2024年7月19日 (金)

「告白 コンフェッション」均衡と不均衡

作品の尺としては1時間15分程度と最近の映画の中ではかなり短い部類となる作品です。
ただ短さは感じさせないような濃密な緊張感がある作品に仕上がっています。
主な登場人物は主人公浅井とその友人のジヨンの二人だけ。
そして舞台が雪山の小さな山小屋という限定されたシチュエーションです。
かなり制約がある状況の中で、何がこのような緊張感を醸し出しているのでしょうか。
一つは二人の登場人物の間の不均衡、アンバランスさであると思います。
浅井は大学時代より登山部のリーダーであり、その容姿の良さから女性の目を引く存在であったようです。
ジヨンが憧れの気持ちを持つ女性さゆりも浅井と付き合っていました。
浅井とジヨンは持つ者と持たざる者の関係です。
その格差は二人の間に埋めきれぬ溝を作ります。
特に持たざる者においては、持つ者に対する劣等感や妬みなどのマイナス感情が澱のよう溜まっていきます。
その檻が溢れ出た時、二人の間の関係は崩壊します。
圧倒的な怒りによりジヨンは狂気的な暴力に走りますが、この狂気により二人の不均衡は逆転します。
これが緊張感を生んでいます。
もう一つ緊張感を生んでいるのが均衡です。
ジオンは怪我自体とその処置ミスによって、ほぼ片足が使えないという状況になっています。
対して浅井は有利かというとそうではなく、彼は高山病にかかり目がよく見えないという状況に陥っています。
舞台となるのは小さな山小屋ではありますが、それぞれに不利な条件を背負っており、思うように行動することができません。
どちらも圧倒的に有利になることができないのです。
その均衡も緊張感を高めている効果があると思います。
この不均衡と均衡がそれぞれに作用して、濃密な緊張感を生み出しています。
さらに浅井だけが知っている真実もあり、それを彼が隠さなければならないということも緊張感を増強しています(詳しくは書けませんが、その秘密も2段重ねくらいになっています)。
このように本作は緻密に計算、構築されており、コンパクトながら濃密な緊張感が味わえる作品となっています。

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2024年6月23日 (日)

