2016年12月10日 (土)

「インフェルノ」 シリーズの中では一番

観てから2週間も経ってしまった・・・。
本作「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」 に続くラングドンシリーズの第3弾になります。
前2作は原作も読んでいたのですが、そちらと比べるとハリウッド映画調のアクションサスペンスに仕上がっていたような印象で、原作が持っていた暗号解読的な謎解きの面白さというのはなかったように感じました。
ですので残念ながら特に面白い作品であるという認識にはなりませんでした。
そのため本作も観ようかどうか迷っていたのです。
しかしうまくタイミングがあって、結局観に行ったのですが、大変面白いと感じました。
まず、こちらについては原作を読んでいないで映画を観たということはあるかもしれません。
全く展開を知らなかったので、素直に観れたということはあります。
前2作についても原作を読んでいなかったら、もっと採点は変わったかもしれませんね。
ある謎が提示され、それは世界的な陰謀に絡んでいて、謎を解いていくたびに新たな謎が提示されていく。
ラングドンはそれをたまたま相棒となった美女とともに解き世界の旧跡を巡っていく。
そしてまた謎の組織が彼らを追っていく。
基本的にラングドンシリーズというのはこのような構成です。
「インフェルノ」もまさしくこのような展開ではあるのですが、退屈だとは思いませんでした。
ラングドンと行動をともにするシエナの正体が明らかになったあたりは、不意を衝かれた感じで「おっ!」と思ってしまいました。
よく考えるとこの手のサスペンスではありがちな展開ではあるのですが、いいタイミングで見せたという感じでしょうか。
この辺はさすがベテラン、ロン・ハワードというところでしょう。
シエナを演じている女優さんは綺麗な方で、どっかで観たことがあるようなないようなと思いながら観ていたのですが、調べてみると「ローグ・ワン」の主演なのですね。
「ローグ・ワン」の予告を観ていたから記憶に残っていたのか・・・。
いい女優さんに思えたので「ローグ・ワン」も期待したいです。

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2016年9月19日 (月)

「X-MEN:アポカリプス」 エンターテイメントと思想のバランス

「X-MEN」新三部作の最終章です。
前作「フューチャー&パスト」ではタイムトラベル要素が入ってきたので、間が空いてから見るとタイムラインがわからなくなります。
しかし今回はジーンやサイクロップス、ストームなど「X-メン」の主なキャラクターが登場し、旧三部作と新三部作のリンクが明快になってきます(実際は前回過去の改変を行っているから、タイムライン的には別になりますが)。
ジーン、サイクロップス、ストームは旧三部作から俳優陣も若々しくなっています(過去を描いているので当たり前か)。
とはいえ助っ人として登場するあの人は変わらず。
他の誰が演じてもブーイングが来そうなので、なかなか変えづらいですよね。
不死の体だから老けないってことで。
「X-MEN」シリーズは登場人物も多いし、超能力もド派手なものが多いので、話のスケールがかなり大きくなりがちです。
ともすると大味になりやすいのですが、さすがブライアン・ジンガーは手堅くまとめ、その辺もバランス良くしていますね。
強大な力を持つ適役が登場すると、従来のキャラクターがこじんまり見えたり、妙なパワーアップをしたりと、話がインフレを起こしやすい。
今回などはX-MENサーガの時系列としては真ん中辺になるので、無理はパワーアップは先に繋がらなくなりますし、手加減が難しいところです。
究極に個の力を高めることにより、それ以外の人間を支配し、平和を実現しようとするアポカリプス。
彼が見ている世界は戦いがなく平和なのかもしれないですが、それぞれの人間は抑圧されている世界です。
しかし、プロフェッサーXが目指しているのは、誰でもがその違いにかかわらず平和に暮らしていける社会です。
旧三部作に比べ、ミュータントが象徴するマイノリティの苦しみ の描き方は新三部作薄いですが、それが「X-MEN」シリーズの描く思想であることは間違いないでしょう。
大作のアメコミ映画としてエンターテイメント感は強く出しつつも、「X-MEN」らしい思想は保っている作品となっていると感じました。
さてこれで「X-MEN」サーガは繋がったわけですが、次回はどういう風に展開しますかね。
個人的にはミスティークとマグニートがどう合流していくかが見てみたいところです。
(それとも新しいタイムラインでは合流しないのか?)

