2024年1月31日 (水)

「パウ・パトロール ザ・マイティ・ムービー」小さくても活躍できる!

「パウ・パトロール ザ・ムービー」から2年を経ての続編となります。
前作はちょうど娘がNetflixでシリーズを夢中になって見てたので、劇場版も一緒に観にいきました。
今は娘も小学生なので「パウ・パトロール」は卒業してい他のですが、劇場で予告編を見たところ「行きたい!」となり、本作も一緒に鑑賞です。
「パウ・パトロール ザ・マイティ・ムービー」ではメンバーの一人、チェイスが主人公の扱いでしたが、本作では女性メンバー、スカイが主人公です。
前作レビューの時に他のメンバーのエピソードも見たいと書いたのですが、その通りになりました。
また本作で大きく変わっている点は、パウ・パトロールメンバー自身が、それぞれ特殊能力を得たということですね。
今までは特殊なメカ・アイテムを使って人々を助けていたパウ・パトロールでしたが、この変化によりスーパーヒーローもののような要素が入ってきたと思います。
今までの知恵と勇気でなんとかする感じも嫌いじゃなかったので、万能感のあるスーパーヒーローになった時、話が変質するのではないかと危惧もしました。
前作ではチェイスが幼い頃のトラウマを克服していく様が描かれており、子供向けのアニメでありながら、キャラクターをちゃんと掘っている印象がありました。
本作では主人公は体が小さいスカイとなり、彼女の抱えるコンプレックスがテーマとなります。
彼女は生まれつき小柄で、そのため引き取り手もなかったというコンプレックスがあります。
パウ・パトロールに加わり、活躍の場を得られていますが、それでも他のメンバーに対して小柄なことにより、できないことも多々あるわけです。
本作では彼女がそのコンプレックスを事件を通じて克服していく様が描かれます。
自分自身を認められるようになっていくのですね。
前作でメンバーに加わった女性メンバーであるジャネットにもスポットは当たっており、他のメンバーに比べてスキルがない彼女が、彼女らしいチームへの貢献の仕方を見つけていきます。
その点で、キャラクターをしっかり描きたいという前作のポリシーはしっかり受け継がれているなと思いました。
小柄だったことをマイティ化することにより安易に解決するようには見せてほしくなかったのですが(それが冒頭で書いた危惧)、そこは制作者側も意識して、安易であると捉えられないよう丁寧に描かれているように感じました。
マイティ化したことにより、アクションシーンは前作よりも一層派手になって見応えは増したと思います。
主人公をスカイにしたことにより、空中戦なども描けるようになったことも派手さに貢献しているかもしれません。
基本子供向けのアニメーションではありますが、ストーリー的にも子供でもわかるメッセージがあり、一緒に見るアニメとして良質に出来上がっていると思います。

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2023年12月30日 (土)