「碁盤斬り」自分の生き方を斬る

草彅剛演じる柳田格之進は故郷である彦根藩を追われ、娘お絹と共に江戸で長屋暮らしをしていた。
日々、身は浪人暮らしとなろうとも、格之進は武士らしく清廉に生きていた。
遊びなど一切しない格之進が唯一嗜むのが碁であった。
その碁は、彼の生き様を表しているようで、その打ち筋は精錬であり、実直だった。
彼が故郷を追われたのは、その実直さ故でもあった。
格之進はその実直さから殿様に重用されていたが、その几帳面さは同僚たちの細かい不正にも目を瞑ることができなかった。
そんな折、城での碁の手合わせの中で、彦根藩随一の碁の名手柴田兵庫と勝負し、その結果刃傷沙汰が起こる。
それを根に持った兵庫が格之進を冤罪に陥れ、彼は藩を追われることとなったのだ。
加えて、格之進は兵庫との不貞を疑われて、自害してしまう。
そのような出来事があっても彼の生き方は揺るがない。
武士らしく、実直で清廉であること。
それは彼の生き方を規定している。
故郷を追われ、妻を失っても、彼は自分の生き方が間違っているとは微塵も思わない。
藩を追われるところは劇中では描かれていないが、彼は自分の主張はしつつ、それが受け入れられないとわかると、静止を振り切って藩を飛び出してきたのだろうと思われる。
一人娘がいるにも関わらずそのような行動に出たのは、自分は間違っていないという思いが強かったのだろう。
やがて江戸で暮らす中で、碁を通じて商人の萬屋源兵衛と親交を結ぶようになる。
そこで番頭見習いで奉公する弥吉と娘のお絹は互いを憎からず思うようになっていく。
しかし、そのような日々の中である事件が起こる。
源兵衛が持っていた50両が紛失したのだ。
その時、彼と一緒の部屋にいた格之進が疑われる。
それに対して格之進は激昂する。
格之進は劇中、ずっと寡黙であり静かな男であった。
しかし、この時の激昂はまるで別人のような様子だった。
清廉潔白であることを常に生きてきた格之進にとって、この疑いは自分自身を否定されるようなものであったのだろう。
激昂した彼は、弥吉に対し、もし疑いが間違っていたならば、自身と源兵衛の首を差し出せと言う。
おりしも、格之進に冤罪をなすりつけ、その後彦根藩を出奔した兵庫が姿を現したという報も受ける。
お絹は自らが吉原に行き50両を用立て、仇討ちに旅立つ格之進を送る。
娘を売ってまで、自らのプライドを通そうとする格之進には狂気すら感じる。
清廉潔白であり、実直であることは素晴らしいことではあるが、そのために融通が効かなくなることにより、周囲の人を苦しめていく。
お絹は父の性格を知った上で愛しており自ら決断するのだが、友人とも言える関係になった源兵衛や、娘が愛する男に対しても苛烈な態度で望むのは常軌を逸しているようにも見える。
結果、格之進は見事仇討ちを果たし、娘の身売りの期限の大晦日にまで吉原に戻ろうとするも間に合わなかった。
なくなっていた50両は煤払いの際に見つかり、格之進の無実は証明された。
そのため格之進は源兵衛と弥吉の首を差し出せと詰め寄る。
源兵衛は跡取り同然の弥吉を庇い、弥吉は父親のような源兵衛を救おうとする。
しかし、格之進はそのような二人の言葉に耳を傾けず、刀を振りかぶる。
そして、振り下ろされた刀が切ったのは二人の首ではなく、源兵衛と格之進が勝負をしていた碁盤であった。
兵庫との仇討ち勝負の際、格之進はかつて藩で彼の実直さにより不正を暴いた同僚たちのその後を聞く。
彼らは皆、職を奪われ、苦しい生活を送っていた。
やったことは悪かったかもしれないが、そこまで追い込まれなくてはいけなかったのか。
初めて格之進は自分自身の生き方に疑問を持つのであった。
彼は源兵衛と弥吉の首を切らなかった。
以前の自分の生き方に不動の自信を持つ格之進であればあり得なかっただろう。
彼の生き方は碁盤のように四角四面で固いものであった。
彼は自らの生き方を象徴するものを、自ら断ち切った。
これから、彼の碁の打ち筋も変わっていくのかもしれない。

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2024年5月 4日 (土)

