2021年1月 4日 (月)

「劇場版「鬼滅の刃」無限列車編」 負けない強さ

遅まきながら劇場版「鬼滅の刃」を見に行ってきました。
昨年のブーム真っ只中の時は完全に出遅れていたのです。
その時は幼稚園生の娘が「禰󠄀豆子!」とか「炭治郎!」とか言っていて、「家で見せていないのになぜ知っている?」と驚いていたのですよね。
彼女たちが幼稚園で話題にするくらい流行っているのかと。
少々ひねくれているところもある私は流行っていると、いいやと思ってしまうところもあり、ずっとスルーをしていたのですが、年末に会社の社長との来年度以降の打ち合わせの時に「こんな時代に『鬼滅の刃』が流行っている理由を考えた方が良い」というような趣旨の発言をされて、これまた驚いたわけです。
幼稚園生から社長まで魅了する「鬼滅の刃」、押さえない訳にはいかないと。
ということで冬休みに入ってから幼稚園生の娘と「鬼滅の刃」を一気見、そして年始早々劇場版に足を運んだというわけです。
 
こんな時代に「鬼滅の刃」が流行っている訳。
社長から出されたお題は色々な人が論じています。
炭治郎が置かれた状況は客観的に見てとても苦しい状況で、それをコロナ禍における辛さに人々が重ね合わせたという説もありました。
それは確かにそうだと思います。
ただそれだけではなく、そういう辛い状況への炭治郎の対し方に共感が湧いたのだと考えます。
炭治郎は決して強いわけではありません。
そして家族を守りきれなかったという後悔を常に持ち続けています。
そして全ての人に対して等しく(鬼でさえも)尊重する思いを持っています。
今回の映画の中で炭治郎の深層心理の情景は冴え渡る一面の青空でしたが、まさに彼には影がない。
彼が戦う鬼は自分のために人を食う。
コロナ禍において、社会がギスギスとしていることを感じていた方も多かったと思います。
年配者は若者を酷く言い、若者は年配者を悪く言う。
自粛警察といった正義感を振りかざす人たちもいました。
ネットでの誹謗中傷も多かったと思います。
これら悪意はまさに鬼のように、感染して拡大していきます。
そのような悪意が蔓延していく状況の中で炭治郎という少年の生き様は希望のように感じたのかもしれません。
彼は鬼にすら同情をする。
鬼が背負ってきた悲しみを感じることができる。
計算高いわけではなく、大きく広く、悲しみや辛さをありのままに受け止めることができる。
彼は柱ほど強くはない。
鬼に叩きのめされることもある。
彼自身も己の不甲斐なさを自覚している。
けれども決して弱いわけではない。
彼は負けないのだ。
劇場版でも彼の凄まじい強さを感じさせる場面がある。
今回劇場版に登場する鬼は相手に幸せな夢を見せ、夢に留まらせる力を持つ。
その夢から脱出するには夢の中で自刃するしかない。
炭治郎はそれに気づく。
目覚めても鬼は炭治郎に何度も術をかける。
その度ごとに炭治郎は何度も夢の中で自刃をするのだ!
夢の中とはいえ、自分に刃を向けることは大変な苦痛だろう。
しかし彼は人々を救うために何度でもそれを行う。
彼は一撃で鬼を滅する圧倒的な強さを持っているわけではない。
彼が持っているのは決して負けないという強さなのだ。
コロナ禍において精神的に追い込まれることがあった人も多かったと思います。
そんな中で炭治郎の負けない強さというのは、一つの支えになったのかもしれませんね。
 
