2017年1月 6日 (金)

「新宿スワン」 掃き溜めの白鳥

園子温監督の作品はあまり見ることがなかったのですが、こちらの作品「新宿スワン」をお正月休みに観てみました。
彼の作品で観たことがあるのは、テレビドラマの「時効警察」くらいじゃないでしょうか。
どうも園監督の作品はけっこうヘビーな印象があって、観るのにけっこう心理的にエネルギーが必要な感じがしていて、なんとなく避けてたんですよね。
今回については正月休みの時間があるときに、自宅で映画を観ようということになり、嫁の希望は綾野剛さんか山田孝之さんが出ている作品が良いということで、お二方が出ている「新宿スワン」にしようということになりました。
1作目はヒットもして続編も作られるという情報があったので、あまりえぐくはないだろうという読みもあり。
とはいえ歌舞伎町が舞台のスカウトマンの話なので、風俗の話などもバンバンでてくるので嫁と一緒に観ているとやや気まずいところもありましたが(笑)。
さて作品はというと、長尺の作品ではありながらも、想像していたよりもずいぶんと観やすい作品でした。
園監督はとっつきにくいというイメージがあったので意外ではありましたが、食わず嫌いでしたかね。
魅力的であったのは、綾野剛さん演じる主人公白鳥龍彦のキャラクターですね。
歌舞伎町のスカウトマンの話なので、登場人物たちは腹に一物を持っているような人間ばかりです。
ある意味、ゲスな人間が多く登場するわけですが、その中にあって龍彦だけが純粋に自分が世話をする女の子の幸せを考えて行動しています。
それは最初から最後まで変わらない彼の行動原理で、そのブレなさ加減が気持ちいい。
なかなか自分の思うようにならない世の中でストレスを持っていたり、自分を無理に合わせたりしている人(自分も含めて)が多い現代で、彼のブレない姿勢に爽快感を感じます。
汚れた街の中で、彼の気持ちだけは穢れない。
彼の名字の「白鳥」はその穢れなさを表し、名の「龍彦」は彼の生き方を貫くためのの激しさを表しているようにも感じます。
まさに歌舞伎町(掃き溜め)の白鳥。
この場合は見てくれの美しさというよりも、生き方の美しさというものなのですけれど。
彼自身は彼の生き方に深い考えがあってそう生きているわけではなく、もっとピュアで素直な気持ちなのですよね。
「バカ」とも言えるわけですが、そういうまっすぐさが気持ちいい。
2作目は劇場で観たくなりました。

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2016年12月26日 (月)

「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」 名もなき戦士たち

「スター・ウォーズ」シリーズ初のスピンオフ映画「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」を観に行ってきました(あれ、「イォーク・アドベンチャー」はどうなんだっけ?)。
一時期はもう「スター・ウォーズ」の新作を観ることはないと思っていたのですが、毎年のようにこのシリーズを観ることができるようになるなんて感慨深いですね。
「ローグ・ワン」の時代設定はちょうど「Episode4/新たなる希望」の直前の時期となっています。
ご存じのとおりEpisode4は帝国軍の究極破壊兵器「デス・スター」の秘密の設計図を手に入れた反乱同盟軍の反撃が描かれています。
そのオープニングにて、その設計図は反乱同盟軍のスパイが入手に成功したと語られているのですが、「ローグ・ワン」はそのスパイたちの知られざる活躍を描いているエピソードとなります。
「スター・ウォーズ」シリーズはフォースを持つジェダイたちを中心にストーリーが展開していきますが、本作はフォースを持っていない言わば普通の戦士たちが描かれているのです。
主人公ジンにしても、その他のローグ・ワンのメンバーも名もなき戦士たちですが、彼らは信じる仲間のために戦い、命を散らしていきます。
彼らが散っていくさまは切ないものなのですが、信じる者たちのために戦う彼らの姿には清々しさも感じます。
これはメインエピソードでは感じられなかった感覚であると思いました。
帝国軍と反乱同盟軍との大河的なドラマの流れの陰には、ローグ・ワンのメンバーたちのような名もなき戦士たちの数多くの戦いがあったのですよね。
これからもスピンオフシリーズはこのような人々にスポットライトを与えてもらいたいものです。

