2025年5月 3日 (土)

「サンダーボルツ*」ある意味MCUらしい

ある意味、MCUらしいと言ってもいいかもしれません。
MCUの第1作目「アイアンマン」でトニー・スタークは冒頭で紛争地域で自分の会社のミサイルが人々の命を奪っているのも目の当たりにし増田。
彼は自らの行為を悔い、人々を守るために戦おうとしたのです。
トニーと一緒に戦い続けたブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフもかつて暗殺者として多くの人々を手にかけてきたことを悔い、最後には人々のために自分の命を犠牲にするのです。
MCUに登場する多くのヒーローは、自らの内面に悔いと葛藤を抱えながら、戦ってきました。
「サンダーボルツ*」に登場する面々は、さらにその思いを強く持ちます。
本作のキャラクターの多くは、今までの作品の中で敵役として登場してきた者たちが多い。
ウィンター・ソルジャーことバッキー・バーンズ、姉と同じくウィドウであったエレーナ・べロワ、かつてアントマンと戦ったゴーストことエイヴァ・スター、手を血で汚した元キャプテン・アメリカ、ジョン・ウォーカー、ナターシャ・エレーナ姉妹と戦ったタスクマスター、そしてソビエトのキャプテン・アメリカ的存在レッド・ガーディアンことアレクセイ・ショスタコフ。
いずれも脛に傷を持つ面々です。
「サンダーボルツ*」の企画が始動したことを聞いた時、マーベル版の「スーサイド・スクワッド」になるのかと思いましたが、全く違いました。
ヴィランたちが暴れまくる作品ではなく、心に傷を持つ彼らが自らの過去を見つめ、そして再び生きる意義を見つけるという物語となっています。
彼らは罪を背負っています。
そしてそれを一人で背負おうとしていました。
背負うものは非常に重く、彼らはそれに押し潰されそうになっていたのです。
しかし、偶然にも彼らは一つのところに集まり、そして危機を乗り越えようとする中で、自分と同じように他のメンバーも背負っていることを知ります。
彼らには互いに、それぞれが背負っているものの真の重さがわかり、共感できる。
それに気づいた時、彼らは初めて仲間を得たのです。
彼らが戦うのは、強大な力を持つセントリーという超人ですが、これも一癖も二癖もある存在です。
セントリーはヴォイドという裏の側面を持っており、それが暴走し、人々を襲います。
その攻撃はまさに精神攻撃とも呼ぶべきもので、人々が抱える闇=トラウマの中に封じ込めてしまうというものでした。 サンダーボルツたちは、自らのトラウマと相対し、そしてセントリー自身も救おうとします。 彼らは互いに許し、許されるのです。 <ここからネタバレあり>
「サンダーボルツ*」の「*(アスタリスク)」の意味は最後の最後にわかります。 「ニュー・アベンジャーズ」になるということですね!
タイトルを見た時、彼らと二代目キャプテン・アメリカことサム・ウィルソンは合わないだろうな、と思っていたら、やっぱり揉めていることがミッドクレジットで明らかになります。 次の「アベンジャーズ」はサムが率いる正統な「アベンジャーズ」と「ニュー・アベンジャーズ」の2つのアベンジャーズが登場するのでしょうか。 カマラらも「ヤング・アベンジャーズ」を結成するような動きを見せいたので、もしかして3つ? 「ファンタスティック4」もアース616に来るような展開も示唆されましたね。 最後にタスクマスターがあっさり退場したのは、ちょっっと驚きでした。 オルガ・キュレンコ、顔見せ1カットだけでしたね・・・。

