2017年10月14日 (土)

「亜人」 割り切りがしっかりできていて小気味いい

例によって原作は未読で鑑賞してきました。
最近、原作の映画は結構長尺のものが多くなってきていますよね。
長い原作をコンパクトに映画をするのは大変ですし、登場人物を説明していく段取りなどもあるので、長くなりがちです。
特に登場人物の説明は丁寧にすればわかりやすくはなりますが、展開が遅くなって冗長な感じがしてくるので、バランスが難しいところです。
その点において本作「亜人」はかなり割り切って描いているかなと思います。
オープニングから主人公永井の佐藤による救出作戦が開始され、その後すぐに二人は対立し、バトルシーンに突入します。
ある意味、イントロなしでクライマックスに入った感じもあり、一気に作品世界に引き込まれる感じがしました。
と言いながら、ただバトルをしているだけでキャラクターの背景が全く不明かというとそういうことでもなく、ちょっとしたシーンであったり、台詞であったりでその登場人物がどんな人間なのかを伝えることは行なっていると思います。
永井なり、佐藤なりの過去話など掘ればいくらでも掘れそうだと思いますが、そこをあえて掘らず、映画としての展開のスピードを重視した潔い構成になっていると思います。
亜人研究所とか、政府の黒幕とか色々ありそうですけど、この辺りもあっさり切っていて小気味がいいです。
どうして亜人は存在するのかということなども描きたくなるとは思いますが、そのあたりもそういうものだという割り切りにの中で話が進んでいきますよね。
そのため映画全体は見ていて非常にスピード感があり、また比重の多いアクションについても亜人という特性を活かしたアクションとなっていて見応えがありました。
普通は死んだら負けということが前提にアクションが組み上げられていますが、本作の亜人の戦いは死んだら元々の完璧な状態で復活します。
劇中ではリセットと言っていましたが、まさに言い当てていますよね。
リセットボタンに手をかけながらゲームをしている感じ。
彼らにとって最悪なのは、リセットできない状態になること。
死んではいないけれども、動けない状態になると彼らは負けなのですよね。
ゲームの前提が違うから、アクションも通常のものとは変わるはずです。
そのあたりのルールの違いがよく劇中のアクションシーンで描かれていました。
そういう点では見たことがないアクションになっていたと思います。
割り切りがしっかりできていて、やりたいことが明確になっている作品に仕上がっていると思います。

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2017年9月30日 (土)

「エイリアン:コヴェナント」 ミッシング・リンク

<ネタバレ含みますので、ご注意です>

前作「プロメテウス」は「エイリアン」シリーズの前日譚として、様々な謎が解決されると思いましたが、逆に色々と謎を置いていった印象で、ややスッキリした感じがしなかった印象でした。
本作「エイリアン:コヴェナント」は「プロメテウス」を引き継ぐ内容で、そしてその後の「エイリアン」に続くエピソードとなっており、シリーズのミッシング・リンクであるとも言えます。
本作ではそもそもエイリアンという存在は何ものなのか、なぜあのような生物が存在するのかという謎、そして人類とは何者であるのかという謎が明らかになります。
そもそも人類はエンジニアという異星人が、自分たちの遺伝子を種として地球に蒔いたことが起源となっていました。
彼らが人類の創造主であるわけです。
そして人類は文明を発展させ、やがてアンドロイドという新たな生命というべき存在を産みだしました。
アンドロイドは死なないという点において、人類よりも「完全な」存在と言えます。
そのようなアンドロイドの一体、デイビッドらはプロメテウス号でエンジニアの存在を発見します。
そしてまた、彼らの創造物の一つであるエイリアンとも遭遇するのです。
本作で明らかになるのは、デイビッドがそのエイリアンをさらに改良し、完全なる生命体を作り上げていたということです。
攻撃的な性質、頑強な肉体、強酸性の血液、そして宇宙空間ですら生きることができるパーフェクトな生命体である、エイリアン。
アンドロイドである彼は不完全な存在である人類に作られました。
しかし、より完全であるはずの彼らは、不完全である人類に恭順をしなくてはいけませんでした。
デイビッドの中に人類を越え、さらに完全なる者を生み出したいという欲望が目覚めたのでしょうか。
この欲望は他者を征服し、自分たち以外を排除する弱肉強食の論理です。
デイビッドはその不完全さゆえに人類は存続するべきではないと言っていました。
結果的にはアンドロイドのデイビッドを経由して、自分たちの存在を脅かす存在を生み出してしまったわけです。
そしてそれはエンジニアもそうなのかもしれません。
生物というものはそのように新たな種が前の覇者を駆逐していくものなのでしょうか。