強いと言えば今回劇場版の最後に圧巻の戦いをした炎柱の煉獄杏寿郎です。
彼は実力的にも鬼殺隊随一の剣士ですが、上弦の鬼である猗窩座
と死闘を繰り広げ敗れます。
猗窩座は煉獄の力を認め、鬼になるよう勧めますが(まるで「魔界転生」のようだ!)、彼はそれを拒否します。
彼は幼い頃より類稀なる実力を持った人間の責任として、人を救うために生きてきた。
だからこそ己の業のために生き人を害する存在になるよりは、人を守って死んでいくことを選んだ。
そしてその意思を後身に伝えようとした。
まさに天晴れな生き様であり、炭治郎とは違う圧倒的な強さを見せてくれました。
4歳娘はこの場面で泣いていましたね。
彼女が映画を見て泣くというを見たのも初めてでした。
「なんで泣いたの?」と聞いたら「悔しかったから」と言っていました。
「あの鬼は逃げてずるい」と。
確かにその通り。
上弦とはいえ、結局は己の身を大事にし、戦いを捨て彼は逃げた。
煉獄は己を犠牲にしても戦いから逃げなかったわけです。
 
あと「鬼滅の刃」がヒットした理由として、家族愛をあげる方もいます。
周囲の女性に聞くとこの意見は多かったように思いました。
劇場版においてそれを強く感じた場面が一つあり、とても印象的でありました。
炭治郎に鬼が夢を見せますが、次第により過酷な夢を見せようとします。
愛する家族が炭治郎を責め、傷つけようとする言葉を投げつけます。
それによって鬼は炭治郎の心を壊そうとしたのでしょう。
しかし、炭治郎はかえってそれが夢であることを見破ります。
彼は「バカにするな!俺の家族はそんなことを言うわけがない!」と言います。
そう、彼は彼の家族を心の底から信じているのです。
それには惑いとようなものは一片たりともない。
彼がどれだけ家族を思い、信じているかを伺わせるセリフであったと思います。
鬼たちの絆は全て恐怖によってなされているもの。
そうではない絆が炭治郎にはあるということですね。
 
アニメで描かれているのはまだまだ漫画では序盤とのこと。
今後の展開を楽しみに待ちたいと思います。

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2020年12月20日 (日)

「劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME」 かつてない敵

テレビシリーズ放映中にコロナ禍によって撮影中断となってしまい、大幅に話数が減ってしまったという不運があった「仮面ライダーゼロワン」。
それにも関わらず終盤のストーリー展開はハードかつ濃密であり、令和ライダー一作目の名に恥じない出来となっていました。
通常夏に単独映画として「仮面ライダー」シリーズは公開されますが、それも見送られ、ようやく冬の映画として公開されました。
メガホンを取るのはテレビシリーズのパイロットを担当し、「ゼロワン」の世界観を確立した杉原輝昭監督、脚本はメインライターであった高橋裕哉さんのタッグです。
この作品を熟知しているお二人が担当されているということもあり、またテレビシリーズオンエア中に公開される単独映画ではないため変な仕掛け・ギミックもないため、純粋に「ゼロワン」の世界観が味わえる作品として仕上がっていました。
歴代の単独ライダー映画の中でも非常に高いレベルに仕上がっていたと思いますが、いくつか魅力的な点を挙げていきましょう。
まずはアクションですね。
アクションを担当されているのは渡辺淳監督。
数々の仮面ライダーを演じたスーツアクターでもあり、「ゼロワン」で一年間通しのテレビシリーズを初担当されました。
テレビ第一話のアクションシーンで、凄まじいカメラワークのアクションを展開して視聴者の度肝を抜き、新しいライダーのアクションを確立しましたが、本作でもそのテイストは健在。
スピーディで斬新なアクションシーンには目を見張りました。
驚きのゼロワン、ゼロツーの共闘シーンは息を吐く暇もないほどのアクションのラッシュです。
バルキリーのバイクアクションも見応えありました。
カメラワーク、カット割りなど従来のアクションとは違うセンスが光り、新しい息吹を感じます。
次にキャラクターたちです。
元々テレビシリーズでもレギュラーのキャラクターはそれぞれに魅力的でした。
彼らが自分なりの考えを持ち、共闘し、そしてまた対立し、そして最後には認め合うようになる過程は胸が熱くなるものがありました。
それらテレビシリーズをしっかり踏まえたキャラクターの描き方になっているので、安心しました。
主人公飛電或人の真っ直ぐに人とAIの両方を信じる気持ち、そして彼を支えるイズ。
イズはテレビシリーズでずっと或人を支えていたVerが破壊されてしまったため、新たなイズではあるのですが、本作の中でその古いVerのイズの気持ちを引き継ぐことにより、改めて彼女自身の判断で或人を支えることを決心します。
それがゼロワン、ゼロツーの共闘につながることになるのですが、ここも胸熱ポイントになりますね。
<ここからネタバレあり>
あと巧妙であり、また非常に現代社会を捉えていると思ったのが、敵の設定です。
テレビシリーズの最終回で”エス”=仮面ライダーエデンとして伊藤英明さんがチラリと出て、彼が新しい敵であるような示唆がありました。
しかし結果的に或人たちが戦う最終の敵とはネットなどで一般の匿名の人々が持つ悪意であったのです。
今年は誹謗中傷により有名人が自殺してしまうなどの痛ましい事件がありました。
ネットでのいじめなどもあとをたちません。
匿名であることをいいことに悪意を誰かにぶつけ、そしてそれが拡散していく、そういったことをよく見受けられます。
まさにテレビシリーズでのラスボスであったアークは、人々の悪意が生み出した存在でありました。
それをさらに発展させ、それぞれの人々の悪意こそが人々を傷つけてしまうということを問題提起しているようにも思いました。
最終的に敵となるのはそれぞれネットで悪意のある書き込みなどを行なっていた一般人であったのです。
ちょっとしたワンカットでしたが、敵のライダー軍団の幹部の一人の正体がただの主婦で、ネットに熱中するあまり子供を放ったらかしにしている場面はショッキングでありました。
このような状況で皆それぞれ鬱々とした気持ちを抱えていることでしょう。
しかし、匿名で自分の身は安全にしたまま、それを誰かにぶつけるいいわけがありません。
現代が抱える問題を正面切って取り上げるのは「仮面ライダー」としてはかつてないアプローチであり、脚本の目の付け所が素晴らしいと思いました。