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「#真相をお話しします」”今”のテーマに切り込む

現代のネット、特にSNSの暗部に鋭く切り込んだテーマで想像していたよりも見応えがありました。
もちろん、トリッキーな展開自体もよく練られていて、先行きが全く予想ができませんでしたが、やはり本作はテーマ性だと思います。
<ここから先はネタバレしないで書く自信がないので、注意です。>
うちの子供が好きで、赤ちゃんの成長記録っぽい配信をしている動画も一緒に見たりしたりしますl。
ただ、この子が成長した時、この動画のことをどう思うのかなという思いがよぎる時もあります。
親からすれば可愛い我が子をみんなに見てもらいたい、という気持ちかもしれないですが、子供のプライバシーの権利からするとどうなのかなとも思います。
また、生臭い話で言うと配信でお金も入るわけで、そのためにという気持ちが出てくるのも否めません。
以前、親子youtuberの親が子供が車内に閉じ込められてしまった様子を配信してしまい、炎上してしまったという事件もありました。
本作の中で報道されない事実を暴露することにより、投げ銭を得るという企画が展開されます。
この行為は、言論の自由、真実の探究、知る権利などといった基本的人権に則っているとも言えます。
ただ、これは他人のプライバシーを容赦無く晒している行為でもあり、その点では基本的人権を侵しているとも言えます。
つまり、非常にデリケートな領域なのです。
マスコミなど既存メディアは時として”マスゴミ”などと揶揄されるところはあるものの、これらについては一定のルールを定めながら、報道をしています。
そして何かルールを違反したり、権利侵害があった場合は、会社として責任を追及されるわけです。
しかし、ネットにおいては、個人においては上記のような法律的意識が少ない場合が多いですし、そもそも匿名のためペナルティを課せられる可能性が低い。
安全圏から好き勝手を言っていいという、非常に不均衡な関係性になっているのです。
基本的人権はすべての人々に認められているものですが、それぞれの権利は時にぶつかり合うこともあります。
そこは非常に判断が難しいところであるわけで慎重に考えなくてはいけません。
皆がそのようなリテラシーがあればいいのですが、ほとんどの人々はそのようなことを考えることはなく、安易にネット上で行動します。
そこに切り込んだという点で本作は非常にタイムリーな作品であると感じました。
本作のラストはいわゆるオープンエンドで、作品として結末で答えを出していません。
皆が、それぞれ考えてください、ということですね。
上記に書いた通り、多くの人はリテラシーがなく、考えてもらいたいという制作者側のメッセージはわからなくもありません。
ただ作品として純粋に見ると、投げっぱなしであるという感はありました。
繰り返しますが、本作は非常にセンシティブな問題をテーマにしています。
答えは一つではなく、何か正解なのかわからない、わけですが、だからこそ作品としては答えを出すべきだとは思いました。
その答えに対して色々な意見は出るでしょう。
だからこそ、人々が考えるきっかけにはなるような気がします。
オープンエンドは逃げている印象を残してしまいました。

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2025年4月 5日 (土)

「少年と犬」温かいものが残る読後感

瀬々監督の作品はいつも泣かされることが多く、人の琴線に触れてくるのが上手な監督だと思います。
通常は動物ものはあまり好きではないので、食指は動かないのですが、瀬々監督なので鑑賞しに行きました。
予想通りというか、案の定というか、やはり本作でも泣かされました。
本作は東日本大震災後から始まります。
現代日本が経験したことがない、大災害である東日本大震災。
圧倒的な自然の力に対して、人間は無力であることを改めて認識した方も多かったのではないでしょうか。 本作には何人もの人物が登場しますが、それぞれ一人の力では抗いきれない出来事に直面します。
一つだけにとどまらず、次から次へと。
それぞれの人物の行き先決してハッピーエンドとは言えません。
ただし、彼らが不幸であったかというと、そうではないのかもしれません。
主人公の一人である和正は、心ならずも悪事に手を染めてしまい、家族から非難され居場所を失います。
しかし、迷い犬である多聞と出会い、そして美羽と出会っていく中で自分が生きていきたい道を見出します。 もう一人の主人公である美羽も、望んだ結果ではないけれども人として究極の悪事を行なってしまいます。
しかし和正と多聞と出会うことで自らその罪を償う決心をし、彼女もまた生きる希望を見出します。 結果としては二人の希望は果たされないわけですが、不幸せであったかというと違うような気がします。
多聞と出会うことを心待ちにしていた少年が、そしてまた多聞を失うときに、心の中にいると言います。 それは和正にとっても、美羽にとっても同じで、状況としてはつらくても、心の中に大切なものがあればそれは生きる希望となり、不幸せではないということなのでしょう。
そういう人々(や動物)と出会えたことが人生の幸せなのですよね。
彼らの運命は過酷で、見ていながら感情移入してしまったため、とても辛く、泣けてきました。
ですが、読後感は決して悪くなく、何か希望のような温かいものが残ったような気もします。

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2025年4月 1日 (火)

