2023年5月31日 (水)

「クリード 過去の逆襲」相手役の存在感

元々「ロッキー」シリーズのスピンオフとして始まりましたが、最新作「クリード 過去の逆襲」にはロッキー・バルボアは登場しません。
主人公のクリードも本作で一度引退し、後進を育てる立場となっており、もうロッキーシリーズというよりは、クリードシリーズと言ってもいいかもしれません。
アドニス・クリードはロッキーとは異なり、引退してもスマートで私生活は順風満帆のようです。
アドニスを演じるマイケル・B・ジョーダン自身がスタイリッシュな人物なので、これはしっくりします。
しかし、彼の前に幼馴染デイミアンが現れ、様子が変わります。
デイミアンはアドニスが天塩にかけて育てたチャンプに挑戦し、ダーティ・ファイトの末、彼を倒します。
このデイミアンを演じるのが、ジョナサン・メイヤーズ。
「アントマン」の最新作でヴィラン、カーンを演じました。
ジョナサン・メイヤーズはその厳しい風貌から独特の圧を持った俳優で、カーンを演じた時も存在感がありましたが、本作でもそれは変わりません。
スマートなクリードに対し、デイミアンはハングリーであり、かつ狡猾です。
デイミアンが刑務所に入っていた十数年に対してアドニスは負い目を感じており、そのこと自体をデイミアンもわかっていて、その気持ちを利用します。
狡猾さという点は、ロッキーシリーズ、クリードシリーズ通じてもあまりない相手役の特徴で、その点においてジョナサン・メイヤーズ演じるデイミアンは強い印象を残したように思います。
本作を監督したのは、主演でもあるマイケル・B・ジョーダンです。
ライアン・クーグラーによる一作目では長回しなども使った迫力のあるファイトシーンが見応えありました。
本作のファイトシーンは、試合中に二人だけが抽象空間にいるような演出もあり、不思議な感じもしましたが、これはマイケル・B・ジョーダンが日本のアニメにインスパイアされたところだとか。
個人的にはリアルなファイト感の方が好きではあるのですが、新鮮にも見えました。

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2023年5月 7日 (日)

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3」見事な大団円

ジェームズ・ガン監督による「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズ、本作にて3部作の完結となります。
まさに大団円と言っていいでしょう。
1作目公開当時はマーベルのヒーローの中でも無名と言っていいこのチームですが、それから9年経ち誰もが知るヒーローとなりました。
これまではこのチームの中でも主人公であるスター・ロードことピーター・クイルの物語が中心でしたが、本作で中心となるのはロケットです。
本作では彼の悲しい過去のエピソードが紐解かれ、彼の運命に大きく関わっていたマッド・サイエンティスト、ハイ・エボリューショナリーがヴィランとなります。
今までのMCUのヴィランの中には、気持ちに共感できる者もいましたが、ハイ・エボリューショナリーについては全く共感できる点がありません。
彼が目指すのは”完璧な種族”。
それを生み出すために、彼は実験を繰り返し、多くの生物を犠牲にします。
その一人がロケットだったわけです。
彼は今の生物は不完全であり、それに手を加えることにより”完全な種族”を生み出せると信じて疑いません。
ハイ・エボリューショナリーは自分に歯向かうロケットに対しその理由を問います。
それに対し、ロケットは「ありのままを否定した」からだと答えます。
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々は、いわばはぐれ者です。
彼らは皆、何かを失い、世の中から爪弾きにされた者なのです。
彼らはガーディアンズを家族のように感じています。
彼らだけが、自分のありのままを受け入れてくれているからなのでしょう。
ドラックスは”破壊者(デストロイヤー)”と呼ばれた鼻つまみ者でした。
ネヴュラは世界を一度滅ぼしたサノスの手先となり殺戮を繰り返してきました。
マンティスもエゴの命令のまま従い、生きてきました。
他のメンバーも皆、多かれ少なかれはぐれ者です。
ガーディアンズだけが、自分をありのままに受け入れてくれた場所であり、家族であったのです。
完結編となる本作で、ガーティアンズたちは家族の一員であるロケットのため、命懸けで戦います。
本作が大団円であったというのは、メンバーの皆が一度は失ったものを手に入れることができ、幸せになることができそうであったからです。
ドラックスは多くの孤児たちの父親として生きていくこととなり、かつて愛娘を失ったことによる心の傷が癒やされていくのでしょう。
クラグリンは、尊敬するヨンドゥから引き継いだ矢を操るようになり、正真正銘の後継者となることができました。
ロケットもかつて友たちを救えなかった無念を乗り越え、はみ出し者たちの拠点ノーウェアのリーダーとなりました。
そしてピーターは地球に戻り、唯一の家族である祖父と暮らすことに決めたのです。
監督のジェームズ・ガンはこのシリーズでも、そしてDCの「ザ・スーサイド・スクワッド」でもはみ出し者たちを好んで描きます。
ありのままを受け入れてくれる場所、家族を描きます。
ガンはDCに移籍しましたが、次回作は「スーパーマン」の若かりし頃を描くということ。
ガンらしい「スーパーマン」を期待したいところです。
またガーディアンズのメンバーの多くは離脱してしまいましたが、ロケット率いる新生ガーディアンズにはアダム・ウォーロックや、フィラが加わっているので、こちらも何かしら物語が続くのを期待したいところですね。

