2022年12月17日 (土)

「ザリガニの鳴くところ」彼女の強さ

主人公はノースカロライナの湿地帯で、親兄弟に捨てられ一人で暮らしてきた少女カイア。
彼女は街の人々から「湿地の少女」と呼ばれ、異質な者として謂れのない差別を受けて生きていました。
彼女にとって湿地帯は、自らが生きるための糧でもあり、彼女を守る城でもあり、生きる術を教えてくれる教師でもありました。
本作はたった一人で逞しく生き抜いていくカイアの成長を描く物語でもあり、また人がいかにレッテルで他人を見てしまっているかということの問題提起もしています。
またミステリーとしての面白さも併せ持っていて、様々な視点で興味を引くことができる傑作となっています。
ですので、色々な視点で本作を語ることができると思いますが、ミステリー的な視点で見てみたいと思います。
<ここからネタバレあり>
ある時、湿地帯で街の若者チェイスの死体が発見されます。
当初は事故と思われていましたが、カイアが殺人者として逮捕されてしまいます。
一時期カイアとチェイスは恋人のような関係になっていましたが、実のとことはチェイスには婚約者がおり、彼にとっては遊びであることが露呈して、破局していたという経緯があったからです。
彼女はその事実が明らかになった時、チェイスに詰め寄りますが、かえって彼から酷い暴力行為を受けます。
そして彼は街の有力者の息子であり、彼女を破滅させる力も持っています。
彼女には動機はあったのです。
さらにはカイアは「湿地の少女」と呼ばれる異質な者であり、街の人々は当初は根拠のないまま彼女を犯人扱いしていました。
しかし、裁判を通じて彼女の凄まじい半生が明らかになり、また弁護人の巧みな論述により、彼女は無罪を勝ち取ります。
検察側の思い込みによる犯行経緯の筋書きの荒っぽさも影響与えたと思われます。
作品を見ている我々も彼女に対し、陪審員ように彼女に同情的になっていきます。
カイアは将来夫となるテイトにアドバイスをもらい、彼女の湿地の生物に対する知識を紹介する本を出版することになりました。
チェイスに暴力を振るわれた後に、編集者とカイアが打ち合わせの場ででホタルについて語るところがあります。
カイア曰くホタルの光り方には2種類あるとのこと。
一つは交尾をする相手を引き寄せるため。
もう一つは生きるために相手を捕食するため。
編集者はそれを聞き恐ろしいですね、とコメントをしますが、カイアはその時「生き物には生きるために善悪の観念はないのかも」と言います。
私はこの言葉におやっと思いました。
彼女に取って沼地はまさに教師そのものであり、生きる術をそこから学びました。
また本作のタイトル「ザリガニの鳴くところ」は非常にユニークですが、これもカイアの母親が夫に暴力を振るわれた時に、子供たちに「ザリガニの鳴くところまで逃げなさい」と言います。
そこまでは追いかけてこないから、と。
彼女にとって、自分を破滅させようとするチェイスの存在そのものが生存の危機の原因であり、「ザリガニの鳴くところ」まで逃げるためにはチェイスそのものを消し去らなければいけません。
カイアは湿地帯以外では生きられないのですから。
個人的には編集者との会話でカイアは非常に怪しいと思いつつも、かたや陪審員と同じく同情心は持ちましたし、検察側の飛躍的な推論にも無理があると感じました。
そのように思わせる構成が巧みであり、最後はやはり彼女は無実だったのだと結局は思いました。
ですが、物語の最後のあの展開です。
やはり、とも思いましたが、衝撃的でありました。
彼女は湿地に育てられた生き抜くための強さを持った「湿地の少女」であったのです。

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2022年11月12日 (土)

