2018年10月14日 (日)

「SUNNY 強い気持ち・強い愛」 コギャル文化の特殊性

公開開始後ずいぶん経ってから劇場に行きました。
お客さんは7〜8割くらいは女性だったと思います。
1990年代「コギャル」と呼ばれた女子高生たちがイキイキと文化を牽引していた時代。
そんな時代に「SUNNY」という仲良しグループを結成していた女子高生たち。
それから20数年経ち、彼女たちは一人の仲間をきっかけにして再開します。
隣に座っていた女性は、かなり前半から泣いていました。
確かに、主人公ががんを宣告された友人に出会い、それから他の仲間たちを探していく中で、心に響くエピソードはあります。
けれど泣くほどではなかったと感じたのですが、よくよく考えてみると「あの時代」を自分ゴトとして受け止められるか否かがこの作品の評価につながるのではないかと思いました。
隣の女性は(しっかり顔を見たわけではないですが)30〜40くらいの方だったように思います。
ちょうど主人公くらいの年齢だったのかもしれません。
彼女はちょうど「あの時代」を生きていた人だったのかも。
私は90年代は社会人になったばかりの頃で、「コギャル」と呼ばれた女子高生たちのスタイルは、自分からしてすでに異世界な文化に見えました。
彼女たちの象徴的なアイテムとしてルーズソックスがありますが、なんであれがカワイイのかがわからなかったですからね。
足首の太さを隠すためじゃないかと邪推したものです。
本作に登場する女子高生たちを見ていても「確かにこんな感じの娘たちはいたな」とは思いますが、自分が懐かしむような感覚は持てませんでした。
映画で過去のある時代を描く話というのはいくつもありますが、それによって共感性がないというわけはありません。
例えば自分自身は80年代がティーンだったわけですが、60年代を描いているからといって感動しないわけじゃない。
何かしら時代とは関係がない共通の感覚があって、それが共感性を引き出すのだと思います。
しかし、本作でいうと「コギャル」という存在が文化的にかなり特殊であるというように描かれていて、他の時代を生きた人からすると、その特異性により共感が阻害されているのではないかと感じました。
もちろん普遍的な人の気持ちが描かれていないわけではありません。
ジンとくる場面もいくつかありましたが、でもコギャルの圧倒的な存在感にちょっとひいてしまう感じがしました。
唯一登場キャラクターで共感しやすかったのは奈々でした。
彼女はコギャル文化の中に生きながらも何か冷めたところも持っている子であったので、逆に自分からするとわかりやすく、なじみやすいところがありました。
演じる池田エライザは演技をするのはほとんど初めて見ましたが、いいですね。
モデルをやっている女子高生という役柄ですので、それにあった存在感がありましたし、少し影のある役も似合っていたと思います。
「コギャル」文化の特殊性が際立っているため、個人的には共感が薄かったと書きましたが、この時代をリアルタイムで高校生として過ごしていた方が見たら、違って捉えるのでしょうね。
自分の奥さんはこの時代を生きた人なので、見せて感想を聞いてみたいと思いました。

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2018年9月22日 (土)

「スカイスクレイパー」 粘着テープはなんでもできる

これからは一家に一つは粘着テープは常備ですね!
これはこの映画を観れば、何を言っているかわかります(笑)。
一つだけ言うと、「ミッション:インポッシブル」のトム・クルーズはハイテクの吸盤グローブでしたが、本作のドゥエイン・ジョンソンはローテクの粘着テープってこと。
ドゥエイン・ジョンソン主演のアクション大作なので、細かいことは言いっこなしで楽しむのが良いですね。
ビルの中にテロリストたちが侵入し、その中に閉じ込められた男が家族のために孤軍奮闘するというお話は、かの名作「ダイ・ハード」を彷彿させます。
本作は「ダイ・ハード」ほど脚本が練り上げられているわけではなく、もっとストーリーは荒っぽい。
ストーリーもアクションも見た目も、大衆的なウケを意識しているように派手なのですよね。
これは製作しているレジェンダリーフィルムの元々の傾向ではあるのですが、中国企業に買収されてからは益々その傾向は強まっている気がしますね。
彼の国ではこういうタイプの映画が受ける傾向があります。
それはさておき、本作では”ロック様”が巨体と溢れんばかりの愛を駆使して、ありえないことを成し遂げる姿を堪能するべきでしょう。
いつしかこの方は大衆向けアクション映画のヒーローになりましたよね。
ドゥエイン・ジョンソンはタフネスさと同時に、優しさを感じさせるところがちょっと他の人とは異なるところでしょうか。
大きな体による包容力というか、守られている感じがするというか、そんな頼り甲斐があるのですよね。
この人なら絶対守ってくれる!という感じがします。
それがどんな無理筋の状況でも安心して観れる所以でしょうか。
あまり考えず”ロック様”の愛に身を委ねるのが良いでしょう。
ただし、高所恐怖症の方は要注意。
私は高いところ苦手なので、途中は非常にお尻のあたりがムズムズするような場面がありました(汗)。