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2023年3月21日 (火)

「シン・仮面ライダー」その男は泣きながら敵を殴る

「仮面ライダー真」ではなく、「シン・仮面ライダー」です(これがわかる人はかなり古くからのライダーファン)。
庵野秀明氏による「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」に次ぐ、「シン解釈」の「仮面ライダー」となります。
私は「ウルトラマン」は本放送ではなく再放送が初見で、「仮面ライダー」はV3くらいからリアル視聴をした世代です。
子供の頃から両方とも好きでしたが、今現在は「ウルトラマン」は追いかけられておらず、「仮面ライダー」のみで、思い入れが強いのは、「仮面ライダー」でしょうか。
そういうこともあるからか、「シン・ウルトラマン」と「シン・仮面ライダー」のどちらが良かったかと問われれば、「シン・仮面ライダー」と答えるでしょう。
「シン・ウルトラマン」はウルトラマンの人格を描くという点で、まさに新解釈をしていたと思います。
「シン・仮面ライダー」は新しい解釈というよりは、オリジナルや石ノ森章太郎の漫画のエッセンスを割とストレートに現代風にリファインしたような印象です。
主人公本郷猛はショッカーに改造され、人間を超えた力を手に入れます。
「仮面ライダー」シリーズにおいて共通的に描かれているエッセンスとしては、主人公の超越した力は敵側のテクノロジーによって生み出されたものである、ということがあります。
これは「ウルトラマン」や「ゴジラ」にはないものです。
このことにより仮面ライダーは戦うことにより「同族殺し」という宿命を背負うことになります。
本作の仮面ライダーのマスクもそのようにデザインされていますが、印象的な大きな複眼の下にクマのように見える黒い部分があります。
これは通称「涙ライン」と呼ばれていて、元々はスーツアクターの覗き穴として設けられていましたが、デザイン上「仮面ライダーは同族殺しを宿命として背負いながら、泣きながら戦っている」と解釈されていると聞いたことがあります。
本作の本郷猛も己が得てしまった簡単に人の命を奪ってしまう力に戸惑い、困惑しながら戦います。
彼も泣きながら戦っているようにも見えます。
仮面ライダーは等身大のヒーローで、人外の力を持っていますが、ウルトラマンほどに超越はしていません。
またウルトラマンは人間とスケール感が違いすぎて、彼の行動が人間に与える影響は小さすぎて見えません(これをリアルに描いたのが「平成ガメラ」)。
等身大であるからこそ、相手に与えるダメージもリアリティがあり(本作はPG12指定のダメージ表現)、だからこそ痛みも伝わってきます。
彼が戦えば必ず敵の命(本作のショッカーの戦闘員はショッカーに共鳴する人間)を奪う。
彼はそれを知った上で、泣きながら拳を振るう。
「仮面ライダー」は哀しみを背負った存在であり、その部分を庵野監督は丁寧に描き出しているように思えました。
冒頭に書いたように本作は庵野監督が、自分らしさよりもオリジナルらしさを重要視して作り上げたもののように思えますが、彼らしさがないわけではありません。
本郷のセリフで「世の中を変えるのではなく、自分を変える」というものがありました。
本作におけるショッカー怪人たちは、通常の社会とは異なる価値観を持っています。
自分の価値観に合わせて社会を破壊し、変えていこうとしているのが、彼らなのですが、本郷は異なる見解を持っています。
彼も人間としては高い能力を持っていますが、社会には馴染めず、父親の事件のこともあり、うまく生きられなかったようです。
その点では、他のショッカー怪人と同様と言えます。
しかし、彼は社会の価値観を大切にし、自分を変え、そしてその守護者になったわけです。
古い「エヴァンゲリオン」では碇シンジは社会や親に受け入れられないという苦しみを背負っていました。
しかし、それは彼が社会や親を受け入れないということも裏返しでもありました。
彼はそれに気づかず、苦悩します。
しかし、「シン・エヴァンゲリヲン」では彼は全てを受け入れることができたように見えました。
まさに本作の本郷猛は受け入れ切った上で、彼が社会のためにできることを為すという、大人になったシンジのようにも見えます。
庵野監督の作品は、彼自身の社会との対面の仕方という価値観が反映しているように思っていますが、本作では社会との関係性が非常に大人になっているように思えました。
「仮面ライダー」シリーズとしての位置付けに加え、庵野監督作品群の一つとしての見方も興味深い作品かもしれません。

