2025年12月13日 (土)

「ペリリュー 楽園のゲルニカ」異なるタッチの意味

ペリリュー。
恥ずかしながらこの島の名を本作を見るまで知らなかった。
この島はパラオ諸島にあり、太平洋戦争の終盤で米軍と日本軍で激しい戦闘が行われた場所ということだ。
圧倒的な戦力で米軍は襲いかかるが、周到な準備と地の利を生かしたゲリラ戦で日本軍は抵抗を続けた。
これはその後行われる硫黄島の戦いを彷彿とさせる。
そして戦争終結を知らぬまま、生き残った日本兵は2年近くも戦い続けたのだ。
戦争という重々しい題材であるが、本作のキャラクターはデフォルメされたほのぼのとしたタッチをしている。
日常を舞台にしたギャグ漫画に登場しそうにも思える。
キャラクターのルックが持つ日常感と、描かれる血生臭い戦争の非日常がアンバランスで、それがかえって悲惨さを際立たせている。
キャラクターのタッチは柔らかいのだが、戦闘シーンに登場する戦闘機や戦車、トラックなどの兵器類は非常にリアルな3DCGで描かれている。
それら兵器は冷たく、硬質である。
これこそが戦争のリアルだというように。
また、タイトルに「楽園」とあるようにペリリューの自然や生き物は瑞々しいリアルなタッチである。
輝く太陽に照らされる自然は、戦争といった愚かな人間の営みとは無関係と言ってるかのように、鮮やかに表現されている。
これもまたリアルである。
主人公の田丸は漫画家志望の初年兵だ。
その創作力を島田少尉に買われ、功績係に任命される。
死亡した兵隊の家族へ、どれだけ戦死者が国の役に立ったかを書き記すのが功績係の役回りである。
戦闘とは関係ない事故で亡くなった場合も、その家族には名誉の戦死であったと伝える。
彼は戦友のためにそのような文章を書くのだが、不思議な気分にもなる。
「嘘くさい」
と彼がつぶやくことがあるが、そもそも勝ち目のないように見える戦争を勝てると皆が信じていることが「嘘くさい」と薄々気づいていたのかもしれない。
「信じたいから、信じるのか・・・」
とも彼は言っている。
冒頭に書いたような様々なタッチが本作の中で混在している意図はここにあるのかもしれない。
無機質な兵器のリアルなタッチが象徴する戦争の非人間性。
対照的に瑞々しく鮮やかなリアルな自然が表現する生命力。
2つのリアルに対して、キャラクターたちはデフォルメされてリアル感は排除されている。
彼らがリアルの世界では生きていないかのように。
彼らは冷静な現状把握とは離れた世界で生きている。
今は劣勢でも必ず日本は勝つ、という幻想の世界で。
物理的なパワーを象徴する兵器類のリアルを見ずに、精神的な世界で生きる。
生き生きとした生命の輝きを見ずに、大義のために無駄に命を落とす。
ずっとそう信じてきた。
今さら後戻りはできない。
なぜなら死んだ者たちが無駄死にになるから。
なぜなら今の自分が否定されることになるから。
まさに確証バイアスの罠に嵌っている。
彼らがそのような確証バイアスの罠にいることを表現しているのが、デフォルメされ日常感溢れるキャラクターデザインなのではないかと思う。
思えば、当時は日本全国民が、確証バイアスの罠に嵌っていたのかもしれない。
そしてそれは今の時代でも油断をすれば、その罠に落ちることもあるのだ。

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2025年11月24日 (月)

