2025年12月12日 (金)

「ナイトフラワー 」家族の距離

「母は強し」と世に言う。
これはヴィクトル・ユーゴーの「女は弱し、されど母は強し」という言葉に由来する。
まさにこの言葉を体現しているのが、本作の主人公、夏希である。
夏希は小春と小太郎という二人の子供を育てているシングルマザーだ。
彼女は多額の借金を抱え、幾つもの仕事を掛け持ちしているが、食うや食わずの生活を続けている。
小太郎はヤンチャな盛りの幼稚園生だが、姉の小春はもう分別もつく小学校の高学年だ。
小春は家庭の事情もわかっており、決して母親に無理を言わない。
唯一大好きなバイオリンを続けるために、母親に内緒で小春は街角で演奏をして授業料を稼いでいた。
それを偶然見かけた夏希は自分の不甲斐なさに涙するのだ。
ギリギリの生活の中、夏希は偶然にも合成麻薬を手にし、それを売るバイヤーとなる。
彼女は至って普通の女性だ。
普通に生活していれば、暴力が支配する闇社会とは縁がない。
薬を扱うということは、それによる被害者を自らの手で生み出すということだ。
誰かの人生を破滅に導く手助けをしているかもしれない。
それでも夏希は売人となる。
自分は罪を背負うことになるだろう。
酷い目にあうかもしれない。
しかし、子供を育てていくため、子供に明るい将来を与えるために、自ら罪を負う。
まさに「母は強し」である。
夏希と並んで主人公に近い立ち位置の女性が多摩恵だ。
彼女は格闘家であるが、夜は風俗嬢として働くという生活を続けている。
その多摩恵は、ある日チンピラに暴力を振るわれた夏希を助ける。
その後、彼女は夏希のボディガードを買ってでて、二人でコンビの売人となるのだ。
なぜ多摩恵は見ず知らずの夏希を手助けしようとしたのか。
多くは語られないが、多摩恵は母親に捨てられた過去を持つ。
おそらく彼女はそのようなことから、自らが強くならなければ生きていけないと、格闘を行うようになったのだろう。
そして、多摩恵は夏希に自らは持つことができない母親を見たのかもしれない。
自分を犠牲にして子供を守ろとする母親を。
多摩恵にとっての理想の母親である夏希を守ろうと思ったのだ。
「家族になろう」と夏希は多摩恵に言う。
これはある意味、プロポーズだ。
多摩恵は夏希の家族とって、父親のような存在になる。
母親と子供たちを守る存在。
そして多摩恵も今まで得ることができなかった家族を得る。
夏希と多摩恵の間には友情でもなく、または恋愛感情でもないが、強い絆が生まれる。
まさに家族の絆である。
多摩恵を慕う幼馴染の海は、多摩恵の試合で交わされる彼女たちのアイコンタクトに自分が入り込めない絆を感じ、身を引くのだ。
四人で寝るには狭い部屋で、彼女たちは川の字で寝る。
肩を寄せ合って。
彼女たちは本当の家族ではないかもしれない。
でも心の様は本当の家族だ。
この物語にはもう一つの家族が登場する。
夏希が麻薬を売る女子大生の家族だ。
彼女の家は広々としていて、そこに両親と住んでいる。
しかし、彼らの関係は冷え冷えとしているように見える。
父親は娘が何をしているのかには興味がなく、母親を使用人のように扱う。
母親もそんな夫に何か口答えすることはなく、娘の素行を心配しながらも問いかけることができない。
そんな母親を軽蔑したような目で娘は見る。
裕福な家族ではあるが、家族の間の距離は離れきっている。
夏希の家族とは対照的だ。
娘は家を出て、麻薬に溺れていく。
この二つの家族、違うのは距離感だ。
多摩恵の試合で彼女がノックアウト寸前となった時、夏希は見ておられず目を逸らそうとする。
しかし小春は「ちゃんと見ないとあかん」と言う。
家族が歯を食いしばって戦っている姿を見なければいけないと。
目を背けようとする女子大生の家族とは違う。
また小春が同級生にいじめられバイオリンを壊された時、多摩恵は仕返しに行こうとするが、それを小春は止める。
お母さんが頑張っているのに、問題は起こしたくないと。
多摩恵は小春に「お前、強いな」と言う。
親が子供を育てるだけではない。
子供からも親は学ぶ。
小春の一言で夏希や多摩恵が気づいたように。
苦しくても、みっともなくても、それでも家族は全てを受け止める。
そして支え合う。
ゼロ距離で。
川の字のように。
夏希が育てていたナイトフラワーが最後に咲く。
夜にしか咲かないと言われいる花が、昼に咲く。
薄暗い社会の片隅でしか生きられなかった彼女たちが、ようやく明るい未来を持つことができることの象徴だろう。