いくつかまだ積み残しの謎もあるように思いました。
本作の結末でコヴェナントが向かうのは元々の目的地であったオリエガ6だと思われます。
「エイリアン」でノストロモ号が到着したのは、オリエガ6なのでしょうか、それとも本作の舞台となっていた惑星なのでしょうか。
エンジニアの宇宙船があるということから本作の惑星であると思うのですが、ノストロモ号乗組員を襲うのはデイビッドの研究室の地下にあったエイリアンの卵なのですかね・・・?
その時デイヴィッドの痕跡が一つもないのはちょっと気になりますが。
そうだった場合は、オリエガ6の方にもデイビッドが持っていったエイリアンが2体いるはずなのですよね。
その後のデイビッドも気になります。
あと、エンジニアは(デイビッドに酷似した)王らしき人物に滅ぼされますが、これがデイビッドの妄想なのか(?)、現実のことなのかはわかりません。
現実のことであると彼は何者であるか、そして彼はその後どうなったのかというのが気になります。
彼はエンジニアたちに生み出されたアンドロイド的なものであったのかもしれません。
そうなると生物というものは自ら自分たちよりも優れたものを生み出し、そして滅ぼされていくという運命にある存在なのかもしれないとも考えられます。
意外と哲学的な話になったものですね。

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2017年8月22日 (火)

「宇宙戦隊キュウレンジャー THE MOVIE ゲース・インダベーの逆襲」 短いながらも密度が濃い

本作は「スーパー戦隊」シリーズの第41作 「宇宙戦隊キュウレンジャー」の劇場版作品です。
「キュウレンジャー」ではいままでのシリーズとは異なる新しい試みが行われていますが、中でも一番インパクトがあったことはメンバーが最初から9人いるというところでしょう。
今までの「スーパー戦隊」シリーズでは、チームの初期メンバーは3人や5人であることが多く、途中で追加戦士が1人もしくは2人加わっていくというのが通常でした。
けれども「キュウレンジャー」では初期メンバー9人、加えて現時点では3人の追加戦士が加わり、総勢12人という大所帯となっています。
これだけの人数がいるとそれぞれのキャラクターの描き分けが難しいと思うのですが、この作品においては非常にうまく個性を出せているように思います。
ヒューマノイドや、獣人や、ロボットや、子供・・・、見た目も性格も個性あるキャラクターが配置されていますが、これは大人数であるからこそしっかりと計算されてキャラクターが丁寧に設計されているという印象を受けます。
人数が増えることにより、物語の展開にも今までの「スーパー戦隊」シリーズとは異なるものが見られます。
わかりやすいところでいえば、劇中の事件の進行に合わせてメンバーが複数の別チームに分かれて行動し、やがて合流していくという新しい展開があげられます。
この劇場版でもケルベロスの力を手に入れるために、キュウレンジャーは3チームに分かれ、3つの石(三頭のケルベロスなので3つ集めなければいけない)の探索を行います。
3チームの行動が同時並行的に描かれるので、物語が立体的になった印象を受けました。
事件に対応すべく出撃するチームのメンバーは毎回くじ引き(!)で選ばれるという設定になっていて、そのため毎回メンバーが変わる(レッドのシシレッドは強運の持ち主のため毎回メンバーに選出されるという設定)ので、キャラクター同士の絡みも変化が出てきます。
そのため12人いるキャラクターの個性がしっかりと出しやすい仕掛けになっています。
劇場版は30分程度の尺しかないのですが、3チームを並行で描くというアイデア、さらにはタイムリミットシチュエーションによって、短い尺ながらも密度の濃い物語の展開があったと思います。
最近の「スーパー戦隊」シリーズの劇場版の中においてもレベルの高い作品に仕上がっていたと思いました。