「果てしなきスカーレット」 許せ

SNS等では批判的な評価が多いと聞く。
確かに今までの細田守監督作品とはかなりテイストが異なるのも確かだ。
作画的には今までの細田作品は手書きのフラットな印象がある。
日本のアニメーションでは立体感を出すために明るい部分と暗い部分を塗り分ける表現が多いが、細田作品はあまりそのような表現を用いてこなかった。
色使いはシンプルなのだが、細田作品はその分、キャラクターがよく動く。
アニメーション的なデフォルメで、表情もくるくるとよく変わるところが魅力的であり、それにより生き生きとしたキャラクター表現ができている。
しかし今回の「果てしなきスカーレット」では、これまでと異なり、かなりの部分でCGを使っている。
この表現は「竜とそばかすの姫」のネット空間での表現の発展系であろう。
3DCGであっても手書き的な雰囲気を残そうとしているが、今までの作品のような表情の豊かさは減じている。
かなり工夫と努力をしているが、手書きに及ばない部分ではある。
しかし、CGの活用によってダイナミックなカメラワークが可能になったことは見逃せない。
本作は今まで細田作品ではなかったような暗い死後の世界を描いていて、大軍勢が衝突するような大規模な戦争シーンもある。
細田監督のイメージを定着するには、通常の手書きでは表現しきれないのだったのだろう。
「鬼滅の刃」の表現でもわかるようにCGの活用は悪いことではない。
もう一つ今までと異なる印象を与えるのは世界観である。
細田作品はファンタジーやSFの要素を持ちながらも、その立脚点のベースはあくまでも日常であった。
日常の中のささやかな営み、特に家族へフォーカスが当たっていた。
しかし、本作においては我々の日常が描かれることはない。
現代の渋谷の街並みが描かれるシーンがあるが、これはスカーレットにとってのファンタジーであり、我々の日常ではない。
本作は死後の世界を舞台にしており、ほぼ荒野のようなシーンが続く。
そしてそこは死者たちが、死んでもなお己の欲望を満たそうとしている絶望的な世界である。
今までも細田作品では世界を揺るがすような危機的な出来事は起こっていた。
しかし、それがなんとかなりそうな楽観が作品にはあった。
本作は終盤に至るまで絶望的な状況が続いていく。
細田作品の楽観さを好きだった人たちは、悲観的な展開に胸が苦しくなったかもしれない。
このような違いから、見た人が「これは違う!」という声をあげたくなるのもわからなくもない。
最後の最後に至るまで本作の着地点が見えないために、不安になるのもわかる。
しかし、ルックスや世界観が今までの細田作品とは大きく異なるものの、私は本作は紛れもなく、細田作品だと感じた。
その理由を二つ述べたい。
細田作品の特徴の一つが、現実世界とリンクしている異世界が影響し合いながら存在している設定である。
「サマーウォーズ」や「竜とそばかすの姫」では異世界はネット空間として描かれる。
本作もその構造は同じだと考える。
違うのはその比率である。
「サマーウォーズ」は基本的には現実世界がベース、「竜とそばかすの姫」では50:50かもしれない。
対して本作はほぼほぼ異世界での物語が大半を占める。
しかし、それは現実世界と繋がっているのだ(最後にわかる)。
そして異世界に住むのは顔の見えない群衆である。
彼らは大勢に流されていく。
我々の現実世界でもあるように、容易く扇動されてしまう。
細田監督の危機感をそこにあると私は感じる。
本作でもスカーレットの仇であるクローディアスは死後の世界でも群衆を煽り、我が意を押し通そうとする。
先導されてスカーレットに襲いかかる兵士たちの大概は、兜で顔が見えないことが多い。
これはネット社会の顔が見えず、匿名であるアバターにも通じる。
その匿名の群衆たちに希望をさし示し、導くのが細田作品のヒロインである。
「サマーウォーズ」しかり「竜とそばかすの姫」しかり。
本作のスカーレットもだ。
希望を指し示せば、心ある人々たちは立ち上がる。
そこに全く希望がないとは思っていない、と細田監督は考えているのだろう。
本作でも終盤の「見果てぬ場所」で同様のことが示される。
続いてもう一つの細田作品の特徴についてである。
「許せ」というキーワードが出てくる。
実弟の陰謀により処刑されたスカーレットの父王が死ぬ間際に口にしたとされる言葉だ。
主人公スカーレットはこの言葉をどういう真意で父が言ったのかを考える。
国を誤って導いた自分の罪を許せと言っているのか、それとも自分を陥れた弟を許せと言っているのか。
その意味は物語が進んでいってもなかなかわからない。
が、スカーレットは最終盤に至った時、天啓のようにその意味を悟る。
これはスカーレットに対し「父親の復讐をやり遂げられなかった自分を許しなさい」と意味だったのだと。
平和だった日々、父王は幼かったスカーレットに、自分がやりたいように、なりたいように生きなさい、と言ってきていた。
親から子へのメッセージだ。
細田監督作品には、彼が経験した人生の、中でも家族に関して感じてきたことが反映されていることがある。
「サマーウォーズ」では細田監督が結婚した時にお相手の方が大家族だったことがアイデアの元になった聞く。
「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」「未来のミライ」は子育てする中で彼が感じ、考えたことが表れている。
家族を持ち、子供を育てるときに、誰でも感じる喜びや葛藤などが作品の中に練り込まれている。
だから、細田作品は共感を生む。
私は本作でもそのような子育てで感じる親の葛藤が描かれているように思う。
小さい頃は、多かれ少なかれ親が正しいと考えるように、子供を導いてきた。
子供たちが大きくなり、自分の意思で決められるようになる年頃。
親はどう思うか。
やはり親が正しいと思うようにやらせるか。
それとも子供がやりたいと思うことをやらせるか。
父王はスカーレットがなりたいように生きなさい、と言う。
彼は自身が死んでしまうことにより、スカーレットが呪いをかけられるのがわかった。
父の復讐をしなくてはいけない、という呪いを。
しかし、そのためにスカーレットは自分の人生を生きられなくなる。
それを恐れ、彼は「許せ」と言ったのだろう。
おそらく細田監督もそのように考えているのだろう。
子供は自分の生きたいように生きてほしい。
彼の親子感、子育て感が語られている。
紛れもなく、「果てしなきスカーレット」は細田作品である。

