2023年3月12日 (日)

「フェイブルマンズ」映画の力

スピルバーグ初の自伝的作品と宣伝されている作品で、鑑賞する前は彼が映画に魅せられ、両親らに見守られながら、その道を歩んでいくという家族のハートウォーミングな作品かと勝手に思っていました。
冒頭だけはそのようなテイストのように感じられもしましたが、何か不穏な雰囲気が最初から漂います。
父親も母親も二人とも子供たちのことを愛しています。
彼らは正反対の性格、価値観を持っており、それで互いに惹かれ合い愛し合ってもいますが、何か根本のところでは通じきれていない感じもします。
二人の関係の微妙な危うさが最初から漂っているのです。
母が時折見せる乾いたような顔、父親の親友であるボビーに対して見せる屈託のない笑顔、愛する妻を敬うように接する父親、そして彼の顔に浮かぶ不安そうな表情。
それらは普段の生活ではあまりに何気なく、それゆえ誰も気づかないようなものです。
しかし、後半で主人公のサミーが自身で言うように「カメラはありのままを写す」のです。
些細なこともフィルムは定着させる。
それは残酷な真実も定着させる。
結果、サミーが偶然に撮影してしまった母親の真実の気持ちを写し込んだフィルムは、彼の家族を崩壊させてしまいます。
このように先ほどあげた「カメラはありのままを写す」という言葉は真実であり、それは暴力的とも言える力を持っていますが、またそれだけではありません。
映画には撮影するということのほかに、編集するという要素もあるのです。
カメラはそのまま写すかもしれませんが、編集には人の意思が入ります。
ストーリーを、人の感じ方をコントロールすることができるのです。
後半のプロムの場面で、サミーは撮影した卒業ムービーを披露します。
そこの中ではサミーを目の敵にしていた男子生徒ローガンはまるで英雄のように描かれます。
皆はローガンのことを喝采しますが、彼自身は屈辱を感じてしまいます。
自分自身がフィルムの中で描かれたほどではないことを彼はわかっていて、そうであることをサミーもわかっていることに気づいたわけです。
サミーが「あえて」そのように編集したことに侮辱を感じたのですね。
編集により人の感じ方をコントロールする、ということもまた暴力的な力を感じます。
母親の事件、そしてプロムの出来事を通じ、サミーは映画の持つ暴力性に気づいたのだと思います。
終盤で彼はフォード監督に映画監督なんて心がボロボロになる仕事なのに、それでもやりたいのかと問われます。
しかし、彼はやりたいと言います。
彼は両親の血を強く引き継いでいます。
母親は「心を満たさなければ、別の自分になってしまう」と言い残し、家族の元を離れました。
父親も自分の仕事に意義を強く持ち、そのために家族を犠牲にしてしまいます。
この一族は自分らしくしか生きられない、という血を持っているのでしょう。
中盤で登場するおじさんは「芸術と家族」の板挟みに合うかもしれないと予言をしました。
まさにサミーはその予言通りの道を歩みます。
母親は彼の元を去る時に「自分らしく生きるように」と言い残しました。
その言葉通り、彼は自分がやりたいことをやっていくという修羅の道を歩み始めたのです。
本作はスピルバーグの自伝的な作品ということで、描かれてた出来事は本当に彼の人生に起こったことかどうかは私はよくわかりません。
しかし、彼が映画というものをどう捉えているかということについて非常によく伝わってきました。
それは私が想像していたものよりも、非常に激しいものであったことに驚きを感じました。
この目線で彼の作品を見直したら、違ったように見えてくるかもしれません。

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2023年2月23日 (木)

