2018年6月23日 (土)

「空飛ぶタイヤ」 己の良心との戦い

三菱自動車によるリコール隠し事件から発想を得た池井戸潤さんの同名小説の映画化作品です。
池井戸さんの作品は、圧倒的な権力に対して人々が一矢報いるとことにより読者も溜飲が下がる思いになるということが共通していますが、まさにこの作品もそうですね。
大手自動車メーカーのリコール隠しに対し、中小の運送会社の社長、メーカー内の社員、取引先の銀行、マスコミの記者らが妨害にも負けずに地道に原因を究明し、最後には一番の黒幕の罪を明らかにします。
大人になり社会の中で生きていると理不尽なことというのはあったりするものですが、大きな力に勇気を持って戦いを挑む物語に皆が心を動かされるのは、自分もそうありたいと皆思いつつも、なかなかできないという現実もあるのでしょうね。
「長いものには巻かれろ」という諺がありますが、諦めてそうなってしまうことも多々あることですしね。
しかし、自分の行為が具体的にどこかのだれかを傷つけてしまうかもしれないという想像力は失いたくないものです。
顔の見えないクレーマー、その他大勢のよく見えない客というものを対応しているという気持ちではいけません。
当然のことながら一人一人のお客様の顔は見えないわけですが、それを想像することができるという気持ちはメーカーに勤める人間としては持っていなくてはいけないことだと思います。
そうなくなってしまうと、本作の常務用のようになっていってしまう。
そしてそれは本人だけではなく、会社自体も傷つけることになるという意味でさらに罪深い。
真面目に働いている社員ですら、巻き込んでしまうわけですから。
三菱自動車、東芝など経営サイドの不祥事は一人一人のお客様の顔が見えなくなってしまい、社内の権力争いなど本質的ではないところにばかり目がいくようになってしまったからなのでしょう。
メーカーはお客様あってのものという意識をずっと持ち続けなければいけません。
また上や得意先に対して間違っていると思ったときに物申すというのは、死ぬほど勇気がいることであるのは間違いありません。
しかし、それを見過ごしてしまった後に、例えば本作のように誰かが傷ついてしまった時に味わう後悔は一生拭えないものになってしまうことでしょう。
その苦しさに比べれば、いっときの勇気を振り絞ることはとても大事なことなのですよね。
おそらく自分でも死ぬほど悩むと思いますが・・・。
赤松運送の社長赤松は会社が潰れるかもしれない状況の中で、譲れないと思い財閥系メーカーと戦います。
またメーカーの中の沢田をはじめ何人かの社員は自らの会社の不正を知り、告発をしようとします。
自分の地位がそれによって失われるかもしれなくても。
彼らは権力と戦っているわけですが、己の良心とも戦っているとも言えます。
大金を積まれたり、ポストを用意するので、口をつぐんでくれと言われたり、また逆に脅かされたり。
それでも自分自身の中にある良心が戦いを諦めることを許してくれない。
自分の良心と弱さの戦いです。
企業で働く人間はもしかしたら、自分も同じような立場になってしまうかもしれないという恐ろしさと、その時に自分も戦うことはできるのかということを問いかけてくる作品でした。

企業人としての自分に対して問いかけをしてくる作品でありましたが、もう一つ家庭人としても問いかけがある作品でした。
日常の中で突然愛する家族がなくなった時、自分はどうするのか。
どう感じるのか。
本作の事件の被害者のお子さんの作文を読んだ時、やはり涙が出てきました。
家族がいる人ならば、これを聞いたら多くの人は心を揺さぶられることでしょう。
だからこそ、企業人は一生活者としての感覚を大事にしなくてはいけないと思います。
当たり前のことですが、企業人も生活者のひとり。
それを常に忘れずにありたい、と再確認させてくれる映画でした。

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2018年3月11日 (日)