「PERFECT DAYS」木漏れ日

2023年最後に鑑賞したのはヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演の「PERFECT DAYS」です。
ヴィム・ヴェンダースの作品は久しぶり。
主人公の平山は公衆便所の清掃を生業としている男。
平山は非常に几帳面に仕事を行い、毎日規則正しく暮らしています。
彼の1日は早朝の近所の箒の音で始まり、几帳面に布団をたたみ、缶コーヒーを一本買って仕事場に向かいます。
いくつかのトイレを丁寧に掃除をし、昼間は決まった神社で木漏れ日を見ながらコンビニのサンドイッチを食します。
仕事が終わった後は、銭湯で風呂を浴び、その後行きつけの一杯飲み屋で食事をし、そして帰宅後は古本屋で買った小説を読んでから就寝。
本作はこのような規則正しい平山の生活を追っていきます。
何も起こらない映画、と言えるかもしれません。
平山がどのような人生を送ってきたかは本作では語られませんが、何かから逃げてきて、今のような生活に行き着いたように思えます。
何も起こらないというのは、彼にとって幸せで完璧な日々なのでしょうか。
タイトルロールの後に「木漏れ日」という言葉がスクリーンに映し出されます。
その意味も書いてあって、木の葉が重なり合って変化する光であって、同じものはないとありました。
この木漏れ日は劇中でも何度も触れられていて、平山は昼休みに木漏れ日の写真を撮るのが日課となっていました。
平山の繰り返される日常も一見、同じように見えながらも、全く同じではありません。
突然同僚が辞めてしまったために二人分の仕事をしなくてはならず、疲れ切って夜帰った後は、いつもの通り明日の準備をする前に眠ってしまったり。
同僚が好意を寄せる若い女の子に、突然ほおにキスをされたり。
突然、姪が訪れて、彼女を仕事に連れて行ったり。
同じように繰り返される日々の中にも木漏れ日のような変化があります。
お休みの日には必ず行きつけのバーに顔を出しますが、そこのママの元夫が末期の癌だと知った時、彼は繰り返す日常も終わることがあるということを突きつけられます。
どういう生き方が完璧なのか、それはその人自身が決めること。
同じような暮らしの中でも、木漏れ日のような変化が彩りを加えます。
穏やかだけど完璧な日々。
それも終わる時が来る。
それを思いながら、平山は微笑み、そして涙を流したのでしょうか。

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2023年11月 7日 (火)

「北極百貨店のコンシェルジュさん」欲望の反対側にある場所

絵本のようなシンプルなタッチでほのぼのとした印象のアニメーションです。
最近のアニメーションとは異なっていて、こういうのもホッとしますね。
舞台となるのは動物向けの百貨店で、主人公はそこの新米コンシェルジュの秋乃。
このデパートでさまざまなエピソードが繰り広げられるわけですが、上映時間は1時間10分。
最近の映画の中では異例の短さですが、そのように感じさせないほどエピソードは密度がありました。
本作はジャンルで言えばお仕事ムービーで、新米コンシェルジュの秋乃が次第に成長していく様を微笑ましく見ることができます。
秋乃は色々つまづいて落ち込むことはあるけれど、基本的に仕事には前向きで一生懸命。
彼女がお客様を思う気持ちは本物で、彼女の頑張りを見ていると自分も仕事を頑張らなきゃという気持ちにさせてくれます。
同僚のコンシェルジュたちの仕事っぷりも見事で、まさにプロという感じ。
仕事に前向きに挑む気持ちにさせてくれる良作です。
絶滅した動物のための百貨店ということで本作はファンタジーではありますが、なぜこのような設定なのだろう?と途中で思いました。
しかし、その答えは終盤にありました。
この百貨店のオーナーが「ここは欲望の反対側にある場所」というようなことを言っていました。
本作で幸せそうに買い物をする動物たちは全て人間に絶滅させられました。
人の欲によって滅ぼされたのです。
そしてデパートという場所は、欲しいものがなんでも手に入る、欲望が叶うところです。
我欲で動物たちを滅ぼしてしまった人間が、絶滅した動物たちのために奉仕するのが、北極百貨店。
けっこうなアイロニーではあります。
物語の中でカスハラ的なお客様に困らせられるエピソードがあります。
経験の浅い秋乃は土下座をして場を納めようとしますが、ベテランのコンシェルジュは毅然とした対応をします。
お客としてリスペクトしながらも、他の人の幸せな気持ちまで奪うことは認められない。
我欲ではなく、皆が幸せな気持ちになることを大切にする。
本当はそうあるべきで、そうであれば世界はもっと平和なのだよな、と思いました。

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2023年10月15日 (日)

「ホーンテッドマンション」記憶にございません

ディズニーランドのアトラクション「ホーンテッドマンション」の映画化作品。
映画になるのは今回が実は2回目で1回目はエディ・マーフィ主演だということなのですが、さっぱり観た記憶はありません。
ディズニーランドのアトラクション自体は子供でも楽しめる程度の怖さなので、本作もその雰囲気は引き続き持っていると思います。
ただ「アダムス・ファミリー」のようなホラーコメディと言えるほどコメディでもなく、エッジが立っているわけでもないので、あまり記憶に残る作品ではありません。
正直言わせていただきますと、前半はすっかり眠気に誘われてしまい、あまりに記憶にございません。
実はこの2作目は当初ギレルモ・デル・トロが脚本・監督を務めることになっていたそうで。
彼の脚本はファミリー向けにしては怖すぎる(そりゃデル・トロだったらそうだろう)ということで、却下になったようですね。
デル・トロ版、ちょっと見たい気がします。
そっちの方が記憶に残るような気がします。