「#マンホール」主人公への共感の逆転

主人公がある危機的な状況下に置かれて、そこから必死の脱出を図るワンシチュエーション・スリラーには、[リミット〕など傑作が多い。
映画としてはシチュエーションが変わらず、画的に変化が出しにくいという点では不利であるではあるが、そのような制約を凌駕するようなアイデアがあるところが、評価が高くなる理由だろうと思います。
本作「#マンホール」もそのようなワンシチュエーション・スリラーの一つとなります。
主人公川村は結婚式の前の晩、同僚たちによるお祝いの宴会の後、酔ったためかマンホールに落ちてしまう。
落ちる際に怪我を負ってしまったため、川村は自力ではそこから脱出できない。
彼は助けを求めるが、次第にこのような状況になったのは誰かが仕組んだためではないかと強く疑いを強めていく・・・。
本作でユニークなのは、現代らしくスマートフォンやネットの力を使って主人公が脱出を試みようとするところでしょうか。
大概このようなワンシチュエーション・スリラーの場合、携帯電話は早々に壊れたり、無くしたり、バッテリーが上がったりして使えなくなることが多いですよね。
万能アイテムなので、設定に制限を加えにくいということで真っ先に封印されるのだと思いますが、本作は違います。
自分が落ちた場所を特定するために、スマホのGPSを使ったり、情報を集めるために偽アカで、ネット民たちに情報を募ったり、今時の使い方で状況の打破を狙います。
しかし、便利さゆえの危うさも描いていて、スマホはすでにハッキングされていてGPSは狂わされていて、主人公はそれに気づかずミスリードされてしまいますし、利用としていたネット民は勝手に暴走し、コントロールから外れていきます。
自分で制御できていると思いきや、かえって翻弄されてしまうというのはネットではよくあることだと思います。
全てをコントロールできているという、自信は本作の主人公川村の特徴だと思います。
冒頭、彼は優秀な営業マンで人々からも人望が厚い人物として描かれます。
しかし、マンホールに落ちてからは徐々に彼の本質が見えてきます。
なかなか探しにこない警察には、かなり強い口調でクレームを言いますし、元彼女に対しても打算的な発言で自分の思い通りに動かそうとしています。
これは冒頭のイメージの人物とは印象がかなり違う。
この違和感が実は伏線になっていたのです。
本作を観ていると、最初はこの主人公を気の毒に思い、助けてあげたいと共感を持ちますが、次第に明らかになっていく彼の本質を見るに従い、徐々に彼から気持ちが離れていく気分になります。
見ている側の主人公に対する感じ方がいつしか真逆にさせていく展開が巧みです。
ラストは想像していない展開で驚きがあります。
主人公への共感が180度ひっくり返った上で、このラストは腹落ち感がありました。「#マンホール」

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2023年2月11日 (土)

「バビロン」デイミアン・チャゼルの映画観

バビロンとは古代メソポタミアの国バビロニアの首都であるが、退廃の都として語られることも多い。
本作がバビロンをタイトルにしているのは、映画がメディアとしてエンターテインメントとして立ち上がった黎明期の熱狂を言い表そうとしているからだろう。
本作は長尺でありながら、密度が高く、見るにもかなりのカロリーがかかる。
冒頭より不快なシーンが多く、気力が萎えそうになるのだが、惹きつけるエネルギーを持った作品だとも思う。
なので、本作は色々な切り口で語られることが多いと思うが、私は本作が監督デイミアン・チャゼルの映画観を語ったものであると感じた。
本作で描かれている時代は、映画がサイレントからトーキーに切り替わろうとしていた時期である。
本作を見て改めて思ったのは、映画という芸術は他(絵画や演劇、音楽)と違いテクノロジーによってアップデートしていくというユニークな特性を持っているということである。
そもそも映画という芸術は、動画を記録することができるフィルムというテクノロジーによって生まれた。
最初はサイレント、次にトーキー、そしてカラー、最近では3DやCG表現などと、映画はアップデートしている。
このような芸術は他にはない。
また映画はこれもほぼ初めて大衆向けの芸術であるということもユニークである。
劇中でも語られるが、演劇はその場にいる者しか味わうことができず、そのため限られた層に向けた芸術であった。
そもそも芸術というのは限られた層しか味わうことができず、芸術が大衆化されたのは映画からと言ってもいいかもしれない。
また劇中でエリノアがジャックに語ったように映画は50年経っても、同じものを味わうことができる永続性を持っている。
演劇はストーリーは同じでも演者も演出も変わるだろうし、音楽も同様だ。
そして、最後に映画という芸術は一人で生み出すことはできず、非常に多くの人が関わるという点も他の芸術とは大きく異なる。
そのためビジネスという側面が非常に色濃くならざるを得ない。
デイミアン・チャゼルは映画という芸術の持つ特徴は永続性であると考えているのではないかと思う。
他の芸術と異なるのは、技法や表現が固定化されるのではなく、テクノロジーによってアップデートしていくという点だ。
ラストでいくつかの映画のモンダージュがあるが、ここを見ても監督がこの点を強く意識していることがわかる。
そして、そのため非常にシステムが大きくならざるを得ず、ビジネスの側面を色濃く持つ。
本作に登場する人物は映画が持つそのような特徴に翻弄される。
本作ではサイレントからトーキーに映画がアップデートされるが、サイレント時代のスター、ジャックは台詞回しを観客に失笑される。
ネリーは黎明期の熱狂の中では光り輝いていたが、次第にシステムとして強化された映画界では爪弾き者となっていく。
映画という芸術がアップデートされるときに、どうしてもその変化についていけず落伍してく者が現れる。
登場人物の一人マニーは映画という大きなものの一部になりたいと、業界に飛び込むが、映画に関わる人間は一部にしかなり得ない。
それはスターであっても。
エリノアはスターは概念であると、ジャックに語るが、スターであっても映画の一部なのだ。
映画という巨大な芸術において、関わるものはその部分の役割を担うことしかできない。
こうなると映画に対して、人は無力感を持つかもしれないが、それでもあまりあるのが映画の永続性と大衆性なのだと思う。
ラストシーンで多くの人が映画を見て楽しんでいる。
古い映画を楽しむ人も多いだろう。
関わった映画が、時代を越え、場所を越え、多くの人に影響を与えている。
たとえ部分であっても、そのような映画に関われることが映画人にとってやりがいを感じることなのだろう。
最後にマニーが涙するのは、それを改めて感じたからではないだろうか。