「シェイプ・オブ・ウォーター」 本当の強さ

ロマンティックでありながらも何か不穏さも感じるギレルモ・デル・トロ監督らしい予告編で魅了されて鑑賞に行ってきました。
20世紀フォックスサーチライトの映画なので、割とマニアックな部類の作品ですが、結構大きな映画館でもかかっていましたね。
そうしたらアカデミー作品賞受賞!
興行的にもかなり期待されていたのでしょうか。
デル・トロらしくオタク心もありつつ、グロテスクさもありつつつ、そしてまたロマンティックでもあるという彼らしさの出ている作品でした。
そういった作品で作品賞を取れたのですから、デル・トロ監督も本望でしょう。
彼の作品では、異形のものへの愛情が溢れています。
「ヘルボーイ」シリーズもヒーローらしからぬ異形のヘルボーイをヒーローとして描いていて、荒々しい外見に関わらず彼は信頼がおける男であり、またガールフレンドのリズへの恋心などには奥手なキャラクターとして描かれています。
そういえば「ヘルボーイ」ではテレパシー能力があり、心優しい半魚人エイブが登場しますが、これがもしかすると本作にも影響をしているかもしれませんね。
デル・トロは普通でないものへの偏愛がある監督ですが、それが普通の人から見ると奇異に見えることを知っているのでしょう。
そういった普通でないものへの世間の懐の狭さも。
本作においては世間の普通とは異なった者たちが主人公です。
主人公のイライザは言葉を話すことができない女性。
もう一人の主役は半魚人です。
その他の登場人物では、イライザの同居人はホモセクシャルの作家、友人は黒人女性。
描かれている時代は昔の時代なので、彼らもいまほどには世間では受け入れられる存在ではありませんでした。
差別的な表現もいくつか描かれます。
彼らを迫害する軍人、ストリックランドは彼らかすれば「まともな男」です。
「まともである」ということは劇中でもしばしば使われてる言葉ですが、これは何か既存の価値観に縛られているということなのでしょうね。
その価値観から外れた外見、行動をしてしまった時、その価値観を重視する社会からドロップアウトしてしまう。
そうすることに常に恐怖を感じているのが、ストリックランドなのかもしれません。
その恐怖が彼の攻撃的な行動に現れているのでしょう。
そういう意味では彼は本当は弱い。
自分が立っている基本が崩れた時、彼はどのように生きていくのでしょうか。
ラストシーンで彼は半魚人に襲われます。
しっかりと描かれているわけではないですが、喉を傷つけられたので、今後は声を出すことはできなくなると思われます。
まさに彼が迫害をしていたイライザや半魚人と同じくなるのですね。
彼はそういった立場になった時、どのように感じるのでしょうか。
その点においてはイライザは強い。
自分の心だけを信じ、行動をする。
目に見えるもの、聞こえるものを信じるのではなく、自分の心がどう感じるのかだけを信じる。
余計なものには惑わされない。
最初は弱者に見えたイライザが最後には最も強い人に見えてきます。
ストリックランドは逆に追い込まれて、もろく崩れそうに見えmした。
人の本質的な強さは、自分の気持ちに素直になり、それを信じることなのかもしれません

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2018年2月 5日 (月)

「スリー・ビルボード」 怒りと後悔と

DVな夫と別れ、二人の子供を育てている母親、ミルドレッド。
ある日彼女の娘、アンジェラがレイプされた上に殺されてしまう事件が起こる。
所轄署が事件を捜査するものの、操作は進展しない。
半年以上経った時、ミルドレッドは道路沿いの3枚のビルボードに署長ウィロビー宛の広告を掲出する。
その広告がミズーリの田舎町に様々な波紋を引き起こす。

ミルドレッドは娘が殺された日に、たわいもないことで喧嘩をする。
売り言葉に買い言葉。
ティーンの娘を持つ母親なれば、誰も経験があるような口喧嘩だ。
しかし、言ってしまった言葉にミルドレッドはその後、激しい後悔をする。
自分があんなことを言ってしまったから、悲劇が娘に起こってしまったのかもしれない、彼女はそのように思ったかもしれない。
いたたまれない、そんな自分自身への怒りを、彼女は何かに向かって吹き出さずにはおられなかったのだろう。
その怒りは事件を解決することができない警察へ向いたのだ。
しかし警察の署長は業務怠慢なわけではなく、むしろ住民に愛される善人であった。
そして彼は癌を患い、死を目前にしていた。
ミルドレッドの容赦のない攻撃は、署長に味方する人々の怒りを引き起こす。