「すずめの戸締り」場所を慎む物語

廃墟ブームという言葉が何年か前から聞かれるようになってきていた。
かつて人がそこで生活し、働いていた場所が打ち捨てられて朽ちていった場所、それが廃墟。
人はどうして廃墟に惹かれるのだろうか。
それはそこに暮らしていた人々の想いが感じられるからかもしれない。
廃墟になってしまう理由はそれぞれある。
災害によってそこで暮らせなくなったり、産業が成り立たなくなったり、若い人々が土地を離れていってしまったり。
突然である場合も、徐々にの場合もあるだろう。
いずれの場合でも、そこに暮らしてきた人々の想いは確かにあった。
新海誠監督は本作を<場所を慎む物語>にしたかったという。
人が亡くなった場合は、それを弔う儀式がある。
亡くなった人々を自然に返すという儀式を通じ、残された人々も自分の中で整理を行う。
それと同様のことを行うのが本作でヒロイン鈴芽の相手役となる草太が生業とする閉じ師なのだろう。
彼が後ろ戸を封印するときに口にする祝詞がある。
「かけまくもかしこき日不見の神よ
 遠つ御祖の産土よ
 久しく拝領つかまつったこの山河
 かしこみかしこみ
 謹んでお返し申す」
これは自然から預かって人が暮らしてきた土地を自然に返します、ということを述べている。
<場所を慎む>ことにより、土地も喪に服することができるのかもしれない。
人々が暮らし、過去から連綿と続く想いが繋がっていく場所はその想いが土地を鎮めているのだろうか。
その想いが薄まり消えていくところに、みみずは頭をもたげるのだろうか。
本作で唯一、みみずが起きた場所で、寂れていない場所があった。
東京である。
そこで多くの人が暮らすのにも関わらず。
廃墟ではないのにも関わらず。
後ろ戸があったのは、水道橋の地下であった。
これはかつての江戸城の名残だろうか。
東京という街は江戸から明治で、過去からの想いが一度分断されている場所かもしれない。
過去の廃墟の上に東京は作られているのか。
本作は鈴芽が旅する中で人と出会い、土地の想いに触れることより、ようやく本当に母親の喪にふし、前に進むことができるようになる成長の物語である。
彼女も普通の女子高生で、普通に夢を持ち、楽しく暮らしてきていたと思われる。
何か、過去のトラウマに囚われたような少女ではない。
ただ多くの若者がそうであるように、まだ「生きる」ということに特別な思いを持っているわけでもないだろう。
自分もそうだったが、生きているのは当たり前なのだ。
けれど、草太と出会って彼が特別な人となり、それを失う恐怖を感じ、また廃墟にかつて暮らしていた人々の想いも感じた。
旅先で出会う人々のふれあいから、暖かさを感じた。
「生きている」ということは特別である、と鈴芽は学んだのだろう。
最後に再び草太がみみずを封じる時に「人の命が儚いものであるとわかっている。けれどももっと生きたい」と言った。
まさに同じことを鈴芽も思ったのだろう。
鈴芽は母親がそうであったように看護師を見ざしていた。
しかし、旅を経て、その想いはさらに特別なものになったのではないだろうか。

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2022年10月15日 (土)

「さかなのこ」男か女かはどっちでもいい

「南極料理人」の沖田修一監督がさかなクンの映画を撮ったということで行ってきました。
それも主演がのんさん。
のんさんがさかなクン???
そして作品の冒頭に「男か女かはどっちでもいい」との謎の言葉が。
のんさんが演じるのは魚が大好きなミー坊。
ミー坊の幼い時から物語が始まりますが、それを演じているのはどう見ても子役の女の子。
さかなクンのような魚好きな女の子の話なのね、と思って見ていて、学生時代のミー坊の話になっていよいよのんさんが登場。
ん?男子の学生服を着ているぞ?
顔は可愛い女の子なのに学生服。
一瞬ちょっと混乱をしました。
そこでようやく冒頭の言葉「男か女かはどっちでもいい」の意味がわかりました。
そういえば、幼い頃のミー坊はスカートではなく半ズボンを穿いていた。
まさに「男か女かはどっちでもいい」の言葉通りでこの物語に登場するミー坊は男でも女でもない。
最近、男らしさや女らしさといったステレオタイプ的な生き方に窮屈さを感じる人が増えてきています。
またオタクと言われる人々が市民権を得てきて、というよりリスペクトされる存在になってきていて、まさに「普通」って何?という時代になってきています。
私が育ってきた時代は、なるべく周りからずれないようにという日本人らしい同調圧力があるのが普通でした。
圧力を圧力と感じていなかったかもしれません。
そうすることが「普通」だと。
けれど本作のミー坊は好きなことをして生きていくことに迷いがないですし、そして周りの人々もそんなミー坊をリスペクトしています。
まさに男か女か、普通か普通じゃないか、などということは問題にもなっておらず、魚が大好きなミー坊を皆が大好きだということなんですよね。
今、以前よりはステレオタイプな見方は減ってきたとはいえ、まだまだ多くの場面でそのような見方は残っています。
本作はある種のファンタジーで、ミー坊とその周りの人々がいるような世間はまだまだないですが、このようにお互いにそれぞれが好きなことを大事にし、リスペクトしあえる世の中になるといいなと思いました。
私はこのブログの記事を見ればわかるように、特撮好きですし、ロボット好きなわけなのですが、社会人になった頃は好きとは言えなかったですものね。
「え、こいつオタクか」みたいな感じに見られるのはやはり嫌だったですし。
映画好き(これは嘘ではない)くらいでぼやかしていたりしてました。
今は若い人が会社に入ってくると、ゲーム好きとかアニメ好きとか堂々と言いますからね。
いい時代になったものです。

