2020年6月19日 (金)

「エジソンズ・ゲーム」 ジョブズの姿を見た

原題は「The Current War」で、直訳すると「電流戦争」になりますね。
ここでいう電流とは直流/交流のことです。
乾電池などは直流、家庭に電力会社から送られてきてくるのは交流というのは、学校で習ったことがありますよね。
本作ではエジソンが電球を発明し、その後急速にアメリカに電気が普及している時代における、直流式と交流式の覇権争いを描いています。
まさに電流のデファクト・スタンダードをどちらが取るかという争いです。
皆さんもよく知るトーマス・エジソンが直流派。
そして交流を主張するのが、ジョージ・ウェスティングハウスです。
意外だったのが、本作で描かれるエジソン像です。
エジソンといえば「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」という名言で有名ですよね。
私も子供の頃、偉人伝でエジソンの話を読んで、努力家で高潔なイメージがあったのですが、本作のエジソンは全く違います。
天才であることは間違いありませんが、どちらかと言えば自己中心的で、部下に厳しく、また敵となる相手には非常に攻撃的に当たります。
そして名誉欲・自己顕示欲も高いパフォーマーで、仕事を優先して家庭を顧みない人物。
正直言って一緒にお仕事したくないタイプです。
相手となるウェスティングハウスは終始紳士的で、名誉よりは社会へどれだけ貢献できるかということを考えている人物のように見えました。
電力の普及により、社会が大きく変わろうとしている時代、二つのシステムが大きく覇権を争う様が描かれるのが、この作品です。
鑑賞しながら、本作におけるエジソンをどこかで見たことがあるという既視感を持ち始めました。
よくよく考えて見ると、本作のエジソンは、アップルを創業したスティーブ・ジョブズに非常に似ているなと思いました。
彼もまた自己中心的で、周囲に対して非常に厳しい人物でありました。
そして自己顕示欲も高いパフォーマーでもあったのは、皆さんもよく知っているところです。
彼はパーソナルコンピューターやスマートフォンを発明し、その後の社会のありようを大きく変えたというところが、まさに本作のエジソンのようです。
しかし、パーソナルコンピューターにしてもスマートフォンにしても、彼が作ったMacやiPhoneがデファクト・スタンダードになったわけではありません。
主流になったのは、Windowsであり、Androidであったのです。
交流に負けてしまったエジソンと通じるところがありますよね。
そういえば、ジョブズもアイデアを盗まれたと言ってWindowsを訴えたことがありました。
本作で描かれたのは「電流戦争」ですが、スティーブ・ジョブズのMacとビル・ゲイツのWindowsの覇権争いは「OS戦争」とも言われました。
パーソナルコンピューターの登場、そしてスマートフォンが登場も、社会を変容させる圧倒的なインパクトがありました。
その衝撃度は今を生きる我々は知っているわけですが、電力が普及し始めた時の衝撃はさらに凄いものだったのでしょうね。
時代を作る人物には、それを生み出すだけのエネルギーを生み出すことができるエジソンのようなエキセントリックさが必要なのかもしれません。
そしてまたそれを広く遍く普及させるには、ウェスティングハウスのような粘り強さが必要なのかもしれません。

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2020年3月20日 (金)

「映画 賭けグルイ」 ハイテンション!ハイリアクション!