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2018年9月17日 (月)

「ザ・プレデター」 矮小化されていくプレデター

「プレデター」シリーズというのは、もともとB級の映画ではあるのですが、今回のはB級にすら到達していなかったような。
オリジナルの「プレデター」も映画としては、少々乱暴なつくりなのですよね。
前半は「エイリアン」的な未知の生物に襲われ追い込まれていくサスペンス感があり、後半はシュワルツェネッガーらしい「コマンドー」なテイスト。
当たった映画のエッセンスをくっ付けたようで、前半、後半でややトーンが変わっているところが乱暴な感じを受けるところなのですが、プレデターというキャラクターの唯一無二なオリジナリティが雑さを補って余りあるのですよね。
荒っぽいつくりなところがB級映画らしい所以で、だからこそ愛すべき作品になっていると思います。
実際初めて見たときはそれほどぐっとこなかったのですが、何度も観て好きになっちゃったんですよね。
「プレデター2」はシリーズの中では一番好きな作品なのですが、それはこれが一番ストーリーとしてはしっかりとしているから。
人間がプレデターに狩られるというエッセンスは保ったままで、プレデターとは何なのか?という謎に迫ろうとしているのがこの2作目です。
一作目はそもそもシリーズ化しようなどという意図はなかったでしょうからプレデターという存在にはほとんど説明はありません。
獰猛でありながら、知恵とテクノロジーを持った狩猟者。
そこだけ。
しかし、「プレデター2」によってプレデターの設定がしっかりと成された。
それがその後のシリーズ展開に繋がっていきます。
しかし、その後のシリーズは卓越したものはなかったように思います。
「エイリアンVSプレデター」の2作品は映画のシチュエーションとしては驚きましたし楽しめましたが、それだけと言えば、それだけ。
どちらかと言えば、イベントムービーのような趣だったと思います。
「プレデターズ」は観た時は楽しんだと思うのですが、何年か経つとさっぱりストーリーが思い出せない。
あまり印象的な作品ではなかったようです。
さて本作「ザ・プレデター」ですが、観ている時から新しさは感じなかったですね。
アクションはそれなり、キャラクターもそれなりでこれといった惹きつけられるポイントがありませんでした。
「AVP」的なイベント感もありませんでしたし。
たぶんストーリーと設定がいけなかったのではないでしょうか。
戦うために進化していくという設定は、どこかで既視感があります。
プレデターのライバルのエイリアンがそうなのですよね。
あちらも人間の遺伝子を取り込んだハイブリッドが登場しています。
あちらにも通じることなのですが、人間の遺伝子を取り込んで最強になるなんて、人間が一番と思っている思想なのではと思ったりもします。
人間など歯牙にも掛けないモノだからこそ、恐ろしいわけなのですよね。
人間と通じるところが出てくると急に矮小化してしまう。
いくら3メーターのプレデターといっても倒せそうな気がしちゃうわけです。
最初のプレデターは絶対倒せなさそうでしたもん(あれはシュワルツェネッガーだから倒せた!)。
そういう圧倒的な感じがなくなってしまったから、このシリーズはだんだんとこじんまりとしてきたのではないでしょうか。
人間がおよびもつかない存在であるということがやはり緊張感を生み出す。
そう言えば「ゴジラ」もそうでしたね。