「白雪姫」安易なアップデートによる違和感

色々と話題になっている実写版の「白雪姫」です。
ディズニーのプリンセスものには大きく二つの流れがあると思います。
まずアニメーションについては、以前は守られ、まさに「白馬の王子様」を待つ存在であったプリンセスが、「ラプンツェル」くらいからか自分の意思を持ち、自分の人生を生きていこうという存在に変わっていったという流れがあります。
これは現代の女性の意識の変化に基づいていて、「アナと雪の女王」で非常に顕著になり、その後最新作の「モアナと伝説の島2」まで続いています。
これは非常に成功していて、現代女性の意識にマッチした現代的なプリンセスは多く受け入れられていると思います。
もう一つはプリンセスには限らないですが、かつてのディズニーアニメーションのヒット作を実写化するという流れです。
プリンセスものでいうと「美女と野獣」や「アラジン」などが該当します。
これは元々ヒット作をベースとしていることで、当たるという確度が高いためディズニーとしても割りのいい案件ではないかと思います。
実写化する場合も、アニメ版公開の時から時間が過ぎているので、現代女性の意識に合わせて、描かれるプリンセス像もアニメーションと同様アップデートされていることが常です。
先にあげた2作はそのアップデートをいい塩梅で行っていたと思います。
そこで本作「白雪姫」です。
こちらも実写版では大きくプリンセス像を現代的にアップデートしています。
すなわち、白雪姫は見かけがただ美しいだけの女性だけでなく、内面も美しいとされています。
また、彼女を眠りから覚ますのは、ただ美しい姫を好きなった白馬の王子様ではなく、悪政から民を解放したいという志を同じくする盗賊になっていたりします。
実写化するにあたり、プリンセスのアップデートをしようとしたのは今までの成功体験からしても、致し方ない結論のような気がします。
ただその元となった「白雪姫」がまさに「白馬の王子様」を待つ女性であるということが、ストーリーの設定の根本であるわけですが、現代女性にアップデートをするということは、その根本を変えていくということになるわけです。
元々の「白雪姫」は1937年公開で90年近く前の作品です。
時代で言えば太平洋戦争前夜です。
古い価値観をベースにしていた物語なので、それを無理矢理に現代的な女性の物語に変容させてしまったために何かチグハグな印象を与えてしまっているような気がします。
時代のギャップをどう埋めていくか、という点をあまり配慮せず、安易にアップデートしているように思いました。 ディズニーのプリンセスものの実写化でうまくやっているのは「マレフィセント」かもしれません。
これの原案は「眠れる森の美女」で、これに登場するオーロラ姫もまさに古い価値観に基づいたプリンセスといえます。
あえてプリンセスを主役とせず、その敵役を主人公にしたというのはアイデアであるように思います。
意外に敵役はキャラクターとして掘り下げられていないため、描く余地があります。
その余地に今まで知らなかった現代女性的な側面を描けたわけです。
最近の「ウィキッド」の西の魔女などもそうかもしれません。
本作は大筋の流れはそのままにわかりやすいところだけを現代的にアップデートしてしまい、そこで様々な違和感が発生しているように思いました。

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2025年3月16日 (日)

「知らないカノジョ」みんなカノジョに恋をする

あまり恋愛ものは見ない方ではありますが、予告を見た時のヒロインが何か気になって見にいきました。
そのヒロインのミナミを演じているのは、歌手のmiletさん。
本作が映画初出演となるそう。
あまり歌は詳しくないので調べたところ、「鬼滅の刃」の「刀鍛冶の里編」の主題歌歌っていた方なんですね。
さて気になっていたmiletさんですが、映画を見てみるとすごくいい。
これが初めての映画出演とは思えないほどに、演技が巧みでした。
本作は彼女の存在感で8割方支えられているような気がします。
本作では主人公の男性リクとヒロインの関係性が異なった時間軸で描かれます。
そのためヒロインは同じ人物でありながら、2つの人生を歩むわけですが、それぞれのヒロインがとても魅力的です。 片方はリクをサポートするために夢を諦めたミナミ。
朴訥としていて、リクを優しくサポートする姿は愛らしく守ってあげたくなるような雰囲気。
もう一人のミナミは、夢を諦めずにスターとなった彼女。
凛としていて、歌手として、女性としてオーラを放っています。 それぞれのミナミはリクに惹かれつつ、自分の夢とその愛を天秤にかけなくてはならず、葛藤をしています。
なんというか、そのミナミがとても切なく、愛らしい。 miletさんはそういったミナミを豊かな表情で描いていて、さらに魅力が増していました。
おそらく、多くの人が彼女に恋してしまうように感じるほどです。
正直、私もキュンとしました。
ミュージシャンの方が演技をされる場合は多々ありますが、本業ではないのに非常に演技の上手い方がいて、びっくりすることがあります。
演技と歌とパフォーマンスするものは違っていても、人の気持ちを表現するということでは共通しているところもあるのでしょうか。 これからもmiletさんが演技をする作品はチェックしないといけないですね。
物語もリクとミナミにとって切ない物語で、適度にファンタジー要素が入っていて、普通の恋愛ものとは趣が異なります。
次第にリクが自分の行いを見つめ、後悔をしながらも初めて相手のことを心底思い、行動する姿は心を打つものがあります。
クライマックスもとても良かったですよね。
二人は幸せになれるかどうか、確かめてみてください。