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「スペンサー ダイアナの決意」檻の中の雉

エリザベス女王が死去し、何かとお騒がせなハリー王子も話題になったりと、最近注目を浴びることが多い、イギリスロイヤルファミリー。
その歴史の中でもダイアナ元妃の存在は今でも大きいかと思います。
その衝撃的な最後だけでなく、彼女がロイヤルファミリーを離れるという決断をしたことも当時はショッキングな出来事でした。
彼女がなぜそのような決断をしたのかが、この作品では描かれます。
物語の冒頭よりダイアナの行動はやや常軌を逸したように見えます。
その行動は心を病んでいる人のよう。
劇中でもしばしば彼女は幻視を見たり、食べたものをすぐに吐いてしまったりします。
彼女は幸せな気持ちでロイヤルファミリーに嫁いだものの、そこはまるで牢獄のような場所でした。
ダイアナが息子たちと話す場面で、ここ(王室)には未来はなく、過去と現在は同じという言葉が出てきます。
まさに伝統に縛られている王室を言い当てていると思いました。
至る所に敷きたりがありそれを守ることを求められ、プリンセスとしての役割を演じることを強要され、挙句のはてに夫は他の女性へ気持ちが動いてしまう。
彼女は自分自身ではない何者かになってしまったかのように感じたのでしょう。
劇中でしばしば彼女の少女時代の様子が挟み込まれてきます。
それを見ると彼女は、明るく自由に振る舞う少女のように見えました。
実家であるスペンサー家もそのように彼女を育てたのでしょう。
しかし、ロイヤルファミリーでは彼女は自由の翼を折られた鳥のようでした。
王室の男子が狩をする場面があり、そこの狩場に雉が放たれます。
その雉は、狩られるために従順に育てられていました。
これはダイアナの暗示だと思います。
雉の羽は濃緑と濃赤でしたが、そのシーンの近くでダイアナが身につけていた服の色も同じでした。
ロイヤルファミリーでは、伝統に従順にいなくてはいけない。
しかし、ダイアナは狩場へ侵入し、息子たちをその場から連れて行きます。
そして立ち寄ったファストフードで名前を聞かれた時、旧姓であるスペンサーを名乗るのです。
彼女が狩場へ侵入した時、かつて父親が来ていた上着を着ていました。
雉の色をした服ではなく。
彼女が従順な鳥であることを辞め、スペンサー家の普通の女性として生きていこうという決意を暗示しているように感じました。
ダイアナを演じていたクリスティン・スチュアートは劇中ではダイアナにしか見えなかったです。
彼女が追い込まれ病んでいる様子を見事に演じていました。
彼女はバイセクシャルであることを公にしていますが、そのような彼女がお堅いロイヤルファミリーの一員を演じることに意外さを感じましたが、作品を見ると納得しました。
この物語のダイアナは檻の中から飛び出し、自由に自分らしく生きていくことを決意した人物です。
その人物像はクリスティンも共感するところがあったのではないかと思いました。

