2019年1月15日 (火)

「蜘蛛の巣を払う女」 ダークなトーンを纏ったアクション映画

デヴィッド・フィンチャーの「ドラゴン・タトゥーの女」の続編になるのでしょうか?
キャストも監督は一新されているので別物と見た方がいいのかな(デヴィッド・フィンチャーは製作総指揮に名前が入っていましたが)。
原作的には「ドラゴン・タトゥーの女」と「蜘蛛の巣を払う女」の間に2作品ほど入っています。
デヴィッド・フィンチャーの「ドラゴン・タトゥーの女」は観る者に心理的プレッシャーをかける映画でした。
彼の作風はいずれもそうなのですが、登場人物たちのアンモラルな闇に飲み込まれていきそうな怖さがあるのですよね。
単純なホラー的な怖さというか、見てはいけないものを見てしまうような怖さがあります。
原作の「ミレニアム」シリーズもそのようなトーンで、またアンモラルな描写も多いので(割と北欧の小説も映画もこのようなダークなトーンが多い)、フィンチャーとは相性が良かったのかもしれません。
「ドラゴン・タトゥーの女」を見たときは、久しぶりに彼らしい作品になったなと思いましたが、一方彼の映画は観ていて疲れます。
おそらくずっと心理的プレッシャーを受け続けているからだと思います。
さて本作「蜘蛛の巣を払う女」ですが、絵面のトーンはフィンチャー版と同様に北欧らしい薄暗い陰鬱な調子になっています。
しかしながら、フィンチャーのようなプレッシャーは薄いですね。
冒頭リスベットの過去に触れるあたりはそういうところはありましたが、後半はどちらかと言えばスパイ映画のような印象を持ちました。
前作よりは万人受けする方向に調整しているような感じがします。
ですので、フィンチャーの前作のような陰々滅々とした雰囲気を期待していくと肩透かしになるでしょう。
原作の方は2作目の「火と戯れる女」まで読みましたが、本作にもチラリと登場するリスベットの父親が出てくるのですが、なんというか鬼畜というか人間離れしているのですよね。
本作の中でもリスベットは父親をサイコパスと呼んでいましたが、まさにそのような感じ。
これをまんま映画にするとかなりエグいものにはなりそうなので、少し観やすい感じに整えたのでしょうか。
スウェーデン版の方は未見なのですが、この辺のダークな部分はもっと表現しているのか気になりますので、今度観てみようかな。
デヴィッド・フィンチャーの前作を気にしなければ、ダークなトーンをまとったアクション映画として楽しめると思います。
しかし、フィンチャーらしさを期待していくと、少し当てが外れた印象になるかもしれません。
観にいく時のスタンスで印象が変わる映画のように思いました。

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2019年1月12日 (土)

「クリード 炎の宿命」 昔からのファンにはたまらない胸アツな展開

前作「クリード チャンプを継ぐ男」の記事の時、どちらかというとスピンオフ的かと書いたのですが、本作を観て考え直しました。
「クリード」2作は「ロッキー」から始まるボクシングに関わった男たちの大河ドラマの正当な続編と言えるようになったと思います。
本作は30年前の「ロッキー4 炎の友情」を受けるストーリーとなっています。
「ロッキー4」では、ロッキーのライバルであり親友でもあるアポロ・クリード(本作の主人公であるアドニスの父親)が、ソ連のボクサーであるイワン・ドラゴと戦い、その試合で亡くなってしまうという展開があります。
本作ではそのドラゴの息子とチャンピオンとなったアドニスのタイトルマッチが組まれます。
そしてロッキーとイワン・ドラゴはそれぞれセコンドとして試合を見守ります。
まさに因縁の対決です。

