2020年3月21日 (土)

「仮面病棟」 ややご都合主義

<ネタバレ含みます>
ある病院を舞台にしたサスペンスです。
 
主人公速水がある病院の当直医として1日限りのバイトをしていた晩、突然ピエロの面を被った強盗が病院に押し込み立てこもります。
一緒に彼に撃たれた女子大生、瞳もやってきました。
他に病院内にいるのは認知症の患者たちと、院長と二人の看護師。
ピエロが病院に来たのは偶然ではなく、何か目的があるらしい。
そして院長や看護師たちの動きにも不審な点が。
この病院には何か秘密があると速水は感じ始めた・・・。
最後のどんでん返し自体は意外性もあり楽しむことができますが、いくつか気になる点もあり、謎解きの部分は全て納得できたわけではありません(私が見逃しているところがあるかもしれませんが)。
そもそも普通の市民である犯人らが物騒な拳銃を持っている理由が示されていません。
そして大きなトリックの一つである瞳の腹部の銃槍について、元々あった傷を素人が致命的にならず隠蔽するようにつけるなんてことができるのかという点。
瞳は患者の一人であったというわけですが、化粧や髪型を変えただけでいつも世話をしている看護師たちが気づかないというのも不自然です(一人は気付きましたが)。
彼女と姉が病院に担ぎ込まれた時は、身元不明であったということです。
一時的に記憶を失っていたということでしょうか。
それとも怪我によって意識不明であったということでしょうか?
もし意識不明な状況であったのに臓器摘出手術をしたとすると、意識が戻ってしまったら院長らはどうする気だったのでしょう?
絶対に記憶が戻らない自信があった?
また記憶が戻った瞳はなぜ自分の身元を告げないまま、身元不明のまま病院で過ごしたのか?
姉の復讐をするため?
そうすると目覚めた時から、大体の計画は彼女の頭に浮かんだということなのでしょうか?
 
というようにいくつも気になる点があり、ミステリーとしては納得性がありませんでした。
何人かいる身元不明者のネームプレートを写したり、全ベットが埋まっているはずなのに開いていたベットがあったということをさりげなく見せるなど、フェアでありたいという姿勢はいくつも感じるのですが、全体的にはご都合主義な感じは否めません。
もうちょっと丁寧さがあればもっと良い仕上がりになったように思います。

| | コメント (0)

2020年3月20日 (金)

「映画 賭けグルイ」 ハイテンション!ハイリアクション!

公開時に気になっていた作品だったのですが、見ていなかったTVシリーズを受けての作品だったようで、鑑賞を断念。
改めてNetflixでテレビシリーズを全て見てからの鑑賞となりました。
本作の舞台となる私立百花王学園は生徒会を頂点としたギャンブルによる階級制度があります。
そこに主人公蛇喰夢子が転向してきます。
彼女は一見古風なお嬢様のようにも見えますが、真性のギャンブル狂で、賭事に挑むときは性格が一変します。
まさに「賭けグルイ」です。
この蛇喰夢子を演じるのが現在売り出し中の浜辺美波さん。
普通の少女から、深窓のお嬢様、そしてちょっとズレたような変わり者まで幅広く演じることができる女優さんですが、本作での振れ幅はかつて無いほどのレベルですね。
ギャンブルをテーマとした作品としては「カイジ」シリーズが思い浮かびます。
そこで主人公カイジを演じる藤原竜也さんの演技も、非常にハイテンションでしたが、その藤原さんにも負けるとも劣らないほどのテンションで浜辺さんは夢子を演じます。
彼女の演技の振れ幅は最近の若手女優の中でNo.1と呼べるものだと思います。
夢子以外のキャラクターに関しても、全てがハイテンション・ハイリアクションの演出で通されています。
漫画にもある表現なのだと思いますが、ショックを受けたときの文字通り「目が点」になる時の表現はまさにその究極。
全編的にコミック的な大仰な演出になっていますが、それがギャンブルという究極の心理戦においてははまっています。
全体のトーンはかなり独特でこれは英勉監督のセンスの賜物でしょう。
映画版で描かれる賭け事は大掛かりなものではなく、カードゲームが主体となり、大掛かりな装置によるギャンブルがメインの「カイジ」と好対照ですが、とは言っても地味ということではありません。
シンプルなカードゲームであるということで、より心理戦にフォーカスされ余計にドキドキさせられます。
浜辺さんに負けず劣らずの振れ幅を見せるのが、テレビではあまり姿を表さなかったキャラクター歩火を演じる福原遥さん。
彼女の演技も見ものでした。
前半と後半は全く異なるキャラクターのよう。
浜辺さんと福原さん、この二人の演技だけでも見る価値はあります。
最後は夢子と生徒会長のバトルになるのかと思いきや、そこまでは至らず。
またテレビシリーズなり、映画があるということでしょうか。
夢子が何者であるかも明らかにされておりません。
今後また彼女たちに会えることを期待したいと思います。

| | コメント (0)

