2019年10月23日 (水)

「ジョーカー」 共感できる異端者

ジョーカーとは、みなさんご存知の通り「バットマン」に登場する有名なヴィラン(悪役)。
本作はベルリン映画祭で金獅子賞を受賞し、アメコミ映画でありながら、映画通にも高い評価をされている。
過去の「バットマン」作品でも、ジョーカーは非常に印象的なキャラクターとなっていた。
今までそのキャラクターを演じてきたのはジャック・ニコルソン(「バットマン」)、ヒース・レジャー(「ダークナイト」)、ジャレッド・レト(「スーサイド・スクワッド」)。
それぞれが魅力的にエキセントリックなジョーカーというキャラクターを演じてきた。
彼らは同じジョーカーというキャラクターを演じてはいるのだが、監督や彼らの解釈により、違った味わいを持つキャラクターとなっていたと思う。
しかしながら、ジョーカーというキャラクターが持っている本質は共通しているように私は考えている。
私が考えるジョーカーとは、人間社会が持つ秩序・ルール・価値観を根本的に否定する者であるということ。
例えば、ジャック・ニコルソンが演じる「バットマン」のジョーカーはまさに「笑いとばしながら」社会の秩序を破壊していくし、ヒース・レジャーの演じる「ダークナイト」のジョーカーはバットマンの持つ正義・価値観を嬲るように否定する。
「スーサイド・スクワッド」のジョーカーは印象がやや薄いが、ストーリーに対して唐突に現れ、かき回す印象はルールを無視するジョーカーらしいところかもしれない。
ジョーカーは何ら既存の社会の秩序・ルールに対して、価値を感じていない。
守ろうとも思っていないし、壊そうとも思っていない。
どうでもいいものなのだ。
本作はある男がジョーカーになるまでを描いた物語である。
その男アーサーは、すでに強固に組み上げられた社会秩序の最下層に位置していた。
劇中ではずっとアーサーがその社会秩序に虐げられる様を描く。
それでも彼はその社会に適応しようとはするが、社会は彼を受け入れず、社会と彼のズレが次第に大きくなっていく。
そして唯一の拠り所となっていた母親が自分を虐待していたという事実を知り、そして夢であったテレビショーで笑い者にされるという体験を経て、彼は自分自身を否定しようとしたところまで行ったのだと思う。
マレーのショーに出演していたとき、彼は本当に自殺をしようとしていたのだろう。
マレーに関しても殺そうとして殺したのではないように思う。
もう彼にとって社会などはどうでもいい存在となったのではないか。
自分から適応しようとも思わないし、それを壊そうとも思わない。
マレー射殺後、彼は逮捕されるが、彼に影響を受けた市民の暴動のどさくさで解放される。
彼が暴動を煽動しているわけではない。
彼にとって社会はどうでもうよく、彼は道化のように踊っているだけだ。
ラストのシーンはどのように考えるか色々解釈はあるだろう。
私はこの物語はどこからか(おそらくマレーのショーに出たあたり)がアーサーの妄想であったという説をとりたい。
そもそもアーサーは妄想癖があった。
それはアパートの同じ階に住む女性とのエピソードが全て彼の妄想であったということからもわかる。
母親が自分のことを虐待していたという事実をあの時点で知るというのもおかしい。
もしかすると虐待されていた事実から自分自身が逃れる術として妄想に逃げ込んでいたのかもしれない。
またアーサーが一度マレーのショーで舞台に上がったというシーンも彼の妄想であったのだろうと思う。
本作が今までのジョーカーと異なる点は共感性であると思う。
アーサーの状況は同情するにあまりある。
誰もが彼の境遇を不憫だと思うし、彼が幸せになってほしいと思うだろう。
しかし彼は迫害され、その結果、社会を破壊する行動に走る。
これは正しくはないが、わからないわけではないと感じるところであると思う。
アメリカで公開した時、警察などが非常に警戒したという話を聞いた。
その時は大袈裟な、と思ったりもしたが、今はわからないわけでもない。
過去の作品におけるジョーカーは社会を嘲笑うものではあったが、通常の市民ではない異端者であった。
しかし本作では通常の市民が、社会を嘲笑い、秩序を否定する存在となったのだ。
危険は外ではなく、中にいる。
劇中で描かれているように、影響を受け極端な行動に走る者が出たらと警戒するのもうなづける。
本作のジョーカーは異端者ではなく、共感できる者であるがゆえに危険な存在なのだ。