上記でボクシングに関わった大河ドラマの正当な続編と書きました。
前作の「クリード チャンプを継ぐ男」の時は、「ロッキー」というシリーズは、ロッキーという男の年代記のようなものであると思っていたので、「クリード」をスピンオフのように感じました。
本作の物語の展開は基本的には初期の「ロッキー」シリーズの展開を踏襲しています。
すなわち一度大きな敵と対決し、敗北によって挫折し、そこからまた復活するという展開です。
ワンパターンといえばそれまでですが、この展開によって最後に大きなカタルシスを感じることができる黄金パターンとも言えます。
古くからの「ロッキー」のファンは、やはりこのカタルシスが味わいたいのだと思います(私も含めて)。
本作を観ながら、昔「ロッキー」を観た時の手の汗を握るような興奮を思い出しました。
そういう意味で「クリード」シリーズは「ロッキー」シリーズを引き継ぐ後継作と言えることができるかと思います。
また、「クリード」に登場するロッキーとアドニスは擬似的な親子だと言えます。
アドニスは幼い頃に父アポロを無くしましたが、ロッキーは師匠でもあり父親のような存在となっています。
またロッキーは実の息子とは疎遠になり、親友の息子であるアドニスを実の息子のように感じているのでしょう。
本作の中でロッキーからアドニスへいくつものアドバイスがあります。
いずれも深い意味のある言葉なのですが、それはロッキー自身が上手に自分の息子と向き合えなかったという後悔があるからこそなのだと思います。
またアドニスが一度敗北した時に、自分の中にある「父の声」が聞こえなくなったということを言います。
それは彼の中に存在しているアポロという意味でもあるかもしれないですが、離れてしまったロッキーの彼を導くアドバイスが聞けなくなったともとれます。
つまりアドニスにとってロッキーも父親同様の存在なのですよね。
本作ではさまざまな親子の関係が描かれます。
ロッキー戦で敗北しすべてを失ってしまったイアン・ドラゴと、彼が自分の能力とそして無念を注ぎ込んでファイターとして育て上げた息子ヴィクターの関係。
また彼ら二人を捨てていった母親の冷たい目線。
そして主人公アドニスにも娘が生まれます。
このような親子関係が描かれることにより、「ロッキー」シリーズで描かれ続けてきた不屈の精神がロッキー個人だけのものではなく、その後継者に受け継がれていくことになっていくという物語が語られ続けるという可能性を感じました。
そういう意味で大河ドラマの正当な続篇と書いたのです。
次回作があるかどうかはわからないですが、期待したいところです。

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2018年12月28日 (金)

「仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER」 ライダーの足跡

来年、平成が終わる。
現在も続いている「仮面ライダー」シリーズは、いつしか平成仮面ライダーと呼ばれるようになっていた。
それもすでに現在公TVで放映されている「仮面ライダージオウ」で20作目。
「ジオウ」は20作を総括する位置付けで、平成仮面ライダー全てが1年間を通して登場していく予定だ。
同じようにそれまでのシリーズを総括した作品としては10作品目であった「仮面ライダーディケイド」があったが、これは異なるライダーの世界観を文字通り別世界=パラレルワールドとして描いていた。
しかし「ジオウ」の設定では今までの仮面ライダーとジオウは同じ時間軸にあるというもの。
すなわち、ジオウの登場前の過去に19人もの仮面ライダーがいたということなのだ。
こうなると毎回異なる世界観のライダーがどのように同じ時間軸に存在しうるのかということになるのだが、それが歴史を改変しようとしているタイムジャッカーという存在。
これがテレビシリーズにおけるジオウの敵となっているわけだが、説明しようとするとかなりややこしいのでここでは割愛する。
正直、「ジオウ」は時間を行き来するので、「ディケイド」よりも数倍話がややこしいため、見ていてもかなり疲れる。
設定上アラがないかが気になってしまうのだ。
ただ最近どんどん話が複雑になっていくので、あまり考えずに見る方がいいのではないのかという気になっている。
こちらの劇場版はさらにややこしい。
なぜなら同じくタイムトラベルをテーマにしていた「仮面ライダー電王」が大きくストーリーに関わってくるからだ。
また予告でも語られていたように、仮面ライダーは虚構なのか、現実なのかというテーマが挙げられており、かなりメタ的要素も強まっている。
そのため、序盤はどのような状況になっているのかを理解するのが非常に苦労した(正直、一回見ただけだと理解できているか自信がない)。
何回か見て色々な仕掛けや設定を味わうのが通的な楽しみ方だとは思うが、後半までいくとそういうのはどうでもいい気分にもなった。
まずは「仮面ライダー電王」で主人公野上良太郎を演じていた佐藤健さんが登場したシーンで、思わず声が出た。
直前のリリースで佐藤さんが登場することを聞いていたわけだが、それでも画面に登場すると感慨深いものがある。
「仮面ライダージオウ」では過去のライダーの出演者が友情出演をするのが話題の一つだが、やはり有名になった俳優はスケジュールどりなどで出演が厳しいことも想像がつく。
「フォーゼ」編では福士蒼汰さんが出るかと思いきや、後ろ姿だけの別人であったということもあった。
佐藤健さんといえば、出演作が途切れることなく公開されており、忙しさという点では歴代の仮面ライダー出演者の中でも随一であろう。
その佐藤さんが出てくるだけで、画面がガラリと変わる。
またファンとしては単純に嬉しい。
その時、なるほどと得心がいった。
「ジオウ」はあまり考えすぎずに見るのが良いと。
設定やら何やらを考えすぎずに見た方が単純に楽しめる。
クライマックスで20人のライダーが勢ぞろいし、それぞれのスタイルで戦う。
ラスボス相手に歴代20人のライダーが、それぞれの必殺技であるキックを放つ。
20作品目の記念作品ということを示す「仮面ライダージオウ」のキャンペーンマークがあるのだが、それは歴代仮面ライダーの足型をモチーフとしている。
仮面ライダーと言えばやはり「キック」だし、それゆえ足型をモチーフにしたのだと思っていたのだが、それだけではないということに気づいた。
足型はまさに仮面ライダーの足跡なのだ。
平成仮面ライダーというシリーズが20作品に渡って紡いできた歴史の足跡という意味が込められているのではないのだろうか。
平成仮面ライダーは「クウガ」から「ディケイド」までを第1
期、「W」以降を第2期と呼ばれることが多い。
本作のプロデューサーでもある白倉プロデューサーは雑誌のインタビューで第1期は昭和ライダーへのカウンターであり、第2期は第1期へのカウンターであるという見解を述べていた。
冒頭に書いたように「ジオウ」は作品として第2期を総括する役割を持っている。
そして総括した先に新しい時代の仮面ライダーがあるのだろう。
また仮面ライダーの新しい足跡が刻まれていくことになるのを見守っていたい。

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2018年12月26日 (水)

「くるみ割り人形と秘密の王国」 主演のマッケンジー・フォイに注目

「くるみ割り人形」と言えばチャイコフスキーのバレエが有名ですが、こちらはその原作である「くるみ割り人形とねずみの王様」の映画化作品です。
良くも悪くもこの作品はファミリー向けのクリスマスムービーで、ディズニーらしいと言えばディズニーらしい。
子供と一緒に安心して楽しめる映画だと思います。
そのためではあるのですが、ストーリー上はそれほど驚くような展開はないので、大人が見ると少々物足りないところもあるかもしれません。
今回、私が注目したのは主人公クララを演じるマッケンジー・フォイです。
本作まで彼女は全く見た記憶がありません(「トワイライト」シリーズに出ていたようなのですが、全く覚えがない)。
クララは知的で自立心がありながらも、母親を失ったばかりでその悲しみに打ちひしがれている少女です。
彼女はまさに精神的に大人と子供の中間くらいとなる微妙なお年頃なわけです。
ちょうど演じるマッケンジーは撮影時が17歳だったので、ちょうど役柄とも同じくらいとなります。
彼女のルックスがまさに大人っぽい凛々しい女性のように見える時もあれば、あどけない少女のように見える時もあり、クララの微妙な年頃をうまく体現しているように見えました。
また現代的で活動的な側面もあるかと思えば、プリンセス的な美しさも兼ね備えているので、このようなディズニー映画にはぴったりだったと思います。
あまり予告を時は美少女という印象は持たなかったのですが、作品の中で動いているのを見るととても美少女に見えました。
個人的には乃木坂の白石麻衣さんに印象が似ているなと思いました。
演技もしっかりしているので、今後出演していく作品に注目していきたいと思います。