2020年3月12日 (木)

「キャッツ」 延々と続く自己紹介

ちょうど大学生の頃、劇団四季の「キャッツ」が大ブームとなっていました。
私は映画はよく観るものの、舞台鑑賞は全く馴染めなかったので、そのころはそのブームには全く興味を惹かれませんでした。
また当時はミュージカルにも興味はなかったのです。
そして何十年か過ぎ、舞台には今もなお興味は持てないのですが、ミュージカル映画は大好きになっているので、あの「キャッツ」が映画になると聞けば、見たくなるものです。
とは言いながらも、色々と忙しくしているうちに公開日から3週間程度経ってしまいました。
ようやく観に行こうとして、上映時間を調べてみると1日に1回くらいしか上映していません。
早く観に行かなくては!と焦って出かけたのですが、やや嫌な予感があったのも確かです。
何でまだひと月も経っていないのに、上映時間が絞られているのだろう・・・。
「キャッツ」はタイトルの通り、猫たちが主人公です。
ロンドンの路地裏で、ある夜に開催される猫たちの舞踏会。
そこでNo1のパフォーマンスを見せた猫は天上に昇って、新しい生を得ることができるといいます。
本作ではその舞踏会に参加する個性豊かな猫たちが、それぞれユニークなパフォーマンスを見せていくのです。
しかし、この猫たちのパフォーマンスが一匹づつ順番に延々と続いていくのが、非常に退屈なのです。
最初の1、2匹くらいまで我慢できるのですが、猫たちの自己紹介だけでほとんどの時間を使い、ほとんどストーリーらしきものはありません。
途中、ほんとに睡魔と戦うのに苦労しました。
超有名な曲「メモリー」がかかるのはかなりの終盤となります。
ただそれを歌うキャラクターの背景が丁寧に描かれているとは言えず、そこに込められた想いが伝わってきません。
歌は上手いと思いますが。
ミュージカルの歌はキャラクターの想いを表現するものであり、それが伝わってこないのはミュージカルとして落第であると思います。
個人的にはあまりに酷い出来だと思ったので、舞台版を観たことがある人に話したら、舞台の方もストーリーらしきものはあまり強くないとのこと。
ストーリーが薄いというのはオリジナルからしてそうらしいので本作のせいではないのかもしれません。
ただ舞台の場合はストーリーが薄くても、それを演じる役者のパフォーマンスを直に感じることができるので、それはそれで成立するのかもしれません。
ただそれを映画というメディア、すなわちスクリーンと観客との距離があるメディアに落とし込んだときはそのような演者と観客が共有するライブ感はないため、ストーリーの薄さが目立つのかもしれません。
また本作では役者をCGで猫風にアレンジしているという映像処理をしていますが、これが非常に微妙です。
人間が猫を演じているわけでもなく、猫そのものでもない。
リアリティがあるわけではなく、かといってファンタジーらしからぬ生々しさがあります。
舞台はあくまで人間が猫を演じてるという体ですが、本作は人間と猫が融合しています。
その奇妙な合成が生理的にやや気持ちが悪い。
演者にはバレリーナやダンサーを起用し、その躍動的なパフォーマンスを活かしたかったのだと思いますが、奇妙な人間と猫の合成生物が変に肉体感を持っているのが、生理的にむず痒さを感じさせます。
成功したミュージカルを映画化して成功した事例はたくさんありますが、舞台というメディアの特性、映画というメディアの特性を理解して移植しないと、このような失敗を生むという教訓になる作品だと思いました。

| | コメント (0)

2020年1月13日 (月)

「カイジ ファイナルゲーム」 ハイテンション!

