2025年3月16日 (日)

「知らないカノジョ」みんなカノジョに恋をする

あまり恋愛ものは見ない方ではありますが、予告を見た時のヒロインが何か気になって見にいきました。
そのヒロインのミナミを演じているのは、歌手のmiletさん。
本作が映画初出演となるそう。
あまり歌は詳しくないので調べたところ、「鬼滅の刃」の「刀鍛冶の里編」の主題歌歌っていた方なんですね。
さて気になっていたmiletさんですが、映画を見てみるとすごくいい。
これが初めての映画出演とは思えないほどに、演技が巧みでした。
本作は彼女の存在感で8割方支えられているような気がします。
本作では主人公の男性リクとヒロインの関係性が異なった時間軸で描かれます。
そのためヒロインは同じ人物でありながら、2つの人生を歩むわけですが、それぞれのヒロインがとても魅力的です。 片方はリクをサポートするために夢を諦めたミナミ。
朴訥としていて、リクを優しくサポートする姿は愛らしく守ってあげたくなるような雰囲気。
もう一人のミナミは、夢を諦めずにスターとなった彼女。
凛としていて、歌手として、女性としてオーラを放っています。 それぞれのミナミはリクに惹かれつつ、自分の夢とその愛を天秤にかけなくてはならず、葛藤をしています。
なんというか、そのミナミがとても切なく、愛らしい。 miletさんはそういったミナミを豊かな表情で描いていて、さらに魅力が増していました。
おそらく、多くの人が彼女に恋してしまうように感じるほどです。
正直、私もキュンとしました。
ミュージシャンの方が演技をされる場合は多々ありますが、本業ではないのに非常に演技の上手い方がいて、びっくりすることがあります。
演技と歌とパフォーマンスするものは違っていても、人の気持ちを表現するということでは共通しているところもあるのでしょうか。 これからもmiletさんが演技をする作品はチェックしないといけないですね。
物語もリクとミナミにとって切ない物語で、適度にファンタジー要素が入っていて、普通の恋愛ものとは趣が異なります。
次第にリクが自分の行いを見つめ、後悔をしながらも初めて相手のことを心底思い、行動する姿は心を打つものがあります。
クライマックスもとても良かったですよね。
二人は幸せになれるかどうか、確かめてみてください。

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2025年3月 9日 (日)

「セプテンバー5」メディアの責任

テレビが登場する前は、世界のどこかで起きた出来事を別の場所でリアルタイムに見るということは不可能でした。
それまではその場所に居合わせた人々の話を聞き、それを構成したものをメディアが伝え、それを一般の人々が知るという手順でした。
当然その情報は整理され、加工されているわけで、事実そのものとは異なることがあるかもしれません。
ただメディアはそれを避けるため、何十にもファクトチェックをし、その情報を発信していたのです。
リアルタイムで中継される情報は、リアルタイムであるが故に、ファクトチェックをする余裕がありません。
それは「生」の情報であるからその必要はないという考え方もありますが、カメラに映し出されている情報はカメラで切り取られているため、「すべての」情報が明らかになっているわけではなく、「一部の」情報であるという認識は持っていなくてはいけません。 何らかの意図を持って切り取る、ということもできないわけではありません。
また、ファクトチェックをしている暇がないということで、伝える側の憶測などが入ってくる可能性もあります。
本作でもスタッフの一部は他の情報源も確認したほうがいいと意見を述べますが、スクープという成果に目が眩み、勇足をしてしまいます。
それが世紀の大誤報につながってしまうのです。
テレビが当時すでに大きなメディアパワーを持ってしまったため、その影響は世界中に及びます。 さて、現代ですが、リアルタイムでの情報拡散はマスメディアにとどまりません。
「切り取り動画」というものも話題になっていますし、ファクトニュースという言葉が聞かれるようになっても久しいです。
メディアはまだファクトチェックという点では仕組みとして機能していますが(怪しいところもあるが)、個人においてはその限りではありません。
本作で起こったような出来事が、個人のライブ中継で起こりうる可能性は十分にあります。 個人それぞれがメディアとしての意識を持たなければいけない時代になったのかもしれません。

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2025年2月11日 (火)

