2024年9月 1日 (日)

「劇場版 アナウンサーたちの戦争」背負う十字架

本作はNHKスペシャルで放映されたドラマの劇場版となります。
劇場で公開されるまで、このようなドラマがあったことは知りませんでした。
現代でも世界各地で戦争は行われていて、以前よりもさらにも増して重要になってきているのが、情報戦です。
インターネットを使って虚偽情報を流したり、敵国の世論を誘導したり、また自国に対しては不利な情報を隠匿したり。
原始的な手法では、韓国が北朝鮮に対して、韓流ドラマが収録されたDVDを蒔くというのもありました。
太平洋戦争においても、旧日本軍は情報戦に力を入れていました。
圧倒的に物理的な戦力が足りない中、欺瞞情報や敵国の戦意喪失へ、情報戦、特にラジオを使った電波戦は有効であると考えたのです。
当時、そのような軍の方針に従ったのが、現在のNHK、日本放送協会です。
軍が占領地を東南アジアに広げていくのに従い、日本放送協会のアナウンサーたちが前線での電波戦に駆り出されました。
そして、また日本に残ったアナウンサーたちは国民の戦意高揚のためにその声を使ったのです。
本作では戦争というものに巻き込まれていったアナウンサーたちの姿を描きます。
アナウンサーの言葉は真実を伝えるべきものであるのに関わらず、軍の都合が良いことを話さなければならないことに苦悩する人。
言葉の力に溺れ、日本国のために言葉を武器として使おうとする人。
そして言葉の無力さを思い知った人。
自ら望むと望まらずにも関わらず、当時のアナウンサーたちは戦争に加担しなくてはいけない状況でした。
それは否定できないこと。
彼らの言葉によって、戦地に向かっていた者も多くいたことでしょう。
このような物語を、そこに関与していたNHKが語るというのは勇気がいることだと思います。
当時の人々はすでにいないわけですが、自組織の汚点を語るわけですから。
ただ組織として、しでかしてしまったことを、反省する気持ちを表する事は大切な事だと思います。
昨今、テレビ局などがいろいろしでかしてしまった不始末が多くあります。
普段、誰かが起こした事件などは根掘り葉掘り報道するわけなのに、自組織のしでかしたことに対しての反省は驚くほど弱い。
そのほとんどは民放が多いのですが、彼らは全て戦後作られた組織です。
NHKが背負っている、戦争に加担してしまったという十字架は彼らにはない。
逆にNHKは十字架があるからこそ、その態度は真摯にならざるを得ない。
この違いが、不手際が起こった時の、各社の態度に出ているような気がしました。

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2024年8月23日 (金)

「クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記」モアおバカ度

「クレヨンしんちゃん」の映画というと割とナンセンスというか、おバカな設定というイメージがあったので、テーマが恐竜と聞いた時は、真っ当だなという印象でした。
子供たちと子供の恐竜の交流というと「ドラえもん」的なイメージがあるんですよね。
普通のサラリーマン一家の家に恐竜がいるっていうのも十分非日常ではあるのですが、ロボとーちゃんとか、世界サンバ化計画とかに比べると、おバカ度が少ないというか・・・。
個人的に「しんちゃん」に期待しているのは、おバカ度がどのくらいかというところがあるので、その点では物足りない印象でした。
「しんちゃん」の映画の魅力はおバカであるのにも関わらず、なぜか泣かされるという落差にあると思っているのです。
本作ももちろん泣かされるところはあります。
ただ、先ほど書いたような落差はないので、「ドラえもん」的な感動といった感じで、「しんちゃん」らしさは薄かったかな。
好きだったのはしんちゃんの愛犬シロの描写で、自分の境遇と重ね合わせて恐竜ナナに気を遣っている様子が、何とも可愛らしかったです。
ラストはしんちゃんより、シロの方に共感してしまいました。
当然、来年も「しんちゃん」の映画はあると思うので、その時はもう少しおバカな感じでお願いしたいものです。

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2024年8月18日 (日)