あとEpisode7のレンからそのような傾向が出ていますが、女性が活躍するエピソードになっていますね。
レイアにしてもアミダラにしても、重要な役割ではありますが、添え花的なセンスも強かったと思います。
しかしレンもジンも自らが行動し、運命を切り開く、ある意味「現代的な」女性として描かれています。
この傾向は今後も続いていくでしょうね。

「スター・ウォーズ」というと、印象深い戦闘シーンがあります。
Episode5の氷の惑星ホスにおける雪上でのスノー・ウォーカーとスノー・スピーダーとの戦い。
Episode6の森の惑星エンドアでのスピード感あふれるチェイスシーン。
本作では水の惑星スカリフを舞台にし、最後の戦闘シーンが描かれます。
常夏のリゾート地のような海岸をストームトルーパーたちが進撃する画は、ホスやエンドアに負けず劣らず印象的でした。

「ローグ・ワン」はEpisode4の直前の話ということで、様々な点でリンクがあります。
Episode4ではルークが駆るX-Wingがデス・スターのリアクターにプロトン魚雷を打ち込んで壊滅させるわけですが、初めて観たときから疑問に思っていたことがありました。
あれだけの究極兵器が一発の魚雷で破壊されるほどもろいものなのかと。
ま、物語上わかりやすくするためのことだと納得はしていたのですが、本作ではその疑問への答えが出されています。
「ローグ・ワン」のラストはEpisode4のオープニングにつながります。
デス・スターの設計図を持ったレイアが登場したスペースシップをダース・ベイダーが鹵獲する場面がありましたが、そこへリンクするのですね。

次のスピンオフはボバ・フェットにまつわるストーリーとのうわさもありますが、真偽のほどはわかりません。
わかりませんが、次も期待して待ちたいと思います。

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2016年12月14日 (水)

「ジャック・リーチャー NEVER GO BACK」 対照的なシリーズ


こちらトム・クルーズ主演の「アウトロー」の続編となります。
本作は監督が交代し、トム・クルーズとは「ラストサムライ」でも組んでいるエドワード・ズウィックがメガホンをとっています。
現在トム・クルーズが出演しているシリーズものとしては「ジャック・リーチャー」シリーズと「ミッション・インポッシブル」シリーズがありますが、同じアクション映画といいつつもテイストは真逆と言っていいように思います。
「M:i:3」以降の「ミッション・インポッシブル」シリーズは、ハイテク機器を駆使したチームワーク戦をスマートにスタイリッシュに描いているイメージがありますが、対して「ジャック・リーチャー」シリーズはローテクで一匹狼な戦いを、タフにワイルドに表現しています。
本シリーズのアクションの方がより肉体的な感じ、フルコンタクトな感じがしますよね。
一時期流行った華麗なアクションという印象でもなく、武骨で肉と肉、骨と骨が当たるゴツゴツとしたタッチがあります。
両シリーズともにトム・クルーズ自身がプロデュースしていますが、狙ってテイストの違いを出しているのでしょう。
トム・クルーズは自分が一定のイメージで固定されることを避けるため、自身で様々なテイストの作品をプロデュースしているのかもしれませんね。
前作の「アウトロー」はアクション映画でありつつもミステリー的な要素も強かったですが、本作ではその要素は薄らいできています。
その代わり本作はジャック・リーチャーと、その娘(だと言われる)サマンサの擬似的な親子愛にフォーカスが当てられています。
これはこれでいい雰囲気に仕上がっています。
ずっと一人で生きてきた不器用な男が、自分でも意外に思いながらも父性に目覚めていく姿をトム・クルーズは演じていたわけですが、今まで彼は父親というイメージが薄かったので、新鮮に見えました。
このシリーズ、流れ者が行く先々で人々と出会い物語が生まれるというところは、昔の西部劇を髣髴とさせる感じもあります。
原作は読んでいないのですが、これからも各地を放浪し、人と出会っていくという展開でシリーズ化もしやすそうですね。

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2016年10月31日 (月)