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2018年12月15日 (土)

「機動戦士ガンダムNT」 ガンダムらしいガンダム

「機動戦士ガンダムUC」の続編の位置付けで、ガンダム作品としては「F91」以来27年ぶりの劇場向け作品です。
私にとってガンダムは自分という個性を形成している大きな要素の一つと言ってもいいくらいです。
いわゆるファーストガンダムで衝撃を受け、その後のガンプラブームにどっぷりとつかりました。
ちょうど中高生の頃に「Zガンダム」や「ガンダムZZ」がオンエアだったので、いわゆる今は無きアニメックなど専門誌で喧喧諤諤と語られていた「ニュータイプ論」を読み、じ自分でも色々と書いたりしていた輩でしたね。
その頃の私にとって、ニュータイプ論というのは、ある種、青年が哲学的な問答に憧れて難しいことを考えることにはまるようなものであったかもしれません。
作品の表面で語られていること、そしてその意味性や意図などを深読みしていくという鑑賞の仕方は「ガンダム」を通じて培われたもののような気もします(面倒くさい見方ですが)。
大学生になった頃に公開されたのがいわゆる「逆シャア」でした。
いい歳をした大人となっていましたが、それだからこそそれまでに自分なりのニュータイプ論的なものがあった上で「逆シャア」を観たのですが、感想としては「はぁ?」という感じでした。
クライマックスで地球に落下しようとしているアクシズをアムロを中心とした多くのモビルスーツが止めるわけですが、これが理解できなかった。
ニュータイプというのはこのような物理的な力を発生することができるものなのか、と。
私の解釈ではニュータイプは人の意識が拡張し、より人と深くコミュニケーションできるようになる能力と捉えていたので、このような物理的な力を発揮するところを描かれた時、理解を超えていたのですね。
もはや超能力者のようだと感じたように思います。
そのあと、急速にアニメーションへの傾倒がなくなったのですが、「逆シャア」はその一つの要因かもしれません。
しばらくアニメから離れていたのですが、再び観るようになったのもガンダムでした。
「OO(ダブルオー)」を何かの拍子で観たら、とてもはまってしまいました。
それまでは宇宙世紀以外は邪道と(観てもいないのに)思っていたのですが、いい作品があるじゃないかと。
最近では「鉄血のオルフェンズ」も秀逸でした。
もちろん「ガンダムUC」も観てましたね。
ファーストガンダムだとやはりニュータイプ論についてはモヤモヤ感はありますが、「UC」はそのあたりを深く掘ってはいないので、それほど違和感は感じませんでした。
そしてこの「NT」です。
まず感想としては非常に「ガンダムっぽい」。
この「ガンダムっぽい」というのはニュータイプ論的な話が再び喧喧諤諤と起きそうな匂いがするのですね。
「UC」の直接の続編なわけですが、作品の匂いとしては「Zガンダム」あたりが似ているような気がします。
全体的に救いがない話でもありますし、台詞回しもそれっぽい(特に敵役となっていたゾルタン・アッカネンのセリフは非常にガンダムっぽかったです)。
「NT」で描かれているニュータイプも今までのニュータイプともちょっと違う。
ファーストでもシャアやアムロが死んだララァと話しているような場面がありますが、あれはあくまで比喩で、自分の意識の中にある彼女と彼らが内面で会話をしていたというように私は捉えていました。
死人と交信しているわけではないということです。
しかし本作ではフェネクスがいわば死んだ人間の意識によって稼働しているように描かれているので、死んだ人間の意識が現実の世界に影響を与えているというややオカルトっぽい要素が出てきているような気がします。
もう私は大人になったので、「逆シャア」の時のように「こんなのガンダムじゃない」と駄々をこねる年でもなくなったので、今は「こういう解釈をしたんだ」というような見方で観ましたが。
なので作品にハマるというよりは割と距離を置いて冷静に観てしまった感じがします。
もはや宇宙世紀の作品はそのような距離感でしか見れないかもしれません。
「鉄血のオルフェンズ」とかのほうが設定が違う分、しっかりと作品世界に入っていけるでしょう。
宇宙世紀についてはこの後もサンライズは作品を展開していく様子です(「閃光のハサウェイ」の予告が「NT」でもかかっていました)。
どんなふうに展開していくのでしょうか、楽しみに見守りたいと思います。