「仮面ライダーガッチャード ザ・フューチャー・デイブレイク」感じないダイナミズム

テレビシリーズはすでに最終版を迎えている「仮面ライダーガッチャード」の劇場版です。
令和ライダーとなってすでに「仮面ライダー」も5作目となっていますが、今期の「ガッチャード」は個人的には最も物語にのれていない作品となってしまいました。
平成以降の「仮面ライダー」は一年間を通して、縦軸のストーリーが非常に強い構成になっています。
対して「スーパー戦隊」シリーズは一話完結的な構成が強い傾向にあります(昨年の「キングオージャー」は例外的に縦軸のストーリーが強かった)。
「仮面ライダー」の縦軸のストーリーは時に驚くべき展開となり、一年間を通してダイナミックさを生み出してきました。
「ガッチャード」はその縦軸のストーリーが相対的に弱い印象です。
主人公宝太郎の全てのケミーと仲良くなる、という願いは縦軸の要素ではありますが、それによって他の人々や世界に大きな変化をもたらすものではありません。
中盤以降、グリオンや冥黒王たちが登場して、ストーリーにテコ入れは入りましたが、彼らの目的もいまいちはっきりとしません。
グリオンの言う黄金境とはどういう世界なのでしょうか。
無論縦軸が弱いのはいけないというわけでありません。
一話完結的なストーリー展開も良い作品はたくさんあります。
「ガッチャード」でも加治木のエピソード(9、10話、44、45話)はとてもエモくて良い話でした(この辺りはさすが長谷川圭一さん)。
「ガッチャード」で気になったのは、冬の映画の時にも書きましたが、あらかじめ映画やスピンオフを見越した展開となっており、それらがあまり本筋には影響を与えないことです。
冬の映画ではテレビで登場した錬金連合の話が劇場版で回収されましたし、本作で再登場したガッチャードデイブレイクもテレビシリーズの登場が前振りのようなものでした。
仮面ライダーレジェンドもスピンオフを見ていなければ、テレビシリーズでは突然登場したキャラクターに見えたことでしょう。
デイブレイクはタイムトラベル、レジェンドは並行世界というギミックを使っていますが、これらの設定も便利に使いすぎだと思います。
「電王」では時を旅するということの意味、記憶というもの意味がテーマになっていましたし、「ディケイド」では並行世界という設定が物語に大きく結びついていました。
本作はタイムトラベルも、並行世界もただの便利なツールのように深く考えられないで作られているように思います。
本作では錬金術が重要な存在ですが、これがもはや何でもありの魔法となっている感じがします。
本来は錬金術ならではの制約(某漫画のような等価交換の法則)などがあった方がより盛り上がったような気がします。
どうも一貫してどのような話にしたいのか、方針があまりきちんと立っていなかったというのが「ガッチャード」の印象です。
ですので、この映画に関しても最初からあまり気持ちは入らず、見てみてもただのスピンオフという程度であまり感心しませんでした。
最近の「仮面ライダー」の劇場版はこのような作品が多く、物足りない印象を持つことが多くなっています。

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2024年8月13日 (火)

「怪盗グルーのミニオン超変身」食わず嫌い払拭

「怪盗グルー」シリーズは今まで何作か見ましたが、あまり個人的には波長が合わない印象がありました。
アメリカの3Dアニメーションというとピクサーの印象が強く、凝ったストーリー、卓越した映像で大人の鑑賞に耐えられるものイメージがありました。
ピクサーに比べると「グルー」シリーズは子供の見るもの、という先入観があったように思います。
実際、前作「ミニオンズ フィーバー」は子供にせがまれて一緒に行きましたが、何ヶ所か寝落ちした始末・・・。
ですから、「グルー」シリーズに対しては笑いのツボが合わないのかもしれないと思っていたのですが、本作は結構楽しめました。
「グルー」が変わったというより、自分の方の先入観が変わったのかもしれません。
「グルー」を制作しているイルミネーションはいくつものアニメーション作品を作っていますが、そのうちの一つで春に公開された「FLY!/フライ」については以前レビューにも書きましたが、かなり楽しめました。
そこで書いたのは、イルミネーションの作品はスラップスティック的なおかしさがあるということです。
特にこのシリーズはミニオンズたちが狂言回し的な役回りとなって、勝手に笑いをわき起こしていきます。
ストーリー的にはミニオンズのドタバタはあまり関係ないのですが(とはいえ最後には効いてくる)、彼らがお構いなしにわちゃくちゃやっている様子を見ていると次第にクセになってきます。
次第にミニオンズ、イルミネーションのおかしさに気づいてきた私。
食わず嫌いせず、他の作品も見てみようかな。