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2023年9月17日 (日)

「映画 プリキュアオールスターズF」友情は永遠

今年で「プリキュア」シリーズは20周年。
娘と一緒に見るようになってからもう5年です。
「仮面ライダー」と「スーパー戦隊」はずっと前から見ているので、それに「プリキュア」が加わり、ニチアサは1時間半テレビの前に座ります。
「プリキュア」を見るようになって感じるのは、このシリーズは女児向けではありますが、描いているのは友情や、夢、願いなどの前向きな想いだということ。
プリキュアたちは強い敵と戦い傷つくこともありますが、彼女たちを支えているのは、そのポジティブな想いです。
それはずっと変わりません。
タイトルにある「F」の意味は友情(Friends)であり、絆は永遠(Forever)ということのようです。
思い返せば「プリキュア」シリーズの第1作は「ふたりはプリキュア」です。
第1作目からプリキュアは複数であり、ですから彼女たちの友情がテーマであったわけです。
仲が良くとも意見がぶつかることもある。
けれどもお互いの絆があるからこそ頑張れる。
相手を思いやれる。
まさにその「プリキュア」シリーズが大事にしているポジティブな想いをテーマに作った20周年記念作品なわけですね。
20周年ということで、本作には歴代のプリキュアたちが登場します。
なぜかプリキュアたちは異世界に突然送り込まれてしまいます。
いつもの仲間たちの行方は知れず、そして他の歴代のプリキュアのメンバーと出会います。
彼女たちは戸惑いながらもいつもと違うメンバーとチームを組み、何か秘密がありそうな城を目指します。
彼女たちはその旅の中で、別れてしまったメンバーたちとの友情を改めて強く持ち、そして新しいメンバーとの絆も深めていきます。
プリキュアの敵となるのは唯一にして全ての存在で一度プリキュアたちに勝っています。
それの力は究極的であり、全てのプリキュアたちの力を合わせても敵いません。
プリキュアたちはそれぞれパワーを持っていても完璧な存在ではありません。
得意なことも不得意なところもありますし、性格も様々です。
けれど違った人間が集って想いを一つにすることにより、それぞれの力を活かし、増幅することができます。
考えてみると「プリキュア」の必殺技は、メンバーが力を合わせて繰り出すものが圧倒的に多いです。
誰かの力だけで勝つことはほとんどない。
力を合わせているからこそ勝てる。
最後の決戦でもプリキュアたちは何度も倒れます。
そこにフラッシュバックのように映し出されるのは、かつて彼女たちが通ってきた友情、絆の記憶。
その想い。
一緒に通ってきた記憶があるから、相手を大切に思える。
それが彼女たちに力を与える。
まさに周年企画にふさわしい「プリキュア」の根幹のテーマを真正面に捉えた作品となっていたと思います。
映像的にも最初からバトルは炸裂していましたし、作画は少々荒っぽいところもなくはなかったですが、よく動く。
アクションのキレも物語のテンポもよく、コンパクトにまとめ上げていたと思います。
一緒に行った娘は早速2回目を見たいと言い出しています。
映画を見に行って驚いたのは、小さな男の子二人兄弟で見にきていた子がいたこと。
最新のスカイプリキュアでは初のレギュラー男の子プリキュアが出てきていますが、男の子のファンもいるのですね。
でも、テーマは友情、勇気ですから男の子が見ても元気が出る作品ですよね。
こういう子もどんどん増えてくると思います。

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2023年9月10日 (日)