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2016年12月10日 (土)

「インフェルノ」 シリーズの中では一番

観てから2週間も経ってしまった・・・。
本作「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」 に続くラングドンシリーズの第3弾になります。
前2作は原作も読んでいたのですが、そちらと比べるとハリウッド映画調のアクションサスペンスに仕上がっていたような印象で、原作が持っていた暗号解読的な謎解きの面白さというのはなかったように感じました。
ですので残念ながら特に面白い作品であるという認識にはなりませんでした。
そのため本作も観ようかどうか迷っていたのです。
しかしうまくタイミングがあって、結局観に行ったのですが、大変面白いと感じました。
まず、こちらについては原作を読んでいないで映画を観たということはあるかもしれません。
全く展開を知らなかったので、素直に観れたということはあります。
前2作についても原作を読んでいなかったら、もっと採点は変わったかもしれませんね。
ある謎が提示され、それは世界的な陰謀に絡んでいて、謎を解いていくたびに新たな謎が提示されていく。
ラングドンはそれをたまたま相棒となった美女とともに解き世界の旧跡を巡っていく。
そしてまた謎の組織が彼らを追っていく。
基本的にラングドンシリーズというのはこのような構成です。
「インフェルノ」もまさしくこのような展開ではあるのですが、退屈だとは思いませんでした。
ラングドンと行動をともにするシエナの正体が明らかになったあたりは、不意を衝かれた感じで「おっ!」と思ってしまいました。
よく考えるとこの手のサスペンスではありがちな展開ではあるのですが、いいタイミングで見せたという感じでしょうか。
この辺はさすがベテラン、ロン・ハワードというところでしょう。
シエナを演じている女優さんは綺麗な方で、どっかで観たことがあるようなないようなと思いながら観ていたのですが、調べてみると「ローグ・ワン」の主演なのですね。
「ローグ・ワン」の予告を観ていたから記憶に残っていたのか・・・。
いい女優さんに思えたので「ローグ・ワン」も期待したいです。

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2016年9月19日 (月)

「X-MEN:アポカリプス」 エンターテイメントと思想のバランス

「X-MEN」新三部作の最終章です。
前作「フューチャー&パスト」ではタイムトラベル要素が入ってきたので、間が空いてから見るとタイムラインがわからなくなります。
しかし今回はジーンやサイクロップス、ストームなど「X-メン」の主なキャラクターが登場し、旧三部作と新三部作のリンクが明快になってきます(実際は前回過去の改変を行っているから、タイムライン的には別になりますが)。
ジーン、サイクロップス、ストームは旧三部作から俳優陣も若々しくなっています(過去を描いているので当たり前か)。
とはいえ助っ人として登場するあの人は変わらず。
他の誰が演じてもブーイングが来そうなので、なかなか変えづらいですよね。
不死の体だから老けないってことで。
「X-MEN」シリーズは登場人物も多いし、超能力もド派手なものが多いので、話のスケールがかなり大きくなりがちです。
ともすると大味になりやすいのですが、さすがブライアン・ジンガーは手堅くまとめ、その辺もバランス良くしていますね。
強大な力を持つ適役が登場すると、従来のキャラクターがこじんまり見えたり、妙なパワーアップをしたりと、話がインフレを起こしやすい。
今回などはX-MENサーガの時系列としては真ん中辺になるので、無理はパワーアップは先に繋がらなくなりますし、手加減が難しいところです。
究極に個の力を高めることにより、それ以外の人間を支配し、平和を実現しようとするアポカリプス。
彼が見ている世界は戦いがなく平和なのかもしれないですが、それぞれの人間は抑圧されている世界です。
しかし、プロフェッサーXが目指しているのは、誰でもがその違いにかかわらず平和に暮らしていける社会です。
旧三部作に比べ、ミュータントが象徴するマイノリティの苦しみ の描き方は新三部作薄いですが、それが「X-MEN」シリーズの描く思想であることは間違いないでしょう。
大作のアメコミ映画としてエンターテイメント感は強く出しつつも、「X-MEN」らしい思想は保っている作品となっていると感じました。
さてこれで「X-MEN」サーガは繋がったわけですが、次回はどういう風に展開しますかね。
個人的にはミスティークとマグニートがどう合流していくかが見てみたいところです。
(それとも新しいタイムラインでは合流しないのか?)