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2018年12月 1日 (土)

「GODZILLA 星を喰う者」 文明は何のために存在しているのか

いわゆるアニゴジシリーズ第3作にして最終章となる「GOZILLA 星を喰う者」です。
このシリーズはゴジラを扱いながらも従来の特撮とは異なった解釈で人を超越するゴジラという存在をハードSFテイストで描いています。
また脚本が虚淵玄さんが担当しているので、ある種、哲学的であり、また一面無情なテイストがあります。
虚淵さんのテイストに慣れている人にとっては馴染みのある感触ですが、初めての方は少々面食らうかも知れません。

1作目、2作目と見てきてこのシリーズは何をテーマにし、そしてどこに帰結するのかということが全く見えませんでした。
これら2つの作品ともにラストは鑑賞前に予想していた展開とは全く異なる方向に物語は転がっていきました。
そういう点においては3作目である本作も同様です。
しかし、シリーズをすべて見終えるとこれら作品のテーマが浮かび上がってきます。
それは「人間は、そして文明は何のために存在し、生きていくのか」です。
虚淵さんらしいテーマであると思いました。

エクシフはその発達した超科学により、未来を完全に予想することができるようになりました。
彼らの結論は宇宙は有限であり、それゆえ生命がどんなに栄えているように見えても、いずれは必ず滅んでしまうというものでした。
これは何を意味するのか。
いや、これをどう受け止めるのか。
初めてこの結論に達したとき、エクシフたちは大きな絶望と直面することになったのでしょう。
この結論は自分たちが存在することの意味は何もなく、宇宙の行く末にもなんら影響を与えられないということですから。
存在意義を否定された彼らは、そのままでは終わりません。
いや、終われなかったのかもしれません。
彼らは自分たちが存在していた意味を自ら作り出します。
自分たちとは異なる次元にいる存在、神とも呼べる存在であるギドラと接触することを彼らの超技術で可能とし、その神に自らを捧げることで自分たちの存在意義を作り出したのです。
彼らは自ら神を作ったと言えます。
その後、彼らは宇宙を放浪し、数知れない生命・文明を見てきました。
そしてそれらがいずれは自らの文明を滅ぼすほどの存在を生み出してしまうことを知ります。
人類にとってはそれはゴジラであるし、ビルサルドにとってはメカゴジラであるのでしょう。
文明はいずれ自らを喰らうモンスターを産み、そして最終的には神に喰らわれる。
これがエクシフの生命観であり宇宙観となっていったのです。
しかし、すべての生命がいずれ滅びることになったとしても、すべての生命・文明が無意味であったのでしょうか。
エクシフは結果こそがすべてと考えているように思えます。
しかし、滅びるのが運命としても、そこに至る過程のすべてがすべて無駄であったとは言い切れません。
生命が生まれ、文明を発展させる過程の中で、人々は確かに笑い、喜び、幸せな時を過ごしたわけです。
それが無駄であるわけはありません。
ハルオの生命が引き継がれていくように、生命の営みは連綿と続いていく。
その過程こそに意味がある。
文明は必ず滅ぶ。
そうであるなら存在する意味がないのか。
人は必ず死ぬ。
そうであるなら生きることは意味がないのか。
そうではありません。
生まれてから死ぬまでの過程、すなわち人生こそに意味ある。
そうであるならば文明もその過程にこそ意味があるのだと思います。
人生も山谷があるように、文明にも滅びに瀕する時がある。
それを乗り越え、繋いでいく過程こそが重要なのです。
いつかは文明も滅びる。
だから意味がないとは言わせない、言わせたくないとこの作品は訴えているように感じました。

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2018年9月 2日 (日)