「ショウタイムセブン」仮面の奥に触れてほしい

あるラジオ番組に男から電話がかかってくる。
男は発電所に爆弾を仕掛け、それを爆破すると予告。
主人公のアナウンサー折本は彼を挑発してしまい、そして爆破は実行された。
そこから前代未聞の爆破テロ犯とアナウンサーのやり取りの生中継が始まる。
企画としては非常に面白くなりそうなプロットです。
しかし、見ている途中から座りが悪い印象があり、それが最後まで続きました。
なぜなんだろう。
一つは主人公、折本が最初から終始仮面をつけているようで、その内面が見えにくかったことにあるかと思いました。
テレビカメラの前で彼が犯人と交渉し、追及する姿は当然、公平性を貫くキャスターとしての仮面を被っていると思います。
マイクを切ったり、カメラ前を離れた時に見せる野心的な部分も彼の本来の姿でしょう。
しかしいずれにしても見ていて側からすると鼻持ちがならない部分があるキャラクターであり、共感性は乏しい。
しかし、ラストで明らかになるように彼自身も秘密を持っている。
当然本人はその秘密を知っているわけで、次第に事件が確信に迫っていく中で、内面で葛藤はあるはずですが、それはあまり感じられない。
ですので、最後の告白もやや唐突感がありました。
さらには最後の「楽しかった」という発言も、そのような彼の性格があまり触れられていなかった(彼はずっとキャスターとしての仮面を被っていたため)ため、これも突然な印象が拭えません。
主人公が秘密を持っているプロットはどの程度、それを主人公の行動の中で匂わせるかはとても難しいと思いますが、この計算があまりうまくいっていない印象でした。
演出プランの課題のような気がします。
個人的な印象ですが、阿部寛さんはキャラクターとして一つの軸が通った人物を演じると、映画全体の芯となるような存在感が出てくると思います。
本作はこの軸がとても曖昧で、そのため仮面のキャスターとしての存在感ばかりが強く出てしまったため、共感性のないキャラクターが物語の中心になってしまった気がします。
そのため見ている側としては共感をする人物が探し出せず、私の感じたような座りの悪さを感じてしまうのではないでしょうか。
面白くなりそうな人間関係も描けそうだったと思うんですよね。
長年コンビを組んでいた伊東との間にも何かしらのドラマを作れそうでしたし、犯人との間にも共感と後ろめたさのようなものが描けたように思います。
人物の描き方がもう一歩踏み込めたら、より魅力的になったような気がします。
プロットは面白そうだっただけに勿体無い。

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2024年12月28日 (土)

「正体」間違いだらけのこの世界で

藤井道人監督の作品にはなぜか惹かれてしまう。
全ての作品を見ているわけではないですが、最近の作品だと「ヤクザと家族 The Family」「最後まで行く」「青春18×2 君へと続く道」を見ています。
それぞれ語っているストーリーもジャンルも違うのですが、何か藤井監督らしさというものが共通しているように感じます。
それぞれの作品の主人公は背負ってしまったものがあります。
それは一人で背負うには重すぎるもので、主人公はみっともない姿になりながらも抗い続けます。
その抗い続ける過程で主人公たちの本質が掘り下げられていきます。
そしてハッピーエンドとは言えない物語ではありますが、読後感としては何かしら希望を感じるように終わるのが、共通しているようにも感じます。
人間性を深く描くこれらの作品をまだ30代の藤井監督が撮れるなんて驚きです。
本作「正体」はまさに抗い続ける男の物語です。
主人公鏑木は殺人事件で死刑が確定した男。
しかし彼は刑務所から脱走し、名前を変え、顔を変え、逃亡を続けます。
彼が背負っている状況は、一人の人間が背負うにはあまりに重すぎる。
しかし、彼は一人だけでそれに抗います。
彼は逃亡していく先で、さまざまな人に出逢います。
人を避け名前も風貌も変えていますが、彼らしさは出てしまいます。
彼と接した人々は、彼の本質に触れ、彼が殺人事件の犯人だと知っても、彼を助けようとします。
彼らが希望です。
藤井監督の作品は見ている時は追い込まれていくようなとても辛い気持ちになります。
主人公に共感し、彼らが背負っているあまりに過酷なものを感じてしまう。
ただ彼らと一緒に争い続ける中で、希望の光も感じます。
本作のラストで彼を追い続けた刑事が鏑木になぜ逃亡を続けたか問いかけます。
鏑木は「この世界を信じたいから」と答えました。
それこそが希望です。
現実世界も非常に辛いことも多いですが、それでもその中に希望を見つけることはできるように思います。
そんな希望の輝きを印象付けてくれるのが、藤井作品であるように思いました。