「SCOOP!」 執着心の帰結

「モテキ」「バクマン。」の大根仁監督の最新作「SCOOP!」は原田眞人監督の「盗写1/250秒」(1985年)という作品が原作らしい。
原田監督は好きでけっこう観ているほうだと思うのだけれど、「盗写1/250秒」という作品は聞いたことがない。
よくよく調べてみると、これは水曜ロードショー枠でオンエアされた「テレビ映画」のようだ。
「テレビ映画」というのは映画枠でオンエアされた長尺(2時間弱)のテレビドラマのことを以前はこう言っていたのですね。
最近はそもそも映画枠自体が少なくなっているので、こういったテレビ映画という言い方はしなくなっているに思うけれど、当時は映画のスタッフでこのような番組を作っていたようだ。
原田監督の若いときの作品なので、若手の発掘のようなセンスもあったのかな?(スピルバーグの「激突!」のようなものか)
大根監督はヒットした作品がわりと現代的でポップな印象なので、予告を観たとき本作は毛色が違うなと感じました。
どちらかというと昔の邦画が持っていたギラギラした感じが出ている作品のような印象です。
閉塞感というか、鬱屈感というか、路地裏の油がギトギトとした感じ。
最近の邦画はきれいなところばかりを映している感じがありますが(現代劇でもリアルというより現実味のないファンタジー的な感じがある)、昔の映画はもっとリアリティのある汚いところを映していたように思います。
誰かに作られた枠を壊そうと這いずりまわる人々を描くことこそがリアリティであるというような。
固く蓋をされてしまったエネルギーのマグマがふつふつと泡をふいているような暴発前の不穏な感じをかつての日本映画は持っていたような気がします。
作品ごとのカラーの違いはあるけれども、大根監督が描く人物は執着心の権化のようなところがあるようにも感じます。
「モテキ」の藤本は女の子にモテること、「バクマン。」の真城はマンガを描くことに執着します。
そして本作の主人公都城は写真を撮ることに。
まさに命がけで。
執着することは、人から見ればこっけいであったり、ばかげていたりするのかもしれません。
現代はそもそもそんな執着心、欲求がない人が増えてきている。
ギラギラしている人なんて見かけない。
失敗することを恐れるから、そもそも執着なんかしたくない。
執着心があるから自滅する、そう感じる人も多いかもしれない。
だからこそ大根監督はそういう執着心に支配された人に魅力を感じるのかもしれません。
リビドーにも似たエネルギーが暴発するような不穏さが感じられる作品でした(チョロ源はまさに暴発したとも言えます)。

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「スター・トレック BEYOND」 SFとしての「スター・トレック」

J.J.エイブラムスが「スター・ウォーズ」のほうで忙しかったからか、監督は「ワイルド・スピード」シリーズのジャスティン・リンに交替です。
ジャスティン・リンは「ワイルド・スピード」の中興の祖ですので、シリーズを引き継ぐ役割にはピッタリではないでしょうか。
出来上がった作品を観ても、いい人選であったのではないかと思います。