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2019年9月15日 (日)

「SHADOW/影武者」 陰陽変転

「HERO」「LOVERS」などの武侠アクションで有名なチャン・イーモウの最新作です。
いままでの作品は鮮烈な色彩を上手に使っているイメージがありましたが、今回の「SHADOW」は水墨画のようなタッチを感じさせる作品になっています。
彼の今までの作品はアクションも優美でありましたが、本作ではさらに一層東洋的な美しさ感じられるようになっています。
映像は水墨画のように白と黒で描かれてますが、それは作品のテーマにも通底します。
作品の中にしばしば太極図(陰陽魚)が登場しますが、これは道教のシンボルです。
陰と陽とはしばしば入れ替わり、また陰の中にも陽があり、陽の中にも隠があるということを表していると言われています。
まさにこれはこの作品のテーマです。
主人公の影武者は、都督が身の危険を感じたため、その代わりとなって表の舞台に出ていきます。
そこは敵国とのせめぎ合い、そしてまた自国の中での権力争いにより陰謀術中渦巻く世界でした。
影武者は都督として振る舞い、常に命の危険にさらされながらも彼自身の機転によって何度も危機を乗り越えます。
都督は命の危険にさらされているからか、また権力への妄執ゆえか、精神的に歪みはじめていました。
都督は影武者の母親の行方を知っているということを材料に影武者を操っていました。
国のものには彼は国王と違い清廉の士と思われていましたが、彼もまた権力の亡者であったのです。
影武者は都督の妻に心を奪われ、そして彼女も影武者である彼に惹かれ、二人は身を重ねてしまいます。
都督はその様子も覗き見をしていました。
彼の心に去来するものはなんだったのでしょうか。
もはや妻を抱けなくなったことを影武者が代理となることで埋め合わそうとしているのか、また影武者が自分が思うように行動することによって、自分が人を操ることの満足感を得ているのか。
彼は陽のように見えながらも陰でありである存在です。
彼らが仕える王もそのようなものの一人です。
愚王のように見えながらも、実は策士であることが終盤に明らかになります。
しかし彼の策により、彼の大事な者は命を落としました。
彼も陰陽併せ持つ男でありました。
そしてまた主人公である影武者も。
陰陽が激しく入れ替わる展開の中、彼もまた変転していきます。
しかしその変転した先には幸なのか不幸が待っているのか。
人の世は正義と悪を明確に定義できるものではありません。
清はその中に濁を持ち、濁はその中に清を持つ。
まさに太極図が表している考え方が、本作を貫いています。
だからこそ映像が水墨画のようなタッチで描かれることとなったのでしょう。

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2019年7月20日 (土)

「それいけ!アンパンマン きらめけ!アイスの国のバニラ姫」さりげなく盛り込まれている教訓

昨年に引き続き、娘と「アンパンマン」の映画に行ってきました。
一年前は映画館そのものが初体験だったので、彼女も落ち着きなかったですが、今年は昨年よりはお行儀は良かったですね。
でも、小さい子がフラフラと歩き出すと釣られて歩き回ったり・・・。
「アンパンマン」の映画だから許されますが、まだ他の映画に一緒に連れて行くのは厳しいですかね・・・。
去年の映画はアンパンマンその人が物語の中心にいたのですが、今回の映画ではアンパンマンというよりはゲストキャラクターのバニラ姫とコキンちゃんが主人公とも言えるようなストーリーでした。
バニラ姫はアイスの国の女王を引き継ぎましたが、魔法のスプーンでアイスを生み出すことができません。
なんどもなんども練習してもできるようにならないため、彼女はアイスの国を逃げ出してしまいます。
その途中でバニラ姫はコキンちゃんと出会い仲良くなります。
しかしその間、バニラ姫がいなくなったアイスの国はばいきんまんに乗っ取られてしまいました。
それを知ったバニラ姫とアンパンマンたちは取り戻そうとしますが、やっぱりバニラ姫は魔法のスプーンを使いこなすことができません。
それで苦しむバニラ姫を見て、コキンちゃんはなんと魔法のスプーンを捨ててしまうのです。
バニラ姫が辛いのだったら、無理して女王の役割などをやることはないということです。
自分のやりたいことに忠実に素直に生きるコキンちゃんならではですよね。
コキンちゃんが人気があるのは、一見わがままに見えつつも、自分がやりたいことに素直であるという点かもしれません。
一度、魔法のスプーンを失い、またアイスの国のために戦ってくれるアンパンマンたちの姿を見ているうちにバニラ姫の中で女王としての自覚が目覚めます。
そして魔法のスプーンを扱えるようになるのです。
彼女に足りなかったのは、女王としての自覚と他の誰かの喜ぶ顔が見たいという気持ちだったのですね。
毎度のことながら「アンパンマン」のお話にはそういった教訓がさりげなく入っているから子供に見せるのにも安心です。
まあ、そういう教訓に我が娘が何か学び取ったのかは不明ですが・・・。
彼女はなかなかアンパンマンが出てこないので、「アンパンマンはどこ?」とずっと言っておりました。

