2020年7月24日 (金)

「ステップ」 共感、ただ共感

しばらく前に予告編を見た時から泣けてしまった作品です。
というのも自分も3歳の娘の子育て真っ盛りで、やはり自分のことのように感じてしまうのですよね。
主人公の健一は娘が1歳半の時に病気で妻を亡くしてしまったシングルファーザー。
それから男手ひとつで娘を育てていく様子が、娘が小学校を卒業するまで描かれます。
うちは夫婦二人で育てているのにも関わらず、子育てには悪戦苦闘です。
それをたった一人で仕事をしながらと考えると、その苦労は想像できないくらいです。
私も自分の親の世代に比べてみれば、断然子育てに関与しているとは思います。
イクメンという言葉が普通になり、父親が子育てにちゃんと関わるというのが一般的になっていたので、そのことにはあまり抵抗はありませんでした。
とは言いつつも、妻との家事分担ではそれぞれ言い分があり、喧嘩もしますし、また子供のことでイレギュラーなことが発生するとやはり大変です。
本作でも健一が仕事と娘の世話の両立がうまくできない時に「ああ、もう無理かもしれない」と呟く場面がありますが、こういうのは分かりますね。
彼ほど大変ではないにせよ、仕事と家庭の負担が一気にくると泣き言の一つでも言いたくなるというのは、子育てしているお母さん、お父さんは一度ならずあるのではないでしょうか。
とは言いつつも、それでも子育てを続けていけるのは、やはり子供の成長を感じられるからだと思います。
うちは今3歳ですが、もう会話は大人並みで、基本的に体が小さいだけで基本的にはもう大人と中身はそうそう変わらないのではいかと思うくらいです。
お友達と喧嘩したらちょっとボヤいたりしていますし、泣いている子がいたら慰めたりもする。
赤ちゃんに対してはお姉さんぽく世話をしてみたりする。
私が玄関にくつを出しっぱなしにしたりすると片付けて、と注意してきますし。
いろいろな場面でそういう成長を感じられる時、日々の苦労は忘れてしまいます。
世の中の風潮的に男性の育児参加が普通になってきたということもあるのですが、娘が生まれた時になるべく子育てには関わろうと思っていました。
私は結構歳をとってからの子供でしたので、二人目はあまり考えられませんでした。
ですので、子供の成長を見られるのは一度きり。
子供の成長は早いので、そのたったひとつの機会を見逃したくないと思ったのです。
もしかすると娘が成人する時まで生きているのかしらとも思ったりも時々思うのですよね。
先日、初めて娘が補助輪なし自転車に乗りました。
他の子に比べて圧倒的に早いタイミングなのですが、ほとんど苦労することなくパッと乗れたんです。
その瞬間に立ち会っていたのですが、結構感動したのですね。
こういう瞬間があるからこそ、親は頑張れる。
本作でも健一が日々仕事と子育ての両立に苦労しながらも、やっていけるのは娘の成長を感じられたからだからこそだとも思います。
ずっと一緒にいるからこそ、他の父親は見過ごしてしまったことを彼は見ることができた。
それは彼にとって宝物だと思います。
本作は2歳頃の娘、6歳ごろの娘、12歳頃の娘との日々が描かれます。
自分の子供の頃はあまりしっかりしていた記憶はないのですが、子供は子供ながらにしっかりと考えているというのは、自分の子供を見ていても思います。
6歳くらいになったら、こんな大人びたことを言うようになるのかなと思ったりしながら見ていました。
ありふれた言い方ですが、やはり優しい子になってもらいたいと思いますね。
本作の健一の娘も、親の愛情、そして周囲の人からの愛情を受けて育ったからこそ、優しい心根の女の子に育ちました。
自分が子供の親になるまでは全く実感は持っていなかったですが、子供が成長し、それを助けられることにこそ自分が存在する意味があるのだということを本気で思うようになりました。
そのようなことは映画や本などで見たり聞いたりして、表面的にはそうだなと思っていたのですが、リアルに自分の気持ちとしてそう思っているのです、今は。
本作も子供がいない時に見ていたら、違う感想になっていたかもしれません。
この作品は親の感じる気持ちを本当にストレートに素直に描いてくれて、そのため直球で心に響いた作品でした。
 
