2023年5月21日 (日)

「最後まで行く」最後まで止まらない

藤井道人監督によるノンストップクライムサスペンスです。
主人公である刑事の工藤は、危篤の母親の元に駆けつけようと雨のなか車を飛ばしていましたが、突然飛び出してきた男をはねてしまします。
パトカーが近くを通ったことにたじろぎ、慌てて死体をトランクに隠してしまいますが、そこから工藤には次から次へと危機が降りかかり、最後まで息をつく暇がないほど物語がドライブしていきます。
この疾走感に加え、登場人物のアクの強さ、時折織り込まれるバイオレンス、まさに最後まで瞬く間に一気に引っ張られていきます。
見る前には知らなかったのですが、本作は韓国映画のリメイクということです。
確かにこれは韓国ノワールのテイストです。
藤井監督の作風はこのテイストによく合うなと思いました。
本作の主人公は工藤ではありますが、もう一人の重要な登場人物は綾野剛さんが演じる矢崎です。
この矢崎のキャラクターが狂っていて、主人公を喰うほどの存在感があります。
矢崎は中盤で、工藤に対して俺たちは似ていると言いますが、確かにそうかもしれません。
二人とも自分を取り囲む状況の中でもがきながら死力を尽くして生き残ろうとする。
生き残るという本能で突き動かされ、それは狂気的にもなっていく。
ラストは狂気すら超えて、なぜか純粋さすら感じました。
<ここからネタバレあり>
岡田准一さん演じる工藤の、追い込まれ、情けなさを出しつつも、必死に生き残ろうとする様も迫力ありましたが、やはり本作は綾野剛さんの矢崎です。
綾野剛さんはこの手の常軌を逸したキャラクターを演じた時の迫力はなかなかのものですが、矢崎はその中でも白眉かと思いました。
「お前はターミネーターか!」と言いたくなるほどに、しつこく工藤を追う矢崎。
本当はすでに死んでいて、執念だけで追いかけてきているのではないかと思うほど。
あまりの狂気さに爽快さまで感じたほどでした。

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2023年5月 7日 (日)

「せかいのおきく」狭いがしあわせ

本作の舞台となるのは江戸末期。
時代としては諸外国が日本に開国を迫っている頃で、日本人にとって世界が急速に広がっていこうとしている時になります。
本作の主人公は元武家の娘おきく、そして下肥買いの中次、その兄貴分の矢亮です。
彼らの世界には開国などは全く関係のない出来事で、本作の中でも全く触れられることはありません。
現在はインターネットで地球上のどこでも繋がることができ、さまざまな交通機関でどこでも行くことができます。
現代の世界という概念は非常に広い。
主人公たちの生きる世界は江戸とその周辺部のみ。
彼らの世界は驚くほどに狭い。
主人公のおきくは中盤で声を失い、さらに彼女の世界は狭くなります。
しかし、狭い・広いが重要なのでしょうか。
おきくと中次は身分を越えて、互いに惹かれ合います。
言葉を発することができないおきくに、中次は賢明に伝えようとします。
「おれはせかいでいちばんおまえがすきだ」と。
インターネットで世界が広がり見ず知らずの人から非難され、世界に絶望してしまうこともある現代。
動ける範囲も、知り合う人も圧倒的に狭い時代でも、本当に自分のことを思う人がいる世界は狭くても、幸せな世界なのかもしれません。
「おきくのせかい」は彼女にとって十分に幸せな世界なのでしょう。

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2023年5月 5日 (金)