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2019年7月19日 (金)

「スパイダーマン ファー・フロム・ホーム」 スパイダーマンのDNA

「アベンジャーズ:エンド・ゲーム」に引き続き公開されている「スパイダーマン」の最新作。
MCUのフェイズ3の最終作として位置づけられています。
「エンド・ゲーム」のレビューの時にMCUはマルチバース的な安易な解決法を取らなかったと書きました。
ですので本作の前半でミステリオが登場し、彼が別のユニバースである「アース833」からやってきたと言った時、ちょっと驚きました。
マーベルのコミックはマルチバースは公式の設定となっていて、幾つものユニバースがあり、そのそれぞれにナンバーが付いています。
しかしマーベル・シネマティック・ユニバースでは今までマルチバースの設定は頑なに避けていたので、どうしてフェイズ3の最後の最後で安易な方向に行ってしまったのかとややがっかりもしました。
マルチバースそしてタイムトラベルは様々な矛盾や厄介ごとを一気に解決してしまうことができる魔法の杖ではあるのですが、これを安易に使ってしまうと物語の緊張感が一気になくなってしまうのですよね。
まさになんでもありになってしまうので。
MCUは非常に注意深く組み立てられてきているサーガであるからこその魅力もあったわけで、それが台無しになってしまうようにも感じたのです。
「エンド・ゲーム」が見事に作り上げられていたので、なおさら。
しかし!
そういうこちらの気持ちがわかっていたかのような、まさかの後半の展開には驚きました。
やはりMCUは安易な解決策に飛びつきはしなかった!
そこを書いてしまうとネタバレになってしまうので、そこには触れません。
ぜひ皆さんの目で確かめてください。
今回登場するミステリオというキャラクターをジェイク・ギレンホールが演じているというのがポイントです。
彼は一癖も二癖もあるキャラクターを演じるのが非常に上手い人です。
まさにミステリオは彼にぴったりのキャラクターであると言えるとだけ言っておきましょう。
 
またスパイダーマンそのものの物語としても見応えがあります。
「エンド・ゲーム」で師匠とも父とも言えるアイアンマンことトニー・スタークを失ってしまい、失意を覚えるピーター・パーカー。
アイアンマンは幾人もいるスーパーヒーローの中でも特別な人でありました。
人々もそう思っています。
そのスーパーヒーローの中でも最高のスーパーヒーローを失ってしまった人々はポストアイアンマンを求めます。
フューリーもその一人。
しかしピーターはその重荷を背負うことができないと、彼を避けます。
スパイダーマンは「親愛なる隣人」と呼ばれますが、ピーター自身も背負うことができるのは自分の身の回りの手がとどく範囲で精一杯と思っています。
世界を救うなどということは到底できないと。
サム・ライミ版、マーク・ウェブ版の「スパイダーマン」はピーターがスパイダーマンになるところを1作目で描きました。
どちらも彼は叔父さんの「大いなる力には大いなる責任が伴う」という有名な言葉でスーパーヒーローとして自覚します。
MCU版の「スパイダーマン」はこの有名なベン叔父さんのエピソードを採用していません。
本作を見て思ったのは、MCU版の「スパイダーマン」は2作目にして、スパイダーマンがヒーローとしての自覚を持つということを描こうとしているのだということです。
つまりはトニー・スタークは、ある意味ベン叔父さんと同じ位置付けであるのではないかということです。
トニー・スタークはあからさまに自覚を持てと言ったわけではないのですが、彼が残したメッセージから感じるのは、自分がいなくなった後の世界を任せたいという気持ちです。
ピーターはその重荷から逃げ回っていました。
しかしその結果、世界を危険な目に合わせてしまいました。
自分の弱さを自覚し、それだからこそ自らが持っている力とその責任を自覚することができたのです。
過去の「スパイダーマン」のピーターと同じように、ヒーローとして成長します。
その成長こそが「スパイダーマン」らしさ、「スパイダーマン」のDNAなのかもしれません。
<ここから先はネタバレ>
最後の最後でスパイダーマンの正体がバレるというのには驚きました。
ただこの衝撃はMCUの記念すべき第1作「アイアンマン」のラストでトニー・スタークが自分こそがアイアンマンであると宣言することにも通じる気がしました。
正体がバレたピーター・パーカーはより一層その力と責任を自覚しなくてはいけない立場となったのです。
まさにポストアイアンマンとしてピーターはその責を担うことができるのか、そこが第3作のポイントになるのではないでしょうか。