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2025年11月16日 (日)

「平場の月」夢みたいなこと

「お前、あの時何考えてたの?」
「夢みたいなことだよ。夢みたいなことをね、ちょっと」
この時、須藤が考えていた「夢みたいなこと」とはなんだったんだろうか。
主人公の青砥は妻と離婚をし、母親の介護もあって、実家に戻り一人暮らしをしていた。
結婚生活は彼にとって相当なストレスだったようで、離婚をした後は慎ましくも平穏な日々を過ごしていた。
そして、青砥の中学校の同級生で初恋の相手であった須藤は、夫と死別し、彼女もまた故郷に戻っていた。
地元に戻った二人はある日偶然再会し、互いに惹かれあっていく。
本作は主人公である青砥の視点で語られていく。
彼の須藤に対する思い、その深さ、切なさ、そして彼が感じる悲しみは、自分自身が男であり、年頃も同じであるからか、深い共感を感じる。
心底、彼には幸せになってもらいたいと思った。
彼が愛する須藤もそのつっけんどんさも含め、可愛らしいとも思う。
しかし、一歩踏み込もうとすると彼女との間に生じるバリアにもどかしさも感じる。
そこで、冒頭にあげた疑問である。
須藤はあの時、何を考えていたのか。
二人は距離を縮めていく中でもお互いの呼び方は、中学生の頃と変わらず「須藤」であり、「青砥」のままの苗字呼びである。
中学生時代、同級生の異性の呼び方は苗字であったというのは誰しも経験があるだろう。
自分でも覚えがあるが、異性であることを意識するし始める年頃で、子供の頃のように名前で呼ぶのが何か気恥ずかしいと思う気持ちがあったように思う。
彼らが苗字呼びをしているのは、一歩踏み込むことを躊躇するような、関係性を深めることを恐れるような気持ちがあるのかもしれない。
互いにいい歳であると言うこと、伴侶と別れているという経験もその理由の一つかもしれない。
しかし、もっと深いところ、特に須藤の内面にその理由があるような気がする。
中学生時代に一度、青砥は須藤に告白をしている。
しかし、須藤はそれを拒絶する。
「ひとりで生きていくと決めている」と。
中学生がこのような発言をするのは余程のことだ。
物語が進むにつれ、回想シーンで須藤の実家の実情が明らかになっていく。
彼女の母親は若い男に夢中になり、父親と自分、そして妹を捨てて出ていってしまった。
そして数年後、男に捨てられたのか再び家に戻りたいと懇願をしてきた。
そんな母親を中学生時代の須藤は冷たい目で見ていた。
青砥に須藤は母親を軽蔑していたと言う。
だからこその「ひとりで生きていくと決めている」という思いであっただろう。
しかし、もしかしたら中学生の頃からすでに、須藤は自分自身でも薄々わかっていたのかもしれない。
母親のようになりたくないのであれば、自分はあのような振る舞いはしないと決心すればいいだけだ。
「ひとりで生きていく」という思いの裏には、誰かといたら、その人に甘え、溺れ、軽蔑する母親のようになってしまうかもしれないという予感があったのかもしれない。
案の定、彼女は大人になり、母親の轍を踏むような行動をとってしまう。
須藤は同僚の夫を愛し、その人を略奪して結婚をする。
そして夫の死後、若い男に夢中になり、彼に貢いで財産の大半を失ってしまう。
おそらく、須藤は思っただろう。
自分も、母親と同じじゃないか、と。
「自分を一番軽蔑している」と須藤は、青砥に言っている。
須藤のことを周りの男たちは「太い」と例える。
これは意志の強さ、揺るぎない感じ、どんなことをしても倒れないような、まさに根を張って大地に力強く立っている太い木のようなイメージなのだろう。
しかし、それは須藤の本質ではないと思えてくる。
彼女の本質は、愛情が深く、相手を愛しすぎてしまうことなのではないか。
愛しすぎてしまうが故に、周りが見えなくなってしまう。
愛している時間そのものは彼女にとって幸せである。
しかし、それによって周りの人々を不幸にしてしまう。
それでは自分が軽蔑している母親と何も変わらない。
だからこそ、彼女は「一人で生きていく」。
自分の周りにバリアを張る。
揺るぎないイメージを身に纏う。
苗字呼びで距離を確保する。
しかし、青砥は彼女の内面の葛藤をはっきりとではなくても、感じ取っていたのではないかと思う。
彼はその葛藤を丸ごと受け止めたいと思った。
彼女が自分自身に感じている恐れ、それを感じているからこそ、無理やりに距離を詰めようとはしない。
彼女に寄り添って、穏やかな時間を過ごそうとする。
だからこそ、須藤は徐々に青砥に対して心を開いていったのだろうと思う。
そして最初の問いである。
須藤が考えていた「夢みたいなこと」とはなんだったんだろうか。
彼女にとっては、好きな人といっしょに穏やかに暮らすということが、夢のようなことだったのだろう。
強すぎる愛情によって嵐のようになってしまうのではなく、あくまで穏やかに静かに。
これこそが彼女が考える「夢のようなこと」なのではないだろうか。
青砥は須藤に月のヘッドがついたペンダントを渡した。
彼女はこれを喜び、お守りのように身につけていた。
なんでもない平穏な日々、まさに平場の上にポツンと浮かぶ月が彼女にとって幸せの象徴であったのかもしれない。
やがて須藤は自身の癌が再発したことを知る。
しかし、そのことを青砥には告げず、二度と合わないと言う。
青砥は動揺するものの、須藤の思いを受け入れ一年待つと告げるのだ。
中学時代の二人の回想シーンで、青砥は「すごい大人になる」と言う。
それを須藤は微笑みながら聞いている。
男はロマンチストであり、女はリアリストなのだ。
男は未来に対して夢を見る。
金持ちになる、すごい発明をする、好きな女と一緒にいつまでも幸せに暮らす。
しかし、女は現実的だ。
好きな人と暮らしたくとも、それは長続きしないだろう。
自分が持っている業のようなものある、そして自分の体のこともある。
それを言っても青砥なら、それでも一緒に暮らして支えたいと言うだろう。
男はロマンチストだから。
しかし須藤はその過程で、お互いに不幸になってしまうことを恐れる。
女はリアリストなので、不幸な結末が見えてしまう。
青砥を不幸にしたくない。
そして自分も幸せであった日々を、そのままにしておきたい。
互いに思いやるが故に、不器用な二人。
二人には幸せになってほしかった。