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2025年8月24日 (日)

「映画 ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー 復活のテガソード」自由になるなずが不自由に

シリーズ49作目にて「スーパー戦隊」50周年記念の「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」。
今までも「ゴーカイジャー」などキリがいいところでの記念作品はあり、旧戦隊が登場するなどして大いに盛り上がりました。
本作でもそれらの作品と同じように旧戦隊が登場してきます。
しかし、正直言って個人的には「ゴジュウジャー」はいまいち乗り切れていないのです。
意欲的な作りをしていることは理解しています。
従来の型化しているようなスーパー戦隊フォーマットから離れようとしています。
型から解放されるのでストーリーとしては自由になるはずです。
実際いつもの怪人戦→巨大戦というフォーマットには従っていないストーリーになっていますし、戦隊メンバーも厳密にはチームとしての一体感はやや薄く、それぞれの思惑で動いています。
ただ戦隊である限りはチームは描かなくてはならず、自由とはいえロボ戦はやらなくてはいけないわけで、そうなるとフォーマットに沿わない形でそれらを描かなければならなくなっているからか、毎回四苦八苦しているように感じられるのです。
自由になるはずが、不自由になっているというか。
これは基本的には一話完結フォーマットであることは守っているということに起因しているのかもしれないですが。
「仮面ライダー」シリーズは一話完結にこだわっていないため、さまざまな型から自由になったことがいい方向に現れていると思います。
作りとしては王道であった前回作品「ブンブンジャー」の方が全体的なストーリーとしては一話完結は守りながらも大河的でもあり、うまくいっていたような気がします。
劇場版についてはそのようなテレビシリーズの苦しさをそのまま持ってきているようにも感じ、ドタバタしたまま終わってしまったという印象になりました。

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2025年1月 3日 (金)

「劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師」活きるキャラクターの魅力

2025年の1作目はこちら、娘のリクエストで「忍たま乱太郎」をセレクトです。
「忍たま乱太郎」がテレビ放映されたのが1993年ということで、自分はすでに社会人になっていたので強い思い入れはありません。
子供がNHKで見ているので、それを脇で見ているくらい。
10分の短いエピソードで、基本ギャグアニメというのが個人的な印象でした。
なので、子供のお付き合いという感じで見に行ったのですが、結構楽しませてもらいました。
後で知ったのですが、歴史があるからか「忍たま乱太郎」は大人のファンも多いとのこと。
確かに劇場では多くは私の家のように親子連れでしたが、若い人同士で来ている方も多かったように思います。
本作はテレビと違い長編なので、しっかりと人物とストーリーが描かているように思いました。
私は登場人物については見たことがある、といった程度なのですが、それでも本作に登場するキャラクターたちはどれも魅力的でした。
キーマンとなる土井先生は忍者としてキレものながら、飄々として生徒に対しても愛情を持って接している。
だから生徒たちにも慕われて、それが忍たまたちを行動を起こさせるきっかけになっています。
特に三人組の一人、きり丸は土井先生と同じように両親を失っているので、特に彼を慕っています。
いつもはお金に目がない少年ですが、土井先生のために奔走します。
彼らが戦で両親を失っているバックボーンはオープニング等で感じさせていて(血を見せずに彼岸花で見せる演出は素晴らしい)、それがあるからこそきり丸の気持ちが伝わっていきます。
個人的に好きになったキャラクターはタソガレドキ城の雑渡昆奈門ですね。
愛想がないように見えて、周囲がしっかりを見て気を回す。
それでいて抜け目がない。
こういうキャラが脇にしっかりいると物語が豊かになります。
その他にも魅力的なキャラが何人もいて、大人がファンになる気持ちがよくわかりました。
あと、見どころだったのがアクションシーン。
忍者ものなので、幾つも忍者VS忍者の立ち回りがありますが、そのどれもキレがあって見応えがあります。
忍たま六年生たちと天鬼の戦いは、圧倒的な天鬼に対して、それでも六年生たちが出せる力を振り絞って戦いました。
ギリギリで六年生たちが戦っている様が殺陣からも伝わって、さらにやられて痛々しいところも描いているので、アニメでありながら、肉弾戦のような感触も感じたアクションシーンでした。
後半の雑渡と忍たまOBの戦いも、雑渡の余裕を感じさせる立ち回りは美しさすらありました。
ストーリーとしても、アクションとしても各所に見所があり、正月早々いいもの見せてもらったという感じで幸先が良いです。