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2018年8月15日 (水)

「それいけ!アンパンマン かがやけ!クルンといのちの星」 初の映画館体験

個人的に初めての「アンパンマン」の映画鑑賞。
そして娘にとっても初めての劇場での映画鑑賞。
60分とはいえ、初めての映画館に耐えられるかと心配しながら連れて行きました。
今回はあえて母親はお留守番で、二人で観に行ったので、なおさらドキドキです。
途中で泣き出したらどうしようと心配しつつ、なんとか娘は頑張りました(途中、おやつをあげてなだめすかしましたが)。
とはいえ、本人も楽しんだようで途中では「アンパンマン、頑張れ!」とか言って応援していました。
2歳児も魅了する「アンパンマン」おそるべしです。
私が子供の頃はまだ「アンパンマン」のアニメは始まっておらず、個人的にはちゃんと今まで観たことはありませんでした(仕事でちょっと関係したことがあってキャラクターの知識はあったのですけれど)。
TVの方は最近娘に付き合って観るようになりましたが、だいたい展開は大いなるワンパターンですよね。
バイキンマンが何かしら意地悪なことをし、アンパンマンがやっつける。
基本的に本当に悪いキャラクターは出てこないですから、子供も安心して楽しめる作品です。
バイキンマンは悪役ではありますが、憎めないところがいいでね。
劇場版もTVと同じくいつものアンパンマンのパターンではありますが、映画ならではのテーマもさりげなく提示されていました。
ここが映画版ならではでしょうか(あくまでさりげなくです)。
例えば環境問題です。
今回の劇場版での事件の発端は、バイキンマンが宇宙の彼方に捨てていたゴミが原因でした。
彼はアンパンマンにやっつけられたロボなどのくず鉄をブラックホール的なところに捨てていました。
それが宇宙の彼方にある「いのちの星」を汚してしまったんですね
「いのちの星」はアンパンマンを生み出した素で、その星は毎年アンパンマンのところにやってきます。
その星が今年は真っ黒な星となってしまい、アンパンマンたちの街がそれによって汚れていってしまいます。
自分自身が見えないところにいらないものを捨てたことが、回り回って自分の住むところも汚してしまうことに繋がってしまう。
悪気はないけどわからなければいいや、みたいな気持ちでやったことが大事になってしまうということがさりげなく子供にも伝わるように描かれていたと思います。
またバイキンマンも根っからの悪いやつではなく、ライバル(?)であるアンパンマンのことを実は大事に思っているというところも描かれます。
アンパンマンとバイキンマンが協力して、事件を解決します。
やはり助け合いは大事だということですよね。
「アンパンマン」が多くの親に支持されるのは、このような良心的なテーマを設定しているので、安心して見せられるのですね。
娘の初の映画体験は無事に終わりました。
これからだんだんと映画好きになってくれると嬉しいです。
大きくなっても一緒に映画に行ける関係でずっといたいですね。

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2018年8月 6日 (月)

「ジュラシック・ワールド/炎の王国」 滅びた王国

「炎の王国」という日本語サブタイトルだったので、てっきり火山爆発する島からの脱出劇なのかと思ったら、それはただの前振りだった・・・。
原題は「Fallen Kingdom」なので、訳せば「滅びた王国」となるかと思いますが、この「王国」が何を指すですね。
素直にとれば、前半で大噴火により、大被害を受けてしまった恐竜たちの楽園、イスラ・ヌブラル島のこととなるかと思います。
しかしラストまで見ると、その「王国」は現在の人間の社会であるとも言えるかもしれません。
人間たちの欲望により解き放されてしまった恐竜たち。
彼らは生存本能により、世界に拡散していくことでしょう。
それは生命の頂点として人間が君臨していたこの社会=王国の亡びの前兆であるのかもしれません。
人間が自然を、そして生命をコントロールできると考えるのは、あまりに自然と生命を甘く見ているのかもしれないということですね。
生命は狡猾であり、どこかしらに生き残る道を探し求めるもの。
人間が考えた防御策など完璧であるわけはなく、ほんの小さな隙間を見つけ、生命は生き延び、広がっていく。
それこそ人間の祖先となる哺乳類たちは、多くの恐竜たちが滅んでいく中で、しぶとく生き残ったわけです。
今度は適応できずに滅んでいくのは人間側かもしれません。
そして皮肉なのは適応できない環境を作り出してしまったのは、人間自身なわけです。
次回作があるようですが、そこでは人間と恐竜が共存する世界が描かれるのでしょうか。
それとも人間の世界が「滅びた王国」となってしまったことが描かれるのでしょうか。