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2025年11月10日 (月)

「プレデター:バッドランド」弱者としてのプレデター

荒涼とした惑星に一人立つ戦士の姿。
それは人間ではない、プレデターだ。
本作では、今まで圧倒的なヴィランとして人間を狩ってきたプレデターを主人公とするシリーズ初の試みがなされた。
このシリーズは1987年の「プレデター」を端緒とする。
当時アクションスターとして最盛期を迎えていたアーノルド・シュワルツェネッガーを追い詰めていくプレデターは、それまで見たことがないヴィランだった。
人類を超えた科学力、強靭な肉体、そして凶暴な攻撃性。
どれもとっても人間が叶う相手とは思えず、さすがのシュワルツェネッガーでも叶わないのではないかと思われたほどだ(だからこそ後半の逆転劇は大きなカタルシスを生んだ)。
「プレデター」は好評を得て、その後多くの作品がシリーズとして制作されていくことになる。
同じようにシリーズ化されたものとしては「エイリアン」がある。
「エイリアン」と「プレデター」は今までもクロスオーバー作品も作られており(「エイリアンVSプレデター」「AVP2」)、また本作でも登場するウェイランド・ユタニ社は元々は「エイリアン」で登場していて、2つのシリーズは部分的に設定を共有している。
圧倒的な人類の敵としてエイリアンとプレデターは存在するが、大きく異なる点が一つある。
それは知性だ。
エイリアンは食いたい、殖えたいという本能に従って行動する。
それは人間に原初の恐怖を味合わせる。
対してプレデターは意思ある者として、人を狩る。
それは名誉であったり、楽しみであったりするのだが、圧倒的な科学・知性によって、人間は敵わないという諦めを感じさせるのだ。
この意思を持って狩りをするという点で、プレデターを主人公とする余地が出てくる。
エイリアンは凶悪であるが、猛獣と変わらない存在とも言え、物語の主人公にはなり得ない。
しかし、プレデターを主人公とすることにより、超越的な存在が、人間スケールに矮小化されてしまう恐れもあり、その点をどうしていくかが鑑賞前に心配していた点であった。
第1作目の「プレデター」はシンプルな言い方をすれば、弱者が圧倒的な強者に対して、知恵と工夫で打倒し、勝利するというストーリーである。
上段で書いたように、この構造がカタルシスを生む。
実は本作もこの構造をそのまま踏襲している。
主人公デクはプレデター一族の中でも最弱と呼ばれ、そのため長である父親にも疎んじらている。
プレデターでありながら、弱者としたこの設定が効いている。
彼は父親を見返すために、最強の戦士ですら難しいと言われるカリスクを狩ろうとする。
しかし、カリスクが生息する星は惑星全体の植物・動物が訪問者に牙を剥くバットランドだった。
その上、ウェイランド・ユタニ社も大量のアンドロイドを投入し、カリスクを捕獲しようとしていた。
そのような状況において、デクは圧倒的に弱者である。
装備は惑星に墜落した際に散逸し、ほぼ一つである。
バットランドに着いた後に出会ったアンドロイド、ティアから情報は得られるものの身一つであることは変わらない。
中盤までデクは、星の生物やアンドロイドたちに圧倒される。
しかし、「プレデター」のダッチと同様、デクはゲリラ戦に活路を見出す。
彼を苦しめてきた毒矢を放つ植物や、カミソリのような歯を持つ草、爆発する虫などを利用し、ウェイランド・ユタニの基地を強襲する。
まさに弱者が強者に対して、知恵と工夫で対抗するという展開だ。
これはカタルシスを生み、いつしかプレデターであるデクに感情移入している自分に気づく。
ティアと同型のアンドロイドで今回の敵役となるティアが操縦する大型のパワーローダーとの戦いは見どころがある。
このパワーローダーは「エイリアン2」で登場した機体よりも一回りも蓋回りも大きいサイズである。
大型ロボット対プレデターの戦い、という構図はSFファン、特撮ファンからすれば垂涎のものだ。
結果的に冒頭に挙げた懸念点は巧みに回避されたと思う。
プレデターはある意味、人間サイズに矮小化された。
デクが画面に登場した時にプレデターとしては貧相だと感じた(印象的なドレッドヘアも少ない)。
が、それゆえに感情移入できる対象としてなり得た。
「プレデター」シリーズとして新たな可能性を開いたかもしれない。