「怒りは怒りをきたす」という言葉が劇中で引用される。

まさにミルドレッドの自己への怒り、そしてそれが翻った他社への怒りが、また他の者の怒りを引き起こしてしまう。
例えば、警官のディクソンのように。
彼は親愛する署長を攻撃するミルドレッドに敵意を燃やす。
そのような中、ウィロビーは自死をしてしまう。

ミルドレッドは自らが断罪したウィロビー署長の自殺と彼の手紙によって、自分の怒りを見つめ直す。
またディクソンは自らが怒りに任せて広告業の男レッドを突き落としたことを、自分が炎で焼かれ、憐れみをかけられた時に悔いる。
彼らが感じているのは後悔だ。
怒りに任せて振る舞った自分の行為に対する後悔。

けれど怒りの炎は己では完全には消す事はできない。
なぜなら後悔がまた自己への激しい怒りを生んでいるからだ
怒りが怒りを産み、後悔をもまた生む。
そして後悔が怒りを生む。
まさに怒りは怒りをきたす、だ。

同じような怒りと後悔を持った二人が最後に行く道を同じくするのは、必然であったのかもしれない。

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2017年12月24日 (日)

「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」 ジェダイとは何か?

<ネタバレ要素があるのでご注意です>

「スター・ウォーズ」シリーズにおいて欠かせない「フォース」そして「ジェダイ」という存在について、やや哲学的であるにせよルークの口からしっかりと語られていたと思います。
私の解釈としては、「フォース」は世界を作り上げている「理(ことわり)」のようなものであると感じました。
その理とはモノとモノとの物理学的な関係性だけにとどまらず、出来事の因果や運命といったものも含まれるもののように思います。
そしてその理を感じることができ、そしてそれに何かしら影響を与える力を持っている者が、「スター・ウォーズ」世界においては、ルークなどの「ジェダイ」であると言えるでしょう。
しかし、フォースを扱える者=「ジェダイ」であるわけではないということです。
これも個人的な解釈になるのですが、「ジェダイ」という存在は武道で言う所の「○○流」といったような意味合いであると思います。
フォースを正しく扱う力を身につける技術体系を継承していく流派が「ジェダイ」ということではないでしょうか。
師匠と弟子という関係性でジェダイという組織が成り立っているということもその考えを補足すると思います(Ⅰ〜Ⅲなどの過去作で「ジェダイ」が和風テイストであったのも武道の一流派というイメージを想起させます)。
ルークが「ジェダイが滅びることでフォースがなくなることはない」と言った意味はここにあると思います。
あくまで「ジェダイ」は「フォース」を正しく扱う一つの流派な訳です。
「ジェダイ」の対極にあるのが「シス」というわけですね。
「シス」は「フォース」を暗黒面で使う流派というわけです。
「スター・ウォーズ」シリーズはⅠ〜Ⅵまでいわばスカイウォーカー家の歴史とも言える物語となっています。
そのためにスカイウォーカー家の者が「フォースを操れる者」の第一人者というイメージが強くなっていますが、決してそうではありません。
マスターヨーダとか、オビワンとかもスカイウォーカー家ではないですから。
今回、新たな3部作の主人公であるレイがスカイウォーカー家と縁もゆかりもないことが明らかになりました。
それはそれで衝撃的な事実ですが、それゆえに「フォース」がスカイウォーカー家の特別な力ではないということが明らかになりました。
それゆえに「スター・ウォーズ」シリーズはスカイウォーカー家の縛りから解き放たれたとも言えます。
今後新たに「ジェダイ」に変わるライトサイドのフォースの力を操る者が登場してくるかもしれません。
物語の世界が一気に広がり、スピンオフなども作りやすい環境になったと思います。

スペースオペラ作品としては、前回の「フォースの覚醒」の方が上だった感じがします。
今回はルークの話、レイの話、反乱軍の話など複数の物語が並行して語られるので、仕方がないかなとも思うのですが、スペースオペラ映画としての爽快感は前作に及ばない感がありました。
とはいえ、上記のような「フォース」についてしっかり語られることも今まではなかったので、「スター・ウォーズ」シリーズとしては重要な節目の回であったと思います。
ルークの最後も穏やかで良かったと思いました。
彼が最後を迎える星では太陽が二つあり、一つが雲に隠れ、もう一つが雲から現れるという描写がありました。
これはルークの時代が終わり、それをレイが引き継ぐことを暗示しているのでしょう。
彼にフォースが共にあらんことを。