作品のテーマとして上記のようなことをつらつら考えてしまったわけですが、単純にエンターテイメント映画として見てもおもろかったと思います。
やはり「ジュラシック・パーク」、「ジュラシック・ワールド」と言ったら、襲いかかってくる最強の生物である恐竜に対して人間がサバイブしていく緊迫感溢れる展開ですが、そちらも本作は健在。
後半のインドラプトルと人間の攻防は見応えありました。

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2018年6月23日 (土)

「空飛ぶタイヤ」 己の良心との戦い

三菱自動車によるリコール隠し事件から発想を得た池井戸潤さんの同名小説の映画化作品です。
池井戸さんの作品は、圧倒的な権力に対して人々が一矢報いるとことにより読者も溜飲が下がる思いになるということが共通していますが、まさにこの作品もそうですね。
大手自動車メーカーのリコール隠しに対し、中小の運送会社の社長、メーカー内の社員、取引先の銀行、マスコミの記者らが妨害にも負けずに地道に原因を究明し、最後には一番の黒幕の罪を明らかにします。
大人になり社会の中で生きていると理不尽なことというのはあったりするものですが、大きな力に勇気を持って戦いを挑む物語に皆が心を動かされるのは、自分もそうありたいと皆思いつつも、なかなかできないという現実もあるのでしょうね。
「長いものには巻かれろ」という諺がありますが、諦めてそうなってしまうことも多々あることですしね。
しかし、自分の行為が具体的にどこかのだれかを傷つけてしまうかもしれないという想像力は失いたくないものです。
顔の見えないクレーマー、その他大勢のよく見えない客というものを対応しているという気持ちではいけません。
当然のことながら一人一人のお客様の顔は見えないわけですが、それを想像することができるという気持ちはメーカーに勤める人間としては持っていなくてはいけないことだと思います。
そうなくなってしまうと、本作の常務用のようになっていってしまう。
そしてそれは本人だけではなく、会社自体も傷つけることになるという意味でさらに罪深い。
真面目に働いている社員ですら、巻き込んでしまうわけですから。
三菱自動車、東芝など経営サイドの不祥事は一人一人のお客様の顔が見えなくなってしまい、社内の権力争いなど本質的ではないところにばかり目がいくようになってしまったからなのでしょう。
メーカーはお客様あってのものという意識をずっと持ち続けなければいけません。
また上や得意先に対して間違っていると思ったときに物申すというのは、死ぬほど勇気がいることであるのは間違いありません。
しかし、それを見過ごしてしまった後に、例えば本作のように誰かが傷ついてしまった時に味わう後悔は一生拭えないものになってしまうことでしょう。
その苦しさに比べれば、いっときの勇気を振り絞ることはとても大事なことなのですよね。
おそらく自分でも死ぬほど悩むと思いますが・・・。
赤松運送の社長赤松は会社が潰れるかもしれない状況の中で、譲れないと思い財閥系メーカーと戦います。
またメーカーの中の沢田をはじめ何人かの社員は自らの会社の不正を知り、告発をしようとします。
自分の地位がそれによって失われるかもしれなくても。
彼らは権力と戦っているわけですが、己の良心とも戦っているとも言えます。
大金を積まれたり、ポストを用意するので、口をつぐんでくれと言われたり、また逆に脅かされたり。
それでも自分自身の中にある良心が戦いを諦めることを許してくれない。
自分の良心と弱さの戦いです。
企業で働く人間はもしかしたら、自分も同じような立場になってしまうかもしれないという恐ろしさと、その時に自分も戦うことはできるのかということを問いかけてくる作品でした。