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2016年7月29日 (金)

「インデペンデンス・デイ: リサージェンス」 虚しい拡大再生産

前の「インデペンデンス・デイ」が公開されてから、もう20年経っているんですね。
久しぶりの続編「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」も監督は前作と同じくローランド・エメリッヒです。
まあ、この方の作風は相変わらずで、作品は相変わらず大味です。
前作ではホワイトハウスを上空を覆う巨大UFOが光線で攻撃するというビジュアルが印象的でした。
あの時代はああいう映像はあまりなかったので、とても印象的でした。
地球を何度も破滅させている男エメリッヒは今回も派手に異星人の攻撃を描いてはいるのですが、観客サイドもそういう映像を見慣れてしまっているところもあり、前回ほどの強い印象は持てませんでした。
今となってはよくあるビジュアルといった感じです。
UFOも地球を覆うほどに巨大になり、破壊度も規模が大きくなっているのですが、インフレを起こしているだけであって、目新しさは感じないのが残念なところです。
あとは異星人の設定も、数々のエイリアンものを焼き直ししているようで新鮮味がありません。
ハリウッドは、異星人をアリやハチのような社会性のある昆虫をモチーフとした設定で描くことが多いですよね。
「エイリアン2」の時はとても新鮮でしたが、もうこの手の設定は食傷気味です。
映画的にはボスキャラを倒せば全て解決するという使い勝手の良さがあるとは思うのですが、いい加減に使い古されてしまった設定であるような気がします。
そろそろ新しいアイデアが出ないものですかね・・・。
エメリッヒなので、キャラクターが類型的で薄っぺらいのは相変わらず。
それでも前作の「インデペンデンス・デイ」では大統領の演説から、それぞれの人々が自分を犠牲にしても地球を守りたいという気持ちがあって、それにより異星人を撃退するという終盤に、カタルシスを感じたものです。
続編である本作はそのようなカタルシスも感じないのですよね。
前作と同じ構造でただ規模を大きくしているだけの、虚しい拡大再生産のような感じがします。
こういう展開になると予想していたので、がっかり感も少なかったんですけれど、それでも残念な出来でした。

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2016年7月18日 (月)

「アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅」 過去は変えられない

てっきりティム・バートンが監督かと思ったら、彼は製作だけだったのね。

前作はアリスが人と違う自分に自信を持って行動できるようになっていく、彼女の成長物語でした。
今回オープニングから彼女は父親の事業である貿易を継いで、若い女性でありながら自ら決断して生きていっている女性になったことがわかります。
つまり前作で彼女は未来を自ら選択していく勇気を身につけていくこと学んだわけですね。
そして本作では、未来というよりは過去に目を向けたお話となっています。
主人公はアリスで彼女の行動を物語は追っていくのですが、過去を描かれるのはマッドハッターであり、赤の女王であり、白の女王です。
ワンダーランドの住民は奇妙なキャラクターが揃っていますが、その中でもこの3人は特別変わっています。
そんな風変わりな彼らでさえ過去はありました。
というよりも、過去が彼らを作っている。
マッドハッターの奇妙奇天烈で陽気な性格の裏には、過去に家族を失った悲しみがあります。
赤の女王があんなにひねくれ、残忍であるのも、昔から自分だけが不幸な目にあい、誰にも愛されないという苦しみからきています。
誰でも過去に縛られ、過去により自分が作られている。
アリスはマッドハッターの亡くなった家族を救うため過去に飛び、またそこでは赤の女王の不幸な事故を回避しようとしますが、うまくいきません。
彼女は過去はどうやっても変えられないということを知ります。
起きてしまった過去をどんなに嘆き、どんなに悔やんでも、それは変えることはできません。
人はそれを受け入れるしかない。
アリスも父親を失ってしまったことを悔やんでいたのでしょう。
時間は大切なものを奪っていくと彼女は言っていましたが、そこには父親を失い、なすすべがないことへの苛立ちを感じます。
彼女がマッドハッターのために過去へ旅立つのも、自分の思いを重ねていたからかもしれません。
しかし過去は変えられないという認識を彼女は改めてもち、その上でそれを受け入れて自分の未来を選択していくことを学びます。
過去を受け入れた姿は、赤の女王と白の女王の和解にもうかがえます。
この先ワンダーランドも、アリスの人生も前向きで幸せなものになっていくのでしょうね。

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2016年7月10日 (日)

「エクス・マキナ」 人間の悪夢の始まりか?