本作はリブートした「スター・トレック」シリーズとしては3作目に当たりますが、今までの中でもテレビシリーズの「宇宙大作戦」のエッセンスが色濃く出ているように感じました。
「宇宙大作戦」は毎回「宇宙、それは最後のフロンティア」というナレーションで始まります。
カーク船長以下のUSSエンタープライズのクルーが、惑星連邦の辺縁部を5年間調査航海している中で出会う出来事を描いています。
連邦から遠く離れているところを単独で航行しているため、未知の知的種族や生物、現象と出会うことも多く、その場合はいちいち本部に確認して事態に対応することはできないわけで、より船長やクルーの対応力・判断が重要になるわけです。
「スター・トレック」シリーズでは船長やクルーたちにスポットがあたるのはそのためです。
彼らは新大陸の発見のために勇躍した大航海時代の船乗り、探検家、外交官のようなものかもしれません。
またそこには未知のものへの好奇心、冒険心といったものも感じられます。
大航海時代、多くの科学者も船に乗り世界中を周り、新しいものを発見していきました。
エンタープライズのクルーたちは彼らに似ているように思います。
J.J.エイブラムスが「スター・ウォーズ」と「スター・トレック」の違いは何かと問われたときに、『「スター・ウォーズ」はファンタジーだが、「スター・トレック」はSFだ』と言ったという記事を読んだことがありますが、まさにその通りです。
「スター・ウォーズ」はルーカスが神話を研究してそのエッセンスをSF的な要素で描き直したということは有名ですが、これはこの作品がファンタジーであるということを示唆しています。
ですので「スター・ウォーズ」は基本的にドラマティックで情感的であると思います。
「フォース」というものが人の精神に由来する不可思議な力というところであり、これは「ハリー・ポッター」でいう魔法のようなもので、極めてファンタジー的であると言えます。
対して「スター・トレック」は未知のものへの探求心ということがベースになっており、もしこんな生物がいたら、こんな現象が起こったらという仮説に対して、どのように対応していくかということを描くというかなり理性的なアプローチを描く物語なのですね。
そういう点でサイエンス・フィクション(SF)的です。
今回の「スター・トレック BEYOND」はそういったこのシリーズが持つ本来的なSF的エッセンスが色濃く出ている作品であると感じました。
未知のエリアを航行しているときの正体のわからぬ敵の攻撃。
エンタープライズが大破しまうという状況の中、クルーたちは事態を把握し、その対処方法を探していきます。
事態に対して、持っているリソースでクルーたちが自分たちのスキルを駆使して、どのように解決していくかという理性的なアプローチが「スター・トレック」らしい。
本作のテーマとしてはUSSエンタープライズのクルーたちが戦うことがレゾンデートルである軍人ではないということにスポットがあたっているように思いました。
彼らは探検家であり、科学者であり、外交官です。
未知のものに出会い、相互理解を深めていくことにより、平和を築いていくというのが彼ら本来の役割であるということが描かれており、その点でおいても「スター・トレック」らしさが出ている作品であると感じました。
かといって娯楽映画としての見せ所もふんだんに用意してあるので、飽きることもありませんでした。