「ゴジラxコング 新たなる帝国」ゴジラの捉え方の違い

「ゴジラ -1.0」のヒットの記憶も新しい中、モンスター・ヴァースシリーズの新作「ゴジラxコング 新たなる帝国」が公開されました。
アメリカではすでに公開されているようですが、このシリーズの中でも最高の興行成績となる見込みです。
世界的にヒットしている本作ですが、個人的にはいささかしっくりきませんでした。
「ゴジラ -1.0」はゴジラをオリジナルのような核、自然、神のメタファーとして捉え、そのような人間の力が及ばない存在を前にしての人間のドラマが描かれました。
ゴジラは日本人としては、このような神と災厄が入り混じったような存在、いわば荒ぶる神のような存在として描かれる方がしっくりきます。
しかし、この荒ぶる神という概念は欧米人にはいささかわかりにくい。
ですので、モンスター・ヴァースにおける怪獣(劇中ではタイタンと呼ばれる)はまさに巨大な生物であるという位置付けです。
神というような及ばない存在ではなく、何かしらの理屈で説明できる存在として描かれます。
ゴジラはまだその中でも人間的にはその行動が予測できない存在となっていますが、コングに関しては感情があり、人間の持つ価値観に近いところで行動していうように見えます。
ですから姿形はモンスターでも、ヒーロー映画に登場するようなヒーローの位置付けとも言えます。
本作ではさらにその位置付けを強化するように敵役のコング、スカーキングが現れます。
スカーキングはまさにヒーロー映画におけるヴィランであり、自分の欲のために帝国を支配しようとする権力者として描かれます。
怪獣という存在が矮小化され、人間のスケールで理解できる存在となっているのです。
スカーキングはまさに人間そのもので、俗物っぽく、彼を中心に引き起こされる今回のイベントはもはやヒーローアクション映画のようなものとなっており、日本のゴジラ映画(初期)とはかなり様子が違っています。
そのため物語の後半で展開される怪獣バトルは、スタローンやシュワルツェネッガーが登場していたアクションムービーのようなテイストを持つ怪獣プロレスのようであり、ゴジラの持つ神秘性のようなものは皆無となっています。
予告編でも話題になっていたゴジラとコングが爆走しているシーンなどは、日本人と欧米人のゴジラの捉え方の違いを表していると思います。
「シン・ゴジラ」にしても「ゴジラ -1.0」にしてもゴジラは人間ではコントロールできない自然や核を象徴した荒ぶる神であり、ある種の近寄りがたさを持っています。
そのため、人間は永遠にその本質を理解することができず、なんとか戦い、そしてなだめながら、共存を図っていくしかない存在です。
そのためゴジラは凶暴でありながらも、厳かな空気を纏っています。
しかし、モンスター・ヴァースで描かれるゴジラは、生物が巨大になった存在であり、今は理解し難くとも研究が進めばいずれは理解できる存在であり、人智が及ぶ存在として描かれていると重ます。
この人間の手が届きそうか、届かないかという点が日本と欧米のゴジラ感の違いであり、それが作品にも色濃く反映されているように思えます。
日本のゴジラ映画も平成ゴジラシリーズの前あたりは、初期の頃に比べ、人間に近い存在として描かれていましたので、どれが正しいかなどという気は毛頭ないのですが、怪獣プロレスをやりたいのであれば、ゴジラでなくてもよかったかなと思いました。

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2024年4月13日 (土)

「ゴーストバスターズ / フローズン・サマー」やはりニューヨークがよく似合う

新生ゴーストバスターズである前作のヒットを受け、続編である本作は舞台をニューヨークに移しています。
やはり、ゴーストバスターズはニューヨークがよく似合います。
新生ゴーストバスターズは、初代のゴーストバスターズに比べるとドラマ部分が強化されている印象ですが、本作も引き続きその印象ですね。
主人公フィービーは前作から2年経っているので、15歳となっています。
前作の時は初見では男の子か女の子かわからないような感じでしたが、本作では15歳らしい女の子っぽさも垣間見えます。
この15歳という年頃、まさに大人と子供の間というところで、そこが本作のドラマ部分の中心になります。
フィービーは祖父譲りの頭脳を持っていて、そしてその行動力も含め、活躍っぷりは大人顔負けですし、本人も自信があります。
しかし、社会としてはまだ子供ですので、ゴーストバスターという危険な仕事に就くということを許してもらえません。
本人はそれを天職と思っているので、そこに対して不満が出てくるのもわかります。
加えて母親は娘を心配しているからではあるのですが、ゴーストバスターズから娘を遠ざけようとしますし、義父となったかつての恩師との関係も微妙です。
そのようなティーンの女の子の微妙な心の隙間を、ゴーストに狙われ、世界の破滅の危機を迎えることになります。
本作は前作ではちょっとだけ登場した初代ゴーストバスターズたちもガッツリ登場するのは旧作からのファンとしては嬉しいところ。
それぞれのキャラクターもそのままに活躍してくれるので見ていて楽しい。
「ゴーストバスターズ」と言えば、このようなキャラクターが立っているところが特徴ですが、それは初代だけでなく、新世代の方も同様のことが言えます。
ビビリだけど優しくていざという時は頼りになるフィービーの兄だったり、娘との距離の取り方に悩みジョークを飛ばしまくる父親だったり。
本作で新たに登場したファイアマスター、ナディームも癖があってよかったですね。
火を放つところは「エターナルズ」のキンゴを彷彿とさせました。
初代メンバーも入れた「ゴーストバスターズ」は2、3作作られる予定だとか。
ドラマを強化した新生ゴーストバスターズは見ていても面白いので、ぜひ続編も期待したいところです。
おそらくフィービーの成長に合わせて、ドラマが展開していくような気がしますが、そろそろ恋バナですかね。

