2019年9月29日 (日)

「記憶にございません」 生き方を変えるファンタジー

人生も半ば過ぎまで生きてきて、それが子供の頃想像していた将来の姿と同じかと言われると全然違うものですよね。
個人的にはそれはそれで悪くない人生であったと思ってるわけですが、こんなはずじゃなかったと思う人もいますよね。
それでは、人生を改めてやり直すことができるのかというと、既にいろんなしがらみがあって、そのようなことは無理なわけです。
本作は政治コメディの体裁ですが、政治の風刺というよりは、人生をやり直すことができたらということをテーマにしたファンタジーと言えるかもしれません。
ただし本当にファンタジーでない限りは失われた時を取り戻すわけにはいかないので、人生をやり直すというよりは、生き方をリセットするということを描いていると言えるでしょう。
過ぎ去った時間は取り戻すことはできなくても、生き方を変えれば、その後の人生は別のものに変えることができるかもしれません。
しかし、生き方を変えるというのもなかなかの至難の業。
それまで生きてきて積み重ねてきたものが自分の中にも、自分の周囲の人々のなかにもあり、それが自分というものを作り上げているからです。
自分の中はあるきっかけがあれば変えることができたとしても、しがらみがそうさせてくれない。
本作の主人公である黒田は政権の支持率がかつてないほど低い、多くの国民に嫌われている内閣総理大臣です。
国会や記者会見では暴言を吐く、強引な政権運営をする、汚職まがいなことを裏ではしている、そして不倫なども・・・。
好きになるのが土台無理そうな悪徳政治家です。
どこかの国にもいるような感じが致しますが。
さて、その首相が演説の最中に頭にくらってしまった石礫のおかげで、記憶喪失になってしまいます。
子供の頃は別にして、政治家になった頃からの記憶がまったくない。
それに伴ってか、何故か人格までがとってもいい人になってしまうのです。
そんな彼が自分が嫌われ者であったときのことを知るにつけ、このままで政治を放っておいていけない、しがらみがなくなってしまったからこそ自分には失うものがないと様々な改革を実行していきます。
 
<ここからネタバレがあります>
 
よくよく考えると記憶喪失になることにより、悪人から善人に性格までが変わってしまうのはそもそもおかしい。
ポイントは失った記憶が政治家になってから以降であったということです。
ということは、黒田はそもそもはいい人であったということなのですよね。
元々いい人であったはずですが、政治の世界で生きていくため、性格が変わってしまったのか、それともそのような政治家を演じてきたのかはわかりませんが、石飛礫によって性格がもとのいい人に戻ったということなのですよね。
実は彼は途中から記憶が戻っていましたが、記憶喪失のままでいようとそれを演じてきていたのです。
このあたりは百戦錬磨の政治家らしい。
もともとは夢を持って政治を志していたのにもかかわらず、いつしか生き抜くことが目的となり初志を忘れてしまっていたということに彼は気づいたのでしょう。
記憶喪失になったことによって、皮肉にも忘れていた志を思い出したとも言えます。
だからこそ記憶喪失という苦難を自分が変わり、そして周囲もそれに納得してもらえる一世一代のチャンスにかけたのでしょう。
この辺りも勝負師らしいです。
本当の人生、そんなに生き方を変えられれるかという話にはなるとは思いますが、それはこの物語はやはりファンタジーなのだと思います。
だからこそハッピーな気分になれる。
なかなか自分で自分の生き方を変えることは難しい。
けれど、ほんとのほんとにやる気になれば、できるかもしれない。
そんな希望を持たせてくれる映画のような気がしました。

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2019年7月29日 (月)

「騎士竜戦隊リュウソウジャー THE MOVIE タイムスリップ!恐竜パニック!!」 さらなる高みへチャレンジ!