「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」任天堂のIP戦略

世界中で最も愛されているゲームのキャラクターと言っても過言ではないスーパーマリオブラザーズ。
それをリリースしている任天堂と、「怪盗グルーの月泥棒」などで有名なアニメーションスタジオ、イルミネーションがコラボして作ったのが本作「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」です。
公開されるや、世界中で大ヒットとなっている本作を見てきました。
まず言っておきますと、個人的にはスーパーマリオにはあまり思い入れがなかったりします。
世代的にはファミコン世代ではあるのですが、横スクロールゲームが苦手でほとんどやったことはありません。
最近は娘とマリオカートをやったりはしているのですが。
ですので、あまりキャラクターも詳しくなかったりします。
まずイルミネーションが制作しているので、アニメーションの品質は申し分ありません。
さらには任天堂でマリオシリーズを生み出した宮本さんがプロデューサーとして入っていて品質を担保しているためか、よくあるゲーム原作映画のようにゲームファンが「これじゃない!」と悲しむようなことはありません。
最近、任天堂はゲーム以外のIP活用に積極的な感じがしています(USJのスーパー・ニンテンドー・ワールドもよくできている)が、ただ権利を活用するだけでなく、品質もしっかり管理できているように思います。
本作が評価が高いのは、多くのファンを抱えるスーパーマリオというコンテンツが期待を裏切らない作りになっているからだと思いました。
正直、ストーリーとしては凡庸なものであると思いますが、ゲームなどでは描ききれない行間の部分を映画で表現できたのかなと思いました。
それにより、ゲームのキャラクターがより生き生きと感じられるようになったという点が本作が評価されたポイントなのでしょう。
本作を通じてマリオやその他のキャラクターは、ゲームよりさらに高精細化され掘り下げられました。
これはおそらくこれからのゲームにもフィードバックされ、よりスーパーマリオという世界がより豊かになっていくと思われます。
今回の成功により、この手法はスーパーマリオ以外の任天堂のIPにも適用される可能性もあるかと思います。
ゲーム、映画、スーパー・ニンテンドー・ワールドのような体験的施設などが充実していくことにより、さらにコンテンツとしてのパワーが上がっていきます。
これはディズニーが長年にわたりやってきたことで、ニンテンドーは日本のディズニーになる可能性もあるかもしれないですね。

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2023年3月23日 (木)

「シャザム!〜神々の怒り〜」前作の良さが活かせず

前作「シャザム!」はそれまでのDC EUとは異なる明るいトーンでスマッシュヒットとなりました。
見かけはスーパーヒーローでありながら、中身は子どもというユニークな設定が新鮮でした。
スーパーヒーローの力を馬鹿馬鹿しいことに使うというのが、いかにも子供っぽく笑いを誘ってくれました。
その続編なので期待をしておりましたが、結果としては個人的にはあまり評価をできません。
前作はヒーローでありながら、子どもというギャップが新鮮で、その彼がヒーローとして自覚を持ち、大切なものに気づくというのがプロットでしたので、本作はそのギャップが効きにくい。
ですので、そのギャップは活かせず、ストーリーとしては非常にオーソドックスなものになってしまっているのです。
あまりスーパーヒーローものを見ていない方にとっては、わかりやすく見やすいかもしれませんが、この手のジャンルを見慣れているファンには少々物足りないのではないかと思います。
前作でスーパーマンが登場したことからわかるように、本作は従来のDC EUに属するものですが、こちらについてはリセットされることがアナウンスされているということで、本作の立ち位置も非常に微妙です。
本作にもカメオである人物が登場しますが、これもまさに「カメオ」という登場の仕方で、MCUのように考えられた上で、キャラクターを登場させているのに比べると安易さを感じさせます。
それは前作もそうですし、「ブラックアダム」のスーパーマンでも同様で、DC EUの悪い意味でのゆるさの表れと言えるでしょう。
「シャザム!」については新しいDCユニバースに組み込まれるかどうかは現在のところは不明です。
一旦は見納めということになるのでしょうか。

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2023年3月21日 (火)