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「劇場短編 仮面ライダーセイバー 不死鳥の剣士と破滅の本」仕方ないところもあるが食い足りない

今年はコロナ禍の影響で夏の「仮面ライダー」劇場版はありませんでした。
通常冬のライダー映画はオンエア中の現役ライダーと前作ライダーのコラボレーションの形を取ることが多いのですが、今年の冬は「ゼロワン」と「セイバー」は別の作品としての同時上映となりました。
コロナ禍なので仕方がないかという部分と、この2作品は作風が全く異なるので、同一世界の中で描くというのもかなり難しいかと思うので、この判断はありだと思います。
「ゼロワン」の劇場版は夏がなかったということもあり、かなり力の入った作品となっていました。
が、「セイバー」については上映時間がかなり短い(通常の夏の劇場版でのスーパー戦隊と同じ位置付けか)ということもあり、ストーリーが云々という評価はできないかと思いました。
「セイバー」は久しぶりの多人数ライダーの作品ということもあり、現時点でセイバー側のライダーは合わせて6人。
彼らのバトルシーンを楽しむというというのが、メインの見どころとなるでしょう。
ですので変身前の出演者が登場する場面はとても短く、スーツアクターの方がかなり活躍しているという「仮面ライダー」としては珍しい作品になっています。
ですのでちびっ子ファンは大満足かもしれませんが、大きなお友達からするとちょっと物足りない。
テレビシリーズはストーリーが大きなうねりを出し始めているところなので、その分劇場版は食い足りない感はありましたね。
これは尺が足りないということに全て起因することなので、致し方なしというところでしょう。
夏の単独映画に期待したいところです。

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2020年3月21日 (土)