「検察側の罪人」 法の限界

正義というものは、一人一人で少しづつ異なっているものです。
それぞれがそれぞれの正義を押し通そうとした時、様々な争いが生まれるわけで、正義をある基準で定めたものが法律ということなのかもしれません。
しかし、法律も万能ではなく、全ての人々の正義を満たせるものではなく、また曖昧さも持ち合わせているものなので、解釈でも人により差が出てくるものです。
「検察側の罪人」という作品では、正義の基準を守るべき人々が己の正義の基準を優先させて一線を越えていってしまうことを描いた物語です。
まずは木村拓哉さん演じる最上検事。
彼の執務室に飾ってあったのがガベルです。
これは洋画を見ていると裁判のシーンで見慣れている、判事が判決を申し渡す時にコンコンと叩く小槌です(日本の裁判所では使われていませんが)。
検察官の仕事は立件することですが、もちろん立件したからといって罪が確定するわけではありません。
裁くのはあくまで裁判所です。
しかし、最上は、いつしか裁くことができるのは自分であるという錯覚に陥っていたのかもしれません。
判決を言い渡すことの象徴であるガベルを飾っていることがそれを表しています。
また訴追することは検事の仕事ですが、それはあくまで検事という立場に与えられた権限です。
当然のことながらそれはその個人に付託されたものではありません。
そしてまた刑を執行することも検事の仕事ではありません。
法律の壁によって犯罪を犯した者を裁くことができないと感じた時、最上は自らの手で罪を償わそうとします。
心情的に彼の気持ちはわかります。
一人の少女が、ただ欲望を晴らすためだけに殺された。
許されていいわけがありません。
しかし、法律を逸脱してしまっては、社会の基準が崩れて行ってしまう。
その基準が崩れていってしまうと、社会は混乱していってしまうでしょう。
状況的には罪を犯していると思われるのに、それを証明することができない場合は罪を負わせることはできません。
これを崩してしまうと法治国家ではなくなります。検察官としての正義とは、あくまで法律に則って罪を問うというものでなくてはいけません(法の解釈である程度の幅はあると思いますが)。
「俺の正義の剣を奪うのがそれほど大事か」と最上は言いますが、これはすでに一線を越えてしまった者の危険さを伺わせます。
沖田については物語では最上に対抗するヒーローのような役回りとなっていますが、彼も自分が信じる正義のためにルールを逸脱しているという点は同様のことがあると思います。
検事などの職務には、仕事の中で知り得た秘密は例え辞めたとしてもそれを漏らしては行けないというルールがあります。
沖田は最上の暴走を止めるために、そのルールを破っています。
これもまた自身の正義を行うために、決められたルールの一線を越えているわけです。
また橘にしても、同様です。
彼女は友人が味わった冤罪による苦しみから、検察という組織が持つ冤罪を作り上げる体質を告発したいというために検察庁という組織に入庁しました。
彼女が目にしたのは、彼女が予想とした通りのいくつかの歪んだ検察の体質でした。
当然彼女も検察庁の人間ですから、知り得た秘密を外部に漏らすことはできません。
しかし、彼女はマスコミと接触していました。
検察の闇を暴くためということであれば、本来なら内部告発などという手法をとるべきなのだと思います。
おそらくそうするともみ消されたりなどということがあると思ってのことなのだろうと思いますが、やはりこれもルールを逸脱しているのです。
社会のルールをであるところの法を守る人々である検察官が、それぞれの考える正義を行うために、その一線を越えてしまう。
それらは正しいことを行いたいという思いから発せられている。
そういう思いを全て満たしきれない法律の限界もあるのかもしれません。
しかし法に変わる方法を我々は持ち合わせていないのです。

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2018年8月25日 (土)

「カメラを止めるな!」 観るのを止めるな!