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2025年11月 8日 (土)

「『爆弾』」スズキタゴサクは何者なのか?

ある晩、名乗る冴えない中年男が野方署に連行された。
酔っ払って酒屋の自動販売機を壊し、その上店員にも暴行を働いたという。
その男は「スズキタゴサク」と名乗るが、取り調べをしていく中で「自分は霊感が強い」と言い、何かが起こると予言をし始める。
彼の言葉通り秋葉原で爆弾が爆発し、その後も次々と彼の予言通り東京の各所で爆発が起こっていく。
予告を見た時の本作の印象は、山田裕貴演じる捜査一課の類家と、佐藤二朗が演じる犯人スズキとの1対1のサイコサスペンスだった。
しかしいざ蓋を開けてみると、犯人スズキに対して、警察サイドは総掛かりで挑んでいる。
最初にスズキに対応するのは、野方署の刑事等々力で、次は捜査一課で類家の上司である清宮、そして最後に類家となる。
最後の類家とて、スズキの計画に肉薄するものの、事件を止めることはできない。
それほどまでに神がかった計画を立てたスズキタゴサクとは何者なのか?
普段から職場や学校に通うときに通っている道。
喉が渇いて目についた自動販売機でジュースを買った瞬間、爆発が起こり、吹き飛ばされる。
なんとも不条理である。
吹き飛ばされた人間に意識があれば、「なんで自分が」と思うだろう。
残された家族も「なんで彼が」と思うだろう。
不条理である、と。
本作には不条理に翻弄される人物が多く登場する。
野方署の巡査長矢吹もその一人。
彼は同僚に手柄を横取りされた結果、憧れの刑事になれず交番勤務を続けている。
彼にとっては不条理なことである。
彼が捜査の中で無鉄砲な行動をとりがちなのも、その不条理を取り消したいと考えるからであろう。
矢吹の同僚倖田は劇中でスズキに怒りに任せて迫る場面があるが、彼女の気持ちを動かしているのは不条理を許したくないという思いだろう。
これらの物語の発端となる野方署の長谷部の家族がその最たるものだ。
彼らは長谷部の起こした不祥事により、見知らぬ人々から心無い非難を浴びる。
確かに長谷部がしたことは恥ずべきことかもしれない。
しかし、だからと言ってこれほどまでに迫害されるほどのことなのか。
不条理である。
長谷部とコンビを組んでいた等々力にも同じような思いはあったろう。
不適切行為があったとはいえ、長谷部自身の刑事の力量や功績まで否定されるべきものではない。
その思いから出た言葉によって、また言われなく等々力自身も責め立てられる。
当事者は不条理と感じるが、実は当事者でない者にとってはそのように感じることはない。
部外者である彼らは、事件とは安全な距離を取れており、だからこそ無責任に推論し、勝手に発言する。
そしてそれが当事者たちをさらに苦しめるのだ。
しかし、スズキの行動は彼ら部外者を一気に当事者にした。
いつどこで、爆破に巻き込まれるかわからない。
不条理がいつ襲いかかってくるのか。
不条理、ということは理由がないと言うことである。
なぜそうなったか、ということが説明できない。
たまたま?偶然?
人は説明ができないことに対して、不安を抱く。
説明ができれば解決できる。
逆に言えば、説明ができないことは対処できない。
それは神の技かもしれない。
スズキの行為は神の視座とも言える。
彼はある意味、人を超越している。
彼は人間の良い面も悪い面も、強さも弱さも、そして人間こそが持つ矛盾も、深く理解している。
だからこそ人を翻弄できる。
スズキが等々力を好ましく思っているのは、彼が人の強さ、弱さ、矛盾を併せ持った人間らしい人物だからではないだろうか。
この映画の登場人物の中で、スズキの視座に迫れる唯一の人物が類家だ。
彼も鋭い観察眼、深い洞察力で犯人の本質に迫ろうとする。
彼は思考を深めていく過程で、スズキの視座に上がっていこうとする。
スズキもそれを楽しんでいるようだ。
しかし、類家自身が言っているように彼は人であることに「踏みとどまる」。
彼にとっては他人がどうしようもなくバカに見える。
自分の思考についてこれないことについて、イラつく。
しかし、それでも類家は人を超越しない。
神の視座には上がらない。
だからこそ、類家はスズキに勝てない。
スズキが仕掛けた最後の爆弾は結局見つからなかった。
事件に関わった者たちは、誰も容疑を認めていない。
類家の、警察の敗北である。
スズキタゴサクは何者なのか。
彼は不条理そのものである。

