2022年7月27日 (水)

「バズ・ライトイヤー」 思っていたよりSF

アンディ少年のお気に入りのおもちゃである、バズ・ライトイヤーのフィギュア。
そのアンディが大好きだったバズの映画がこれ、「バズ・ライトイヤー」です。
・・・むっちゃ、SFじゃないの!
アンディって、小さいくせにかなりのSF好きなのね・・・。
「トイ・ストーリー」のイメージで本作を見にいくと、テイストの違いに戸惑うかもしれません。
古典的ではありますが、本作は「ウラシマ効果」を扱ったSF映画になりますので。
ウラシマ効果とはなんでしょうか。
光速に近いスピードが出せるロケットに乗っている人と、出発した場所の人では時間の進み方が異なり、ロケットに乗っている人の方の時間の進み方が遅くなるので、何年か後に出発地に帰ってくると、出発地では何十年も時間が過ぎていたというような話で説明されます。
これは相対性理論から導き出されます。
これは実際にも観測されていて高速で地球の周りを回っている国際宇宙ステーションの時計は地上と比べるとほんのちょっと遅れるということです。
本作にウラシマ効果が取り入れられたのは「ライトイヤー」という名前からでしょうね。
ライトイヤーは宇宙探査中、ある星で自分のミスで宇宙船を傷つけてしまい、そのため乗組員は故郷に帰れなくなってしまいます。
彼はその責任を感じ、光速に近いスピードで飛ぶことにより得られる特殊な物質(船のエネルギーになる)を得るため、フライトを重ねます。
しかし、先ほど書いたウラシマ効果により、彼以外の人々は彼が帰還するために歳をとり、そして亡くなってしまいます。
それでも彼は飛びます。
彼が負った責任を果たすために。
しかし、人々は次第に彼らが不時着した星を新たな故郷として、生活をし、定着し始めていました。
年月以外にもライトイヤーと他の人々の間では価値観にギャップができてきたのです。
そんな彼らのところに謎のエイリアン、ザークが現れたのです。
<ここからネタバレあり>
ザークこそ、未来のライトイヤーでした。
彼は自らの失敗をないことにし、乗組員を故郷の星に戻れるようにするために、時間を遡ってきたのでした。
彼もまた責任感で行動してきたのだと言えます。
しかし、乗組員の子孫たちは新しい故郷を見出しており、かつての星へ執着はしていません。
責任感という自らのエゴのため、今を生きている人々の幸せを犠牲にできるのか。
ライトイヤーは未来の自分と対決します。
むっちゃS Fですよね。
「トイ・ストーリー」のノリで観にきた方は面食らうに違いありません。
個人的には嫌いなストーリーではなかったのですが、「トイ・ストーリー」的なおもちゃっぽいデザインはちょっと合わないような気もしました。
この辺りのしっくりいかない感じが評価の低さにつながっているのかもしれません。

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2022年7月11日 (月)

「鋼の錬金術師 完結編 最後の錬成」 情報量が多く、忙しい

「鋼の錬金術師」実写版の最終作「最後の錬成」です。
一作目、そして完結編の全編「復讐者スカー」までは私は世間よりは高めの評価をしていましたが、今回に関しては低くなるかと思います。
壮大な物語を収斂させなくてはいけないということはわかるものの、あまりに登場人物が多いため、それぞれの掘り下げも出来なかったように思いました。
エドの師匠であるイズミも本作冒頭で登場しますが(原作ではもっと早めのタイミングで登場していたはず)、人柱の人数合わせ的なようにも思えました。
彼女自身もエドに匹敵するほどの過酷な過去がありますが、割とあっさりだったのは残念なところです。
事前の情報で再現度が高いと評判であった栗山千明さん演じるアームストロング少将も少々もったいない。
全体的にかなり急いで原作の後半をこの作品だけで描こうとしたように感じられ、魅力的なキャラクターが中途半端な描写で終わってしまった印象が強いです。
ただ再現度の高さだけでキャラクターが語られてしまいそうで残念な感じがしたのです。
リンも勿体なかった。
完結編の前編はスカーのエピソードにかなりフォーカスしていたのでキャラクターも掘り下げられていて、見やすかったですし、感情移入もしやすかったですが、それに対して後編は非常に情報量も多く、ジェットコースター的なストーリーに振り回されている印象がありました。
前編、後編の情報のボリュームのバランスが悪かったように思います。
ほんとは完結編3部作ぐらいにしていた方が良かったのではないかと思いました。