「シン・仮面ライダー」その男は泣きながら敵を殴る

「仮面ライダー真」ではなく、「シン・仮面ライダー」です(これがわかる人はかなり古くからのライダーファン)。
庵野秀明氏による「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」に次ぐ、「シン解釈」の「仮面ライダー」となります。
私は「ウルトラマン」は本放送ではなく再放送が初見で、「仮面ライダー」はV3くらいからリアル視聴をした世代です。
子供の頃から両方とも好きでしたが、今現在は「ウルトラマン」は追いかけられておらず、「仮面ライダー」のみで、思い入れが強いのは、「仮面ライダー」でしょうか。
そういうこともあるからか、「シン・ウルトラマン」と「シン・仮面ライダー」のどちらが良かったかと問われれば、「シン・仮面ライダー」と答えるでしょう。
「シン・ウルトラマン」はウルトラマンの人格を描くという点で、まさに新解釈をしていたと思います。
「シン・仮面ライダー」は新しい解釈というよりは、オリジナルや石ノ森章太郎の漫画のエッセンスを割とストレートに現代風にリファインしたような印象です。
主人公本郷猛はショッカーに改造され、人間を超えた力を手に入れます。
「仮面ライダー」シリーズにおいて共通的に描かれているエッセンスとしては、主人公の超越した力は敵側のテクノロジーによって生み出されたものである、ということがあります。
これは「ウルトラマン」や「ゴジラ」にはないものです。
このことにより仮面ライダーは戦うことにより「同族殺し」という宿命を背負うことになります。
本作の仮面ライダーのマスクもそのようにデザインされていますが、印象的な大きな複眼の下にクマのように見える黒い部分があります。
これは通称「涙ライン」と呼ばれていて、元々はスーツアクターの覗き穴として設けられていましたが、デザイン上「仮面ライダーは同族殺しを宿命として背負いながら、泣きながら戦っている」と解釈されていると聞いたことがあります。
本作の本郷猛も己が得てしまった簡単に人の命を奪ってしまう力に戸惑い、困惑しながら戦います。
彼も泣きながら戦っているようにも見えます。
仮面ライダーは等身大のヒーローで、人外の力を持っていますが、ウルトラマンほどに超越はしていません。
またウルトラマンは人間とスケール感が違いすぎて、彼の行動が人間に与える影響は小さすぎて見えません(これをリアルに描いたのが「平成ガメラ」)。
等身大であるからこそ、相手に与えるダメージもリアリティがあり(本作はPG12指定のダメージ表現)、だからこそ痛みも伝わってきます。
彼が戦えば必ず敵の命(本作のショッカーの戦闘員はショッカーに共鳴する人間)を奪う。
彼はそれを知った上で、泣きながら拳を振るう。
「仮面ライダー」は哀しみを背負った存在であり、その部分を庵野監督は丁寧に描き出しているように思えました。
冒頭に書いたように本作は庵野監督が、自分らしさよりもオリジナルらしさを重要視して作り上げたもののように思えますが、彼らしさがないわけではありません。
本郷のセリフで「世の中を変えるのではなく、自分を変える」というものがありました。
本作におけるショッカー怪人たちは、通常の社会とは異なる価値観を持っています。
自分の価値観に合わせて社会を破壊し、変えていこうとしているのが、彼らなのですが、本郷は異なる見解を持っています。
彼も人間としては高い能力を持っていますが、社会には馴染めず、父親の事件のこともあり、うまく生きられなかったようです。
その点では、他のショッカー怪人と同様と言えます。
しかし、彼は社会の価値観を大切にし、自分を変え、そしてその守護者になったわけです。
古い「エヴァンゲリオン」では碇シンジは社会や親に受け入れられないという苦しみを背負っていました。
しかし、それは彼が社会や親を受け入れないということも裏返しでもありました。
彼はそれに気づかず、苦悩します。
しかし、「シン・エヴァンゲリヲン」では彼は全てを受け入れることができたように見えました。
まさに本作の本郷猛は受け入れ切った上で、彼が社会のためにできることを為すという、大人になったシンジのようにも見えます。
庵野監督の作品は、彼自身の社会との対面の仕方という価値観が反映しているように思っていますが、本作では社会との関係性が非常に大人になっているように思えました。
「仮面ライダー」シリーズとしての位置付けに加え、庵野監督作品群の一つとしての見方も興味深い作品かもしれません。

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2023年2月27日 (月)

「シャイロックの子供たち」普通の人

本作は池井戸潤原作、本木克英監督という「空飛ぶタイヤ」と同じ座組となっています。
「空飛ぶタイヤ」は扱っているテーマの重さからか、骨太な社会派ドラマといった印象を持ちました。
またドラマ「半沢直樹」で使われた「倍返し」という言葉が数年前に流行りましたが、池井戸さん原作の映像作品は、やられた方がやり返すカタルシスが特徴である印象もあります。
骨太さ、熱さといった今までの池井戸ドラマのトーンを期待していくと、本作は少し印象が違います。
主演が阿部サダヲさんであるというのは一つそういった印象を持つ大きな要素かもしれないです。
阿部サダヲさんは色々演じられる方ですが、割と飄々としたキャラクターのイメージがあります。
本作で阿部さんが演じる西木もそのようなイメージのキャラクターだと思います。
今までの池井戸ドラマの主人公は割と意志が強い熱い男が多かったかと思います。
彼らは主人公として非常に強いキャラクターでドラマを牽引する力があります。
つまりは彼らはフィクション的であり、現実離れしたキャラクターであるのでしょう。
西木はそれらのタイプとはちょっと違います。
飄々としていていて、情けないところも少々ある。
その反面、人をよく観察していてよく気が付きますし、言うべきところでは言うこともあるしっかりとした側面もある。
掴みどころがないとも言えます。
今までの池井戸ドラマの主人公に比べれば普通の人、なのかもしれません。
とは言いつつ、筋が通らないことは許せないという思いはこれまでの池井戸ドラマの主人公とは共通していて、その思いで後半はドラマを展開させていきます。
西木はこのような強さは持っているのですが、合わせて弱さも持っています。
ラスト前での西木の行動はこの弱さを表しています。
「強さ」一辺倒ではなく、合わせて人間らしい「弱さ」を持っているという点で、今までの池井戸ドラマの主人公に比べ、普通の人という印象を持たせるのかもしれません。
そのためか、カタルシスという点では半沢直樹的なものを期待すると少々物足りないかもしれないですね。