公開時に気になっていた作品だったのですが、見ていなかったTVシリーズを受けての作品だったようで、鑑賞を断念。
改めてNetflixでテレビシリーズを全て見てからの鑑賞となりました。
本作の舞台となる私立百花王学園は生徒会を頂点としたギャンブルによる階級制度があります。
そこに主人公蛇喰夢子が転向してきます。
彼女は一見古風なお嬢様のようにも見えますが、真性のギャンブル狂で、賭事に挑むときは性格が一変します。
まさに「賭けグルイ」です。
この蛇喰夢子を演じるのが現在売り出し中の浜辺美波さん。
普通の少女から、深窓のお嬢様、そしてちょっとズレたような変わり者まで幅広く演じることができる女優さんですが、本作での振れ幅はかつて無いほどのレベルですね。
ギャンブルをテーマとした作品としては「カイジ」シリーズが思い浮かびます。
そこで主人公カイジを演じる藤原竜也さんの演技も、非常にハイテンションでしたが、その藤原さんにも負けるとも劣らないほどのテンションで浜辺さんは夢子を演じます。
彼女の演技の振れ幅は最近の若手女優の中でNo.1と呼べるものだと思います。
夢子以外のキャラクターに関しても、全てがハイテンション・ハイリアクションの演出で通されています。
漫画にもある表現なのだと思いますが、ショックを受けたときの文字通り「目が点」になる時の表現はまさにその究極。
全編的にコミック的な大仰な演出になっていますが、それがギャンブルという究極の心理戦においてははまっています。
全体のトーンはかなり独特でこれは英勉監督のセンスの賜物でしょう。
映画版で描かれる賭け事は大掛かりなものではなく、カードゲームが主体となり、大掛かりな装置によるギャンブルがメインの「カイジ」と好対照ですが、とは言っても地味ということではありません。
シンプルなカードゲームであるということで、より心理戦にフォーカスされ余計にドキドキさせられます。
浜辺さんに負けず劣らずの振れ幅を見せるのが、テレビではあまり姿を表さなかったキャラクター歩火を演じる福原遥さん。
彼女の演技も見ものでした。
前半と後半は全く異なるキャラクターのよう。
浜辺さんと福原さん、この二人の演技だけでも見る価値はあります。
最後は夢子と生徒会長のバトルになるのかと思いきや、そこまでは至らず。
またテレビシリーズなり、映画があるということでしょうか。
夢子が何者であるかも明らかにされておりません。
今後また彼女たちに会えることを期待したいと思います。

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2020年2月23日 (日)

「1917 命をかけた伝令」 超絶技巧の撮影

全編がワンカットで構成された超絶技巧の戦争映画です。
実際はいくつかの長回しを編集したものですが、どこで繋いだのかはなかなかわかるものではないでしょう。
それだけ計算され尽くした撮影だったということです。
通常のカットを重ねていく映画であれば、不都合なところや難しいところは編集でうまく逃れるということができます。
しかし長回しの場合は、演技やカメラの動き、そして天候などのコンディションが合わなかった場合は、それで全てやり直しとなってしまいます。
メイキング映像を見ましたが、前半の延々と続く塹壕でのシーンは模型を作り、俳優とカメラの動きを何度もチェックしたということです。
机上での計算を経て、それを実際のスケールのセットを作り、実際の俳優が要求されるタイミングで演技できるようにリハーサルを重ねます。
非常に根気のいる作業であったと思います。
カメラは俳優たちとともに歩き、時にはカメラマンからワイヤーに、そして自動車に受け渡され、延々と彼らの動きを追っていきます。
ただ単純な長回しでは、観客は退屈してしまいます。
自在なカメラワークがあってこその長回しです。
見ていて驚いたのは戦闘地域の街でのナイトシーンで、闇の中を移動する主人公の周囲に照明弾が次々と上がるシーンでした。
ご存知の通り照明弾は打ち上げれて激しい光を放ち、そしてゆっくりと地上に向かって落ちていくものです。
光源が移動するので、照らされている部分と影の部分も動いていきます。
そしてこの作品は長回しなので、俳優もカメラも動いています。
俳優、カメラ、照明といった画面を構成する全てが動いている。
どれかのタイミングが合わなければ成立しません。
全てを計算し、それを本番でぴったりと再現できたらこそこの表現ができているのです。
長回しは技術的な卓越性を表現するだけのためではいけません。
本作では長回しのカメラが捉えているのは主人公だけです。
基本的にカメラはずっと主人公を追いかけます。
それにより見ている我々も彼と一緒の目線となります。
特に中盤から彼が一人となってからは、彼の焦りと不安をともに感じるようになります。
夜の街の陰から敵が突然現れるかもしれない。
砲撃により吹き飛ばされてしまうかもしれない。
そういった恐怖を感じつつも、進み続ける主人公の強い意思をともに感じることができます。
客観的に描くカメラではできない、臨場感があります。
主観視点のカメラとも違います。
まさに寄り添う視点でのカメラです。
本作は今年のアカデミー賞で撮影賞、視覚効果賞、録音賞を取りましたが、それも納得できる結果だと思いました。