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2024年12月27日 (金)

「小学校〜それは小さな社会〜」そこでみんな学んでいく

久しぶりにシネスイッチに行きました。
このところ、ずっとシネコンが多かったもので。
なぜわざわざシネスイッチまで足を運んだかというと、この映画を見たかったから。
本作「小学校〜それは小さな社会〜」について書かれている記事を見て、ぜひ見たくなりました。
その記事は監督の山崎エマさんのインタビューだったと思います。
監督はハーフで幼い頃は日本で暮らし、小学校の時は普通の公立小学校、中学校からインターに行ったとのこと。
その後、大学はアメリカで就職も向こうだったようです。
その際、向こうの人からはとても真面目で、時間に正確で、責任感が強いと褒められたということでした。
山崎さんは普通にやっているだけなのにと思ったそうですが、その時にこれは日本人全体に言える特徴で、それが育まれたのは小学校であったのではないかと考えたそうです。
それが本作を撮ったきっかけだそうです。
本作はドキュメンタリーである小学校の一年間を映し出します。
その中でも入学した一年生と、これから卒業する六年生の数名を主に追いかけます。
私の子供も小学校低学年ですが、学校の様子は事業参観の時くらいしか見ることはできません。
子供がどのように学校生活を送っているのかはなかなかわからないですよね。
ある一年生の男の子は入学したての頃は、先生の注意なんてあまり聞いていません。
けれど一年経って3月には先生の代わりに率先してみんなに話を聞いてって言えるようになるのです。
ある一年生の女の子は新一年生のための演奏で役を任されますが、練習をあまりしなかったため、上手にできません。
それを先生に厳しく注意されて、悔し涙を流します。
うまくできないのが怖くて舞台に上がるのも嫌になります。
それでも頑張って、見事演奏を終えた時の晴れがましい顔と言ったら!
この女の子が凹んでいる時にクラスメートの子たちはそれぞれ優しく声をかけてくれます。
お友達も素敵です。
ああ、うちの子もこんなふうに学校生活を送っているかな、と思ったら、泣けてきました。
六年生の男の子は運動会の縄跳びの演技が上手くできません。
彼は放送部で毎日話して入るものの、おそらく引っ込み思案なのだと思います。
相方の女の子がいない時はちょっと戸惑っていましたものね。
けど、彼も頑張って運動会当日まで練習し、しっかりと演技をやり終えました。
放送部の仕事も含め、彼もしっかりと責任感を持ってやり遂げたのです。
やっていることは大人からしたら大したことないかもしれません。
でも彼らは彼らなりに責任感を持って、努力をしてやり遂げているのです。
こういった小さな成功体験を学校生活で送っていくことで、冒頭に書いたような日本人の勤勉性などが培われていったのでしょうね。
本作では先生も描かれます。
子供たちへの指導の仕方に彼らもそれぞれ悩みます。
あえて厳しく接する先生、突き放してみる先生、そっとギュッと抱きしめてくれる先生。
色々な先生がそれぞれ子供たちのことをちゃんと考えてくれるからこそ、子供たちは小さなチャレンジを積み重ねていけるのだろうと思いました。
これをうちの子が見たらどう思うんだろう。
今度子供と一緒にもう一度見に行ってこようと思います。

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2024年11月22日 (金)