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2022年8月13日 (土)

「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」シリーズの集大成

前作「炎の王国」で今まで管理されていた恐竜たちが、人間社会に解き離れたことが示唆されます。
原作者のマイクル・クライトンが「生命は道を見つけ出す」と言っているように、人間がいくら管理していたとしても生命は隙間を見つけ出し、外へ広がっていこうとします。
それはこの「ジュラシック」シリーズで共通して描かれているテーマであり、本作はその思想の集大成となっています。
前作のレビューの際に、その続編は恐竜と人間の戦いとなり、人間の滅びが描かれるのでは無いかと考えました。
しかし、本作は予想に反して、人間と恐竜の共存が描かれていました。
それは今日的なテーマでもあると思いましたし、そもそも生命は他者を滅ぼそうなどとは思うわけはなく(そんなのは人間だけ)、生態系として良いバランスを見つけていこうとするものであるわけですから、理に適った展開であると感じました。
ラストシーンで、現在の地球の生物種と恐竜たちが共存していく世界が描写されます。
生命はバランスをとっていく。
生命の逞しさを描いていると感じました。
人間もそのような生命の一つ。
バランスの中で生きていく存在であるということをもっと自覚すべきですね。
遺伝子操作の功罪についても触れられています。
うまく使えば遺伝病の治療法への解決の道筋が見つけられる。
しかし、悪用すれば予期せぬ変種により環境のバランスが一気に崩されるかもしれない。
管理できると思い込まず、慎重に進めていく必要がありますね。
シリーズの集大成として、出演者も豪華です。
「ワールド」のクリス・ブラッド、ブライス・ダラス・ハワードに加え、「パーク」からサム・ニール、ジェフ・ゴールドブラム、ローン・ダーンが出演しています。
1作目から見ている自分としては感慨深いです。
恐竜とのチェイスなどは、さらにスピード感を出しながら、1作目からある手に汗握るドキドキ感は継続しています。
このドキドキする感じはやはり「ジュラシック」シリーズならではですね。
シリーズの幕引きを丁寧にしっかり行った作品だと感じました。

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2022年7月18日 (月)