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2023年1月 3日 (火)

「ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY」二つの価値観の相剋

2023年最初の映画鑑賞はこちらです。
音楽はほとんど詳しくない割に「ボヘミアン・ラプソディ」「エルヴィス」などミュージシャンを描く作品が好きなんですよね。
彼らの人生は非常に波瀾万丈ですので、物語としてもドラマチックになるのだと思います。
しかし、このような映画を見ると、最高峰に登り詰めたアーティストの多くは、お金の問題やクスリの問題に直面しているものなのだと感じます。
アーティストとして注目されればされるほど一個人としては背負いきれな苦なってくるのかもしれません。
ホイットニー・ヒューストンはデビューの頃から、ジャンルにはとらわれない音楽活動をしてきました。
黒人なのに白人ぽい音楽だという批判は黒人からだと思いますが、これは自らのレッテル貼りですよね。
彼女は若い頃からそのようなレッテルとは無縁の価値観を持っていたようです。
また性的嗜好としても、若い頃は同性愛的な相手がいたことが本作では描かれていますが、彼女は結婚もして子供も授かります。
同性愛者だとか異性愛者であるというようなカテゴリーも彼女には無縁であったのでしょう。
すなわち彼女自身の価値観はとても自由でレッテルやカテゴリーは彼女にとっては意味がなかったのでしょう。
劇中でも彼女のセリフとして「自分らしく」という言葉が発せられますが、まさに彼女の価値観はここにあります。
自分のフィーリングだけで曲を選んでいたというのもここに端を発するのだと思います。
方や、彼女は自分に対する期待、役割を重視する側面もありました。
カトリック信者であったからか、こうあれねばならなぬという価値観から脱せないところもあったようです。
女性として妻として、母として、こうあらねばならぬという価値観がありました。
また両親からは「プリンセス」と呼ばれ、彼らの期待に沿わなければならないというプレッシャーも感じていました。
おそらく「こうあらねばならぬ」という価値観と、「自分らしくある」という価値観が彼女の中で混在し、コンフリクトしていたのかもしれません。
それが彼女の苦しみであったのでしょうか。
晩年は以前の彼女のようなパフォーマンスを期待され、それにそれに応えなければいけないというプレッシャーもあったのでしょう。
これも両親からの期待に応えなければ、という思いに通じるものがあったかと思います。
結局はそれが彼女を追い込んでいったように感じます。
ホイットニーは結局、麻薬との縁を切れずに、そのために入浴中に死亡してしましました。
そしてまた彼女の娘も同じようにドラッグで入浴中に亡くなったようです。

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2022年12月11日 (日)

「ブラックアダム」DCUの行く先は?