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2022年6月12日 (日)

「ハケンアニメ!」それぞれのリーダーシップ

映画やアニメの制作は集団芸術です。
その制作のトップにあるのはディレクター(監督)になりますが、集団芸術ゆえの困難さがあります。
学生の頃、映画サークルにいた時、一、二度短編映画の監督をやってみたことがありますが、正直自分には向かないなと思いました。
映画作品を作り上げるにはとても強いリーダーシップが必要であることに気づきました。
加えて自分の中にイメージする力があり、そしてそれをスタッフに伝える力が必要です。
自分に対して自信がないと、多くの人を動かすことはできません。
強いリーダーシップには、時には強引さも必要ですが、また相手に対するリスペクトも必要です。
独りよがりでは誰もついてこなくなりますし、自信がなければそれもまた誰もついてきません。
必要なのは思いの強さです。
本作では同じ時間帯に放映されるアニメを作る二人の監督がそれぞれ描かれますが、性格が全く異なります。
一人は天才と呼ばれる王子監督。
誰にも認められる才能があり、その才能を信じてチームが集まってきています。
チームのメンバーは彼を信じ苦しくても苦しくても付いていこうとしますが、その分、出来上がりに関しての責任は彼が背負わなければなりません。
これは集団芸術と言いながらも、非常に孤独であり、大きなプレッシャーに潰されそうになるかと思います。
私も仕事でCM制作に関わっていますが、大勢のスタッフがいる中で異なることを言うのは非常に勇気があります。
考えに考え抜いて発言しますが、そのプレッシャーたるや・・・。
王子監督は強いリーダーシップがあるようには思えませんが、彼を信じサポートして彼の代わりにチームをまとめ上げるプロデューサーがいました。
彼女無くして王子監督は作品を作り上げることはできなかったでしょう。
王子監督に対抗する新人は佐藤監督です。
彼女の場合はスタッフに信用される実績はまだなく、まずスタッフに彼女のやりたいことを理解してもらう必要があります。
彼女はなぜスタッフが自分が思うとおりにやってくれないか悩みますが、それも道理です。
まず彼女に必要なのはスタッフへのリスペクトです。
しかし、スタッフの言うことばかり聞いていると、次第にそもそもやりたかったことのイメージから乖離していってしまいます。
その上で、彼女のやりたいことを丁寧に伝えて、共通のビジョンをチームで共有していく。
それが必要です。
王子監督にしても、佐藤監督にしてもやり方は違えどそれぞれのリーダーシップを発揮しています。
そしてリーダーシップには自分の思いの強さが必要です。
思いがないと挫けてしまう。
それを改めて確認させてもらいました。
「サウンドバック」は面白そうな作品だと思いました。
ちょっと見てみたいですねー。

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2022年5月22日 (日)