「スマホを落としただけなのに 最終章 ファイナル ハッキングゲーム」納得の着地点

予告を見てみたら東京にミサイルが発射されるなどのシーンがあって、ちょっとびっくりしました。
元々第1作目は、スマホを落としてしまう、という出来事から始まり、恐ろしい事件に発展していくということが描かれていました。
スマホを落とす、忘れる、というのは誰しも一度はやったことがあるようなことだと思うので、それが加速度的に恐ろしい展開になっていくので、サスペンスとしてとても自分事感があったと思いました。
そういう1作目は好きだったので、冒頭に書いたようなスケール感になってしまうと、無理やり続編を作るためにスケールアップしているようにも思え、ちょっと違うのではと感じたのが、予告を見た時の印象でした。
そのため期待度としては低めに設定していたと思います。
「スマホを落としただけなのに」はシリーズではあるのですが、主人公は変わっていきます。
一作目は犯人浦野に執拗に狙われてしまう女性、麻美。
二作目は浦野を追っている刑事、加賀谷。
そして最終作である本作は浦野が主人公です。
浦野というキャラクターは今までのシリーズでも描かれていたように非常に複雑な人物です。
自分の母親から虐待された経験から、母親に似た女性への執着心が異常に強く、また愛情を与えられなかったため他人を傷つけることに対しても禁忌がありません。
ただ人一倍孤独も感じているからか、自分と同じような境遇であった加賀谷に対しては、共感も持っています。
彼はモンスターでありながらも、人から愛されることに対して渇望している人間らしさも併せ持っているのです。
彼は、彼や加賀谷と同じように親に虐待された経験を持つスミンと出会います。
彼も、そして彼女も互いに同じ境遇であったことから、シンパシーを感じていきます。
本作は彼のそういった人間らしい側面に光を当てていき、複雑な彼の人物が立体的に描かれているように感じました。
このような作品がシリーズ化していく時にありがちなのが、極端なアウトローが次第に”いい人間”になっていくことがあります。
それはやや興醒めに感じる時があるので、見ている途中はそのような懸念も感じていました。
しかし、です。
ラストについては書けませんが、個人的には納得の結末でした。
伏線もうまく回収してきたと思います。
万事がうまくいくハッピーエンドは興醒めしてしまうので、非常にうまい着地点であったと思いました。

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2024年11月 9日 (土)

「十一人の賊軍」正義と正義の戦い

はみ出し者たちが勝ち目のない戦いに挑むという物語は「七人の侍」をはじめ時代劇に限られずいくつもありますが、燃える設定です。
彼らの運命は破滅に向かう予感が漂いながら、それでもそれぞれが信じるものに従って、生きる。
命を燃やし尽くすという生き様に心が揺さぶられるのでしょうか。
本作もそういう心揺さぶられる作品の一つとなると思います。
特筆したいのは、主人公の一人である鷲尾を演じる仲野大賀が素晴らしく良いです。
今まで数々の作品に出演していて、いずれでもいい味を出しているバイプレイヤーというイメージがありましたが、本作では堂々の主演です。
最後の戦いに挑むときのまさに鬼気迫ると形容できる彼の様子はまさに魂が揺さぶられました。
信じていたものに裏切られ、その上で自分の信念に殉ずる潔さ。
彼はNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」でも主演を務めることが決まっているので、これからも活躍が期待されますね。
本作の舞台となる時代は江戸末期。
異なる価値観が大きくぶつかり合う、激動の時代であり、多くのドラマが生まれています。
正義という言葉はどの立場に立つかで変わるもので、この時代も幕府側に立つか、新政府側に立つかで同じ出来事でも大きく見え方が変わります。
正義というものが立場によって変わるということを示しているのが、阿部サダヲが演じる家老溝口。
彼は小藩である新発田藩が激動の時代の中で生き残るために策を弄します。
彼は藩と領民を守るために動いているため、その立場から見れば正義と言えます。
彼は、彼が信じる正義のためであれば、人として非道であることも断行しようとします。
しかし、本作で描かれる決死隊から見れば、義を通さず、信を裏切る行為です。
彼らから見れば、溝口こそが悪であり、討ち果たさなければならない敵となります。
溝口から見れば、決死隊の面々は悪を成したものであり、最後にその命を正しいことに使うことは何も恥ずることではないと思っているのでしょう。
異なる立場からの正義のぶつかり合いが最後の戦いでヒリヒリとした緊張感のある肌触りとなっていました。

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2024年10月19日 (土)

