2025年12月26日 (金)

「楓」 滅私の恋

冒頭ニュージーランドで亜子が楓に似た葉を「こっちの楓」と言い、そして日本に帰国後、本物の楓を拾うシーンがある。
また彼女は複視であり、時折ものが二重に見えてしまうことに悩まされる。
これはいずれもメタファーであり、涼が双子の弟、恵を演じていることを暗示している。
恵はニュージーランドで事故死してしまった。
同行していた恵の恋人である亜子は悲嘆に暮れ、彼女の心の重荷を減らすために、涼は顔がよく似た恵を演じることにする。
涼も亜子に想いを持っていたのだ。
この物語はニュージーランドでの事故を起点に話が始まり、基本的に時系列で語られていく。
涼と亜子のその時の気持ちが彼らの口で語られるシーンはほぼなく、そのときにどのように感じているかは想像するしかない。
時折、過去のシーンがインサートされていくが、それにより彼らの本当の想いが明らかになっていくという、巧みな構成だ。
考えてみると、「恋」というものは極めて主体性が強いものだ。
「私」が、彼(彼女)を好きになる。
「恋する」ということ自体には相手が自分をどう思うか、ということは関係がない。
お互いに「恋する」ことによって初めて両思いになる。
すなわち「恋する」という行為は本質的にわがままなものであるのだ。
涼は亜子に恋をしている。
しかし、彼は自分の「恋」であるにも関わらず、自分を出さない。
恵を演じ続ける。
彼の恋は「滅私の恋」だ。
本来「恋」はわがままなものだ。
弟がいなくなった今、彼が自分の気持ちを亜子に伝えることもできただろう。
自分の気持ちに素直であろうとすれば、そうすることが自然だ。
だが、涼は自分を殺して演じ続ける。
自分の気持ちを叶えるよりも、亜子のことを一番に考え、彼女を支えていきたいと思う。
すでに亡くなってしまっている弟への遠慮もあるのかもしれない。
やはり亜子を愛していた弟の気持ちも知っている。
彼が亡き今、自分の気持ちだけを叶えることは卑怯であるように思えたのだろう。
そんな彼にとって、亜子の「おかえり、恵ちゃん」はなんと残酷な響きを持っていたのだろう。
亜子は恵に恋している。
その彼を失うことはどれほどの喪失感であろうか。
自分の一部を失うほどのものであったに違いない。
そのような状態で、亜子は涼に縋るしかなかった。
彼が恵を演じていることをわかっていても。
「恋」はわがままなものだ。
自分の気持ちを通すことが、どれだけ涼に負担をかけ、傷つけているかもわかっている。
けれどわがままを通すことしかできない。
涼の気持ちが伝わってくるほど、彼女は苦しく、追い込まれていく。
涼は、亜子と恵の二人の願いである流星探しを叶えるため、明け方の海に亜子を誘う。
そのとき亜子の目には、ずっと二重に見えていた恵と涼の姿が一つになる。
そして涼はそっと亜子にキスをする。
この時の涼は、恵ではなかったと思う。
本当に亜子のことを愛しく思い、涼としてキスをした。
そして亜子もこのとき、涼が演じている恵ではなく、涼自身に恋に落ちたのではないだろうか。
だからこそ、亜子はこれ以上、涼に負担をかけてしまってはいけないと考える。
涼の思いを弄んでいるように感じたのかもしれない。
そのとき、亜子は涼に恋をしていた。
だからこそ亜子は身を引く。
これも亜子の「滅私の恋」なのだ。
涼も恵も、高校生の時の屋上での出来事の真実を亜子にずっと言えなかった。
騙していることはわかっている。
けれど、それを伝えてしまったら、たくさんのものが壊れてしまうかもしれない。
けれど、それは杞憂なのだ。
亜子にとってそれはきっかけであったのかもしれない。
しかし彼女が恵に恋をし、そしてまた涼に恋したのは、二人それぞれの本当の姿を好きになっただけなのだ。
こっちの楓も、あっちの楓も代わりにはならない。
二人にそれぞれ、彼女は恋に落ちた。

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2025年11月17日 (月)