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2024年8月31日 (土)

「ねこのガーフィールド」ドタバタコメディ、最後にホロり

娘が見たいということで、お付き合いで鑑賞です。
オレンジ色のねこ、ガーフィールド。
見たことはある。
調べてみると、40年以上の歴史もあるねこのキャラクターとのこと。
「映画もあったような・・・」という朧げな記憶もあったのでさらに調べてみると、「ガーフィールド」「ガーフィールド2」と2作ほどありました。
これは実写と3DCGの合成らしい。
なので今回の作品よりもガーフィールドは少しリアルタッチのようですね。
さて、本作です。
感想書きたいところなのですが、すみません、何度か寝落ちをしてしまい・・・。
娘は楽しんでしたようです。
ガーフィールドは完全インドア派で、ソファに座ってテレビを見ながら、カウチポテトするのが大好きというキャラクター。
アメリカンな感じがしますね。
そのガーフィールドが、慣れない外に出ていって大冒険をするという話。
基本は伝統的なアメリカのアニメのようなドタバタコメディで、それに加えて親子のホロリとされるようなエッセンスが入っています。
大人にはちょっと物足りないかな。

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「夏目アラタの結婚」見るものを思い込みを裏切る

こちら試写会で鑑賞です。
主人公夏目アラタは児童相談所の職員ですが、児童との相談を重ねるうち、連続殺人犯からある秘密を聞き出さなければならなくなりました。
その殺人犯、真珠と面接をするも、彼女は得体がしれなく、その本音が引き出せません。
そのため、成り行きで彼女にプロポーズをしてしまいます。
<ここからネタバレあり>
アラタが真珠と初めての面接をした時、彼女がつかみどころなく、何を考えているかわからない印象をアラタも我々観客も受けます。
アラタのモノローグで、真珠のことをトラップをさりげなくかけてくるため、非常に頭が良いと評しています。
ここに本作最初で最大のトリックがあると思いました。
彼女の脈絡のない行動を見ていると、そこに実は裏があるのではないかと勘ぐりたくなります。
そこにはこのようなシチュエーションにふさわしいキャラクターを、見ている人たちはイメージしているのではないでしょうか。
そうです、「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターです。
ご存知のように彼は非常に頭が切れ、獄中に居ながらも、さまざまな謎を明らかにします。
また彼は檻の中から人々の心理を操ります。
そして真性のシリアルキラーです。
見ている側は知らず知らずのうちに真珠にレクターを重ね合わせ、彼女の行動・発言に全て裏があるのではないか、と考えます。
最後に明らかになりますが、彼女は最初から最後までまっすぐ出会ったのですね。
いつか、自分のことをちゃんと見てくれる人が、救い出してくれる、と思ってきた。
ただ、それだけ。
舞台挨拶の時、上映前だったのではっきりとした言い方ではなかったのですが、真珠を演じた黒島結菜さんが「真珠は最初から最後まで変わらない部分があるということを大事に演じた」とおっしゃっていました。
その時は、その言葉の真意がわからなかったのですが、映画を見終わった後に、わかりました。
人は他人を何かしらのレッテルを貼ってみてしまいがちです。
劇中でも真珠は「憐れんだ目で見るな、かわいそうって目で見るな」と言います。
そして「アラタだけが、お前は人殺しだ、と本当の自分をわかってくれた」とも言います。
彼女をサポートする弁護士は、彼女を保護されるべき人という目で見ます。
それもレッテルです。
そして彼女はレクターのような人物である、という見方もレッテルでしょう。
本作は、人は知らず知らずのうちに、レッテルを貼りながら人を見てしまうということを使った、メタなトリックがあると思ったわけです。
これはもう一度、見てみると真珠の行動・発言を貫いている彼女の気持ちが浮かび上がってくるような気もします。
同じく舞台挨拶で堤監督が、本作は今までの作品の中で最も編集に苦労したとおっしゃっていました。
見終わるとそれも理解できます。
ちょっとした表情を変えたり、カットを増やしたり、減らしたりするだけで、真珠の一貫性は保てなくなりそうなバランスの難しさがあるような気もします。
本作はサイコミステリーだと思わせておいて、ボーイミーツガールなラブストーリーでした。
真珠は部屋に入ってきた時から、アラタが自分を救い出してくれる王子様であると確信しました。
全てが見事に回収されて圧巻のラストであったと思います。