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2020年2月15日 (土)

「AI崩壊」 テーマはタイムリー、しかし・・・

「2001年宇宙の旅」(1968年)のHAL、「ターミーネーター」(
1984年)のスカイネットと、昔から映人間に害を与えようとする人工知能が映画の中で描かれてきました。
しかし、その当時はまだそれは夢物語でしたが、2020年の現在、AI=人工知能はリアルな技術として社会に浸透し始めています。
AIという言葉を聞かない日はないほどですが、HALやスカイネットのように自律的に作動するマシンにはなっておりません。
しかし、シンギュラリティ(技術的特異点:自律的に作動する機械的知性が誕生すること)は間近であるという説もあります。
本作に登場するAI「のぞみ」は人間のヘルスサポートから発展したAIですが、ある日突然暴走し、人間の峻別をしようとします。
それぞれの人が生み出す生産物・効率性、その人が生きるためにかかるコストから算出し、生きるべき人間と、生きていくべきでない人間とを区別し、そして生きていくべきでないと判断された人間を抹殺しようとするのです。
厳密には「のぞみ」は意思を持っているわけではありません。
AIは学習することにより、的確な答えを出していくように成長していくわけですが、「のぞみ」に対して人間のネガティブな面を学習させていくことにより、人間を峻別するという結論に導く悪意が裏にあったのです。
ちょうど現在オンエア中の「仮面ライダー」シリーズの最新作「仮面ライダーゼロワン」もAIがテーマとなっており、その敵となっているAI「アーク」も人間の悪意をラーニングすることにより、人類を抹殺するという結論に達しています。
機械そのものが悪ということではなく、悪を学習させた人間の悪意があるということです。
この二作品は共通のテーマであると言えるでしょう。
また本作は最近見た別の作品と別の観点で共通点があると思いました。
それは「カイジ ファイナル・ゲーム」です。
この作品でも国家が、赤字財政・格差の拡大・貧困の増加などを背景に、下級国民を峻別し搾取する様が描かれています。
本作も生きるべき人とそうでない人を峻別しようとしているという点では同じです。
「上級国民」という言葉が昨年はキーワードとして出てきましたが、国民の中で確実に格差というものが認識されてきているということでしょう。
一億総中流という時代はいまは昔ということです。
映画というのは確実に作られた時代の影響を受けているので、同じような時期に同じようなテーマの作品が作られたということで、今の時代の空気が感じられます。
AI、格差社会といった現代を表すテーマをタイムリーに取り上げ、エンターテイメントとして作ったのは評価できると思います。
しかし、それが映画として面白いかどうかというのは別問題です。
映画としては全体として、御都合主義感を感じる脚本であったと思います。
サスペンスとして盛り上げるためでしょうが、いくつか真犯人ではない人間へのミスリードがあるのですが、あまりにあからさまなので、ミスリードされません。
「カイジ」を見ていると大体背景が想像できるので、真犯人も大体わかってしまいます。
テーマは悪くないだけに、もう少しストーリーはなんとかならなかったのかと思ってしまいます。
最後にAI「のぞみ」のデザインはよかったです。
従来のスーパーコンピュータの無味乾燥さがなく、有機的で美しい。
人間のDNAの二重らせんのようでもあり、花弁のようでもあります。
ライティングにより禍々しくも見えたり、優しくも見えたりもする。
エンティングでピンク色に証明され、それが桜の花びらとオーバーラップするところは演出上の狙いがはっきりと伝わってきました。
返すがえすもストーリーが残念です。

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2019年12月27日 (金)