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「キングダム 大将軍の帰還」大将軍の視座

「キングダム」シリーズの4作目、最終章という触れ込みの本作、タイトルにあるように大将軍王騎が実質的な主人公とも言える物語でした。
今までの3作でも出番は少ないながらも圧倒的な存在感があった大将軍王騎、今回は自ら得物を持って、宿敵龐煖と戦います。
今までは指揮をしている姿しか見たことがなかった王騎ですが、戦士としての闘いぶりも圧倒的です。
王騎と龐煖の一騎打ちはそれだけで見る価値があるものになっています。
王騎は常に顔に微笑を浮かべ、そして冷静に戦況を把握し、指揮をする。
彼の心の奥底は微笑の影に隠されていますが、本作で彼が抱えてきた心の傷が明らかになります。
本作は王騎から信への継承の物語でもあります。
王騎は信に大将軍の器を感じ、今まで彼に思い課題を与え、そして将軍になるための心構えを解いてきました。
信はその教えを吸収し、100人隊を指揮するまでに成長します。
一騎当千となる戦士は、数は少ないながらもいます。
しかし、その中で将軍になれるものはその一部、そしてさらに大将軍になるのはほんの一握りです。
何がその違いを生むのか。
それは視座であると思います。
戦士は目の前にいる強敵だけを見る。
敵をいかに倒すかだけを考える。
将軍になれば、視座は少しは上がるでしょう。
それでもそれは自分の部隊が接する敵の軍団にまでしか及びません。
本作に登場した蒙武という将軍は、猪突猛進型の将軍でそれが秦の部隊を聞きに落とします。
大将軍の視座とは、戦場だけに限らず、その先の国と国と情勢まで、見通す目であると思います。
王騎が自分の死を確信した時、信を馬上にあげます。
そして何が見えるか、と問います。
これは王騎から信への最後の教えで、視座を高く置けということであるのでしょう。
ずっと王騎は信のことを「童(わらべ)信」と読んでいましたが、最後の時、彼を「信」と呼びました。
一人前の将軍候補として認めたということでしょうか。
秦の宿敵である趙には李牧という戦略家が現れます。
彼もまた遠くを見通すことができる大将軍の器と言えます。
やがて信と李牧が激突するのでしょう。
その時、信は大将軍の視座を獲得できているのでしょうか。
本作は最終作と言われていましたが、5作目の撮影開始が近いとの噂もあります。
ここまできたら信の行く末を追っていきたいですね。
噂が本当になることを祈りたいです。

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2024年7月27日 (土)

「朽ちないサクラ」戦いの始まり

警察署の広報職員が主人公というのが、興味深い。
主人公森口泉は捜査権のない行政職員だが、親友の変死をきっかけに事件に関わるようになる。
そして、彼女はその事件の背後にあるさらに大きな陰謀を解き明かしていくことになるのだ。
警察ものでは、主人公の警察官は自分なりの正義があり、それを為すために犯罪者と対峙するというのが、定番である。
しかし、本作の主人公森口には、物語の初めはそのような正義感は感じられない。
どちらかというと、たまたま事務職で就職した先が会社ではなく、警察であったというような。
たまたま職場で見聞きした話を、友人にここだけの話と、言って話してしまうような娘であった。
しかし、友人の死が自分の放った一言が原因であると悔やみ、その贖罪の意識からか、森口は事件の捜査を独自に始める。
この時、彼女にはまだ、正義という行うという意識はなかったと思う。
少しでも自分が行ったことがどのように友人の死につながったのか、ということを明らかにしたいという極めてプライベートな動機であったのだろう。
彼女は友人の死に対する責任を感じているからか、劇中ではほぼ笑わない(ただし友人との回想シーンでは、よく笑っているので、元々そのような性格でないことはわかる)。
しかし、友人の死の真相を追っていく中で、次第に意識が変わっていくようにも思えた。
事件に関わっているらしいカルト教団、そしてさらに事件を影で操っている者の存在・・・。
黒幕と対する時、彼女の佇まいには静かな怒りのようなものがあった。
彼女の中で正義感が目覚めていくように感じた。
物語の最後に森口は警察官を志す決心をする。
私はそれが、彼女の「戦いの始まり」だと思った。
タイトルにあるサクラは、公安を指す隠語であることは、警察小説好きとしてはすぐに察しがついた。
それに「朽ちない」とつくので、おおよその展開は想像がつく。
森口の戦いは彼らとの戦いなのだろうか。