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2023年2月26日 (日)

「『鬼滅の刃』上弦集結、そして刀鍛冶の里へ」炭治郎の強さ

こちらの作品は厳密には映画として制作されたものではなく、「遊郭編」のラスト2話、そして「刀鍛冶の里編」の第1話をそのまま繋げたものとなります。
4月から「刀鍛冶の里編」のテレビ放映がされますので、そのティザー的な役割で公開されたと考えられますが、それでも劇場で見ると感じ方が違います。
やはり大画面と音響の違いは大きいです。
まず遊郭編の第十話ですが、これはほぼ全編、炭治郎ら鬼殺隊と妓夫太郎・堕姫の最終決戦を描きます。
私は元々は配信版をパソコンの画面で見ていて、それでもあまりの超絶作画に驚いたものですが、これを大画面で見るとさらに驚きます。
目で追いきれないほどのスピード感、迫力のあるアングル、緩急を織り交ぜたリズム、どれをとっても超一級品の仕上がりです。
「鬼滅の刃」の場合、手書きとCGを巧みに使い分けているようですが、それらの手法を知り尽くしているからこそ、使いこなせてこのような表現ができているのだと思いました。
これはテレビの画面だけでは収まらない仕上がりです。
そして第十一話です。
こちらは激しい十話から一転して、妓夫太郎・堕姫の悲しい過去のエピソードです。
「鬼滅の刃」は鬼にまつわるエピソードも心を打つものが多いですが、彼らの過去も哀しい。
社会の片隅でひっそりと生き、それでも迫害されて、人を憎み、結果鬼となった二人。
そして何より、彼らを思いばかる炭治郎に涙します。
炭治郎という男は剣が誰よりも強いわけではない。
けれどもその気持ちは決して揺らぐことがない。
それが彼の強さです。
第十話でも仲間が皆倒れ、自身の指の骨も折られたにも関わらず、決して鬼の首を獲ることを諦めなかった。
そして彼は人か、鬼かに関係なく、優しい。
最後に互いに罵り合う妓夫太郎・堕姫の口を塞ぎ、二人が安らかに逝けるようにしてあげました。
どんな状況であろうと、誰であろうと、優しいということに炭治郎は決してぶれません。
それは彼の強さです。
炭治郎の強さが味わえるのも「遊郭編」のラスト2話だと思います。
そうそう、善逸も伊之助のかっこよさを味わえるのもこの2話ですね。
特に善逸はかっこいい。
「刀鍛冶の里」編については、まだ導入編なのでなんとも言えませんが、柱が二人登場するので、どのように話が展開するか楽しみです(原作読んでいないもので)。

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2023年1月 4日 (水)