学生時代は映画サークルで映画を撮っていました。
素人にありがちな思いの丈を盛り込んだアートっぽい作品ではなく、あくまでエンターテイメント。
カーアクションに憧れたけれど、そんなものはできるわけないので、校内でのチャリでのチェイスシーン。
「インディ・ジョーンズ」みたいに車にロープに引きづられるシーンが撮りたかったので、代わりにリヤカーを引いた。
もちろんゾンビもやった。
今思えば、ストーリーなどお構いなしで、やりたいシーンを繋いだだけの思いだけはある作品なのだが、作っているときは何かハイテンションだった。

話題となっている「カメラを止めるな!」を観てきた。
随分遅くなってしまったが、割と大きな箱だったけれど、ほぼ満員だった。
こんなにこの映画を観ようとする人が多いなんて、ちょっと驚き。
無名の監督、無名の役者が出てくるゾンビムービー、あっと驚く仕掛けがあって、かなり楽しめるという。
とはいえ、学生の作ったようなゾンビ映画を見せられてもなーという感覚もあり、躊躇していた。
あまり自主映画っぽい作品を見ていない人には新鮮なのかもね、くらいの感覚でいた。
蓋を開けたら、驚いた。
面白いじゃん!
蓋を開けたら、は正確ではないか。
全編1カット長回しは凄いけど、お話は素人がやりそうなゾンビ映画だよね。
明らかに何か繋いでいると思われるグダグダした役者同士の会話。
思わずカメラ目線になってしまった監督の役者。
途中から急に荒っぽくなるブレブレのカメラ。
何か準備しているんだろうと感じさせる不自然に長い悲鳴。
自分もそういうことやってたからカメラの脇で起こっていることが想像できて、すごく素人っぽいゾンビ映画だな。
そんな風に思ってた。
なので、この辺まではちょっとイライラしていた。
こんなもので金取りやがって、と。

しかし、後半からそれが驚きに変わった。
なんともここからは書きにくい。
この作品はネタバレ厳禁。
ネタを書かずに、良さを伝えるのはなんとも難しい。
しかし、一つだけ書いておくと、先ほど書いたような素人っぽいグダグダさは、すべて計算づくだったということ。
気になったところすべてが計算されていたということに気づいたときの驚き。
まさにアイデアの勝利、構成の妙。
特に学生映画をやっていて、そして仕事でも映像に関わっているものとしては非常に共感できる状況の連続でなおさら気持ちが入り込んでしまった。
最後には一つの目標に突き進んでいく者たちの達成感にまで持っていく。
いやいや、凄いものを見てしまった。
感覚的には初期のナイトシャマランの作品の匂いも感じたりして(一気に見ていたものの印象がひっくり返る感覚)。
ほんと見事。

漫画原作、青春もの、ドラマの映画化・・・、日本映画がステレオタイプになってきているという印象があったけれども、こういうのが出てくるとまだまだいけると思ったりする。

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2018年8月16日 (木)

「劇場版 仮面ライダービルド Be The One」 改めてわかる本編の力強さ

TVシリーズがいよいよ終盤になり、目が離せない展開となっている「仮面ライダービルド」の劇場版です。
「仮面ライダービルド」は一年に及ぶ長期のシリーズでありながら、1クール目から次から次へとどんでん返しが続き、ずっと緊張感のある物語になっています。
最近の平成仮面ライダーはかなり物語的にもビジュアル的にも盛り沢山になって来ていて食傷気味なところもあったのですが、「ビルド」はいい塩梅であるような気がします。
決してシンプルな物語でもないのですが、基本的には戦兎と龍我の二人を軸にストーリーが展開するので、観やすいのかもしれません。
また敵が圧倒的に悪い奴(エボルト)であるのも観やすいポイントかもしれないですね。
敵にも敵の事情があるというストーリーだと、ストーリーも複雑になりがちですから。
出物やキャラクター、またキーアイテムといった要素は多いお話だと思うのですけれど、主人公と敵役がしっかりと軸が定まっているので、「仮面ライダービルド」は安定感がある物語であり、最後まで引っ張る力強さがあるように思います。
というようにTVシリーズはしっかりと軸がある物語なので、劇場版はどうしてもそこからのスピンアウトになってしまいます。
仮面ライダーの劇場版というと、TVシリーズとは関係ないパラレルワールド的なストーリーにするか、もしくは後日談という展開がありますよね。
今回の劇場版はそのいずれでもなく、TVシリーズ本編の終盤に入る物語になります(「仮面ライダーW」の時と同じパターン)。
このパターンは本編との関係性が難しいのですよね。
本編とリンクがある展開にすることも可能ですが(例えば「仮面ライダー電王」の時など)、劇場版を観ないとTVシリーズの方がよくわからない展開になるというのも不親切です。
なので、本編にあまり影響のないサイドストーリーとならざるを得ないのですが、本編が力がある物語になっているとどうしてもサイドストーリー的な弱さが出てしまいます。
先に書いた「仮面ライダーW」の劇場版は、劇場版として独立させてもとても見応えのある作品に仕上がっていたと思うのですが、なかなかいつもこのようにうまくはいきません。
本作「仮面ライダービルド」の劇場版はあまりうまくはいっていなかったかなという印象です。
映画として劇場版がよくできていなかったというつもりはなく、どうしても本編の方が力強すぎて映画の方が傍流感が出てしまった感じですかね。
悪役でブラッド族というものが出て来ますが、凶悪さでいったらTVシリーズのエボルトの方が一枚も二枚も上手。
エボルトが圧倒的な悪役だからこそ、TVシリーズが盛り上がっているとも言えるわけです。
なかなか仮面ライダーたちがエボルトに勝てそうにないという緊迫感がたまらないのです。
そのエボルトに比べるとブラッド族の3人は役不足。
この辺りが本編の力強さに敵わないという理由でしょうか。