順調に拡大を続けているMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)に対し、DCの作品は迷走を続けている感があります。
一時期はザック・スナイダーの元、DCEU(DC・エクステンデッド・ユニバース)として展開されていましたが、次第に空中分解してっているような印象があります。
もちろん単独で見ればいい作品(例えば「ワンダーウーマン」や「アクアマン」など)も多いのですが、MCUのような世界観は提示されるには至っていません。
MCUのケビン・ファイギのような卓越したプロデューサーがいないためと言われ、最近では大幅な組織改革の末に、ジェームズ・ガンとピーター・サフランがDCユニバースの再建を任されました。
最近の報道ではその方針に合致しないということで、予定されていた「ワンダーウーマン3」はキャンセルされたということです。
DCの作品では、DCU(最近はエクステデッドを取ったこの言い方になっているらしい)に属さない独立した「ジョーカー」や「ザ・バットマン」なども高評価を得ているので、個人的には無理やりユニバースにしなくてもいいのではないかとも思っています。
さて、本作「ブラックアダム」はユニバースに属しているのか、独立しているのかと言えば、前者にあたります。
「シャザム!」や「スーサイド・スクワッド」にも登場しているキャラクターが本作にも登場していることがわかりますし、最後の最後に超有名なあの人もサプライズで出てきます。
MCUのユニバースは緻密に組み立てられていて、新しい登場人物が出てくる時も、それまでの流れを押さえた上で計算されているので、違和感や突然感はあまりありません。
対してDCUは「ジャスティス・リーグ」もそうでしたが、かなりキャラクターの投入の仕方が荒っぽい。
本作でもブラックアダムに対抗する新たなヒーローチームJSAが登場しますが、ここに属するヒーローは我々にとって初めて会う人たちばかり。
彼らについて掘り下げる時間がないため、ブラックアダムに当てるためのその他大勢的な印象は拭えず、魅力的には見えませんでした。
ブラックアダム自身については、彼の出自も含めしっかり語られているので、現在なぜああいうアンチヒーロー的な立場になっているのかも理解でき、感情移入もできるようになっていると思います。
ただ、DCの作品のヒーローというのは、割とスーパーマン的なマッチョタイプなステレオタイプのものが多く、ブラックアダムのその亜流に見えてなりませんでした。
劇中で登場人物のセリフの中に「スーパーヒーロー」や「チャンピオン」という言葉がダイレクトに出てくるところに興が削がれます。
MCUのヒーローが近年、多様性を相当に意識し、それゆえユニークな物語を生み出せているのに対し、どうしても過去のスーパーヒーロー像に縛られ、新しさを出しきれていないのがDCUな気がしてなりません。
新しいリーダーによるDCUはどのように変わるのでしょうか?
ジェームズ・ガンは「ザ・スーサイド・スクワッド」でもいい仕事してくれていたので、期待したいところです。

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2022年11月13日 (日)