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2025年9月25日 (木)

「ブラック・ショーマン」新境地開けず

主演・福山雅治、原作・東野圭吾と言えば「ガリレオ」シリーズです。
テレビドラマ、映画と展開され、人気シリーズとなりました。
ドラマはそれまでの福山さんのイメージとは異なる理系キャラである湯川がハマり役となり、ユニークなトリックや豪華なキャストが演じる犯人との対決が見どころでした。
映画は、事件に関わる人たちの心情を深く掘り下げ、心を打つ物語が展開されて、ドラマとはまた違った趣の作品になっていたと思います。
そのタッグが再び組まれ、新しい物語が展開されるのですから、期待しないわけにはいきません。
福山さんが演じるのは天才マジシャン、神尾武史。
マジシャンですので、人の心理の隙をつくのを得意とし、実の兄が殺された事件の謎解きに挑みます。
理系でロジカルモンスターの湯川とは逆の人物のようでありますが、人を食ったような物言い、マイペースで捜査をしていく様は共通しているところもあります。
そのためか、また福山さんが演じているからか、神尾というキャラクターは新しさはあまり感じません。
「ガリレオ」を初めて見た時のような新鮮さを感じなかったのが正直なところです。
東野圭吾さんのドラマは事件の背景にある関係者たちがそれぞれ悲しみや葛藤を持っていることが多いです。
その隠された思いが次第に明らかになっていき、本当の思いにたどり着いた時に心を揺さぶられます。
本作においても登場人物たちの隠された思いはあり、それを神尾は明らかにしていきます。
しかし、それに触れた時、今までの「ガリレオ」シリーズにあったような身を切るような悲しみを感じるまでにならなかったというのが、正直な感想です。
その原因がどこにあるのか、私はわかりませんでした。
ミステリーらしく、探偵役が関係者を集め、真相を順々に明らかにしていく場面があります。
そこでは主人公がマジシャンならではで、派手な演出が仕込まれており、それに目をくらませられた登場人物たちが真実を口にし始めるわけです。
その派手な演出が、隠された思いの切なさを相殺してしまっているようなことが起こっている感じがしました。
フジテレビ的にはシリーズにしたかったんだろう、とは思いますが、なかなか厳しそうです。

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2025年9月23日 (火)