「君の顔では泣けない」運命共同体

男女入れ替わりと言えば大林宣彦監督の「転校生」がまず思い浮かぶ。
「転校生」では主人公の男女(一夫と一美)の入れ替わりが起こるが、それは中学生のある期間だけで、最後には無事に元に戻ることができる。
本作では入れ替わりが起こった二人(陸とまなみ)はにわかに元に戻ることはできず、その後も入れ替わったままの人生を送っていくことになる。
入れ替わりが起こったのが15歳で、現在の30歳までその状態が続いているのだ。
本作では二人の15年が時間を遡って語られていく。
「転校生」以来、男女入れ替わりというアイデアは数々の映画やドラマで使われてきた。
しかし、入れ替わったまま元に戻れない、というアイデアはありそうでなかったのではないだろうか。
「転校生」の二人と同様にいつか戻るかもしれないと思い、陸とまなみはそれぞれ相手になりきって生活していくことにする。
その生活がずっと続くとは思わずに。
最初のうち、二人は入れ替わっていることがバレないように振る舞っていくことに苦労していた。
しかし、入れ替わり期間が長く続くにつれ、二人は大きなものを背負っていかなくてはならないことを自覚していく。
人生を、いつか戻れることを前提に他人として生きていかなければならない。
それはすなわち、自分自身の人生だけでなく、相手の人生にも責任を持たなくてはいけなくなってしまったのだ。
劇中で陸がこう表現するが、二人は「運命共同体」になってしまったのだ。
入れ替わりによって、二人は相手の人生も背負うだけでなく、普通に人生を生きていれば経験していくはずのことを、相手に奪われてしまうことになってしまう。
初めての恋人、セックス、一人暮らし、結婚・・・。
運命共同体でありながら、入れ替わりが長く続くほどに、相手に自分の人生、大切な時間を搾取されているようにも思えてくるのだ。
陸は自分の居場所を奪われてしまったように感じていく。
まなみは元々の愛想の良さからか、陸の家族とも良い関係を築き、そして本当の親にもまなみの友人の陸として家族のように扱われている。
対して陸は、本当の親には他人として邪険にされ、まなみの親とはチグハグとした関係になってしまう。
陸は、実家で自分の姿をしたまなみが楽しそうにしているのを覗き見、そこから立ち去る。
まなみはまなみで、自分の体を奪われてしまったような感じている。
ずっと借り物の体を生きているかのようだ。
成長していくにつれ、どんどん男になっていく自分の体。
そして女として綺麗になっていく本来の自分の体。
彼女の中で女である精神と男である肉体の不整合のようなものが生じていく。
彼女は次々と相手を変えていくプレイボーイのように暮らしていくが、それは男として振る舞っていかなくてはいけないという、女性である精神のアンバランスさが現れていたのではないだろうか。
「君の顔では泣けない」。
このタイトルに近しいセリフがある場面が2箇所ある。
いずれも二人の真の思いが現れたシーンとなっている。
陸は父親の死を知り、まなみの姿で弔問に訪れる。
しかし、父親への思いが溢れてきても、そこでは陸は泣きたくても泣くことはできない。
なぜならまなみの姿をしているから。
赤の他人の女が、泣くのはおかしなことだから。
いつか戻ることがあると信じ、そしてまなみの人生への責任感もあるから、「君の顔では泣けない」のだ。
これはまなみにしても同様である。
女にできて、男に絶対にできないこととは子を産むことである。
陸は結婚をして妊娠するが、切迫早産となり入院してしまう。
その恐怖のあまり、彼はまなみに電話をする。
まなみは陸を力付けようとするが、その内心はどのようであっただろうか。
このシークエンスの直前、まなみは小さい頃は結婚することが夢であったと語る。
その夢である結婚、そして子をなすことを奪われてしまったともまなみは感じたのではなかったのではなかろうか。
それでもまなみは陸を励ます。
私の顔で泣くんじゃない、と言う。
無事に赤ちゃんは産まれ、陸は新しい居場所を手に入れる。
「入れ替わったのが水村でよかったと思った」
「私も今、同じことを言おうと思ってた」
元に戻れるかもしれない最終チャンスの時、二人はこのような会話を交わす。
二人は互いの人生を生きる運命共同体でありながら、互いに相手に人生を奪われたという思いもある。
それでありながら、このように言えるのは、やはり二人が相手の思いに真摯に向き合おうとしてきたからだろう。
喫茶店でお互いの話をする時、激しいやり取りをする時ですら、二人は相手がどう思っているか、感じているか、聞こうとする。
相手の言うことをちゃんと聞き、自分の中で消化し、自分の思いを口にする。
お互いの思いを尊重しようとしているのだ。
二人は本当の意味で運命共同体であったのだろう。
だからこのような会話ができたのであると思う。
最後のチャンスの結果はわからない。
しかし、どんな結果であろうと、二人の笑顔を見れば、二人にとってよい選択であったのだろうと思えてくる。