「鋼の錬金術師 完結編 復讐者スカー」憎しみの連鎖

前作の「鋼の錬金術師」はあまり評判が良くなかった記憶があります。
その多くは原作で描かれている舞台と登場人物がヨーロッパ風であるのに、演者が日本人であったため、イメージが違うということだったと思います。
当時私は原作を読んだことがなく、先入観なしに映画を見ましたが、皆が言うほどには悪いという印象はありませんでした。
むしろ、「等価交換の法則」が意味する何かを手に入れるために、何かを差し出さなければいけないというテーマには深さを感じたものです。
前作を見た後に原作に手を出し、一通り読みました。
今回は原作を読んでいるので「先入観あり」での鑑賞になります。
ですが、印象は悪くなかったです。
むしろ良いかもしれません。
まず今回新たに登場するキャラクターですが、演じる俳優の方々のキャスティング、演技もあって、非常にシンクロ率が高かったと思います。
個人的には原作ものの映画でシンクロ率が高くても、それ事態は映画の質にはあまり関係ないと思っていますが、合っているであれば越したことはありません。
シンクロ率が高いなと思ったのは、舘ひろしさん演じるブラッドレイ大総統、渡邊圭佑さんのリン、内野聖陽さんのホーエンハイム。
原作のイメージぴったりでした。
山本耕史さんのアームストロング大佐は反則ですね(笑)。
今回のキーパーソンであるスカーの新田真剣佑さんは原作のイメージからするとちょっと若いかなと思っていましたが、思っていたよりはハマっていたと思います。
ストーリーも多少エピソードの順番入れ替えは合ったように思いますが、おおむね原作通りだったと思います。
本作を制作するにあたり、スタッフも出演者も原作へのリスペクトを持ってあたったということを聞きましたが、それが感じられる作りになっていたと思います。
ちょうど今、世界は侵略戦争を目にしています。
そこで命を失う人々のニュースを日々耳にします。
まさに「理不尽」としか言いようがありません。
その理不尽により、憎しみが生まれ、そしてまた繰り返し憎しみが生産されていく。
それを我々は目撃しています。
本作はフィクションですが、まさに戦争の理不尽さと、憎しみの連鎖をテーマにしています。
劇中でスカーの師が口にする「憎しみの連鎖を断ち切るには誰かが耐えなければならない」という言葉は真実ではありますが、当事者にはあまりにつらい言葉です。
肉親を理不尽な暴力により失った者の気持ちの行き場はどこになるのでしょう?
スカーのやったことは許されることではありませんが、共感できないことでもありません。
ただこれを続けている限り、連鎖に終わりはありません。
だからこそ本作でウィンリィの行為にスカーは自分にない強さを感じたに違いありません。
スカーは自分の中にある憎しみに耐えられなかった。
しかし、ウィンリィはそれに耐えようとしている。
自分にない強さを感じたからこそ、彼はウィンリィを守ろうとしたのでしょう。
よくよく考えれば本作に登場するキャラクターの多くは、罪を背負っています。
命令とはいえ、虐殺に手を貸したマスタング大佐、ヒューズ中佐、アームストロング少佐、ホークアイ中尉は皆その罪を自覚しています。
何かを叶えるために何かを犠牲にしようとする。
それは異国から来たリンたちも同じです。
そしてエルリック兄弟も。
まさに等価交換の法則です。
何かを願うことは悪いことではない。
けれどそのために誰かの願いを犠牲にできるのか。
これは本作を通じて描かれるテーマなのだと思いました。

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2022年4月30日 (土)

「ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密」主人公の存在感薄くないですか・・・?

この「魔法ワールド」シリーズの主人公はニュート・スキャマンダーのはずですが、回を追うごとに存在感が薄くなってきているような・・・。
タイトルにあるようにダンブルドアとグリンデルワルドの存在感が圧倒的です。
グリンデルワルドを前作まで演じていたのはジョニー・デップでしたが、諸事情により本作からはマッツ・ミケルセンに変更となりました。
見た目の印象が全く違うので戸惑うところはありますが、本作で描かれた過去のダンブルドアとの関係性を踏まえるとミケルセンの方がマッチしているようにも感じました。
ジョニー・デップはちょっと軽そうな印象もあるので、ダンブルドアが惚れるかしら?という感じも受けますので。
本作はどうしてもグリンデルワルドの野望に対するダンブルドアという構図になっているので、ニュートを始め前作までの主要メンバーの描き方が薄くなっているように思います。
前作の最後でクイニーがグリンデルワルド側についたことによる、ニュートやジェイコブたちとの葛藤がもう少し描かれると良かったような気がしますが、割とあっさりとだったので物足りない感じがしました。
クリーデンスのバックグラウンドの話も突然明らかになりましたが、ちょっと唐突な感じはありました。
彼はこのまま退場してしまうのか、この後の物語に何かしら絡んでいくのかまだわかりませんね。
このシリーズは5部作予定ということですが、なんとなく完結してしまうような終わり方にも感じられました。
グリンデルワルドは死んではないようなので、また何かしらの企みをするのかもしれませんが。
クリーデンス役のエズラ・ミラーが逮捕されたり、ジョニー・デップの件があったり、また脚本のローリング自身も色々物議を醸しているようなこともあり、なかなか前途多難なシリーズです。
無事に終わることができるのでしょうか。

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2022年4月 1日 (金)