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2023年2月 4日 (土)

「仕掛人・藤枝梅安(一)」情を描く

何度か書いていますが、親が時代劇好きだったので、子供の頃からこのジャンルは馴染みが深いのです。
「水戸黄門」や「大岡越前」などは夕方の再放送をよく見ていたので親しみがありますが、「必殺!」シリーズなども好きで小学生の高学年の頃から見てました(今、考えると小学生が見るには色々過激だったような気もしますが)。
最近はテレビでも映画でもこのような時代劇はほとんど絶滅していますが、本作「仕掛人・藤枝梅安」は池波正太郎生誕100周年の記念作品として、制作されました。
「必殺!」シリーズのベースとなった「仕掛人・藤枝梅安」の何度目かの映像化作品になります。
「必殺!」シリーズは「仕掛人」から始まりましたが、独自なエンターテイメント作品として進化していきましたが、本作は原作に近い印象となるかと思います。
最近も時代劇作品は時折作られてはいますが、現代的な解釈がされているものが多く、あの頃の時代劇のテイストは失われていルように感じます。
しかし、本作はあの頃の時代劇らしさが味わえるものとなっています。
あの頃の時代劇らしさとはなんでしょうか。
一言で言うと「情」ではないかと思います。
ここで言う「情」とは人の「欲」や「恨み」そして「思いやり」などの人間の感情の根源の方にあるものです。
正でも負でも人間を動かす根源的な動力源のようなもの、これが情ではないでしょうか。
本作は人の「情」を深く描いており、これもかつての時代劇で味わえた感覚です。
池波正太郎が生み出した「仕掛人」という設定は非常によくできたものだと思います。
「水戸黄門」や「大岡越前」は勧善懲悪で、悪をお上が裁くという非常にわかりやすい構造となっていますが、「仕掛人」は違います。
彼らは金をもらって人を殺すことを生業とする者で、常識的には悪人です。
しかし、彼らはお上が裁くことができない悪をなす者を始末してるという点で正義を貫いているとも言えます。
梅安にしても彦次郎にしても仕掛人である己の立場をわきまえていて、だからこそ二人はいつ死ぬかもしれないという思いで生きています。
彼らは悪でありながら善であるという二つの側面を持っていますが、虐げられる者であり、裁く者であるという二つの側面を持っているとも言えます。
梅安も彦次郎も仕掛人として悪を裁いてはいますが、かつては底辺の生活を送っており、そういう意味では虐げられる者でもありました。
「仕掛人」シリーズはそのような両面を持つ立場を持つ者を主人公にしているからこそ、勧善懲悪の構造では描ききれない、虐げられるものの思い、情を深く描写することができているのだと思います。
本作の主要な登場人物であるおみのは、かつて虐げられる者でしたが、今は虐げる者の側になっている点では、梅安とは異なるものの二つの側面を持つ人物と言えるかもしれません。
もしかすると梅安も同じような立場になったかもしれないし、おみのも梅安のようにもなれたかもしれません。
しかしそれは言っても詮無いことで、過去を変えることはできず、己の行ったことは己で背負わなければならない、と梅安は考えています。
梅安はそこに情を差し込むことは決してせず、己がすべきことをする。
しかし、彼の佇まいには無情でありながらも、情を感じることができます。
その情を描き切るのが、時代劇。
時代劇らしさを堪能できた作品でした。

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2022年12月17日 (土)

