2019年10月 5日 (土)

「アド・アストラ」孤独に焦がれ、孤独を恐れる

本作はスペース・アクションと銘打たれているが、その本質は違う。
確かにオープニングの宇宙エレベーター(?)のシークエンスや、月面車でのチェイスシーンは今まで見たことがない、宇宙でのアクションシーンとは言えるし、舞台の多くは宇宙である。
しかし、本作はそのようなシーンをことさらに見せたかったわけではない。
どちらかと言えば、何が起こっても異常なほどに沈着冷静であるロイというキャラクターを描くためにあったと言ってよい。
私は本作のテーマは「孤独」であると考える。
その反対の「繋がり」であると言ってもいいだろう。
宇宙というシチュエーションはその「孤独」を描き出すには最適の舞台であるがゆえの選択であるように思う。
これが「深海」であっても成立するような気もするが、ただ後に描く理由により、やはり宇宙の方がベターであるだろう。
主人公ロイは孤独な男である。
普通に社会生活をおくれているようであっても、彼はその内面を他の者にされけだすことはない。
妻であった女性にもそれは同じであり、それ故に彼女は彼から離れていった。
ロイは劇中の多くのシーンで宇宙服を着ているが、まさに宇宙服が彼と他の人々との関係性を象徴している。
自分を守る厚い皮膜、直接触れることができない関係性だ。
彼は自身のそのような性向に気づいているものの、それをどのように解消していいかわからない。
またそのような状態でいる方が心地よいとも感じてしまう。
これは個人的にはわからない感覚ではない。
自分もどちらかというと内面をさらけ出す方ではないし、一人を好む性向がある。
直接的な感情表現をする人は付き合っていても苦手であるのだ。
一人になりたいということもしばしばある。
もう一人の主要な登場人物はロイの父親であるクリフォードだ。
彼は地球外生命体の探索のため、遠く海王星まで遠征し、そこで消息を絶った。
彼を探しに行くことが、ロイのミッションとなる。
クリフォードは地球外生命体の探索に異常なほどの熱意を燃やす。
結果、彼の方針についていけないプロジェクトのクルーを殺害してしまったほどだ。
そのプロジェクトは努力にも関わらず、成果をあげられなかったようだ。
すなわち人類以外の知的生命体の痕跡を見つけられなかったということだ。
それは人類がこの宇宙において唯一の知的生命体であったということ意味する。
それをクリフォードは認められない。
なぜか。
彼は人類が「孤独」であることを知るのを恐れたのであろう。
孤独であることは恐怖を伴う。
なぜならば自分が存在することに誰にも気づいてもらえないことを意味するからだ。
そうなると自分が存在する意味はあるのかという根源的な問いに至ってしまう。
一方、クリフォードは妻と子を捨て、宇宙へ旅立った男でもある。
彼は自分のやりたいことのため、しがらみを一切捨てたのだ。
この感覚もわからないではない。
家族は愛しているものの、一人になりたいと渇望することもあるものだ。
つまり人間には孤独になりたくないという気持ちと、孤独になりたいという気持ちは同時に存在しているのだ。
ロイは父親を見つけるために深太陽系を目指す旅の中で、地球から離れるほどに精神的に不安定になる。
より孤独になる環境に向かう中で、人々との繋がりが薄れることによるのだろう。
孤独になりたいという気持ちは遠心力だ。
また繋がりたいという気持ちは引力だ。
ロイは遠心力で深宇宙に旅をしていったが、より孤独が深まる中で、人と人とをつなぐ引力が切望するようになったのかもしれない。
遠心力と引力のバランスが取れた場所が軌道である。
人間は孤独になりたいという気持ちと、孤独になりたくないという気持ちのバランスが取れた軌道を見つけなくてはいけないのかもしれない。
そしてそれはパートナーと同じ軌道に入れることが望ましいのだ。
ロイは旅路の果てにそのバランスを見つけることができた。
クリフォードの場合は正反対になる。
彼が恋焦がれるのは、つまり引力の方向が外宇宙なのだ。
彼は他の生命体とのコネクトを求めている。
その方向性が引力で、地球に向かう方向性は彼からすると遠心力なのだ。
結局、彼は強い引力に引かれ一人宇宙に旅立った。
冒頭に書いた宇宙を舞台にしたことの意味はここにある。
人間の関係性における遠心力と引力を描くためのメタファーとして宇宙が適しているのだ。
人との関係性の遠心力と引力のバランスが取れた軌道を見つけられれば、人は心地よく安らかに生きていけるのだろう。

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2019年8月15日 (木)