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2024年7月19日 (金)

「告白 コンフェッション」均衡と不均衡

作品の尺としては1時間15分程度と最近の映画の中ではかなり短い部類となる作品です。
ただ短さは感じさせないような濃密な緊張感がある作品に仕上がっています。
主な登場人物は主人公浅井とその友人のジヨンの二人だけ。
そして舞台が雪山の小さな山小屋という限定されたシチュエーションです。
かなり制約がある状況の中で、何がこのような緊張感を醸し出しているのでしょうか。
一つは二人の登場人物の間の不均衡、アンバランスさであると思います。
浅井は大学時代より登山部のリーダーであり、その容姿の良さから女性の目を引く存在であったようです。
ジヨンが憧れの気持ちを持つ女性さゆりも浅井と付き合っていました。
浅井とジヨンは持つ者と持たざる者の関係です。
その格差は二人の間に埋めきれぬ溝を作ります。
特に持たざる者においては、持つ者に対する劣等感や妬みなどのマイナス感情が澱のよう溜まっていきます。
その檻が溢れ出た時、二人の間の関係は崩壊します。
圧倒的な怒りによりジヨンは狂気的な暴力に走りますが、この狂気により二人の不均衡は逆転します。
これが緊張感を生んでいます。
もう一つ緊張感を生んでいるのが均衡です。
ジオンは怪我自体とその処置ミスによって、ほぼ片足が使えないという状況になっています。
対して浅井は有利かというとそうではなく、彼は高山病にかかり目がよく見えないという状況に陥っています。
舞台となるのは小さな山小屋ではありますが、それぞれに不利な条件を背負っており、思うように行動することができません。
どちらも圧倒的に有利になることができないのです。
その均衡も緊張感を高めている効果があると思います。
この不均衡と均衡がそれぞれに作用して、濃密な緊張感を生み出しています。
さらに浅井だけが知っている真実もあり、それを彼が隠さなければならないということも緊張感を増強しています(詳しくは書けませんが、その秘密も2段重ねくらいになっています)。
このように本作は緻密に計算、構築されており、コンパクトながら濃密な緊張感が味わえる作品となっています。

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2024年6月23日 (日)