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「ザ・ファブル」 二人の関係

これは面白かった。
事前に大きな期待をもって見たわけではなかったので、余計に得した気分になりました。
オープニングシークエンスからしてかっこいい。
今回岡田准一さんが演じるのは「ファブル」と呼ばれる殺し屋。
彼はどんな相手でも6秒以内に殺すと言われているほどの伝説の殺し屋です。
冒頭のシークエンスでは、彼が依頼を受け、ヤクザとロシアンマフィアの会合を襲うというシーンが描かれますが、これが見応えがあります。
今までも数々の作品で見せてきた岡田さんの身体能力もさることながら、「ボーン・アイデンティティ」などにも関わったファイトコレオグラファーが担当しているということで、本作のアクションはスピーディで洗練されています。
一瞬で状況を判断し、相手の急所を狙っていく様をスタイリッシュなグラフィックで描いているのにも監督のセンスを感じました。
このオープニングで一気に魅了されました。
後半のアクションシーンもなかなかに見応えがありました。
人を殺してはいけないと言われた佐藤は、大勢のやくざ者や殺し屋が襲いかかってくる中でも頑なにその命令を守ります。
いくら6秒で人を殺すことができる男であっても多勢に無勢。
そして守らなければならない人間を背負っての戦いです。
息もつけないほどの緊張感がありながら、センスが感じられるアイデアを盛り込んでいる切れ味の良いアクションでした。
このまま岡田さんのアクションをみせていく作品かと思いきや、ちと違う。
岡田さん演じる佐藤の育ての親とも言うべき、ボスから彼は一年間殺しを封じ、ただの一般人として生活せよという命令を受けます。
とはいえ、彼は子供のころより殺し屋として育てられた身。
いわゆる一般人の生活にはいまひとつ馴染みがないのです。
そんな彼のチグハグな行動が笑いを誘います。
佐藤の思考は、ある目的に最適で確実な方法をとるということと、状況変化に対応して臨機応変に対処するということが基本にあると思います。
ある意味、非常に無駄がない。
とはいえ人間というものは普通はとても無駄があったり、矛盾があったりする行動をとるものなので、だからこそ佐藤の行動が何かおかしさを伴うのではないかと思います。
本人はいたって真面目なのに笑いを誘うという佐藤を演じる岡田さんの芝居のニュアンスも絶妙だと思いました。
佐藤にとってボスの命令は絶対。
人を殺せという命令も。
こう書くと、彼とボスは冷たい関係のように聞こえます。
佐藤はボスに洗脳されたのではないのではないかと。
しかし本作を見ているとこの二人の関係はそのようなものではないと思えます。
佐藤がボスに寄せる気持ちは絶対的な信頼だと感じられます。
洗脳され、刷り込まれてしまったというわけではないようです。
まさに親を子が信頼するような気持ちに近い。
またボスにしても、陰ながら佐藤を守り、支えています。
おそらくずっと自分も殺し屋として生きてきたと思われるボス。
彼がある日、出会った子供の佐藤は一人では生きていけない状態であった。
彼が自分一人で生きていく術を彼は教えたいと思ったのでしょう。
しかし、ボスが教えられるのは殺すということだけ。
彼はそれを佐藤に教えた。
一人で生きていけるようにするために。
そして佐藤もそれを感じ、だからこそ絶対的な信頼を持つようになったのでしょう。
しかし、ある時ボスは佐藤を普通の人間として生きていけるようにしたいと考えたのです。
何がきっかけであったのかはわかりません。
自分のように殺し屋として一生を終えるようにはしたくなかったということなのでしょうか。
もしかしたらボス自身の寿命が尽きようとしているのかもしれないのかなとかも考えました。
自分がいなくなる前に、佐藤が普通の人間として生きていけるようにしたいと思ったのかもしれません。
もうちょっとこの二人の関係性を見てみたいと思いました。