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2025年11月 1日 (土)

「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ ウルズハント -小さな挑戦者の軌跡-」良くも悪くも総集編

「鉄血のオルフェンズ」のオンエア開始からもう10年。 物語が進むに従って、どんどん悲劇に向かって追い込まれていく三日月らの軌跡から目が離せませんでした。
オンエア終了後、アプリとしてリリースされたのが「ウルズハント」でした。
興味はあったものの、アプリという特殊な公開方法のため、見ることができませんでした。
それが「鉄血のオルフェンズ」10周年ということで、劇場版と公開されました。
「ウルズハント」は元々は12話あったようで、本作はそれらの総集編となります。
そのためかなりナレーション頼りに物語は進められており、描かれる場面も端折られているようです。
私が若い頃の「ザブングルグラフィティ」のような印象です。
ですので、単体の映画として見るとかなりついて行くのが難しい。
無論ストーリーは追えるのですが、主人公を含め登場するキャラクターたちに感情移入をする余裕がないのですね。
なので、目の前で淡々とストーリーが進んでいくという冷めた視点になってしまいます。
おそらくガンダム瑞白星とモビルアーマー戦は、ガンダムバルバトスのそれと匹敵するようなアクションであったと思うのですが、そこも淡白になってしまい残念です。
キャラクターたちももっと詳しく知ることができれば魅力的に見えたはず。
できれば、12話をあらためて配信してくれるとありがたいです。 おまけであった「鉄華団」のエピソードは短いながら、良かったですね。
彼らの一番幸せな日々を見させていただきました。

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2025年9月22日 (月)

「ベスト・キッド:レジェンズ」自分を縛る自分からの解放

リメイク版が作られたのが2010年ですので、かなり前になりますね。
本作ではそのリメイク版とオリジナルの「ベスト・キッド」が合流します。
すなわちリメイク版のカンフーの師匠を演じたジャッキー・チェンとオリジナルでダニエル少年のラルフ・マッチオが本作に登場します。
それで「レジェンズ」というわけですね。
オリジナルの「ベスト・キッド」については最近では「コブラ会」というドラマシリーズがあったようで、こちらにラルフ・マッチオがダニエル役で出ているようです。
こちらにリメイク版が合流したということになります。
ご存知のように「ベスト・キッド」は原題は「Karate Kid」で空手を題材にしていますが、リメイク版はジャッキーが出ていることからもカンフーを題材にしています。
この違いをどうやって関連づけるのかと思ったら、ダニエルの師匠であるミヤギの先祖が中国に渡り、カンフーを学んでいたという設定が登場しました。
現在の日本の空手の源流である琉球空手も、カンフーに影響を受けているという話もありますから、あながち荒唐無稽という話ではありません。
今までの「ベスト・キッド」は素人の少年が空手やカンフーを学びながら成長していく様が描かれてきましたが、本作の主人公のリーは北京でジャッキー演じるハン師範からカンフーを教わっており、元々かなりの実力者です。
しかし彼はある事件(兄が殺された事件)からカンフーを封じていましたが、空手の大会に出場することになり、改めて空手を学び始めるというところになります。
今までは主人公は武術を通して、さまざまな物事には武術に通じる真理があることを学びます。
本作ではリーは自分を縛っているものから解放されることを学びます。
兄の事件もあり母親からはカンフーを禁じられます。
しかし、そのことだけが彼を縛り付けているわけではなく、本当に彼を縛っているのは自分自身の無力感なのだと思います。
しかし、ニューヨークの人々との交流を通じて、自分の力が人のために役立つことを再認識し、そしてそれこそが本当に自分がやりたいことであると、自分に素直になることを学ぶのです。
彼が学ぶのは自分自身の解放です。
主人公リーはカンフーの使い手ということもあり、序盤からアクション的な見せ所は多いです。
これは今までの「ベスト・キッド」シリーズとは違うところですね。
ストーリー自体は上記のような工夫はあるものの、少年の成長物語いうところもあり、突飛なところはありません。

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2025年8月29日 (金)