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2024年3月30日 (土)

「コヴェナント/約束の救出」自己との戦い

アメリカ軍のアフガンからの撤退前、彼らはアメリカが支えるアフガン政府の脅威となるタリバンの勢力を削ごうと躍起になっていました。
しかし、タリバンは地元の地の利を活かし、なかなかアメリカ軍に尻尾を掴ませません。
タリバンを叩くには地元の情報を得ることが欠かせないわけですが、そこで地元でリクルートする通訳が重要となります。
彼らはタリバンからすれば祖国を売る裏切り者でありため、アメリカ軍は彼らを雇う時の条件として、アメリカへ暮らすためのビザの提供を行います。
主人公の一人アメリカ軍人のキンリーはまさにアメリカが守る自由を信じる典型的な軍人です。
彼はタリバンの爆弾製造工場を探すという任務についていますが、そのためにアーマッドという通訳と組みます。
アーマッドは非常に知的であり、ただ通訳をするだけでなく、得られた情報をどう解釈すべきかという点でキンリーに協力をします。
初めはそれをキンリーは鬱陶しく感じ、またアーマッドもアメリカ軍人に対して素直にものを聞くこともなく、両者の関係性には最初は緊迫感があります。
しかしキンリーはアーマッドの情報と解釈により、危機を脱することにより、次第に信頼していきます。
またアーマッドもキンリーの行動に嘘がないことに気づき、彼もまた信頼していきます。
後々彼らの行動からもわかりますが、彼らに共通しているのは価値観であると思います。
目の前にいる危機に面した者を救わなければならないという正義感。
借りは返さなくてはいけないという誠実さ。
これらが彼らに共通した価値観です。
生まれもそれまでの人生も全く異なりますが、それが二人の共通点なのです。
まずアーマッドが彼らに共通する価値観の危機に面します。
タリバンの罠にハマり、キンリーの部隊は、キンリーとアーメッドを残して全滅。
そしてキンリーは自分では歩けないほどの重傷を負ってしまいます。
キンリーを置いていけば、アーメッド自身は確実に助かることができる。
しかし、彼はキンリーを手押し車に乗せ、100キロ以上も離れたアメリカ軍基地目指して、徒歩で踏破します。
途中いくつもの危機がありますが、逡巡しながらもあーメッドは彼自身の信条を守り通します。
無事キンリーは自国に帰国し、平和な日々を過ごしますが、アーメッドがアフガンを脱出できず、今もなおタリバンに裏切り者として追われていることを知ります。
アメリカで手を尽くすものの、彼を脱出させるのは叶いません。
最後の一手は、キンリー自身がアフガンに再び赴き、脱出の手引きをすること。
彼もまた逡巡します。
妻や子たちとの平和な日々を捨て、再び戦場に向かうのかと。
彼は命を救われたことによる呪いにかかったとも言えます。
しかし、彼もまた自らの心情を守り、アーメッドを救うためにアフガンに向かうのです。
本作は単なる友情物語というのではなく、自らの信じる価値観を自ら裏切るのか、否かという自己との戦いを描いているように思いました。
敵はタリバンではなく、逃げようとする自分自身なのです。
本作の監督はガイ・リッチー。
題材的には彼らしくなく、意外なテーマを選んだなと思いました。
が、彼らしいカットもいくつかありました。
キンリーが重傷を負い、痛みを和らげるためにアヘンを打たれた時の彼の回想シーンは、ガイ・リッチーらしいイメージのカットの重ね方がありました。

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2024年2月 5日 (月)