「キュウレンジャー」、「ルパンレンジャーVSパトレンジャー」とスーパー戦隊の定石を覆す作品が続いた後なので、「騎士竜戦隊リュウソウジャー」についてはスーパー戦隊シリーズの王道に回帰しているため、個人的には正直食い足りない感があります。
とはいえそれは大人目線なので、子供目線からすると王道の「リュウソウジャー」は魅力的に見えるのかな?
ですので劇場版については大きな期待はしていませんでした。
劇場版といってもスーパー戦隊は正味30分程度なので、ストーリーもなかなか掘り下げるのは難しいですからね。
ですが見てみると、感心するところがいくつもありました。
王道路線とは言いつつも、「リュウソウジャー」は新しい試みにチャレンジしています。
その中でも最も大きなトライはいわゆる「巨大戦(もしくはロボ戦)」の変革でしょう。
スーパー戦隊におけるロボ戦は、怪人態での戦いの後の2回戦というパターンが圧倒的に多いのはご存知の通り。
しかし本作における巨大戦は、怪人態がエネルギーを吸収して巨大化するという設定となっています。
ですので怪人態をやっつける決め技はないのです。
子供たち的には見所が減ってしまう気もしなくもないのですが、その代わりロボ戦をしっかりと盛り上げるというコンセプトなのでしょう。
本作のロボはいつものような箱を組み合わせているような形ではなく、着ぐるみもかなりスマートです。
そのため通常のロボよりもかなりアクションができて、見せどころを作っています。
劇場版でもロボ戦なのに屋外で撮影したシーンもあり、スピード感を感じさせるアクションの演出がありました。
これは今までとは異なる見応えを感じました。
これが一つ感心した点です。
もう一つは本作は屋外でのロケをしっかりとやっているため、スケール感がありました。
本作は恐竜の時代にタイムスリップをするという設定なので、CGとの恐竜との共演となりますが、これがこじんまりとしたシーンだとかえって安っぽさが出てしまいます。
本作ではロケシーンで恐竜をCGで合成していかにも恐竜が地上で暮らしているかのように感じさせています。
それもカメラを動かしたり、ドローンを使ったりしているので難易度は高いのではないかと想像されます。
ハリウッドの大作ではとうに当たり前ではあるのですが、劇場版とはいえテレビシリーズの延長であるスーパー戦隊の映画でこのようなことにトライすることは、チャレンジだと感じました。
お話としては子供でも見やすいものになっているとは思います(とはいえタイムスリップを題材にしているので、意外としっかりと考えてある)。
しかし、子供向けとは言いながらも映像的には今までのスーパー戦隊よりも上を目指そうという意思を感じた作品となっていました。

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2019年7月27日 (土)