「アナと雪の女王2」 新しい価値観の提示

一人で字幕版を、続いて日本語吹き替え版を娘と一緒に、都合2回観てきました。
そう言えば前回も字幕版と吹き替え版を1回ずつ観たような。
正直言うと、個人的には2作目よりも1作目の方が好きではあるのですが、評判を聞くといろいろですね。
同僚の女子二人は「2」の方を圧倒的に支持していました。
私の娘の場合は「1」の方がしっかりと観ていた気がします。
歌は「1」の方が歌いやすそうですよね。
さてなぜ私と女子二人の評価が別れてしまったかですが、今回の作品におけるエルサとアナに現代を生きる女性が共感しやすい要素があったのではないかと思いました。
今回の「2」でエルサがどうしてあのような特殊な力を得たのか、秘密が明らかになります。
ただそのエピソードが彼女たちの心を掴んだのではなく、二人の生き様が共感性を呼んだのではないかと考えました。
エルサはその能力と長女ということで、女王として大きな責任を背負っています。
彼女は非常真面目な性格であり、その危険を伴うかもしれない責任を自分一人で背負おうとします。
社会に出て、以前に比べて責任感のあるポジションにつくこともあったり、家庭のことについてもいまだに多くの部分を背負っている彼女たちは、エルサの感じているプレッシャーを自分ごとのように捉えたのかもしれません。
またアナについては、エルサとは異なり特殊な能力を持っているわけではない普通の女性です。
彼女の性格はとてもポジティブで前向きではあるますが、エルサと比べると何でもない人間であるという自覚があります。
それでも何かをしなくてはいけないという思いは強く、挫けそうになりながらも一歩一歩進んでいこうとします。
この辺りも現代の女性が共感しやすい点であるような気がします。
本作についてはエルサとアナは途中から別行動をとりますが、それぞれが歩む道筋で彼女たちは自分たちの責任感、使命感を試されます。
そして家族や友への思いも。
それらを力にして、彼女たちは進み続けます。
決して挫けずに。
昔に比べ女性も色々と背負うものが増え、そして前進することが求められる。
みなプレッシャーを感じていると思うのですが、本作のエルサとアナの姿を観ると、少し前向きな気持ちになれるのかもしれません。
また本作については自分たちのいる環境が、古い価値観により築き上げられたものであったということをエルサとアナは知ります。
それは男性的なものの考え方で築き上げらた価値観であったと言えます。
それを二人は文字通りぶち壊します。
女性らしい多様なものを受け入れる新しい価値観を新しい王国に二人は導入するのです。
鉄壁のように作られた男性主体の価値観に対しての彼女たちの新しい生き方の提示なのですね。
その辺りも女性に支持された理由ではないかと思いました。

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2019年11月25日 (月)