「ゴールデンカムイ」全編高密度

原作漫画の再現レベルが高いと評判の本作ですが、私自身は原作は読んでないため、純粋に映画の感想となります。
大正時代の北海道を舞台とし、元軍人の杉元とアイヌの娘アシリパがバディとなり、アイヌの隠された金塊を探します。
彼らと北海道独立を企む鶴見が率いる第七師団と、戊辰戦争の生き残り土方歳三らが三つ巴の戦いを繰り広げられます。
ストーリーの展開は非常に早く、見どころが次から次へと展開されるので飽きることはありません。
まず登場するキャラクターたちが非常に魅力的です。
杉元は日露戦争で何発もの銃弾を受けても必ず生還することから「不死身の杉元」と呼ばれています。
そう聞くと殺伐としたキャラクターのように思えますが、時折見せるユーモアや、アシリパと一緒の時には穏やかな表情を見せ、多面的な魅力を感じます。
主人公杉元を演じているのは「キングダム」でもその再現性が高いと言われている”実写化俳優”山崎賢人さん。
「キングダム」でもそうですが、この方は非常に身体能力が高く、アクションの見栄えが素晴らしい。
アクション映えする俳優としては佐藤健さんも挙げられると思いますが、彼のアクションは非常にスマートであるのに対し、山﨑さんの場合は本作でも鍛えられ上げた肉体を披露していますが、肉や骨の感触を感じるような肉弾戦のイメージがあります。
冒頭の戦闘シーンなどは鬼神格やという形相ですが、先ほどあげたような穏やかな表情も見せ、この辺りの振れ幅は山崎さんならでは。
杉元の相棒となるアシリパを演じるのは山田杏奈さん。
この方はあまり知らなかったのですが、役柄に非常にマッチしていたと思います。
アシリパもシリアスな背景を持ちながらも、時に見せる勇敢な凛々しさ、そして歳相応の可愛らしさもあり、山崎さん同様に幅広いキャラクターを体現できていたと思います。
敵役となる鶴見を演じるのは玉木宏さんで、二枚目俳優である彼が、相当にぶっ飛んだ役を演じるのは観ていて新鮮でした。
戦争で頭に傷を負い、興奮すると髄液が流れてくるなんて狂った役、なかなか演じるのも大変そうですが、非常に生き生きとしていたように思います。
登場するキャラクターたちは、漫画的といえば、その通りなのですが、それらをしっかりと血が通っている人物として俳優陣が演じレているところが、実写化映画として評価されているポイントなのでしょう。
あと、実写映画ならではなのが、監督がこだわったという雪深い北海道の風景でしょう。
やはりリアルな風景はCGなどで作られた風景とは全く違う空気感があります。
この空気感により、そこに暮らしていたアイヌたちの息吹を感じることができたように思います。
もちろんアクションシーンも見せどころが多数あり、冒頭の203高地の戦いしかり、ラストのソリでのチェイスしかり、見応えがありました。
かなり密度の高い作品で、上映時間はあっという間に過ぎた感じがします。
これでもまだ原作の漫画で言うと、まだ序盤ということで。
この後の展開が楽しみです。
しかし、「キングダム」と「ゴールデンカムイ」掛け持ちとなると山崎さんはかなりこれからも肉体的にハードそうですね。

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2024年1月28日 (日)