「クレヨンしんちゃん 超華麗!灼熱のカスカベダンサーズ」まるっとありのままを受け入れる

インドでは「クレヨンしんちゃん」はほんとに大人気らしい。
その人気を活用して、日本メーカーの食品のパッケージに「しんちゃん」が載っていたり(コラボですね)もするんですよね。
ですので、今回の「しんちゃん」の映画の舞台はインド。
インドと言えば、ミュージカルということで、今回の映画ではふんだんに曲とダンスが織り交ぜられていて文句なく楽しい。
「しんちゃん」の世界観とインドミュージカルは想像以上に相性よかったです。
個人的にはひろしが歌う「Danger Zone」がツボでした。
「Highway to the Danger Zone」しか歌えず、他の歌詞はホニャホニャ誤魔化しながら歌うっているのは、あるあるですよね。
うちの娘はみさえの歌にツボっていました。
ゲストキャラのカビール兄弟もいかにもインドらしく濃い味でよかったです。
演じるのは山寺宏一さんと速水奨さんという大ベテランなので、いやが上にも存在感が増します。
本作でスポットが当たるのはボーちゃん。
こんなにボーちゃんが中心になるのはあまり見たことがないような。
ボーちゃんと言ったらクセ強のカスカベ防衛隊の中では、良心と言いましょうか、癒しと言いましょうか、そういう存在ですよね。
本作ではボーちゃんがボーちゃんでなくなってしまいます。
野心とは無縁なボーちゃんが「紙」の力でまさに「神」のように振る舞い始めるのです。
数年前の「天カス学園」のスーパー風間くんも近い感じがしますが、大人からいつもちゃんとして、と言われるからか、子供は子供でちゃんとしなくちゃいけないというプレッシャーはあるのかもしれません。
ただちゃんとする、ことによってその子らしさみたいなもの(いいとこもそれほどよくないとこも)がなくなってしまうかもしれません。
しんちゃんという子は、いいとこもそれほどよくないところも含めて、相手をまるっとありのままに受け入れられる子なんですよね。
そういう寛容さって大事だなと思います。
個性を潰してしまうのは勿体無いですものね。
自分の子供にも、ちゃんとして、と言いがちなので、ちょっとは気を付けてみようと思いました。

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2025年8月23日 (土)

「映画 仮面ライダーガヴ お菓子の家の侵略者」ポップな仮面の下に

現在佳境を迎えている「仮面ライダーガヴ」の劇場版です。
「ガヴ」はお菓子をモチーフとしていてポップなカラーリングが印象的な仮面ライダーですが、そのイメージとは裏腹に設定は最近の「仮面ライダー」シリーズの中でもかなりダークな部類に入ると思います。
ガヴが戦うのはグラニュートという異世界の住人ですが、彼らは人間を攫っては「闇菓子」というお菓子の原料にしているのです。
グラニュートにより人間は「人プレス」という圧縮された状態になり、それがグラニュート界の工場でお菓子の原料とされます。
当然、原料にされてしまうのですからその人間は死んでしまうわけです(人プレスの状態で救い出せれば、人間に戻せる)。
最近の「仮面ライダー」は時代の風潮からからあまり「死」を正面切って描いていませんでした(描けない)。
昭和の「仮面ライダー」では怪人にやられた一般人が溶けて消えるシーンがありましたが、このようなシーンも最近ではあまり見かけなくなりました。
そういう状況の中で「ガヴ」はかなり攻めているといいと思います(「クウガ」はさらに攻めていますが)。
今回の劇場版はテレビシリーズ以上に攻めている感じがしました。
映画では新たな異世界である、我々の世界に似たお菓子の世界が登場します。
ここはテレビシリーズの「ガヴ」よりもさらにポップな世界なわけなのですが、ここの世界が抱えている闇はそれ以上に深い。
この世界を支配するカリエスはガヴを参考にしてベルトを作り、自分の力としていました。
そのために彼はガヴを腹に植え付けた人間の子供育て、そしてガヴが大きくなった時にそれを切除して自分に装着するということをしています。
この描写は子供向けの映画としてもかなり攻めた表現になっていたと思います。
こういうことをするカリエスという敵は同情の余地なしの絶対悪だと思いますが、こういう敵も最近では珍しい。
現実の世界でも悲しいことに許し難い絶対的な悪意のある事件が起こったりします。
「ガヴ」にはそのような非人間的な絶対的な悪意に対する怒り、そして戦う覚悟がポップな世界観の裏に隠されているのだと思います。
これは現在大ヒットしている「鬼滅の刃」にも共通する要素かもしれません。
主人公ショウマは敵を倒す前に「二度と闇菓子に関わらないか、この場で俺に倒されるか」と聞きます。
そして敵が闇菓子に関わり続けるといった場合は容赦せず、相手を滅するのです。
「仮面ライダーガヴ」はポップな仮面の下に、悪を絶対に許さない激しい気持ちを隠しているのです。