「バービー」自分らしく生きる

オープニングでいきなり「2001年宇宙の旅」のパロディだったので驚きました。
有名なこのシーンはモノリスが影響を与えることにより、人類が類人猿から進化したことを表しています。
獲物の骨で遊んでいる間に、それを「道具」として扱うことに目覚め、放り投げた骨が宇宙船にオーバーラップしていく場面は映画史に残る名シーンです。
本作においては、無心に人形でおままごとをして遊ぶ少女たちが、それらの人形を「2001年」の類人猿の骨のように叩き壊すというパロディになっています。
おままごとというのは、赤ちゃんをお世話をする母親をロールプレイしている遊びともいえます。
人としてはこの行為は自然ではあるのですが、人形遊びの人形を与えるということは、子供に良き母親になるようにという役割を与えているともいえます。
現代は様々な生き方があり、多様な価値があるというコンセンサスがあり、ステレオタイプは役割期待は押し付けになります。
少女たちがこの押し付けの役割期待を破壊し、新たな生き方を見つけ出すということを象徴しているこのシーンは極めて現代的です。
そのような彼女らに影響を与えているのは、なんとバービー。
これらはバービーという人形のコンセプトを表しています。
かつてのバービーは理想的な白人女性のアイコンのような存在でしたが、現在のバービーは様々な人種のバージョンがあり、また彼女たちはいろいろな職業のバージョンがあります。
「何にでもなれる」というのがコンセプトで、女性たちの多様性のある価値観、生き方を認めるものとなっています。
このような価値観で作られているバービーランドは、バービーたちにとって理想の国です。
彼女は自分の好きなこと、やりたいことを自由に選択し、生きています。
女性が解放されている世界です。
バービーには彼女の彼氏という立場でケンという人形がいます。
彼は実は何者ではなく、バービーの彼氏という立場しかありません。
彼はそれに疑問を持たず、バービーと一緒にいることだけで幸せを感じていました。
この価値観は何かを感じさせませんか。
これはかつて女性に押し付けられていた価値観です。
よき妻であれ、よき母親であれ。
ケンに押し付けられたのは、よき彼氏であれです。
ケンはバービーと共にリアル世界に行き、まだ男性至上主義が罷り通っている世界を見、衝撃を受けます。
自分が何ものであるのかという疑問を初めて持ったのです。
これはかつて女性が相対した疑問です。
現実世界で、女性登用を進めようという流れがありますが、女性というだけで優遇されるという状態も起こっている時があります。
これは本来的には問題の捉え方として間違っていて、女性だから男性だからというのを抜きにして、その人だからということを評価するべきであるのです。
ケンがバービーたちに叩きつけたのは、女性の楽園が全ての人にとっての楽園ではなかったということです。
かつて女性ばかりがステレオタイプな役割を押し付けられていました。
それが次第に改善されつつあるものの、まだまだ道途上であることも確かです。
しかし、究極的に目指すべきなのは、女性であろうと男性であろうと関係なく自分らしく生きられる世界です。
非常にセンシティブで議論を呼ぶ話題ですが、それをユニークな世界観とコメディタッチで、ソフトにくるみつつ、しかしエッジは効かせて、うまく表現した作品であると思いました。
バランス感覚がしっかりしていないと崩壊しそうな恐れもありますが、非常に巧みにまとめられていたと思います。

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2023年3月12日 (日)