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2016年10月 3日 (月)

「スーサイド・スクワッド」 DCはメジャーになれるのか?

DCの悪人(ヴィラン)版「アベンジャーズ」と言ったところの作品。
コミックでDCと言えばマーベルと双璧の存在であるが、こと映画においてはその存在はマーベルに大きく水をあけられているように思える。
今年に入り「バットマンVSスーパーマン」の公開、続いて「ワンダーウーマン」も公開予定ということで、マーベル追撃の姿勢を見せているが、なかなか追いつくまではいけていないというのが私の印象だ。
この違いはどこにあるのだろう?
おそらくマーベルはスーパーヒーローものというジャンル系映画に興味を持たない人も取り込めているのに対して、DCはマニアックなオタク路線で展開しているということなのではないか。
言葉を替えれば、マーベルはスーパーヒーローもの等の素地がない人が見ても楽しめて親切なつくりになっているのに対し、DCはある程度ジャンルに対するバックボーンが求められるように思う。
マーベル・シネマティック・ユニバースは「アイアンマン」からスタートしたが、そもそもアイアンマンというヒーローはそれほど著名ではなかった。
しかしマーベルは主演にロバート・ダウニーJr.を起用したり、監督にはジョン・ファブローをあてたりとこのジャンルイメージとは違う布陣で挑んだ。
この布陣はジャンルムービーが持つマニアックさを抑え、メジャーな匂いがする作品にすることに貢献できたと思う。
このことにより、スーパーヒーローものはそのジャンルが好きな人々だけで楽しむというものではなく、それ以外の多くの観客に広く門戸を開くことに成功したと思う(一昔前はデートムービーにアメコミ映画を選ぶというセンスはなかったと思う)。
その後、他のマーベル・シネマティック・ユニバース作品でもマーベルはこのメジャー化戦略を推し進めていく。
また「アイアンマン」からスタートし、「インクレディブル・ハルク」「マイティ・ソー」「キャプテン・アメリカ」というようにユニバースを拡大し、「アベンジャーズ」としてフェイズ1をまとめ上げた。
アイアンマンにしてもソーにしても、バットマンやスーパーマンに比べれば当初はマイナーな存在であったのだが、マーベル・シネマティック・ユニバースを積み上げていくうちに、メジャーになっていた。
さらには全く知らないヒーローであっても、マーベルであるならばおもしろいと観客に思ってもらえるようになっていったと思う(「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」や「アントマン」等)。
いわば「マーベル」を信頼のブランドにすることができたのだ。
極めて「マーベル」は戦略的にマーケティングをしているようにみえる。
「スーサイド・スクワッド」の記事にもかかわらず、延々とマーベルの話を書いてしまったが、対してDCはどうか。
冒頭で書いたようにDCはマニアックすぎるアプローチをしているように見える。
本作をヴィラン版アベンジャーズと言ったが、これはかなり変化球な切り込み方だ。
確かにスーパーヒーローものでは悪役が人気となるケースは多くある。
本作にも登場するジョーカーなどはその筆頭だと思うが、そもそも悪役はヒーローがあってこその存在である(ヒーローは悪役あっての存在ともいえるが)。
なのでヴィランが主役の物語はあくまでサイドストーリーであるはずなのだが、本作の場合はサイドストーリーが先にできてしまったという感じがする。
アメコミマニアからすれば、デッドショットもハーレイ・クインもメジャーな存在なのかもしれないが、それほどこのジャンルに造詣が深くない観客からすれば「誰それ?」という感じだろう。
おそらく制作側もそれはわかっているからこそ本作で登場人物の背景を織り込んできたのだろうが、やはりキャラクターを魅力的に描くほどには踏み込めていない。
ジョーカーとハーレイ・クインの倒錯的な純愛は一本作れそうな可能性があると感じたのだが、本作の中ではダイジェストのような扱いであったので、少々もったいないと感じた。
DCもマーベルにならって、「アベンジャーズ」のようにヒーローたちの物語がクロスオーバーしていくジャスティス・リーグを展開していくことをもくろんでいくようだが、マニアックなアプローチのままだと大きなムーブメントにはなりにくいような気がする。
このマニアックなアプローチは本作の製作総指揮で入っていたザック・スナイダー(「ウオッチマン」「マン・オブ・スティール」)のセンスなのだろうと感じる。
「ダークナイト」のクリストファー・ノーランは作家性の強い監督であったが、マニアックではなかった。
作品の情報量は多かったがあくまでノーランがストーリーを描くためであって、マニアックなキャラクターを描くためではなかったと思う。
広い層をとっていくのか、マニアックな層をとっていくのかは、規模の大きいプロジェクトとしては大事なところなので、マーベルにならうだけではなく、DCの戦略が求められる気がする。
本作単体の評価として気になったところでいうと、ストーリーの組み立てが少々わかりにくい箇所がいくつかあった。
後半はスーサイド・スクワッドが派遣される事件について物語は展開するが、その直前にフラッグ大佐とジェーンが地下鉄に行くシーンから突然ジャンプしたように感じられた。
後で「実はそのとき・・・」的な描かれ方で補足されるのだが、少々わかりにくいように思う。

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2016年8月 7日 (日)

「シン・ゴジラ」 これってエヴァンゲリオン?