「仮面病棟」 ややご都合主義

<ネタバレ含みます>
ある病院を舞台にしたサスペンスです。
 
主人公速水がある病院の当直医として1日限りのバイトをしていた晩、突然ピエロの面を被った強盗が病院に押し込み立てこもります。
一緒に彼に撃たれた女子大生、瞳もやってきました。
他に病院内にいるのは認知症の患者たちと、院長と二人の看護師。
ピエロが病院に来たのは偶然ではなく、何か目的があるらしい。
そして院長や看護師たちの動きにも不審な点が。
この病院には何か秘密があると速水は感じ始めた・・・。
最後のどんでん返し自体は意外性もあり楽しむことができますが、いくつか気になる点もあり、謎解きの部分は全て納得できたわけではありません(私が見逃しているところがあるかもしれませんが)。
そもそも普通の市民である犯人らが物騒な拳銃を持っている理由が示されていません。
そして大きなトリックの一つである瞳の腹部の銃槍について、元々あった傷を素人が致命的にならず隠蔽するようにつけるなんてことができるのかという点。
瞳は患者の一人であったというわけですが、化粧や髪型を変えただけでいつも世話をしている看護師たちが気づかないというのも不自然です(一人は気付きましたが)。
彼女と姉が病院に担ぎ込まれた時は、身元不明であったということです。
一時的に記憶を失っていたということでしょうか。
それとも怪我によって意識不明であったということでしょうか?
もし意識不明な状況であったのに臓器摘出手術をしたとすると、意識が戻ってしまったら院長らはどうする気だったのでしょう?
絶対に記憶が戻らない自信があった?
また記憶が戻った瞳はなぜ自分の身元を告げないまま、身元不明のまま病院で過ごしたのか?
姉の復讐をするため?
そうすると目覚めた時から、大体の計画は彼女の頭に浮かんだということなのでしょうか?
 
というようにいくつも気になる点があり、ミステリーとしては納得性がありませんでした。
何人かいる身元不明者のネームプレートを写したり、全ベットが埋まっているはずなのに開いていたベットがあったということをさりげなく見せるなど、フェアでありたいという姿勢はいくつも感じるのですが、全体的にはご都合主義な感じは否めません。
もうちょっと丁寧さがあればもっと良い仕上がりになったように思います。

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2020年3月20日 (金)

「映画 賭けグルイ」 ハイテンション!ハイリアクション!

公開時に気になっていた作品だったのですが、見ていなかったTVシリーズを受けての作品だったようで、鑑賞を断念。
改めてNetflixでテレビシリーズを全て見てからの鑑賞となりました。
本作の舞台となる私立百花王学園は生徒会を頂点としたギャンブルによる階級制度があります。
そこに主人公蛇喰夢子が転向してきます。
彼女は一見古風なお嬢様のようにも見えますが、真性のギャンブル狂で、賭事に挑むときは性格が一変します。
まさに「賭けグルイ」です。
この蛇喰夢子を演じるのが現在売り出し中の浜辺美波さん。
普通の少女から、深窓のお嬢様、そしてちょっとズレたような変わり者まで幅広く演じることができる女優さんですが、本作での振れ幅はかつて無いほどのレベルですね。
ギャンブルをテーマとした作品としては「カイジ」シリーズが思い浮かびます。
そこで主人公カイジを演じる藤原竜也さんの演技も、非常にハイテンションでしたが、その藤原さんにも負けるとも劣らないほどのテンションで浜辺さんは夢子を演じます。
彼女の演技の振れ幅は最近の若手女優の中でNo.1と呼べるものだと思います。
夢子以外のキャラクターに関しても、全てがハイテンション・ハイリアクションの演出で通されています。
漫画にもある表現なのだと思いますが、ショックを受けたときの文字通り「目が点」になる時の表現はまさにその究極。
全編的にコミック的な大仰な演出になっていますが、それがギャンブルという究極の心理戦においてははまっています。
全体のトーンはかなり独特でこれは英勉監督のセンスの賜物でしょう。
映画版で描かれる賭け事は大掛かりなものではなく、カードゲームが主体となり、大掛かりな装置によるギャンブルがメインの「カイジ」と好対照ですが、とは言っても地味ということではありません。
シンプルなカードゲームであるということで、より心理戦にフォーカスされ余計にドキドキさせられます。
浜辺さんに負けず劣らずの振れ幅を見せるのが、テレビではあまり姿を表さなかったキャラクター歩火を演じる福原遥さん。
彼女の演技も見ものでした。
前半と後半は全く異なるキャラクターのよう。
浜辺さんと福原さん、この二人の演技だけでも見る価値はあります。
最後は夢子と生徒会長のバトルになるのかと思いきや、そこまでは至らず。
またテレビシリーズなり、映画があるということでしょうか。
夢子が何者であるかも明らかにされておりません。
今後また彼女たちに会えることを期待したいと思います。

