2025年3月30日 (日)

「教皇選挙」この課題に宗教界は向き合えるか

カトリックという宗教のトップとなる教皇を決める選挙のことを「コンクラーベ」というのは、以前何かの本を読んでいた時に知った。
コンクラーベでは、枢機卿たちが外部との接触を絶たれ、文字通り「缶詰」で次の教皇を選ぶという。
そこでは主力派工作なども行われるらしく、まさに「根比べ」のようだと思ったものである。
本作で描かれる教皇選挙では、まさに主力派工作のための権謀術数が行われており、参加者たちは忍耐の限界を越えようとしている。
枢機卿と言えば、聖職者のトップであるから何事も正しい振る舞いを行うものと見えているが、何のことはない、彼らも同じ人間である。
同じカトリックと言ってもその中にはさまざまな考え方がある。
伝統的なキリスト教の価値観を遵守するもの、世の中の変化を感じ取り、自らも変わっていかなければならないとする者。
自らの考えが正しいと考え、それを実行するためにはトップの座に座らないければならないとして、工作を行う。
これはどこの組織でもトップを選ぶ時には行われているものである。
聖職者といえども、それは変わらない。
主人公であるローレンス枢機卿は筆頭としてコンクラーベを取り仕切る。
彼はどちらかといえばリベラル派で、友人であり、次期皇候補であるベリーニを推すが、あくまで公平な立場であろうとする。
コンクラーベの中で、さまざまな候補が上がってはスキャンダルや権謀術数で退場していく。
誰もそれぞれの理想は持ちつつ、自分たちが権力を握るために工作を行う。
それはそもそも清廉であるべき、宗教者とは異なる姿であり、ローレンスはそのこと自体に嫌気を感じている。
その中で、突如候補として頭角を表してきたのは、ベニテス枢機卿。
彼は若いながらも紛争地域を中心に活躍しており、最もキリスト者として理想に根ざした活動をしてきていた。
コンクラーベ終盤で発せられた彼のメッセージは多くの枢機卿たちに本来のあるべき姿を思い出させたのである。
彼は結果として新教皇に選ばれるが、その後、ローレンスは驚くべき事実を知ることになる。
その事実は、ローレンスだけでなく、キリスト教に関わる全ての人の価値観を揺さぶることになる。 この事実は驚くべきものであり、これが実際に起こったとしたら、多くの論争が湧くものであると思う。
ただ、それは今現在、世界の中でも議論されている事柄であり、宗教界だけが無縁なものではないはずで、いずれ彼らもこの話題について何かしらの見解を出さないわけにはいかないと思う。
トランプ政権となり、これらの課題に関しても揺り戻しが起こっているが、大きな流れは変わらないのではないか。
その時、宗教界はどのようにこれに対応していくのだろうか。
大きなクエスチェンをこの作品は提示している。

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2025年3月 2日 (日)

「キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド」他力と自力

スティーブ・ロジャースからキャプテン・アメリカの称号を受け継いだサム・ウィルソンの活躍を描きます。
MCUにはさまざまなスーパーヒーローがいますが、その中でもキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャースは最も人々が理想として描くヒーローを体現していると思います。
超人血清により得た屈強な肉体と、持って生まれた強い正義感を持ち、何事があってもぶれない信念を持つ男。
人々をまとめ上げ、悪に対して対抗していくリーダーがスティーブです。
対して、それを受け継いだサム・ウィルソンはスティーブと負けない正義感を持ちながらも、ただの鍛え上げられた人間です。
サムはスティーブから盾を受け取った時から、その重責に苦悩します。
自分はこの盾にふさわしい男であるか、と。
サムは戦争に直面した世界において、世界大戦を避けようと懸命に戦います。
しかし、すべての人間を救うことはできません。
そしてサムの相棒を務めた二代目ファルコンことホアキンを救いきれず、彼は重傷を負ってしまいます。
サムは自分の未熟さを悔い、そして超人血清を打たなかったことを激しく後悔します。
その時ある男がサムに声をかけます。
そして彼は言いました。
「スティーブは希望であったが、サムは目標になれる」
この言葉は二人のキャプテン・アメリカを的確に言い当てていると思います。
これは二人のキャプテン・アメリカを身近で見てきたあの男でなければ、発せられません。 スティーブは希望であった。
人類が困難な局面にあった時、スティーブはその状況を覆してくれるかもしれないという希望を人々に与えてくれました。 彼の決して曲がることのない信念、そしてそれを信じさせてくれるカリスマが人々に希望を与えたのです。
人々は思いました。
キャプテン・アメリカが救ってくれる、と。
それはまさにスーパーヒーローそのものです。
人々は彼を頼りにしました。
それを希望と言いますが、人々が自分の力で成すものではありません。
神様や仏様に祈るのと同義とも言えます。
サムが苦悩するのは、そのような役割をただの人間である自分には担えないということでしょう。
しかし、サムは目標にはなれる。
サムは悩みながらも自分を信じ、そして限界まで自分を鍛え上げました。
人々を救いたいという思いで。
サムという存在は、どんな人でも自らが願い、努力をすればなりたい自分になれるということを示してくれます。
そういった意味で、サムは目標になれるのです。
スティーブに希望を見出すのは言うなれば他力本願で、サムの存在は自分の力で状況を打開できるという自力の象徴です。
これは大きな違いです。
ヒーローとして、リーダーとしてスティーブとサムは違う個性を持っています。
本作ではやがてアベンジャーズが再編成されることが示唆されます。
その時、サムはキャプテン・アメリカとして中核のメンバーとなることでしょう。
その時作られるアベンジャーズは、スティーブの時とは違うものになると思います。
自分を信じ努力するサムを目標とするような若いメンバーが集まってくるのではないでしょうか。
彼らを生かし、育てていくサムが目に浮かぶようです。
そんな新しいキャプテン・アメリカに期待したいですね。

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2025年1月23日 (木)

「機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning」What if...?

