を抱えています。
それは愛息ディーノが夭逝してしまったことの喪失感
でした。
エンツォはレーサーであり、技術者でした。
何か困難なことがあったとしても、分析し、解決方法を考え、実践していく。
そうして様々な危機を乗り越えてきました。
しかし、ディーノが患った難病に対しては為す術がありません。
彼は敗北したのです。
彼の敗北感が彼をレースにのめり込めさせます。
レースは勝ち負けがはっきりしている。
そして勝利は努力をした者にもたらされる。
彼は息子を失った敗北感をレースで取り戻そうとしていたのかもしれません。
エンツォは息子の死から逃れるためにレースだけでなく、妻ラウラから距離を置き、別の女性リナとの間に子をもうけます。
エンツォはフェラーリ社においてレースと技術的な部分を見ていますが、ラウラは経理など事務系を管轄しています。
彼らは会社においてはビジネスライクな関係で、うまく分担できているように見えますが、夫婦関係としては全くうまくいっていません。
エンツォは自分の喪失感を無意識のうちにレースと他の女性との家庭で満たそうとしていますが、ラウラ自身は喪失感を抱えたままです。
本来は夫とそれを分かち合いたいのに、それができないことがラウラを苛立たせます。
優勝したレースで、フェラーリのレースカーが観客を巻き込んだ大事故を起こし、マスコミからエンツォは非難を浴びます。
その危機を救ったのはラウラでした。
エンツォを鼓舞し、マスコミを封じ込めるための資金を提供しました。
エンツォは喪失感のため、家庭から、ラウラから逃げましたが、ラウラは危機的な状況でも夫を支えながら立ち向かいます。
本作はエンツォ・フェラーリの物語でありながら、ラウラ・フェラーリの物語でもありました。

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2024年7月13日 (土)

「ブルー きみは大丈夫」邦題がミスリードを引き起こす

のっけから言ってしまうと邦題が良くないと思います。
原題は「IF」ですが、これは「Imaginary Friend(空想上の遊び友達)」の略で、「If(もしも)」との掛け言葉になっています。
主人公の少女ビーは、一時的に祖母の家にやってきますが、その時不思議な生き物(?)たちを見かけます。
それらは本作に登場する人物たちのイマジナリーフレンドで、彼女はその姿が見えるのです。
邦題のブルーもそのようなイマジナリーフレンドの一人(?)なのですが、主人公ビーのIFではありません。
「きみは大丈夫」という言葉はブルーが発するものですが、これもビーに向かって言われた言葉ではありません。
その姿形から「となりのトトロ」のトトロを思い浮かべてしまいますが、そのような重要な役回りではないのですね。
本作の主人公ビーは幼い頃母親を失い、そしてまたもしかすると病気で父親も同じように失ってしまうのではないか、という恐ろしさを感じています。
彼女は幼い頃、彼女と遊んでいたイマジナリーフレンドのことをすっかり忘れていますが、なぜか彼らが見えるようになったのです。
これは憶測ですが、父親を失うかもしれないという不安が、彼女を母親を失った幼子のような気持ちに戻し、そのため彼らが見えるようになったのではないでしょうか。
登場するイマジナリーフレンドたちは、物語が進むにつれ、登場人物たちのかつての相棒であったことがわかります。
彼らは人間たちが忘れてしまっていても、傍らで見守っていたのですね。
ビーたちはイマジナリーフレンドとかつての人間の友達を再開させようと奮闘します。
そこで湧き上がってくる疑問がビーのイマジナリーフレンドは誰なんだろう、ということ。
そここそが本作のラストの趣向なのですが、「ブルー」という邦題がそういうことに目を向けさせにくくしてしまいます。
多くの人はこの邦題を見て、途中まで見るまではブルーこそがビーのイマジナリーフレンドなのではないかと思うのではないでしょうか。
物語だけを見るとそのようなミスリードはさせるような構成にはなっていないのですが、邦題が悪さをしています。
この邦題は誤った方向にミスリードさせる可能性があります。
このミスリードによってラストの趣向が分かりにくくなっているような気がしました。
勿体無い。

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