死んだ奥さんが残した壁のマジックの跡。
これの使い方が非常に印象的でした。
こういうセンスがある監督さん、いいですね。

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2020年7月12日 (日)

「水曜日が消えた」 巧みな脚本

事故により奇妙な多重人格となってしまった青年の物語。
彼は7つの異なる人格を持っている。
そしてその人格は曜日ごとに切り替わっていく。
すなわち、月曜日の人格は月曜日だけ、火曜日の人格は火曜日しか生きていない。
彼らは同時には存在できないので、日毎の申し送りを付箋で行っている。
この物語は7人の人格の中の一人「火曜日」の視点で語られる。
彼らは夜中に人格が入れ替わるため、12時前には必ず就寝する。
朝起きた時には翌日の人格に切り替わっているのだ。
しかし、ある日「火曜日」が目覚めた時、それが水曜日であることに気づく。
今までなかった出来事に「火曜日」は驚くが、火曜日には会うことができなかった図書館の女性に初めて出会い、心惹かれる。
そしてその翌週も「火曜日」に水曜日は訪れた。
「水曜日」が消えたのだ。
そしてとうとう「木曜日」も消えた。
7つあった人格が次々に消えていっているのだ。
そして最後に二つの人格が残った。
「火曜日」はどうなるのか、消滅するのか、生き残るのか。
非常にアイデアに満ちた脚本だと思いました。
原作ものかと思いきやオリジナルの脚本とのこと。
そしてそれを書いているのは本作の監督も務める吉野耕平さん。
し、知らない・・・。
短編映画は何作か監督されているようなのですが、実写の長編は本作が初めてらしいです。
予告を見た時から、面白そうだなという期待がありましたが、どちらかというとサスペンス的な作品かと思っていました。
多重人格というとそういう展開になる作品が多かったので。
本作はどちらかというと、ロマンチックでもあり、ハートウォームでもある作品でした。
脚本・監督の両方を務めているので、いくつかのカットにその後の展開で意味が出てくるように工夫されていて、ハッとするところがいくつもあります。
新人監督とは思えない巧みさだと思いました。
上記であらすじを書きましたが、その後の展開はネタバレになるので、なかなか書きにくいですね。
何度か象徴的に出てくる同じようなカットがあるのですが、同じように見えて実はちょっとづつ変わっています。
そのこと自体にとても意味があるので、注意して見ていてくださいね。
最近の邦画はわかりやすいストーリーのものが多いので、この作品のように凝った脚本のものがなかなか出てこない。
見ていて展開に唸る、といったものが少ないのですよね。
「カメラを止めるな」などもその部類かと思うのですが、出来が良ければ当たるのですから、こういう作品をもうちょっと作ってくれると嬉しいと思ったりします。

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2020年3月 3日 (火)

「スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼」 和製レクター

前作「スマホを落としただけなのに」は、現代人に欠かせないスマホというアイテムから、隠していた自分が丸裸にされていくという恐ろしさを描きました。
私たちにとってあまり身近なツールであるからこその怖さは、見ている人誰もが自分ごとのように感じられたと思います。
主人公もそして真犯人も本当の自分を偽って生きているというのも、アカウントの方が自分らしいことがあるかもしれないという現代人の一側面をうまく表していたと思います。
非常に今現在という時代を映し出していた作品であったと感じました。
前作で主人公の二人を凌駕するほどの存在感を放っていたのが、真犯人である浦野でした。
物語の前半はただのその他大勢のキャラクターであるように見えたのに、後半でその正体が分かったあたりからの異様なほどの存在感たるや・・・。
私はその時ほとんど初めて成田凌さんを認識したのですが、演技の振れ幅に圧倒されました。
おそらくそのような観客も多かったのでしょう、浦野がさらに重要な役となるのが今回の続編です。
浦野は前作で逮捕されているので、彼はまさに「囚われの殺人鬼」です。
本作の主人公は前作で浦野を逮捕した加賀谷刑事です。
前作では犯人のミスリードの対象となっていた人物ですが、彼もまた闇を抱えている男であり、浦野とついになる様な立場です。
まさにこの二人はレクター博士とクラリスのような関係で、新しく起きた事件に挑みます。
ミステリーとしての出来としては、残念ながら前作の方が上であったような気がします。
前作は主人公そのものが謎の大きな要素であり、後半それまでの前提が大きくひっくり返ることがミステリーとして俊逸でした。
それに加えて彼女を狙う犯人が誰かという謎解きも重なり、謎が複層的であったところも凝っていたと思います。
それに比べると本作はミステリーとしてはシンプルでありましたし、前作に比べて主人公たちは素直な人であったため、どんでん返しのようなものもありません。
見所はというとやはり浦野というキャラクターでしょう。
まさに和製レクターとも言えるキャラクターとして異彩を放っていたと思います。
主人公ら側になびくことなく、彼は彼の通常人とは異なる価値観に従って行動します。
レクター博士がクラリスに協力しているように見えながら、その残忍性は少しもなくなることなかったように、浦野もまた彼の価値観を変えません。
そのあたりのぶれなさはある意味見ていて気持ちがよく、そしてそれを演じる成田凌さんのパフォーマンスにも感心しました。
邦画にはあまりいないタイプのヴィランとしてさらに魅力が出てきたと思います。
最後ではまた次につながるような印象のシーンもありました。
次回作はありますでしょうか・・・?
再登場を期待したいところです。

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2020年2月 9日 (日)

「ジョジョ・ラビット」 偏見

第二次世界大戦中のドイツ、少年ジョジョにとってヒトラーはアイドルであった。
彼はファシズムがなんたるかを理解して、ヒトラーを好きになっているわけではない。
大人を含めて世の中が彼に熱狂していたから、ジョジョも熱に浮かされているようにヒトラーを崇拝していたのだろう。
冒頭のナチスの熱狂を表すシークエンスにビートルズなどの音楽を当てているのはうまいアプローチだと思った。
こちら側がビートルズに熱いコールを送ったのと同じように、彼らは「ハイルヒトラー」と声を上げたのだ。
ナチスというと、人間とは違う生き物ほどに違う人々にも思えてくるが、彼らも同じ人間であるということが伝わってくる。
おそらく戦時の日本も同じようなところがあったのだろう。
あまりに大きな熱狂の渦の中にいると、それ以外のものが見えなくなってくる。
同調圧力もあるだろうし、そもそもその他の選択肢の情報が入ってこないので、価値観が単一になってしまう。
ジョジョはそういう熱狂の中で成長してきたので、ヒトラーを崇拝してしまうのも無理もない。
彼にとっての唯一の社会であるヒトラー・ユーゲントでジョジョをいじめる少年たち、また教官のミス・ラームなどはファシズムの思想で凝り固まっているので尚更だ。
ジョジョは気が弱く優しい少年なので、心の奥底ではナチスの思想には共鳴していないのだが、そのような社会の中で馴染めない自分の方が悪いと思ったのだろう。
その結果、イマジナリー・フレンドとしてのアドルフを生み出したのだ。
しかし、彼の唯一無二の価値観を揺るがすのが、壁の中に隠れていたユダヤ人の少女エルサとの出会いだ。
ジョジョが教わってきたユダヤ人像とは全く異なる、賢く美しい少女に彼は惹かれていく。
彼の価値観が次第に綻んでいくのだ。
また熱狂の中にあっても、その渦の中に飲み込まれず自分が信じる視点に立っている者もいる。
ジョジョの母ロージーもその一人だ。
彼女は人知れずエルサを匿い、そして秘密裏にナチスに対しての抵抗運動をしていた。
あの時代のドイツというと全ての人がナチスの思想に支配されているというように思ってしまいがちだが、そうでない人もいたということだ。
よく考えてみれば、日本でも少なからず戦争に反対していた人がいたわけで、ドイツでも同じような人々がいたというのは当たり前なのだ。
しかし、彼らにとっては生きにくい時代であったということは変わらない。
結局ロージーは悲劇的な結末を迎えるようになってしまう。
ジョジョの世界観はエルサとの出会い、そして愛する母との別れによって決定的に変わる。
守りたいものを守りきれなかった経験を経て、彼の中に守りたいものを守ろうという勇気ができたのだ。
感銘を受けたキャラクターがもう一人いる。
ジョジョが所属しているヒトラー・ユーゲントの教官の一人であるキャプテンKだ。
彼はやる気があるのだかないのだかわからない男だが、陰ながらジョジョのことを気にかけている。
彼自身もナチスの思想に共感していないように見えるが、適当な感じを装って生きにくい世の中で生きていっているように感じる。
彼は何度かジョジョのピンチを救うが、最後は彼を救うために「ナチスとして」殺されてしまう。
皮肉的ではあるが、とてもカッコいい男だと思えた。
ナチスがユダヤ人をある種の枠をはめた見方で見て、迫害していたのと同じように、現代の我々もあの時代のドイツ人が全てナチスであったように思いがちである。
しかし、それは実は人々をある型にはめて見ているということでは同じであるということに気づく。
どうしても人はステレオタイプに捉えがちである。
それが偏見なのだが、それはかなり意識しないとなかなか自分がそのようなフィルターで見ているということに気づかない。
本作はコメディようなところもあるが、そういう人間の本質に気づきを与えてくれる作品であると思う。