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2020年3月12日 (木)

「キャッツ」 延々と続く自己紹介

ちょうど大学生の頃、劇団四季の「キャッツ」が大ブームとなっていました。
私は映画はよく観るものの、舞台鑑賞は全く馴染めなかったので、そのころはそのブームには全く興味を惹かれませんでした。
また当時はミュージカルにも興味はなかったのです。
そして何十年か過ぎ、舞台には今もなお興味は持てないのですが、ミュージカル映画は大好きになっているので、あの「キャッツ」が映画になると聞けば、見たくなるものです。
とは言いながらも、色々と忙しくしているうちに公開日から3週間程度経ってしまいました。
ようやく観に行こうとして、上映時間を調べてみると1日に1回くらいしか上映していません。
早く観に行かなくては!と焦って出かけたのですが、やや嫌な予感があったのも確かです。
何でまだひと月も経っていないのに、上映時間が絞られているのだろう・・・。
「キャッツ」はタイトルの通り、猫たちが主人公です。
ロンドンの路地裏で、ある夜に開催される猫たちの舞踏会。
そこでNo1のパフォーマンスを見せた猫は天上に昇って、新しい生を得ることができるといいます。
本作ではその舞踏会に参加する個性豊かな猫たちが、それぞれユニークなパフォーマンスを見せていくのです。
しかし、この猫たちのパフォーマンスが一匹づつ順番に延々と続いていくのが、非常に退屈なのです。
最初の1、2匹くらいまで我慢できるのですが、猫たちの自己紹介だけでほとんどの時間を使い、ほとんどストーリーらしきものはありません。
途中、ほんとに睡魔と戦うのに苦労しました。
超有名な曲「メモリー」がかかるのはかなりの終盤となります。
ただそれを歌うキャラクターの背景が丁寧に描かれているとは言えず、そこに込められた想いが伝わってきません。
歌は上手いと思いますが。
ミュージカルの歌はキャラクターの想いを表現するものであり、それが伝わってこないのはミュージカルとして落第であると思います。
個人的にはあまりに酷い出来だと思ったので、舞台版を観たことがある人に話したら、舞台の方もストーリーらしきものはあまり強くないとのこと。
ストーリーが薄いというのはオリジナルからしてそうらしいので本作のせいではないのかもしれません。
ただ舞台の場合はストーリーが薄くても、それを演じる役者のパフォーマンスを直に感じることができるので、それはそれで成立するのかもしれません。
ただそれを映画というメディア、すなわちスクリーンと観客との距離があるメディアに落とし込んだときはそのような演者と観客が共有するライブ感はないため、ストーリーの薄さが目立つのかもしれません。
また本作では役者をCGで猫風にアレンジしているという映像処理をしていますが、これが非常に微妙です。
人間が猫を演じているわけでもなく、猫そのものでもない。
リアリティがあるわけではなく、かといってファンタジーらしからぬ生々しさがあります。
舞台はあくまで人間が猫を演じてるという体ですが、本作は人間と猫が融合しています。
その奇妙な合成が生理的にやや気持ちが悪い。
演者にはバレリーナやダンサーを起用し、その躍動的なパフォーマンスを活かしたかったのだと思いますが、奇妙な人間と猫の合成生物が変に肉体感を持っているのが、生理的にむず痒さを感じさせます。
成功したミュージカルを映画化して成功した事例はたくさんありますが、舞台というメディアの特性、映画というメディアの特性を理解して移植しないと、このような失敗を生むという教訓になる作品だと思いました。

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2020年1月13日 (月)

「カイジ ファイナルゲーム」 ハイテンション!