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2016年7月29日 (金)

「インデペンデンス・デイ: リサージェンス」 虚しい拡大再生産

前の「インデペンデンス・デイ」が公開されてから、もう20年経っているんですね。
久しぶりの続編「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」も監督は前作と同じくローランド・エメリッヒです。
まあ、この方の作風は相変わらずで、作品は相変わらず大味です。
前作ではホワイトハウスを上空を覆う巨大UFOが光線で攻撃するというビジュアルが印象的でした。
あの時代はああいう映像はあまりなかったので、とても印象的でした。
地球を何度も破滅させている男エメリッヒは今回も派手に異星人の攻撃を描いてはいるのですが、観客サイドもそういう映像を見慣れてしまっているところもあり、前回ほどの強い印象は持てませんでした。
今となってはよくあるビジュアルといった感じです。
UFOも地球を覆うほどに巨大になり、破壊度も規模が大きくなっているのですが、インフレを起こしているだけであって、目新しさは感じないのが残念なところです。
あとは異星人の設定も、数々のエイリアンものを焼き直ししているようで新鮮味がありません。
ハリウッドは、異星人をアリやハチのような社会性のある昆虫をモチーフとした設定で描くことが多いですよね。
「エイリアン2」の時はとても新鮮でしたが、もうこの手の設定は食傷気味です。
映画的にはボスキャラを倒せば全て解決するという使い勝手の良さがあるとは思うのですが、いい加減に使い古されてしまった設定であるような気がします。
そろそろ新しいアイデアが出ないものですかね・・・。
エメリッヒなので、キャラクターが類型的で薄っぺらいのは相変わらず。
それでも前作の「インデペンデンス・デイ」では大統領の演説から、それぞれの人々が自分を犠牲にしても地球を守りたいという気持ちがあって、それにより異星人を撃退するという終盤に、カタルシスを感じたものです。
続編である本作はそのようなカタルシスも感じないのですよね。
前作と同じ構造でただ規模を大きくしているだけの、虚しい拡大再生産のような感じがします。
こういう展開になると予想していたので、がっかり感も少なかったんですけれど、それでも残念な出来でした。

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2016年7月18日 (月)

「アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅」 過去は変えられない

てっきりティム・バートンが監督かと思ったら、彼は製作だけだったのね。

前作はアリスが人と違う自分に自信を持って行動できるようになっていく、彼女の成長物語でした。
今回オープニングから彼女は父親の事業である貿易を継いで、若い女性でありながら自ら決断して生きていっている女性になったことがわかります。
つまり前作で彼女は未来を自ら選択していく勇気を身につけていくこと学んだわけですね。
そして本作では、未来というよりは過去に目を向けたお話となっています。
主人公はアリスで彼女の行動を物語は追っていくのですが、過去を描かれるのはマッドハッターであり、赤の女王であり、白の女王です。
ワンダーランドの住民は奇妙なキャラクターが揃っていますが、その中でもこの3人は特別変わっています。
そんな風変わりな彼らでさえ過去はありました。
というよりも、過去が彼らを作っている。
マッドハッターの奇妙奇天烈で陽気な性格の裏には、過去に家族を失った悲しみがあります。
赤の女王があんなにひねくれ、残忍であるのも、昔から自分だけが不幸な目にあい、誰にも愛されないという苦しみからきています。
誰でも過去に縛られ、過去により自分が作られている。
アリスはマッドハッターの亡くなった家族を救うため過去に飛び、またそこでは赤の女王の不幸な事故を回避しようとしますが、うまくいきません。
彼女は過去はどうやっても変えられないということを知ります。
起きてしまった過去をどんなに嘆き、どんなに悔やんでも、それは変えることはできません。
人はそれを受け入れるしかない。
アリスも父親を失ってしまったことを悔やんでいたのでしょう。
時間は大切なものを奪っていくと彼女は言っていましたが、そこには父親を失い、なすすべがないことへの苛立ちを感じます。
彼女がマッドハッターのために過去へ旅立つのも、自分の思いを重ねていたからかもしれません。
しかし過去は変えられないという認識を彼女は改めてもち、その上でそれを受け入れて自分の未来を選択していくことを学びます。
過去を受け入れた姿は、赤の女王と白の女王の和解にもうかがえます。
この先ワンダーランドも、アリスの人生も前向きで幸せなものになっていくのでしょうね。

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2016年7月10日 (日)

「エクス・マキナ」 人間の悪夢の始まりか?

昨今A.I.(人工知能)が現実世界でも注目を浴びている。
昨年Googleの人工知能AlphaGoが韓国のプロの囲碁師を破ったのは記憶に新しいところ。
その他にもMicrosoft、IBMなどの大手のIT企業も急速に人工知能の研究を進めている。
人工知能がこの後発達を続けていき、いつか人間の能力を超える事態となることをシンギュラリティ(技術的特異点)と言い、ジョニー・デップ主演の「トランセンデンス」でもそれは描かれた。
オックスフォード大学が昨年発表した「文明を脅かす12のリスク」の中でもその一つとして人工知能の進化が挙げられている。
さて人工知能が「知能がある」とどのように我々人類は確認することができるのか。
その一つの有名な方法が「チューリング・テスト」である。
これを考案したアラン・チューリングは映画「イミテーション・ゲーム」でベネディクト・カンバーバッチが演じていた。
本作「エクス・マキナ」の主人公であるケイレブが、会社のCEOネイサンに依頼されたのも、彼の人工知能が本当に知能を持っているかどうかを確かめるチューリング・テストの試験者になってほしいということであった。
こちらの作品については、事前に全く情報を持たないまま(予告すら見なかった)での鑑賞であった。
人に勧められて観たのだが、インディペンデントな映画が好みの人であったので、わかりやすい物語ではないだろうと踏んで本作を観た。
見始めて、おそらくこの作品は人間とは何か、知性とは何かということを問う作品であるだろうという予測を持った。
最初に思ったのは、主人公ケイレブは人工知能の試験者であるが、実は彼こそが人工知能そのものであるというストーリー。
なぜならば、試験対象であるエヴァが途中からケイレブへの質問を投げ始めたからであった。
チューリング・テストは試験者が、ディスプレイの向こうにいるはずの人間もしくはコンピューターに質問を繰り返し、その応答によって人間であるか人間でないかを判断するテストである。
この場合、逆にケイレブがテストをされているように見えたのだ。
しかし、この作品が一筋縄でいかない。
主人公ケイレブ自身もやがて次第に混乱していき、自分が人間であるかどうかが自信がなくなっていくというシーンが出てくるところがある。
依頼者ネイサンが何か隠し事をしているように見えること、そして自分自身が始終観察されているようであること、それらによって自分自身が試験対象者であるのではないかと疑い始めるのだ。
我々普通の人間は、自分自身が人間であるかどうかということに疑いを持たない。
ケイレブはエヴァに対しチューリング・テストをしていくにつれ、彼女に対して人間的な感情を持つに至る。
彼はエヴァがチューリング・テストに合格し、知性があると認めている。
そのように人工知能が軽やかに知性(人間性)を獲得したのを自分の目で見た時、自分自身が当たり前のように持っていた「人間であること」という特殊性が、それほど特殊でないと感じてしまったのかもしれない。
だから自分自身が人間であることに不安感を持ったのではないか。
それでは知性を獲得したエヴァが、人間性を持っているのかどうかという疑問が出てくる。
人間性とは何かというのは一言で言うのは難しいが、人と人との間にある共感性のようなものは含んでいると思う。
知性と人間性は必ずしも同じことではない(チューリング・テストはその辺りは曖昧)。
ケイレブはエヴァに知性も感じ、自分と同じような人間性も感じた。
だからこそ彼はエヴァに同情をしたのである。
しかし、エヴァが同様にケイレブやネイサンに共感性というものを持っているかどうかはわからない。
人間が、他の動物には人間並みの共感性は持ち得ないとのと同じように、人工知能も人間に対して共感性は持たないのかもしれない。
エヴァが別荘を脱出するときの行動にはそのようなことを感じた。
もしそうであるならば、人工知能が人間を超えるシンギュラリティは、人間の悪夢の始まりなのかもしれない。