昨今A.I.(人工知能)が現実世界でも注目を浴びている。
昨年Googleの人工知能AlphaGoが韓国のプロの囲碁師を破ったのは記憶に新しいところ。
その他にもMicrosoft、IBMなどの大手のIT企業も急速に人工知能の研究を進めている。
人工知能がこの後発達を続けていき、いつか人間の能力を超える事態となることをシンギュラリティ(技術的特異点)と言い、ジョニー・デップ主演の「トランセンデンス」でもそれは描かれた。
オックスフォード大学が昨年発表した「文明を脅かす12のリスク」の中でもその一つとして人工知能の進化が挙げられている。
さて人工知能が「知能がある」とどのように我々人類は確認することができるのか。
その一つの有名な方法が「チューリング・テスト」である。
これを考案したアラン・チューリングは映画「イミテーション・ゲーム」でベネディクト・カンバーバッチが演じていた。
本作「エクス・マキナ」の主人公であるケイレブが、会社のCEOネイサンに依頼されたのも、彼の人工知能が本当に知能を持っているかどうかを確かめるチューリング・テストの試験者になってほしいということであった。
こちらの作品については、事前に全く情報を持たないまま(予告すら見なかった)での鑑賞であった。
人に勧められて観たのだが、インディペンデントな映画が好みの人であったので、わかりやすい物語ではないだろうと踏んで本作を観た。
見始めて、おそらくこの作品は人間とは何か、知性とは何かということを問う作品であるだろうという予測を持った。
最初に思ったのは、主人公ケイレブは人工知能の試験者であるが、実は彼こそが人工知能そのものであるというストーリー。
なぜならば、試験対象であるエヴァが途中からケイレブへの質問を投げ始めたからであった。
チューリング・テストは試験者が、ディスプレイの向こうにいるはずの人間もしくはコンピューターに質問を繰り返し、その応答によって人間であるか人間でないかを判断するテストである。
この場合、逆にケイレブがテストをされているように見えたのだ。
しかし、この作品が一筋縄でいかない。
主人公ケイレブ自身もやがて次第に混乱していき、自分が人間であるかどうかが自信がなくなっていくというシーンが出てくるところがある。
依頼者ネイサンが何か隠し事をしているように見えること、そして自分自身が始終観察されているようであること、それらによって自分自身が試験対象者であるのではないかと疑い始めるのだ。
我々普通の人間は、自分自身が人間であるかどうかということに疑いを持たない。
ケイレブはエヴァに対しチューリング・テストをしていくにつれ、彼女に対して人間的な感情を持つに至る。
彼はエヴァがチューリング・テストに合格し、知性があると認めている。
そのように人工知能が軽やかに知性(人間性)を獲得したのを自分の目で見た時、自分自身が当たり前のように持っていた「人間であること」という特殊性が、それほど特殊でないと感じてしまったのかもしれない。
だから自分自身が人間であることに不安感を持ったのではないか。
それでは知性を獲得したエヴァが、人間性を持っているのかどうかという疑問が出てくる。
人間性とは何かというのは一言で言うのは難しいが、人と人との間にある共感性のようなものは含んでいると思う。
知性と人間性は必ずしも同じことではない(チューリング・テストはその辺りは曖昧)。
ケイレブはエヴァに知性も感じ、自分と同じような人間性も感じた。
だからこそ彼はエヴァに同情をしたのである。
しかし、エヴァが同様にケイレブやネイサンに共感性というものを持っているかどうかはわからない。
人間が、他の動物には人間並みの共感性は持ち得ないとのと同じように、人工知能も人間に対して共感性は持たないのかもしれない。
エヴァが別荘を脱出するときの行動にはそのようなことを感じた。
もしそうであるならば、人工知能が人間を超えるシンギュラリティは、人間の悪夢の始まりなのかもしれない。

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2016年4月23日 (土)