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2023年12月14日 (木)

「ナポレオン」肥大化したエゴ

アマゾン、アップル、ネットフリックスと最近はネットの配信大手が映画制作へ進出してきています。
マーティン・スコセッシやリドリー・スコットは旧来の映画映画業界に対し、ヒットが確実されるシリーズものなどへ傾注しすぎていると批判をしています。
そういう映画製作者の一つの受け皿として冒頭に挙げた配信大手がなってきているのでしょう。
劇場での興行が収入の主軸であれば、どれだけ動員できたかが業績を左右します。
しかし配信大手は配信が稼ぎの柱なので、旧来の映画業界よりもチャレンジングなことができるのかもしれません。
実際、アップルが製作したマーティン・スコセッシの「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」は大傑作でしたし、そのため同じアップル製作であり巨匠リドリー・スコットの「ナポレオン」には期待が高まりました。
しかし蓋を開けてみると、傑作とは程遠いできであったと思います。
主人公はかの有名なナポレオン。
フランスの激動期を生きた英雄。
地方出の小貴族ながら、フランス皇帝まで成り上がり、そしてまたその地位を追われたという激動の人生を送りました。
波乱に満ちた人生ですので、映画として非常にダイナミックなものになると予想していましたが、残念ながら単調な物語に見えました。
リドリー・スコットは英雄としてナポレオンを描くのではなく、エゴが肥大した男として彼を描写しました。
そしてまた彼は妻ジョセフィーヌの前では矮小な男にすら見えました。
彼の最後の言葉は「フランス、アーミー、ジョセフィーヌ」だったと言われます。
これらは彼の自己が肥大化した末に、自分と同一視したものではないかと思います。
フランスはまさに彼自身と同一化され、だからこそ皇帝となり、世継ぎが生まれないことが国の危機とさえ、彼には思えました。
またアーミー(軍隊)については、彼は軍をまさに自身の手足のように操り、類まれな戦術により多くの戦争で敵を撃破していったのです。
そして最後のジョセフィーヌは、彼はまさに彼女と一体であると感じていて、だからこそ思うように動かない彼女に対してイライラしながらも、離れることはできないという関係性になっていたのだと思います。
世継ぎが生まれないと状況では、彼はフランスという国か、ジョセフィーヌかという選択に迫られ、結果フランスを選びます。
劇中でも描写されたように、彼は泣く泣くジョセフィーヌと別れるのです。
まさに半身を切るようなことであったのでしょう。
ナポレオンは尊大でありながらも矮小である男であるというのは新しい視点ですが、それを語る語り口が淡々としていて抑揚がないのが残念です。

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2023年4月 6日 (木)

「映画 ネメシス 黄金螺旋の謎」ミステリーとしては乱暴

テレビシリーズは全く見ておらず、鑑賞しました。
キャラクターとそのバックボーンを知らないと少々ハードルが高いですね。
予告編で提示される、夢の中での殺人が現実に起こるという謎、それがどのように解決されるのかということに興味がありました。
ストーリーとしてはかなり複雑に作られていて、シリーズを見ていないということも加わって、理解しにくい部分も多々ありました。
映画の脚本は秦建日子さんということで、ドラマの時の「アンフェア」のような複雑さを感じます。
ドラマであればまだ追いかけやすいのですが、映画という限られた時間だと少々展開が乱暴な感じがします。
提示された謎の解決についても、SF的な要素を持ち込んでいるので、強引さが否めません。
ドラマの方もそのようなことなのかもしれませんが、ミステリーとして見ると、トリックとしては乱暴さは感じます。
ドラマを見ていないとキャラクターに感情移入する暇がない展開ですし、ミステリーとしての乱暴さもあり、結果終わりまで乗り切れないままでいってしまいました。