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2017年11月24日 (金)

「ジャスティス・リーグ」 何か既視感が

秋に公開された「ワンダーウーマン」は期待以上の出来で久しぶりにDCの面目躍如となりました。
その流れで本作「ジャスティス・リーグ」も期待していたのですが、蓋を開けて見ると正直あまりパッとしない。
パッとしないのは何でなのだろうと考えて見たのですが、既視感があるのかもしれません。
一つは監督のスタイルの問題。
本作の監督のザック・スナイダーはDCエクステンデッド・ユニバースの中心人物ですが、彼は非常に確固としたスタイルがあるため、どんな作品を見ても彼らしさが出てきます。
特徴的なのはクレイジーホース(フィルムのスピードを可変で激しく変えること)ですが、「300」を見たときは非常に斬新でしたが、今はこの手のヒーロー映画やアクション映画ではかなり使い込まれているので、かなり見慣れてしまった感じはします。
またダークなトーンも彼らしいのですが、スーパーマンでもバットマンでも同じような雰囲気になってしまい、冒頭に書いたような既視感を持ってしまいます。
マーベルが意識的にヒーロームービーの経験がない新しい監督を投入してくるのと対照的ですよね。
またキャラクターの雰囲気に合わせて作品のトーンもあえて変えているところも違います。
「ワンダーウーマン」が一味違った雰囲気であったのも、今までとは違う監督が撮ったからではないかと思います。
ワンダーウーマンも先の作品の方が魅力的だった感じがしますね。
もう一つの既視感はヒーロー集合というアイデアがすでに「アベンジャーズ」などで行われていること。
やはり「アベンジャーズ」は画期的で、あれだけのヒーローが揃うというのはとても刺激的でした。
まさかそういう絵面が見れるとは、という驚きがありました。
そういう点においては、本作「ジャスティス・リーグ」は当初より予定されていたものであり、見る側としても予定調和的であるように感じてしまいます。
また登場するヒーローたちが孤高すぎて何か少し距離感を感じてしまうところもあります。
スーパーマンは完璧過ぎるし、バットマンはある種病んでいる中年。
ワンダーウーマンは単独作品では天然なところもある可愛らしさがあったから良かったですが、本作では成熟し落ち着いてしまって、高嶺の花感が強い。
その他のキャラクターはまだまだよくわからない。
フラッシュだけはちょっと今っぽいチャラさがあって良かったですが。
もう少し、それぞれのキャラクターに感情移入できる隙を用意した方がいいのではと感じました。
どうもDCはユニバースを展開していくのに、作品をリリースしていく順を間違っているような気もします。
今後は「アクアマン」とか単独作品が展開されていくようですが、さてさてどうなりますか。
ルーサーも気にはなりますが・・・。

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2017年11月13日 (月)