「アルキメデスの大戦」 鎮めるために沈められた戦艦

日本対アメリカ。
動員力、工業生産力、石油等の資源力、どれをとっても勝ち目のない戦いであった。
それらを冷静に数値を使って分析し、評価できる人であれば、そう考えたであろう。
しかしそうはならなかった。
データはそろっていたのにも関わらず。
人は見たいものだけを見たいように見る者なのだ。
本作の主人公、櫂は帝大で100年に一度の天才と呼ばれた男だった。
彼は、太平洋戦争へ邁進する海軍の象徴となるであろう巨大戦艦の建造を阻むべくその数学の才を駆使する。
折しも海軍では大艦巨砲主義と航空主兵主義の二つの主張がぶつかり合っていた。
大艦巨砲主義とは大口径の主砲と重装甲を持つ戦艦を艦隊の中心とする考え方であり、それに対して航空主兵主義はリーチのある航空機を主戦力とし、それらを搭載する空母を艦隊の中心とする考え方である。
現在のアメリカ海軍を見ればわかるように航空主兵主義の方が現代的な戦略である。
劇中で櫂が指摘しているように大艦巨砲主義は非常に効率が悪い。                
敵艦の速度・加速度・進行方向、自艦の速度・加速度・進行方向、風力・風向などの環境の数値を分析し、着弾する時の敵艦の位置を正確に予想できるかどうかがポイントなのだ。
砲弾は発射した後は、何もできないためだからだ。
太平洋戦争当時、それらの数値を瞬時に計測し、弾道計算をできるようなコンピューターなどは存在しなかったため、砲撃は非常に効率が悪いものだったのである。
航空機は砲弾よりもリーチがあり、その時の状況に合わせて対応可能であるため有利であることは論理的に考えれば明白であるが、当時の海軍ではそちらは主流とはならなかった。
大艦巨砲主義とは武者と武者との戦いのようであり、それに対し航空戦は鉄砲を持ち込んだようなものだったと思う。
圧倒的に国力の差があるアメリカに戦いを挑んだこと、また航空主兵主義が主流とならなかったことは論理的な考え方からすると受け入れがたいものではあるが、そういう道理が通らず、精神論的なものの見方がまかり通っていたのが当時の日本なのである。
櫂らは巨大戦艦建造計画を見積もりの不正確性をつく事により、頓挫させようとする。
櫂はそれに成功し、さらには巨大戦艦の構造上の欠陥をも指摘する。
しかしそれでも巨大戦艦建造計画は止まらなかった。
論理を精神論が越えてしまったのである。
この物語で興味深いのは櫂の試みが失敗してからである。
彼は巨大戦艦の建造責任者である平山中将に呼び出される。
櫂は彼から本当の巨大戦艦建造の目的を聞かされるのである。
平山は巨大戦艦を沈めるために作っていたのだ。
日本が戦争に邁進していくのは軍部だけが望んでいるからではなく、国民全体が望んでいるからである。
その流れは止まらない。
戦いになれば日本人はとことんまで戦い、国は焦土と化して滅んでしまうかもしれない。
それならば国の象徴とも言える巨大戦艦を建造し、それが敵国に無残に沈めらることを持って戦争の無謀さ、己の考えのおかしさに国民が気づくことのきっかけにできるのではないかというのが平山の考えであったのだ。
だからこそこの巨大戦艦に古の日本の名前、大和と名付けるのだと。
戦艦大和は日本の国の依り代であると。
沈めるために作られた戦艦。
まさに国民を鎮めるために。
数字、論理は何事にも揺るがされない事実である。
しかし人間は事実だけで判断するわけではない。
愚かしいがそれが人間なのである。
そのことに櫂は最初は気づかなかった。
それは彼が理想に燃える若者であったからであろう。
平山は彼に比べ人間の本質を知っていたのだ。
このところ隣の国が騒がしい。
こちらから見ると感情的で非論理的に見えるのだが、よく考えてみるとこの映画で描かれている時代では、日本がそのように見えていたかもしれない。
非論理的な思考で無謀な戦いに挑んだのだから。
まだ日本は冷静に振舞えている。
ちょっとは大人になったということであろうか。

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2019年7月20日 (土)