 

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2025年8月 2日 (土)

「劇場版 『鬼滅の刃』 無限城編 第一章 猗窩座再来」怒涛の展開

クライマックスに向けて怒涛の展開となっている「鬼滅の刃」無限城編が始まりました、
2時間半の長尺ながら、全く息をつく暇もない展開で圧倒されます。
元々このシリーズは作画の質が凄まじい。
アニメとは思えないカメラワーク、スピード感のある殺陣、ケレン味のある演出など一度だけでは堪能しきれないほどの濃度です。
これが2時間半続くのですから、圧倒されるばっかりです。
本作は第一章ということで、主に3つの戦いが描かれます。
蟲柱胡蝶しのぶVS上弦の弍童磨、我妻善逸VS下弦の陸獪岳、そして竈門炭治郎&水柱冨岡義勇VS上弦の参猗窩座です。
ちなみに私は原作を全く読んでおらず、展開を知らずに鑑賞しています。
まずは第1戦、胡蝶しのぶVS上弦の弍童磨です。
童磨は今までも登場していましたが、本格的に鬼殺隊との戦いを見せるのは今回初めて。 人当たりの良さそうな話し方の裏に、毒々しい悪意を持った鬼です。 上弦の鬼たちは大概が性格が破綻していますが、その中でタチの悪さは一番かも知れません。
対するしのぶは童磨に姉を殺されており、いつもとは異なり感情を全面に出しての戦いとなります。
その結果は・・・。
ちょっと緒戦でこの展開になるとは予想していなかったので、割とショックを受けてしまいました。
しのぶの思いが叶えられず、どうにも切ない。
しかし、それだけに上弦の鬼が一筋縄ではいかないほどの強敵であると否が応でも印象付ける戦いとなりました。
第2戦は我妻善逸VS下弦の陸獪岳。
私は鬼殺隊レギュラーの中では、善逸が推しでありまして。
普段のヘタレっぷりと闘いの最中で覚醒(いや寝ているか)しての霹靂一閃を打つ時のカッコ良さの落差がたまりません。
彼が戦うのはかつての兄弟子、獪岳。
彼らの雷の呼吸は型が6つまでしかなく、獪岳は弍から陸までを習得し増田が、壱の型だけはなぜかできませんでした。
逆に善逸は壱の型のみしか習得できませんでした。
プライドの高い獪岳は、師匠をそして善逸を恨みます。
そしてその心を持ったまま上弦に討たれ、鬼へ転びます。
この戦いでの善逸は終始シリアスです。 一つの型しか持っていないのは弱点であるかもしれない。
しかし、基本中の基本の技を極めきったことから、彼は自分の新しい技を得ることができたのです。
獪岳は人から奪うことしか考えなかった。
何も生み出していなかった。
その差が結果に現れました。
そして最後は竈門炭治郎&水柱冨岡義勇VS上弦の参猗窩座です。
それまでの2つの戦いも見応え十分だったのですが、この第三戦がさらに凄まじかったために、印象をさらっていってしまった感があります。 炭治郎と義勇の二人がかりでも対抗するのがやっとの猗窩座。
その実力は炎柱煉獄との戦いでも見せた通り。
武器を持たずその肉体だけで戦っているのにも関わらず、その力は刀を折るほどのもの。 そしてさらには首を切られても復活しようとする執念をも持っています。 鬼たちには悲しい過去を背負っている者も多く、猗窩座もその一人でした。
彼は守りたい人たちがいたにも関わらず、守りきれなかったという悔やみがあります。
それが強さへの執着となり、彼をそこまでにしぶとくさせていたのです。
しかし彼が本当に許せなかったのは自分でした。
誰か強者を倒し続けても、心の奥底に仕舞われていた悔やみは晴れることはない。
それに気づいてしまったのです。 炭治郎には戦いながら鬼たちが忘れている思いに気づかせてしまう力があります。
かつて味わった絶望を思い出した時、彼らは人間であった時の幸せも思い出すのです。
ということで怒涛の2時間半を振り返ってみました。
まだこれでも1/3。
ちょっとこの後の展開が予想できなくて、ドキドキします。
ネタバレを踏まないように気をつけます。