気になったのは、次回作「仮面ライダージオウ」です。
平成仮面ライダー20作目、最後の平成仮面ライダーとして、今までのライダーの力が使える究極のライダーとして登場するということは、すでにリリースなどで発表されています。
本作が映像で初登場となるわけですが、なかなかに期待ができそうな感じがします。
節目のライダーといえば10作目の「仮面ライダーディケイド」が思い出されます。
この作品でもそれまでのライダーの力を使えるというコンセプトがあり、また「ライダー大戦」という圧倒的なビジュアルインパクトのあるオープニングで圧倒されました。
今回のジオウ初お披露目となる場面は、その「ライダー大戦」の場面と同じロケ場所でしたね。
そしてそこでも大勢のライダーが戦っている。
これは意味がある場面なのですよね・・・。
「ディケイド」の時の「ライダー大戦」がまた再現されるのか。
「ビルド」のラストも気になりますが、「ジオウ」の初登場の時も気になります。

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「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー en film」 TVシリーズをグレードアップ

そして人々と正義を守るために日夜ギャングラーと戦う警察戦隊パトレンジャー。
彼らはそれぞれに信念があり、ギャングラーたちと戦います。
また泥棒と警察官という立場ですから、彼ら同士でも戦うこともあり、ギャングラーと合わせて三つ巴の戦いになることも。
これが物語的にもアクション的にも緊張感を高め、30分の番組でありながら非常にエンターテイメントとして完成度の高いスーパー戦隊となっています。
劇場の監督を務めるのは、TVシリーズのパイロット監督も務めた杉原監督。
「ルパパト」のテイストを作った杉原監督ですので、劇場版もスピーディで見応えのある一本に仕上がっていました。
スーパー戦隊の映画は劇場版とはいえ、尺はほとんど30分程度なので、盛り込む内容が多すぎると破綻しやすいのですが、今回の作品は普通のTVシリーズと同じようなエピソードであったので、コンパクトで観やすかったです。
TVシリーズでは共闘することがあまりないルパンレッドとパトレン1号が一緒に戦うというのが、劇場版ならではの特別感ですかね。
あとTVシリーズでも特徴的であったアクションシーンでの、非常に動きのあるカメラワークもかなり使っていましたね。
これはゴープロとかを使っているのかな?
TVシリーズではこのような場面はやや画面の劣化が感じられましたが、劇場版ではそのほかのシーンと遜色のない画質のように見えました。
機材も奮発しているのかな。
あとロボ戦でも着ぐるみとCGを上手に使い分け、キャラクターのアクションシーンと同様にスピード感の感じられる戦いになっていました。
「ルパパト」は全体的にテンポがスピーディで小気味好いですよね。
劇場版だからと言って特別なことをするのではなく、いいところをグレードアップしている感じがします。
TVシリーズも今後の展開が楽しみです。

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