<ネタバレしています>
MCUを展開するマーベルのアニメーションで「What if...?」というシリーズがあります。
MCUには神聖時間軸という概念があり、これがいわゆる正史と呼ばれるものです。
「What if...?」は正史では起き得なかった出来事が起こった時間軸、「もしも」が起こった時間軸での物語を描くユニークなシリーズです。
本作は始まるやいなや、聞き慣れた「機動戦士ガンダム」のオープニングの音楽とナレーションが流れます。
メカデザインはリファインされているものの、3機のザクがサイド7に侵入していきます。
カットもオリジナルを踏襲した徹底ぶり。
しかし、一つ違うところがあります。
オリジナルではサイド7に偵察に行くのは量産型ザク3機ですが、本作では1機が赤いカラーリングをしています。
そうです、赤いザクにはあのシャアが登場しているのです。
シャアと副官ドレンの会話で、ザクのパイロットの一人であるジーンのザクが不調のため、代わりにシャアが出撃したと語られます。
この物語は「もしジーンのザクが故障したら・・・」というWhat ifの物語なのですね!
ジーンのザクが故障したため、シャア自身がサイド7に侵入。
オリジナルでは侵入したザク2機はアムロが乗るガンダムに破壊されますが、もしもの世界ではガンダムをシャアが奪取、さらにはホワイトベースもジオンが奪い去ります。
その結果、戦争の行方は大きく変わり、連邦はジオンとの戦いに負けてしまうのです。
本作は公開前より、サンライズと庵野秀明氏率いるカラーがタッグを組むということで話題となっていました。
本作の監督は庵野さんの作品を支えてきた鶴巻和哉さんですが、脚本には庵野さんも参加しています。
庵野さんはご存知の通り、「ゴジラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」などを「シン」シリーズとして、リファインして来ました。
庵野氏はそれぞれの作品を非常にリスペクトし、オリジナルのテイストやカット、音楽などを使いながら、彼らしい物語を再構築して来ました。
それを踏まえれば、本作がオリジナルの「ガンダム」を踏まえたものになることは想像できました。
公開前より本作は宇宙世紀ものになる、もしくは宇宙世紀のマルチバース的な展開になるという予想がありましたが、それが当たった形ですね。
本作の主要キャラクターとして、シャリア・ブルを持ってくるところは庵野さんのマニアックさが出て来た感じがします。
本作のメインストーリーは一年戦争の数年後が舞台となります。
そこは連邦が負けた世界です。
主人公マチュは偶然サイコミュを搭載した新しいガンダムジークアクスに搭乗し、モビルスーツのバトルで勝利します。
彼女はその時「キラキラ」した世界を見ており、それに惹かれます。
これはオリジナルの「ガンダム」においてアムロやララァが見た世界と同一のものと考えられます。
本作にはララァは登場しませんが、ララァがニュータイプの力を発揮する時に聞こえてくる「ラ、ラ・・・」という音は微かに聞こえてきていたように思います。
本作において庵野さんは彼が考えるニュータイプというものを描くのではないか、と思いました。
そもそもオリジナルの「ガンダム」の映画が公開された頃、ニュータイプとは何かという議論はさまざまな雑誌で多くの人が論を展開していました。
私も中学生頃でそういう文章を真剣に読んでいたのを覚えています。
庵野さんはその頃大学生くらいだと思うので、まさにそういう話をしていたのではないかと考えます。
宇宙世紀はシリーズが長くなり、多くの人が関わるようになり、ニュータイプという概念も人によって変わり、少しづつ変容して来ているよな気がします。
最近の新しい宇宙世紀もの、特に福井晴敏さんが関わるUCやNTはニュータイプがややオカルトチックに描かれているような気がしていて、個人的にはちょっと違うかなという印象を持っていました。
庵野さんはこの辺りの流れに対して、彼の解釈のニュータイプを描くのではないかと思っています。
まだ物語は始まったばかり。
しかし、ポテンシャルは感じましたので、今後の展開を楽しみにしたいと思います。

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2025年1月13日 (月)

「劇映画 孤独のグルメ」腹が減った・・・

腹が減った・・・。
みなさんご存知の通り、「孤独のグルメ」は昨今の料理ドラマのブームの先駆けとなったドラマシリーズです。
放送されているのは深夜枠なので、このドラマはまさに「飯テロ」。
紹介されるのが気取った店でないところも個人的には大好きなところです。
その「孤独のグルメ」が映画になるというのを聞いたのはいつだったでしょうか。
聞いた時に楽しみになりつつも、いくつか不安を感じたところもありました。
一つはこのドラマを長時間の尺で構築できるのだろうかという点でした。
テレビドラマは30分という尺で、そのうちほとんどは井之頭五郎が食べているシーン。
ドラマと言いつつ、他のキャラクターとの絡みはほぼありません。
そこがいいところであるのですが、映画でそれをやるのはなかなか難しい。
ストーリーを展開するには、ドラマを展開するキャラクターが必要です。
普通のドラマであれば、主人公がその役を担うのですが、それをやると「孤独のグルメ」らしさがなくなる恐れがあります。
「孤独のグルメ」は長尺のスペシャル版もありますが、基本的には30分でやっていることを、場所を変えて展開している体になっています。
一度だけ、五郎さんの昔の恋の話が縦軸になっていたエピソードもあった気もしますが(本作で杏さんが演じているのは、かつての恋人の娘)。
本作ではストーリーをゲストキャラクターである志穂と謎の店主に負わせています。
スープを探す旅が本作での五郎の行動のきっかけになりますが、この二人のラブストーリーがストーリー上の縦軸になりますね。
思えばこの構成は「男はつらいよ」の立て付けかもしれません。
二つ目は監督を主演の松重さんがやっていることだったのですが、なかなかどうして、上記のようにしっかりとストーリーが作られていて、飽きずに最後まで見せてくれました。
松重さん、監督でもいけますね。
スープを探す旅というアイデアも良かったです。
スープというのはつまり出汁。
出汁というのは、その地で採れたり、手に入りやすいものでとられることが多いわけで、それぞれの人のソウルフードとなるものなんですよね。
海外に行って美味しいものを食べてきても、日本に帰国すると味噌汁がとっても美味しく感じるようなものです。
そして出汁は掛け合わせることによってうま味を増すことが知られています。
うま味の相乗効果というものです。
昆布のグルタミン酸と、椎茸のイノシン酸が合わさるとうま味が何倍にもなります。
うま味は食文化でもあります。
フランスに移住した老人の思い出のスープは日本の食材だけでなく、韓国の食材も用いたものでした。
違う食文化の出汁が出会って、新しい味を生み出す。
これは食材のことですが、本作では人と人の掛け合わせのことも暗示していると思います。
五郎は旅先で人と出会い、それが人と人を結びつけます。
五郎が旅先であった志穂から手に入れた食材が、店主に渡り美味しいスープの材料となる。
そのスープがまた志穂の手に渡って、彼女はラーメンを作る。
志穂と店主は会ってはいないけれど、スープでつながっています。
見る前の懸念点は、全くの杞憂でした。
今後とも五郎さんにはいつまでも美味しいものを食べて行ってもらいたいものです。
つくづく終わったら、腹が減る映画でした。