「ベルファスト」あの頃の分断

ケネス・ブラナーの半自伝的作品で、描かれているのは1960年代の北アイルランド、ベルファスト。
あまり日本人には馴染みはないかも知れないですが、北アイルランドは複雑な土地柄です。
16世紀のヨーロッパ宗教改革の時に、イングランドはローマ・カトリックから離反して、プロテスタントに改宗しました。
アイルランドは元々カトリックですが、そこへプロテスタントのイングランドが進出してきたのです。
その後、アイルランドは併合されイギリス(大ブリテン王国)の一部になりました。
イギリスは一つの国家のように思ってしまいがちですが、イングランド、ウェールズ、スコットランドの連合国です。
いったん併合されましたが、その後アイルランドは独立します。
しかしその時北部の州の一部(北アイルランド)はイギリス人残留します。
北アイルランドはアイルランドに合流すべきという考えの人々とイギリスに留まるべきと考える人々の間で対立が生まれ(ブレグジットのようです)、内戦のような状態になります。
私が10代の頃は度々ベルファストでテロが起こったなどのニュースを聞いた記憶があり、ちょっと怖い場所というイメージがありました。
本作で描かれているのは、そのような社会の中で対立が生まれている時代です。
とはいえ、元々市井の人々はカトリックもプロテスタントも、ナショナリスト(アイルランドと一緒に一つの国となるべきと考える人)もユニオニスト(イギリスに留まるべきと考える人)も一緒に隣人として暮らしていたわけです。
本作の主人公である少年バディ(家はプロテスタント)が恋する少女の家はカトリックです。
しかし社会は急速にカトリックVSプロテスタントもしくはナショナリストVSユニオニストという対立の構造が顕在化して、人々にもどちら側かということを決めるべきという圧力がかかります。
まさに「分断」であり、今の世界が直面している課題でもあります。
ケネス・ブラナーが今この作品を作ろうと思い立ったのも今の時勢を考えてのことかもしれません。
本当に普通の人々は対立したいなど望んでいなかったのに、急速に社会が分断され、居場所がなくなってしまう。
誰にとっても不幸なことです。
多様性の重要性が語られるようになってきていますが、それに反するように分断も激しくなってきているようにも思います。

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2022年3月18日 (金)

「THE BATMAN-ザ・バットマン-」アイデンティティの揺らぎ

3時間近くの上映時間にビビりつつも「バットマン」の新作に行ってきました。
監督は「猿の惑星」でも知られるマット・リーヴス。
「バットマン」はティム・バートン版、クリストファー・ノーラン版と名作を生み出してきたので(駄作もあったが)、今回も期待度が高まります。
「バットマン」は幼い頃に両親を殺されたブルース・ウェインがそのトラウマを抱えつつ成長し、ゴッサムシティの悪を自らの手で裁いていく執行者バットマンとなるという基本設定は共有しつつも、それぞれのクリエイターが独自の解釈をし、新たな物語を生んでいます。
ブルースは(クラーク・ケントなどと比べると)非常に複雑な人物なので、キャラクターの堀りがいがあるのかもしれません。
MCUという「正史」があるマーベルでは基本的には様々なキャラクターの解釈はありませんが(マルチバースが導入されていくとそうでもなくなっていくかもしれない)、最近のDCはキャラクター毎の掘り下げをしていき、それぞれのトーンを生み出しているということで、これはまた正しいアプローチのように思います。
<ここからネタバレあり>
さて、本作でバットマンに対するヴィランとなるのはリドラー。
「フォーエバー」のリドラーはイカれたピエロのような感じでしたが、本作のリドラーは非常に怖い。
彼が事件の後に残していく謎は次第次第にバットマンを追い込んでいきます。
本作でも劇中でバットマンは自身のことを「復讐者」と言います。
これは両親を犯罪者に殺され孤児となったブルースが、悪に対抗する正義の存在である、という自らのアイデンティティを表現した言葉だと思います。
しかしリドラーはそもそもブルースが敬愛する父親は善であったのか、という問いを突きつけるのです。
もし悪事に手を染めていたのであれば、何かしらの事情で粛清されたのであれば、因果応報ではないか。
ブルースが立脚する正義の立場が揺らぎます。
そしてまた、リドラーや彼の支持者たちも、ゴッサムシティの悪による犠牲者であることが明らかになります。
同じく親を殺されていても、ブルースには財産があり、難なく生きていくことができた。
しかしリドラーたちは生きていくこともままならない。
彼らの憎しみはバットマンにも向かいます。
なぜ、自分達だけがこのように苦しまなければいけないのかと。
彼らの境遇を知ったブルースは、また自分の立脚点が揺らいだように思ったかもしれません。
「復讐者」という立脚点は、両親を殺された孤児が悪に鉄槌を下すことを正当化するもの。
しかし、もっと不幸な境遇になったリドラーが犯罪者を成敗していくことをバットマンは責めることができるのか。
ブルース=バットマンは自らのアイデンティティの立脚点である「正義」「復讐」というものが揺らいでいくという感覚になったのではないでしょうか。
またブルースが出会ったセリーナもまた母親を失った復讐を実の父親へ行おうとしています。
彼女はまさに復讐を達成するために父親を殺そうとするのですが、ブルースは殺してはいけないと言います。
これもある種の綺麗事を述べているようにも聞こえます。
底辺で暮らしてきた者にとってはそんな綺麗事を言っている余裕はないと。
ブルースが直面したアイデンティティの揺らぎ。
自身は何のために戦っているのか。
正義のため?
自身の父親も邪魔な人間を始末するよう依頼をしていた。
復習のため?
リドラーたちも復讐をおこなっているが、それを責められるのか。
なぜ自分は戦うのか。
ラストの場面で彼は洪水に飲まそうになるゴッサムシティの市民たちを守るために戦い、そして傷ついた人々を救助していきます。
救助隊のように人々を救っていく姿のバットマンはあまり見たことがありません。
しかし、その中でブルースは自分が戦う理由を初めて見出したような気もします。
復讐のためではなく、人々を救うために戦うのだと。
ブルース=バットマンが新たなアイデンティティを獲得したように感じました。