「それいけ!アンパンマン きらめけ!アイスの国のバニラ姫」さりげなく盛り込まれている教訓

昨年に引き続き、娘と「アンパンマン」の映画に行ってきました。
一年前は映画館そのものが初体験だったので、彼女も落ち着きなかったですが、今年は昨年よりはお行儀は良かったですね。
でも、小さい子がフラフラと歩き出すと釣られて歩き回ったり・・・。
「アンパンマン」の映画だから許されますが、まだ他の映画に一緒に連れて行くのは厳しいですかね・・・。
去年の映画はアンパンマンその人が物語の中心にいたのですが、今回の映画ではアンパンマンというよりはゲストキャラクターのバニラ姫とコキンちゃんが主人公とも言えるようなストーリーでした。
バニラ姫はアイスの国の女王を引き継ぎましたが、魔法のスプーンでアイスを生み出すことができません。
なんどもなんども練習してもできるようにならないため、彼女はアイスの国を逃げ出してしまいます。
その途中でバニラ姫はコキンちゃんと出会い仲良くなります。
しかしその間、バニラ姫がいなくなったアイスの国はばいきんまんに乗っ取られてしまいました。
それを知ったバニラ姫とアンパンマンたちは取り戻そうとしますが、やっぱりバニラ姫は魔法のスプーンを使いこなすことができません。
それで苦しむバニラ姫を見て、コキンちゃんはなんと魔法のスプーンを捨ててしまうのです。
バニラ姫が辛いのだったら、無理して女王の役割などをやることはないということです。
自分のやりたいことに忠実に素直に生きるコキンちゃんならではですよね。
コキンちゃんが人気があるのは、一見わがままに見えつつも、自分がやりたいことに素直であるという点かもしれません。
一度、魔法のスプーンを失い、またアイスの国のために戦ってくれるアンパンマンたちの姿を見ているうちにバニラ姫の中で女王としての自覚が目覚めます。
そして魔法のスプーンを扱えるようになるのです。
彼女に足りなかったのは、女王としての自覚と他の誰かの喜ぶ顔が見たいという気持ちだったのですね。
毎度のことながら「アンパンマン」のお話にはそういった教訓がさりげなく入っているから子供に見せるのにも安心です。
まあ、そういう教訓に我が娘が何か学び取ったのかは不明ですが・・・。
彼女はなかなかアンパンマンが出てこないので、「アンパンマンはどこ?」とずっと言っておりました。

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2019年7月 2日 (火)

「X-MEN:ダーク・フェニックス」 コレジャナイ

21世紀フォックスが、マーベルを傘下に持つディズニーに買収され、2000年の「X-メン」から続く現行路線は本作で終了となります。
「X-メン」は現在のアメコミ映画ブームの先駆けとなった作品で、それまではマニア向けと思われがちであったアメコミ作品に多くの一般的な観客を呼び込むことができると証明しました。
差別などの社会的な問題をその物語の中に内包して、大人の鑑賞に耐えうる映画としたところも新しかったと思います。
その後、数々の続編またはスピンオフが作られてきました。
ただ個人的には正直言って最初の3作品以降は、強く惹かれるものはありませんでした。
特に「フューチャー&パスト」以降は映画会社として都合よく時間軸を変更しているように思えました。
つまり映画会社としてドル箱の人気シリーズのため、物語を無理やり延命しているように感じたのです(ジャンプの漫画などでもありますよね)
個人的には初期3部作で物語は一区切りついていると思っていて、その後のウルヴァリン単体の映画はスピンオフとして割り切っていました。
「ファースト・ジェネレーション」も公開時はスピンオフとして私は捉えていたのでまだ別物と感じていたためよかったのですが、「フューチャー&パスト」で旧3部作と都合よく物語が融合してしまったためちょっと混乱しました。
というのも、旧3部作と「ファースト・ジェネレーション」以降の作品に共通して登場するキャラクターが性格や立場も異なり、見れば見るほど最近の作品は「コレジャナイ」感が強くなってきたと思うのです(最近見始めた方は感じないかもしれませんが)。
ジェームズ・マカヴォイが演じるプロフェッサーXは過ちも犯す人間味がある存在になっていると思いますが、私としては揺るぎない信念と正当性を持っている賢者というイメージが強いのです。
ですので、本作でも揺らぎ迷うプロフェッサーXが描かれますが、違和感を感じてしまうのです。
本作ではプロフェッサーXは、ミュータントのために戦うという大義ではなく、個人的な承認要求を満たしたいというエゴも見え隠れし未熟な感じがします。
賢者のイメージを持っている自分としては本作のようなプロフェッサーXを見せられるとややイライラしてしまうのです。
「スパイダーマン」のようにリブートしたり、またはっきりと別の物語として描いている「ローガン」のような場合は、全く別物としてキャラクターをとらえるのでいいのですが、「X-MEN」シリーズにおいては混乱をしてしまった感じがあります。
特に本作「ダーク・フェニックス」で描かれるジーンの暴走は、全く同様のことを「ファイナル・ディシジョン」でも題材にしているので「今さら」感をぬぐい切れません。
キャラクターの性格や立場も違いますし、物語も異なってはいるのですが、エッセンスの部分は同じなので新鮮さは感じませんでした。
上でプロフェッサーXの例を述べましたが、旧3部作に比べると最近の「X-MEN」はキャラクターが全般的に若く未成熟な感じがします。
それによって同じ題材を扱っていても、「ファイナル・ディシジョン」に比べ物語がやや浅く軽くなっている気もしました。
映画会社の都合により物語全体、そしてキャラクターが混乱してしまったというのが、最近の「X-MEN」ではないでしょうか。
ディズニーの買収によりいったんリセットされた「X-MEN」。
MCUへの参加も噂されますが、魅力的なキャラクターが多いこのシリーズなので合流がうまくいけば、さらにアメコミ映画も盛り上がることになるかと思います。