藤原竜也さん主演の「カイジ」シリーズの9年ぶりの新作です。
全2作についても楽しく鑑賞できたので、とても楽しみにしていました。
監督も主演もそのままですので、作品のテイストも変わることがないのが嬉しいところです。
まずは主演の藤原竜也さんです。
元々舞台出身ということもあり、演技はナチュラルというよりもオーバーなのが彼の特徴です。
ですので、こういうハイテンションな作品に藤原竜也さんは非常によく合いますね。
顔を真っ赤にしてセリフを全力で吐き出すように話すところなどは彼らしさがすごく出ていました。
彼のようなタイプの俳優さんは多くはないので、非常に貴重な方だと思います。
カイジは彼のフィルモグラフィの中でもはまり役の一つだと思います。
カイジの相手役となるのは、吉田鋼太郎さん。
今までも香川照彦さん、伊勢谷友介さんが敵役となっていましたが、吉田鋼太郎さんがまた憎らしくて良いです。
藤原竜也さんがハイテンションなので、敵役もやはりそれを受け止められるパワーが絶対に必要です。
吉田鋼太郎さんはシェイクスピアの舞台などをやられていた空ですので、大仰な芝居(良い意味で)は得意とするところ。
最終作での藤原竜也さんとの相手役としては申し分ありません。
ラスボス的な役割として出てくるのは福士蒼汰さん。
今まではあまりこのような悪役は演じられていなかったと思いますが、藤原さんに影響されてからなかなかなハイテンションであったと思います。
描かれるのが非現実的な世界であるので、俳優陣のテンションが作品の全体に大きな影響を与えていると思います。
このシリーズはそれがうまくできている。
ストーリーとしては、前2作に比べると舞台装置としては大きかったものの、緊張感は少なかったようにも思います。
人間秤のパートが長かったからでしょうか、カイジの仕掛けなどの種明かしが後半に集中したので、途中の緊張感がやや今までの作品に比べると薄いようにも感じました。
もっと胃が痛くなるような緊張感があった印象なのですよね。
前作よりはドラマ部分が強化されているような感じがしました。
それはそれで楽しめたので、映画としては全然成立していると思います。
今までの作品のテンションを期待するとちょっと物足りなく感じるかもしれません。

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2020年1月12日 (日)

「カツベン!」 彼らの役割

今年の最初の記事はこちら、「カツベン!」です。
タイトルの「カツベン」とは「活弁」、すなわち「活動弁士」のこと。
かつて日本で映画が「活動写真」と呼ばれサイレントであった頃、それに活弁と呼ばれる弁士が状況やセリフを喋り、説明をしていました。
映画そのものよりも、弁士その人のうまさや人気の方が劇場にとっては重要であったということです。
欧米では活弁という職業はなく、無声映画にはバックにオーケストラがかかっていました。
状況やセリフをいう活弁という日本独自の職業は、浄瑠璃などからくるナレーション文化の流れを汲むものと言われています。
無論、映画がトーキーになってしまえば、その役割は必要なくなってしまいます。
活弁が活躍する時期は40年間程度でしょうか。
私が本作で印象的であったのは永瀬正敏さんが演じる山岡秋声というキャラクターでした。
山岡は主人公染谷俊太郎が憧れていた活弁でしたが、染谷が出会ったときは舞台に上がってもあまり喋らない弁士となっていました。
彼は映画はそれ自体が語りたいことがあるから、活弁が好き放題に面白おかしく説明するのは良くないと考えるようになっていたのです。
もしかすると、彼は映画が自分自身を語り始める(すなわちトーキーになる)ことを予見していたのかもしれません。
とはいえ、無声映画をイキイキとさせ、より人々を楽しめることができた活弁の役割を否定するものでもないと思います。
映画のラストで、事件により多くのフィルムを消失させてしまった染谷たちは、残ったフィルムを繋げ合わせ劇場にかけます。
当然残ったフィルムを繋げただけなので、そこにはストーリーなどはありません。
しかし、辻褄の合わないフィルムを染谷は活写し、観客たちを魅了します。
彼の喋りがただの寄せ集めのフィルムに生命を与えたかがごときでした。
活弁とはいずれ消えていく仕事であったのかもしれません。
映画自体が言いたいこととは異なることを話していたのかもしれません。
しかし、映画が人々の楽しみとして普及していく過程において重要な役割を担ったということは確かであったのだろうと感じました。
現在にも何人か活弁を生業としている方はいらっしゃるようですね。
いつか、彼らの仕事を観てみたいとも思いました。
通常の映画体験とは異なる体験ができそうです。