「イエスタデイ」 伝わってくる肯定感

<ネタバレがあります>
クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」、エルトン・ジョンの「ロケットマン」とアーティストを主人公としたヒットを続けています。
本作「イエスタデイ」は名前から分かるようにビートルズを題材にした作品です。
ただし先の2作とは異なり、ビートルズ自身の物語ではありません。
ある日、突如として世界中が大停電となります。
その時ちょうど事故に遭ってしまい意識を失っていたジャックは、目が覚めてしばらくたった時、世の中からビートルズの存在が消え去っていることに気づきます。
彼は、誰も知らないビートルズの曲を歌い、レコードをリリースして話題となり、一気に時の人となります。
そしてそのままスターダムにのし上がろうとしますが、それと引き換えに大切なものを失ってしまいます。
この流れは先にあげた2作の展開を想起させます。
若者がその才能を見いだされ、皆に注目されて、成り上がり、そしてその成功と引き換えに何かを失ってしまい、孤独となる。
最後は自分が失ったものに気づき、取り戻そうとするが、時はすでに遅い、という展開。
本作においてもこの構造が展開されますが、大きく異なることは主人公にはフレディ・マーキュリーやエルトン・ジョンのような天才的な才能はないということ。
彼らは自分の才能により、その地位を得たとも言えますが、ジャックは違う。
彼自身もそれはわかっています。
フレディやエルトンは自身が才能があることもわかっていて、そしてそれを発露することは才能が持つ者として当然のことで、止めることはできません。
それをやめてしまったら、彼ら自身ではなくなってしまうから。
つまりは天才ゆえに破滅への道も決まっていたとも言えるかもしれません。
けれどもジャックは偶然により、というよりも結果的にはズルにより、自身の才能以上の成功を得てしまった。
そのことに対する罪の意識と、その上に大切なものの喪失感の二つを感じてしまうわけです。
フレディとエルトンの場合は成功は自信に裏付けられていますが、ジャックの場合は成功すればするほど罪の意識を感じてしまう。
その罪への罰として孤独を与えられているようにも彼は感じてしまったのかもしれません。
この作品が粋であると思ったのは、彼の罪の意識を救ってあげた方法です。
劇中でジャックと同様にビートルズの存在を知っていると思しき人間が出てきます。
彼らはついにジャックのコンサートの前に彼のところにやってきます。
ジャックを断罪するかと思いきや、彼らはお礼を述べるのです。
誰も知らなかったビートルズの歌を世の中に残してくれて、と。
彼らにとって、そもそもビートルズの歌はジャックだけのものではないとの思いであったのでしょう。
ビートルズの歌は皆のもの。
誰かがそれによって利益を得るのがどうこうということではない。
皆に聞いてもらうことが大切で、これは人類の財産なのだと。
とても素敵な考え方をするなと思いました。
このストーリーから製作者のビートルズに対する愛を感じました。
ジョン・レノンが登場してきたところも粋でした。
この世界はビートルズのメンバーがいない世界ではない。
なにかボタンがかけ違ってたまたまビートルズが結成されなかったということなのでしょう。
そのために、ジョンは凶弾に撃たれることはなく、幸せに人生をまっとうしようとしていました。
それは私たちが知っているジョンの人生ではないかもしれない。
けれど彼が幸せに生きてこれたのであったら、それはそれで悪い世界ではないのかもしれないと思える。
「ボヘミアン・ラプソディ」や「ロケットマン」では生きていくことの苦しさ、自分の才能で生きていき、自分が選んで生きているのにもかかわらず、次第に追い詰められていく息苦しさを感じました。
しかし本作からは、生きることや世界を受け入れられる、とても肯定的なスタンスが伝わってきました。

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2019年10月 5日 (土)