「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」 未来への目線

平成仮面ライダー20作目である「仮面ライダージオウ」には2つの最終回がある。
現在放映されているテレビシリーズは来月末に最終回を迎えるが、こちらは「ジオウ」という物語の最終回と考えられる。
それに対して、劇場版は「平成仮面ライダーの最終回」とポスターに書かれているように、20作を数える平成仮面ライダーシリーズを総括する作品となっている。
そのため本作の視点にはテレビシリーズよりも、よりメタな平成仮面ライダーを俯瞰する視点が意識されている。
そもそもテレビの「ジオウ」の1クールはメタ視点が強かったが、後半はそれは薄れ「ジオウ」そのものの物語を追っていくようになってきている。
そう意味ではシリーズ後半の方が話は追いやすい。
メタ視点での平成仮面ライダー総括に関しては劇場版で行おうとする制作サイドの精緻な計画があったのだろう。
本作には敵として3人の仮面ライダーが登場することがアナウンスされていた。
仮面ライダーバールクス(BARLCKXS)、ゾンジス(ZONJIS)、ザモナス(ZAMONAS)である。
実はこの3人の仮面ライダーの名称は、過去のライダーのアナグラムとなっているということだ。
すなわち「BARLCKXS」は「BLACK RX」、「ZONJIS」は「SIN、ZO、J」、「ZAMONAS」は「AMAZONS」であるのだ。
ここまでは事前情報で雑誌などから得ていた。
しかし「なぜ」他のライダーではなく、これらのライダーが取り上げられたのかはわからなかった。
しかし、今回の劇場版を見て、なぜ制作サイドがこのライダーを取り上げたのかが理解できた。
それはそのまま本作のテーマであったのだ。
本作を見る前に私は「ジオウ」は平成ライダー20作の総括する作品であると認識していた。
しかし、「ジオウ」は平成ライダーを「総括しない」ということをテーマとしていたのだった。
現在「平成仮面ライダー」シリーズとして一括りにされて認識されているが、そもそも最初からシリーズ化を図って作られたものではない。
おそらく制作サイドがシリーズとしてやっていけるとはっきりと自信を持ったのは第4作である「555」くらいからではないだろうか。
ここまでの作品は「仮面ライダー」という枠組み、そして前作までの枠組みを常に壊すことによって、まさに番組として「生き残ろう」という意志を感じる作品であったと言える。
その後の「ブレイド」「響鬼」「カブト」はある程度定着しつつあったシリーズを枠組みとして固定化しようとしたり、逆に外れてしまおうとしたりといった試みがされており、迷いの時期であったように思う。
そしてその後の「電王」の大ヒットで、シリーズとしての存在感をある程度固めたと言える。
ただ制作サイドはそれでもそれが永続的に続くかどうかの不安を持っており、そのために10年目に「ディケイド」という異端児を放った。
「ディケイド」これは世界観もバラバラであった「クウガ」以降のシリーズを「平成仮面ライダー」シリーズというブランドにまとめ上げるプロジェクトであったと考える。
これによりある種、未来にも続く「平成仮面ライダー」というブランドが確立した。
第2期と言われる「W」以降の「平成仮面ライダー」は実は第1期と比べると、ある程度骨格のフォーマットがしっかりしていると思う。
見た目のビジュアルや、題材などはかなりユニークなものを持ってきているのではあるが、骨格はしっかりとしているのでどの作品も安定した品質を保ててきていた。
ただそれがこのままそのフォーマットが固定化していくことへの危機感もあるように思う。
故に20年目にして「平成仮面ライダー」とはなんだったのかと制作サイドは自らに問いたのだと思う。
その答えは、私もこのブログで何度も書いてきたことではあるのであるが、常に革新であること、変えることを厭わないこと、それを続けていくことこそが平成の仮面ライダーであったのだということなのだろう。
本作で敵として登場するのはQuartzerと呼ばれる者たち。
彼らは時間を管理し、美しく歴史を整えていくことを目的とする。
そういった彼らの物の考え方からすると、「平成仮面ライダー」はシリーズでありながら、一貫した設定もなく、脈絡もなく、奇妙でねじくれているように見える。
だからこそ「綺麗に舗装し直す」ために歴史に介入したのだ。
最初に書いたように彼らが変身する仮面ライダーは、「BLACK RX」、「真、ZO、J」、「アマゾンズ」をモチーフとしている。
これらの作品は「仮面ライダー」の中の歴史の中でも珍しくシリーズ的な展開(厳密には違うのもあるが)がなされている作品なのだ。
Quartzerの視点からすると「美しい」作品なのだろう。
しかし、ソウゴも言ったが「デコボコ」でもいいじゃないかということなのである。
ある意味これは多様性であるとも言える。
後半に突如、驚くべき人物が登場する。
木梨憲武さん演じる木梨猛だ。
「仮面ノリダー」と言った方がわかりやすいだろう。
「とんねるずのみなさんのおかげです」の中のコーナーのひとつであった「仮面ライダー」のパロディに登場する人物である。
正直、これには驚いた。
そしてすぐに映画としての話題盛り上げ用のギミックであると感じ、ちょっと嫌な気分にもなった。
しかし、さらに映画を見続けていると彼の登場には作品のテーマに関わる非常に大きな意味があることに気づいた。
ラスボスとの最終決戦時、歴代の平成仮面ライダーが召喚され死力を尽くす。
ここまでは想定通りではあった。
しかし、それに加えて仮面ライダーブレン(「ドライブ」の敵キャラであったブレンが変身した仮面ライダー。Twitterのエイプリルフールネタから生まれた異色仮面ライダー)、仮面ライダー斬月カチドキアームズ(「凱武」のスピンオフの舞台に登場するフォーム)、仮面ライダーG(スマステの特番の中で稲垣吾郎が変身した仮面ライダー)、そして漫画版のクウガが登場する。
まさになんでもありなのだが、これら異色ライダーが登場するのはまさに「仮面ライダー」という作品はどのような可能性もありで、こうであれねばならないという決め事はないもないということが言いたいのだろうと思う。
前半の戦国時代で信長が我々が知っている信長とは全く異なる生き方をしていたということ、そしてソウゴが魔王ではなかったということ、すべてがこうであるという決めつけは正しいことではないということを示している。
逆に言えば、決めつけることにより、可能性や未来はなくなっていくということなのだ。
これは新しい令和の時代を迎えるにあたっての「仮面ライダー」制作サイドの宣言であると考えられる。
令和になっても「仮面ライダー」はどのような可能性も否定しない、常に新しいことにチャレンジし続ける。
それこそが「仮面ライダー」なのだと。
「ディケイド」はそれまでの過去のライダーを集約し「平成仮面ライダー」というブランドを確立させた。
その目線は過去である。
しかし「ジオウ」はこれから「仮面ライダー」が向かうべき道筋、未来を見ている。
もはや平成、令和という区切りも無意味なのかもしれない。
「仮面ライダー」は未来に向かってただ走り続けるだけなのだから。

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2019年6月24日 (月)