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2019年6月30日 (日)

「アラジン」 見たことがない新しい自由な世界

若い頃はディズニーのアニメはほとんど観ることはありませんでした。
「美女と野獣」しかり、「ライオン・キング」しかり。
誰でも知っているほど世間で大ヒットとなった作品でも観たことがありません。
その頃は自分の中ではなんとなくディズニーは子どもや女性向けというイメージがあったのだと思います。
本作のオリジナルのアニメーション「アラジン」も92年なので、観たことがありませんでした。
馴染みもなかったので本作もスルーしようかとも思いましたが、監督がガイ・リッチーと聞いて、気持ちを変えました。
ガイ・リッチーと言えば「シャーロック・ホームズ」など時代ものでもスタイリッシュに描く実績がある監督ですので、アラビアンナイトをどう料理するかが見てみたくなりました。
また、最近のディズニーのアニメの実写化映画の出来が良かったということもあります。
 
本作からは女性であっても、出自がどうであっても、活躍することは可能であるというメッセージを受け取りました。
オリジナルもそうであったかは観ていないのでなんとも言えないのですが、本作についてはとても現在にふさわしいテーマであると感じました。
女性が活躍する社会と言われて久しいですが、実際にはまだまだ課題があります。
ガラスの天井と言われるように、女性が高い地位につくことがまだ難しい現状というものがあります。
本作のヒロインであるジャスミン王女は、父親を継ぎ、民のための王国を運営したいという夢を持っています。
しかし、父親であるサルタンも娘に婿を迎えて彼に王を継がせたいと考えていますし、その座を狙っているジャーファーも女が国王になるなど以ての外と思っています。
しかし、彼女は彼らが当たり前だと思っている社会の枠組み自体に負けないという意思をはっきりと持っています。
今回そのような場面で流れるのが「Speechless(スピーチレス)」という曲です。
この曲はオリジナルのアニメーションにはなかったということですが、まさにこの実写版が現代にふさわしいテーマを設定しているということを表していると思います。
社会の無言の圧力に対して、しっかりと声を上げるということを高らかに歌い上げるこの曲はまさに現代的な女性の声そのものです。
主人公のアラジンについても同様なことが言えると思います。
彼の出自は孤児であり泥棒です。
けれども彼の心は誠実であり、また正直でもあります。
そんな彼は魔法のランプを手に入れたことにより、今までの立場からより良い立場へステップアップするチャンスを手に入れます。
最初はまやかしの力で得た地位ではありましたが、彼の持ち前の誠実さと正直さにより、彼は認められ本当に彼として王女のパートナーとなります。
正しく自分の能力を活かすことができれば、上がっていくことができるというのもなかなか実際には難しいことではありますが、求められていることだと思います。
現代の社会は自由に見えて、実は社会の上層は二世、三世で固められ固定化しているようにも見ることができます。
アラジンのように実力があれば認められる社会というのは、まだまだ理想であるかもしれません。
ジャスミンとアラジンの二人が魔法の絨毯に乗って世界をめぐる時に流れるのが、「Whole New World」。
「見たことがない世界」と訳せると思います。
文字通り彼らが見たのは見たことがない様々な地域、行ったことがない場所であったとは思いますが、また別の捉え方をすれば、彼らが見たのは、伝統的な社会とは異なる、性別や出自にとらわれない自由な世界という意味であるとも受け止められます。
彼らは二人でそのような自由な世界を共有し、だからこそ惹かれあったのかもしれません。
さすがガイ・リッチーでカラフルでスピーディなテンポで描かれるダンス、アクションは小気味よく飽きさせません。
ウィル・スミスが演じるジーニーは素晴らしくおかしく、いい味を出していました。
最初の登場シーンの歌は弾けていて最高です。
ディズニー映画なのでもちろん子供も楽しめますが、上に書いたような現代的なテーマを考えながら見るのもいいかもしれません。

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2019年5月 4日 (土)

「アベンジャーズ/エンドゲーム」 文句なしの大傑作!

マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の第22作目であり、ひとまずのフィナーレとなる本作、観る前に事前情報をなるべくシャットアウトして劇場に足を運びました。
まさに期待以上の大傑作と言えるでしょう。
全てのMCU作品を観てきた私としましては大満足の結果でした。
そもそも「アイアンマン」からスタートした一つの世界観を共有するヒーロームービーの連作であるMCUという壮大な実験は少なからずエンターテイメント映画に多くの影響を与えたと言えるでしょう。
 
<ここからは大いにネタバレするので未見の方はご注意です>
 
前作「インフィニティ・ウォー」の衝撃的な結末を観た時、この話をどのように収束させるのか想像もつきませんでした。
いや、収束させるだけならまだ簡単かもしれません。
難しいのは今まで10年以上続けてきたこのシリーズのキャラクターたちのそれぞれのファンたちが納得できる、全てのキャラクターの結末を用意することが至難の技であったのだと思います。
結論からするとその困難な試みを本作のスタッフ及び出演者は成功することができたと感じました。
まず前作のラストでほとんど半分のヒーローが姿を消してしまうという衝撃的な結末に対し、どのようにその事態を解決するかということです。
まず私が感心したのは、この手のアメコミ映画でよく使われるタイムトラベル、もしくはマルチユニバース的な解決方法を安易に用いなかったことです。
マルチユニバースについてはそれをやってしまうと単独の世界観を共有するというMCUの試み自体を自己否定してしまうことになるので、この方法は取れなかったのだと考えます。
本作で用いているのはもう一つのタイムトラベル的な解決方法ですが、安易な過去改変による現在の問題を無かったことにするという考え方ではありませんでした。
劇中でも簡単にバナーやエンシェント・ワンが説明していましたが、過去を改変してしまうとそこで新たな時間軸が発生してしまうということになります。
その新たな世界では問題はなかったことになっていますが、もともといた時間軸ではその問題は何も解決をしていません。
いわばタイムトラベルと言っても別世界に行っているようなものなのですね。
本作ではそのような考えはとらず、あくまでサノスの指パッチンはあったという事実はなくならず、そこで存在しなくなってしまった者たちをいかに取り戻すことができるかということをトライしています。
タイムトラベルという世界間移動をしてしまうと、先ほどのマルチユニバース的な解決方法をとった場合と同じジレンマを抱えることになります。
このような考えにいたったスタッフたちは、私たちが考えている以上にこのMCUの世界を大事に思っていると感じました。
彼らにとってはMCUが描く世界こそが唯一の大切な世界だということです。
 
本作をもって多くの初期にMCUのヒーローたちが引退することとなります。
特にアイアンマン、キャプテン・アメリカはこの10年MCUを引っ張ってきた2大キャラクターですから、彼らのファンが納得できる幕引きをしなくてはいけません。
これも相当難易度が高いことであったと思いますが、これも成功したと思います。
まずアイアンマンことトニー・スターク。
彼は初登場作では鼻持ちならない大富豪でありましたが、ヒーローとして自覚を持ち人々のために戦うということを決心します。
基本的にプライドが高く自己中心的なところもありますが、人々を守りたいという強い意志を持ち今まで戦ってきました。
しかし前作でサノスの強大な力の前に屈し、彼は絶望を覚えます。
しかし彼は無事に生還し、また愛するポッツとも再会でき、そして彼女との間に娘を授かることもできました。
彼自身だけのことを考えれば、幸せと言えるかもしれません。
彼が戦えないと言っても誰もそれに文句は言えないでしょう。
けれども彼は多くの人々を助けることができ、自分の家族も守る可能性があるのであれば戦うと、立ち上がります。
彼には自分だけが幸せになってしまっていいのかという思いもあったはずです。
息子のように、弟子のように世話をしていたピーター・パーカーは彼の腕の中で消えてしまいました。
その時に感じた無力感、絶望感は、現在の幸せだけでは埋めがたかったのかもしれません。
失われた人々を助け、そしてサノスから世界を守るための戦いの中、彼は究極の選択を決断します。
人々を守るために自分の命を捧げることを。
彼はあそこで指パッチンをすれば自分が死ぬことはわかっていた。
そうなれば自分の家族と暮らすささやかな幸せを失うことも。
それでも彼は指を鳴らした。
元々は自分の為にだけ生きていた男が人のために自分の命を捧げた瞬間でした。
そしてキャプテン・アメリカ。
彼はそもそも自分ではなく人々を守りたい救いたいという思いのためだけに戦ってきました。
そもそも登場作品で彼はヒドラの野望から世界を守るために自分の命を捧げようとしたわけですから。
そういう意味ではトニー・スタークとは対照的です。
この対照性がその後の「シビル・ウォー」におけるスタンスの違いにつながるわけです。
本作においても希望をなくしてしまった世界で彼は少しでも人を救いたいと活動をしています。
そして多くの人を取り戻せる可能性が出てきた時、彼は迷わずそれを叶えようとします。
まさに人々のために戦ってきたキャプテン・アメリカです。
そしてサノスを食い止め、世界を救った時、あるべき場所にインフィティ・ストーンを戻すために再び過去に戻りますが、彼は結局戻ることはありませんでした。
そのまま過去に留まったのです。
彼は過去で生き別れとなってしまったマーガレットと再会し、彼女と幸せに暮らしていたのでした。
「自分の人生を生きてみたいと思った」と彼は言いました。
それまで人のために生きていた彼が、最後にこう言ったことに心が震えました。
アイアンマンとキャプテン・アメリカ。
対照的であった二人がそれぞれ彼らなりの生き様を見せてくれたラストに感激をしました。
ブラック・ウィドウやソーについても色々語りたいところもあるのですが、長くなるのでこれまでとしたいと思います。
「インフィニティ・ウォー」の指パッチンで消えたメンバーは最近のヒーローが多かったとは思いましたが、それは本作において勇退する初期のヒーローたちを描くことにフォーカスしたかったということと私は理解しました。
それは正解であったと思います。
これだけのドラマを彼らに用意できたのですから。
ラストバトルで消え去ってしまったヒーローたちも再び集結しサノスたちと戦うシーンも鳥肌ものでした。
これでこういう勇姿が見れなくなると思うと悲しくもあるのですが、仕方がないですよね。
こんなに素晴らしい物語を見せてくれたスタッフ、出演者に感謝したいです。
MCUはまだまだ続き、新たなサーガが始まります。
それはどのような物語かはまだわかりませんが、このスタッフたちが作るのであるならば何も心配することはないでしょう。
次の「スパイダーマン」の新作を心待ちにしたいと思います。