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2025年1月 3日 (金)

「劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師」活きるキャラクターの魅力

2025年の1作目はこちら、娘のリクエストで「忍たま乱太郎」をセレクトです。
「忍たま乱太郎」がテレビ放映されたのが1993年ということで、自分はすでに社会人になっていたので強い思い入れはありません。
子供がNHKで見ているので、それを脇で見ているくらい。
10分の短いエピソードで、基本ギャグアニメというのが個人的な印象でした。
なので、子供のお付き合いという感じで見に行ったのですが、結構楽しませてもらいました。
後で知ったのですが、歴史があるからか「忍たま乱太郎」は大人のファンも多いとのこと。
確かに劇場では多くは私の家のように親子連れでしたが、若い人同士で来ている方も多かったように思います。
本作はテレビと違い長編なので、しっかりと人物とストーリーが描かているように思いました。
私は登場人物については見たことがある、といった程度なのですが、それでも本作に登場するキャラクターたちはどれも魅力的でした。
キーマンとなる土井先生は忍者としてキレものながら、飄々として生徒に対しても愛情を持って接している。
だから生徒たちにも慕われて、それが忍たまたちを行動を起こさせるきっかけになっています。
特に三人組の一人、きり丸は土井先生と同じように両親を失っているので、特に彼を慕っています。
いつもはお金に目がない少年ですが、土井先生のために奔走します。
彼らが戦で両親を失っているバックボーンはオープニング等で感じさせていて(血を見せずに彼岸花で見せる演出は素晴らしい)、それがあるからこそきり丸の気持ちが伝わっていきます。
個人的に好きになったキャラクターはタソガレドキ城の雑渡昆奈門ですね。
愛想がないように見えて、周囲がしっかりを見て気を回す。
それでいて抜け目がない。
こういうキャラが脇にしっかりいると物語が豊かになります。
その他にも魅力的なキャラが何人もいて、大人がファンになる気持ちがよくわかりました。
あと、見どころだったのがアクションシーン。
忍者ものなので、幾つも忍者VS忍者の立ち回りがありますが、そのどれもキレがあって見応えがあります。
忍たま六年生たちと天鬼の戦いは、圧倒的な天鬼に対して、それでも六年生たちが出せる力を振り絞って戦いました。
ギリギリで六年生たちが戦っている様が殺陣からも伝わって、さらにやられて痛々しいところも描いているので、アニメでありながら、肉弾戦のような感触も感じたアクションシーンでした。
後半の雑渡と忍たまOBの戦いも、雑渡の余裕を感じさせる立ち回りは美しさすらありました。
ストーリーとしても、アクションとしても各所に見所があり、正月早々いいもの見せてもらったという感じで幸先が良いです。