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2019年6月29日 (土)

「スノー・ロワイヤル」 オヤジ、暴走する

明らかに配給会社は意識していたと思いますが、予告編から受ける印象は同じくリーアム・ニーソン主演の「96時間」。
あの作品は面白かった。
中年というよりは熟年と言ってもいい年頃の男が主人公ながら、キレキレのアクション映画となっていたのが、新鮮でした。
リーアム・ニーソンは「シンドラーのリスト」で名前が知れ渡るようになっていましたので、それまでアクションというイメージはあまりなかったと思います。
しかし、「96時間」以降はアクション映画に数多く出演し、このジャンルのイメージが強くなりました。
ですので、本作も予告を観た時は「96時間」的なアクション映画という印象を受けました。
確かに本作はアクション映画なのですが、観ていると途中から何か座りが悪いようなシュールな印象を受けます。
アクション映画の構造というのは実は単純で、基本的には主人公にとって許しがたい敵を、どうにかして最後はやっつけるという展開なのですね。
しかし、本作はその構造がこれがややずれています。
基本的にはこの作品は主人公は殺された息子の復讐劇となっています。
通常のアクション映画であれば、息子を殺した犯人側が主人公に対抗していくことにより物語は展開していくと思います。
しかし、本作は違う。
主人公は真犯人を追っていくのですが、その過程での殺しを、舞台となる街で対抗するマフィア同士が互いの仕業であると勘違いをし、大きな抗争へ発展してしまいます。
つまり主人公の行動が起点とはなっているのですが、どんどん展開があらぬ方向に転がっていってしまうのです。
主人公の思惑とは関係がないところで、築かれる累々とした死体の山。
不条理と言うべきか、シュール言うべきか。
アメリカの評論では「『96時間』をタランティーノが撮ったらこうなる」というものがあったようですが、言わんとしている事はわかります。
個人的にはタランティーノはそれほど得意な方ではないので、本作についても後味すっきりな感じが少なく、苦手な感じはしました。
上でも書いたアクション映画の定石からややずれるというところが座りの悪いと感じたところなのですが、それこそがこの作品の特徴であるとも言えます。
この展開を、この感覚を楽しめるかどうかで、この作品の評価が分かれると思います。

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2019年4月20日 (土)

「シャザム!」 DCも快進撃中!

一時はマーベルに遅れをとっていた感もあったDCですが、「ワンダーウーマン」「アクアマン」と当ててきて、勢いがついてきている気がします。
マーベル・シネマティック・ユニバースに対抗し、現在DCはDCエクステンデッド・ユニバースを展開していますが、最近はややユニバースとしての縛りを緩めてきていると思います。
初期のDCエクステンデッド・ユニバースは非常にザック・スナイダーの個性が強く出ていたがために、それぞれのヒーローの個性がやや抑えられていたようにも感じます。
これはMCUが一つの大河ドラマとして機能しつつも、それぞれの作品についてはチャレンジングな監督起用をすることにより、単独作品としての個性も大切にするということと対照的です。
最近ヒットしているDC作品については以前よりも、それぞれのヒーローの世界観を重視しているように思え、それが観客にも受け入れられうまくいっているように感じられます。
そのような流れの中での本作「シャザム!」です。
初期のDCエクステンデッド・ユニバースのザック・スナイダー的なダークなトーンとは全く相いれない作品の登場です。
個性的という点ではマーベル映画の中の「デットプール」的な位置付けじゃないですかね(あっちほど下品ではないですが)。
本作はスーパーヒーローものと言いつつも、基本的にはコメディであり、スーパーヒーローのパロディとも言えます。
ですので、スーパーヒーロー作品への造詣が深いほど楽しめる作品になっています(しかし、知らなくても全く問題がない)。
本作のヒーロー、シャザムの姿はまさに古典的なヒーローそのもの。
ムキムキ筋肉にぴっちりタイツ、そしてマント。
ぶっちゃけこれはスーパーマンのパロディです。
しかしこの作品がイケてるのは、いかにもヒーローなその姿に宿っている精神が14歳の少年であるということです。
シャザムはスーパーパワーを持っていますが、中身は14歳の少年なので、いたずらなどにも使っちゃう。
見かけと精神のアンバランスさが本作のコメディのエッセンスです。
肉体と精神が入れ替わったりでアンバランスな行動が笑いとなるというのは様々にありますが、それをヒーロー映画でやったのが新しいところですね。
コメディ映画とはなりますが、ヒーロー映画としてもしっかりとしています。
シャザムの力を受け継いだ少年ビリーはその力の意味を全く分かっていませんでした。
しかしスパイダーマンの「大いなる力には大いなる責任が伴う」ではないですが、その力がことによれば人を傷つけ、そしてまた人を救うことができるということに気づきます。
また彼の力を奪おうとするヴィランが登場し、彼自身が何のためにその力を使いたいのかということを考えるきっかけを与えます。
彼はその力を身近な大切な人を守りたいという決心をするわけですが、そこはヒーロー映画らしい胸が熱くなる展開となっています。
最後のヴィランとの対決についても、あっと驚くような展開となります(ネタバレになるので書きません)。
主人公ビリーの境遇やシャザムの力の謎などの設定が一気に回収されるので、この辺も小気味いいですね。
マーベルに負けず劣らず、DCも快進撃を続けています。
次にも期待ですね。