「ゴジラ-1.0/C」モノクロにした効果

日本アカデミー賞でも数多くの賞を受賞し、さらには米国のアカデミー賞でも視覚効果で日本初のノミネートとなった本作、公開からしばらく経っていますが、多くの話題を提供しています。
本作は「ゴジラ-1.0」をモノクロにしたバージョンとなります。
「シン・ゴジラ」でもモノクロ版を公開し好評だったことを受け手のモノクロ版となります。
しかし、ただモノクロに変換しただけではなく、カット毎にモノクロにするために細かい調整をしているとのことです。
基本的にストーリーは変更がありません。
変更があったのは、冒頭の東宝のロゴの白黒バージョンになっているのと、長年山﨑監督作品のプロデューサーを務めていた阿部秀司さんへの追悼文が加わっているところでしょうか。
モノクロになったことにより、いくつかの効果があったように思いました。
1つ目はモノクロで色の情報がなくなったことにより、陰影のみの表現となり、より原始的な恐怖感が出てきたとおもいました。
特に冒頭の大戸島で初めてゴジラと邂逅するシーンは迫力がましたと思います。
シーンは夜なので、ゴジラの姿はカラー版に比べて視認しにくくなっています。
ゴジラのゴツゴツした肌も陰影が強調され、より異形さが増しています。
そのため、見たこともない怪物に襲われているという恐怖感が増し、主人公がどうしても撃てなかったということの納得性を増しているように思えました。
2つ目はドキュメンタリー感がより強くなったことです。
本作で描かれている時代は戦後間も無くであり、まだテレビなどもなかった時代。
その時代を表すにはカラーよりもモノクロの方が、時代性が伝わりやすいように感じました。
特に浩一と典子が暮らすバラックなどのシーンはモノクロの方がより昭和の戦後間も無くの雰囲気が出ていたと思います。
3つ目は典子を演じている浜辺美波さんの美しさが際立って見えたこと。
元々彼女は昭和の女優のオーラを纏っていると評されることが多いですが、よりモノクロになったことにより、かつての昭和の大女優の原節子さんらのような見え方をしていて、それがまた彼女の雰囲気にとてもマッチしているように見えました。
原始的な恐怖を引き起こすゴジラの存在感、その時代のドキュメンタリーを見ているような空気感、浜辺さんの昭和大女優のような佇まいが、より本作の質感を強化しているように思いました。
モノクロ化という点では、「シン・ゴジラ」よりも本作の方がやる意味合いというのを感じましたね。
見る価値はあると思いますので、ぜひご覧ください。
阿部秀司阿部秀司な

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2023年12月29日 (金)

「仮面ライダー THE WINTER MOVIE ガッチャード&ギーツ 最強ケミー★ガッチャ大作戦」もう少し丁寧に

「仮面ライダー」シリーズの恒例の冬映画となりますが、正直このところの劇場版は精彩がありません。
本作についてもそのように言えるかと思います。
特に冬映画は平成ライダー第二期からオンエア中の現役ライダーとその一つ前の先輩ライダーがコラボするのが恒例となっているため、異なる世界観をつなぐ仕掛けが必要となってきます。
平成以降の仮面ライダーはそれぞれが独立した世界観を持っているため、以前はコラボレーションするにしてもなぜそのようなことになっているか、設定的に吟味されていたと思いますが、最近はその辺りは非常にゆるく取り扱われています。
もちろん設定過剰で複雑になるのは本末転倒だとは思いますが、ゆるすぎると物語がご都合主義に陥りやすくもなります。
最近の劇場版はその傾向が強い気がします。
本作はまさにそうで、神となったはずの英寿が普通に仮面ライダーとして現れることについて何の説明もありません。
神だからなんでもあり、ということなのかもしれませんが
前作に思い入れがあるほど、安易な展開には残念な気持ちになってしまいます。
今回の「ガッチャード」と「ギーツ」は作品のトーンも真逆であるため、共存させることに苦労はあったとは思います。
全体的な比重としては「ガッチャード」が8、「ギーツ」が2といったバランスでしょうか。
「ギーツ」のキャラクターたちはゲスト的な扱いでしたので、これであったら無理矢理にコラボでもなくてもいいかなと思いました。
もう一点気になったところとしては、本作は「ガッチャード」本編の世界線に位置するものとなっていますが、15話と16話の間にある出来事となります。
今まで「仮面ライダー」の劇場版の場合、パラレルワールド的な扱いのもの(「555」や「ブレイド」「ジオウ」)もあれば、同時間軸のものとがあります。
同時間軸の場合も、本編との整合性をしつつ、映画を見てなくてもテレビの方は話は追いかけられる作りとなっていました。
しかし、今回の劇場版は15話までの伏線が劇場版で回収され、その後の16話ではそれらが「済んだこと」として話が展開していきます。
今回の劇場版では重要な二号ライダーが登場するというイベントがありますが、その後の16話ではそのライダーの誕生は描かれず「済んだこと」となっています。
これはテレビしか見ていない方にとっては、いかがなものかと思います。
劇場版に足を運んで欲しいという気持ちはわかりますが、ややテレビシリーズの視聴者には不誠実な展開であるように思いました。
これらのことを含めて、本作は非常に安易である印象が強く、今後はもっとファンにとっての満足を意識した作品になって欲しいと思います。