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2022年1月24日 (月)

「ハウス・オブ・グッチ」それぞれの正論

「最後の決闘裁判」から間を置かずに公開されたリドリー・スコットの最新作。
この監督は本当に作品の幅が広い。
グッチといえば、誰もが知るファッションブランドの一つ。
個人的にはファッションにものすごく疎いため、どうすごいかとか、他のブランドは何が違うのかは全く説明できないのだが。
グッチは伝統のあるブランドだが、一時期低迷した時期もあり、また創業家の一族の争いなども激しかったようだ。
そしてこの映画で初めて知ったのだが、創業者の孫が暗殺されてしまい、そしてその犯人が元妻であったというスキャンダルもあったということだ。
本作はその元妻パトリツィアを主人公にすえ、グッチ一族の骨肉の争いを描きます。
パトリツィアにはレディ・ガガ、その夫であるマウリツィオにはアダム・ドライバー、そのほかの出演者にはアル・パチーノ、ジェレミー・アイアンズ、ジャレッド・レトと、存在感のあるメンバーを揃えています。
この出演者たちが演じるグッチ家の人々も非常に強烈な個性を持っています。
彼らにとってグッチとは富であり、誇りであり、夢であった。
しかし、そのグッチは同じものではなく、それぞれが思い描く自分にとっての理想のグッチがあった。
ある人物にとっては、グッチは富の象徴。
ほかの人物にとっては、自分の才能を開花させてくれるもの。
または守らなければいけない伝統。
それぞれのグッチが相克し合い、骨肉の争いになった。
彼らが思い描くグッチは決して間違っているわけではない。
ブランドが持つ多面性の一つの側面を自分が都合のいいように解釈しているとも言える。
それぞれが主張していることは、それぞれにとって正論なのだ。
自分は間違っていないという確信があるからこそ、そのぶつかり合いは激烈となる。
もはや忖度などはない泥試合となっており、それぞれの人間性が丸出しとなっている。
その生々しさに人間らしさを感じる。
冒頭に書いたように自分自身はグッチ家のファミリーヒストリーを全く知らなかったため、どのように話が決着するのか全く想像できず、最後まで気を抜くことができず見ることができた。
最後のぶつかり合いは思いもよらぬ悲劇となった。
結局は勝者なしのゲーム。
現在のグッチには創業家のメンバーは誰もいないということだ。

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2021年11月 5日 (金)