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2025年3月 9日 (日)

「セプテンバー5」メディアの責任

テレビが登場する前は、世界のどこかで起きた出来事を別の場所でリアルタイムに見るということは不可能でした。
それまではその場所に居合わせた人々の話を聞き、それを構成したものをメディアが伝え、それを一般の人々が知るという手順でした。
当然その情報は整理され、加工されているわけで、事実そのものとは異なることがあるかもしれません。
ただメディアはそれを避けるため、何十にもファクトチェックをし、その情報を発信していたのです。
リアルタイムで中継される情報は、リアルタイムであるが故に、ファクトチェックをする余裕がありません。
それは「生」の情報であるからその必要はないという考え方もありますが、カメラに映し出されている情報はカメラで切り取られているため、「すべての」情報が明らかになっているわけではなく、「一部の」情報であるという認識は持っていなくてはいけません。 何らかの意図を持って切り取る、ということもできないわけではありません。
また、ファクトチェックをしている暇がないということで、伝える側の憶測などが入ってくる可能性もあります。
本作でもスタッフの一部は他の情報源も確認したほうがいいと意見を述べますが、スクープという成果に目が眩み、勇足をしてしまいます。
それが世紀の大誤報につながってしまうのです。
テレビが当時すでに大きなメディアパワーを持ってしまったため、その影響は世界中に及びます。 さて、現代ですが、リアルタイムでの情報拡散はマスメディアにとどまりません。
「切り取り動画」というものも話題になっていますし、ファクトニュースという言葉が聞かれるようになっても久しいです。
メディアはまだファクトチェックという点では仕組みとして機能していますが(怪しいところもあるが)、個人においてはその限りではありません。
本作で起こったような出来事が、個人のライブ中継で起こりうる可能性は十分にあります。 個人それぞれがメディアとしての意識を持たなければいけない時代になったのかもしれません。

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2025年2月11日 (火)

「ショウタイムセブン」仮面の奥に触れてほしい

あるラジオ番組に男から電話がかかってくる。
男は発電所に爆弾を仕掛け、それを爆破すると予告。
主人公のアナウンサー折本は彼を挑発してしまい、そして爆破は実行された。
そこから前代未聞の爆破テロ犯とアナウンサーのやり取りの生中継が始まる。
企画としては非常に面白くなりそうなプロットです。
しかし、見ている途中から座りが悪い印象があり、それが最後まで続きました。
なぜなんだろう。
一つは主人公、折本が最初から終始仮面をつけているようで、その内面が見えにくかったことにあるかと思いました。
テレビカメラの前で彼が犯人と交渉し、追及する姿は当然、公平性を貫くキャスターとしての仮面を被っていると思います。
マイクを切ったり、カメラ前を離れた時に見せる野心的な部分も彼の本来の姿でしょう。
しかしいずれにしても見ていて側からすると鼻持ちがならない部分があるキャラクターであり、共感性は乏しい。
しかし、ラストで明らかになるように彼自身も秘密を持っている。
当然本人はその秘密を知っているわけで、次第に事件が確信に迫っていく中で、内面で葛藤はあるはずですが、それはあまり感じられない。
ですので、最後の告白もやや唐突感がありました。
さらには最後の「楽しかった」という発言も、そのような彼の性格があまり触れられていなかった(彼はずっとキャスターとしての仮面を被っていたため)ため、これも突然な印象が拭えません。
主人公が秘密を持っているプロットはどの程度、それを主人公の行動の中で匂わせるかはとても難しいと思いますが、この計算があまりうまくいっていない印象でした。
演出プランの課題のような気がします。
個人的な印象ですが、阿部寛さんはキャラクターとして一つの軸が通った人物を演じると、映画全体の芯となるような存在感が出てくると思います。
本作はこの軸がとても曖昧で、そのため仮面のキャスターとしての存在感ばかりが強く出てしまったため、共感性のないキャラクターが物語の中心になってしまった気がします。
そのため見ている側としては共感をする人物が探し出せず、私の感じたような座りの悪さを感じてしまうのではないでしょうか。
面白くなりそうな人間関係も描けそうだったと思うんですよね。
長年コンビを組んでいた伊東との間にも何かしらのドラマを作れそうでしたし、犯人との間にも共感と後ろめたさのようなものが描けたように思います。
人物の描き方がもう一歩踏み込めたら、より魅力的になったような気がします。
プロットは面白そうだっただけに勿体無い。