「アイ アム ア ヒーロー」 日常から非日常へのグラデーション

さすがR15+指定、血みどろでしたねえ。
正直、血がたくさん出てくる映画は苦手なのですが、気になって見に行ってきました。
原作のコミックは例によって読んだことがなかったのですけれど、面白いという評判は聞いていました。
読んではないのですが、唯一覚えていた漫画の印象的なカット(英雄がショットガンを持ってたたずんでいる姿)が予告でもイメージ通りに再現されていたので、気になったのですよね。
ジャンル的にはゾンビ映画になるのでしょうか。
海外ではこの手の作品は大作から、こじんまりしたものまでたくさん種類がありますが、日本ではこのくらい本格的なゾンビ映画はあまりなかったような気がします。
本作で特徴的だなと思ったのは、佐藤監督がパンフレットのインタビューでも語っていましたが、日常から非日常へのグラデーションの描き方かなと思いました。
恋人やアシスタント仲間がZQN化してしまい、状況が掴めぬまま主人公の英雄が街に出たあたりからの描写に特徴を感じたんですよね。
最初は見慣れた普通の街。
そこには何も知らずに歩いている人たちがいます。
しかし、次第に何かから逃げ出している様子の人々が混じり、ついにはZQNたちが人を襲っている場面に英雄は出くわします。
そして彼も襲われ、逃げていく中で町中がパニックに陥っていく様が描かれていきます。
普段と違う、なんかおかしいという嫌な予感がだんだんと現実感を増していくぞわぞわとした感じ。
そのぞわぞわがリアリティを持ち始め、タクシーでのアクションシーンになだれ込んでいくのですが、ここまでの流れ、監督が言う日常から非日常へのグラデーションがいいなと思いました。
あとZQNたちが人間としての最後の記憶だけを持っていて、繰り返しそれを行ってしまう姿というのも印象的でした。
彼らが行っているのは日常的な行為、だけれど人を食らうという非日常的なことも同時に行う。
この日常感と非日常の混在というのが、居心地の悪いぞわぞわ感をかもします。
悪夢が現実となっていってしまうという流れがある一方、夢が現実になっていく姿も描かれます。
英雄が持ち込みをしていた漫画は、自分自身を投影したもの。
つまらない自分が、誰かを守るためのヒーローになる。
しかし、現実には彼自身が自ら積極的にそのようになろうとしていたわけではありません。
夢は夢のままであったはずです(恋人が喝破したように)。
けれど悪夢が現実となってしまった状況の中で、彼は誰かを救わなければならない立場になります。
そのような状況でも、迷いビビり、人を救えないと嘆く英雄。
人間なんてそんな簡単に変われるもんじゃないと思う気持ちというのは、ヒーローらしからぬもので、とても共感性があります。
ロッカーから飛び出そうとしても、いろんなことを想像してしまい、踏み出せない英雄の姿は、多くの人が共感するのではないでしょうか。
新しいことをやりたい、チャレンジしてみたい、そういう気持ちはあっても失敗することが怖くて踏み出せない。
そういうことってあります。
それが夢につながることであっても、踏み出すのにものすごく勇気がいる。
英雄はヘタレですけれど、その一歩を踏み出せたところ、勇気を振り絞れたところが、誰かを守れる人間になりたいという彼の夢を実現への道に繋がったのでしょう。
追い込まれた時、人の本質が出てくる。
覚悟を決められるか決められないか。
英雄は最後には覚悟を決められる本質を持っていた。
ヒーローになれる本質を彼は持っていたのでしょうね。

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「エヴェレスト 神々の山嶺」 魅入られた男たち

「なぜ山に登るのか?」
「そこに山があるからだ」
これは本作でもキーマンとなるジョン・マロリーの言葉です。
そしてこの作品に伝説のクライマーとして登場する羽生は「ここに自分がいるからだ」と答えます。
まさに山に登ることこそが、彼にとってのレゾンデートル(存在意義)であるということでしょうか。
エヴェレストのような山へのアタックはその道程も一般人が想像できないほどに苦しく(自分は高尾山の登山くらいでヒーヒー言っている)、そして命を失う危険性も高いのに彼らはなぜ山に挑むのでしょうか。
山を攻略するためには、自分の頭脳、体力、それこそ己の全てを出し切らなければならないのでしょう。
己の命すらも。
しかし全身全霊、すなわち命をかけることは、普通の生き方では感じられない充実感があるのかもしれません。
一度それを経験すると、そこでしか生を感じられないということも起こり得るのかもしれませんね。
羽生の姿を見ていると、まさに地上で普通に暮らしている時の姿は周りのものへの関心が極端に少ない感じがします。
彼にとっては普通に地上で生きていることの方が非現実的なのかもしれません。
山にあってこそ自分の生を感じられる。
まさに山に魅入られた男なのかもしれません。
そしてもう一人、本作には深町というカメラマンも登場します。
彼は若く、功名心も高い男でした。
彼にとっての山は自分がカメラマンとして名を上げるための舞台であったのでしょう。
しかし、深町は取材の中で羽生に出会います。
深町にとって羽生は最初は不可解で理解しがたい男であったと思います。
けれども彼の生き様を知っていくにつれ、深町自身も己の生を感じられるようになったのかもしれません。
「なぜ人は山に登るのか?」
その問いは「なぜ人は生きるのか?」という問いにもつながるかもしれません。
生きることにも、様々な苦難があり、逃げ出したくなるようなことも多々あります。
それでも多くの人は生き続ける。
深町は自分が命を落としそうな経験を経て、おそらく「なぜ人は生きるのか」という問いを自分の中に抱くようになったのでしょう。
その答えを自分なりに出さなければ、一歩も先に進めない。
生きていくために、問いの答えを出すために、彼は羽生を追います。
彼は羽生に魅入られました。
それは生きること、登ることに魅入られたということなのかもしれません。
命をかけて山を登ること、それは命を捨てるということではなく、自らの命を極限の状況で実感するということなのでしょうね。
思えば自分の生を本当に実感できるということは、普通の生活ではなかなかないものです。
その実感ができた時、人は魅入られてしまうのものなのでしょうか。