藤原竜也さん主演の「カイジ」シリーズの9年ぶりの新作です。
全2作についても楽しく鑑賞できたので、とても楽しみにしていました。
監督も主演もそのままですので、作品のテイストも変わることがないのが嬉しいところです。
まずは主演の藤原竜也さんです。
元々舞台出身ということもあり、演技はナチュラルというよりもオーバーなのが彼の特徴です。
ですので、こういうハイテンションな作品に藤原竜也さんは非常によく合いますね。
顔を真っ赤にしてセリフを全力で吐き出すように話すところなどは彼らしさがすごく出ていました。
彼のようなタイプの俳優さんは多くはないので、非常に貴重な方だと思います。
カイジは彼のフィルモグラフィの中でもはまり役の一つだと思います。
カイジの相手役となるのは、吉田鋼太郎さん。
今までも香川照彦さん、伊勢谷友介さんが敵役となっていましたが、吉田鋼太郎さんがまた憎らしくて良いです。
藤原竜也さんがハイテンションなので、敵役もやはりそれを受け止められるパワーが絶対に必要です。
吉田鋼太郎さんはシェイクスピアの舞台などをやられていた空ですので、大仰な芝居(良い意味で)は得意とするところ。
最終作での藤原竜也さんとの相手役としては申し分ありません。
ラスボス的な役割として出てくるのは福士蒼汰さん。
今まではあまりこのような悪役は演じられていなかったと思いますが、藤原さんに影響されてからなかなかなハイテンションであったと思います。
描かれるのが非現実的な世界であるので、俳優陣のテンションが作品の全体に大きな影響を与えていると思います。
このシリーズはそれがうまくできている。
ストーリーとしては、前2作に比べると舞台装置としては大きかったものの、緊張感は少なかったようにも思います。
人間秤のパートが長かったからでしょうか、カイジの仕掛けなどの種明かしが後半に集中したので、途中の緊張感がやや今までの作品に比べると薄いようにも感じました。
もっと胃が痛くなるような緊張感があった印象なのですよね。
前作よりはドラマ部分が強化されているような感じがしました。
それはそれで楽しめたので、映画としては全然成立していると思います。
今までの作品のテンションを期待するとちょっと物足りなく感じるかもしれません。

| | コメント (0)

2020年1月12日 (日)

「カツベン!」 彼らの役割

今年の最初の記事はこちら、「カツベン!」です。
タイトルの「カツベン」とは「活弁」、すなわち「活動弁士」のこと。
かつて日本で映画が「活動写真」と呼ばれサイレントであった頃、それに活弁と呼ばれる弁士が状況やセリフを喋り、説明をしていました。
映画そのものよりも、弁士その人のうまさや人気の方が劇場にとっては重要であったということです。
欧米では活弁という職業はなく、無声映画にはバックにオーケストラがかかっていました。
状況やセリフをいう活弁という日本独自の職業は、浄瑠璃などからくるナレーション文化の流れを汲むものと言われています。
無論、映画がトーキーになってしまえば、その役割は必要なくなってしまいます。
活弁が活躍する時期は40年間程度でしょうか。
私が本作で印象的であったのは永瀬正敏さんが演じる山岡秋声というキャラクターでした。
山岡は主人公染谷俊太郎が憧れていた活弁でしたが、染谷が出会ったときは舞台に上がってもあまり喋らない弁士となっていました。
彼は映画はそれ自体が語りたいことがあるから、活弁が好き放題に面白おかしく説明するのは良くないと考えるようになっていたのです。
もしかすると、彼は映画が自分自身を語り始める(すなわちトーキーになる)ことを予見していたのかもしれません。
とはいえ、無声映画をイキイキとさせ、より人々を楽しめることができた活弁の役割を否定するものでもないと思います。
映画のラストで、事件により多くのフィルムを消失させてしまった染谷たちは、残ったフィルムを繋げ合わせ劇場にかけます。
当然残ったフィルムを繋げただけなので、そこにはストーリーなどはありません。
しかし、辻褄の合わないフィルムを染谷は活写し、観客たちを魅了します。
彼の喋りがただの寄せ集めのフィルムに生命を与えたかがごときでした。
活弁とはいずれ消えていく仕事であったのかもしれません。
映画自体が言いたいこととは異なることを話していたのかもしれません。
しかし、映画が人々の楽しみとして普及していく過程において重要な役割を担ったということは確かであったのだろうと感じました。
現在にも何人か活弁を生業としている方はいらっしゃるようですね。
いつか、彼らの仕事を観てみたいとも思いました。
通常の映画体験とは異なる体験ができそうです。

| | コメント (0)

2019年12月29日 (日)

「仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」 新しい時代のスタート

いつしか「平成仮面ライダー」と呼ばれるようになったシリーズを20年分総括した「仮面ライダージオウ」。
奇しくも元号が平成から令和となった今後は「令和仮面ライダー」と呼ばれることとなるであろうシリーズのトップバッターである「仮面ライダーゼロワン」は新たな時代を背負うことになる役割を担わなければなりません。
これからも「仮面ライダー」というブランド、シリーズを続けていくためには失敗を許されないわけです。
「ジオウ」はタイムトラベルという題材、また過去のライダーに様々な点で依拠するため、非常に複雑な設定・ストーリーだったためコアなファンにはディープに楽しめる点が多くありましたが、それによってそうではない人にとっては敷居が高いところがあったとも言えます。
それに対して「ゼロワン」は「仮面ライダー」をまったく知らなくても入っていける分かりやすさ(設定面とエモーショナルな点)があると思います。
劇中で豪華絢爛な風貌のグランドジオウとシンプルでソリッドなデザインのゼロワンが並び立つシーンがありましたが、これはまさにこの2作の作風の違いを表しているようにも思いました。
「ジオウ」はタイムトラベルという設定により比較的なんでもありの展開が可能ですが、「ゼロワン」は基本的にAIテクノロジーが発達した現代というリアリスティックな世界観を持っているため「ジオウ」ほどの自由さは持っていないと思います。
そういう意味ではこの二つの作品は非常に食い合わせが悪いように思います。
「ジオウ」に下手な絡ませ方をしてしまうと「ゼロワン」の世界観が途端にリアルさを失ってしまうような気がします。
10年前の「ディケイド」と「W」に関しても同じような関係だと思いますが、あの時の冬映画は「ディケイド」編と「W」編が同時並行で進み、最後にストーリーが合流するという形式で食い合わせの悪さを巧みに回避していたと思います。
本作は今までの通り前作ライダーと現役ライダーのコラボという体裁となっていますが、タイトルで「令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」とあるようにストーリーとして「ゼロワン」が主体として展開していきます。
あくまで新時代を築いていこうとするライダーを主役として据えるという意思を感じます。
ジオウはタイムトラベルやアナザーライダーという設定を上手に使うために出ているサブの役割であると思いました。
「ゼロワン」は新しい時代の始まりとなるための責任があると書きましたが、テレビシリーズを見る限り見応えのあるドラマを作っていると思います。
「ディケイド」や「ジオウ」は作品自体がギミックのようなものでしたが、「ゼロワン」は基本はドラマを見せる作りになっています。
AIという新しいテクノロジーに対して、様々な考え方をする人物が登場します。
主人公である飛電或人はAIを全面的に肯定し人間のパートナーとして認めています。
AIMSの不破はAIを人類の敵として認知し、また刃は人間の道具として捉えています。
そしてまたAIを自分のために利用しようとする人物も登場しました。
彼らの価値観のぶつかりが一つのドラマとなります。
またAIを搭載した人型アドロイドであるヒューマギアはシンギュラリティをむかえ自我を得ることもあります。
果たして彼らは新しい生き物なのか、それとも敵なのか。
彼ら自身がどう答えを出すかもドラマとなります。
これはこの劇場版でも触れられていますよね。
これら人間とヒューマギアが互いに相手を受け入れるのか、敵対するかというのは全編を通した大きなテーマです。
ふと思うとこのテーマは平成仮面ライダーの一つである「仮面ライダー555」における人間とオルフェノクの関係性にも似ていると思いました。
かつては人間ではあるが、人間とは異なる者としてなってしまったオルフェノク。
見た目は人間のようですが、人間ではないヒューマギアと似ています。
本作のラスト近辺で気になる台詞がありました。
刃唯阿が不破に「私がヒューマギアになったらどうする?」と聞くのです。
「ヒューマギアになる」というのが不思議な感じがしましたが、もしかすると人間のように生きていながら自分でも人間ではないヒューマギアというのも存在するかもしれないとも思ったのです。
「555」では中盤で主人公が敵と同じオルフェノクであるという驚きの展開をしましたが、もしかすると主要登場人物の誰かがヒューマギアであったといううようなこともあるかもしれません。
「ゼロワン」が色々と想像をさせてしまうストーリーの力を持っているというのは間違い無いかと思います。
これからもテレビシリーズの方を期待してみていきたいと思います。

| | コメント (0)

2019年9月29日 (日)