「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」新たなブラックパンサーは2度覚醒する

チャドウィック・ボーズマンの死去を経て、新たなブラックパンサーの物語を始まります。
彼の死後、マーベルは早いタイミングで彼に代役を立てたり、CGで復活させたりという方法は取らないと決めました。
タイトルのヒーローが不在という状況の中で、物語を作るのは非常に難しいというのは想像に難くないですが、制作者たちは見事に感動的なストーリーを紡ぎ出しました。
劇中でもティ・チャラは病気により逝去したという設定になっています。
気高き国王という絶対的な指針を失ったワカンダは悲嘆に暮れ、進むべき道を見いだせません。
特にティ・チャラの妹であるシュリは、彼を救えなかったこと悔やみ、もがき苦しみます。
国王であり、英雄であったティ・チャラを失ったワカンダのヴィブラニウムを狙い、各国は干渉を始めます。
そして新たにヴィブラニウムが発見され、そのことにより海の王国タロカンの存在が浮かび上がってきます。
その王国の王がネイモア。
タロカンの由来も本作で語られますが、攻撃的で自国の利益ばかりを追い求める先進国に関わらないように存在自体を隠してきたという点で、ワカンダと通じるところがあります。
事実、シュリはタロカンを訪れ、ネイモアとも語り、互いに合い通ずるところがあることを確認しています。
しかし、不幸な出来事が重なり、両国は全面的に戦う事態となってしまいます。
<ネタバレあり>
本作ではブラックパンサーを誰が継ぎ、ティ・チャラの意思を継承するかということが最も注目するポイントとなります。
事前予想通りシュリがその座を継承するのですが、彼女が真に兄の思いを継ぐために、自分の中の喪失感、絶望、怒りに整理をつけ、新たなブラックパンサーとして覚醒するかが丁寧に描かれます。
そもそもシュリは現代的な考え方の持ち主で、伝統的なマジカルさよりも、テクノロジーに重きを置いています。
彼女は偉大な兄という存在の傘の下で、自由に生きてこられたともいえ、彼女自身もそういった自覚はあったのではないでしょうか。
彼女はいきなり放り出されてしまった子供のように不安になっていたのかもしれません。
そして兄に加えて、母もネイモアに殺されたことにより、その不条理に対しての怒りが彼女を支配します。
ネイモアはたった一人でワカンダの首都を壊滅させるほどの力の持ち主であるため、彼女は力を求めてブラックパンサーになります。
ワカンダ人がブラックパンサーになるときハート型のハーブを煎じたものを飲みますが、その時先祖の霊と対話し、彼らの意思を継承します。
シュリもその導きを得ますが、その相手がなんとキルモンガーであったのは驚きました。
彼は殺された父の復讐をするために、王座を簒奪し、ブラックパンサーになった男です。
登場した時は驚きましたが、この時点でシュリが対する相手としてはキルモンガーが最も相応しい。
非常によく考えられていると思いました。
シュリは復讐心に囚われてブラックパンサーとなった。
まさにキルモンガーと一緒です。
彼女はネイモアのタロカンに戦いを挑みますが、それはかつてのキルモンガーを彷彿とさせます。
この時点で私は「ブラックパンサー」という物語が、暗黒の方向に進むのではないかと不安になりました。
復讐が成し遂げられても、シュリは救われるのか。
そのような女王に率いられるワカンダはどうなってしまうのか。
ネイモアとの最終対決の際、シュリは瀕死の重傷を負います。
その時、彼女は亡き母の霊と対面します。
そして気高き兄の意志も感じます。
ブラックパンサーの儀式の時、人は一度死に、先祖の魂と触れ、そして復活します。
生まれ変わると言ってもいいでしょう。
シュリは最初にハーブを飲んだ時にキルモンガーと触れ、復讐者として覚醒し、さらにネイモアとの対決で重傷を負った時も死地に踏み込んだのかもしれません。
そこで母の魂と触れ、再び本当のブラックパンサーとして覚醒したのでしょう。
シュリは兄と母の死を、自分の中で整理し、昇華し、真の王として、英雄として生まれ変わりました。
主人公の死という想像以上の出来事を経験しつつも、それを昇華させ素晴らしい物語を紡ぎ出したスタッフに敬意を表したいです。

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2022年11月 6日 (日)

「犯罪都市 THE ROUNDUP」マ先輩!

マ・ドンソクを初めて知ったのはマーベルの「エターナルズ」にて。
その時は「誰?」という感じでしたが、巨体で厳つい見た目とは異なる優しさとチャーミングさに溢れるキャラクターが、マーベルの中ではかなりドライな作風の中でも癒し的な存在となっていました。
ということで気になっていた俳優であるマ・ドンソク主演のアクション映画を見てきました。
最近韓国映画を見ることがなかったので知らなかったのですが、本作はシリーズの2作めだったのですね。
本作見て気づいたのは冒頭の「エターナルズ」でマ・ドンソクが演じたギルガメッシュのキャラクターは、彼自身のイメージを強く反映したものであったということ。
「犯罪都市」で彼が演じるマ刑事も、腕っぷしは強いが、チャーミングであるという点は同じで、彼のパブリックイメージそのままでした。
しかし、マ刑事は強い。
刃物を振り回す相手に対して、一撃必殺のパンチで勝負。
このパンチが見るからに重そう。
普通だったら不利なはずなのに、全く負ける気がしない。
アクション映画でここまで負ける気がしないのは、全盛期のシュワルツェネッガーくらいではないかな。
映画の中で起こる事件は凄惨そのもので血生臭いのは最近のアジアのアクション映画の潮流と同じ。
私自身はここまで血生臭いのは苦手ではあるけれど、マ・ドンソクのキャラクターがいい具合にバランスを取っているように感じました。
彼が出演している、他の映画も見てみようかな?