「ザ・サークル」 SNSとの付き合い方

「いいね!」とか「インスタ映え」とかSNS発の言葉が一般的になることがよくあります。
現代人なので、当然SNSもやっていますが、毎日毎日何かをアップするほどこまめではありません。
数年前にやり始めた頃は割とまめだったのですが、面倒になってしまって。
いわゆるSNS疲れってやつでしょうか。
誰かのリアクションがあると嬉しくはなるので、色々アップしていたのですが、そのために何かをするという逆転みたいなことに違和感を感じてきたのですね。
ま、仕事もプライベートも忙しくなってきたというのが主な理由ですが。
最近は一ヶ月に一回上げるかどうかですかね。
人の記事も毎日はチェックしてはいません。
気が向いた時だけという感じでしょうか。
あんまり他人のアクティビティは気にならない性分なので。
毎日色々とアップする方もいて、それはそれで好きならばいいとは思いますが、この作品で描かれているように、そういうことを強要される(ま、映画の中でも強要ではなくてマイルドに強いられていますが)のはちょっと違和感を感じますね。
誰かの反応があるというのは嬉しいことですし、人間なので自己を認めてられることの満足感はあるのもわかります。
実際自分の記事に何か反応があれば嬉しいですしね。
ただそのために色々と気にしたり、自分の時間を取られすぎるのも本末転倒な気もします。
また人の記事をチェックするのに時間を取られるのも、なんだかなとも思います。
本作での公開されたメイの行動を大勢の人が見るというのも不思議な感じがします。
「トゥルーマン・ショー」の現代版という感じですよね。
誰かの生活を覗き見るために自分の時間を使っていると考えると何か無駄なような気もします。
その時間で、自分の好きなことやったほうがいいかなと。
隠し事ができない環境になれば、誰も悪いことをしなくなるだろうという考えもわかります。
公開されるかもしれないということは、抑止力にはなるでしょう。
しかしそのために犠牲にするものも大きいですよね。
本当の自分だけの時間がなくなるという犠牲が。
全ての人の生活を覗き見ることができるようになるということは、自分の生活も全ての人に覗き見られるということになります。
人のことを知ることと、自分のしたいことをする時間。
オープンネスとプライベート。
どちらか一方が100%正しいということはなくて、頃合いのいいバランスを見つけることが良いのかなと。
そのバランスも人ごとに違っていても良くて、それを選べるのがいい社会な気がします。
公人の立場の人はかなりオープンでなくてはいけないとは思いますが、パパラッチみたいなものもどうかなと思います。
やはりバランスですかね。

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2017年11月 4日 (土)

「猿の惑星 : 聖戦記」 断絶社会の風刺

最近、「ダイバーシティ」という言葉をよく耳にします
「多様化」という意味で、年齢や性、宗教、障害があるなしなど様々な違いを受け入れて、どんな人でも生きていきやすい社会を目指すということですね。
しかしそういうことをあえて言わなければいけないということは、現実にはそのような多様化はまだまだ実現に至っていないというわけなのですよね。
自由の国アメリカでも最近では様々な格差、断絶が問題になっています。
アメリカに限らず、日本でもそうですし、世界的に、異なる見かけ、価値観を受け入れにくい社会になってきているということです。
本作「猿の惑星 : 聖戦記」はまさにこういった社会を風刺している作品となっていると言えるでしょう。
人間と同じように知能を持つようになった猿たちを人間は恐れます。
自分たちより劣っていたと思っていた者が、自分たちの地位を脅かそうとしていると思う。
そこには本能的な恐れがあることは致し方がないことだと思います。
そもそも人間が自分たちと異なる者に敏感なのは自分たちの種を守りたいという本能からなのでしょう。
人間と猿という違う種族の間の物語と見るとSF的であるのですが、これを異なる価値観、出自の者の間の物語と見ると、先ほど書いたような現代の断絶社会の風刺に見えるのですよね。
特に今回の作品では人間が人間らしさの象徴である言葉を話す力を失っていってしまうというのがショッキングです。
人間が猿とは違うと感じる最も根本的な力を失ってしまう。
それにより自らの地位が失われていくという恐怖を感じる。
このことは例えば、移民の増加により職を奪われていってしまうと考える人々の恐怖に近いものかもしれません。
そのために彼らを排斥しようとし、そしてまた彼らは自分たちを守ろうとする。
これはアメリカやヨーロッパで起こっている移民の問題だけではなく、例えば日本では世代間の断絶(高齢者VS若者)みたいなものとしても捉えられるかもしれません。
こういう断絶社会の戦いはどちらかがどちらかを征服するか、融和するしかありません。
願わくば融和してほしいものですが、なかなかにこれは難しいのは今までの人類の歴史が物語っていることでもあります。
なので本作も人類と類人猿の戦いの結論めいた答えは描いてはいません。
ただ悲観的かといえば、人間の少女が類人猿たちと暮らしていける可能性も描いているので、微かな希望も感じます。

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2017年9月11日 (月)