「記憶にございません」 生き方を変えるファンタジー

人生も半ば過ぎまで生きてきて、それが子供の頃想像していた将来の姿と同じかと言われると全然違うものですよね。
個人的にはそれはそれで悪くない人生であったと思ってるわけですが、こんなはずじゃなかったと思う人もいますよね。
それでは、人生を改めてやり直すことができるのかというと、既にいろんなしがらみがあって、そのようなことは無理なわけです。
本作は政治コメディの体裁ですが、政治の風刺というよりは、人生をやり直すことができたらということをテーマにしたファンタジーと言えるかもしれません。
ただし本当にファンタジーでない限りは失われた時を取り戻すわけにはいかないので、人生をやり直すというよりは、生き方をリセットするということを描いていると言えるでしょう。
過ぎ去った時間は取り戻すことはできなくても、生き方を変えれば、その後の人生は別のものに変えることができるかもしれません。
しかし、生き方を変えるというのもなかなかの至難の業。
それまで生きてきて積み重ねてきたものが自分の中にも、自分の周囲の人々のなかにもあり、それが自分というものを作り上げているからです。
自分の中はあるきっかけがあれば変えることができたとしても、しがらみがそうさせてくれない。
本作の主人公である黒田は政権の支持率がかつてないほど低い、多くの国民に嫌われている内閣総理大臣です。
国会や記者会見では暴言を吐く、強引な政権運営をする、汚職まがいなことを裏ではしている、そして不倫なども・・・。
好きになるのが土台無理そうな悪徳政治家です。
どこかの国にもいるような感じが致しますが。
さて、その首相が演説の最中に頭にくらってしまった石礫のおかげで、記憶喪失になってしまいます。
子供の頃は別にして、政治家になった頃からの記憶がまったくない。
それに伴ってか、何故か人格までがとってもいい人になってしまうのです。
そんな彼が自分が嫌われ者であったときのことを知るにつけ、このままで政治を放っておいていけない、しがらみがなくなってしまったからこそ自分には失うものがないと様々な改革を実行していきます。
 
<ここからネタバレがあります>
 
よくよく考えると記憶喪失になることにより、悪人から善人に性格までが変わってしまうのはそもそもおかしい。
ポイントは失った記憶が政治家になってから以降であったということです。
ということは、黒田はそもそもはいい人であったということなのですよね。
元々いい人であったはずですが、政治の世界で生きていくため、性格が変わってしまったのか、それともそのような政治家を演じてきたのかはわかりませんが、石飛礫によって性格がもとのいい人に戻ったということなのですよね。
実は彼は途中から記憶が戻っていましたが、記憶喪失のままでいようとそれを演じてきていたのです。
このあたりは百戦錬磨の政治家らしい。
もともとは夢を持って政治を志していたのにもかかわらず、いつしか生き抜くことが目的となり初志を忘れてしまっていたということに彼は気づいたのでしょう。
記憶喪失になったことによって、皮肉にも忘れていた志を思い出したとも言えます。
だからこそ記憶喪失という苦難を自分が変わり、そして周囲もそれに納得してもらえる一世一代のチャンスにかけたのでしょう。
この辺りも勝負師らしいです。
本当の人生、そんなに生き方を変えられれるかという話にはなるとは思いますが、それはこの物語はやはりファンタジーなのだと思います。
だからこそハッピーな気分になれる。
なかなか自分で自分の生き方を変えることは難しい。
けれど、ほんとのほんとにやる気になれば、できるかもしれない。
そんな希望を持たせてくれる映画のような気がしました。

| | コメント (0)

2019年7月29日 (月)

「騎士竜戦隊リュウソウジャー THE MOVIE タイムスリップ!恐竜パニック!!」 さらなる高みへチャレンジ!