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2019年3月21日 (木)

「映画しまじろう しまじろうとうるるのヒーローランド」 娘の映画体験記第2弾

昨年の「アンパンマン」の映画に引き続き、娘との映画体験第二弾です。
半年前は2歳になったばっかりで、さすがにおとなしく座って見ることができませんでしたが、今回ははたしてどうだったでしょうか。
劇場に入るときに、映画を見ながら使う紙のメガホンを手渡されます。
半年前は同じようなグッズをもらっても、本人は何に使うのかよくわかっていないようでしたが、今回は違いました。
映画が始まる前から口にメガホンをあてて、「しまじろう〜!」と叫んでました。
ずいぶん理解力が上がっています。
椅子にも最初はおとなしく座っていて、映画が始まるのをワクワクして待っている様子。
本編始まる前の予告の間から「まだかな、まだかな」と言っていました。
こういうのは半年前はなかったですね。
「しまじろう」の映画は歌っても踊ってもOKということになっているので、そういう説明が入ります。
娘も「しまじろう〜」と声を上げていました。
いよいよ本編が始まります。
正直、お話としてはたわいがありません。
同じ幼児向けの作品として「アンパンマン」と比べると、向こうの方がストーリーとしても良くできていると思いました。
こちらとしてはかなり寝落ちしそうな状況でしたが、娘の様子をみると食い入るようにみています。
この半年くらいで映画のストーリーの理解もかなりできるようになった気がします。
実は「しまじろう」の映画は途中でトイレ休憩が入ります。
全部でも1時間もない作品だとは思いますが、ウチ的にはこれはちょっと余計な配慮かなと。
せっかくストーリーに入り込んで見ていたのに、途中休憩のせいで娘の集中力が切れました。
後半はメガホンで応援やら歌ったり踊ったりという要素も入ってくるんですが、席に落ち着いて座れなくなってしまいました。
まだまだだな、娘よ。
最後は他の子と一緒に映画館の通路を走り回る始末。
「しまじろう」の映画だから許されるが、まだまだ他の映画には連れていけないな。
次の「アンパンマン」の映画の時まで、おとなしく見れるようになっているといいけれど。
映画が終わって他の方々が劇場を出ているのに、私は駆け回る娘をつかまえるべく走っておりました。
ああ・・・。    

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2019年3月17日 (日)