「フェイブルマンズ」映画の力

スピルバーグ初の自伝的作品と宣伝されている作品で、鑑賞する前は彼が映画に魅せられ、両親らに見守られながら、その道を歩んでいくという家族のハートウォーミングな作品かと勝手に思っていました。
冒頭だけはそのようなテイストのように感じられもしましたが、何か不穏な雰囲気が最初から漂います。
父親も母親も二人とも子供たちのことを愛しています。
彼らは正反対の性格、価値観を持っており、それで互いに惹かれ合い愛し合ってもいますが、何か根本のところでは通じきれていない感じもします。
二人の関係の微妙な危うさが最初から漂っているのです。
母が時折見せる乾いたような顔、父親の親友であるボビーに対して見せる屈託のない笑顔、愛する妻を敬うように接する父親、そして彼の顔に浮かぶ不安そうな表情。
それらは普段の生活ではあまりに何気なく、それゆえ誰も気づかないようなものです。
しかし、後半で主人公のサミーが自身で言うように「カメラはありのままを写す」のです。
些細なこともフィルムは定着させる。
それは残酷な真実も定着させる。
結果、サミーが偶然に撮影してしまった母親の真実の気持ちを写し込んだフィルムは、彼の家族を崩壊させてしまいます。
このように先ほどあげた「カメラはありのままを写す」という言葉は真実であり、それは暴力的とも言える力を持っていますが、またそれだけではありません。
映画には撮影するということのほかに、編集するという要素もあるのです。
カメラはそのまま写すかもしれませんが、編集には人の意思が入ります。
ストーリーを、人の感じ方をコントロールすることができるのです。
後半のプロムの場面で、サミーは撮影した卒業ムービーを披露します。
そこの中ではサミーを目の敵にしていた男子生徒ローガンはまるで英雄のように描かれます。
皆はローガンのことを喝采しますが、彼自身は屈辱を感じてしまいます。
自分自身がフィルムの中で描かれたほどではないことを彼はわかっていて、そうであることをサミーもわかっていることに気づいたわけです。
サミーが「あえて」そのように編集したことに侮辱を感じたのですね。
編集により人の感じ方をコントロールする、ということもまた暴力的な力を感じます。
母親の事件、そしてプロムの出来事を通じ、サミーは映画の持つ暴力性に気づいたのだと思います。
終盤で彼はフォード監督に映画監督なんて心がボロボロになる仕事なのに、それでもやりたいのかと問われます。
しかし、彼はやりたいと言います。
彼は両親の血を強く引き継いでいます。
母親は「心を満たさなければ、別の自分になってしまう」と言い残し、家族の元を離れました。
父親も自分の仕事に意義を強く持ち、そのために家族を犠牲にしてしまいます。
この一族は自分らしくしか生きられない、という血を持っているのでしょう。
中盤で登場するおじさんは「芸術と家族」の板挟みに合うかもしれないと予言をしました。
まさにサミーはその予言通りの道を歩みます。
母親は彼の元を去る時に「自分らしく生きるように」と言い残しました。
その言葉通り、彼は自分がやりたいことをやっていくという修羅の道を歩み始めたのです。
本作はスピルバーグの自伝的な作品ということで、描かれてた出来事は本当に彼の人生に起こったことかどうかは私はよくわかりません。
しかし、彼が映画というものをどう捉えているかということについて非常によく伝わってきました。
それは私が想像していたものよりも、非常に激しいものであったことに驚きを感じました。
この目線で彼の作品を見直したら、違ったように見えてくるかもしれません。

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2023年2月23日 (木)