「ソー:ラブ&サンダー」トラウマとの対峙

MCUのフェーズ4はそれまでのフェーズに比べると方向性が定まっていないという批判があります。
先般マーベルのプロデューサーが「フェーズ4はインフィニティ・ウォーやエンドゲームの事件から受けたトラウマにキャラクターが向き合うことがテーマ」といった趣旨のことを話していました。
これはとても腑に落ちる内容です。
確かに「ワンダビジョン」「マルチバース・オブ・マッドネス」はワンダがヴィジョンや子供たちを失ったことをどうしても諦めきれないことが起因となっていますし、「ノー・ウェイ・ホーム」も師であるトニー無き後にヒーローとして覚悟を決めるスパイダーマンを描いています。
他にも「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」「ブラック・ウィドゥ」なども多かれ少なかれそのテーマが織り込まれています。
そして本作「ソー:ラブ&サンダー」もそのテーマは強く描かれています。
ソーは数々の戦いの中、多くの愛するものを失ってきました。
母、父、そして弟。
そのためいつしか彼は戦いを疎うようになりました。
しかし、神を次々に殺していく”神殺しの”ゴアも登場により否応なく再び戦いにソーは向き合っていきます。
クリスチャン・ベール演じるゴアも愛する娘を神のために失ってしまった男です。
彼は神を殺せる剣を持ち、神々へ復讐を行います(とはいえ、彼の真の目的は他にあることが広範で明らかになります)。
ソーとゴアは共に愛するものを失った者であり、方や戦いを避け、方や戦いを巻き起こす者となった対照的であると言えるかと思います。
まさにタイトルにある愛=ラブが本作の主題であることがわかります。
もう一つの愛が描かれます。
かつてソーの恋人であったジェーンの再登場です。
彼女は成功を収めた学者となりましたが、末期がんとなり余命幾許もないことがわかりました。
しかし、ニューアスガルドにある破壊されたムジョルニアの前に立った時、その力を得て、マイティー・ソーとなったのです。
彼女はムジョルニアを手にしている時はその力により、がんを抑え込み屈強な体となっていますが、手放すと病に侵された状態に戻ってしまいます。
ジェーンは手にした力で人々を救い、そしてソーとともにゴアと戦います。
彼女はそれによって生を実感し、その命尽きるまで懸命に生きようとします。
ソーもそんな彼女の運命を知った時、共に戦うことを選択します。
愛はいつか失われるかもしれない。
それが怖いからといって何も動かないというのは良きことなのか。
ジェーンの生き様を見て、生あるかぎり、懸命に生きて愛していこうとソーは思ったのではないでしょうか。
フェーズ3の後半からこれまでソーは力がありながらもずっと逃げてきていたのかもしれません。
ある意味、彼はヒーローとしてようやく一皮剥けたかもしれません。
<ここからネタバレあり>
ジェーンを演じたナタリー・ポートマンのマイティ・ソーは素晴らしかったです。
美しくかつ、逞しく。
もっと彼女の姿を見ていたかったですが、そうもいかないようです。
ただ一つの慰めは彼女もアスガルドの神々が死後暮らす場所に行ったようなので、いつか再びソーと出会えることになるであるということですね。
ヴィランであるゴアも深いキャラクターでありました。
彼の本当の狙いは神々への復讐ではなく、愛する娘の復活でした。
自分の命と引き換えに復活させた娘がラブとなり、ソーが親として育てていくことになるとは意外な結末でした。