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2019年3月24日 (日)

「スパイダーマン:スパイダーバース」奇手でありながら王道

まずこの作品を評価するにあたり最も重要な点はその映像表現でしょう。
まるでアメコミのテイストがそのままアニメーションとなって動き出したかのようです。
それだけでなく、カメラワークなどは実写よりもさらに大胆でアニメーションでなくてはできない動きをしていました。
マイルズがピーター・B・パーカーを抱えながらスイング(というか引きづられている)シークエンスなどは実写じゃできないと思います。
技術的にできないというよりはアニメ的な誇張表現なためです。
それによりとてもポップで、ハイテンポ、かつユーモアのある作品に仕上がっています。
あまりこのようなテイストのアニメーションは見たことがなく、アニメの表現として一つの可能性を切り開いたような気がします。
いわゆるジャパニメーションやディズニーのアニメとはまた違った可能性が提示されたということで画期的であったと思います。
マルチバースを正面切って扱った点も興味深いですね。
アメコミでは一つのキャラクターを長い間使い回す(言い方が悪いけれど)際にマルチバースという概念を都合よく使ったりします。
マルチバースとはいわゆる多元宇宙というものですね。
もしスパイダーマンの物語が一つしかなかった場合、後から作られる作品はどうしてもその前提を守っていかなければ話として成立しません。
それを回避するためにスパイダーマンがいる宇宙が無数にあるという考え方にし、スパイダーマンのいる様々な物語が無数にあるというのがマルチバースの考え方です。
都合がいいと言えばそうなのですが、ファン的にはずっとそのヒーローの活躍を見ることができるので、出版社的にもファン的にもWinWinな考え方なのでしょうね。
日本でいうと平成仮面ライダーのシリーズはちょっと考え方が近いかもしれないです。
「ディケイド」や現在放映中の「ジオウ」などはスパイダーバース的な考え方とも言えなくもありません。
アニメであること、多元宇宙を扱っていることということでこの作品はどちらかというと「スパイダーマン」の映画としては奇手のように感じるところもあるかもしれませんが、とは言え「スパイダーマン」としての王道は外していません。
主人公はマイルスはある日蜘蛛に噛まれてスパイダーマンの能力を得ます。
彼はその能力をどうするべきかがわからない。
「スパイダーマン」というシリーズは特殊な能力を得た若者がその力をどのように使うべきかを悩み、そしてかけがえのない人の死によって人々のために使おうと自覚するということがきっかけになり、ヒーローとして覚醒するのです。
まさに本作は正しく「スパイダーマン」の物語でありました。
マイルスは慕っていた叔父の死、そしてまた別世界から来たピーター・B・パーカーら仲間のスパイダーマンたちとの別れを通じて、スパイダーマンとして生きることを決意します。
まさに「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ということを自覚したわけです。
これは少年が自分の生きる道を見つける物語でもありました。
「スパイダーマン:スパイダーバース」は奇手に見えながら王道であった作品だと思います。

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2019年3月21日 (木)