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2019年12月29日 (日)

「仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」 新しい時代のスタート

いつしか「平成仮面ライダー」と呼ばれるようになったシリーズを20年分総括した「仮面ライダージオウ」。
奇しくも元号が平成から令和となった今後は「令和仮面ライダー」と呼ばれることとなるであろうシリーズのトップバッターである「仮面ライダーゼロワン」は新たな時代を背負うことになる役割を担わなければなりません。
これからも「仮面ライダー」というブランド、シリーズを続けていくためには失敗を許されないわけです。
「ジオウ」はタイムトラベルという題材、また過去のライダーに様々な点で依拠するため、非常に複雑な設定・ストーリーだったためコアなファンにはディープに楽しめる点が多くありましたが、それによってそうではない人にとっては敷居が高いところがあったとも言えます。
それに対して「ゼロワン」は「仮面ライダー」をまったく知らなくても入っていける分かりやすさ(設定面とエモーショナルな点)があると思います。
劇中で豪華絢爛な風貌のグランドジオウとシンプルでソリッドなデザインのゼロワンが並び立つシーンがありましたが、これはまさにこの2作の作風の違いを表しているようにも思いました。
「ジオウ」はタイムトラベルという設定により比較的なんでもありの展開が可能ですが、「ゼロワン」は基本的にAIテクノロジーが発達した現代というリアリスティックな世界観を持っているため「ジオウ」ほどの自由さは持っていないと思います。
そういう意味ではこの二つの作品は非常に食い合わせが悪いように思います。
「ジオウ」に下手な絡ませ方をしてしまうと「ゼロワン」の世界観が途端にリアルさを失ってしまうような気がします。
10年前の「ディケイド」と「W」に関しても同じような関係だと思いますが、あの時の冬映画は「ディケイド」編と「W」編が同時並行で進み、最後にストーリーが合流するという形式で食い合わせの悪さを巧みに回避していたと思います。
本作は今までの通り前作ライダーと現役ライダーのコラボという体裁となっていますが、タイトルで「令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」とあるようにストーリーとして「ゼロワン」が主体として展開していきます。
あくまで新時代を築いていこうとするライダーを主役として据えるという意思を感じます。
ジオウはタイムトラベルやアナザーライダーという設定を上手に使うために出ているサブの役割であると思いました。
「ゼロワン」は新しい時代の始まりとなるための責任があると書きましたが、テレビシリーズを見る限り見応えのあるドラマを作っていると思います。
「ディケイド」や「ジオウ」は作品自体がギミックのようなものでしたが、「ゼロワン」は基本はドラマを見せる作りになっています。
AIという新しいテクノロジーに対して、様々な考え方をする人物が登場します。
主人公である飛電或人はAIを全面的に肯定し人間のパートナーとして認めています。
AIMSの不破はAIを人類の敵として認知し、また刃は人間の道具として捉えています。
そしてまたAIを自分のために利用しようとする人物も登場しました。
彼らの価値観のぶつかりが一つのドラマとなります。
またAIを搭載した人型アドロイドであるヒューマギアはシンギュラリティをむかえ自我を得ることもあります。
果たして彼らは新しい生き物なのか、それとも敵なのか。
彼ら自身がどう答えを出すかもドラマとなります。
これはこの劇場版でも触れられていますよね。
これら人間とヒューマギアが互いに相手を受け入れるのか、敵対するかというのは全編を通した大きなテーマです。
ふと思うとこのテーマは平成仮面ライダーの一つである「仮面ライダー555」における人間とオルフェノクの関係性にも似ていると思いました。
かつては人間ではあるが、人間とは異なる者としてなってしまったオルフェノク。
見た目は人間のようですが、人間ではないヒューマギアと似ています。
本作のラスト近辺で気になる台詞がありました。
刃唯阿が不破に「私がヒューマギアになったらどうする?」と聞くのです。
「ヒューマギアになる」というのが不思議な感じがしましたが、もしかすると人間のように生きていながら自分でも人間ではないヒューマギアというのも存在するかもしれないとも思ったのです。
「555」では中盤で主人公が敵と同じオルフェノクであるという驚きの展開をしましたが、もしかすると主要登場人物の誰かがヒューマギアであったといううようなこともあるかもしれません。
「ゼロワン」が色々と想像をさせてしまうストーリーの力を持っているというのは間違い無いかと思います。
これからもテレビシリーズの方を期待してみていきたいと思います。