「キュウレンジャー」、「ルパンレンジャーVSパトレンジャー」とスーパー戦隊の定石を覆す作品が続いた後なので、「騎士竜戦隊リュウソウジャー」についてはスーパー戦隊シリーズの王道に回帰しているため、個人的には正直食い足りない感があります。
とはいえそれは大人目線なので、子供目線からすると王道の「リュウソウジャー」は魅力的に見えるのかな?
ですので劇場版については大きな期待はしていませんでした。
劇場版といってもスーパー戦隊は正味30分程度なので、ストーリーもなかなか掘り下げるのは難しいですからね。
ですが見てみると、感心するところがいくつもありました。
王道路線とは言いつつも、「リュウソウジャー」は新しい試みにチャレンジしています。
その中でも最も大きなトライはいわゆる「巨大戦(もしくはロボ戦)」の変革でしょう。
スーパー戦隊におけるロボ戦は、怪人態での戦いの後の2回戦というパターンが圧倒的に多いのはご存知の通り。
しかし本作における巨大戦は、怪人態がエネルギーを吸収して巨大化するという設定となっています。
ですので怪人態をやっつける決め技はないのです。
子供たち的には見所が減ってしまう気もしなくもないのですが、その代わりロボ戦をしっかりと盛り上げるというコンセプトなのでしょう。
本作のロボはいつものような箱を組み合わせているような形ではなく、着ぐるみもかなりスマートです。
そのため通常のロボよりもかなりアクションができて、見せどころを作っています。
劇場版でもロボ戦なのに屋外で撮影したシーンもあり、スピード感を感じさせるアクションの演出がありました。
これは今までとは異なる見応えを感じました。
これが一つ感心した点です。
もう一つは本作は屋外でのロケをしっかりとやっているため、スケール感がありました。
本作は恐竜の時代にタイムスリップをするという設定なので、CGとの恐竜との共演となりますが、これがこじんまりとしたシーンだとかえって安っぽさが出てしまいます。
本作ではロケシーンで恐竜をCGで合成していかにも恐竜が地上で暮らしているかのように感じさせています。
それもカメラを動かしたり、ドローンを使ったりしているので難易度は高いのではないかと想像されます。
ハリウッドの大作ではとうに当たり前ではあるのですが、劇場版とはいえテレビシリーズの延長であるスーパー戦隊の映画でこのようなことにトライすることは、チャレンジだと感じました。
お話としては子供でも見やすいものになっているとは思います(とはいえタイムスリップを題材にしているので、意外としっかりと考えてある)。
しかし、子供向けとは言いながらも映像的には今までのスーパー戦隊よりも上を目指そうという意思を感じた作品となっていました。

| | コメント (0)

2019年7月27日 (土)