「#マンホール」主人公への共感の逆転

主人公がある危機的な状況下に置かれて、そこから必死の脱出を図るワンシチュエーション・スリラーには、[リミット〕など傑作が多い。
映画としてはシチュエーションが変わらず、画的に変化が出しにくいという点では不利であるではあるが、そのような制約を凌駕するようなアイデアがあるところが、評価が高くなる理由だろうと思います。
本作「#マンホール」もそのようなワンシチュエーション・スリラーの一つとなります。
主人公川村は結婚式の前の晩、同僚たちによるお祝いの宴会の後、酔ったためかマンホールに落ちてしまう。
落ちる際に怪我を負ってしまったため、川村は自力ではそこから脱出できない。
彼は助けを求めるが、次第にこのような状況になったのは誰かが仕組んだためではないかと強く疑いを強めていく・・・。
本作でユニークなのは、現代らしくスマートフォンやネットの力を使って主人公が脱出を試みようとするところでしょうか。
大概このようなワンシチュエーション・スリラーの場合、携帯電話は早々に壊れたり、無くしたり、バッテリーが上がったりして使えなくなることが多いですよね。
万能アイテムなので、設定に制限を加えにくいということで真っ先に封印されるのだと思いますが、本作は違います。
自分が落ちた場所を特定するために、スマホのGPSを使ったり、情報を集めるために偽アカで、ネット民たちに情報を募ったり、今時の使い方で状況の打破を狙います。
しかし、便利さゆえの危うさも描いていて、スマホはすでにハッキングされていてGPSは狂わされていて、主人公はそれに気づかずミスリードされてしまいますし、利用としていたネット民は勝手に暴走し、コントロールから外れていきます。
自分で制御できていると思いきや、かえって翻弄されてしまうというのはネットではよくあることだと思います。
全てをコントロールできているという、自信は本作の主人公川村の特徴だと思います。
冒頭、彼は優秀な営業マンで人々からも人望が厚い人物として描かれます。
しかし、マンホールに落ちてからは徐々に彼の本質が見えてきます。
なかなか探しにこない警察には、かなり強い口調でクレームを言いますし、元彼女に対しても打算的な発言で自分の思い通りに動かそうとしています。
これは冒頭のイメージの人物とは印象がかなり違う。
この違和感が実は伏線になっていたのです。
本作を観ていると、最初はこの主人公を気の毒に思い、助けてあげたいと共感を持ちますが、次第に明らかになっていく彼の本質を見るに従い、徐々に彼から気持ちが離れていく気分になります。
見ている側の主人公に対する感じ方がいつしか真逆にさせていく展開が巧みです。
ラストは想像していない展開で驚きがあります。
主人公への共感が180度ひっくり返った上で、このラストは腹落ち感がありました。「#マンホール」

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2023年2月11日 (土)

「バビロン」デイミアン・チャゼルの映画観

バビロンとは古代メソポタミアの国バビロニアの首都であるが、退廃の都として語られることも多い。
本作がバビロンをタイトルにしているのは、映画がメディアとしてエンターテインメントとして立ち上がった黎明期の熱狂を言い表そうとしているからだろう。
本作は長尺でありながら、密度が高く、見るにもかなりのカロリーがかかる。
冒頭より不快なシーンが多く、気力が萎えそうになるのだが、惹きつけるエネルギーを持った作品だとも思う。
なので、本作は色々な切り口で語られることが多いと思うが、私は本作が監督デイミアン・チャゼルの映画観を語ったものであると感じた。
本作で描かれている時代は、映画がサイレントからトーキーに切り替わろうとしていた時期である。
本作を見て改めて思ったのは、映画という芸術は他(絵画や演劇、音楽)と違いテクノロジーによってアップデートしていくというユニークな特性を持っているということである。
そもそも映画という芸術は、動画を記録することができるフィルムというテクノロジーによって生まれた。
最初はサイレント、次にトーキー、そしてカラー、最近では3DやCG表現などと、映画はアップデートしている。
このような芸術は他にはない。
また映画はこれもほぼ初めて大衆向けの芸術であるということもユニークである。
劇中でも語られるが、演劇はその場にいる者しか味わうことができず、そのため限られた層に向けた芸術であった。
そもそも芸術というのは限られた層しか味わうことができず、芸術が大衆化されたのは映画からと言ってもいいかもしれない。
また劇中でエリノアがジャックに語ったように映画は50年経っても、同じものを味わうことができる永続性を持っている。
演劇はストーリーは同じでも演者も演出も変わるだろうし、音楽も同様だ。
そして、最後に映画という芸術は一人で生み出すことはできず、非常に多くの人が関わるという点も他の芸術とは大きく異なる。
そのためビジネスという側面が非常に色濃くならざるを得ない。
デイミアン・チャゼルは映画という芸術の持つ特徴は永続性であると考えているのではないかと思う。
他の芸術と異なるのは、技法や表現が固定化されるのではなく、テクノロジーによってアップデートしていくという点だ。
ラストでいくつかの映画のモンダージュがあるが、ここを見ても監督がこの点を強く意識していることがわかる。
そして、そのため非常にシステムが大きくならざるを得ず、ビジネスの側面を色濃く持つ。
本作に登場する人物は映画が持つそのような特徴に翻弄される。
本作ではサイレントからトーキーに映画がアップデートされるが、サイレント時代のスター、ジャックは台詞回しを観客に失笑される。
ネリーは黎明期の熱狂の中では光り輝いていたが、次第にシステムとして強化された映画界では爪弾き者となっていく。
映画という芸術がアップデートされるときに、どうしてもその変化についていけず落伍してく者が現れる。
登場人物の一人マニーは映画という大きなものの一部になりたいと、業界に飛び込むが、映画に関わる人間は一部にしかなり得ない。
それはスターであっても。
エリノアはスターは概念であると、ジャックに語るが、スターであっても映画の一部なのだ。
映画という巨大な芸術において、関わるものはその部分の役割を担うことしかできない。
こうなると映画に対して、人は無力感を持つかもしれないが、それでもあまりあるのが映画の永続性と大衆性なのだと思う。
ラストシーンで多くの人が映画を見て楽しんでいる。
古い映画を楽しむ人も多いだろう。
関わった映画が、時代を越え、場所を越え、多くの人に影響を与えている。
たとえ部分であっても、そのような映画に関われることが映画人にとってやりがいを感じることなのだろう。
最後にマニーが涙するのは、それを改めて感じたからではないだろうか。