「かがみの孤城」戦士の休息所

原作は辻村深月さんの同名小説で、本屋大賞も受賞しています。
本作はわたくし的にはノーマークで見る気がなかったのですが、6歳の娘が観たいと言ってきたので、一緒に行くことになりました。
ノーマークであったのは、予告を見たときの印象で、ライトノベルによくあるような子供たちが異世界を訪れて冒険をする、といった内容なのかと思っていたからです。
その手のファンタジーには食傷気味でして、あまり食指が動きませんでした。
観ることになったので、いつものようにスタッフチェックをしてみると監督はなんと原恵一さん。
今までも深みのある作品を作ってきた原さんなので、ちょっと期待感も持ちました。
それで蓋を開けてみると驚きました。
予想をしていた展開とは全く異なる、奥深いストーリーでした。
子供たちが現実ではない、異世界に行くという点だけは同じでしたが。
そこは冒険するところではなく、心を休める場所でした。
なぜなら彼らにとって現実こそが戦っている場所で、彼らはその戦いの中で疲弊し、崩れ落ちそうになっていたからです。
彼らはいわゆる不登校生徒でした。
彼らは孤独でした。
学校にも、そして家庭にも居場所がありません。
自分の本当の気持ちを誰にも伝えられず、そんな状態になってしまう自分が不甲斐なく、情けなく思っているのに、誰とも共有できません。
彼らにとって城は同じようなことを感じている仲間が集まる安らぎの場所だったのです。
現実世界にもフリースクールといった場所もありますが、彼らにとっては城がそのような役割を持っていたのかもしれません。
自分のことを話し、仲間に理解してもらい、仲間の思いも理解し・・・。
そのようなことで彼ら同士の絆を作っていきます。
そして、その絆は崩れ落ちそうになった心に再び力を与えてくれます。
そこは彼らにとって戦士の休息所であったのです。
<ここからネタバレ>
この作品の凄さが何かと言ったら、その構成力でしょうか。
原作を読んでいないのでなんとも言えないですが、なぜ彼らであったのかということが徐々に明かされていくのですが、こちらの読みをどんどん裏切っていきます。
途中で彼らが同じ中学校に通っているということが判明しますが、なぜか現実世界では出会うことができませんでした。
私も観ていて、劇中のマサムネくんのようなパラレルワールド説をとったのですが、あっさりとそれは否定されてしまいました。
しかし、登場人物の一人アキが制服姿で現れたとき、彼女の格好にオヤっと思ったのです。
彼女は今時珍しいルーズソックス姿でした。
もしや、違う「時代」に暮らしているのでは・・・?
ルーズソックスであることは、当然意識してそういうヒントとして提示されているのですよね。
アキの顔のアップの後に、喜多島先生の顔につながるというカットもありました。
これは同一人物であるということのヒントでしょう。
喜多島先生が、フリースクールで何人かを知っているというのもミスディレクションをさせるようでもあり、ヒントでもあるという素晴らしい仕掛けです。
非常に巧みな構成で痺れました。
原作はどう書いてあるのか、興味が出て、劇場の帰りに思わず原作本を買ってしまいました。
よくよく原作者を見れば、昨年これまた拾いものをした「ハケンアニメ!」と同じ作者の辻村深月さん。
この方の小説は自分の趣味に合うはず!と確信を持ちました。

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2022年12月27日 (火)