「ザリガニの鳴くところ」彼女の強さ

主人公はノースカロライナの湿地帯で、親兄弟に捨てられ一人で暮らしてきた少女カイア。
彼女は街の人々から「湿地の少女」と呼ばれ、異質な者として謂れのない差別を受けて生きていました。
彼女にとって湿地帯は、自らが生きるための糧でもあり、彼女を守る城でもあり、生きる術を教えてくれる教師でもありました。
本作はたった一人で逞しく生き抜いていくカイアの成長を描く物語でもあり、また人がいかにレッテルで他人を見てしまっているかということの問題提起もしています。
またミステリーとしての面白さも併せ持っていて、様々な視点で興味を引くことができる傑作となっています。
ですので、色々な視点で本作を語ることができると思いますが、ミステリー的な視点で見てみたいと思います。
<ここからネタバレあり>
ある時、湿地帯で街の若者チェイスの死体が発見されます。
当初は事故と思われていましたが、カイアが殺人者として逮捕されてしまいます。
一時期カイアとチェイスは恋人のような関係になっていましたが、実のとことはチェイスには婚約者がおり、彼にとっては遊びであることが露呈して、破局していたという経緯があったからです。
彼女はその事実が明らかになった時、チェイスに詰め寄りますが、かえって彼から酷い暴力行為を受けます。
そして彼は街の有力者の息子であり、彼女を破滅させる力も持っています。
彼女には動機はあったのです。
さらにはカイアは「湿地の少女」と呼ばれる異質な者であり、街の人々は当初は根拠のないまま彼女を犯人扱いしていました。
しかし、裁判を通じて彼女の凄まじい半生が明らかになり、また弁護人の巧みな論述により、彼女は無罪を勝ち取ります。
検察側の思い込みによる犯行経緯の筋書きの荒っぽさも影響与えたと思われます。
作品を見ている我々も彼女に対し、陪審員ように彼女に同情的になっていきます。
カイアは将来夫となるテイトにアドバイスをもらい、彼女の湿地の生物に対する知識を紹介する本を出版することになりました。
チェイスに暴力を振るわれた後に、編集者とカイアが打ち合わせの場ででホタルについて語るところがあります。
カイア曰くホタルの光り方には2種類あるとのこと。
一つは交尾をする相手を引き寄せるため。
もう一つは生きるために相手を捕食するため。
編集者はそれを聞き恐ろしいですね、とコメントをしますが、カイアはその時「生き物には生きるために善悪の観念はないのかも」と言います。
私はこの言葉におやっと思いました。
彼女に取って沼地はまさに教師そのものであり、生きる術をそこから学びました。
また本作のタイトル「ザリガニの鳴くところ」は非常にユニークですが、これもカイアの母親が夫に暴力を振るわれた時に、子供たちに「ザリガニの鳴くところまで逃げなさい」と言います。
そこまでは追いかけてこないから、と。
彼女にとって、自分を破滅させようとするチェイスの存在そのものが生存の危機の原因であり、「ザリガニの鳴くところ」まで逃げるためにはチェイスそのものを消し去らなければいけません。
カイアは湿地帯以外では生きられないのですから。
個人的には編集者との会話でカイアは非常に怪しいと思いつつも、かたや陪審員と同じく同情心は持ちましたし、検察側の飛躍的な推論にも無理があると感じました。
そのように思わせる構成が巧みであり、最後はやはり彼女は無実だったのだと結局は思いました。
ですが、物語の最後のあの展開です。
やはり、とも思いましたが、衝撃的でありました。
彼女は湿地に育てられた生き抜くための強さを持った「湿地の少女」であったのです。

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2022年11月12日 (土)