「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」アイコン

<ネタバレ含みます>
社会現象ともなった「ジョーカー」の続編となります。
先行して公開されたアメリカでは、その賛否が話題になっていました。
賛否の内容は鑑賞前だったので読みませんでしたが、それなりの覚悟を持って見にいきました。
結果的に言うと、私個人としては本作は十分にアリであると思います。
確かにミュージカル的な要素も入っており、前作のジリジリとしたような感触もないので、そのままの雰囲気を期待した方には期待はずれだったかもしれません。
ただ、ジョーカー=アーサー・フレックという人物人物を深く描いていく、という点で本作は十分にその目的を達成できているように思いました。
前作で描かれたようにアーサーは「何者でもない者」でした。
才能もなく、誰からも注目されることなく、迫害されて生きてきました。
社会にとっても、誰にとっても、いなくなっても困らない存在。
それが前作で起こした一連の事件により、彼はカリスマとなりました。
一角の人物になりたかったという彼の願いは期せずして叶えられたのです。
一部の人々はピエロのメイクをし、社会を揺るがすようなことを行なった男を崇めるようになります。
その存在、ジョーカーは彼自身ではなく、はたまた彼の別人格でもありません。
彼は人として認められる存在になりたかったわけですが、結果的にはアーサーとしてではなく、ジョーカーとして認められしまったのです。
そのような中で彼はリーという女性に恋をします。
彼は彼女だけがアーサーという自分を認めてくれていると感じますが、真実は彼女が興味を持っているのはジョーカーでした。
アーサーは薄々それを感じつつも、彼女を手放したくない一心でジョーカーを演じます。
彼にはそれしか選択肢がありません。
祭り上げられたカリスマを演じる。
仮面を被りながら。
裁判所の公判でも、彼はジョーカーとして振る舞います。
そこが舞台かのように。
しかし、かつての友人の証言で彼は揺らぎます。
友人はジョーカーを自分が知っている本当のアーサーではないと言いました。
彼は人々が注目しているのはアーサーではなく、ジョーカーであることを悟ります。
そして、最後は彼は舞台から降りました。
人はアーサーを求めていたわけではなく、ジョーカーというアイコンを求めていたのです。
彼が仮面を外した時、彼を崇めていた人々は離れていきます。
リーも。
彼は再び、ただのアーサーに戻りました。
彼は意味のある存在になりたかった。
自分自身を愛してほしかった。
しかし、母親も誰も彼を愛することはなかった。
最後は結局彼はひとりぼっちとなりました。

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2024年10月13日 (日)

「侍タイムトリッパー」滅びゆくもの

「カメラを止めるな」の再来と呼ばれる「侍タイムストリッパー」を見てきました。
少数の劇場からスタートして、次第に大手のシネコンでも公開が始まり、私が見た時も公開からしばらく経っていましたが、かなり人は入っていました。
時代劇というジャンルは衰退期に入っています。
劇中でも言われていましたが、私が子供の頃は毎日のようにテレビでは時代劇が放送されていました。
私の場合も母親が時代劇好きで、学校から帰ってきたらおやつを食べながら再放送の「水戸黄門」やら「大岡越前」を見ていたのを覚えています。
ですので、時代劇というジャンルには個人的にも思い入れがあり、最近時代劇が少ないのはちょっと寂しい気もします。
本作の主人公高坂は会津藩士で、京で討幕を企む長州藩士の動きを探っていました。
長州藩士風見を討とうとした時、突然落雷に見舞われ、気がつくと高坂は現代にタイムスリップしていたのです。
彼はその事実に困惑しながら、偶然知り合った京都撮影所の助監督優子の助けを借りて、時代劇の切られ役として暮らしを始めます。
本作では滅びゆくものへの想いが語られているように思いました。
一つは時代劇です。
冒頭で書いたようにかつては毎日のように放送されていた時代劇ですが、今は斜陽。
それに関わっていた人々もそれは感じつつ、それでしか生きていけないという気持ちと、その文化を守っていきたいという思いを持ちながら生きています。
時代劇を離れるということは、それまでの自分を否定することにもなりますから、辛いですよね。
そしてもう一つは幕府を守りながら滅んでいった会津藩。
数々のドラマや映画で会津藩の顛末については語られています。
幕府に対する恩を感じ、衰退する幕府に殉じていった会津藩士たち。
時代が変わりつつあることを理解しつつも、それに抗った者たち。
時代劇にこだわり続ける人々と会津藩士たちには相通じるものがあります。
そしてその切なさを両方持っているのが主人公高坂なのですね。
高坂は会津藩が信じるものに殉じて滅んでいったことを知ります。
それはもう過去であり、変えることはできない。
そして自分が第二の人生で、愛するようになった時代劇。
それも滅びようとしています。
一つはもう取り戻せない。
自分は何もできなかったという後悔の気持ちが彼にはある。
しかし、もう一つは自分も抗うこともできるかもしれない。
そして、彼の宿敵として立つ風見は、会津を滅ぼした新政府軍の長州藩の藩士であり、そしてまた時代劇を捨てた男でもありました。
高坂は自分が失い、失いそうになるものを滅ぼし、捨てた風見が許せなかった。
それが最後の真剣での勝負につながります。
そして、剣を切り結ぶ中で、風見もまた多くを失ってきた者であるということを理解するのです。
言葉でなく、剣を通じながら相手を理解するという展開も胸が熱くなります。
お二人の演技も熱がありました。
時代劇の熱さを感じさせてくれる作品になっていたと思います。
斜陽と呼ばれるジャンルでも時折、このような熱くなれる映画が作られます。
西部劇などもそうですよね。
それが脈々と文化を繋いでいくように思います。