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2022年10月16日 (日)

「バッドガイズ」レッテル破り

「プリキュア」の映画を娘と見に行った時に予告がかかっていて、彼女が行きたいと言ったので一緒に鑑賞。
ドリームワークスのアニメーションはあまり見たことがなかったのですが、同じ3Dアニメーションでもピクサーとはまたちょっと違う質感・タッチで新鮮でした。
ピクサーはキャラクターはデフォルメされていますが、質感は割とリアル志向ですが、本作は質感は3Dアニメとセルアニメの中間くらいな感じです。
最近は3Dで描きながら、表現は2D的にする作品もありますが、それともちょっと違います。
2.5Dくらいという感じかな。
主人公ミスター・ウルフとその仲間ミスター・スネーク、ミス・タランチュラ、ミスター・シャーク、ミスター・ピラニアは銀行強盗。
冒頭から銀行強盗シーンがありますが、その軽妙なテイストは見たことがあるなという印象でした。
そう、私の世代的には「ルパン三世」です。
本作を企画している際に、日本やフランスのアニメを研究したそうで、宮崎駿監督の作品も参考にしたそう。
「ルパン三世」も参考にしたかもしれませんね。
そういえばカーチェイスシーンはルパンっぽいノリは感じられました。
冒頭に書いたトーンもアメリカのゴリゴリの3Dではなく、柔らかいタッチを感じましたが、日本やフランスのアニメの影響かもしれません。
さて、ストーリーですが、主人公たちは、狼・蛇・蜘蛛・鮫、そしてピラニアです。
予告を見ていた時に、なんでこんな動物たちが主人公なのかな?と思ったのですが、見初めて理解できました。
この5種類の動物たちは一般的に嫌われている動物なんですね。
冒頭の銀行強盗シーンでも、彼らは正体を明らかにして盗みますが、人々は彼らの姿を見て、恐るばかりで抵抗しません。
彼らは見た目で人々から恐れられ、結局普通に生きることはできず、バッドガイズとしてしか生きられなかったんです。
まさにこれは現代的なテーマでレッテル貼りですね。
いくらその本人の本質が異なっていても、人々は見た目や所属でその人のことを判断しがちです。
そこからその本人も脱することはしにくい。
そのレッテルに縛られてしまう。
本作はウルフたちが、自分たちに貼られたレッテルから自らを解き放ち、自分らしく生きていこうとする物語です。
まさにレッテル破りです。
ウルフの声を担当していたのは尾上松也さん。
普通の演技は上手いのは知っていましたが、声の演技もなかなか。
声優を本業にしてもいいんじゃないかと思えるくらいの上手さで驚きました。

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2022年10月10日 (月)

「映画 デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ!」大人は穢れか、憧れか

6歳になる娘が大好きな「プリキュア」。
現在放映中の「デリシャスパーティ♡プリキュア」の劇場版に、もちろん娘と一緒に行ってきました。
どのくらい娘が好きかというと、七夕の短冊に将来の夢で「ぷりきゅあになりたい」と書くくらいです。
突然ですが、本作はコメコメが主役と言ってもいい。
コメコメとは主人公の和実ゆい=キュアプレシャスのペア妖精です。
「プリキュア」シリーズはお約束として、プリキュアたちをサポートする妖精が登場するのですが、コメコメもそのような立ち位置になります。
大体の作品においてこの妖精はプリキュアをサポートする立場というか、ガイド役のような存在となります(前作のくるるんは何もしなかったです・・・)。
本作でのガイド役はレギュラーで登場しているローズマリーが担っているので、デパプリの妖精たち、特にコメコメはちょっと立ち位置が違うように感じています。
コメコメだけ人間への変身能力を持っていて、当初は赤ちゃん、そして幼児、本作では少女になっています。
コメコメはキュアプレシャスに憧れており、彼女のようになりたいと願っています。
これはこの映画の主題になります。
まさにコメコメの立ち位置は、私の娘のように「プリキュアになりたい」と思っている子供たちそのものなんですよね。
映画独自キャラクターとしてケットシーという登場人物がいます。
ネタバレにはなりますが、彼は幼い頃から天才であり、大人たちに利用されて研究を続けてきました。
彼は大人たちから逃げ出してきた時に、幼い頃の和実ゆいに出会っています。
彼はその後も大人に利用され続け、やがて大人を憎むようになります。
代わりに(幼いゆいに会ったこともあってか)子供の純真さを絶対視するようになります。
そんな彼が子供たちのために作ったのが、ドリーミアというテーマパークで、ここには大人は入ることができません。
子供たちだけのテーマパークなのです。
コメコメはキュアプレシャスに憧れ、彼女の役に立ちたいと思いますが、幼いからか思うようにいきません。
コメコメは早く大人になりたいと願う少女なのです。
そんなコメコメにケットシーは「そのままでいい」と言いますが、それは彼の過去の経験からくる大人への不信が言わせています。
彼に対する大人の扱いは虐待と言ってもいいでしょう。
彼にとって大人は穢れた存在なのでしょう。
それに対し、コメコメにとっては大人は憧れの存在。
大人と言ってもゆいは中学生なのですが、少女にとっては憧れの大人に見えますよね(本作はプリキュアの年齢設定を非常にうまく使っていると思います)。
ゆいはおばあちゃんに「ご飯は笑顔」と言われ、食べること=生きることを大切に素直に育ってきました。
そんな彼女に憧れるコメコメもとても素直な子です。
大人を穢れと見るか、憧れと見るか。
正反対なケットシーの育てられ方、ゆいの育てられ方を見るにつけ、子供たちの周りの大人たちの日頃の接し方が重要であると思いました。
子供たちが少なくとも、こんな大人になりたいという希望を持てるような接し方をしたいと思います。