「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」 未来への目線

平成仮面ライダー20作目である「仮面ライダージオウ」には2つの最終回がある。
現在放映されているテレビシリーズは来月末に最終回を迎えるが、こちらは「ジオウ」という物語の最終回と考えられる。
それに対して、劇場版は「平成仮面ライダーの最終回」とポスターに書かれているように、20作を数える平成仮面ライダーシリーズを総括する作品となっている。
そのため本作の視点にはテレビシリーズよりも、よりメタな平成仮面ライダーを俯瞰する視点が意識されている。
そもそもテレビの「ジオウ」の1クールはメタ視点が強かったが、後半はそれは薄れ「ジオウ」そのものの物語を追っていくようになってきている。
そう意味ではシリーズ後半の方が話は追いやすい。
メタ視点での平成仮面ライダー総括に関しては劇場版で行おうとする制作サイドの精緻な計画があったのだろう。
本作には敵として3人の仮面ライダーが登場することがアナウンスされていた。
仮面ライダーバールクス(BARLCKXS)、ゾンジス(ZONJIS)、ザモナス(ZAMONAS)である。
実はこの3人の仮面ライダーの名称は、過去のライダーのアナグラムとなっているということだ。
すなわち「BARLCKXS」は「BLACK RX」、「ZONJIS」は「SIN、ZO、J」、「ZAMONAS」は「AMAZONS」であるのだ。
ここまでは事前情報で雑誌などから得ていた。
しかし「なぜ」他のライダーではなく、これらのライダーが取り上げられたのかはわからなかった。
しかし、今回の劇場版を見て、なぜ制作サイドがこのライダーを取り上げたのかが理解できた。
それはそのまま本作のテーマであったのだ。
本作を見る前に私は「ジオウ」は平成ライダー20作の総括する作品であると認識していた。
しかし、「ジオウ」は平成ライダーを「総括しない」ということをテーマとしていたのだった。
現在「平成仮面ライダー」シリーズとして一括りにされて認識されているが、そもそも最初からシリーズ化を図って作られたものではない。
おそらく制作サイドがシリーズとしてやっていけるとはっきりと自信を持ったのは第4作である「555」くらいからではないだろうか。
ここまでの作品は「仮面ライダー」という枠組み、そして前作までの枠組みを常に壊すことによって、まさに番組として「生き残ろう」という意志を感じる作品であったと言える。
その後の「ブレイド」「響鬼」「カブト」はある程度定着しつつあったシリーズを枠組みとして固定化しようとしたり、逆に外れてしまおうとしたりといった試みがされており、迷いの時期であったように思う。
そしてその後の「電王」の大ヒットで、シリーズとしての存在感をある程度固めたと言える。
ただ制作サイドはそれでもそれが永続的に続くかどうかの不安を持っており、そのために10年目に「ディケイド」という異端児を放った。
「ディケイド」これは世界観もバラバラであった「クウガ」以降のシリーズを「平成仮面ライダー」シリーズというブランドにまとめ上げるプロジェクトであったと考える。
これによりある種、未来にも続く「平成仮面ライダー」というブランドが確立した。
第2期と言われる「W」以降の「平成仮面ライダー」は実は第1期と比べると、ある程度骨格のフォーマットがしっかりしていると思う。
見た目のビジュアルや、題材などはかなりユニークなものを持ってきているのではあるが、骨格はしっかりとしているのでどの作品も安定した品質を保ててきていた。
ただそれがこのままそのフォーマットが固定化していくことへの危機感もあるように思う。
故に20年目にして「平成仮面ライダー」とはなんだったのかと制作サイドは自らに問いたのだと思う。
その答えは、私もこのブログで何度も書いてきたことではあるのであるが、常に革新であること、変えることを厭わないこと、それを続けていくことこそが平成の仮面ライダーであったのだということなのだろう。
本作で敵として登場するのはQuartzerと呼ばれる者たち。
彼らは時間を管理し、美しく歴史を整えていくことを目的とする。
そういった彼らの物の考え方からすると、「平成仮面ライダー」はシリーズでありながら、一貫した設定もなく、脈絡もなく、奇妙でねじくれているように見える。
だからこそ「綺麗に舗装し直す」ために歴史に介入したのだ。
最初に書いたように彼らが変身する仮面ライダーは、「BLACK RX」、「真、ZO、J」、「アマゾンズ」をモチーフとしている。
これらの作品は「仮面ライダー」の中の歴史の中でも珍しくシリーズ的な展開(厳密には違うのもあるが)がなされている作品なのだ。
Quartzerの視点からすると「美しい」作品なのだろう。
しかし、ソウゴも言ったが「デコボコ」でもいいじゃないかということなのである。
ある意味これは多様性であるとも言える。
後半に突如、驚くべき人物が登場する。
木梨憲武さん演じる木梨猛だ。
「仮面ノリダー」と言った方がわかりやすいだろう。
「とんねるずのみなさんのおかげです」の中のコーナーのひとつであった「仮面ライダー」のパロディに登場する人物である。
正直、これには驚いた。
そしてすぐに映画としての話題盛り上げ用のギミックであると感じ、ちょっと嫌な気分にもなった。
しかし、さらに映画を見続けていると彼の登場には作品のテーマに関わる非常に大きな意味があることに気づいた。
ラスボスとの最終決戦時、歴代の平成仮面ライダーが召喚され死力を尽くす。
ここまでは想定通りではあった。
しかし、それに加えて仮面ライダーブレン(「ドライブ」の敵キャラであったブレンが変身した仮面ライダー。Twitterのエイプリルフールネタから生まれた異色仮面ライダー)、仮面ライダー斬月カチドキアームズ(「凱武」のスピンオフの舞台に登場するフォーム)、仮面ライダーG(スマステの特番の中で稲垣吾郎が変身した仮面ライダー)、そして漫画版のクウガが登場する。
まさになんでもありなのだが、これら異色ライダーが登場するのはまさに「仮面ライダー」という作品はどのような可能性もありで、こうであれねばならないという決め事はないもないということが言いたいのだろうと思う。
前半の戦国時代で信長が我々が知っている信長とは全く異なる生き方をしていたということ、そしてソウゴが魔王ではなかったということ、すべてがこうであるという決めつけは正しいことではないということを示している。
逆に言えば、決めつけることにより、可能性や未来はなくなっていくということなのだ。
これは新しい令和の時代を迎えるにあたっての「仮面ライダー」制作サイドの宣言であると考えられる。
令和になっても「仮面ライダー」はどのような可能性も否定しない、常に新しいことにチャレンジし続ける。
それこそが「仮面ライダー」なのだと。
「ディケイド」はそれまでの過去のライダーを集約し「平成仮面ライダー」というブランドを確立させた。
その目線は過去である。
しかし「ジオウ」はこれから「仮面ライダー」が向かうべき道筋、未来を見ている。
もはや平成、令和という区切りも無意味なのかもしれない。
「仮面ライダー」は未来に向かってただ走り続けるだけなのだから。

| | コメント (0)