すでに観た周りの人の間では評判がいいらしい。
しかし、個人的にはこれは「ゴジラ」なのだろうか、はたまた「怪獣映画」なのだろうかとちょっと気にかかってしまった。

まずはおそらく多くの人が指摘しているであろう「エヴァンゲリオン」との類似性に触れたい。
監督が同じなので、作風が似ているのは当たり前ではあるのだが、自然とそうなっているのではなく意識的に行っているように感じた。
それを強く感じたのは、音楽である。
伊福部昭の「ゴジラ」のスコアを使っているところに庵野監督のオリジナルへのリスペクトを感じ、旧作ファンとしては嬉しさを感じたのではあるが、驚いたのは「エヴァンゲリオン」の楽曲を本作劇中で使っていたことであった。
「エヴァンゲリオン」の楽曲は個性的なものが多いが、その中でもとりわけ印象的なのはネルフが使徒迎撃作戦(例えばヤシマ作戦とか)を実行するときに流れることが多い、「ダンダンダンダン、ダンダン」という打楽器の出だしではじまるあれ(Decisivle Battel)である。
この楽曲は「シン・ゴジラ」では対策本部がゴジラに作戦実行を行う時に、しばしばアレンジを替えて使われている。
アレンジは変わっていても曲の印象は「エヴァンゲリオン」のそれと変わらない。
このことにより本作のゴジラ対策本部はネルフと同じような存在であるように見えてくる。
本作の対策本部は非常に官僚的でありつつも、ある意味の臨機応変さを持った現場力もある組織に見え、それはネルフとの特徴に一致する。
これは同じ曲を使うことによって意図的にそう見せようとしているように感じる。
対策本部=ネルフとするのであれば、ゴジラ=使徒という図式も「シン・ゴジラ」の中に見えてくる。
実際、今回のゴジラは第一形態から第四形態まで次第に進化していくが、これは使徒が第一形態→第二形態と進化する存在であったことを連想させる。
また本作のゴジラはなぜか東京を目指し、そしてその理由が何であるかは物語の中ではわからない。
「エヴァンゲリオン」においても使徒は第三新東京市を目指すが、当初はその理由は謎のままであった。
この点においても「シン・ゴジラ」と「エヴァンゲリオン」の類似性を感じる。
本作のゴジラは異質感をまとっている。
第一形態は得体のしれない気色の悪い姿をしていて、挙動も生理的に不快感がともなうが、これは人とは相いれない存在であることを意味しているように思う(ぎょろりとした目はこれもエヴァに通じる)。
これも使徒の形態が、従来の怪獣的なモンスターとは異なることによる、異質感を持っていることと通じるものがある。
本作でも最終形態は我々が見慣れた「ゴジラ」になっているが、まったく人間とは相いれないという点では変わらない。
もともとゴジラという存在は「荒ぶる神」と劇中で言われるように、人間とは相いれない存在ではあった。
が、それを傲慢となってしまった人類への神か、地球かからの警告であるという解釈をするならば、まだ人間とゴジラは近しい存在とも言える。
しかし、本作における「ゴジラ」は何も人類とのつながりを感じられない異質感というものが際立っている。
この異質感がエヴァにおける使徒に通じるように感じられてならない。

Photo

↑バンダイからこういうフィギュアも出るようなので、ゴジラ=使徒という図式はやはり意図的なものであるのだろう。

庵野監督は「エヴァ」で行っていたことを再度、ゴジラという題材で行っているように感じてしまうのだ。
そもそも「エヴァンゲリヲン」の劇場版の最終章はどうなるのかまるで聞こえてこない。
もともとのテレビシリーズの「エヴァンゲリオン」も明確的な物語の週末を描いていないのだが、劇場版の方も本当に終わるのかという疑問が残る(2作目のポジティブなトーンでこの監督は変わったと思ったのだが、3作目でやっぱり変わってないと思った)。
「シン・ゴジラ」にしても「エヴァ」的な思わせぶりな終わり方である(次回作があってもより「エヴァ」っぽい話になる予感がある)。
もしかすると庵野監督は物語を終わらせられない人なのではないか。
これは個人的な感覚でいうと、エンターテイメントの監督としては如何なものかとも思う。
まずは「エヴァンゲリヲン」をしっかりとまとめ上げてほしい。

ここからは個人的な好みの問題になってしまうのだが、自分が育ってきた世代の趣味でいうと、「怪獣映画」やその他のエンターテイメント映画に求めるものは、カタルシスなのである。
もちろんいろんな屁理屈を込めたり、思想が入っている映画を解釈する行為も好きなのだが(上記を見ればわかる通り)、でも怪獣映画にはカタルシスは求めたい。
「シン・ゴジラ」にはカタルシスはなく、見ていると「エヴァ」にも通じる閉塞感ばかりが強まっていく。
こういう閉塞感を自分は怪獣映画には求めていない。
個人的には怪獣映画のベストは平成「ガメラ」の第1、2作。
これにはカタルシスがあった。
もし怪獣が東京に来たらということをリアルにシミュレーションしたという点で平成「ガメラ」と「シン・ゴジラ」は同じであるが、目線が異なる。
「シン・ゴジラ」は圧倒的に政府サイドの目線で描かれる。
それは非常にリアリティがある描写ではあるのだが、ゴジラがモニター越しのリアリティがない存在のようにも見える(テレビで見る福島原発とか、地震の後の街の様子のような)。
対して「ガメラ」は中山忍演じる鳥類学者と螢雪次朗演じる警察官が一般人からの目線となっている。
ガメラやギャオス、レギオンへの一般人からの目線が描かれているので、それは別の意味でリアリティのあるシミュレーションになっている。
「ガメラ」で描かれている怪獣は自分ごと化できるが、「シン・ゴジラ」のゴジラは自分ごと化しにくい。
だから怪獣が倒された時もカタルシスがないのだ。