「碁盤斬り」自分の生き方を斬る

草彅剛演じる柳田格之進は故郷である彦根藩を追われ、娘お絹と共に江戸で長屋暮らしをしていた。
日々、身は浪人暮らしとなろうとも、格之進は武士らしく清廉に生きていた。
遊びなど一切しない格之進が唯一嗜むのが碁であった。
その碁は、彼の生き様を表しているようで、その打ち筋は精錬であり、実直だった。
彼が故郷を追われたのは、その実直さ故でもあった。
格之進はその実直さから殿様に重用されていたが、その几帳面さは同僚たちの細かい不正にも目を瞑ることができなかった。
そんな折、城での碁の手合わせの中で、彦根藩随一の碁の名手柴田兵庫と勝負し、その結果刃傷沙汰が起こる。
それを根に持った兵庫が格之進を冤罪に陥れ、彼は藩を追われることとなったのだ。
加えて、格之進は兵庫との不貞を疑われて、自害してしまう。
そのような出来事があっても彼の生き方は揺るがない。
武士らしく、実直で清廉であること。
それは彼の生き方を規定している。
故郷を追われ、妻を失っても、彼は自分の生き方が間違っているとは微塵も思わない。
藩を追われるところは劇中では描かれていないが、彼は自分の主張はしつつ、それが受け入れられないとわかると、静止を振り切って藩を飛び出してきたのだろうと思われる。
一人娘がいるにも関わらずそのような行動に出たのは、自分は間違っていないという思いが強かったのだろう。
やがて江戸で暮らす中で、碁を通じて商人の萬屋源兵衛と親交を結ぶようになる。
そこで番頭見習いで奉公する弥吉と娘のお絹は互いを憎からず思うようになっていく。
しかし、そのような日々の中である事件が起こる。
源兵衛が持っていた50両が紛失したのだ。
その時、彼と一緒の部屋にいた格之進が疑われる。
それに対して格之進は激昂する。
格之進は劇中、ずっと寡黙であり静かな男であった。
しかし、この時の激昂はまるで別人のような様子だった。
清廉潔白であることを常に生きてきた格之進にとって、この疑いは自分自身を否定されるようなものであったのだろう。
激昂した彼は、弥吉に対し、もし疑いが間違っていたならば、自身と源兵衛の首を差し出せと言う。
おりしも、格之進に冤罪をなすりつけ、その後彦根藩を出奔した兵庫が姿を現したという報も受ける。
お絹は自らが吉原に行き50両を用立て、仇討ちに旅立つ格之進を送る。
娘を売ってまで、自らのプライドを通そうとする格之進には狂気すら感じる。
清廉潔白であり、実直であることは素晴らしいことではあるが、そのために融通が効かなくなることにより、周囲の人を苦しめていく。
お絹は父の性格を知った上で愛しており自ら決断するのだが、友人とも言える関係になった源兵衛や、娘が愛する男に対しても苛烈な態度で望むのは常軌を逸しているようにも見える。
結果、格之進は見事仇討ちを果たし、娘の身売りの期限の大晦日にまで吉原に戻ろうとするも間に合わなかった。
なくなっていた50両は煤払いの際に見つかり、格之進の無実は証明された。
そのため格之進は源兵衛と弥吉の首を差し出せと詰め寄る。
源兵衛は跡取り同然の弥吉を庇い、弥吉は父親のような源兵衛を救おうとする。
しかし、格之進はそのような二人の言葉に耳を傾けず、刀を振りかぶる。
そして、振り下ろされた刀が切ったのは二人の首ではなく、源兵衛と格之進が勝負をしていた碁盤であった。
兵庫との仇討ち勝負の際、格之進はかつて藩で彼の実直さにより不正を暴いた同僚たちのその後を聞く。
彼らは皆、職を奪われ、苦しい生活を送っていた。
やったことは悪かったかもしれないが、そこまで追い込まれなくてはいけなかったのか。
初めて格之進は自分自身の生き方に疑問を持つのであった。
彼は源兵衛と弥吉の首を切らなかった。
以前の自分の生き方に不動の自信を持つ格之進であればあり得なかっただろう。
彼の生き方は碁盤のように四角四面で固いものであった。
彼は自らの生き方を象徴するものを、自ら断ち切った。
これから、彼の碁の打ち筋も変わっていくのかもしれない。

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2024年5月 4日 (土)