「アド・アストラ」孤独に焦がれ、孤独を恐れる

本作はスペース・アクションと銘打たれているが、その本質は違う。
確かにオープニングの宇宙エレベーター(?)のシークエンスや、月面車でのチェイスシーンは今まで見たことがない、宇宙でのアクションシーンとは言えるし、舞台の多くは宇宙である。
しかし、本作はそのようなシーンをことさらに見せたかったわけではない。
どちらかと言えば、何が起こっても異常なほどに沈着冷静であるロイというキャラクターを描くためにあったと言ってよい。
私は本作のテーマは「孤独」であると考える。
その反対の「繋がり」であると言ってもいいだろう。
宇宙というシチュエーションはその「孤独」を描き出すには最適の舞台であるがゆえの選択であるように思う。
これが「深海」であっても成立するような気もするが、ただ後に描く理由により、やはり宇宙の方がベターであるだろう。
主人公ロイは孤独な男である。
普通に社会生活をおくれているようであっても、彼はその内面を他の者にされけだすことはない。
妻であった女性にもそれは同じであり、それ故に彼女は彼から離れていった。
ロイは劇中の多くのシーンで宇宙服を着ているが、まさに宇宙服が彼と他の人々との関係性を象徴している。
自分を守る厚い皮膜、直接触れることができない関係性だ。
彼は自身のそのような性向に気づいているものの、それをどのように解消していいかわからない。
またそのような状態でいる方が心地よいとも感じてしまう。
これは個人的にはわからない感覚ではない。
自分もどちらかというと内面をさらけ出す方ではないし、一人を好む性向がある。
直接的な感情表現をする人は付き合っていても苦手であるのだ。
一人になりたいということもしばしばある。
もう一人の主要な登場人物はロイの父親であるクリフォードだ。
彼は地球外生命体の探索のため、遠く海王星まで遠征し、そこで消息を絶った。
彼を探しに行くことが、ロイのミッションとなる。
クリフォードは地球外生命体の探索に異常なほどの熱意を燃やす。
結果、彼の方針についていけないプロジェクトのクルーを殺害してしまったほどだ。
そのプロジェクトは努力にも関わらず、成果をあげられなかったようだ。
すなわち人類以外の知的生命体の痕跡を見つけられなかったということだ。
それは人類がこの宇宙において唯一の知的生命体であったということ意味する。
それをクリフォードは認められない。
なぜか。
彼は人類が「孤独」であることを知るのを恐れたのであろう。
孤独であることは恐怖を伴う。
なぜならば自分が存在することに誰にも気づいてもらえないことを意味するからだ。
そうなると自分が存在する意味はあるのかという根源的な問いに至ってしまう。
一方、クリフォードは妻と子を捨て、宇宙へ旅立った男でもある。
彼は自分のやりたいことのため、しがらみを一切捨てたのだ。
この感覚もわからないではない。
家族は愛しているものの、一人になりたいと渇望することもあるものだ。
つまり人間には孤独になりたくないという気持ちと、孤独になりたいという気持ちは同時に存在しているのだ。
ロイは父親を見つけるために深太陽系を目指す旅の中で、地球から離れるほどに精神的に不安定になる。
より孤独になる環境に向かう中で、人々との繋がりが薄れることによるのだろう。
孤独になりたいという気持ちは遠心力だ。
また繋がりたいという気持ちは引力だ。
ロイは遠心力で深宇宙に旅をしていったが、より孤独が深まる中で、人と人とをつなぐ引力が切望するようになったのかもしれない。
遠心力と引力のバランスが取れた場所が軌道である。
人間は孤独になりたいという気持ちと、孤独になりたくないという気持ちのバランスが取れた軌道を見つけなくてはいけないのかもしれない。
そしてそれはパートナーと同じ軌道に入れることが望ましいのだ。
ロイは旅路の果てにそのバランスを見つけることができた。
クリフォードの場合は正反対になる。
彼が恋焦がれるのは、つまり引力の方向が外宇宙なのだ。
彼は他の生命体とのコネクトを求めている。
その方向性が引力で、地球に向かう方向性は彼からすると遠心力なのだ。
結局、彼は強い引力に引かれ一人宇宙に旅立った。
冒頭に書いた宇宙を舞台にしたことの意味はここにある。
人間の関係性における遠心力と引力を描くためのメタファーとして宇宙が適しているのだ。
人との関係性の遠心力と引力のバランスが取れた軌道を見つけられれば、人は心地よく安らかに生きていけるのだろう。

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2019年8月15日 (木)