否定的なことばかりを書いてきたが、特撮パートはなかなか迫力があった。
今回のゴジラはCGで作ったと聞いているが、そうは思えないほどに着ぐるみ感が出ていた。
電車爆弾をゴジラに突っ込ませるシーンもCGなのでしょうか?
いい意味でミニチュア感がでていて、古くからの特撮ファンとしてはうれしかったです。

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2016年6月26日 (日)

「植物図鑑 運命の恋、ひろいました」 ファンタジーな恋愛

「図書館戦争」「阪急電車」などで知られる有川浩さんの恋愛小説「植物図鑑」の映画化作品です。
こちら有川作品の中でもベタ甘度が高い作品で、読んでいてもちょっと照れるところがありました。
基本的に甘い恋愛映画は得意ではないのですが、好きな有川浩さんの作品なので、観に行きってきました。
やはり、ベタ甘でしたね。
なんというか、これが現代女子の理想の恋愛なのかな。
主人公さやかと同居することになるイツキは、現代的な草食男子(で、イケメン)。
料理など家事もなんでもできてしまい、それでもって優しい。
男臭い野暮なところも一切なし。
はるか昔、男性の方が理想の妻に求めていたような理想像がイツキに現れているかもしれませんね。
理想の妻が本当にはなかなかいないように、こんな男性も滅多にいないと思いますが。
そういう意味ではファンタジーです。
劇場は意外に入っていましたが、ほとんどEXILEのファンかしら。
途中でさやかとイツキにキスシーンとか二人がいちゃつくシーンがありましたが、きゃーとか声をあげてましたから。
あと、女子が憧れそうなのが野草で調理する一連のシーンですかね。
こういうスローライフ的な生活に憧れる人も多いですが、実際やるとなるとなかなかこれはこれで大変。
現実的には難しいですよね。
こういうところもファンタジーだなあと思いました。
主演は高畑充希さんで、彼女は映画は初主演だということで。
演技は前からうまいとは思っていたので、主演ぶりは全く問題なしですね。
個人的にそれほど美人さんとは思っていなかったのですが、本作ではとってもキュートで可愛く見えたのですが、やはりこれは女優としての才能かな。

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2016年6月12日 (日)

「ズートピア」 多数決の怖さ

カウンターでパンフレットを買うとき「ズーラシア」くださいと言ってしまった。
動物園じゃないってーの。
本当のタイトル「ズートピア」は動物園(Zoo)とユートピア(Utopia)の造語ですよね。
この作品を観に行ったのは、時間が合うのがこれしかなかったからという極めて消極的な理由からであったのですが、見てみてびっくり、意外にもテーマがしっかりしていて、かつエンターテイメントとしても楽しい名作でありました。
見る前はいろんな動物が出てくるドタバタのエンターテイメントかと思っていたのですが、社会的な問題も内包していて意外と深い。
肉食動物から草食動物までが、平和に暮らしていける街というのが、ズートピア。
ある意味、理想郷ですよね。
観た方はわかると思いますが、これはメタファーみたいなもので、ズートピアは人間にとっての理想郷とも言えます。
あらゆる人種、文化、宗教、そういった壁を越えて、人々は仲良く暮らしていける街。
生まれながらの身分などもなく、差別もなく、みんなが自分がなりたい自分になれる社会。
人間が思い描く理想の社会がズートピアに表されています。
しかし理想郷に見えたズートピアで、行方不明事件が発生し、それが実は社会的な問題に深く根ざすということとなっていきます。
後半、ズートピアにおける少数派である肉食動物(ライオンやキツネ、ジャガーなど)は、その精神の奥底に野生を持っており、それがいつ爆発するかわからないということで、社会的な差別を受け始めます。
肉食動物たちの力は草食動物たちよりも何倍も強いものですが、圧倒的な人口の差により、肉食動物たちの居場所がなくなっていきます。
これはある種の差別です。
レッテル貼り、偏見です。
危険な行為をした肉食動物がいたとして、だからと言って全ての肉食動物が危険だとなぜ言えるのか?
冷静に考えばこういう疑問が出てくると思うのですが、社会的な流れができてしまうとなかなかそういう疑問は出てくることがありません。
このあたりが民主主義の根幹でもある(多数決)の怖さでもあるのです。
誰かがなんかおかしいと思っていても、それが大衆の数によってかき消されてしまう感じ。
ポピュラリズムの怖さとも言えましょう。
それを巧みに扱っていたのが、ズートピアの副市長であったわけですね。
よく考えれば、かつてのナチスのヒトラーも選挙で選ばれたわけですし、彼がやった行為に対して疑問を持った人もいたとは思うのですが、大きな流れに飲み込まれてそれを止めることはできなかった。
そういった民主主義が孕む危険性についても考察されている感じがしましたね。
ユートピアというのはただそこにあるのでなく、ユートピアでい続けられるにはしっかりと人々が差別やレッテル貼りといったことへ自分自身を諌めることができるようになっていなくてはいけないのだろうということなのでしょう。
とはいえ、ディズニーなので深刻なテーマを掲げただけではなく、ちゃんとハッピーエンドになっています。
レッテルで人を見るのではなく、お互いにその人そのものを見てあげる。
そうすれば人は夢を持ちなりたい自分になれ、またお互いに信頼しあうことができるのでしょう。