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2023年11月24日 (金)

「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」正直者な愚か者

公開最終日に観てきました。
非常に評判がいいという話は聞いていたものの、3時間半という尺の長さと重そうなテーマに躊躇していたのです。
しかしそれは全くの杞憂で前評判通りの出来でした。
尺の長さは全く気になることはなく、最後までドラマに引き込まれました。
さすが、マーティン・スコセッシです。
主演のレオナルド・ディカプリオの愚か者っぷりも素晴らしかったですし、ロバート・デ・ニーロも友人ぶった権力者という役柄を巧みに演じていました。
この作品は史実に基づいているということですが、私個人としては全く知らない出来事でした。
時は禁酒法時代で、居留地で石油が見つかったことにより巨万の富を得たインディアンの部族オセージ族の街が舞台になります。
その街では何人ものオセージ族が怪死を遂げていました。
当初この作品はこの事件を捜査する連邦捜査官側から描く予定でしたが、ただのヒーロー映画になり、事件の本質が描けないということでオセージ族側から描くことになったということです。
確かに連邦捜査官側から描くと、同じ時代の「アンタッチャブル」のような作品になってしまったかもしれないですね。
ちょっと脱線しますが、デ・ニーロが理髪店で髭を剃られるシーンがあったり、クロケットのバット(野球のバットではなく)を持ってディカプリオのお尻を叩いたりする場面があって、「アンタッチャブル」へのオマージュかと思ったりもしました。
デ・ニーロがバットを持つとドキッとしてしまいます。
話を元に戻して・・・・
物語が緊張感があるのは、ディカプリオ演じるアーネストが後先を考えることができない愚か者であるからです。
アーネスト自身は自分の欲を制御できない小物で、叔父であるヘイル(ロバート・デ・ニーロ)に命じられるまま悪事に手を出します。
ヘイルはまさに狡猾と言える男で、巧みにインディアン社会に信頼されるようにしつつ、裏では時には(自分の手は汚さず)殺人まで犯しながら彼らから搾取しています。
ヘイルはアーネストがインディアンの娘モリーに好意を持ったことをきっかけに、彼を彼女の一族に食い込ませ、ゆくゆくは彼らの財産を奪うという腹積りです。
しかしアーネスト自身はまさに小物で、ヘイルに圧倒されながら彼の言われたように動きつつ、一方で本当にモリーを愛し、家族を大切にします。
彼は自分の欲に忠実であり、かつ家族を愛する男で、そういう点では、自分の気持ちに素直な正直者と言えると思います。
しかし、彼は救いようのないくらいに愚か者なのです。
アーネストの正直者な愚か者という属性により、彼は始終揺れ動き、その場しのぎの行動をとっていきます。
その行動が物語がどう転んでいくかわからない予断の許さない緊張感を生み出しているような気がします。
彼はやはり金が欲しいという欲望に囚われた悪党になるのか、それとも妻と家族を守る英雄となるのか。
最後まで自分の意思がはっきりせず、誰かに影響を受けるアーネストのダメっぷりを演じたディカプリオの演技は素晴らしい。
いつまでも煮え切らない彼は、結局は金も愛も失います。
またアーネストの妻であるモリーも揺れ動いていました。
彼女自身はアーネストとは全く異なり、思慮深くそして強い意志を持つ女性です。
おそらく自分の体調が日に日に悪くなっていく状況で彼女は、アーネストが何かしら関与しているのではないか、と疑っていたでしょう。
しかしまたアーネストの愛情も本物であるともわかっていました。
だからこそ彼女はアーネストが最後には本当のことを話してくれることを信じて待っていたのでしょう。
自分の命をかけながら。
この対照的な夫婦のそれぞれが持つアンビバレントな気持ちが絡み合い非常な緊張感を生んでいます。
それが3時間半という時間を気にさせないほどのドラマのエネルギーを与えてくれたのだと思います。