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2019年9月29日 (日)

「記憶にございません」 生き方を変えるファンタジー

人生も半ば過ぎまで生きてきて、それが子供の頃想像していた将来の姿と同じかと言われると全然違うものですよね。
個人的にはそれはそれで悪くない人生であったと思ってるわけですが、こんなはずじゃなかったと思う人もいますよね。
それでは、人生を改めてやり直すことができるのかというと、既にいろんなしがらみがあって、そのようなことは無理なわけです。
本作は政治コメディの体裁ですが、政治の風刺というよりは、人生をやり直すことができたらということをテーマにしたファンタジーと言えるかもしれません。
ただし本当にファンタジーでない限りは失われた時を取り戻すわけにはいかないので、人生をやり直すというよりは、生き方をリセットするということを描いていると言えるでしょう。
過ぎ去った時間は取り戻すことはできなくても、生き方を変えれば、その後の人生は別のものに変えることができるかもしれません。
しかし、生き方を変えるというのもなかなかの至難の業。
それまで生きてきて積み重ねてきたものが自分の中にも、自分の周囲の人々のなかにもあり、それが自分というものを作り上げているからです。
自分の中はあるきっかけがあれば変えることができたとしても、しがらみがそうさせてくれない。
本作の主人公である黒田は政権の支持率がかつてないほど低い、多くの国民に嫌われている内閣総理大臣です。
国会や記者会見では暴言を吐く、強引な政権運営をする、汚職まがいなことを裏ではしている、そして不倫なども・・・。
好きになるのが土台無理そうな悪徳政治家です。
どこかの国にもいるような感じが致しますが。
さて、その首相が演説の最中に頭にくらってしまった石礫のおかげで、記憶喪失になってしまいます。
子供の頃は別にして、政治家になった頃からの記憶がまったくない。
それに伴ってか、何故か人格までがとってもいい人になってしまうのです。
そんな彼が自分が嫌われ者であったときのことを知るにつけ、このままで政治を放っておいていけない、しがらみがなくなってしまったからこそ自分には失うものがないと様々な改革を実行していきます。
 
<ここからネタバレがあります>
 
よくよく考えると記憶喪失になることにより、悪人から善人に性格までが変わってしまうのはそもそもおかしい。
ポイントは失った記憶が政治家になってから以降であったということです。
ということは、黒田はそもそもはいい人であったということなのですよね。
元々いい人であったはずですが、政治の世界で生きていくため、性格が変わってしまったのか、それともそのような政治家を演じてきたのかはわかりませんが、石飛礫によって性格がもとのいい人に戻ったということなのですよね。
実は彼は途中から記憶が戻っていましたが、記憶喪失のままでいようとそれを演じてきていたのです。
このあたりは百戦錬磨の政治家らしい。
もともとは夢を持って政治を志していたのにもかかわらず、いつしか生き抜くことが目的となり初志を忘れてしまっていたということに彼は気づいたのでしょう。
記憶喪失になったことによって、皮肉にも忘れていた志を思い出したとも言えます。
だからこそ記憶喪失という苦難を自分が変わり、そして周囲もそれに納得してもらえる一世一代のチャンスにかけたのでしょう。
この辺りも勝負師らしいです。
本当の人生、そんなに生き方を変えられれるかという話にはなるとは思いますが、それはこの物語はやはりファンタジーなのだと思います。
だからこそハッピーな気分になれる。
なかなか自分で自分の生き方を変えることは難しい。
けれど、ほんとのほんとにやる気になれば、できるかもしれない。
そんな希望を持たせてくれる映画のような気がしました。

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