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2016年4月23日 (土)

「アイ アム ア ヒーロー」 日常から非日常へのグラデーション

さすがR15+指定、血みどろでしたねえ。
正直、血がたくさん出てくる映画は苦手なのですが、気になって見に行ってきました。
原作のコミックは例によって読んだことがなかったのですけれど、面白いという評判は聞いていました。
読んではないのですが、唯一覚えていた漫画の印象的なカット(英雄がショットガンを持ってたたずんでいる姿)が予告でもイメージ通りに再現されていたので、気になったのですよね。
ジャンル的にはゾンビ映画になるのでしょうか。
海外ではこの手の作品は大作から、こじんまりしたものまでたくさん種類がありますが、日本ではこのくらい本格的なゾンビ映画はあまりなかったような気がします。
本作で特徴的だなと思ったのは、佐藤監督がパンフレットのインタビューでも語っていましたが、日常から非日常へのグラデーションの描き方かなと思いました。
恋人やアシスタント仲間がZQN化してしまい、状況が掴めぬまま主人公の英雄が街に出たあたりからの描写に特徴を感じたんですよね。
最初は見慣れた普通の街。
そこには何も知らずに歩いている人たちがいます。
しかし、次第に何かから逃げ出している様子の人々が混じり、ついにはZQNたちが人を襲っている場面に英雄は出くわします。
そして彼も襲われ、逃げていく中で町中がパニックに陥っていく様が描かれていきます。
普段と違う、なんかおかしいという嫌な予感がだんだんと現実感を増していくぞわぞわとした感じ。
そのぞわぞわがリアリティを持ち始め、タクシーでのアクションシーンになだれ込んでいくのですが、ここまでの流れ、監督が言う日常から非日常へのグラデーションがいいなと思いました。
あとZQNたちが人間としての最後の記憶だけを持っていて、繰り返しそれを行ってしまう姿というのも印象的でした。
彼らが行っているのは日常的な行為、だけれど人を食らうという非日常的なことも同時に行う。
この日常感と非日常の混在というのが、居心地の悪いぞわぞわ感をかもします。
悪夢が現実となっていってしまうという流れがある一方、夢が現実になっていく姿も描かれます。
英雄が持ち込みをしていた漫画は、自分自身を投影したもの。
つまらない自分が、誰かを守るためのヒーローになる。
しかし、現実には彼自身が自ら積極的にそのようになろうとしていたわけではありません。
夢は夢のままであったはずです(恋人が喝破したように)。
けれど悪夢が現実となってしまった状況の中で、彼は誰かを救わなければならない立場になります。
そのような状況でも、迷いビビり、人を救えないと嘆く英雄。
人間なんてそんな簡単に変われるもんじゃないと思う気持ちというのは、ヒーローらしからぬもので、とても共感性があります。
ロッカーから飛び出そうとしても、いろんなことを想像してしまい、踏み出せない英雄の姿は、多くの人が共感するのではないでしょうか。
新しいことをやりたい、チャレンジしてみたい、そういう気持ちはあっても失敗することが怖くて踏み出せない。
そういうことってあります。
それが夢につながることであっても、踏み出すのにものすごく勇気がいる。
英雄はヘタレですけれど、その一歩を踏み出せたところ、勇気を振り絞れたところが、誰かを守れる人間になりたいという彼の夢を実現への道に繋がったのでしょう。
追い込まれた時、人の本質が出てくる。
覚悟を決められるか決められないか。
英雄は最後には覚悟を決められる本質を持っていた。
ヒーローになれる本質を彼は持っていたのでしょうね。