「関ヶ原」 青年VS大人

歴史を題材にした作品のベースになるのは史実であるのですが、それは文書などによる記録であるため、(私的な書簡を以外では)そこに記載されている人物がどのような性格で、どのように考えていたのかというのは実際のところ想像するしかありません。
だからこそ物語の語り手によって、その人物のキャラクターが想像力により膨らませられていくので、語り手ごとに解釈が変わるわけで、それが歴史ものの面白いところと言っていいでしょう。
日本の歴史において戦国時代というのは、歴史の大きな転換点であり、そのため数々のドラマがあります。
そのためいくつもの小説、映画、ドラマでもこの時代が扱われているのはみなさんがご存知の通りです。
その中でもクライマックスと思われるのが、いわゆる「天下分け目の関ヶ原」です。
数え切れぬほどの作品が関ヶ原を扱っています。
この戦いに参加した大名の中でも、それぞれの作品において描かれ方が全く違うことが多いのが、本作の主人公である石田三成でしょう。
徳川方の見方による物語においては、家臣でありながら豊臣家を思うがままに操る佞臣であったりします。
逆に豊臣方から見れば、多くの大名が豊臣を見捨てる中で、最後まで忠義を尽くす者として描かれます。
立場が変わればその人物を評する意見も異なるということの良い例でしょう。
本作の視点はどちらかといえば、豊臣側のものになります。
ですので岡田准一さん演じる三成は、忠義の士として描かれます。
しかしこの三成はなかなかに生きるのが不器用な男です。
忠義であり、自分を律することができる男なのですが、それと同じレベルを周りの者にも要求するところがあります。
なんというか融通の利かない男なのですね。
三成に対する家康が、計算高く狡猾で、また手練手管を駆使できる男として描かれているので、余計にその融通のなさが目立ちます。
人というのは正論だけで動くものではないということが、自分が真面目なだけあって、わからないというのがこの作品における三成像のように見えました。
それでもその青臭さに惹かれる者はいるわけで、それが島左近であり、大谷刑部であり、初芽であったのでしょう。
初芽に対する三成の想いは、まさに少年のようでもあり、それが本作における三成の青臭さをより強めているようにも思います。
想いに純であり、生真面目である。
だから老練で、ずるい大人に勝つのはなかなかに難しい。
生きるためにだんだんと汚れていったのが家康であったのであったのであるならば、三成は汚れていかなかったために死ぬ運命だったのかもしれないですね。

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2017年8月27日 (日)

「スパイダーマン/ホームカミング」 ティーンエイジャー・ヒーロー

「スパイダーマン」シリーズの二度目のリブート作品になります。
「アメイジング・スパイダーマン」(以下「アメイジング」)シリーズは三部作シリーズだと聞いていたのですが、結果打ち切りとなりました。
理由はサム・ライミ版(以下オリジナル)よりも興行成績が悪かったからか、また長いものには巻かれろ(「アベンジャーズ」)ということか、その両方か・・・。
個人的には「アメイジング」はあまり評価をしていなかったので、この結論は歓迎ですけれども。
私は断然オリジナルが好きなのですが、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という作品の中で語られる言葉を体現している物語だからです。
ピーターは得てしまった力を誰かのために使う、しかしそのためには様々な犠牲を払わなければならないというジレンマに常に悩みます。
今でこそ悩むヒーローというのは当たり前になりましたが、その先鞭をつけたのがオリジナルだと思います。
けれども「アメイジング」はオリジナルのピーターよりも、現代的でかつ幼く描かれています。
なんというか、チャラいんですよね。
原作はどちらかといえば幼いとは思いますし、多数出てきた他のスーパーヒーローたちとは異なり10代らしさというのは差別化ポイントであったりします。
けれどもストーリーとしてはオリジナルのように「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ということがテーマにはなっており、「アメイジング」のピーターのキャラクターとのマッチングがよくなかった気がします。
それなのに「アメイジング」の2作目のラストは非常に悲劇的な結末であり、ピーターに自覚を持たせるということだったのかもしれませんが、後味が悪かった感じがします。
今回の再リブートの「スパイダーマン」もさらにティーンエイジャー化が進んでいます。
しかし、今回は成功していると思いました。
あえて「スパイダーマン」が対するのは自分の手の届く範囲の事件です。
原作の「スパイダーマン」は「親愛なる隣人」という愛称がありますが、これは世界を救うヒーローのように遠い存在ではなく、身近な事件の中で人々を救っているのがスパイダーマンであるということを言い表せています。
ティーンエイジャーは大人になりかけていると言っても、見えている範囲はやはり自分の身近なところになります。
今回10代であるスパイダーマンを描くという時に、世界を救うという大きなテーマとせず、身近に起こった犯罪ということにしたのは、距離感が近いヒーローであるということを表現するには良かったと思いました。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」オリジナルや「アメイジング」ほどの葛藤ではなく、今回のスパイダーマンの葛藤も10代らしいものです。
自分が追いかけている犯罪者が好きな女の子の父親だったら?
犯罪者を捕まえたら、女の子は悲しむ。
けれど野放しにしたらたくさんの人が悲しむ。
人の生き死や人生をかけたほどの重さではありませんが、それでも10代にとっては人生を左右すると思えるほどの葛藤です。
その頃合いが今回のティーンエイジャーのスパイダーマンという立ち位置にあっていると思いました。
今後はスパイダーマンは身近な事件を解決していく「親愛なる隣人」でいるのでしょうね。
「アベンジャーズ」には適宜絡んでいくのでしょう。
それはそれで楽しみ。