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2019年12月28日 (土)

「屍人荘の殺人」 現実と非現実のバランス

まったくの予備知識を持たずに鑑賞しました。
基本的にはミステリーもの、特に名探偵ものが好きなので。
探偵者でよくある舞台設定としては、雪山の山荘や孤島など、外部の人が出入りできない場所、いわゆるクローズドサークルがあります。
タイトルからして「屍人荘」がクローズドサークルの舞台となるのだろうと想像はできましたが、そのような状況を作る方法が奇想天外で非常に驚きました。
後から思えば、それもタイトルに書いてあったのですけれども。
不思議なバランスで作られている作品です。
事件が起こり、それがどのように実行されたか、そして犯人が誰なのかということの謎解きでは、とてもオーソドックスに物理的に可能な可能性をロジカルに解いていきます。
この辺のアプローチは古典的な探偵小説のような趣があります。
非常に現実的で曖昧なものが入る余地があまりないように感じられます。
けれどもその推理劇が展開している場所が作られているのは非常に非現実的な理由によるものです。
ここについてはSFサスペンスや怪奇ものといった趣があります。
このような古典的で非常に現実的な要素と、現代的で非現実的な要素が一緒くたになっているというのが不思議な感覚でした。
あくまで非現実的な設定は状況を作るものであって、犯行そのものは論理的に組み立てらているのが、難しいところを逃げていないように感じました。
観ていたとき、ちょっと雰囲気が既視感あるなと思っていたのですが、「TRICK」でした。
よくよく監督名を見てみたら木村ひさしさんで、脚本は蒔田光治さんでした。
まさに「TRICK」のコンビ。
浜辺美波さん演じる剣崎比留子のキャラも奇妙でしたが、これも「TRICK」風ですよね。

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「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」 まさに夜明け

公開後より賛否両論が巻き起こっておりますが、皆さんは「スカイウォーカー・サーガ」の最終作をどう見られたでしょうか?
私個人としては「スター・ウォーズ」シリーズとしてとても楽しめる作品だと思いましたし、この長いサーガを完結させるにあたりこういう終わりか方しかなかっただろうと思いました。
本作をあまり評価しないという方の意見としては、旧来のファンに媚びすぎ旧来の作品の焼き直しのように見えるといったものが多いように思います。
このような意見はその通りだとも思いますが、反面この非難は昨今のハリウッド映画においては「スター・ウォーズ」以外のシリーズでも多く見られることです(最近で言えば「ターミネーター」等)。
そのような多くの作品よりも多く、激しくその点において非難されるのはこのシリーズへの期待の裏返しとも言えます。
私としては旧来のファンにちゃんと目配せしつつ、「スター・ウォーズ」らしさ、世界観はしっかりと守りながら、話をまとめ上げた手腕を評価したいです。
なんとか話をまとめあげることができただけ、という意見も見かけましたが、これだけの大河ストーリーを破綻させずにまとめあげるのがどんなに大変なことか。
新三部作に関してはルーカスの手を離れたため、予定されたゴールはなかったのだと思います。
そのため「フォースの覚醒」は初期三部作を擬えただけという非難を受けました。
個人的には手堅くファンの反応を見ながらリスタートさせることができたと思いました。
次のライアン・ジョンソンによる「最後のジェダイ」は「フォースの覚醒」への非難を受けてか、問題提起型の挑戦的な内容であったと思います。
新三部作の主人公であるレイがスカイウォーカーとは何の縁もゆかりもないと衝撃の事実を提示しました。
ある意味「最後のジェダイ」はそれだけであったとも言えます。
無茶振りともいえるこの課題を本作では非常に見事に回収し、さらには過去の全ての作品を締めくくることができる結末を用意したと言えるかと思います。
 