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2023年1月 3日 (火)

「ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY」二つの価値観の相剋

2023年最初の映画鑑賞はこちらです。
音楽はほとんど詳しくない割に「ボヘミアン・ラプソディ」「エルヴィス」などミュージシャンを描く作品が好きなんですよね。
彼らの人生は非常に波瀾万丈ですので、物語としてもドラマチックになるのだと思います。
しかし、このような映画を見ると、最高峰に登り詰めたアーティストの多くは、お金の問題やクスリの問題に直面しているものなのだと感じます。
アーティストとして注目されればされるほど一個人としては背負いきれな苦なってくるのかもしれません。
ホイットニー・ヒューストンはデビューの頃から、ジャンルにはとらわれない音楽活動をしてきました。
黒人なのに白人ぽい音楽だという批判は黒人からだと思いますが、これは自らのレッテル貼りですよね。
彼女は若い頃からそのようなレッテルとは無縁の価値観を持っていたようです。
また性的嗜好としても、若い頃は同性愛的な相手がいたことが本作では描かれていますが、彼女は結婚もして子供も授かります。
同性愛者だとか異性愛者であるというようなカテゴリーも彼女には無縁であったのでしょう。
すなわち彼女自身の価値観はとても自由でレッテルやカテゴリーは彼女にとっては意味がなかったのでしょう。
劇中でも彼女のセリフとして「自分らしく」という言葉が発せられますが、まさに彼女の価値観はここにあります。
自分のフィーリングだけで曲を選んでいたというのもここに端を発するのだと思います。
方や、彼女は自分に対する期待、役割を重視する側面もありました。
カトリック信者であったからか、こうあれねばならなぬという価値観から脱せないところもあったようです。
女性として妻として、母として、こうあらねばならぬという価値観がありました。
また両親からは「プリンセス」と呼ばれ、彼らの期待に沿わなければならないというプレッシャーも感じていました。
おそらく「こうあらねばならぬ」という価値観と、「自分らしくある」という価値観が彼女の中で混在し、コンフリクトしていたのかもしれません。
それが彼女の苦しみであったのでしょうか。
晩年は以前の彼女のようなパフォーマンスを期待され、それにそれに応えなければいけないというプレッシャーもあったのでしょう。
これも両親からの期待に応えなければ、という思いに通じるものがあったかと思います。
結局はそれが彼女を追い込んでいったように感じます。
ホイットニーは結局、麻薬との縁を切れずに、そのために入浴中に死亡してしましました。
そしてまた彼女の娘も同じようにドラッグで入浴中に亡くなったようです。

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