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」 地球の守護神

ローランで・エメリッヒ版の「GODZILLA」を観た時に思ったのは「ああ、日本のゴジラの本質は欧米ではわかりにくいのかな」ということでした。
日本のゴジラは人類の脅威であるという存在であると同時に、畏怖の対象でもあると思います。
ゴジラはまさに「荒ぶる神」と言えます。
荒ぶる神は日本の神話にも所々に見られるもので、そのイメージがあるからこそ日本人にとってゴジラが他の何者とも違う特別な存在であるのかもしれません。
日本という小さな島国は、毎年台風の通り道となり、頻繁に地震も起こる土地柄であり、そこに暮らす者にとって自然は自分たちではコントロールできないものとして畏怖の対象となっていたのでしょう。
そしてまた自然は人々に恵みを与え、また敵から守る存在でもありました。
恵みと災害という相反するものを人々に与える自然が、荒ぶる神というイメージにつながっていたのです。
そういった自然に対するスタンスにあるからこそ、日本人にはゴジラは受け入れられるわけですが、そのような自然観がない人々にはゴジラはただの巨大生物に見えるのかもしれません。
私はゴジラのような巨大生物を「モンスター」と呼ぶことに違和感を感じるのですよね。
怪獣は怪物とは何か違う。
これを欧米人に伝えるのはなんとも難しい。
だからこそエメリッヒ版のようなものができてしまう。
「パシフィック・リム」のギレルモ・デル・トロはそれがわかっているからこそ、あえて「KAIJYU」と日本語をそのまま使っているのだと思います。
ただ彼はかなり特別な人間かと思います。
とは言え本作の前の作品である「GODZILLA ゴジラ」はある程度日本の怪獣に理解があるような作りになっていたと思います。
それを受けての本作「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」ですが、総じてみて非常に日本のゴジラについて理解を深くして作られていると感じました。
過去の日本のゴジラ作品からの引用も数多くあり、何よりもゴジラ観が日本のオリジナルに非常に近いと感じました。
本作にはゴジラ以外の怪獣も多く登場します。
最大の敵であるのはもちろんキングギドラ。
オリジナルと同様にギドラ(本作ではギドラと呼ばれる)は宇宙から来た存在であるという示唆があります。
これは最近のアニメ版のギドラも異次元の存在として描かれていますが、基本的には同じスタンスとして扱われていると思います。
すなわしギドラは地球の生命とは異質な存在であるということです。
ギドラの存在により、ゴジラはすべての地球上の生命の守護者、もしくは生命体である地球そのものであるという位置付けが明確になるわけです。
ゴジラは時として人類の脅威となりますが、それはまさに地球という生命を守るための守護神であるからこそ。
だからこそ、異質な存在であるギドラに対しては守護者として戦い人類をそして地球を守ったのです。
元寇の時に台風が敵をなぎ払った時、日本人はそれを「神風」と呼びました。
しかし毎年やってくる台風は人々にとって脅威でもあったのです。
まさにゴジラはそのような存在なのです。
また本作はモスラは「母なる地球」の象徴です。
癒し、再生を司る母神。
これもまた日本神話に登場するモチーフです。
荒ぶる神と母神は対の存在であり、本作でもゴジラとモスラが同じように対で描かれています。
 
このように本作はこれまでのゴジラ作品、そしてその背景にある日本、東洋の考え方についての深い理解に基づいて作られていると感じました。
監督のマイケル・ドハティの母親がベトナム人のハーフということを聞いて、東洋のものの考え方の理解があるのかなと考えたりもしました。
 
本作はある意味、ハリウッドにおけるゴジラ映画の集大成ともいうべき作品に仕上がっていました。
そうなると逆に次回作の「ゴジラVSキングコング」が気になってしまいます。
「怪獣の王」として君臨することとなったゴジラ。
それに対してキングコングという存在をどう位置づけるのか。
ゴジラはあくまで地球の生命の守護者であり、人類の守護者ではない。
つまり人類が地球に対して害をなす存在となった時にゴジラは人類に牙をむく。
対してキングコングは人類の守護者というスタンスになるような気がします。
人類の存在を是とするか否とするか。
次回作ではゴジラが敵役となるかもしれません。

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2019年6月16日 (日)