<ここから先はネタバレ>
 
予告編でパルパティーンの笑い声が聞こえたときは、ちょっと嫌な予感がしました。
それこそ過去三部作をなぞるような結末になるのではないかと。
確かに新三部作のファースト・オーダーは帝国軍の焼き直しに見え、迫力不足であることは確かです。
ただそれでパルパティーンによる帝国の復活が描かれたとしたら、私もこの作品を支持はしなかったでしょう。
前作においてレイはスカイウォーカーとゆかりがないことは明らかになりました。
けれども本作のサブタイトルは「スカイウォーカーの夜明け」です(英語ではTHE RISE OF SKYWALKER」)。
このタイトルが意味するものは・・・。
スカイウォーカー家の血筋ではないのにもかかわらず、なぜレイはジェダイに匹敵するほどのフォースを操ることができるのか。
前作で提示されたこの謎の答えはシンプルではありましたが、意表をついたものでもありました。
かつて多くのジェダイがいたことからわかるように、元々フォースを操れるのはスカイウォーカー家だけではありません。
中でもスカイウォーカー家の血筋の者は強力な力を持ってはいますが。
しかし、スカイウォーカー家と同じほど、いやそれ以上の力を持つもう一つの別の家系がありました。
それこそがパルパティーン。
かつてアナキンをダークサイドへ導き、ダースベイダーとした皇帝パルパティーンはスカイウォーカー家以上の力を持っているのは明らかです。
レイはその血筋であったのです。
今考えると予告のパルパティーンの笑い声は非常にフェアな仕掛けで、レイの出生の謎の答えのヒントでもあったのですね。
完全なるダークサイドであるパルパティーンと、あくまでもライトサイドに踏みとどまるレイの対決は見応えがありました。
カイロ・レンは新三部作においてとても微妙なキャラクターであったと思います。
善と悪の間で揺れ動き、それこそダースベイダーになりきれない子供のような印象がありました。
しかし本作において自分が立つべきポジションをしっかりと見定めることができたのは良かったと思いました。
子供が大人になった時と言えるかもしれません。
ラストの戦いのあたりでは、最後はカイロ・レンとレイが結びつき、新たなスカイウォーカー家が始まるという終わりかたになるかと思いきや、そうはなりませんでした。
結果、カイロ・レンは逝き、スカイウォーカー家は断絶してしまったのです。
全ての戦いが終わり、レイは物語の始まりの場所タトゥイーンのルークの生家を訪れます。
そこで通りかかった老女にレイは名前を尋ねられます。
彼女は「レイ・スカイウォーカー」と答えます。
レイだけがこのシリーズにおいてラストネームを持っていませんでした。
それは彼女が孤児であったからと説明をされていました。
元々そこには意味はなかったと思いますが、その設定を非常にうまく利用したラストシーンであったと思います。
血筋としてのスカイウォーカーは絶えました。
しかし、レイにとってルークは父、レイアは母、そしてカイロ・レンは兄のような存在であるのだと思います。
彼らの意思を彼女は継いでいくという決心をしたのでしょう。
スカイウォーカーはただのラストネームではなく、大いなる役割を持つ称号のようになったのかもしれません。
かつてのジェダイのように。
このシーンではタトゥイーンの二つの太陽の日の出が映し出されます。
まさにこれは夜明け(RISE)であり、新たなるスカイウォーカーの始まりでもあったのだと思います。
プロデューサーのキャスリーン・ケネディが再びスカイウォーカーが登場するかもしれないといった発言があったようですが、可能性としてはあり得ますよね。
私としては期待したいところです。