通常、この手の動物がたくさん出てくるおとぎ話だと、肉食動物=強者、草食動物=弱者というイメージがあったわけですが、そのマインドセットを逆転させたところがアイデアだったかなと。
そこで浮かび上がってくるのは多数決の怖さであるわけで、よく考えられた作品であると思いました。

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2016年5月22日 (日)

「スポットライト 世紀のスクープ」 溢れる情報にスポットライトを

観終わって、内容を的確に表現をしたタイトルにしているなと思いました。
もちろんタイトルの「スポットライト」は、主な舞台となる新聞社ボストングローブの特ダネ専従班「スポットライト」チームのことなのですが、作品そのもののテーマにも通じることだと感じました。
本作でスポットライトチームが追うのは、ボストンのカトリック教会の神父が行った子供への性的虐待。
しかもその事実を教会組織が長年にわたり隠蔽を行い続けてきたという可能性がある。
新聞記者たちがインタビューを重ね、資料を探っていく中で、次第に明らかになっていく事実。
本作は分類すれば社会派のミステリーとなりますでしょうか。
記者たちが証言や証拠を集め、次第に事件の核心に迫っていく様は緊張感があります。
しかし、本作のポイントは通常の社会派ミステリーと異なるところにあると考えます。
それがタイトルにも関わる話となります。
記者たちが事件を追っていく中で明らかになっていく情報は、実はすでに公にされていたり、新聞社に様々な人間が提供していたものだったりしていたのです。
それを揉み潰したとかそういうことではなく、単にその情報の重要性、意味に気づくことができていなかったということなのですね。
現在様々な情報が世の中には溢れています。
マス媒体だけでなく、個人が発信するインターネットなどなど。
企業で言えば、ビックデータの活用などと言って莫大な情報がある。
けれど、それら情報・データから意味のある解釈ができるかというと、意外とそうでもなかったりします。
実は莫大な情報から意味のある解釈をするには、そこには課題の設定、仮説や予想といったものが必要であると思います。
ボストングローブにいくつかの情報が持ち込まれてた時、記者たちもカトリック教会に課題があるという認識には至っていなかった。
だから数人の神父の異動や休職、弁護士からの情報も、ただの情報以上のものではなかった。
その情報が実際意味することに気付けなかったのです。
しかし、課題意識を持ってそれらの情報を見直したとき、そこに仮説が浮かび上がってくる。
まさにたくさんの情報の中にスポットライトを当てた状況になるわけです。
焦点が定まってくれば、さらに必要である情報は明らかになってきます。
それで仮説がどんどん補強され、強い物証が出てくれば事実となります。
必要なのは課題を持ち、思考をフォーカスさせること。
それにより莫大な情報にスポットライトを当てることができる。
情報で溢れかえる世の中で、真実を見つけていかなければならない、現代社会の生き方にヒントを与えてくれる作品ではないかと思います。

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