「8番出口」親になるまでの旅路

ボレロとおじさんが印象的な予告でした。
原作となるのはインディーズゲームだそう。
延々と地下鉄の通路をループしながら異変を見つけて脱出するというゲームらしい。
登場人物は非常に少なく、その中で主人公となるのが二宮和也さん演じる男。
彼はある日、地下鉄通路のループに迷い込んでしまいます。
そこはなんの変哲もないただの地下通路。
しかし、歩いていくと奇妙な出来事、異変が起こります。
明らかに異変であるのがわかるのもあれば、ほんのちょっとの違いであることもある。
それを見つけられなければ、また最初からやり直し・・・。
この無限ループは彼の心象とも言えます。
彼はこの無限ループに入る直前、恋人から妊娠したことを告げられます。
彼は激しく動揺をします。
子供を産ませるべきか、それともやめさせるべきか、そういう思いがぐるぐると巡っていたのでしょうか。
それともただ流され、その決断ですら、恋人に丸投げしようと思ったのでしょうか。
冒頭、電車の中で子連れの若い母親がサラリーマンに怒鳴り散らされる場面に彼は遭遇しています。
彼はそれを見ないようにし、イヤホンをして自分の殻に入りました。
このことから彼はあまり周囲に対して無関心であり、事なかれ主義であり、自ら決断するようなタイプでもないことがわかります。
そんな彼の目の前に突如現れた問題。
それは見てみないようにできる類のものではありません。
ぐるぐると巡る迷いが、まさに迷宮となった地下通路として表出しているように思います。
彼は喘息持ちらしく、ループに入り込んだ時は頻繁に咳き込み、よろよろと吸入器を使います。
地下通路に加えてこの描写は観る者に、強い閉塞感を感じさせる効果がありました。
男は彷徨う中で一人の少年と出会います。
彼は心細いこともあったのか、少年と行動を共にします。
その少年は、未来に彼が持つことになるかもしれない子供のメタファです。
子供と一緒に行動するようになってから、彼は咳き込むこともなくなり、足取りも確かなものになっていった印象があります。
そしてある命の危険を感じるほどの大きな異変があった時、男は少年を救おうと自分を犠牲にする行動をとります。
地下迷宮を巡る旅は、彼が父親としての自覚と成長を得る旅路なのかもしれません。
彼がはっきりと父親としての自覚を持った時、無限ループは終了するのです。
初めて親になる時は誰でも初めての経験です。
自分が親の役割を果たせるのか、考えます。
考えながら、そして動きながら、次第に親としての自覚が出てきます。
ゴールがはっきりとしているわけではないので、何をしたら正解なのかも若rない。
失敗しながら親をやっていく過程こそが、自覚を作る。
地下通路の無限ループは親として成長していく過程の象徴なのですよね。
こう書いてみると、おじさんパートの映画の中での意味合いがちょっとわからなかったですね。
無限ループの緊迫感を印象付ける、という意味はあったと思いますが、主人公の男の親としての成長にどう結びつくのかがちょっとわからなかった。
もう一回見るとわかるかな・・・?

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2025年9月15日 (月)

「バレリーナ:The World of John Wick」アナの美しさと強さを堪能しましょう

アクション映画は大好きなのですが、「ジョン・ウィック」シリーズはなぜか見ていません。
理由もなくたまたまなんですが、人気が出てシリーズが続いて公開するたびに、最初から見ないと、と思いながら今に至ります。
ではなんで「ジョン・ウィック」シリーズのスピンオフ「バレリーナ」を見たかと言いますと、女性が主役のアクション映画が好きなんですよね。
体格のいい男性のアクション映画もパワフルで好きなんですが、女性のアクションは体格が細い分、体格の差を埋めるような閃きがあって、トリッキーであったりしていて目が離せません。
女性らしい美しさがあるアクションも多いですよね。
「ニキータ」とかシャーリーズ・セロン主演の「イーオン・フラックス」とか、「アンダーワールド」シリーズとか、そういうのです。
もう一つは主演がアナ・デ・アルマスであったこと。
彼女を初めて見たのは「ブレードランナー2049」ですが、人間離れした美しさに驚きました(人間の役じゃなかったですが)。
その後「007」のボンドウーマンでブレイクしたのは皆さんが知るところです。
現在37歳ということですが、年に比べて童顔で、幼さと色気が混じり合ったような雰囲気が他の女優さんとは違います。
その彼女が主演でのアクション映画なので見ないわけにはいかんでしょう、というわけです。
「ジョン・ウィック」シリーズのスピンオフということで、最初から最後までアクションの見せ場は大変多いです。
冒頭のクラブでのアクションもアナの美しさと強さが際立ち見応えがあります。
後半はある街を舞台にしたアクションであり、街ごと全住民が彼女の敵となるという設定。
予告では火炎放射器に放水で対抗するという場面が流されていましたが、その前では双方火炎放射器を装備しての撃ち合いというが描かれました。
火炎放射器同士の立ち合いというアクションは自分が知る限り初めて見ました。
銃弾というのは当たらなければどうということはないわけですが、火炎放射器というのはあるエリアが焼き尽くされるわけで、その射線上に入ったらすなわち負けになるわけです。
いかに相手に放たせず、自分の間合いで放てるかというのが勝負になります。
相手が火を放つ場合は、その間合いから素早く逃げるという機転も必要です。
これは今まで見たことがないアクションで、アイデアが詰まっていたと思いました。
ストーリーはそれほど重要ではない作品です。
アナの美しさとアクションを堪能する映画だと思います。
監督はレン・ワイズマンで、「アンダーワールド」の監督でした。
美しい女性のアクションを撮るのはお手のものですね。

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2025年9月14日 (日)