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2016年4月17日 (日)

「アーロと少年」 父親の自覚

予告もあまり見ていなかったので、少年と動物の交流なんて割と普通の題材なんてピクサーらしくはないなあと思って、食指が動かなかったのですが、たまたま見に行くチャンスがあったので行ってきました。
観始めるとすぐに想像していた通りではなかったことに気づきます。
通常考えられる少年と動物の関係性というのが、この作品では逆転しているのですね。
恐竜であるアーロが少年役で、人間のスポットがペット(?)というか動物役というわけです。
なんでこういう逆転の関係性で物語を描こうとしたのでしょうか?
ただ物珍しいから、ということではないかと思います。
今回劇場でこの作品を鑑賞したのですが、やはり親子連れのお客さんがたくさんいらっしゃいました。
この作品の物語の序盤で、アーロとその父親は急な川の増水に巻き込まれてしまいます。
その場面で父親はアーロを救うために犠牲になり、亡くなってしまうのですね。
その時、劇場の各所で子供たちが大泣きを始めました。
みんな、「パパ〜(泣)」「怖いよ〜」というように泣いていたのです。
見事に作品の中のアーロに共感をしている状況でした。
パパがなくなってしまうシーン、そしてその後アーロがひとりぼっちで旅をしなくてはいけないシーンはピクサーにしてはかなりシリアスに描かれていたと思います。
大人が見ても、恐ろしい感じがしました。
今回CGによる大自然の表現もかなりリアリティがあり、よりシリアス感が増幅されていたように思います。
なので、これが通常の考え方で主人公が人間の少年だったとすると、さらにシリアス&リアリティが増し、子供たちにとっては結構きつい印象の作品になってしまったかもしれません。
悪意の塊であるイナヅマドカンのあたりも実は結構怖い。
いい意味でマンガ的な表現をされているアーロがいるからこそ、そのあたりの深刻さが軽減されている感じがします。
子供たちが「パパ!パパ!」と泣いている時、一緒に来ているお父さんたちは「ここにいるから大丈夫だよ」と言って慰めていたのが印象的でした。
その姿にちょっとうるっときてしまいました。
実は今度自分にも子供ができるので、生まれてから一緒に映画とか見に行ったらこういう風に子供も感じてくれるのかなと思ったりしましたね。
しっかりとした父親にならなきゃと、初めて自覚ができました。

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2016年3月26日 (土)

「オデッセイ」 課題の本質を見極める

オリジナルのタイトルは「The Martian」。
これは直訳すれば「火星人」ですが、これだとあのタコ型の生物を想像してしまうので、邦題は変えたのでしょうかね。
「オデッセイ」の意味は「遍歴」なので、主人公マークの地球への帰還に至る長い時間を考えるとあながち外れているタイトルでもないかなとも思います。
とはいえ原題の「The Martian」には、マークが初めて火星で暮らす(短い時間訪れるのではなく)人となったという意味合いを含ませているのかと思うので、よりふさわしいかと感じました。