2019年6月24日 (月)

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」 地球の守護神

ローランで・エメリッヒ版の「GODZILLA」を観た時に思ったのは「ああ、日本のゴジラの本質は欧米ではわかりにくいのかな」ということでした。
日本のゴジラは人類の脅威であるという存在であると同時に、畏怖の対象でもあると思います。
ゴジラはまさに「荒ぶる神」と言えます。
荒ぶる神は日本の神話にも所々に見られるもので、そのイメージがあるからこそ日本人にとってゴジラが他の何者とも違う特別な存在であるのかもしれません。
日本という小さな島国は、毎年台風の通り道となり、頻繁に地震も起こる土地柄であり、そこに暮らす者にとって自然は自分たちではコントロールできないものとして畏怖の対象となっていたのでしょう。
そしてまた自然は人々に恵みを与え、また敵から守る存在でもありました。
恵みと災害という相反するものを人々に与える自然が、荒ぶる神というイメージにつながっていたのです。
そういった自然に対するスタンスにあるからこそ、日本人にはゴジラは受け入れられるわけですが、そのような自然観がない人々にはゴジラはただの巨大生物に見えるのかもしれません。
私はゴジラのような巨大生物を「モンスター」と呼ぶことに違和感を感じるのですよね。
怪獣は怪物とは何か違う。
これを欧米人に伝えるのはなんとも難しい。
だからこそエメリッヒ版のようなものができてしまう。
「パシフィック・リム」のギレルモ・デル・トロはそれがわかっているからこそ、あえて「KAIJYU」と日本語をそのまま使っているのだと思います。
ただ彼はかなり特別な人間かと思います。
とは言え本作の前の作品である「GODZILLA ゴジラ」はある程度日本の怪獣に理解があるような作りになっていたと思います。
それを受けての本作「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」ですが、総じてみて非常に日本のゴジラについて理解を深くして作られていると感じました。
過去の日本のゴジラ作品からの引用も数多くあり、何よりもゴジラ観が日本のオリジナルに非常に近いと感じました。
本作にはゴジラ以外の怪獣も多く登場します。
最大の敵であるのはもちろんキングギドラ。
オリジナルと同様にギドラ(本作ではギドラと呼ばれる)は宇宙から来た存在であるという示唆があります。
これは最近のアニメ版のギドラも異次元の存在として描かれていますが、基本的には同じスタンスとして扱われていると思います。
すなわしギドラは地球の生命とは異質な存在であるということです。
ギドラの存在により、ゴジラはすべての地球上の生命の守護者、もしくは生命体である地球そのものであるという位置付けが明確になるわけです。
ゴジラは時として人類の脅威となりますが、それはまさに地球という生命を守るための守護神であるからこそ。
だからこそ、異質な存在であるギドラに対しては守護者として戦い人類をそして地球を守ったのです。
元寇の時に台風が敵をなぎ払った時、日本人はそれを「神風」と呼びました。
しかし毎年やってくる台風は人々にとって脅威でもあったのです。
まさにゴジラはそのような存在なのです。
また本作はモスラは「母なる地球」の象徴です。
癒し、再生を司る母神。
これもまた日本神話に登場するモチーフです。
荒ぶる神と母神は対の存在であり、本作でもゴジラとモスラが同じように対で描かれています。
 
このように本作はこれまでのゴジラ作品、そしてその背景にある日本、東洋の考え方についての深い理解に基づいて作られていると感じました。
監督のマイケル・ドハティの母親がベトナム人のハーフということを聞いて、東洋のものの考え方の理解があるのかなと考えたりもしました。
 
本作はある意味、ハリウッドにおけるゴジラ映画の集大成ともいうべき作品に仕上がっていました。
そうなると逆に次回作の「ゴジラVSキングコング」が気になってしまいます。
「怪獣の王」として君臨することとなったゴジラ。
それに対してキングコングという存在をどう位置づけるのか。
ゴジラはあくまで地球の生命の守護者であり、人類の守護者ではない。
つまり人類が地球に対して害をなす存在となった時にゴジラは人類に牙をむく。
対してキングコングは人類の守護者というスタンスになるような気がします。
人類の存在を是とするか否とするか。
次回作ではゴジラが敵役となるかもしれません。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