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2019年12月15日 (日)

「ゾンビランド:ダブルタップ」 全員揃う奇跡

ホラー映画は苦手なのですが、前作は知り合いのお勧めもあって行ってきたのでした。
昨年の「カメラを止めるな!」もあってか、日本でも今となってはゾンビコメディ映画は市民権を得ている感もありますが、当時はまだまだマイナーな存在。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」という知る人ぞ知る名作はありましたが。
公開していたのも渋谷の単館だったと思います。
出ている人も作っている人もマイナーな人ばかり。
しかし、蓋を開けてみれば非常に面白い。
コメディなので基本的に笑える映画なのですが、ロードムービーの体裁を取っていて、意外と情感もある。
当時のレビューを見てみると、名作「ミッドナイト・ラン」になぞらえていました。
先ほど出ている人はマイナーな人ばかりと書きましたが、主人公ら4人のメンバーと言えば、ジェシー・アイゼンバーグ、ウディ・ハレルソン、エマ・ストーン、アビゲイル・ブレスリンと錚々たるメンバーばかり。
公開当時は子役でブレイクしていたアビゲイル・ブレスリンが一番有名だったのではないでしょうか。
ジェシー・アイゼンバーグは前作の翌年の「ソーシャル・ネットワーク」のマーク・ザッカーバーグでブレイクし、ウディ・ハレルソンは「ハン・ソロ」や「ハンガー・ゲーム」などのメジャー映画や「スリービルボード」などの渋めの作品まで広く活躍中です。
エマ・ストーンに至っては「ラ・ラ・ランド」でアカデミー主演女優賞を獲得しているスターとなっています。
「ゾンビランド」の続編があると聞いたときは、今となってはスターとなった彼らがこんなB級映画(失礼!)に出演するのだろうかと思ったのですが、全員揃っていることにびっくりです。
出演者が10年前から変わって現在ではブレイクしたと書きましたが、制作者も同様です。
監督のルーベン・フィッシャーは昨年公開の「ヴェノム」を監督し大ヒットさせました。
そして脚本家のレット・リースとポール・ワーニックは「デッドプール」を書いています。
このように輝かしいキャリアを進んできた出演者も制作者もオリジナルメンバーがここまで揃うのは奇跡ですね。
じゃあ、作品が変わってしまったかというと、そういうわけではありません。
いや、もうバカバカしい役はやれないと出演者が言ったりしないかと他人事ながら心配していたわけです。
10年後の設定というのに、前回と変わらない(成長が感じられない)キャラクターにホッとしたりしました。
基本的には前作とトーンは大きく変わっていないので、前作を初めて観た時の衝撃はなかったのは正直なところではあります。
けれども期待していたことはしっかりやってくれているというところはあり、裏切られたということではありません。
変わらない4人が相変わらずいてくれてただ嬉しかったですね。
次回また10年後よろしくお願いします。

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2019年10月23日 (水)