「映画 トロピカル〜ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!」夢を持つということ

5歳の娘と一緒に行ってきました。
うちの娘は幼稚園で「将来になりたいのはプリキュア」と書くぐらいのプリキュア好き。
ですので、私も日曜の朝は付き合って見ているので、相当詳しくなっています。
現在放映中のプリキュアは「トロピカル〜ジュ!プリキュア」で、タイトルからも伝わってくるように南国のように明るいトーンが特徴です。
昨年の「ヒーリングっど プリキュア」は恐ろしいほどにコロナ禍の状況にシンクロしていましたが、「トロピカル〜ジュ!プリキュア」は世間に蔓延している鬱屈した気持ちを吹き飛ばすように底抜けの明るいのです。
子供たちも親や周りの人々のモヤモヤした気分を察知していて子供なりにストレスを感じていると思う中、好きなテレビを見ているときは明るい気分になれるのはいいですよね。
制作者もそのような意図でこの作品を企画したのではないかと思っています。
「トロピカル〜ジュ!プリキュア」の主人公はキュアサマーこと夏海まなつという中学生の少女。
「トロピカってる?」というのが口癖ですが、これは今とっても楽しい気分でイキイキとしているか、ということを言っているのですね。
まさに今を大切に生きている女の子で、エネルギーに溢れています。
まなつと共にもう一人の主人公とも言うべき存在が、グランオーシャンという人魚の国からやってきたローラという人魚です。
彼女もキュアラメールというプリキュアに変身します。
ローラはまなつと違い自分の将来の夢をしっかりと持っている少女です。
その夢とはグランオーシャンの女王になり、皆を幸せにしたいということ。
ローラ自身は自信家で少々鼻持ちならないところもありますが、彼女の夢に対しての思いは真っ直ぐです。
今回の映画はまなつというよりは、ローラが主役と言ってもいいストーリーとなっています。
彼女たちは不思議な生き物に招待され、雪の国のプリンセスが女王となる戴冠式に向かいます。
そこでローラは雪の国のプリンセス、シャロンに出逢います。
まなつはローラの夢を応援してくれているものの、その夢の大きさを叶えることの大変さ、重さは本当にわかっているかわかりません。
シャロンは同じような大望を持っているという点でローラが共感できる存在でした。
ストーリーは後半大きく動きます。
詳しくは書きませんが、自分の夢を叶えるために他の人を犠牲にして良いか、というテーマに行き着きます。
そしてもし夢に敗れた時、忘れられていってしまうかもしれないという恐ろしさ。
でも本当に忘れられるのではなく、誰かはきっと夢を叶えるための頑張りは見てくれている。
そういう救いも語られます。
うちの娘の将来の夢は今のところプリキュアです。
夢というのは恐ろしい側面もあり、ある種の呪いともなります。
叶えられなくて苦しくなるのだったら、そもそも夢なんて持たない方がいいと考えるかもしれません。
でも夢があるからこそ、「今」という時間が充実したものにもなってきます。
彼女の夢は叶うかどうかわからないけど、夢はずっと持っていってほしい。
そこに行き着こうと頑張る姿をお父さんは見ています。

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2021年9月24日 (金)

「鳩の撃退法」 映画ならではの難しさ

かつて直木賞を受賞したこともある小説家津田は久しぶりに作品を書き上げようとしていました。
それを編集者に読ませていますが、彼には実際あった出来事を作品を発表し、当事者とトラブルになったという前科がありました。
そこで書かれている物語はフィクションなのか、それとも実際の出来事なのか・・・。
原作小説は未読なので小説も映画と同じ構造なのかがわかりませんが、ちょっと構成的にわかりにくい作品ですね。
物語は津田の小説で描かれているフィクションパートと実際の津田の現在のリアルを描くパートと、大きく2つのパートで語られていきます。
彼の小説で描かれていることがフィクションか否かが一つの映画のポイントとして置かれていますが、実際見ているとこの構成が効いてくるのは、ラストシーンだけなのですよね。
津田の小説で描かれている事件そのものもかなり複雑なので、リアルパートがあるとさらに複雑な印象になります(とはいえ、事件そのものには直接的にはタッチしていないので実際は複雑ではない)。
これは映画というビジュアルメディアならではの弊害かもしれません。
両パートに共通して出てくるのは主人公津田ですが、あまりビジュアル的にも変わらないので、どっちのパートかちょっと戸惑うところもあります(一緒にいる人物で判別するわけですが)。
これが小説であれば、もう少しわかりやすいのかもしれません(原作も同様な構成をしていれば、の話ですが)。
津田が小説で語る出来事は、それが事実であれば彼が実際に見聞きしたものでなければなりません。
文章であれば、叙述トリック的な手法を含め、色々仕掛けを施すことができるかと思います。
しかし、映画だとどうしても「見えてしまう」ので、そのような文章上の仕掛けを行うのは難しくなってしまうのですよね。
その辺がうまく処理できず、複雑な印象を持たせてしまったような気がします。
富山の事件についてはそれだけでもドラマがあるので、そこにフォーカスしてもよかったのかなと思いました。
その事件のキーマンとなる秀吉自体には娘を持つ身としてとても共感するところはありました。
主人公の津田を演じるのは藤原竜也さん。
このところ、「カイジ」をはじめ、こういったクズ男を演じることが多いですが、ハマりますよね。
なかなか他の人ではこの感じは出ません。
強い人にボコボコにされているときの情けない感じはこの人ならではです(褒めてます)。

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