「アルキメデスの大戦」 鎮めるために沈められた戦艦

日本対アメリカ。
動員力、工業生産力、石油等の資源力、どれをとっても勝ち目のない戦いであった。
それらを冷静に数値を使って分析し、評価できる人であれば、そう考えたであろう。
しかしそうはならなかった。
データはそろっていたのにも関わらず。
人は見たいものだけを見たいように見る者なのだ。
本作の主人公、櫂は帝大で100年に一度の天才と呼ばれた男だった。
彼は、太平洋戦争へ邁進する海軍の象徴となるであろう巨大戦艦の建造を阻むべくその数学の才を駆使する。
折しも海軍では大艦巨砲主義と航空主兵主義の二つの主張がぶつかり合っていた。
大艦巨砲主義とは大口径の主砲と重装甲を持つ戦艦を艦隊の中心とする考え方であり、それに対して航空主兵主義はリーチのある航空機を主戦力とし、それらを搭載する空母を艦隊の中心とする考え方である。
現在のアメリカ海軍を見ればわかるように航空主兵主義の方が現代的な戦略である。
劇中で櫂が指摘しているように大艦巨砲主義は非常に効率が悪い。                
敵艦の速度・加速度・進行方向、自艦の速度・加速度・進行方向、風力・風向などの環境の数値を分析し、着弾する時の敵艦の位置を正確に予想できるかどうかがポイントなのだ。
砲弾は発射した後は、何もできないためだからだ。
太平洋戦争当時、それらの数値を瞬時に計測し、弾道計算をできるようなコンピューターなどは存在しなかったため、砲撃は非常に効率が悪いものだったのである。
航空機は砲弾よりもリーチがあり、その時の状況に合わせて対応可能であるため有利であることは論理的に考えれば明白であるが、当時の海軍ではそちらは主流とはならなかった。
大艦巨砲主義とは武者と武者との戦いのようであり、それに対し航空戦は鉄砲を持ち込んだようなものだったと思う。
圧倒的に国力の差があるアメリカに戦いを挑んだこと、また航空主兵主義が主流とならなかったことは論理的な考え方からすると受け入れがたいものではあるが、そういう道理が通らず、精神論的なものの見方がまかり通っていたのが当時の日本なのである。
櫂らは巨大戦艦建造計画を見積もりの不正確性をつく事により、頓挫させようとする。
櫂はそれに成功し、さらには巨大戦艦の構造上の欠陥をも指摘する。
しかしそれでも巨大戦艦建造計画は止まらなかった。
論理を精神論が越えてしまったのである。
この物語で興味深いのは櫂の試みが失敗してからである。
彼は巨大戦艦の建造責任者である平山中将に呼び出される。
櫂は彼から本当の巨大戦艦建造の目的を聞かされるのである。
平山は巨大戦艦を沈めるために作っていたのだ。
日本が戦争に邁進していくのは軍部だけが望んでいるからではなく、国民全体が望んでいるからである。
その流れは止まらない。
戦いになれば日本人はとことんまで戦い、国は焦土と化して滅んでしまうかもしれない。
それならば国の象徴とも言える巨大戦艦を建造し、それが敵国に無残に沈めらることを持って戦争の無謀さ、己の考えのおかしさに国民が気づくことのきっかけにできるのではないかというのが平山の考えであったのだ。
だからこそこの巨大戦艦に古の日本の名前、大和と名付けるのだと。
戦艦大和は日本の国の依り代であると。
沈めるために作られた戦艦。
まさに国民を鎮めるために。
数字、論理は何事にも揺るがされない事実である。
しかし人間は事実だけで判断するわけではない。
愚かしいがそれが人間なのである。
そのことに櫂は最初は気づかなかった。
それは彼が理想に燃える若者であったからであろう。
平山は彼に比べ人間の本質を知っていたのだ。
このところ隣の国が騒がしい。
こちらから見ると感情的で非論理的に見えるのだが、よく考えてみるとこの映画で描かれている時代では、日本がそのように見えていたかもしれない。
非論理的な思考で無謀な戦いに挑んだのだから。
まだ日本は冷静に振舞えている。
ちょっとは大人になったということであろうか。

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2019年7月20日 (土)

「それいけ!アンパンマン きらめけ!アイスの国のバニラ姫」さりげなく盛り込まれている教訓

昨年に引き続き、娘と「アンパンマン」の映画に行ってきました。
一年前は映画館そのものが初体験だったので、彼女も落ち着きなかったですが、今年は昨年よりはお行儀は良かったですね。
でも、小さい子がフラフラと歩き出すと釣られて歩き回ったり・・・。
「アンパンマン」の映画だから許されますが、まだ他の映画に一緒に連れて行くのは厳しいですかね・・・。
去年の映画はアンパンマンその人が物語の中心にいたのですが、今回の映画ではアンパンマンというよりはゲストキャラクターのバニラ姫とコキンちゃんが主人公とも言えるようなストーリーでした。
バニラ姫はアイスの国の女王を引き継ぎましたが、魔法のスプーンでアイスを生み出すことができません。
なんどもなんども練習してもできるようにならないため、彼女はアイスの国を逃げ出してしまいます。
その途中でバニラ姫はコキンちゃんと出会い仲良くなります。
しかしその間、バニラ姫がいなくなったアイスの国はばいきんまんに乗っ取られてしまいました。
それを知ったバニラ姫とアンパンマンたちは取り戻そうとしますが、やっぱりバニラ姫は魔法のスプーンを使いこなすことができません。
それで苦しむバニラ姫を見て、コキンちゃんはなんと魔法のスプーンを捨ててしまうのです。
バニラ姫が辛いのだったら、無理して女王の役割などをやることはないということです。
自分のやりたいことに忠実に素直に生きるコキンちゃんならではですよね。
コキンちゃんが人気があるのは、一見わがままに見えつつも、自分がやりたいことに素直であるという点かもしれません。
一度、魔法のスプーンを失い、またアイスの国のために戦ってくれるアンパンマンたちの姿を見ているうちにバニラ姫の中で女王としての自覚が目覚めます。
そして魔法のスプーンを扱えるようになるのです。
彼女に足りなかったのは、女王としての自覚と他の誰かの喜ぶ顔が見たいという気持ちだったのですね。
毎度のことながら「アンパンマン」のお話にはそういった教訓がさりげなく入っているから子供に見せるのにも安心です。
まあ、そういう教訓に我が娘が何か学び取ったのかは不明ですが・・・。
彼女はなかなかアンパンマンが出てこないので、「アンパンマンはどこ?」とずっと言っておりました。