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2024年12月28日 (土)

「正体」間違いだらけのこの世界で

藤井道人監督の作品にはなぜか惹かれてしまう。
全ての作品を見ているわけではないですが、最近の作品だと「ヤクザと家族 The Family」「最後まで行く」「青春18×2 君へと続く道」を見ています。
それぞれ語っているストーリーもジャンルも違うのですが、何か藤井監督らしさというものが共通しているように感じます。
それぞれの作品の主人公は背負ってしまったものがあります。
それは一人で背負うには重すぎるもので、主人公はみっともない姿になりながらも抗い続けます。
その抗い続ける過程で主人公たちの本質が掘り下げられていきます。
そしてハッピーエンドとは言えない物語ではありますが、読後感としては何かしら希望を感じるように終わるのが、共通しているようにも感じます。
人間性を深く描くこれらの作品をまだ30代の藤井監督が撮れるなんて驚きです。
本作「正体」はまさに抗い続ける男の物語です。
主人公鏑木は殺人事件で死刑が確定した男。
しかし彼は刑務所から脱走し、名前を変え、顔を変え、逃亡を続けます。
彼が背負っている状況は、一人の人間が背負うにはあまりに重すぎる。
しかし、彼は一人だけでそれに抗います。
彼は逃亡していく先で、さまざまな人に出逢います。
人を避け名前も風貌も変えていますが、彼らしさは出てしまいます。
彼と接した人々は、彼の本質に触れ、彼が殺人事件の犯人だと知っても、彼を助けようとします。
彼らが希望です。
藤井監督の作品は見ている時は追い込まれていくようなとても辛い気持ちになります。
主人公に共感し、彼らが背負っているあまりに過酷なものを感じてしまう。
ただ彼らと一緒に争い続ける中で、希望の光も感じます。
本作のラストで彼を追い続けた刑事が鏑木になぜ逃亡を続けたか問いかけます。
鏑木は「この世界を信じたいから」と答えました。
それこそが希望です。
現実世界も非常に辛いことも多いですが、それでもその中に希望を見つけることはできるように思います。
そんな希望の輝きを印象付けてくれるのが、藤井作品であるように思いました。

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2024年12月27日 (金)