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2022年10月 2日 (日)

「ヘルドックス」魅力的なキャラクターたち

原田眞人監督と岡田准一さんが「関ヶ原」「燃えよ剣」に引き続いての3回目のタッグとなる作品です。
お二人は相性がいいのですね。
それまでの2作と異なって本作は現代劇で、かなりバイオレンス色の強い作品となっています。
岡田准一さんはこのところストイックな役が多いですが、本作はその極みのような感じもします。
彼の役所は暴力団組織に潜入する元警察官、兼高。
必要とあらば躊躇なく人を殺すこともできる男です。
岡田さんは終始笑うことなく、ワイルドにこの役を演じていました。
もちろん岡田さんですので、アクションシーンも見せ所が多いです。
「ザ・ファブル」などとは異なり、人を殺すアクションですので、今まで以上に殺気を感じます。
兼高とコンビを組むのが、サイコボーイとあだ名される室岡です。
彼を演じるのは坂口健太郎さん。
坂口さんは今まで割といい青年役が多かった気がしますが、本作は今までにないアブナイ雰囲気を発しています。
優しげな顔つきだけに、キレた時の室岡の異常さが際立って見えました。
坂口さんにとって新境地となったと思います。
本作は主人公コンビである兼高、室岡の物語ですが、もう一人存在感のある人物がいました。
兼高が潜入した暴力団のトップ、十朱です。
彼を演じたのはMIYAVIさん。
私は全く知らない方なのですが、有名なギタリストなのですね。
劇中でハイキックを放つ場面があるのですが、非常にキレが良く、アクション畑の方かと思ってしまいました。
十朱というキャラクターも非常に興味深く、個人的には最も気になる人物でした。
<ここからネタバレあり>
彼は旧態然とした暴力団のトップではなく、ビジネスとして組織を運営し、世界的に影響力を拡大してきました。
見た目もスタイリッシュであり、組長というよりはホストクラブのオーナーといった風情です。
そのようでありながら、彼は組織のメンバーに対しては義理堅く、ファミリーとして扱っています。
まさに「親」ですね。
しかし最終盤に明らかになりますが、彼はかつて警察のアンダーカバーとして組織に潜入した人物でありました。
兼高の前任というわけです。
しかし、彼は警察から組織に鞍替えをしました。
ただ彼は金や権力のためにそうしたわけではありません。
兼高に指令を送る公安幹部の発言からも伝わってきますが、警察組織の方が非常で、潜入捜査している彼を人間とも思わないような扱いをします。
十朱はそのような警察よりも、組織の方が情があり、自分の本音で人間として生きていけるように感じたのでしょう。
組織のメンバーたちとも信頼関係で結ばれ、自分の居場所と感じたのかもしれません。
だからこそ彼は兼高にも同じように期待したのでしょう。
兼高と十朱は裏表であったのかもしれません。
兼高もアウトローで警察に駒のように使われているわけですから、十朱のように感じるようになってもおかしくはありません。
ただ組織の中でもちょっと浮いた存在である室岡とコンビを組み、彼との関係性が彼の中では組織との関係よりは濃いものになっていたのではないかと思います。
だから最後に室岡と対決した時に「お前がいたからこそやり遂げられた」と言ったのではないかと思いました。

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