「すずめの戸締り」場所を慎む物語

廃墟ブームという言葉が何年か前から聞かれるようになってきていた。
かつて人がそこで生活し、働いていた場所が打ち捨てられて朽ちていった場所、それが廃墟。
人はどうして廃墟に惹かれるのだろうか。
それはそこに暮らしていた人々の想いが感じられるからかもしれない。
廃墟になってしまう理由はそれぞれある。
災害によってそこで暮らせなくなったり、産業が成り立たなくなったり、若い人々が土地を離れていってしまったり。
突然である場合も、徐々にの場合もあるだろう。
いずれの場合でも、そこに暮らしてきた人々の想いは確かにあった。
新海誠監督は本作を<場所を慎む物語>にしたかったという。
人が亡くなった場合は、それを弔う儀式がある。
亡くなった人々を自然に返すという儀式を通じ、残された人々も自分の中で整理を行う。
それと同様のことを行うのが本作でヒロイン鈴芽の相手役となる草太が生業とする閉じ師なのだろう。
彼が後ろ戸を封印するときに口にする祝詞がある。
「かけまくもかしこき日不見の神よ
 遠つ御祖の産土よ
 久しく拝領つかまつったこの山河
 かしこみかしこみ
 謹んでお返し申す」
これは自然から預かって人が暮らしてきた土地を自然に返します、ということを述べている。
<場所を慎む>ことにより、土地も喪に服することができるのかもしれない。
人々が暮らし、過去から連綿と続く想いが繋がっていく場所はその想いが土地を鎮めているのだろうか。
その想いが薄まり消えていくところに、みみずは頭をもたげるのだろうか。
本作で唯一、みみずが起きた場所で、寂れていない場所があった。
東京である。
そこで多くの人が暮らすのにも関わらず。
廃墟ではないのにも関わらず。
後ろ戸があったのは、水道橋の地下であった。
これはかつての江戸城の名残だろうか。
東京という街は江戸から明治で、過去からの想いが一度分断されている場所かもしれない。
過去の廃墟の上に東京は作られているのか。
本作は鈴芽が旅する中で人と出会い、土地の想いに触れることより、ようやく本当に母親の喪にふし、前に進むことができるようになる成長の物語である。
彼女も普通の女子高生で、普通に夢を持ち、楽しく暮らしてきていたと思われる。
何か、過去のトラウマに囚われたような少女ではない。
ただ多くの若者がそうであるように、まだ「生きる」ということに特別な思いを持っているわけでもないだろう。
自分もそうだったが、生きているのは当たり前なのだ。
けれど、草太と出会って彼が特別な人となり、それを失う恐怖を感じ、また廃墟にかつて暮らしていた人々の想いも感じた。
旅先で出会う人々のふれあいから、暖かさを感じた。
「生きている」ということは特別である、と鈴芽は学んだのだろう。
最後に再び草太がみみずを封じる時に「人の命が儚いものであるとわかっている。けれどももっと生きたい」と言った。
まさに同じことを鈴芽も思ったのだろう。
鈴芽は母親がそうであったように看護師を見ざしていた。
しかし、旅を経て、その想いはさらに特別なものになったのではないだろうか。

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2022年10月15日 (土)

「さかなのこ」男か女かはどっちでもいい

「南極料理人」の沖田修一監督がさかなクンの映画を撮ったということで行ってきました。
それも主演がのんさん。
のんさんがさかなクン???
そして作品の冒頭に「男か女かはどっちでもいい」との謎の言葉が。
のんさんが演じるのは魚が大好きなミー坊。
ミー坊の幼い時から物語が始まりますが、それを演じているのはどう見ても子役の女の子。
さかなクンのような魚好きな女の子の話なのね、と思って見ていて、学生時代のミー坊の話になっていよいよのんさんが登場。
ん?男子の学生服を着ているぞ?
顔は可愛い女の子なのに学生服。
一瞬ちょっと混乱をしました。
そこでようやく冒頭の言葉「男か女かはどっちでもいい」の意味がわかりました。
そういえば、幼い頃のミー坊はスカートではなく半ズボンを穿いていた。
まさに「男か女かはどっちでもいい」の言葉通りでこの物語に登場するミー坊は男でも女でもない。
最近、男らしさや女らしさといったステレオタイプ的な生き方に窮屈さを感じる人が増えてきています。
またオタクと言われる人々が市民権を得てきて、というよりリスペクトされる存在になってきていて、まさに「普通」って何?という時代になってきています。
私が育ってきた時代は、なるべく周りからずれないようにという日本人らしい同調圧力があるのが普通でした。
圧力を圧力と感じていなかったかもしれません。
そうすることが「普通」だと。
けれど本作のミー坊は好きなことをして生きていくことに迷いがないですし、そして周りの人々もそんなミー坊をリスペクトしています。
まさに男か女か、普通か普通じゃないか、などということは問題にもなっておらず、魚が大好きなミー坊を皆が大好きだということなんですよね。
今、以前よりはステレオタイプな見方は減ってきたとはいえ、まだまだ多くの場面でそのような見方は残っています。
本作はある種のファンタジーで、ミー坊とその周りの人々がいるような世間はまだまだないですが、このようにお互いにそれぞれが好きなことを大事にし、リスペクトしあえる世の中になるといいなと思いました。
私はこのブログの記事を見ればわかるように、特撮好きですし、ロボット好きなわけなのですが、社会人になった頃は好きとは言えなかったですものね。
「え、こいつオタクか」みたいな感じに見られるのはやはり嫌だったですし。
映画好き(これは嘘ではない)くらいでぼやかしていたりしてました。
今は若い人が会社に入ってくると、ゲーム好きとかアニメ好きとか堂々と言いますからね。
いい時代になったものです。

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