「映画しまじろう しまじろうとうるるのヒーローランド」 娘の映画体験記第2弾

昨年の「アンパンマン」の映画に引き続き、娘との映画体験第二弾です。
半年前は2歳になったばっかりで、さすがにおとなしく座って見ることができませんでしたが、今回ははたしてどうだったでしょうか。
劇場に入るときに、映画を見ながら使う紙のメガホンを手渡されます。
半年前は同じようなグッズをもらっても、本人は何に使うのかよくわかっていないようでしたが、今回は違いました。
映画が始まる前から口にメガホンをあてて、「しまじろう〜!」と叫んでました。
ずいぶん理解力が上がっています。
椅子にも最初はおとなしく座っていて、映画が始まるのをワクワクして待っている様子。
本編始まる前の予告の間から「まだかな、まだかな」と言っていました。
こういうのは半年前はなかったですね。
「しまじろう」の映画は歌っても踊ってもOKということになっているので、そういう説明が入ります。
娘も「しまじろう〜」と声を上げていました。
いよいよ本編が始まります。
正直、お話としてはたわいがありません。
同じ幼児向けの作品として「アンパンマン」と比べると、向こうの方がストーリーとしても良くできていると思いました。
こちらとしてはかなり寝落ちしそうな状況でしたが、娘の様子をみると食い入るようにみています。
この半年くらいで映画のストーリーの理解もかなりできるようになった気がします。
実は「しまじろう」の映画は途中でトイレ休憩が入ります。
全部でも1時間もない作品だとは思いますが、ウチ的にはこれはちょっと余計な配慮かなと。
せっかくストーリーに入り込んで見ていたのに、途中休憩のせいで娘の集中力が切れました。
後半はメガホンで応援やら歌ったり踊ったりという要素も入ってくるんですが、席に落ち着いて座れなくなってしまいました。
まだまだだな、娘よ。
最後は他の子と一緒に映画館の通路を走り回る始末。
「しまじろう」の映画だから許されるが、まだまだ他の映画には連れていけないな。
次の「アンパンマン」の映画の時まで、おとなしく見れるようになっているといいけれど。
映画が終わって他の方々が劇場を出ているのに、私は駆け回る娘をつかまえるべく走っておりました。
ああ・・・。    

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2019年3月 2日 (土)

「サムライマラソン」時代劇の魅力を引き出せていない

佐藤健さん主演で、外国人のバーナード・ローズが監督の時代劇「サムライマラソン」。
演技にストイックな佐藤さん、そして外国人の目線で描くということで新しい時代劇になりそうな予感がし、期待して見に行きました。
見終わった時の印象をひとことで言うと凡庸であったということです。
時代劇というジャンルに期待される要素には様々なものがあると思います。
エンターテイメント的な部分で言えばチャンバラ。
佐藤健さんが緋村剣心を演じた「るろうに剣心」は新時代のチャンバラを創出した作品であったと思います。
逆に日本人の心情を描くというのも時代劇の真骨頂だと思います。
山田洋次監督の時代劇三部作などは、殺陣などはあまりない静かな作品ですが、日本人の精神を描けていたと思います。
他にも時代劇の魅力はいくつもあって、いい時代劇というのはそれらをうまく捉え、新しい視点で進化させていったものだと思います。
そういうことを私は「サムライマラソン」に期待していたのですが、あまりそのような印象を持つことはできなかったですね。
いろいろなことを大切に思い作っていることは伝わります。
主人公の甚内は隠密ですから、その素性を明らかにすることはできません。
人々の中に紛れ、目立つことなく生きなければなりません。
そういうことを理解した佐藤さんのストイックな演技もあり、この主人公は劇中でとても静かで目立つことがありません。
それゆえ、物語をドライブしていく役回りには少々辛い。
それを解決する役が雪姫なのだと思いますが、こちらはリアルに隠密というものを追いかけた甚内という役に比べると、とてもファンタジーな印象があります。
囲われた姫が城を逃げ出し、男装して遠足に参加する。
「バレるだろ!」とツッコミを入れたくなりますが、そのあたりは触れないこととなっています。
甚内が知らない隠密が安中藩に紛れ込んでいて、彼らもそれぞれに動き始めているが、それが誰かはわからないというのはミステリー仕立てで面白い設定だと思いましたが、そこはあまり引っ張られなかったですね。
甚内の生き様みたいなものをもっと深掘りすれば、日本人の伝統的な精神などを描けたかもしれません。
殺陣も緊迫感のある場面もありましたけれども、ほんの一瞬なので、それだけではちょっと食い足りない。
ちょいちょいと時代劇として面白そうになる要素はあるものの、いずれも中途半端であるという印象です。
もったいないです。

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