「空母いぶき」 リアルではなくファンタジー

小説やコミックの映画化作品の記事の時に、私は原作未読です、と書いていることが多いのですが、「空母いぶき」については原作をしっかりと読んでいました。
ですので、この作品が映画化されると聞き、ちょっと驚きました。
理由の一つとしては、このコミックで描かれる敵国が中国であり、彼らの日本領土への侵入からこの物語が始まるからです。
尖閣諸島の問題など現実的にはかなりセンシティブなものなので、果たして映画化できるのかということ。
もう一つは現代のテクノロジーを駆使した戦闘を描いているので、今の方がの実力で描ききれるかということでした。
一つ目の問題については設定を大きく変更し、敵国を中国ではなく、仮想の国である東亜連邦とすることにより対処していました。
これにより本作は原作の持つ良さを大きく損なったと思います。
確かに中国を敵国として描くのは厳しいでしょう。
しかしそれであれば映画化しなければいいのです。
映画化するということは原作が持つ魅力を映像として描くことが目的であると思うのですが、その根本を変えてしまっては意味がありません。
原作の魅力の一つは、現代の国際環境として日本の政治、軍事をリアルに描くということです。
もし現実に中国が日本の国土を侵略してきた時、日本の政治家、自衛隊はどう対処すべきか、ということを問うシミュレーションです。
シミュレーションであるならば、それは仮想の国であっても構わないのではないかと思うかもしれませんが、原作はあくまで現実的にありえそうな状況を提示することによって、読者にも課題をより現実感を持って捉えて欲しいという意図を感じます。
それをリアリティのない背景を持つ東亜連邦などという仮想国を登場させても原作の持つ緊迫感は出せません。
またこの東亜連邦という国は相手側の描写が一切ありません。
相手も意図がある人間であるということが描かれないため、よりファンタジー感があります。
原作は日本サイド、中国サイドの政治家、自衛官・軍人の描写が描かれているため、彼らの読みの攻防による緊迫感もあるのです。
それが本作では一切ないため、リアルな緊張感は感じませんでした。
関連することですが、原作は日本・中国の間での互いの政治的・軍事的読み合いがあり、その上での戦略・戦術が展開されることを描写しています。
しかし、本作では相手がたの新興国である東亜連邦は現実的ではないほどの軍事力を持っており、それをあまり考えずに逐次投入をしてきています。
それに対し「いぶき」を中心とする自衛隊も応戦しているだけであって、戦略的・戦術的な緊迫感はありません。
一見軍事もののように見える本作ですが、基本的にはファンタジーであると私は捉えました。
それはもともとの原作のスタンスと立ち位置が違うと思います。
日本と東亜連邦の戦闘も、ネットニュースのスクープによる市民の関心の高まり、そして国連の多国籍軍による介入により、収束します。
これはどこかで見たことがある展開だと思いました。
エンドクレジットで企画に福井晴敏さんの名前を見たことで納得しました。
展開が「人類資金」に似ているのですよね。
福井さんの作品は嫌いではないのですけれど、ちょっと苦手なところもあります。
うまく言えないですが、リアルに描こうとするのですが、どこかファンタジーな要素があってそれがリアルさと相殺してしまう感じとでも言いましょうか。
彼自身の初期の作品である「亡国のイージス」「終戦のローレライ」などもそうでした。
最近では「機動戦士ガンダムNT」「宇宙戦艦ヤマト2202」なども同じ匂いがします。
それぞれのオリジナルは世代なのですごく好きなのですけれど、どうもアレンジがファンタジー色が強くなっているので、そこにどうも波長が合わないのですよね。
本作「空母いぶき」に感じた違和感と同じものだと思います。

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2019年6月 3日 (月)