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2024年12月22日 (日)

「クレイヴン・ザ・ハンター」輝くための相手がほしい

SSUの存続が危ういと話が出ている中で公開された「クレイヴン・ザ・ハンター」。
確かにSSUというシリーズは狙いがはっきりとしていない印象があります。
MCUのような共通した大きな世界観を作り上げようとする野望があるようにも見えないですし、個性が溢れる個別の作品が輝くということでもない。
MCUのビジネスモデルがうまくいった後、⚪︎⚪︎ユニバースと銘打った企画がいくつか立ち上がりましたが、あまりうまくいっているものはないように見受けられます。
SSUもそのようなユニバースの一つとなるのでしょうか。
ただシリーズとして狙いがはっきりしていなくても、個々の作品の評価はまた別。
世間からはあまり評判が良くないようですが、個人的には「マダム・ウェブ」は楽しめました。
クレイヴン・ザ・ハンターはコミックではスパイダーマンの敵役となるヴィランです。
そのヴィランを主役にするという点では「ヴェノム」や「モービウス」と同じですね。
マーベルのヴィランは個性的で、サノスのように敵役ながら人気が出てくるキャラクターが多いですよね。
彼らがヴィランであるのに共感性があるのは、行為自体は認められないものの彼らは彼らなりに信念を持っているところであると思います。
それは主人公側との対比があるからこそ、さらに存在感を増すのです。
SSUでヴィランを主人公にした作品が、個人的に魅力的に感じるものが少ないのは、その対比構造が薄いのからではないかと思います。 本来はヒーロー側との対比でヴィランとしての魅力を描いた後に、スピンオフというのが流れとしては良かった気がします(いろいろ大人の事情でやれないのかもしれないですが)。
SSUのヴィランシリーズで共通しているのは、主人公の敵役となる相手がどうしても格下っぽく感じてしまうことです。
圧倒的な強さを誇る敵ではないため、なかなか主人公が輝けない。
本作においても敵としてライノやザ・フォーリナーが登場しますが、あまりに役不足(ザ・フォーリナーにおいてはサブキャラに倒されてしまうという情けない始末)。
本作の最大の敵役は、クレイブン・ザ・ハンターことセルゲイの父親ニコライなのでしょうね。
古来神話では男の成長譚として父親殺しというのがありますが、本作もその系譜に属すると思います。
父親の強い影響を受け、弱肉強食の世界を生き抜く術を身につけたセルゲイですが、父親の残虐な振る舞いには嫌悪感を抱きます。
自分の中に流れる血に嫌悪感を持ちつつ、自分の中に父親の影響は確実にある。
セルゲイのその葛藤は描けていたように思います。
SSU自体の中途半端さは気になるものの、それを気にせず単体の作品として見るならば父と子の物語としては十分に成立していると思います。
ラストに仄めかされたこれから起こる可能性としてある兄と弟の確執もドラマとして展開が気になるところではあります。
後日談が語られるかどうかはSSUの成り行き次第というところでしょうか。

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2024年9月 1日 (日)