「仮面ライダーギーツ×リバイス MOVIEバトルロワイヤル」インフレしてきているクロスオーバー

恒例の冬のライダー劇場版です。
オンエア中の最新ライダーと前作のライダーのクロスオーバーになっているのは、「仮面ライダーディケイド」と「仮面ライダーW」からの伝統となります(一部例外もありますが)。
「リバイス」は先が予想つかない展開で最後まで楽しましてもらいましたし、「ギーツ」も今までにないストーリーでこちらも毎回見逃せません。
これもそれぞれのライダーの世界観がしっかりと確立しているからであるからこそだと思います。
そのため、冬の劇場版のクロスオーバーは全く違う世界観の作品を接着しなくてはいけないため、かなり無理がかかります。
なので、イベントムービーとしては話題化できても、作品としてはなかなか厳しい評価となってしまいます。
個人的にはうまくいっているのは「仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010」くらいだと思います。
これは「ディケイド」の世界を渡り歩くライダーという世界観がうまく機能しているためですし、また「W」の方は前日譚として非常によくできた話になっていたためだと思います。
そして最近のクロスオーバーは2つの世界観を接着することに加え、別の要素もプラスされています。
昨年であればライダー50周年の要素ですし、今回であれば「仮面ライダー龍騎」の要素です。
要素が増えれば増えるほど説明も必要になりますし、それぞれを描き方も薄くならざるを得ません。
「龍騎」ついては今までも何度か出てきていますが、毎度同じような登場の仕方になっていて新鮮味もありません。
もう少し掘り下げてくれれば、往年のファンも満足できるような気もしますが、結局はただの話題化の要素になってしまっているような気がします。
コロナのために計画が狂い、冬に公開となった「ゼロワン」の単独作品は非常にレベルが高かったように思います。
冬の劇場版はクロスオーバーでなければならぬということも見直ししてもいい頃かもしれません。
本作でも前半の「リバイス」パートは後日談として魅力的な展開であったと思うので、もう少し掘り下げても良かったように思います。
色々興行的に大人の事情もあるかと思いますが、徐々に物語がインフレーションしているので、考えてもらいたいところです。

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2022年8月15日 (月)

「ゴーストブック おばけずかん」でも大丈夫

6歳になった娘と一緒にこちらは見てきました。
一緒にアニメ映画は行ったことがありましたが、実写の映画は初めて。
2時間近くの尺なので大丈夫かな?と思いましたが、娘から行きたいと言い出したので、思い切って言っていました。
Youtubeなどで予告を見ていたらしく(今時の子どもらしい)、「『ずかんぼ』というお化けが出るんだよ」と言っていました(正確には図鑑坊でしたが)。
しっかりと映画好きに育ってくれています。
ストーリーとしてもちゃんと理解していたらしく、泣くべきところで泣いてました(ヒロインの湊が、主人公たちに別れを言うところ)。
ちゃんと感受性高く育ってくれてると感動しました。
さて、映画本編についてです。
本作は山崎貴監督ですが、今までもジュブナイルものを数多く手がけているので、子供でも見やすく、かつ大人の鑑賞にも耐えうる作品にしっかりと仕上がっていると思います。
子どもたちは願い事を叶えるためにお化けの試練に立ち向かいます。
試練は子どもたちにとってかなりの難易度ですが、彼らは前向きにその試練に挑みます。
この前向きさがいいと思いました。
現実の世界は色々難しいことも多いですし、自分の思う通りになるとは限りません。
けれども諦めずにやっていれば、事態はどうにかなったりするもの。
「おばけずかん」の中の文章に「でも大丈夫」という言葉が
必ず入っているのですが、これはこのような楽天的なものの見方をうまく表現できていると思いました。
必死に頑張るのは大変だけど、きっと良くなる、と信じる楽天性は人生生きていくには必要だと思います。
主人公たち3人はそんな楽天性を持っていると思いました。
唯一の大人として冒険に参加することとなってしまった先生役の新垣結衣さんも良かったです。
彼女は人生ちょっと諦めモードになっていたように思います。
就職もうまくいかず、流されるように代役の先生を勤めます。
けれど子どもたちと過ごす時間を通じ、彼女は本来やりたかったことを思い出しました。
彼女もこんな状況だけど「でも大丈夫」と思えるようになったのです。
大人の方がかえって諦めがちかもしれません。
「どうせ」とか「でも」とか否定的な言葉が頭の中に浮かびがちです。
そんな時こそ「でも大丈夫」という言葉が大切なのかもしれないですね。
そんなことを娘なりに感じてくれたようなので良かったです。

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2022年8月11日 (木)