「小学校〜それは小さな社会〜」そこでみんな学んでいく

久しぶりにシネスイッチに行きました。
このところ、ずっとシネコンが多かったもので。
なぜわざわざシネスイッチまで足を運んだかというと、この映画を見たかったから。
本作「小学校〜それは小さな社会〜」について書かれている記事を見て、ぜひ見たくなりました。
その記事は監督の山崎エマさんのインタビューだったと思います。
監督はハーフで幼い頃は日本で暮らし、小学校の時は普通の公立小学校、中学校からインターに行ったとのこと。
その後、大学はアメリカで就職も向こうだったようです。
その際、向こうの人からはとても真面目で、時間に正確で、責任感が強いと褒められたということでした。
山崎さんは普通にやっているだけなのにと思ったそうですが、その時にこれは日本人全体に言える特徴で、それが育まれたのは小学校であったのではないかと考えたそうです。
それが本作を撮ったきっかけだそうです。
本作はドキュメンタリーである小学校の一年間を映し出します。
その中でも入学した一年生と、これから卒業する六年生の数名を主に追いかけます。
私の子供も小学校低学年ですが、学校の様子は事業参観の時くらいしか見ることはできません。
子供がどのように学校生活を送っているのかはなかなかわからないですよね。
ある一年生の男の子は入学したての頃は、先生の注意なんてあまり聞いていません。
けれど一年経って3月には先生の代わりに率先してみんなに話を聞いてって言えるようになるのです。
ある一年生の女の子は新一年生のための演奏で役を任されますが、練習をあまりしなかったため、上手にできません。
それを先生に厳しく注意されて、悔し涙を流します。
うまくできないのが怖くて舞台に上がるのも嫌になります。
それでも頑張って、見事演奏を終えた時の晴れがましい顔と言ったら!
この女の子が凹んでいる時にクラスメートの子たちはそれぞれ優しく声をかけてくれます。
お友達も素敵です。
ああ、うちの子もこんなふうに学校生活を送っているかな、と思ったら、泣けてきました。
六年生の男の子は運動会の縄跳びの演技が上手くできません。
彼は放送部で毎日話して入るものの、おそらく引っ込み思案なのだと思います。
相方の女の子がいない時はちょっと戸惑っていましたものね。
けど、彼も頑張って運動会当日まで練習し、しっかりと演技をやり終えました。
放送部の仕事も含め、彼もしっかりと責任感を持ってやり遂げたのです。
やっていることは大人からしたら大したことないかもしれません。
でも彼らは彼らなりに責任感を持って、努力をしてやり遂げているのです。
こういった小さな成功体験を学校生活で送っていくことで、冒頭に書いたような日本人の勤勉性などが培われていったのでしょうね。
本作では先生も描かれます。
子供たちへの指導の仕方に彼らもそれぞれ悩みます。
あえて厳しく接する先生、突き放してみる先生、そっとギュッと抱きしめてくれる先生。
色々な先生がそれぞれ子供たちのことをちゃんと考えてくれるからこそ、子供たちは小さなチャレンジを積み重ねていけるのだろうと思いました。
これをうちの子が見たらどう思うんだろう。
今度子供と一緒にもう一度見に行ってこようと思います。

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2024年11月22日 (金)

「スマホを落としただけなのに 最終章 ファイナル ハッキングゲーム」納得の着地点

予告を見てみたら東京にミサイルが発射されるなどのシーンがあって、ちょっとびっくりしました。
元々第1作目は、スマホを落としてしまう、という出来事から始まり、恐ろしい事件に発展していくということが描かれていました。
スマホを落とす、忘れる、というのは誰しも一度はやったことがあるようなことだと思うので、それが加速度的に恐ろしい展開になっていくので、サスペンスとしてとても自分事感があったと思いました。
そういう1作目は好きだったので、冒頭に書いたようなスケール感になってしまうと、無理やり続編を作るためにスケールアップしているようにも思え、ちょっと違うのではと感じたのが、予告を見た時の印象でした。
そのため期待度としては低めに設定していたと思います。
「スマホを落としただけなのに」はシリーズではあるのですが、主人公は変わっていきます。
一作目は犯人浦野に執拗に狙われてしまう女性、麻美。
二作目は浦野を追っている刑事、加賀谷。
そして最終作である本作は浦野が主人公です。
浦野というキャラクターは今までのシリーズでも描かれていたように非常に複雑な人物です。
自分の母親から虐待された経験から、母親に似た女性への執着心が異常に強く、また愛情を与えられなかったため他人を傷つけることに対しても禁忌がありません。
ただ人一倍孤独も感じているからか、自分と同じような境遇であった加賀谷に対しては、共感も持っています。
彼はモンスターでありながらも、人から愛されることに対して渇望している人間らしさも併せ持っているのです。
彼は、彼や加賀谷と同じように親に虐待された経験を持つスミンと出会います。
彼も、そして彼女も互いに同じ境遇であったことから、シンパシーを感じていきます。
本作は彼のそういった人間らしい側面に光を当てていき、複雑な彼の人物が立体的に描かれているように感じました。
このような作品がシリーズ化していく時にありがちなのが、極端なアウトローが次第に”いい人間”になっていくことがあります。
それはやや興醒めに感じる時があるので、見ている途中はそのような懸念も感じていました。
しかし、です。
ラストについては書けませんが、個人的には納得の結末でした。
伏線もうまく回収してきたと思います。
万事がうまくいくハッピーエンドは興醒めしてしまうので、非常にうまい着地点であったと思いました。

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