「移動都市/モータル・エンジン」 スチームパンクの「スター・ウォーズ」

これは予告編がかかった時から観たかった作品です。
巨大な都市が動き、強い都市が小さな街を食らっていく。
「ハウルの動く城」を実写でやっているようなビジュアル。
これぞSF、これぞファンタジーといった設定で、スチームパンクなビジュアルはまさに私の大好物といったところです。
製作にはあのピーター・ジャクソンも入っているので品質も担保されているはず!
みんなも観てみたいだろ!と思っていたら、結構公開館は絞られていて結構驚きました。
うーむ、自分の趣味はやはりマニアックなのかしらん。
人がどう言っているかは別にして、個人的には満足度は高い作品でした。
予告で感じていたような世界観を裏切ることなくさらに見応えがあるようになっていました。
ストーリーも後半はテンション上がる展開になっていましたが、観ていてどっかでこの作品と同じ展開を見たことがあるようなと思っていたら気づきました。
「スター・ウォーズ」ですね、まさに。
映画を観た後にいくつか映画評を見てみると「スチームパンクのスター・ウォーズ」という評もあったので、まさにその通りと思いました。
パクったという話ではなく「スター・ウォーズ」自体も典型的なストーリーなので、本作についてもその王道的な物語で構成されていると考えた方がいいでしょう。
最後の主人公の父親の話はモロ被りだと思いましたが。
監督はピーター・ジャクソンのもとでストーリーボードなどを多く手がけていたクリスチャン・リヴァースで本作が監督デビューとなります。
そのためピーター・ジャクソンの影響を強く感じます。
ピーター・ジャクソンの凄いところはその物語の世界観をビジュアルで徹底的に構築するところだと思っています。
「ロード・オブ・ザ・リング」「ホビット」などは小説からそれぞれの読者の頭の中に浮かび上がってくるイメージを誰でも見える形に具現化しました。
それは物語で描かれる場面(セット)だけというわけではなく、映画で描かれる世界を全て創造しているように思えます。
セットを離れればそこには普通に控え室があったり、小道具が置いてあったりというのではなく、映っていない世界を丸ごと作っているようなイメージがあるのですね。
本作「移動都市/モータル・エンジン」についてもそのような印象を受けました。
全編を貫くスチームパンクな世界観が圧倒的でした。
登場人物についても興味深かったです。
はじめ主人公ヘラについてはそれほど魅力を感じることはなかったのです。
ある意味典型的なキャラクターであると思えたのです。
しかしシュライクのエピソードが絡んできたあたりから彼女の背負ってきた人生が浮かび上がり一気に彼女のキャラクターが深まったと思います。
シュライクとのエピソードについてはもう少し深掘りしてもよかったかなと思いました。
彼女が二人の父親に対して持つ思いについて、もうちょっと描けるとより深い物語になったかと思います。
こちらの原作はシリーズとなっているということで、また本作の終わり方も続編を作れる気配で終わりました。
個人的には続編を観てみたいと思いましたが、興行的にはどうなのでしょうね・・・。

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「アリータ:バトル・エンジェル」 違和感はダイバーシティを描くため

「ターミネーター」「アバター」のジェームズ・キャメロン製作で、「デスペラード」「シン・シティ」のロバート・ロドリゲス監督のSF。
原作は日本のコミック「銃夢」ですが、こちらは未読です。
予告を観たときの印象としては、この作品に対してはあまりいい印象を持ちませんでした。
一番の要因としては主人公アリータのビジュアルです。
原作にはまったく思い入れがないので、それとは違うというといったことではありません。
以前にもこちらのブログでも触れた「不気味の谷」問題ですね。
アリータはサイボーグなので、映像はCGで作られていて、他の人間のキャストと絡むこととなります。
最近のCGの発達もありアリータの動き、肌の質感などはほとんど不自然さを感じることはありません。
しかし顔のルックスが少しばかり人間をカリカチュアされているのですよね。
コミックスの印象を残そうとしたのか目が非常に大きい。
他の顔の要素の質感がリアルなので、かえって不自然なくらいに目の大きさが目立ちます。
人間に近づいているけれでも完全ではないことからくる「不気味の谷」問題が発生してしまい、どうも気色の悪さを予告編では感じました。
この印象が作品の評価に大きく影響を与えるのではないかというのが、事前の心配だったのです。
けれども観終わってみるとそれは杞憂であったと感じました。
というよりもそのようなアリータのビジュアルはあえてそうしているように思えたのです。
アリータは何百年も前にあった戦争の時の戦闘用サイボーグでした。
破壊されて遺棄されていたのを、イド博士がリブートしたのです。
つまりはアリータはこの映画で描かれている世界においては最初から異分子であったのです。
人間ではない戦闘マシーン。
その持って生まれていて決して変えることができない異質感を表現するために、あえて「不気味の谷」的な違和感を残しているようにも思えてきました。
この物語はそのような異分子であるアリータが人々に受け入れられ、愛されるようになっていく過程を描いている物語なのです。
人々に受け入れられていく過程の中でアリータ自身も人を想い、愛することを学んでいきます。
後半になると当初感じていたビジュアル的な違和感のようなものはなくなり、アリータのことを受け入れていることを自分自身で気づきました。
外見上の際などは関係なく、その人間性こそが人の本質であるということがこの作品のメッセージなのかもしれません。
ザラムを支配し全てを見通すノヴァたちの方がよほど人間性に欠けた異質感を感じる存在に見えてくるようになります。
アイアンシティは生身の人間も大部分を機械化されたサイボーグが混在していきている街です。
まさにダイバーシティを体現している世界なのですね。
そこから隔絶されているザラムはそれを否定している。
現在まさに課題となっているダイバーシティがこの作品の一つのテーマと言えるでしょう。
映像的にも見ごたえはありました。
さすがキャメロンが関わっているだけあってアクションシーンなどは迫力があります。
とはいえ、これだけCGが発達している時代なので、「アバター」の時のように今までに観たことのない映像で衝撃を受けるというところまでではありません。
ラストは次回作も作れるような終わり方でしたね。
興行が良かったら、次回作にチャレンジするのでしょうか。