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2022年11月20日 (日)

「奈落のマイホーム」コメディ・ディザスタームービー

「犯罪都市」を見たときに、予告にかかっていた作品でして、それまでは全く予備知識なし。
マンションが住民もろとも巨大な陥没穴(シンクホール)に落下してしまい、そういった極限状況での住民たちのサバイブを描いた映画と見受けました。
マンション丸ごと巨大な穴に落下とは荒唐無稽とは思いましたが、韓国ではシンクホールはこの作品で描かれた程ではないにせよ、割と頻度高く発生しているとのこと。
日本ではあまりシンクホールは発生していませんが、東京で高速道路の地下工事の影響で大きな陥没穴ができたというニュースはありましたね。
予告だけの前情報だったので、見る前は「タワーリング・インフェルノ」的なディザスタームービーかと思っていました。
見始めるとちょっと勝手が違う。
主人公は新築のマンションを購入したサラリーマン。
韓国のソウルはマンションの値上がりがものすごく(前政権でもかなり問題になりました)、普通の人がなかなか手が届かない状況になっています。
ですので、住宅購入は人生の中でもかなり思い切ったイベントとなります。
シンクホールが発生する前の前半パートは割と長めで、主人公の同僚たちや住民たちのやりとりが描かれます。
それはかなりコメディタッチで、クセの強い登場人物たちが笑いと共に丁寧に描かれます。
この時点で私はこれはディザスター映画ではなく、それをネタにしたコメディだったのか、と思い始めていました。
しかし、後半シンクホールが発生してからは、次から次へと発生する問題に対し、住民たちが必死で対応していく様が描かれます。
これはまさにディザスタームービー。
自分勝手であった登場人物たちが、生き延びていくために、次第にその人の本質である善良さ、勇気、思いやりが露わになっていきます。
この手のディザスタームービーでは、人間の悪いところが明らかになっていくパターンが多いですが、その逆であることが新鮮でした。
頼りなさそうな平凡な主人公は息子を助けるために、単身マンションの下層へ進んでいきます。
クセが強かった隣人は、意外にもタフで、自分の身を犠牲にして皆を守ろうとします。
普段の生活からは見えないその人が持っている善良さ・勇気が彼らにパワーを与え、皆が協力してサバイブをしていきます。
前半でコメディ的に住民たちが描写されましたが、それが後半効いてきます。
後半も隙あらば、コメディは入れ込まれており、緊張感と笑いが交互にくるので見ていて飽きません。
思わぬ拾い物の作品でありました。

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2022年3月27日 (日)

「ナイトメア・アリー」因果応報

<ネタバレあり>
ギレルモ・デル・トロは、なかなか見ることはできないが闇の中に確かに存在するモノに対して非常に強い偏愛を持っている。
本作の闇は「人の心」だ。
人はそれぞれに心の中に隠している思いがある。
欲望であり、憎しみであり、それをそのまま発露させてしまうと醜悪な思い。
それを人は隠している。
主人公スタンはカー人バルで読心術を学び、それをショービズの中で活用してのし上がる。
その読心術を教えたピートはその危険性を知っていて、自分ではその技を封印していた。
読心術を使えば、人の隠された思いを明らかにし、そしてそれを使って人をコントロールすることができる。
人をコントロールできることを知ってしまった時、そのことは使うものに非常な優越感を与えることになる。
その危険性をピートは知っていたのだ。
スタンは登場してきた時は何かから逃げているような得体の知れない男だった。
しかし物語が進むにつれ、スタンが心の中にある憎しみや欲望に突き動かされている男であることがわかってくる。
独善的なこの男は、結局その技を人に使っていくことを躊躇わないようになっていく。
人の心の闇を開け、それを使ってコントロールする。
しかし闇から出ててきたモノは、怪物のようにその人を喰らう。
スタンが金のためにその術をかけた人々は、心から現れた怪物に人生を狂わされてしまう。
そしてその術はスタン自身の闇をも解放していくことになったのではないか。
自らの飲酒の禁を破り、ピートの戒めも無視し、スタンの欲望がどんどんと自身を食らっていく。
結局、スタンは人の運命を狂わしていく最大の罪である殺人も犯し、逃亡する。
結局辿り着いたのはカーニバルの見せ物小屋。
最初はスタン自身が憐れむように見ていた獣人として、彼は生きていくことになる。
まさに因果応報。
ラストカットのブラッドリー・クーパーの表情は最高。