「キングダム」 馴染みない中国史であったが、シンプルに描き出す

「GANTZ」「アイアムアヒーロー」「いぬやしき」などコミックの実写版映画を多く手がける佐藤信介監督の最新作は、これまた大人気のコミック「キングダム」です。
私は例によって原作は未読なのですが、秦の始皇帝の話だということは知っていました。
私は本も映画も歴史ものが好きで、三国志などもよく読んでいたので中国史などには馴染みがあったのですが、普通の人はそういうものにあまり興味がないと思っていたので、始皇帝の話の漫画などあまりうけないと思っていたので、コミックの「キングダム」が人気であることを聞いた時、意外に思いました。
昨年その「キングダム」が実写映画化するということを聞いた時も、ちょっと驚きました。
まずは壮大な中国という大陸国家が持つスケールを、ハリウッドならいざ知らず、邦画の規模で描ききれるかということ、また中国人を日本人のキャストで演じるということで不自然にならないかということが気になりました。
ただ今までも実写化が難しいと言われた原作ものを確実に描き切ってきた佐藤監督でしたので、期待もしていました。
私は原作を全く読んでいないので、原作に対してどうだったかという評価はできないのですが、結果的には非常に上手にまとめ上げたという印象です。
まず評価できるのはストーリーを極力シンプルにしたということでしょう。
今回は原作の1〜5巻という最初期のパートを基にしているということなのでそのためかもしれませんが、基本的に国を簒奪された王が家来とともにそれを取り戻すという展開です。
視点としては基本的には将来始皇帝の将軍となる信という青年のものが基本線として話が一本道で進むので、わかりやすい。
多くの観客に馴染みのない古代中国の話なので(人物の名前が馴染めないということも含めて)あまり複雑なストーリーだとついていけなくなる懸念はあったと思います。
三国志などはどうしても複数視点でないと描けないので、馴染みのない方にはついていきにくいですよね。
主人公を後に始皇帝となる王政ではなく、戦争孤児である信であるということもわかりやすい一因かもしれないですね。
信は将来実在の人物である李信という将軍になるというキャラクターですが、基本的には我々にとっては知らない人物なので、逆に歴史などに強くない人でも馴染みやすい。
キャラクター造形としても現代的で若いやすいですからね。
このキャラクターを演じるのは山崎賢人さんですが、鑑賞前は個人的な印象としてはあまり歴史ものには合わなさそうな感じがしていました。
ただ実際に見てみると、その現代的な感じが歴史もの特有のとっつきにくさ感を払っていたような気もします。
他のキャラクターの配役などについてもそのような印象を受けました。
心配していたスケール感についても、物語の設定上少数で城内に切り込み、その中での戦いがメインになるため、大軍団同士がぶつかり合うというようなシーンがなかったために大陸らしさが感じられないようなことはありませんでした。
適所で中国でのロケのシーンも入っていたので、上手にスケール感を補得ていたかと思います。
アクションシーンについては城内での戦いになるのでこじんまりするかと思いきや、個人対個人の戦いをアクロバチックに見えることで迫力は出ていたと思います。
魅せるアクションについては「GANTZ」「図書館戦争」などでも確かな手腕を見せてくれた佐藤監督なので見せどころをいくつも用意していました。
原作好きな人の評価は聞いていないのですが、邦画としてはかなり人が入っているということなので、ファンにも評判が良いということでしょうか。
続編を、という話も聞こえてきますが、期待はできますね。
本作で大沢たかおさんが演じていた王騎というキャラクターがクセがあって興味深かったので、もう少し彼と信が絡むと面白そうですね。
次回あるならばどうしても軍団同士の戦いは見せないわけになりそうなので、その時のスケール感をどうするかは課題かとは思います。
とはいえ佐藤監督ならしっかりまとめてくれることでしょう。
期待を込めて。

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2019年3月24日 (日)

「キャプテン・マーベル」 Fearless Girl

「Fearless Girl(恐れを知らない少女)」という少女像をご存知でしょうか。
これはニューヨークのウォール・ストリートにある有名な雄牛の像(チャージング・ブル)の前に2017年に設置された少女の像です(現在は移設)。
巨大な雄牛を恐れずに、腰に手をあて敢然と立ち向かうかのようなこの像は、国際女性デーの前日に設置されました。
実はこれは女性の取締役を増やそうというキャンペーンを行なっている証券会社の依頼により設置されたものなのですが、最も男性的な社会と言われるウォール・ストリートにある、これまた男性の象徴である雄牛に立ち向かう、小さな少女の姿は、ダイバーシティを求める人々の間で大いに話題になりました。
本作「キャプテン・マーベル」はマーベル・シネマティック・ユニバースにおいて初めての女性単独ヒーローが主人公となる作品です。
予告でも出ていましたが、本編の中で最も印象的なシーンはキャプテン・マーベルことキャロル・ダンヴァースが記憶を取り戻し、過去の自分が様々な困難にも負けず立ち上がるシーンでした。
子供の頃から男勝りで何にでも挑戦し、その度に「女には無理だ」と言われ、壁にぶつかりながらも、彼女は何度でも立ち上がりました。
その立ち上がるカットがいくつもオーバーラップするのですが、ここのシーンで私は前述の「Fealess Girl」のことを思い浮かべたのです。
本作の舞台となるのが90年代というのも意味があると思います。
MCU的にはアベンジャーズ以前ということでこの時代に設定されたとも言えるでしょうが、女性の社会進出という視点でも意味があるでしょう。
90年代はアメリカも日本も女性の社会進出という話は出ていましたが、実際には目に見えない壁、いわゆる「ガラスの天井」がありました。
建前的には男女同権ですが、現実では女性はまだまだ差別がされていた時代でした。
そのような環境でも負けずにキャロルは何度でも立ち上がってきました。
MCUにおいて最強と言われるキャプテン・マーベルは異星人によりパワーを授かったわけですが、それゆえに最強なわけではなく、もともと持っている不屈のパーソナリティが彼女を最強にしているのだと感じました。
現時点でMCUの世界はサノスの指パッチンのために最悪の状況となっています。
「インフィニティ・ウォー」のラストで自らが消えゆく中、フューリーはキャプテン・マーベルのポケベルを鳴らします。
最悪の状況を救えるのは彼女しかいないと彼は考えたのでしょう。
それはどのヒーローにも負けないパワーを持っているからではありません。
彼女がどんなに厳しい状況でも諦めない、負けない気持ちを持っているということをフューリーは知っていたからです。
最悪の状況をひっくり返せるのは不屈の心だけ。
そう、もはや男だから、女だからという状況ではないのです。
恐れを知らない彼女にフューリーは世界を託したのです。