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2023年11月 5日 (日)

「ゴジラ-1.0」「シン・ゴジラ」とは逆のアプローチ

「シン・ゴジラ」が大ヒットし、アメリカでもモンスターバースのゴジラが活躍する中、東宝がゴジラ70周年の節目に送り出したのが、「ゴジラ-1.0」です。
公開開始日を初代の公開日と合わせてきていますが、本作は1作目をかなり意識した作りになっています。
舞台となるのは戦後間もない日本。
太平洋戦争の爪痕がまだ癒しきれていない日本に、再びゴジラという災厄が襲いかかります。
日本においては大ヒットした「シン・ゴジラ」の後ですので、違いを出すことに製作者サイドも色々考えたことでしょう。
その一つが時代を現代にはしないということだったのであったのかと思います。
しかし「シン・ゴジラ」と本作は作家性の違いも大きく表れていたかと思います。
庵野監督の「シン・ゴジラ」は現代に巨大怪獣が現れた時、国はどういう対応をするのかというシミュレーション映画という趣が強い印象です。
描かれているのは、基本的に政府機関側の視点で、登場人物の職務を遂行している姿を描いているので、基本的にはドライです。
これは「シン・ウルトラマン」にも「シン・仮面ライダー」にも共通する庵野監督の特徴で、登場人物たちの深い人間性のような表現はオミットされているのです。
対して本作のメガホンをとった山崎貴監督はどちらかというと人の情緒を描くことに重きを置いているように思います。
「泣ける」部分を用意してくるようなところもあり、それはややもするとやりすぎて、鼻をつくところもありますが、VFXを多く使うことがある彼の作品の中で、その情緒はバランスをとるのに、機能しているように思います。
本作でも中心となるのは、元特攻隊員である敷島であり、彼が戦中に心に負った深い傷で彼は苦しみ続けます。
生き残ってしまったという負目は彼を責め続け、彼は目の前の幸せに手を伸ばすことができません。
この辺りの神木隆之介さんの演技は真に迫るものがありました。
特に最愛の人を失っなったことにより、ゴジラに対して敵愾心を燃やす姿は、柔和そうな神木さんであるからこそ、その鬼気迫る表情に新境地を見ました。
山崎監督は「永遠の0」「アルキメデスの大戦」でも太平洋戦争を扱っています。
「アルキメデスの大戦」は戦争に向かおうとする時代の話、「永遠の0」は戦争最中の話、そして本作は戦後ということで、彼の太平洋戦争3部作とも位置付けられるかもしれません。
山崎監督特有のやりすぎな部分があるとすれば、最終盤のある人物の再登場でしょうか。
物語的にはハッピーエンドでいいのですが、敷島の心情を考えるとちょっと拍子抜け感もありました。
ゴジラを中心としたVFXも見応えありました。
個人的な好みで言えば、ちょっと下半身のボリュームが多すぎのようにも感じましたが、人間性のかけらも感じさせない禍々しさを感じます。
背中のヒレがガチャンガチャンとロック解除していくような熱線発射のシークエンスはケレン味があってよかったです。
このシークエンス、意味があるのかなと思いつつ、これがないと敷島がとる行動のタイミング合わせがとっても難しくなるので、物語的には必要なのですよね。
最後の作戦は民間主体で展開されるというのも「シン・ゴジラ」とは真逆のアプローチであると思います。
彼らが展開させる作戦は流石にオキシジェンデストロイヤーのようなものではありませんでしたが、視覚的には似たようなところをついていて、第1作目へのオマージュも感じました。
「シン・ゴジラ」の対策チームは職務としてプロとして対ゴジラ戦に挑みますが、本作では彼らは自分たちが守りたい者のために戦います。
彼らはボランティアなんですよね。
「官」ではなく「民」。
人間としてゴジラに戦いを挑む人々を描いた作品です。

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