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2025年6月 8日 (日)

「国宝」二人の生き様

吉沢亮、横浜流星という新旧の大河ドラマ主演俳優をメインキャストに配した豪華なキャスティングです。
さすが今、旬の二人だけあって演技はなかなかの見応えでした。
本作は歌舞伎が題材になっており、二人とも数ヶ月も本格的な稽古を積んだということです。
劇中で見られる歌舞伎の所作や声の出し方にその稽古の成果が現れていると思います。
実はこの二人、吉沢亮さんがブレイクしたきっかけとなる「仮面ライダーフォーゼ」で演じた仮面ライダーメテオで共演しています。
当時は横浜流星さんはほぼ無名(その後「トッキュウジャー」でトッキュウ4号に抜擢)でしたが、吉沢亮さんが演じるメテオこと朔田流星の親友という役所でした。
吉沢さんの役名が、横浜さんの名前と一緒というのも何か運命的でもありますね。
横道外れてしまいました。
吉沢さん演じる喜久雄は親が極道でしたが、抗争のため親は死に、その後歌舞伎役者である花井半二郎に引き取られます。
その半次郎の息子であり、後継とみなされてたのが横浜さん演じる俊介。
本作は年が同じであるこの二人の半生が描かれます。
二人とも歌舞伎に魅入られ、その道を極めようとします。
喜久雄は天性の才を持ち、メキメキと頭角を表していくにつれ、俊介は自分の力のなさを感じ、逃げ出します。
また喜久雄は歌舞伎社会という伝統と血が重んじられる社会の中で、自らの出自のためにさまざまな障害で阻まれます。
二人は対立しながらも、お互いを認め合い、唯一無二の関係性を作っていきます。
それぞれが多くのものを犠牲にしながら、芸の道を究めていこうとします。
なぜ、すべてのものを犠牲にすることがわかっていながらも、魅入られるのか。
本人たちにも本当のところはわからないのかもしれません。
何かそこまで行けば、見える景色があるかもしれないという思い。
喜久雄が歌舞伎界から追放されて、地方のドサまわりをしている時の屋上のシーンが秀逸です。
彼は芸しか見えていない。
ずっと彼に付き従ってきていた女性も、自分のことを見ていないことによって去っていってしまう。
全てを失ってしまっても、彼は踊っている。
泣きながら、笑いながら。
それしか彼にはないから。
その時の吉沢さんの演技は鬼気迫るものがありました。
また横浜さんも素晴らしい。
俊介は糖尿病により片足を切断することになっても、なお舞台に立とうとします。
彼と喜久雄が一緒に舞台になった時、喜久雄はもう一方の足も壊死になりかけていることに気づきます。
痛みに耐えながらも俊介は死に物狂いで舞台を務める。
その思いをわかっているから喜久雄も舞台を続けようとする。
この二人の掛け合いが鳥肌が立つほどの緊張感がありました。
歌舞伎の興行を担当する会社の社員、竹野が彼らの舞台を見てつぶやきます。
「あんな生き方はできない」と。
何もかも、自分の命すら犠牲にしながらも、芸の道を極めようとする二人の生き様がそこにはありました。

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2025年6月 7日 (土)

