「楓」 滅私の恋
冒頭ニュージーランドで亜子が楓に似た葉を「こっちの楓」と言い、そして日本に帰国後、本物の楓を拾うシーンがある。
また彼女は複視であり、時折ものが二重に見えてしまうことに悩まされる。
これはいずれもメタファーであり、涼が双子の弟、恵を演じていることを暗示している。
恵はニュージーランドで事故死してしまった。
同行していた恵の恋人である亜子は悲嘆に暮れ、彼女の心の重荷を減らすために、涼は顔がよく似た恵を演じることにする。
涼も亜子に想いを持っていたのだ。
この物語はニュージーランドでの事故を起点に話が始まり、基本的に時系列で語られていく。
涼と亜子のその時の気持ちが彼らの口で語られるシーンはほぼなく、そのときにどのように感じているかは想像するしかない。
時折、過去のシーンがインサートされていくが、それにより彼らの本当の想いが明らかになっていくという、巧みな構成だ。
考えてみると、「恋」というものは極めて主体性が強いものだ。
「私」が、彼(彼女)を好きになる。
「恋する」ということ自体には相手が自分をどう思うか、ということは関係がない。
お互いに「恋する」ことによって初めて両思いになる。
すなわち「恋する」という行為は本質的にわがままなものであるのだ。
涼は亜子に恋をしている。
しかし、彼は自分の「恋」であるにも関わらず、自分を出さない。
恵を演じ続ける。
彼の恋は「滅私の恋」だ。
本来「恋」はわがままなものだ。
弟がいなくなった今、彼が自分の気持ちを亜子に伝えることもできただろう。
自分の気持ちに素直であろうとすれば、そうすることが自然だ。
だが、涼は自分を殺して演じ続ける。
自分の気持ちを叶えるよりも、亜子のことを一番に考え、彼女を支えていきたいと思う。
すでに亡くなってしまっている弟への遠慮もあるのかもしれない。
やはり亜子を愛していた弟の気持ちも知っている。
彼が亡き今、自分の気持ちだけを叶えることは卑怯であるように思えたのだろう。
そんな彼にとって、亜子の「おかえり、恵ちゃん」はなんと残酷な響きを持っていたのだろう。
亜子は恵に恋している。
その彼を失うことはどれほどの喪失感であろうか。
自分の一部を失うほどのものであったに違いない。
そのような状態で、亜子は涼に縋るしかなかった。
彼が恵を演じていることをわかっていても。
「恋」はわがままなものだ。
自分の気持ちを通すことが、どれだけ涼に負担をかけ、傷つけているかもわかっている。
けれどわがままを通すことしかできない。
涼の気持ちが伝わってくるほど、彼女は苦しく、追い込まれていく。
涼は、亜子と恵の二人の願いである流星探しを叶えるため、明け方の海に亜子を誘う。
そのとき亜子の目には、ずっと二重に見えていた恵と涼の姿が一つになる。
そして涼はそっと亜子にキスをする。
この時の涼は、恵ではなかったと思う。
本当に亜子のことを愛しく思い、涼としてキスをした。
そして亜子もこのとき、涼が演じている恵ではなく、涼自身に恋に落ちたのではないだろうか。
だからこそ、亜子はこれ以上、涼に負担をかけてしまってはいけないと考える。
涼の思いを弄んでいるように感じたのかもしれない。
そのとき、亜子は涼に恋をしていた。
だからこそ亜子は身を引く。
これも亜子の「滅私の恋」なのだ。
涼も恵も、高校生の時の屋上での出来事の真実を亜子にずっと言えなかった。
騙していることはわかっている。
けれど、それを伝えてしまったら、たくさんのものが壊れてしまうかもしれない。
けれど、それは杞憂なのだ。
亜子にとってそれはきっかけであったのかもしれない。
しかし彼女が恵に恋をし、そしてまた涼に恋したのは、二人それぞれの本当の姿を好きになっただけなのだ。
こっちの楓も、あっちの楓も代わりにはならない。
二人にそれぞれ、彼女は恋に落ちた。

最近のコメント