「ジョーカー」 共感できる異端者

ジョーカーとは、みなさんご存知の通り「バットマン」に登場する有名なヴィラン(悪役)。
本作はベルリン映画祭で金獅子賞を受賞し、アメコミ映画でありながら、映画通にも高い評価をされている。
過去の「バットマン」作品でも、ジョーカーは非常に印象的なキャラクターとなっていた。
今までそのキャラクターを演じてきたのはジャック・ニコルソン(「バットマン」)、ヒース・レジャー(「ダークナイト」)、ジャレッド・レト(「スーサイド・スクワッド」)。
それぞれが魅力的にエキセントリックなジョーカーというキャラクターを演じてきた。
彼らは同じジョーカーというキャラクターを演じてはいるのだが、監督や彼らの解釈により、違った味わいを持つキャラクターとなっていたと思う。
しかしながら、ジョーカーというキャラクターが持っている本質は共通しているように私は考えている。
私が考えるジョーカーとは、人間社会が持つ秩序・ルール・価値観を根本的に否定する者であるということ。
例えば、ジャック・ニコルソンが演じる「バットマン」のジョーカーはまさに「笑いとばしながら」社会の秩序を破壊していくし、ヒース・レジャーの演じる「ダークナイト」のジョーカーはバットマンの持つ正義・価値観を嬲るように否定する。
「スーサイド・スクワッド」のジョーカーは印象がやや薄いが、ストーリーに対して唐突に現れ、かき回す印象はルールを無視するジョーカーらしいところかもしれない。
ジョーカーは何ら既存の社会の秩序・ルールに対して、価値を感じていない。
守ろうとも思っていないし、壊そうとも思っていない。
どうでもいいものなのだ。
本作はある男がジョーカーになるまでを描いた物語である。
その男アーサーは、すでに強固に組み上げられた社会秩序の最下層に位置していた。
劇中ではずっとアーサーがその社会秩序に虐げられる様を描く。
それでも彼はその社会に適応しようとはするが、社会は彼を受け入れず、社会と彼のズレが次第に大きくなっていく。
そして唯一の拠り所となっていた母親が自分を虐待していたという事実を知り、そして夢であったテレビショーで笑い者にされるという体験を経て、彼は自分自身を否定しようとしたところまで行ったのだと思う。
マレーのショーに出演していたとき、彼は本当に自殺をしようとしていたのだろう。
マレーに関しても殺そうとして殺したのではないように思う。
もう彼にとって社会などはどうでもいい存在となったのではないか。
自分から適応しようとも思わないし、それを壊そうとも思わない。
マレー射殺後、彼は逮捕されるが、彼に影響を受けた市民の暴動のどさくさで解放される。
彼が暴動を煽動しているわけではない。
彼にとって社会はどうでもうよく、彼は道化のように踊っているだけだ。
ラストのシーンはどのように考えるか色々解釈はあるだろう。
私はこの物語はどこからか(おそらくマレーのショーに出たあたり)がアーサーの妄想であったという説をとりたい。
そもそもアーサーは妄想癖があった。
それはアパートの同じ階に住む女性とのエピソードが全て彼の妄想であったということからもわかる。
母親が自分のことを虐待していたという事実をあの時点で知るというのもおかしい。
もしかすると虐待されていた事実から自分自身が逃れる術として妄想に逃げ込んでいたのかもしれない。
またアーサーが一度マレーのショーで舞台に上がったというシーンも彼の妄想であったのだろうと思う。
本作が今までのジョーカーと異なる点は共感性であると思う。
アーサーの状況は同情するにあまりある。
誰もが彼の境遇を不憫だと思うし、彼が幸せになってほしいと思うだろう。
しかし彼は迫害され、その結果、社会を破壊する行動に走る。
これは正しくはないが、わからないわけではないと感じるところであると思う。
アメリカで公開した時、警察などが非常に警戒したという話を聞いた。
その時は大袈裟な、と思ったりもしたが、今はわからないわけでもない。
過去の作品におけるジョーカーは社会を嘲笑うものではあったが、通常の市民ではない異端者であった。
しかし本作では通常の市民が、社会を嘲笑い、秩序を否定する存在となったのだ。
危険は外ではなく、中にいる。
劇中で描かれているように、影響を受け極端な行動に走る者が出たらと警戒するのもうなづける。
本作のジョーカーは異端者ではなく、共感できる者であるがゆえに危険な存在なのだ。

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2019年9月15日 (日)