それでタイトルが「ラブ&サンダー」なのですね。
「ソーは戻ってくる」とあったので、次回はこのコンビの作品が見られるということでしょうか。
ラブを演じていた女の子はソー役のクリス・ヘムズワースの実の子供だそうです。
息の合ったコンビになりそうなので、期待したいです。
監督のタイカ・ワイティティの演出の演出のさじ加減も良かったです。
評価が高い「バトルロワイヤル」は初めてのタイカの作品だったので、見ていて戸惑いがありました。
テイストが大きく変わったためです。
しかし、それから彼の他の作品も見る中で、彼独特のテイストが好きになりました。
そのため本作は非常に楽しめました。
彼の作品は現実の過酷な部分と面白おかしいコメディの部分の両方が入っているのが特徴です。
一見合わない要素なのですが、彼の作品はそのバランスが絶妙で、それぞれがぶつかるのではなく、お互いに高め合うような感じがするのですね。
「ジョジョ・ラビット」などはその印象が強かったですが、本作も同じようなテイストを感じました。
タイカは「スター・ウォーズ」の映画も企画しているとのこと。
「スター・ウォーズ」はディズニー配信も含め、色々作られていますが、MCUのようなエネルギーを個人的に感じられていません。
お約束ごとが多い中で、こじんまりしているようにも感じます。
タイカであればそのようなお約束ごとを蹴散らしてくれるような気がします。

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2022年7月10日 (日)

「ザ・ロストシティ」 80年代の懐かしさを感じる

懐かしい香りのする作品でした。
80年代「レイダース」以降、「ロマンシング・ストーン」など秘宝探検アドベンチャーのジャンルが多く作られましたが、その当時の感覚が蘇ります。
そのジャンルの中でひとつ大きな特徴であったのが、主人公男女の間のロマンティックコメディ的な要素でした。
「インディ」シリーズの中でも特に「魔宮の伝説」でのインディとウィリーのやりとりもそうでしたし、「ロマンシング・ストーン」などは全編コメディの要素が強かったと思います。
本作では女性が主人公で男性(見栄えがいいだけのモデル)が添え物的な扱いなのが現代的ではありますが、基本的には80年代のアドベンチャーコメディの要素が色濃く出ていると思います。
その主人公ロレッタを演じるのがサンドラ・ブロック。
サンドラ・ブロックが一般的に名前が売れたのはキアヌ・リーブスと一緒に出演した「スピード」ですが、その中で彼女が演じたアニーもコケティッシュな魅力があったキャラクターでした。
そのためかサンドラはシリアスよりもコケティッシュでチャーミングな女性がマッチするイメージが強いです。
ですので、本作のようなキャラクターは彼女にベストマッチだと思います。
それもそのはずで本作のプロデューサーに彼女も名を連ねていますので、自身でも自分の強みを理解してこの作品を作ったのだと思われます。
作品としては冒頭に書いた通り、80年代のアドベンチャーコメディの懐かしさは味わえたものの、そのせいか特段に目を引くようなところもないというのが正直なところです。
ブラッド・ピットが非常に勿体無い使われ方をしているのが、面白かったですけれどね!
今度日本で公開されるブラッド・ピット主演の「ブレット・トレイン」にサンドラ・ブロックが出演しているので、その縁で出たということらしいです。