「不思議の国でアリスと -Dive in Wonderland-」大好きをたいせつに

大人になると、周りに合わせていく、ということが習い性のようになってきたりします。
そうしないと周りから浮いていってしまうし、みんなと同じことはちゃんとアピールしないと使えないやつ、って思われてしまうかもしれないし。
それでいて、個性がどうとか、君のやりたいことは何なのか、とも聞かれたりもするので、混乱もしますよね。
主人公のりせは就活真っ最中であり、まさに社会と自分のすり合わせに初めて悩んでいるところです。
自分の子供を見ていると、まだ彼女は世間に合わせるということはまだあまり考えていないようで、自由に振る舞っています(まさにアリスのように)。
りせは就活で悶々としていた時、祖母が作ったアトラクションのテストに参加します。
そこは「不思議の国のアリス」をAIで再現したまさにワンダーランド。
その世界でお馴染みのキャラクターやアリスと出会います。
不思議の国はまさに不条理の世界。
そこにはそこの常識があるのかもしれませんが、りせにとってはまさに不条理。
そこは子供たちが初めて触れる社会のメタファーかもしれません。
わけもわからず不条理に縛られていってしまい、息苦しさを感じてしまう。
合わせていくほどドツボにハマる。
そこでアリスはそんな不条理などものともせず、自分のやりたいように振る舞って、不条理を突破していってしまいます。
縛られるってなんでしょう。
自分から縛られにいっているのかもしれない。
やりたいようにやれば、いいんじゃない。
不思議の国から帰ってきた時、りせとアリスはそれぞれ自分が好きなことを語ります。
他の人はわかってくれないかもしれない、けど自分が大好きなことを。
大好きなことがあるから、不条理の中でも頑張れる。
自分も会社に入った頃はちゃんとしないと、と気張っていたような気がします。
元々オタク気質ではあって、アニメとか特撮とか好きですが、そんなことは会社ではおくびにも出さず。
でも、最近は「推し」という文化が定着してきたので、次第にオープンにしたのですが、意外と他の人たちもそれぞれマイナーな「大好きなこと」があって。
そういうのがわかると、その人のこともより親しく感じたりもします。
大好きを、たいせつに。
縛られなくっていいんじゃない。

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2025年8月15日 (金)

「ファンタスティック4:ファースト・ステップ」MCU初心者に向けた「ファースト・ステップ」

今年に入ってMCUの映画は「キャプテン・アメリカ」「サンダーボルツ」に続いて3作目。
その中でも公開前の情報としては出来がいいという評判で、アメリカでは割と評論家的にも高評価だったようです。
本作の舞台となるのは従来のMCUのアース616とは異なり、アース828と冒頭に明示されていて、レトロフューチャー的な世界観となっています。
現実の世界を意識してリアリティ重視の従来のMCUとは異なり、映画的に違う世界を楽しめる良さはあります。
また、本作は違うアースであるために、基本的には今までのMCUを見ていなくても、全く問題がない作りになっています。
そしてテーマとなっているのは、家族です。
登場するファンタスティック4はヒーローチームではありますが、家族であるという側面も強い。
今までのMCUのヒーローチームは個性あふれるメンバーでそれぞれ個性も考えも違うので、衝突も多かったですが、本作は基本的にはそれぞれがお互いに愛情を持っているチームです。
そして彼らは基本的に善人であり、彼らが不本意にも得たスーパーパワーを人類のために使うのだという、意識がとても強い。
これは割と人格的に課題がある従来のMCUのヒーローとは異なっています。
ヒーローらしいヒーローと言っていいでしょう。
これらのことから「ファースト・ステップ」はMCUをあまり見ていない人、または挫折した人にとって、わかりやすいヒーロー映画となっていて、間口が広い作品となっているように思います。
これは「ヒーロー疲れ」と言われるようになった状況に対して、マーベルが出した一つの答えなのかもしれません(まさにMCU初心者に対する「ファースト・ステップ」)。
家族か、世界かの選択をギャラクタスに迫れれたファンタスティック4の葛藤は、多くの人にとってドラマとしても共感できるところだと思います。 そういうこともわかった上で、MCUにどっぷり浸かっている自分としては「ファースト・ステップ」は色んな意味で物足りないところを感じました。
ファンタスティック4がわかりやすいヒーローであることはエントリー獲得に必要だと思いますが、自分がMCUのヒーローが好きなのは、ヒーローでありながら皆不完全であることなんですよね。
トニー・スタークは天才ではありますが、自信満々の態度の裏にある、心の弱さなどが事件を引き起こすこともしばしばでした。
彼が完全ではないことがドラマを生んでいるのであり、だからこそ彼が好かれていたのだと思います。
完璧ではないからこそ人間的なんですよね。
「サンダーボルツ」などはまさにそれの究極で、個人的には大好きな作品の一つなのです。
本作のファンタスティック4はそれらの対極に位置していて、完璧なヒーロー、完璧な家族であり、そのあたりに絵空事感を感じてしまいました。
絵空事感には作られたようなレトロフューチャー的な世界観も影響しているかもしれません。
「サンダーボルツ」はMCUのコアファンを意識したマニアックな作りであり、「ファースト・ステップ」は間口の広い初心者を意識した作品であると思いました。
振れ幅としてはとても大きくて、これが次回作の「アベンジャーズ:ドゥームズデイ」でどう統合されるのか、ちょっと予想がつかないですね。
楽しみでもあり、怖くもありです。

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