「SHADOW/影武者」 陰陽変転

「HERO」「LOVERS」などの武侠アクションで有名なチャン・イーモウの最新作です。
いままでの作品は鮮烈な色彩を上手に使っているイメージがありましたが、今回の「SHADOW」は水墨画のようなタッチを感じさせる作品になっています。
彼の今までの作品はアクションも優美でありましたが、本作ではさらに一層東洋的な美しさ感じられるようになっています。
映像は水墨画のように白と黒で描かれてますが、それは作品のテーマにも通底します。
作品の中にしばしば太極図(陰陽魚)が登場しますが、これは道教のシンボルです。
陰と陽とはしばしば入れ替わり、また陰の中にも陽があり、陽の中にも隠があるということを表していると言われています。
まさにこれはこの作品のテーマです。
主人公の影武者は、都督が身の危険を感じたため、その代わりとなって表の舞台に出ていきます。
そこは敵国とのせめぎ合い、そしてまた自国の中での権力争いにより陰謀術中渦巻く世界でした。
影武者は都督として振る舞い、常に命の危険にさらされながらも彼自身の機転によって何度も危機を乗り越えます。
都督は命の危険にさらされているからか、また権力への妄執ゆえか、精神的に歪みはじめていました。
都督は影武者の母親の行方を知っているということを材料に影武者を操っていました。
国のものには彼は国王と違い清廉の士と思われていましたが、彼もまた権力の亡者であったのです。
影武者は都督の妻に心を奪われ、そして彼女も影武者である彼に惹かれ、二人は身を重ねてしまいます。
都督はその様子も覗き見をしていました。
彼の心に去来するものはなんだったのでしょうか。
もはや妻を抱けなくなったことを影武者が代理となることで埋め合わそうとしているのか、また影武者が自分が思うように行動することによって、自分が人を操ることの満足感を得ているのか。
彼は陽のように見えながらも陰でありである存在です。
彼らが仕える王もそのようなものの一人です。
愚王のように見えながらも、実は策士であることが終盤に明らかになります。
しかし彼の策により、彼の大事な者は命を落としました。
彼も陰陽併せ持つ男でありました。
そしてまた主人公である影武者も。
陰陽が激しく入れ替わる展開の中、彼もまた変転していきます。
しかしその変転した先には幸なのか不幸が待っているのか。
人の世は正義と悪を明確に定義できるものではありません。
清はその中に濁を持ち、濁はその中に清を持つ。
まさに太極図が表している考え方が、本作を貫いています。
だからこそ映像が水墨画のようなタッチで描かれることとなったのでしょう。

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2019年7月20日 (土)

「それいけ!アンパンマン きらめけ!アイスの国のバニラ姫」さりげなく盛り込まれている教訓

昨年に引き続き、娘と「アンパンマン」の映画に行ってきました。
一年前は映画館そのものが初体験だったので、彼女も落ち着きなかったですが、今年は昨年よりはお行儀は良かったですね。
でも、小さい子がフラフラと歩き出すと釣られて歩き回ったり・・・。
「アンパンマン」の映画だから許されますが、まだ他の映画に一緒に連れて行くのは厳しいですかね・・・。
去年の映画はアンパンマンその人が物語の中心にいたのですが、今回の映画ではアンパンマンというよりはゲストキャラクターのバニラ姫とコキンちゃんが主人公とも言えるようなストーリーでした。
バニラ姫はアイスの国の女王を引き継ぎましたが、魔法のスプーンでアイスを生み出すことができません。
なんどもなんども練習してもできるようにならないため、彼女はアイスの国を逃げ出してしまいます。
その途中でバニラ姫はコキンちゃんと出会い仲良くなります。
しかしその間、バニラ姫がいなくなったアイスの国はばいきんまんに乗っ取られてしまいました。
それを知ったバニラ姫とアンパンマンたちは取り戻そうとしますが、やっぱりバニラ姫は魔法のスプーンを使いこなすことができません。
それで苦しむバニラ姫を見て、コキンちゃんはなんと魔法のスプーンを捨ててしまうのです。
バニラ姫が辛いのだったら、無理して女王の役割などをやることはないということです。
自分のやりたいことに忠実に素直に生きるコキンちゃんならではですよね。
コキンちゃんが人気があるのは、一見わがままに見えつつも、自分がやりたいことに素直であるという点かもしれません。
一度、魔法のスプーンを失い、またアイスの国のために戦ってくれるアンパンマンたちの姿を見ているうちにバニラ姫の中で女王としての自覚が目覚めます。
そして魔法のスプーンを扱えるようになるのです。
彼女に足りなかったのは、女王としての自覚と他の誰かの喜ぶ顔が見たいという気持ちだったのですね。
毎度のことながら「アンパンマン」のお話にはそういった教訓がさりげなく入っているから子供に見せるのにも安心です。
まあ、そういう教訓に我が娘が何か学び取ったのかは不明ですが・・・。
彼女はなかなかアンパンマンが出てこないので、「アンパンマンはどこ?」とずっと言っておりました。

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