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2019年3月23日 (土)

「グリーンブック」 自分は何者であるのか

自分は何者であるのか。
人間にとってこの問いは最も本質的な問題です。
この問いは自分のアイデンティティを問うもので、これに応えられるかどうかで精神的な安定性が得られるかどうかに関わります。
自分は日本人である。
自分は誰それの親である。
自分は◯◯社の社員である。
なんでもいい、自分は何かに属しているということが安心感を生みます。
本作で重要な役割を担うドク・シャーリーはこの問いに答えられませんでした。
自分は黒人なのか。
自分は白人なのか。
自分は何者であるのか。
この作品を観ていて最も印象的であったのは後半でドク・シャーリーが自分の思いを吐露するところです。
彼は言います。
自分は白人でもなく黒人でもない、と。
彼は才能があるピアニストでその実力は白人の成功者たちから評価されているものの、黒人であるがゆえに彼らのコミュニティに受け入れられることは決してありません。
だからと言って同じルーツを持つ黒人たちにも彼は受け入れられない。
南部ツアーのあるときにふと黒人たちが働いている畑に車を止めた時にシャーリーは何を感じたでしょうか。
自分を見つめる冷めた黒人たちの目。
その目は決して自分を受け入れくれている目ではありませんでした。
ドク・シャーリーはどちらのコミュニティからも拒絶されるという孤独を抱えています。
彼のやや高慢にも見える態度は、そういう拒絶に対抗するための彼なりの防御壁なのかもしれません。
彼らに拒絶されているのではない、そうではなく自分は孤高の人であると思いたかったのかもしれません。
その防御壁をトニーは持ち前の屈託のなさでやすやすと飛び越えてみせます。
もちろんトニーもあの時代を生きていた男なので偏見を持っていなかったわけではありません。
しかし、彼にはそういったステレオタイプ的な見方ではなく、人の本質を見る目がありました。
すぐに彼はシャーリーという男の本質を見、彼の才能に感銘を受けるのです。
彼らは長い旅路の中で、黒人である、白人であるという枠組みではなく、ドク・シャーリーとして、トニー・リップとして互いに認めあい、それによって自分の立ち位置を得ることができます。
ドク・シャーリーにとっては黒人・白人という立ち位置ではなく、トニーの友人であるというアイデンティティを得ることができたのだと思います。
自分が属し、自分が存在することを認めてくれる場、コミュニティを人は求めるものです。
ようやくシャーリーはそれを得ることができたのです。
本作品について「白人の救世主」の典型的なパターンと評する意見もありますが、個人的にはそうではないかなと思いました。
シャーリーとトニーの間にある関係性は黒人であるとか白人であるとかという人種による見方を越えてしまい、個として認め合っているように感じました。
人種問題を題材にしていつつも、時折挟まれるユーモアも心地よく無理なく見ることができる良作です。
監督が「メリーに首ったけ」を撮った人であることを後で知り、ちょっとびっくりでした。

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2019年1月15日 (火)

「蜘蛛の巣を払う女」 ダークなトーンを纏ったアクション映画

デヴィッド・フィンチャーの「ドラゴン・タトゥーの女」の続編になるのでしょうか?
キャストも監督は一新されているので別物と見た方がいいのかな(デヴィッド・フィンチャーは製作総指揮に名前が入っていましたが)。
原作的には「ドラゴン・タトゥーの女」と「蜘蛛の巣を払う女」の間に2作品ほど入っています。
デヴィッド・フィンチャーの「ドラゴン・タトゥーの女」は観る者に心理的プレッシャーをかける映画でした。
彼の作風はいずれもそうなのですが、登場人物たちのアンモラルな闇に飲み込まれていきそうな怖さがあるのですよね。
単純なホラー的な怖さというか、見てはいけないものを見てしまうような怖さがあります。
原作の「ミレニアム」シリーズもそのようなトーンで、またアンモラルな描写も多いので(割と北欧の小説も映画もこのようなダークなトーンが多い)、フィンチャーとは相性が良かったのかもしれません。
「ドラゴン・タトゥーの女」を見たときは、久しぶりに彼らしい作品になったなと思いましたが、一方彼の映画は観ていて疲れます。
おそらくずっと心理的プレッシャーを受け続けているからだと思います。
さて本作「蜘蛛の巣を払う女」ですが、絵面のトーンはフィンチャー版と同様に北欧らしい薄暗い陰鬱な調子になっています。
しかしながら、フィンチャーのようなプレッシャーは薄いですね。
冒頭リスベットの過去に触れるあたりはそういうところはありましたが、後半はどちらかと言えばスパイ映画のような印象を持ちました。
前作よりは万人受けする方向に調整しているような感じがします。
ですので、フィンチャーの前作のような陰々滅々とした雰囲気を期待していくと肩透かしになるでしょう。
原作の方は2作目の「火と戯れる女」まで読みましたが、本作にもチラリと登場するリスベットの父親が出てくるのですが、なんというか鬼畜というか人間離れしているのですよね。
本作の中でもリスベットは父親をサイコパスと呼んでいましたが、まさにそのような感じ。
これをまんま映画にするとかなりエグいものにはなりそうなので、少し観やすい感じに整えたのでしょうか。
スウェーデン版の方は未見なのですが、この辺のダークな部分はもっと表現しているのか気になりますので、今度観てみようかな。
デヴィッド・フィンチャーの前作を気にしなければ、ダークなトーンをまとったアクション映画として楽しめると思います。
しかし、フィンチャーらしさを期待していくと、少し当てが外れた印象になるかもしれません。
観にいく時のスタンスで印象が変わる映画のように思いました。