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2019年2月24日 (日)

「アクアマン」 単独作品主義へ?

マーベル・シネマティック・ユニバースの作品群に比べて、あまりパッとしないDCエクステンデッド・ユニバース。
特にDCのヒーローたちが一堂に会する「ジャスティス・リーグ」は、同様にヒーロー総登場となっている「アベンジャーズ」と比べると見劣りがします。
その一方で「ワンダーウーマン」はマーベルの作品と比較しても、遜色がない出来栄えだと思います。
「ワンダーウーマン」はDCエクステンデッド・ユニバースを構成する一つの作品というよりは、独立している話として成立していると思います。
本作「アクアマン」も同様だと感じました。
DCエクステンデッド・ユニバースがなかなかうまくいかないのは、登場するヒーローたちが個性的な世界観と背景を持っているということではないかと思います。
そのため一堂に会する時は、それぞれの世界観をぼかすこととなり、それが中途半端な印象を与えるのではないかと思うのです。
マーベルがうまくいっているのは、個性的に見えるヒーローたちもその根っこは我々が見ている現実と同じような世界であり、ベースとした同じ世界を背景として持っているためと考えています。
ヒーローたちのスーパーパワーの根源は科学であったり、魔法であったり、神の力というようにそれぞれがユニークだったりするわけですが、彼らが暮らす世界は我々の世界にとても近くそして、ヒーローたちによって共有されています。
しかしDCのヒーローたちの世界はそれぞれが独立しているように思えます。
バットマンが活躍するのは架空の都市ゴッサムシティーです。
そこには不可思議な格好をした犯罪者たちがいます。
バットマンの能力は科学の力と極限まで追い込んだ肉体と精神力なわけでリアリティはあるのですが、ゴッサムシティー自体はファンタジーな存在だと思います。
スーパーマンが暮らすのは現実世界と地続きのようなニューヨークですが、彼の能力はスーパー過ぎて、ある意味誰も叶わないと思えるほどです。
そのため、なかなか他のヒーローと世界を共有しにくい。
アクアマンもそれに近いかと思います。
彼らが一緒の世界にいるという設定は、どうしても物語的に無理が生じてくる。
日本の「仮面ライダー」シリーズがやっているようにアクロバット的なメタな設定でいくのであれば、強引であろうとも筋は通るわけですが、そこを曖昧にしているからキレ味が鈍くなる。
「ワンダーウーマン」「アクアマン」がほぼ独立した世界観で成功していることを考えると、DCはマーベル的なユニバース構想で勝負するのではなく、魅力的なそれぞれの世界を描くという単独作品主義にしたほうが勝負できそうな気がします。
本作「アクアマン」は冒頭の激しいカメラワークのニコール・キッドマン演じるアトランナの華麗なアクションに目を奪われ、そして「海のスターウォーズ」とも称される後半の水中での大乱戦に至るまで見所がたくさんありました。
マーベル・シネマティック・ユニバースは強いシリーズではありますが、どこかで見逃すと置いてけぼりをくらう感もあります。
もちろん単独の作品としても成立はしているのですが、初見ではわけがわからないところもあるのではないでしょうか。
そういうストレスは単独作品主義では生じないので、そこを勝負のしどころとしたほうがいいかと考えます。
おそらくマーベルもそのあたりは気にしているようにも思えます。
「キャプテン・マーベル」そして次回の「アベンジャーズ エンドゲーム」は一旦リセットをしようとしている感じがします。
マーベル、そしてDCともに今後の展開から目が離せません。

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