有人火星探査のミッションで火星を訪れたNASAの宇宙飛行士たちは、発達した嵐を避けるため、帰還を余儀なくされます。
しかし、帰還船の登場する際にマークは事故によって一人火星に取り残されてしまいます。
限られた食料しかなく、地球への通信手段もない。
ハブ(宇宙飛行士たちが滞在した火星の施設)の外は人間が暮らしていけない厳しい環境。
マークは生き延びることができるのか・・・。
遠く地球を離れた環境でのトラブルで帰還が危ぶまれる中、宇宙飛行士と地上スタッフたちがその知恵を合わせて奇跡的な帰還ミッションを成功させるというストーリーは、「アポロ13」を思い出させました。
「アポロ13」も名作ですが、本作も最初から最後までずっと作品に惹きつけられる仕上がりになっていたと思います。
一人で他に誰もいない火星に取り残されたマークは極度なパニックに陥ることなく、困難な状況に対処していきます。
これは科学者であることにより、身についていた考え方があったからでしょう。
あまりに大きな問題に直面した時、人々がパニくってしまうのは、どのように対処していいかわからない不安感に押しつぶされそうになるからです。
だからそういう時のために危機管理マニュアルといったものが整備されているわけですね。
けれども予想もできないような事態になった場合はどうするか?
それは問題の本質は何であるのか、優先して解決されるべき課題は何なのか、また自分が現在持っているリソースは何なのかということを冷静に見極めることが大事なのです。
そして優先されて解決されるべき課題を、より解決しやすいユニットに分解していくという作業ストーリーを作っていく。
やるべきことがはっきりすれば人間は不安感を持つことはありません。
マークにとってまず最初に何が優先されるか。
空気は供給されている。
電気も太陽光発電で賄えている。
食料だけが足りない。
まずマークは食料の確保に自分のリソースを注ぎます。
そしてそれが解決された時、長期的な視点での課題(いかに地球に帰還をするか)にフォーカスします。
自分の力だけでは地球に帰還はできない、そうなると地球とのコミュニケーションをどのように復活させるかということが大事になる。
こうやってマークは問題点の本質を明らかにし、一つ一つ解決していくのです。
こういったやり方は火星に取り残されたマークにとってだけ有益なのではなく、普通に仕事をしたり生活している中で直面する様々な問題に押しつぶされそうになった時にも有効です。
パニクりそうになった時、冷静に問題の本質を見極めようとすれば、不安感はなくなると思います。
本作SFではありますが、マークの行いは日々の私たちの生活にも十分に生かせるものであると感じました。

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2015年12月30日 (水)

「俺物語!」 じれったいなあ、もう(笑)

2015年の最後の鑑賞はこちら、「俺物語!」。
なんでこれ?って感じですけれど。
この作品、少女コミックの映画化作品なのですが、原作は未読です。
しかし、予告で見た鈴木亮平さんのルックスがインパクトがあったので、気になる作品であったんですよね。
主人公剛田猛男は見た目は昭和でおじさんな風貌ですが、現役の高校一年生。
その精神は今時珍しい絵に描いたような「気は優しくて、力持ち」なタイプ。
まさに男の中の”漢”。
そんな漢が恋をした。
恋の相手は、こちらも今時珍しい一途で可愛らしい女の子、大和凛子。
結局二人はあったその時から、両思いであったのですが、どちらも相手が自分のことを好きだと思ってくれていないといつも気持ちはすれ違いです。
二人とも相手のことや周りのことを気にしすぎて、自分の気持ちを我慢しちゃうタイプなんですよね。
それでもって二人とも一途。
そんな二人を見ているこちら側としては、両思いなのだからすれ違ってばかりで、じれったいなあと思っちゃったりします。
なんかね、世話焼き中年みたいな視点で見ちゃいます。
ま、なんか甘酸っぱい気持ちになったりもするので良かったかな。
若い頃の恋愛の時って、自分を卑下してみたりしますよね。
相手のことがとても素敵で素晴らしい存在に感じるので、自分はそういう人に対してふさわしいのかなとか考えちゃうものです。
猛男なんかは自分が好きになった子は自分のことなんかに見向きもしないと思いこんでますし、大和もルックスも良くてモテるだろうに、自分は猛男に好かれていないと思ってしまったり。
でもそういう自分がまだまだと思う気持ちが自分がステージアップすることにつながっていくのかも。
大和も好かれようと、相手が喜んでくれそうな料理やお菓子を頑張って作っていましたし。
そういう相手のことを考えて頑張るって姿がなんか初々しくてね、いいなと思いました。
やっぱ甘酸っぱい。
原作の猛男のルックスを見たとき、これが少女漫画?と思いましたが、内容はなかなかどうして王道の甘酸っぱさを持った少女漫画でありました。

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