企業人としての自分に対して問いかけをしてくる作品でありましたが、もう一つ家庭人としても問いかけがある作品でした。
日常の中で突然愛する家族がなくなった時、自分はどうするのか。
どう感じるのか。
本作の事件の被害者のお子さんの作文を読んだ時、やはり涙が出てきました。
家族がいる人ならば、これを聞いたら多くの人は心を揺さぶられることでしょう。
だからこそ、企業人は一生活者としての感覚を大事にしなくてはいけないと思います。
当たり前のことですが、企業人も生活者のひとり。
それを常に忘れずにありたい、と再確認させてくれる映画でした。

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2018年3月11日 (日)

「シェイプ・オブ・ウォーター」 本当の強さ

ロマンティックでありながらも何か不穏さも感じるギレルモ・デル・トロ監督らしい予告編で魅了されて鑑賞に行ってきました。
20世紀フォックスサーチライトの映画なので、割とマニアックな部類の作品ですが、結構大きな映画館でもかかっていましたね。
そうしたらアカデミー作品賞受賞!
興行的にもかなり期待されていたのでしょうか。
デル・トロらしくオタク心もありつつ、グロテスクさもありつつつ、そしてまたロマンティックでもあるという彼らしさの出ている作品でした。
そういった作品で作品賞を取れたのですから、デル・トロ監督も本望でしょう。
彼の作品では、異形のものへの愛情が溢れています。
「ヘルボーイ」シリーズもヒーローらしからぬ異形のヘルボーイをヒーローとして描いていて、荒々しい外見に関わらず彼は信頼がおける男であり、またガールフレンドのリズへの恋心などには奥手なキャラクターとして描かれています。
そういえば「ヘルボーイ」ではテレパシー能力があり、心優しい半魚人エイブが登場しますが、これがもしかすると本作にも影響をしているかもしれませんね。
デル・トロは普通でないものへの偏愛がある監督ですが、それが普通の人から見ると奇異に見えることを知っているのでしょう。
そういった普通でないものへの世間の懐の狭さも。
本作においては世間の普通とは異なった者たちが主人公です。
主人公のイライザは言葉を話すことができない女性。
もう一人の主役は半魚人です。
その他の登場人物では、イライザの同居人はホモセクシャルの作家、友人は黒人女性。
描かれている時代は昔の時代なので、彼らもいまほどには世間では受け入れられる存在ではありませんでした。
差別的な表現もいくつか描かれます。
彼らを迫害する軍人、ストリックランドは彼らかすれば「まともな男」です。
「まともである」ということは劇中でもしばしば使われてる言葉ですが、これは何か既存の価値観に縛られているということなのでしょうね。
その価値観から外れた外見、行動をしてしまった時、その価値観を重視する社会からドロップアウトしてしまう。
そうすることに常に恐怖を感じているのが、ストリックランドなのかもしれません。
その恐怖が彼の攻撃的な行動に現れているのでしょう。
そういう意味では彼は本当は弱い。
自分が立っている基本が崩れた時、彼はどのように生きていくのでしょうか。
ラストシーンで彼は半魚人に襲われます。
しっかりと描かれているわけではないですが、喉を傷つけられたので、今後は声を出すことはできなくなると思われます。
まさに彼が迫害をしていたイライザや半魚人と同じくなるのですね。
彼はそういった立場になった時、どのように感じるのでしょうか。
その点においてはイライザは強い。
自分の心だけを信じ、行動をする。
目に見えるもの、聞こえるものを信じるのではなく、自分の心がどう感じるのかだけを信じる。
余計なものには惑わされない。
最初は弱者に見えたイライザが最後には最も強い人に見えてきます。
ストリックランドは逆に追い込まれて、もろく崩れそうに見えmした。
人の本質的な強さは、自分の気持ちに素直になり、それを信じることなのかもしれません

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2018年2月 5日 (月)

「スリー・ビルボード」 怒りと後悔と

DVな夫と別れ、二人の子供を育てている母親、ミルドレッド。
ある日彼女の娘、アンジェラがレイプされた上に殺されてしまう事件が起こる。
所轄署が事件を捜査するものの、操作は進展しない。
半年以上経った時、ミルドレッドは道路沿いの3枚のビルボードに署長ウィロビー宛の広告を掲出する。
その広告がミズーリの田舎町に様々な波紋を引き起こす。