「かくかくしかじか」見えるモノをそのままに受け取る素直さ

娘が見に行きたいというので、一緒に行ってきました。 今までは一緒に行くのはずっとアニメばっかりだったのに、ストーリーものの実写を見に行きたいと言ったところに成長を感じたりして。
さて本作は東村アキコさんの自伝的な漫画を原作にしています。
漫画家を目指していた東村さんと、絵の師匠であった日高先生との交流を描いています。
日高先生は現代からするとほぼ絶滅してしまったような人物です。
映画を拝見すると東村さんはほぼ私と同世代。
私が学生だった頃は学園ものにしてもとにかく先生はアツかった。
「金八先生」にしろ「スクールウォーズ」にしろ。
生徒を思うからこそ、その行動は真っ直ぐで。
本作の日高先生もそれに通じるものがあると思います。
生きてきた時代から私はこういう先生の物語を見ると、割と心に響いてくるのですが、現代の子どもたちから見た時、こういう先生はどのように見えるんでしょうね。
今っぽくないと思うのか、それとも逆に新鮮に見えるのか。
うちの娘は、ラストではくすんくすんとしていたので、心には届いているようでした。
そして日高先生は、物事を純粋にそのまましか見れない人でもありますね。
アキコがつく幼稚な嘘にも素直に騙されてしまう。
生徒の一人をチンパンジーに例えてしまうのも、それは揶揄うという意図ではなく、ただ単にそのように見えたということだけで。
これはモノを見てそのままを写しとるという画家の目を持つからこそかもしれません。
裏の意図とかそういうことを見ることはできなくて、ただ目に見えるものをそのまま受け取る素直さというか、そういうところが日高先生にあるのかもしれません。 アキコにとってはその素直さも重いとも思え、逃げ出すように師匠から離れることもありましたが、その真っ直ぐさは彼女が夢を追うことの力ともなったのです。
映画としても非常に素直なストーリーで、真っ直ぐにメッセージが届いてきます。
故に終盤では心にも大きく響いてきます。
本作の監督の関さんの作品はあまり見たことがなかったですが、絵作りが綺麗な印象です。
決して奇抜ではないのですが、画のレイアウトとかキーアイテムの使い方とか上手ですね。
公開前に出演者に関する報道でゴタゴタしていましたが、作品としては素直に感動できるものとして仕上がっていると思います。

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2025年3月30日 (日)

「教皇選挙」この課題に宗教界は向き合えるか

カトリックという宗教のトップとなる教皇を決める選挙のことを「コンクラーベ」というのは、以前何かの本を読んでいた時に知った。
コンクラーベでは、枢機卿たちが外部との接触を絶たれ、文字通り「缶詰」で次の教皇を選ぶという。
そこでは主力派工作なども行われるらしく、まさに「根比べ」のようだと思ったものである。
本作で描かれる教皇選挙では、まさに主力派工作のための権謀術数が行われており、参加者たちは忍耐の限界を越えようとしている。
枢機卿と言えば、聖職者のトップであるから何事も正しい振る舞いを行うものと見えているが、何のことはない、彼らも同じ人間である。
同じカトリックと言ってもその中にはさまざまな考え方がある。
伝統的なキリスト教の価値観を遵守するもの、世の中の変化を感じ取り、自らも変わっていかなければならないとする者。
自らの考えが正しいと考え、それを実行するためにはトップの座に座らないければならないとして、工作を行う。
これはどこの組織でもトップを選ぶ時には行われているものである。
聖職者といえども、それは変わらない。
主人公であるローレンス枢機卿は筆頭としてコンクラーベを取り仕切る。
彼はどちらかといえばリベラル派で、友人であり、次期皇候補であるベリーニを推すが、あくまで公平な立場であろうとする。
コンクラーベの中で、さまざまな候補が上がってはスキャンダルや権謀術数で退場していく。
誰もそれぞれの理想は持ちつつ、自分たちが権力を握るために工作を行う。
それはそもそも清廉であるべき、宗教者とは異なる姿であり、ローレンスはそのこと自体に嫌気を感じている。
その中で、突如候補として頭角を表してきたのは、ベニテス枢機卿。
彼は若いながらも紛争地域を中心に活躍しており、最もキリスト者として理想に根ざした活動をしてきていた。
コンクラーベ終盤で発せられた彼のメッセージは多くの枢機卿たちに本来のあるべき姿を思い出させたのである。
彼は結果として新教皇に選ばれるが、その後、ローレンスは驚くべき事実を知ることになる。
その事実は、ローレンスだけでなく、キリスト教に関わる全ての人の価値観を揺さぶることになる。 この事実は驚くべきものであり、これが実際に起こったとしたら、多くの論争が湧くものであると思う。
ただ、それは今現在、世界の中でも議論されている事柄であり、宗教界だけが無縁なものではないはずで、いずれ彼らもこの話題について何かしらの見解を出さないわけにはいかないと思う。
トランプ政権となり、これらの課題に関しても揺り戻しが起こっているが、大きな流れは変わらないのではないか。
その時、宗教界はどのようにこれに対応していくのだろうか。
大きなクエスチェンをこの作品は提示している。

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