「劇場版 アナウンサーたちの戦争」背負う十字架

本作はNHKスペシャルで放映されたドラマの劇場版となります。
劇場で公開されるまで、このようなドラマがあったことは知りませんでした。
現代でも世界各地で戦争は行われていて、以前よりもさらにも増して重要になってきているのが、情報戦です。
インターネットを使って虚偽情報を流したり、敵国の世論を誘導したり、また自国に対しては不利な情報を隠匿したり。
原始的な手法では、韓国が北朝鮮に対して、韓流ドラマが収録されたDVDを蒔くというのもありました。
太平洋戦争においても、旧日本軍は情報戦に力を入れていました。
圧倒的に物理的な戦力が足りない中、欺瞞情報や敵国の戦意喪失へ、情報戦、特にラジオを使った電波戦は有効であると考えたのです。
当時、そのような軍の方針に従ったのが、現在のNHK、日本放送協会です。
軍が占領地を東南アジアに広げていくのに従い、日本放送協会のアナウンサーたちが前線での電波戦に駆り出されました。
そして、また日本に残ったアナウンサーたちは国民の戦意高揚のためにその声を使ったのです。
本作では戦争というものに巻き込まれていったアナウンサーたちの姿を描きます。
アナウンサーの言葉は真実を伝えるべきものであるのに関わらず、軍の都合が良いことを話さなければならないことに苦悩する人。
言葉の力に溺れ、日本国のために言葉を武器として使おうとする人。
そして言葉の無力さを思い知った人。
自ら望むと望まらずにも関わらず、当時のアナウンサーたちは戦争に加担しなくてはいけない状況でした。
それは否定できないこと。
彼らの言葉によって、戦地に向かっていた者も多くいたことでしょう。
このような物語を、そこに関与していたNHKが語るというのは勇気がいることだと思います。
当時の人々はすでにいないわけですが、自組織の汚点を語るわけですから。
ただ組織として、しでかしてしまったことを、反省する気持ちを表する事は大切な事だと思います。
昨今、テレビ局などがいろいろしでかしてしまった不始末が多くあります。
普段、誰かが起こした事件などは根掘り葉掘り報道するわけなのに、自組織のしでかしたことに対しての反省は驚くほど弱い。
そのほとんどは民放が多いのですが、彼らは全て戦後作られた組織です。
NHKが背負っている、戦争に加担してしまったという十字架は彼らにはない。
逆にNHKは十字架があるからこそ、その態度は真摯にならざるを得ない。
この違いが、不手際が起こった時の、各社の態度に出ているような気がしました。

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2024年8月23日 (金)

「クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記」モアおバカ度

「クレヨンしんちゃん」の映画というと割とナンセンスというか、おバカな設定というイメージがあったので、テーマが恐竜と聞いた時は、真っ当だなという印象でした。
子供たちと子供の恐竜の交流というと「ドラえもん」的なイメージがあるんですよね。
普通のサラリーマン一家の家に恐竜がいるっていうのも十分非日常ではあるのですが、ロボとーちゃんとか、世界サンバ化計画とかに比べると、おバカ度が少ないというか・・・。
個人的に「しんちゃん」に期待しているのは、おバカ度がどのくらいかというところがあるので、その点では物足りない印象でした。
「しんちゃん」の映画の魅力はおバカであるのにも関わらず、なぜか泣かされるという落差にあると思っているのです。
本作ももちろん泣かされるところはあります。
ただ、先ほど書いたような落差はないので、「ドラえもん」的な感動といった感じで、「しんちゃん」らしさは薄かったかな。
好きだったのはしんちゃんの愛犬シロの描写で、自分の境遇と重ね合わせて恐竜ナナに気を遣っている様子が、何とも可愛らしかったです。
ラストはしんちゃんより、シロの方に共感してしまいました。
当然、来年も「しんちゃん」の映画はあると思うので、その時はもう少しおバカな感じでお願いしたいものです。

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2024年8月18日 (日)