「劇場版 仮面ライダーリバイス バトルファミリア」尺が短く印象薄い

通常、夏の「仮面ライダー」の劇場版は単独作品で1時間半弱くらいの尺で公開されることが多いですが、本作はほぼ1時間と例年よりもかなり短くなっています。
そのせいか、内容的にはやや薄く、掘り下げが甘い印象です。
テレビシリーズがかなり凝ったストーリー展開なのに対して、物足りない印象が残りました。
「仮面ライダー」シリーズの単独作品は、テレビシリーズと同じ時系列に設定されるタイプと、パラレルワールド的な世界のタイプと分けられますが、本作は前者。
ちょうど放映されているテレビシリーズとほぼ同じころの出来事のようです。
テレビシリーズ第47話ではジョージ狩崎が五十嵐家を襲ったところですが、彼の悪魔が劇場版でのヒールとなっており、狩崎を中心にテレビと劇場版が密接にリンクしています。
この手法は両方を盛り上げるには有効かもしれませんが、劇場版単体として見ると、ちょっと分かりにくく、それが内容の薄さにつながっているような気がします。
「仮面ライダー電王」の劇場版も同じような印象でした。
私にとって歴代平成ライダーの劇場版の最高傑作は「仮面ライダーW」で、これもテレビシリーズと同じ時系列の作品ではありましたが、単独作品としても見応えのある作品として仕上がっていたように思います。
最近では「仮面ライダーゼロワン」の劇場版も良かったですが、それらと比べるとストーリーの密度がやはり低い。
監督は「仮面ライダーW」や「仮面ライダーフォーゼ」の坂本浩一さんなので、多人数ライダーのアクションは見せ所がたくさんあります。
それぞれのライダーのかっこいいところを見せる手腕はさすがだと思いますね。
とはいえ、ストーリーが物足りない。
同時上映の「ドンブラザーズ」が短尺ながらキレキレだったのに比べて、残念な印象は残ります。

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2022年7月29日 (金)

「キングダム2 遥かなる大地へ」最初から最後までクライマックス

嬴政が王座に返り咲いたところで1作目は終わりました。
前作でもアクションは見せ場もたくさんあり、見応えがありましたが、本作はスケールが違います。
2作目で舞台となるのは主に戦場。
というより最初から最後までほぼ戦場です。
嬴政が復帰したとはいえ、まだ不安定さがある秦国へ隣国魏が攻め込み、蛇甘平原で激突しました。
信は一兵卒として参加し、初陣を飾ります。
歩兵対歩兵、または歩兵対戦車隊といった大規模な戦いは前作にはない迫力です。
さすが中国でロケをしただけのことはあると思いましたが、本作の制作はコロナ禍にかかっていたとのこと。
大規模な軍勢同士のぶつかりはリモートで中国で撮影し、役者がアクションする寄りのカットは日本で、とカットごとにどこで撮るかを細かく設計していったそうです。
これはなかなか大変なことだと思いますが、違和感なくつながっていたと思います。
信を演じる山崎賢人さんは相変わらずのフィジカルの強さで、見事な立ち回りを見せてくれましたが、今回は羌瘣を演じる清野菜名さんの美しい動きに魅せられました。
彼女のことはほとんど知らなかったのですが、こんなにアクションができる女優さんがいたんですね。
かなりの逸材だと思いました。
まさに舞踏のような流れる動きの中でのアクションは、豪快な信のスタイルとは対象的でした。
信は大将軍になるという夢を追いかけています。
しかし、大将軍になるにはただ戦いが強いということだけでは難しい。
信は初めての戦いの中で、さまざまな男たちに出会うことにより、それを学んでいきます。
縛虎申は最初はただの非情な部隊長のように見えますが、戦士として決して折れない心を持っており、いかに高い壁であろうとそれを突破しようとする強さを持っています。
あくまでも目的にこだわり抜くという揺るぎなさは上に立つ者に求められます。
最後に一騎打ちで勝負をつける麃公と呉慶ですが、方や戦の匂いを感じ直感で行動する将軍であり、もう一人は膨大な知識をベースに緻密に組み上げられた作戦を実行していくタイプです。
スタイルは違いますが、彼らは局地での戦いではなく、大局を見て行動しています。
信は目の前の戦いばかりを見てしまうきらいがありますが、彼らの戦いを見ることにより、より高い視座を得ることができました。
次回は一転して秦国内部での戦いになる模様。
国と国がぶつかり合う戦闘ではなく、暗殺戦になるのでしょうか。
陽の戦いから陰の戦いへ。
さらに信は進化していくのでしょう。

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2022年6月15日 (水)