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2019年1月12日 (土)

「クリード 炎の宿命」 昔からのファンにはたまらない胸アツな展開

前作「クリード チャンプを継ぐ男」の記事の時、どちらかというとスピンオフ的かと書いたのですが、本作を観て考え直しました。
「クリード」2作は「ロッキー」から始まるボクシングに関わった男たちの大河ドラマの正当な続編と言えるようになったと思います。
本作は30年前の「ロッキー4 炎の友情」を受けるストーリーとなっています。
「ロッキー4」では、ロッキーのライバルであり親友でもあるアポロ・クリード(本作の主人公であるアドニスの父親)が、ソ連のボクサーであるイワン・ドラゴと戦い、その試合で亡くなってしまうという展開があります。
本作ではそのドラゴの息子とチャンピオンとなったアドニスのタイトルマッチが組まれます。
そしてロッキーとイワン・ドラゴはそれぞれセコンドとして試合を見守ります。
まさに因縁の対決です。

上記でボクシングに関わった大河ドラマの正当な続編と書きました。
前作の「クリード チャンプを継ぐ男」の時は、「ロッキー」というシリーズは、ロッキーという男の年代記のようなものであると思っていたので、「クリード」をスピンオフのように感じました。
本作の物語の展開は基本的には初期の「ロッキー」シリーズの展開を踏襲しています。
すなわち一度大きな敵と対決し、敗北によって挫折し、そこからまた復活するという展開です。
ワンパターンといえばそれまでですが、この展開によって最後に大きなカタルシスを感じることができる黄金パターンとも言えます。
古くからの「ロッキー」のファンは、やはりこのカタルシスが味わいたいのだと思います(私も含めて)。
本作を観ながら、昔「ロッキー」を観た時の手の汗を握るような興奮を思い出しました。
そういう意味で「クリード」シリーズは「ロッキー」シリーズを引き継ぐ後継作と言えることができるかと思います。
また、「クリード」に登場するロッキーとアドニスは擬似的な親子だと言えます。
アドニスは幼い頃に父アポロを無くしましたが、ロッキーは師匠でもあり父親のような存在となっています。
またロッキーは実の息子とは疎遠になり、親友の息子であるアドニスを実の息子のように感じているのでしょう。
本作の中でロッキーからアドニスへいくつものアドバイスがあります。
いずれも深い意味のある言葉なのですが、それはロッキー自身が上手に自分の息子と向き合えなかったという後悔があるからこそなのだと思います。
またアドニスが一度敗北した時に、自分の中にある「父の声」が聞こえなくなったということを言います。
それは彼の中に存在しているアポロという意味でもあるかもしれないですが、離れてしまったロッキーの彼を導くアドバイスが聞けなくなったともとれます。
つまりアドニスにとってロッキーも父親同様の存在なのですよね。
本作ではさまざまな親子の関係が描かれます。
ロッキー戦で敗北しすべてを失ってしまったイアン・ドラゴと、彼が自分の能力とそして無念を注ぎ込んでファイターとして育て上げた息子ヴィクターの関係。
また彼ら二人を捨てていった母親の冷たい目線。
そして主人公アドニスにも娘が生まれます。
このような親子関係が描かれることにより、「ロッキー」シリーズで描かれ続けてきた不屈の精神がロッキー個人だけのものではなく、その後継者に受け継がれていくことになっていくという物語が語られ続けるという可能性を感じました。
そういう意味で大河ドラマの正当な続篇と書いたのです。
次回作があるかどうかはわからないですが、期待したいところです。

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