ミルドレッドは娘が殺された日に、たわいもないことで喧嘩をする。
売り言葉に買い言葉。
ティーンの娘を持つ母親なれば、誰も経験があるような口喧嘩だ。
しかし、言ってしまった言葉にミルドレッドはその後、激しい後悔をする。
自分があんなことを言ってしまったから、悲劇が娘に起こってしまったのかもしれない、彼女はそのように思ったかもしれない。
いたたまれない、そんな自分自身への怒りを、彼女は何かに向かって吹き出さずにはおられなかったのだろう。
その怒りは事件を解決することができない警察へ向いたのだ。
しかし警察の署長は業務怠慢なわけではなく、むしろ住民に愛される善人であった。
そして彼は癌を患い、死を目前にしていた。
ミルドレッドの容赦のない攻撃は、署長に味方する人々の怒りを引き起こす。

「怒りは怒りをきたす」という言葉が劇中で引用される。

まさにミルドレッドの自己への怒り、そしてそれが翻った他社への怒りが、また他の者の怒りを引き起こしてしまう。
例えば、警官のディクソンのように。
彼は親愛する署長を攻撃するミルドレッドに敵意を燃やす。
そのような中、ウィロビーは自死をしてしまう。

ミルドレッドは自らが断罪したウィロビー署長の自殺と彼の手紙によって、自分の怒りを見つめ直す。
またディクソンは自らが怒りに任せて広告業の男レッドを突き落としたことを、自分が炎で焼かれ、憐れみをかけられた時に悔いる。
彼らが感じているのは後悔だ。
怒りに任せて振る舞った自分の行為に対する後悔。

けれど怒りの炎は己では完全には消す事はできない。
なぜなら後悔がまた自己への激しい怒りを生んでいるからだ
怒りが怒りを産み、後悔をもまた生む。
そして後悔が怒りを生む。
まさに怒りは怒りをきたす、だ。

同じような怒りと後悔を持った二人が最後に行く道を同じくするのは、必然であったのかもしれない。

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2017年12月24日 (日)

「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」 ジェダイとは何か?

<ネタバレ要素があるのでご注意です>

「スター・ウォーズ」シリーズにおいて欠かせない「フォース」そして「ジェダイ」という存在について、やや哲学的であるにせよルークの口からしっかりと語られていたと思います。
私の解釈としては、「フォース」は世界を作り上げている「理(ことわり)」のようなものであると感じました。
その理とはモノとモノとの物理学的な関係性だけにとどまらず、出来事の因果や運命といったものも含まれるもののように思います。
そしてその理を感じることができ、そしてそれに何かしら影響を与える力を持っている者が、「スター・ウォーズ」世界においては、ルークなどの「ジェダイ」であると言えるでしょう。
しかし、フォースを扱える者=「ジェダイ」であるわけではないということです。
これも個人的な解釈になるのですが、「ジェダイ」という存在は武道で言う所の「○○流」といったような意味合いであると思います。
フォースを正しく扱う力を身につける技術体系を継承していく流派が「ジェダイ」ということではないでしょうか。
師匠と弟子という関係性でジェダイという組織が成り立っているということもその考えを補足すると思います(Ⅰ〜Ⅲなどの過去作で「ジェダイ」が和風テイストであったのも武道の一流派というイメージを想起させます)。
ルークが「ジェダイが滅びることでフォースがなくなることはない」と言った意味はここにあると思います。
あくまで「ジェダイ」は「フォース」を正しく扱う一つの流派な訳です。
「ジェダイ」の対極にあるのが「シス」というわけですね。
「シス」は「フォース」を暗黒面で使う流派というわけです。
「スター・ウォーズ」シリーズはⅠ〜Ⅵまでいわばスカイウォーカー家の歴史とも言える物語となっています。
そのためにスカイウォーカー家の者が「フォースを操れる者」の第一人者というイメージが強くなっていますが、決してそうではありません。
マスターヨーダとか、オビワンとかもスカイウォーカー家ではないですから。
今回、新たな3部作の主人公であるレイがスカイウォーカー家と縁もゆかりもないことが明らかになりました。
それはそれで衝撃的な事実ですが、それゆえに「フォース」がスカイウォーカー家の特別な力ではないということが明らかになりました。
それゆえに「スター・ウォーズ」シリーズはスカイウォーカー家の縛りから解き放たれたとも言えます。
今後新たに「ジェダイ」に変わるライトサイドのフォースの力を操る者が登場してくるかもしれません。
物語の世界が一気に広がり、スピンオフなども作りやすい環境になったと思います。