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2024年10月11日 (金)

「シビル・ウォー アメリカ最後の日」真の分断

社会的分断が課題として語られて数年、ちょうどアメリカは大統領選挙の年でさらにその点についてフォーカスされており、非常にタイムリーなタイミングで公開されました。
ただ本作は何かしらの政治的価値観が語られているわけではありません。
どちらかというと他人の価値観を受け入れられない社会となった場合、どれだけ人が不寛容になってしまうのかということを描いているように思います。
そしてその社会を良い悪いという価値観ではなく、客観的に描いているため、より一層リアリティが増して感じられます。
その語り手としての役を担うのが主人公たち。
彼らはジャーナリストであり、内戦のきっかけを作った大統領への単独インタビューを行うため、ワシントンを目指します。
主人公リーは実績のあるジャーナリストであり、常に客観性持つことを意識しています。
彼女は目の前でどれだけ凄惨な出来事が起ころうとも、冷静にその事実をカメラに収めます。
冷徹とも言えるかもしれません。
戦場カメラマンとして彼らは軍隊とともに活動しますが、本作を見ているとカメラマンと射撃主の使う言葉が同じであることに気づきます。
シュート、リロード・・・。
シャッターを切ることもシュート、引き金を聞くこともシュート。
カメラにフィルムを詰めるのもリロード、銃に弾丸を込めるのもリロード。
彼らはレンズを通して相手を冷静に見つめ、その姿を捉えるという行為は全く同じです。
彼らが目にするのは人間性など感じられない行為かもしれません。
それにレンズを向ける時、人間的な感情は持っては耐えられないのでしょう。
リーたちがワシントンへの旅の中で、排他的な価値観に支配された武装集団と遭遇します。
彼らの理屈は許容できるはずもないのですが、それが何の疑問もなく実行されているところに恐怖を感じます。
彼らは狂っているわけではなく、彼らの価値観において正しく行動しているだけなのです。
正しさというのは、それぞれ基準があり、その基準自体がずれてしまった時、なす術がないということが恐ろしい。
意見を調整するという余地もない。
調整する必要すら感じられていない。
これが真の分断なのでしょう。
結局本作の物語においては、分断を違憲のすり合わせで解決したわけではなく、暴力によって制圧したということになります。
制圧された大統領はファシスト的であったため、見ている我々としては正義が遂行されたように感じますが、もしかすると逆になっている可能性もあるわけです。
現実の世界でも中東は非常にきな臭くなっていますが、それぞれの正義が主張され、調整することなく力で決着しようとしているように見えます。
本作はフィクションですが、ありうる未来とも言えます。
これが現実とならないよう、異なる価値観にも寛容でありたいと思いました。

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