「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」アムロの兵士としての成長

ファーストガンダムの中でも異色のエピソードである第15話
「ククルス・ドアンの島」。
「作画崩壊」とネタにされることも多い回ですが、戦争を描いたエピソードとして印象が強いです。
ファーストガンダムは前半はアムロの少年から戦士への成長を、後半はさらにニュータイプへの覚醒を描いているのがストーリーの本筋ですが、その大きな流れの中で挟み込まれている1話完結の回で、戦争を間近な視点で描いている特異なエピソードがいくつかあります。
第13話「再会、母よ…」では戦争の渦中に突然放り込まれ戦士として成長せざるを得なかったアムロに対し、その外側に立ち彼を非難する母親カマリアを描くことにより、当事者と傍観者の超えにくい断絶を浮き彫りにして、戦争を表現します。
また第28話「太平洋、血に染めて」での戦下で戦争と折り合いをつけながら懸命に生きるミハルの悲劇は、一般市民視点での戦争の平等性(誰にも差別なく悲劇が起こりうる)の容赦なさを感じさせます。
この2話はアニメの中の戦争がフィクションとして描かれていることが多い中、リアルな手触りを持って描写されていて強い印象を残しました。
ちょうどウクライナでの戦争が展開されている中で、我々はニュースなどの報道を通じてそれを見ていますが、どうしても傍観者の視点になってしまいます。
第33話「コンスコン強襲」で、ジオンとホワイトベースの戦いを中継で見ている市民たちが描かれていますが、それと同じ視座です。
この話では同じようにガンダムの戦闘をテレビで見て狂喜するアムロの父、テム・レイも登場しますが、戦争を傍観者としている点でカマリアと同じです。
第13話、第28話はそのような傍観者としての視座ではなく、戦争が引き起こす出来事を市民の視点を入れて描くことにより、見ている者にリアルな手触りの戦争を感じさせます。
この映画の元となった第15話「ククルス・ドアンの島」もそのようなエピソードであったと思います。
タイトルに名前が出ているドアンはジオン軍の脱走兵であり、戦争孤児となった子供たちを隠れながら守り育てています。
彼はジオン軍の中でも実力がある戦士であり、使い古されたザクを駆り、子供たちを守るため訪れる連邦やジオンのモビルスーツを屠ってきました。
この辺りはテレビのエピソードと同様なのですが、映画は異なる点もいくつかあります。
映画は監督である安彦良和氏のオリジン版をベースにしているということで時間軸が異なります。
テレビ版ではドアンの島をアムロが訪れるのは地球降下後割とすぐですが、オリジン版ではジャブロー戦以降となっているとのこと。
これで何が違うかというと、おそらくアムロが兵士としてどの程度成長しているかということだと思います。
テレビ版ではまだ兵士としての自覚はあまりない状態(ブライトに張り倒される前ですので)ですが、おそらく映画ではジャブロー戦を経て、兵士として行動できるようになっているような気がします。
それが如実に出ていたのが、アムロがガンダムで生身のジオン兵を踏み潰してしまうシーンです。
これはかなりショッキングなシーンではありましたが、兵士としてのアムロとしては、あそこでジオン兵に発見され部隊に連絡されれば、子供たちが危機にさらされるため、手段を問わず、止めなくてはいけなかったのだと思われます。
兵士としてのアムロからすれば、子供たちの世話をするドアンの行動は奇妙にも感じられますが、まだ一般市民の頃の気持ちも持ち合わせている彼は、共感できるところもあったのだと思います。
心情的には兵士と市民の端境にいるのかもしれません。
テレビでも映画でもアムロはドアンに「あなたがまとっている戦争の匂いのせいだ」と言いますが、テレビの場合はまだ戦士にもなっていない少年の言葉としては少々背伸びしすぎているような印象もありました。
しかし映画では兵士として行動できるようになっているアムロですので、このセリフも言ってもおかしくないと感じました。
このアムロは巻き込まれて生きるために戦っているのではなく、兵士として自覚を持って戦争に向かい合っているからです。
そんな彼が、自覚が持って戦争を降りたドアンに対し、降りるのであればしっかり降りねばいけないというアドバイスを送ったのだと感じました。
本作で描かれる戦闘は小規模な局地戦であり、俯瞰した戦争というよりは人間の目線からの見上げる戦争のように感じます。
それは戦争の中にいる市民の目線である訳ですが、アムロはそこから意志を持って戦争というものに向き合っていこうとしているということを強く感じました。

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