「仮面ライダーガッチャード ザ・フューチャー・デイブレイク」感じないダイナミズム

テレビシリーズはすでに最終版を迎えている「仮面ライダーガッチャード」の劇場版です。
令和ライダーとなってすでに「仮面ライダー」も5作目となっていますが、今期の「ガッチャード」は個人的には最も物語にのれていない作品となってしまいました。
平成以降の「仮面ライダー」は一年間を通して、縦軸のストーリーが非常に強い構成になっています。
対して「スーパー戦隊」シリーズは一話完結的な構成が強い傾向にあります(昨年の「キングオージャー」は例外的に縦軸のストーリーが強かった)。
「仮面ライダー」の縦軸のストーリーは時に驚くべき展開となり、一年間を通してダイナミックさを生み出してきました。
「ガッチャード」はその縦軸のストーリーが相対的に弱い印象です。
主人公宝太郎の全てのケミーと仲良くなる、という願いは縦軸の要素ではありますが、それによって他の人々や世界に大きな変化をもたらすものではありません。
中盤以降、グリオンや冥黒王たちが登場して、ストーリーにテコ入れは入りましたが、彼らの目的もいまいちはっきりとしません。
グリオンの言う黄金境とはどういう世界なのでしょうか。
無論縦軸が弱いのはいけないというわけでありません。
一話完結的なストーリー展開も良い作品はたくさんあります。
「ガッチャード」でも加治木のエピソード(9、10話、44、45話)はとてもエモくて良い話でした(この辺りはさすが長谷川圭一さん)。
「ガッチャード」で気になったのは、冬の映画の時にも書きましたが、あらかじめ映画やスピンオフを見越した展開となっており、それらがあまり本筋には影響を与えないことです。
冬の映画ではテレビで登場した錬金連合の話が劇場版で回収されましたし、本作で再登場したガッチャードデイブレイクもテレビシリーズの登場が前振りのようなものでした。
仮面ライダーレジェンドもスピンオフを見ていなければ、テレビシリーズでは突然登場したキャラクターに見えたことでしょう。
デイブレイクはタイムトラベル、レジェンドは並行世界というギミックを使っていますが、これらの設定も便利に使いすぎだと思います。
「電王」では時を旅するということの意味、記憶というもの意味がテーマになっていましたし、「ディケイド」では並行世界という設定が物語に大きく結びついていました。
本作はタイムトラベルも、並行世界もただの便利なツールのように深く考えられないで作られているように思います。
本作では錬金術が重要な存在ですが、これがもはや何でもありの魔法となっている感じがします。
本来は錬金術ならではの制約(某漫画のような等価交換の法則)などがあった方がより盛り上がったような気がします。
どうも一貫してどのような話にしたいのか、方針があまりきちんと立っていなかったというのが「ガッチャード」の印象です。
ですので、この映画に関しても最初からあまり気持ちは入らず、見てみてもただのスピンオフという程度であまり感心しませんでした。
最近の「仮面ライダー」の劇場版はこのような作品が多く、物足りない印象を持つことが多くなっています。

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2024年8月13日 (火)

「怪盗グルーのミニオン超変身」食わず嫌い払拭

「怪盗グルー」シリーズは今まで何作か見ましたが、あまり個人的には波長が合わない印象がありました。
アメリカの3Dアニメーションというとピクサーの印象が強く、凝ったストーリー、卓越した映像で大人の鑑賞に耐えられるものイメージがありました。
ピクサーに比べると「グルー」シリーズは子供の見るもの、という先入観があったように思います。
実際、前作「ミニオンズ フィーバー」は子供にせがまれて一緒に行きましたが、何ヶ所か寝落ちした始末・・・。
ですから、「グルー」シリーズに対しては笑いのツボが合わないのかもしれないと思っていたのですが、本作は結構楽しめました。
「グルー」が変わったというより、自分の方の先入観が変わったのかもしれません。
「グルー」を制作しているイルミネーションはいくつものアニメーション作品を作っていますが、そのうちの一つで春に公開された「FLY!/フライ」については以前レビューにも書きましたが、かなり楽しめました。
そこで書いたのは、イルミネーションの作品はスラップスティック的なおかしさがあるということです。
特にこのシリーズはミニオンズたちが狂言回し的な役回りとなって、勝手に笑いをわき起こしていきます。
ストーリー的にはミニオンズのドタバタはあまり関係ないのですが(とはいえ最後には効いてくる)、彼らがお構いなしにわちゃくちゃやっている様子を見ていると次第にクセになってきます。
次第にミニオンズ、イルミネーションのおかしさに気づいてきた私。
食わず嫌いせず、他の作品も見てみようかな。

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