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2017年8月13日 (日)

「ザ・マミー/呪われた砂漠の王女」 他のユニバースと異なる個性を出せていけるか?

予告編を観ていた時に「ダーク・ユニバース始動!」とかいうコピーが出てきて、「?」と思っていました。
マーベルが「マーベル・シネマティック・ユニバース」という考え方を導入し、連作ヒットを飛ばしていることから、最近は他社もそれに追随するコンセプトのシリーズを展開し始めています。
DCの「DC/エクステンディドユニバース」しかり、レジェンダリーの「モンスターバース」しかり。
ハリウッドでシリーズ物ばかりが作られるようになって久しいですが、ユニバースコンセプトはただのシリーズ物よりも拡張性が高いところが利点です。
続編だとやはりストーリーの整合性を保つのが難しく、またどうしても次回作が作られるまでの時間がかかります。
ユニバースコンセプトは、作品ごとの整合性は続編よりは緩いですし、複数の作品を並行して制作することが可能なので単なる続編よりも早いタームでリリースできます。
集客が手堅いシリーズ物をハイペースで送り出せるわけですから、映画会社的には放っておけないですよね。
しかし、マーベルとかDCとかもともとコミックで展開しているものではなく、「ダーク・ユニバース」という聞きなれない言葉だったので「?」となったわけです。
しかし、最初のユニバーサル映画のタイトル後の「ダーク・ユニバース」というタイトルを見て、合点がいきました。
なるほど、昔の「ユニバーサル・ホラー」をクロスオーバーさせようというわけかと。
「ユニバーサル・ホラー」というのは「魔人ドラキュラ」「フランケンシュタイン」「透明人間」「大アマゾンの半魚人」などのモンスター映画です。
それぞれ何度もリメイクされているので、観たことある人も多いですよね。
それらの作品は独立したものですが、今回の「ダーク・ユニバース」ではそれぞれをリンクさせていこうということでしょう。
マーベルやDCよりはちょっとカルトっぽい趣味ですけれども。
二番煎じ、三番煎じなので、これからユニバーサルらしさを出していけるかどうかがポイントですね。
他のユニバースに比べては、もともとホラーをベースにしているので、全体的にダークなテイストになっていますから、この辺りを個性としていきたいのでしょう。
本作の元は「ミイラ再生」ですが、これは「ハムナプトラ」として既にリメイクされていますが、全然テイストは異なります。
「ハムナプトラ」はどちらかというと陽性でしたが、本作はダーク。
トム・クルーズが出ていることにより、メジャー感は醸し出されますが、彼がいなかったら結構マイナーな作品になりそうな感じがしますね。
ミイラっていうところからシリーズを始めるのも、割と渋い。
ただこれもいろいろ考えたんでしょうね。
ドラキュラとか狼男とか、フランケンシュタインだと今まで何回も映画化されていて、それらがメジャーなので、今までと同じと見られたくなかったのかなと。
あえて渋い題材から入って、ただマイナーにはしたくなかったので主演は超メジャー級を当ててくる。
割と戦略的なのではないかと思いました。
映画としては可もなく不可もなくというところです。
よかったのはラッセル・クロウが演じていたジキル博士。
これは「ジキル博士とハイド氏」が元ネタですね。
このキャラクターは面白そうです。
彼がメインでの映画もいけそうですよ。
割とそういう渋いところで攻めていってほしいなと思いました。

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