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2022年3月13日 (日)

「ナイル殺人事件」人間としてのポアロ

2017年の「オリエント急行殺人事件」に続く、ケネス・ブラナー監督主演のポアロシリーズの第二作です。
前作でも最後にこの後ポアロはエジプトに行くと言われており、第二作目の示唆はありましたね。
アガサ・クリスティのミステリーには学生時代にハマり、長編・中編の作品はほぼ全部を読んだと思います。
ミス・マープルよりはポアロのシリーズの方が好みではありましたので、前作についても見に行きました。
ケネスのポアロはとてもしっくりとしたので、ぜひ続編でも見てみたいと思っていました。
原作の「ナイルに死す」は読んだのが随分前なので、あまり覚えていません。
「オリエント急行の殺人」はミステリー史に大きなインパクトを残すトリックがあったので、非常に強く印象付けられていましたが、「ナイルに死す」は典型的なアガサ・クリスティの作品であったという印象くらいですね。
ですので、割とフラットに鑑賞に臨むことができました。
意外だったのは、最初のオープニングです。
第一次世界大戦に従軍していた時のポアロが描かれます。
ポアロについては小説でも第一次世界大戦の頃は従軍していたこと、その後ベルギーで警察官を務めていたことは経歴として語られることはありましたが、当時の様子が描かれたことはなかったと思います。
ですので、少々驚きました。
あえて原作にないシーンを入れてきたわけですので、意図があると考えられます。
若きポアロはその頃より深い観察力と洞察力を持っており、それによって劣勢であった自軍が戦線を突破する術を見出します。
しかし、最後の最後で彼がひとつ見逃していたことにより、上官は死亡し、自身も大きな怪我を負います。
そんな彼を恋人が戦地の病院まで見舞いにきますが、その帰り道で彼女の乗っていた列車が攻撃され、彼女は命を失ってしまいます。
これらのエピソードが何を意味しているか。
アガサ・クリスティの作品における探偵は事件の登場人物とは一歩離れた位置をとっていることが多いです。
ミス・マープルは安楽椅子探偵ですので、人から聞いた情報だけで真犯人を見つけます。
ポアロは現場にはいますが、彼らとは距離を置いた位置におり、あくまで客観的に彼らを観察します。
彼は観察者ですので、彼の心情が深く描かれることはあまりありません。
しかし、本作では事件に巻き込まれ、真犯人を追うポアロはしばしば感情的に、執拗に尋問を行います。
これが小説のポアロとはちょっと違う点です。
よくよく考えると最近のミステリーは探偵そのものを深く描くことが多くなりました。
例えばベネディクト・カンバーバッチがシャーロック・ホームズを演じた「シャーロック」。
コナン・ドイルの原作は探偵ものの原点なので、クリスティのポアロと同様にホームズ自体はいつも客観的な立場をとっています。
しかし「シャーロック」ではまさに物語の中心にホームズがおり、彼を中心にストーリーが進行していきます。
ミステリーにおいて探偵のキャラクターを深く描くというのはトレンドなのかもしれません。
本作のポアロは「シャーロック」のホームズまでとは言いませんが、原作に比べてキャラクターが描かれていると思います。
冒頭の過去の話が語られたのは、ポアロが自分の灰色の脳細胞を極限まで活用しないと、そのことにより後悔をするかもしれないという彼の思いを表すため。
また人は愛のために何でもするという真理は、彼が愛するものを失ってしまったことによる悲しみを心の奥底に持っているから、彼は理解できる。
だからこそ彼はなりふり構わず、事件に挑み、真犯人を見つけ、犠牲者を増やさないようにしようとしたのでしょう。
ケネス・ブラナーのポアロは第3作も企画されているとのこと。
次回作でさらにポアロのキャラクターの深堀がされていくのでしょうか。

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