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2022年5月15日 (日)

「シン・ウルトラマン」 オリジナルへのリスペクト溢れる

小学生の頃、怪獣ブーム(再放送で見ていた世代)であったので、「ウルトラマン」には相当な思い入れがあります。
「レオ」までの怪獣はほぼ名前を言えるのではないでしょうか。
「シン・ウルトラマン」の脚本の庵野さん、監督の樋口さんは私よりもちょっと上の世代で、リアルタイムで見れていると思います。
庵野さんが「ウルトラマン」に対して強い思いを持っているのは、大学生の頃に自主映画で「ウルトラマン」を作っていたことからも有名です。
私も大学生になっても特撮好きだったので、庵野さんの自主映画は伝説的な作品として語り草になっていました。
「シン・ゴジラ」で一般的にもメジャーになった庵野さん、平成「ガメラ」でリアリティのある怪獣映画を撮った樋口さんがどのように「ウルトラマン」を新作として作り上げるか、期待がありました。
同時に不安もありました。
いわゆるリブートは旧作を現代的に作り直すという場合と、新解釈をして再構成するという場合がありますが、本作はどちらだろうか?ということですね。
新解釈の場合は、自分の大切にしていたものと違う時、期待を裏切られる可能性があります。
結論から言えば、本作は旧作を大切にしながら現代的にアップデートするという前者の作りであり、非常にオリジナルに対するリスペクトあふれるものでした。
前半戦は次々に日本を襲う禍威獣たちとそれに対抗する禍特対を描きます。
BGMはオリジナルの「ウルトラマン」のものばかりで当時の記憶が蘇ります。
ちなみに選曲は庵野さんが手がけていて、彼のこだわりぶりが感じられます。
個人的にこの場面でこの曲を選ぶという感覚がドンピシャでした。
ザラブのニセウルトラマンやメフィラスの人間巨大化など、印象的なエピソードも踏襲していました。
あの当時も衝撃的でしたが、それを現代の技術で再現するのは感無量ですね。
一番リスペクトを感じたのはウルトラマンという人格を描いたというところです。
第二次怪獣ブームは第二次変身ブームと言われることもあり、同時期には「仮面ライダー」も放送されていました。
「仮面ライダー」はまさに「変身」であり、ある人格(例えば本郷猛)が姿を変えて仮面ライダーになりますが、人格はそのまま本郷猛のままです。
これは当たり前のようですが、「ウルトラマン」では異なります。
ベータカプセルを使用する前はハヤタ隊員ですが、ウルトラマンになった後はハヤタの人格が残っているかはよくわかりません。
人格がないわけではない(首を傾げたりする仕草があったり、子供たちのことを考えて怪獣を倒さなかったりするので)とは思いますが、ハヤタと同一人格かはよくわかりません。
つまりウルトラマンの人格はよくわからないのが、オリジナルの「ウルトラマン」なのです。
本作でもウルトラマンと神永は「融合」と表現されていました。
余談になりますが「ウルトラセブン」がセブンが以前に見た地球人の男の姿を真似て「変身」してモロボシダンになっているので、モロボシダンの人格はセブンそのものです。
あまりウルトラマンの人格が描かれなかった「ウルトラマン」でそれが強く表現されているのが、最終回です。
映画でもほぼそのまま再現されていますが、ウルトラマンがゼットンに敗れ、ゾフィに光の国に連れ戻されようとする場面です。
そこでウルトラマンは自分の意志として、地球人への思いを語ります。
「シン・ウルトラマン」ではこのウルトラマンの意志の部分を全編を通して描こうと試みました。
そのようにして逆に地球人・人類を描こうとしています。
本作に対して影響を与えているエピソードとして37話「小さな英雄」があります。
このエピソードでは、科特隊の技術担当のイデ隊員はいつも新兵器を開発をしても結局は怪獣をウルトラマンが倒してもらうことに無力感を感じます。
人類は怪獣には敵わない、ウルトラマンに任せたほうがいいのではないかと。
結果、イデたち科特隊はウルトラマンのサポートで怪獣を倒すことができます。
これは人類が自らの力で危機を乗り越えようとする意志と力を持つことができるという非常に前向きなエピソードでした。
ウルトラマンはそのような人類の可能性を愛し、最終回のゾフィーとの対話に繋がったのだと思います。
そのようなウルトラマンの思いを本作では深掘りをしたのでしょう。
本作でも科学技術担当の滝が圧倒的なゼットンの力を目の前にして、イデのように無力感を感じる描写がありました。
しかし彼もまたウルトラマンの期待にこたえ、立ち上がり人類の知恵を結集してゼットンに対抗しようとします。
自らの運命を切り開くために戦う人類の力を、ウルトラマンは信じました。
そのようなオリジナルで描ききれなかったウルトラマンの人格、思いを描こうとしたのが「シン・ウルトラマン」だと思いました。
庵野・樋口漁師らしいオリジナルへのリスペクト溢れる作品になったと思います。
とはいえ、ちょっと映像的には気になるところもありました。
「ウルトラマン」で非常に印象的な映像をとった監督で実相寺昭雄という方がいまして、その構図を「実相寺アングル」と言ったりします。
庵野さんはかなりこれが好きで、アニメでも実写でも実相寺監督的なアングルを狙うことが多々あります。
本作では非常に実相寺アングルを多用していて、それがやや鼻につきます。
効果的に使えばいいとは思いますが、これでもかというほど使っているので見づらい感じがありました。
極端なヨリも多用していて、これは普通のカメラだと寄り切れないからか、ハンディのビデオ的な映像となっていて、画面の質感が他と合っていないところもいくつかありました。
庵野監督の実写作品ではしばしばこういう感じのところはあるので、あまりその辺りは気にしないのかもしれないですが、私はちょっと気になりました。