「ゴジラxコング 新たなる帝国」ゴジラの捉え方の違い

「ゴジラ -1.0」のヒットの記憶も新しい中、モンスター・ヴァースシリーズの新作「ゴジラxコング 新たなる帝国」が公開されました。
アメリカではすでに公開されているようですが、このシリーズの中でも最高の興行成績となる見込みです。
世界的にヒットしている本作ですが、個人的にはいささかしっくりきませんでした。
「ゴジラ -1.0」はゴジラをオリジナルのような核、自然、神のメタファーとして捉え、そのような人間の力が及ばない存在を前にしての人間のドラマが描かれました。
ゴジラは日本人としては、このような神と災厄が入り混じったような存在、いわば荒ぶる神のような存在として描かれる方がしっくりきます。
しかし、この荒ぶる神という概念は欧米人にはいささかわかりにくい。
ですので、モンスター・ヴァースにおける怪獣(劇中ではタイタンと呼ばれる)はまさに巨大な生物であるという位置付けです。
神というような及ばない存在ではなく、何かしらの理屈で説明できる存在として描かれます。
ゴジラはまだその中でも人間的にはその行動が予測できない存在となっていますが、コングに関しては感情があり、人間の持つ価値観に近いところで行動していうように見えます。
ですから姿形はモンスターでも、ヒーロー映画に登場するようなヒーローの位置付けとも言えます。
本作ではさらにその位置付けを強化するように敵役のコング、スカーキングが現れます。
スカーキングはまさにヒーロー映画におけるヴィランであり、自分の欲のために帝国を支配しようとする権力者として描かれます。
怪獣という存在が矮小化され、人間のスケールで理解できる存在となっているのです。
スカーキングはまさに人間そのもので、俗物っぽく、彼を中心に引き起こされる今回のイベントはもはやヒーローアクション映画のようなものとなっており、日本のゴジラ映画(初期)とはかなり様子が違っています。
そのため物語の後半で展開される怪獣バトルは、スタローンやシュワルツェネッガーが登場していたアクションムービーのようなテイストを持つ怪獣プロレスのようであり、ゴジラの持つ神秘性のようなものは皆無となっています。
予告編でも話題になっていたゴジラとコングが爆走しているシーンなどは、日本人と欧米人のゴジラの捉え方の違いを表していると思います。
「シン・ゴジラ」にしても「ゴジラ -1.0」にしてもゴジラは人間ではコントロールできない自然や核を象徴した荒ぶる神であり、ある種の近寄りがたさを持っています。
そのため、人間は永遠にその本質を理解することができず、なんとか戦い、そしてなだめながら、共存を図っていくしかない存在です。
そのためゴジラは凶暴でありながらも、厳かな空気を纏っています。
しかし、モンスター・ヴァースで描かれるゴジラは、生物が巨大になった存在であり、今は理解し難くとも研究が進めばいずれは理解できる存在であり、人智が及ぶ存在として描かれていると重ます。
この人間の手が届きそうか、届かないかという点が日本と欧米のゴジラ感の違いであり、それが作品にも色濃く反映されているように思えます。
日本のゴジラ映画も平成ゴジラシリーズの前あたりは、初期の頃に比べ、人間に近い存在として描かれていましたので、どれが正しいかなどという気は毛頭ないのですが、怪獣プロレスをやりたいのであれば、ゴジラでなくてもよかったかなと思いました。

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2024年4月13日 (土)

「ゴーストバスターズ / フローズン・サマー」やはりニューヨークがよく似合う

新生ゴーストバスターズである前作のヒットを受け、続編である本作は舞台をニューヨークに移しています。
やはり、ゴーストバスターズはニューヨークがよく似合います。
新生ゴーストバスターズは、初代のゴーストバスターズに比べるとドラマ部分が強化されている印象ですが、本作も引き続きその印象ですね。
主人公フィービーは前作から2年経っているので、15歳となっています。
前作の時は初見では男の子か女の子かわからないような感じでしたが、本作では15歳らしい女の子っぽさも垣間見えます。
この15歳という年頃、まさに大人と子供の間というところで、そこが本作のドラマ部分の中心になります。
フィービーは祖父譲りの頭脳を持っていて、そしてその行動力も含め、活躍っぷりは大人顔負けですし、本人も自信があります。
しかし、社会としてはまだ子供ですので、ゴーストバスターという危険な仕事に就くということを許してもらえません。
本人はそれを天職と思っているので、そこに対して不満が出てくるのもわかります。
加えて母親は娘を心配しているからではあるのですが、ゴーストバスターズから娘を遠ざけようとしますし、義父となったかつての恩師との関係も微妙です。
そのようなティーンの女の子の微妙な心の隙間を、ゴーストに狙われ、世界の破滅の危機を迎えることになります。
本作は前作ではちょっとだけ登場した初代ゴーストバスターズたちもガッツリ登場するのは旧作からのファンとしては嬉しいところ。
それぞれのキャラクターもそのままに活躍してくれるので見ていて楽しい。
「ゴーストバスターズ」と言えば、このようなキャラクターが立っているところが特徴ですが、それは初代だけでなく、新世代の方も同様のことが言えます。
ビビリだけど優しくていざという時は頼りになるフィービーの兄だったり、娘との距離の取り方に悩みジョークを飛ばしまくる父親だったり。
本作で新たに登場したファイアマスター、ナディームも癖があってよかったですね。
火を放つところは「エターナルズ」のキンゴを彷彿とさせました。
初代メンバーも入れた「ゴーストバスターズ」は2、3作作られる予定だとか。
ドラマを強化した新生ゴーストバスターズは見ていても面白いので、ぜひ続編も期待したいところです。
おそらくフィービーの成長に合わせて、ドラマが展開していくような気がしますが、そろそろ恋バナですかね。

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