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2019年7月 2日 (火)

「X-MEN:ダーク・フェニックス」 コレジャナイ

21世紀フォックスが、マーベルを傘下に持つディズニーに買収され、2000年の「X-メン」から続く現行路線は本作で終了となります。
「X-メン」は現在のアメコミ映画ブームの先駆けとなった作品で、それまではマニア向けと思われがちであったアメコミ作品に多くの一般的な観客を呼び込むことができると証明しました。
差別などの社会的な問題をその物語の中に内包して、大人の鑑賞に耐えうる映画としたところも新しかったと思います。
その後、数々の続編またはスピンオフが作られてきました。
ただ個人的には正直言って最初の3作品以降は、強く惹かれるものはありませんでした。
特に「フューチャー&パスト」以降は映画会社として都合よく時間軸を変更しているように思えました。
つまり映画会社としてドル箱の人気シリーズのため、物語を無理やり延命しているように感じたのです(ジャンプの漫画などでもありますよね)
個人的には初期3部作で物語は一区切りついていると思っていて、その後のウルヴァリン単体の映画はスピンオフとして割り切っていました。
「ファースト・ジェネレーション」も公開時はスピンオフとして私は捉えていたのでまだ別物と感じていたためよかったのですが、「フューチャー&パスト」で旧3部作と都合よく物語が融合してしまったためちょっと混乱しました。
というのも、旧3部作と「ファースト・ジェネレーション」以降の作品に共通して登場するキャラクターが性格や立場も異なり、見れば見るほど最近の作品は「コレジャナイ」感が強くなってきたと思うのです(最近見始めた方は感じないかもしれませんが)。
ジェームズ・マカヴォイが演じるプロフェッサーXは過ちも犯す人間味がある存在になっていると思いますが、私としては揺るぎない信念と正当性を持っている賢者というイメージが強いのです。
ですので、本作でも揺らぎ迷うプロフェッサーXが描かれますが、違和感を感じてしまうのです。
本作ではプロフェッサーXは、ミュータントのために戦うという大義ではなく、個人的な承認要求を満たしたいというエゴも見え隠れし未熟な感じがします。
賢者のイメージを持っている自分としては本作のようなプロフェッサーXを見せられるとややイライラしてしまうのです。
「スパイダーマン」のようにリブートしたり、またはっきりと別の物語として描いている「ローガン」のような場合は、全く別物としてキャラクターをとらえるのでいいのですが、「X-MEN」シリーズにおいては混乱をしてしまった感じがあります。
特に本作「ダーク・フェニックス」で描かれるジーンの暴走は、全く同様のことを「ファイナル・ディシジョン」でも題材にしているので「今さら」感をぬぐい切れません。
キャラクターの性格や立場も違いますし、物語も異なってはいるのですが、エッセンスの部分は同じなので新鮮さは感じませんでした。
上でプロフェッサーXの例を述べましたが、旧3部作に比べると最近の「X-MEN」はキャラクターが全般的に若く未成熟な感じがします。
それによって同じ題材を扱っていても、「ファイナル・ディシジョン」に比べ物語がやや浅く軽くなっている気もしました。
映画会社の都合により物語全体、そしてキャラクターが混乱してしまったというのが、最近の「X-MEN」ではないでしょうか。
ディズニーの買収によりいったんリセットされた「X-MEN」。
MCUへの参加も噂されますが、魅力的なキャラクターが多いこのシリーズなので合流がうまくいけば、さらにアメコミ映画も盛り上がることになるかと思います。

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