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「エヴェレスト 神々の山嶺」 魅入られた男たち

「なぜ山に登るのか?」
「そこに山があるからだ」
これは本作でもキーマンとなるジョン・マロリーの言葉です。
そしてこの作品に伝説のクライマーとして登場する羽生は「ここに自分がいるからだ」と答えます。
まさに山に登ることこそが、彼にとってのレゾンデートル(存在意義)であるということでしょうか。
エヴェレストのような山へのアタックはその道程も一般人が想像できないほどに苦しく(自分は高尾山の登山くらいでヒーヒー言っている)、そして命を失う危険性も高いのに彼らはなぜ山に挑むのでしょうか。
山を攻略するためには、自分の頭脳、体力、それこそ己の全てを出し切らなければならないのでしょう。
己の命すらも。
しかし全身全霊、すなわち命をかけることは、普通の生き方では感じられない充実感があるのかもしれません。
一度それを経験すると、そこでしか生を感じられないということも起こり得るのかもしれませんね。
羽生の姿を見ていると、まさに地上で普通に暮らしている時の姿は周りのものへの関心が極端に少ない感じがします。
彼にとっては普通に地上で生きていることの方が非現実的なのかもしれません。
山にあってこそ自分の生を感じられる。
まさに山に魅入られた男なのかもしれません。
そしてもう一人、本作には深町というカメラマンも登場します。
彼は若く、功名心も高い男でした。
彼にとっての山は自分がカメラマンとして名を上げるための舞台であったのでしょう。
しかし、深町は取材の中で羽生に出会います。
深町にとって羽生は最初は不可解で理解しがたい男であったと思います。
けれども彼の生き様を知っていくにつれ、深町自身も己の生を感じられるようになったのかもしれません。
「なぜ人は山に登るのか?」
その問いは「なぜ人は生きるのか?」という問いにもつながるかもしれません。
生きることにも、様々な苦難があり、逃げ出したくなるようなことも多々あります。
それでも多くの人は生き続ける。
深町は自分が命を落としそうな経験を経て、おそらく「なぜ人は生きるのか」という問いを自分の中に抱くようになったのでしょう。
その答えを自分なりに出さなければ、一歩も先に進めない。
生きていくために、問いの答えを出すために、彼は羽生を追います。
彼は羽生に魅入られました。
それは生きること、登ることに魅入られたということなのかもしれません。
命をかけて山を登ること、それは命を捨てるということではなく、自らの命を極限の状況で実感するということなのでしょうね。
思えば自分の生を本当に実感できるということは、普通の生活ではなかなかないものです。
その実感ができた時、人は魅入られてしまうのものなのでしょうか。

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