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2022年3月18日 (金)

「THE BATMAN-ザ・バットマン-」アイデンティティの揺らぎ

3時間近くの上映時間にビビりつつも「バットマン」の新作に行ってきました。
監督は「猿の惑星」でも知られるマット・リーヴス。
「バットマン」はティム・バートン版、クリストファー・ノーラン版と名作を生み出してきたので(駄作もあったが)、今回も期待度が高まります。
「バットマン」は幼い頃に両親を殺されたブルース・ウェインがそのトラウマを抱えつつ成長し、ゴッサムシティの悪を自らの手で裁いていく執行者バットマンとなるという基本設定は共有しつつも、それぞれのクリエイターが独自の解釈をし、新たな物語を生んでいます。
ブルースは(クラーク・ケントなどと比べると)非常に複雑な人物なので、キャラクターの堀りがいがあるのかもしれません。
MCUという「正史」があるマーベルでは基本的には様々なキャラクターの解釈はありませんが(マルチバースが導入されていくとそうでもなくなっていくかもしれない)、最近のDCはキャラクター毎の掘り下げをしていき、それぞれのトーンを生み出しているということで、これはまた正しいアプローチのように思います。
<ここからネタバレあり>
さて、本作でバットマンに対するヴィランとなるのはリドラー。
「フォーエバー」のリドラーはイカれたピエロのような感じでしたが、本作のリドラーは非常に怖い。
彼が事件の後に残していく謎は次第次第にバットマンを追い込んでいきます。
本作でも劇中でバットマンは自身のことを「復讐者」と言います。
これは両親を犯罪者に殺され孤児となったブルースが、悪に対抗する正義の存在である、という自らのアイデンティティを表現した言葉だと思います。
しかしリドラーはそもそもブルースが敬愛する父親は善であったのか、という問いを突きつけるのです。
もし悪事に手を染めていたのであれば、何かしらの事情で粛清されたのであれば、因果応報ではないか。
ブルースが立脚する正義の立場が揺らぎます。
そしてまた、リドラーや彼の支持者たちも、ゴッサムシティの悪による犠牲者であることが明らかになります。
同じく親を殺されていても、ブルースには財産があり、難なく生きていくことができた。
しかしリドラーたちは生きていくこともままならない。
彼らの憎しみはバットマンにも向かいます。
なぜ、自分達だけがこのように苦しまなければいけないのかと。
彼らの境遇を知ったブルースは、また自分の立脚点が揺らいだように思ったかもしれません。
「復讐者」という立脚点は、両親を殺された孤児が悪に鉄槌を下すことを正当化するもの。
しかし、もっと不幸な境遇になったリドラーが犯罪者を成敗していくことをバットマンは責めることができるのか。
ブルース=バットマンは自らのアイデンティティの立脚点である「正義」「復讐」というものが揺らいでいくという感覚になったのではないでしょうか。
またブルースが出会ったセリーナもまた母親を失った復讐を実の父親へ行おうとしています。
彼女はまさに復讐を達成するために父親を殺そうとするのですが、ブルースは殺してはいけないと言います。
これもある種の綺麗事を述べているようにも聞こえます。
底辺で暮らしてきた者にとってはそんな綺麗事を言っている余裕はないと。
ブルースが直面したアイデンティティの揺らぎ。
自身は何のために戦っているのか。
正義のため?
自身の父親も邪魔な人間を始末するよう依頼をしていた。
復習のため?
リドラーたちも復讐をおこなっているが、それを責められるのか。
なぜ自分は戦うのか。
ラストの場面で彼は洪水に飲まそうになるゴッサムシティの市民たちを守るために戦い、そして傷ついた人々を救助していきます。
救助隊のように人々を救っていく姿のバットマンはあまり見たことがありません。
しかし、その中でブルースは自分が戦う理由を初めて見出したような気もします。
復讐のためではなく、人々を救うために戦うのだと。
ブルース=バットマンが新たなアイデンティティを獲得したように感じました。

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2022年2月28日 (月)

「355」区別はもはや意味がない

ひとことで言えば女性版の「ミッション・インポッシブル」でしょうか。
タイトルの「355」とは南北戦争の時に活躍した女性エージェントのコードネームだとか。
南米の麻薬王の息子が発明したどんなセキュリティも突破する電子デバイス、いわばこの作品のマクガフィンを巡り、犯罪組織と各国のスパイ組織がせめぎ合います。
アメリカ、ドイツ、イギリス、コロンビア、中国。
各国の諜報組織に所属する女性スパイたちの丁々発止のやりとりは、スリリングで見応えあります。
彼女たちははじめは誰が味方かわからず疑心暗鬼に囚われながらも、マクガフィンを追っていきます。
その追跡の中で繰り広げられるアクションも、女性だからと言ってやわではありません。
男性顔負けのタフさもありつつ、女性らしい華麗さもあり見応えがあります。
前半の山場の港での追跡シーンは緊張感がありました。
まだ敵か味方かわからない同士であるCIAエージェントのメイスとドイツBNDのマリーの直接対決はかなりガチでタフでした。
またラストの高層ビルでの決戦はアクションシーンとして見せ場がかなりありました。
またスパイ映画的には、モロッコでのデバイス追跡シークエンスも緊張感があり、好きでした。
ストーリー的にもハードな場面もありました。
それぞれの女スパイの大切な人々が次々に手をかけられていく場面はなかなか容赦ない感じがあります。
スパイというハードな世界に彼女たちがいる、ということを改めて感じさせた場面です。
アクションとしてもストーリーとしても女性だからこのくらいだろう、というような手加減は基本的に感じません。
一般的にジェンダフリーというと、女性へ配慮するという感じの気分もありますが、本作は女性だから、といった気分は全くなく、男性同等以上のハードな状況を切り開いていく女性たちが描かれます。
男性女性という区別はもはや意味がなく、ミッションを遂行し、正義を守ろうとするプロフェッショナルたちが描かれます。
今の時代だからこそ生まれた作品とも言え、今後もこういった作品が増えていくような予感もしますね。

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