スペースオペラ作品としては、前回の「フォースの覚醒」の方が上だった感じがします。
今回はルークの話、レイの話、反乱軍の話など複数の物語が並行して語られるので、仕方がないかなとも思うのですが、スペースオペラ映画としての爽快感は前作に及ばない感がありました。
とはいえ、上記のような「フォース」についてしっかり語られることも今まではなかったので、「スター・ウォーズ」シリーズとしては重要な節目の回であったと思います。
ルークの最後も穏やかで良かったと思いました。
彼が最後を迎える星では太陽が二つあり、一つが雲に隠れ、もう一つが雲から現れるという描写がありました。
これはルークの時代が終わり、それをレイが引き継ぐことを暗示しているのでしょう。
彼にフォースが共にあらんことを。

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2017年11月24日 (金)

「ジャスティス・リーグ」 何か既視感が

秋に公開された「ワンダーウーマン」は期待以上の出来で久しぶりにDCの面目躍如となりました。
その流れで本作「ジャスティス・リーグ」も期待していたのですが、蓋を開けて見ると正直あまりパッとしない。
パッとしないのは何でなのだろうと考えて見たのですが、既視感があるのかもしれません。
一つは監督のスタイルの問題。
本作の監督のザック・スナイダーはDCエクステンデッド・ユニバースの中心人物ですが、彼は非常に確固としたスタイルがあるため、どんな作品を見ても彼らしさが出てきます。
特徴的なのはクレイジーホース(フィルムのスピードを可変で激しく変えること)ですが、「300」を見たときは非常に斬新でしたが、今はこの手のヒーロー映画やアクション映画ではかなり使い込まれているので、かなり見慣れてしまった感じはします。
またダークなトーンも彼らしいのですが、スーパーマンでもバットマンでも同じような雰囲気になってしまい、冒頭に書いたような既視感を持ってしまいます。
マーベルが意識的にヒーロームービーの経験がない新しい監督を投入してくるのと対照的ですよね。
またキャラクターの雰囲気に合わせて作品のトーンもあえて変えているところも違います。
「ワンダーウーマン」が一味違った雰囲気であったのも、今までとは違う監督が撮ったからではないかと思います。
ワンダーウーマンも先の作品の方が魅力的だった感じがしますね。
もう一つの既視感はヒーロー集合というアイデアがすでに「アベンジャーズ」などで行われていること。
やはり「アベンジャーズ」は画期的で、あれだけのヒーローが揃うというのはとても刺激的でした。
まさかそういう絵面が見れるとは、という驚きがありました。
そういう点においては、本作「ジャスティス・リーグ」は当初より予定されていたものであり、見る側としても予定調和的であるように感じてしまいます。
また登場するヒーローたちが孤高すぎて何か少し距離感を感じてしまうところもあります。
スーパーマンは完璧過ぎるし、バットマンはある種病んでいる中年。
ワンダーウーマンは単独作品では天然なところもある可愛らしさがあったから良かったですが、本作では成熟し落ち着いてしまって、高嶺の花感が強い。
その他のキャラクターはまだまだよくわからない。
フラッシュだけはちょっと今っぽいチャラさがあって良かったですが。
もう少し、それぞれのキャラクターに感情移入できる隙を用意した方がいいのではと感じました。
どうもDCはユニバースを展開していくのに、作品をリリースしていく順を間違っているような気もします。
今後は「アクアマン」とか単独作品が展開されていくようですが、さてさてどうなりますか。
ルーサーも気にはなりますが・・・。

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