2023年5月 1日 (月)

「AIR/エア」ブランドが生まれる時

1980年代初期NIKEはランニングシューズは名が通ってきていたものの、現在のような大ブランドとしては確立していませんでした。
確かに私も最初にNIKEというブランドを見た時、ナイキと読むとは思わず「ニケ?なのかな」と思ってました。
(これはあながち間違いではなく、我々が親しんでいる「ニケ」とはギリシアの女神の名前で、ナイキの社名の由来もこの神の名からです。英語読みではナイキと読むのです)
バスケットボールシューズのマーケットでも当時はコンバース、アディダスに続く、3番手でした。
そのブランドが一気に世界ブランドになっていくきっかけとなるのが、「エア・ジョーダン」です。
本作ではこの靴が生まれる時の物語が語られます。
「ブランド」とは何か?
数多くのマーケティングの本で語られています。
初心者が勘違いしやすいネーミングとブランドの違いとはなんでしょうか。
ネーミングは文字通り名前です。
名前は付けただけでは価値が宿っていません。
まだ「ネームバリュー」はないわけです。
ネーミングに価値、そして物語がついてくるとブランドになります。
その価値とは何か。
その価値とは消費者がその商品そのものと購入したことから得られる経験から感じる便益です。
そしてそれが得られるという確信が持てそうな物語があることでブランドになっていきます。
この物語をブランドに持たせることがなかなかに難しい。
長年生き残ってきているブランドには、その歴史から醸し出される物語があります。
しかし、新しいブランドにはその歴史がない。
そのため物語を外から導入する必要があります。
「エア・ジョーダン」における物語とはまさにマイケル・ジョーダンそのものです。
彼の才能、生き様が全て物語になり、「エア・ジョーダン」というブランドを形作っていきます。
契約の過程において、マイケルの母親デロリスは売上の一部を報酬として要求します。
これは当時としては破格の要求ではありましたが、マイケル・ジョーダンの人生そのものを物語として提供するわけですから、相応であったのかもしれません。
それほどまでにブランドにとって物語は必要なのです。
物語があると、それに魅せられ、信じる消費者が出てきます。
ロイヤリティ・ユーザーですね。
「エア・ジョーダン」でも自分では全部履かないのにコレクションをする人というのもたくさんいます。
「アップル」などもこのような物語をうまく使う会社です。
本作は新しいブランドが生まれ、新しいマーケティングのスタイルが生まれた時を描いた作品です。
マーケティングに興味がある人が見ても面白いかもしれないですね。

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2023年4月22日 (土)

「仕掛人・藤枝梅安(二)」因果応報と業

2月に公開された1作目に続いての2作目となります。
とはいえ、話としては独立しているので本作だけを鑑賞しても全く問題ないと思います。
前作では昨今珍しい正統派の時代劇を見せてもらったと感じました。
本作はそこはしっかりと押さえつつ、「仕掛人」という物語の独自性を色濃く描いています。
仕掛人の独自性とは他の時代劇とは異なり、ダークヒーローであるということです。
仕掛人は悪を裁く者でありながら、人を殺すという悪を行う者です。
彼らは人を殺めているわけですから、それにより誰かの恨みを買う。
梅安にしても彦次郎にしても、いつかは誰かに殺されるという思いを持ちつつ、この稼業を続けています。
本作ではかつて梅安が手をかけた女の夫、井上半十郎に、梅安が命を狙われます。
井上もまた仕掛人となっておりました。
まさに因果応報です。
梅安もただ座して殺されるのを待つわけでなく、井上と対峙します。
殺される、生き残る、それは紙一重。
人を殺す稼業であることの宿命と梅安は静かに向かい合います。
また本作では人の業というものも強く描きます。
金が欲しい、女を抱きたい、そのような欲に、それを持つ人間そのものが支配される。
梅安はその生い立ちから女という存在を疎みつつも、人間の男として激しく女を求めてしまう。
本作で梅安のターゲットとなる井坂惣一はその業に呑まれた男です。
梅安にしても井坂にしても業に呑まれている点では同じで、何かの加減でそうなってしまったというだけに過ぎないのかもしれません。
人は多かれ少なかれ、自分の中にある欲、すなわち業に翻弄されてしまうのです。
「仕掛人・藤枝梅安」は人間が背負ってしまった業に翻弄される人々を描いていると思います。
そこに人は自分の奥底にある部分に共通なものを感じ、心を揺さぶられるのでしょう。
驚いたのは最後に鬼平が登場するところ。
エンドロールに鬼平の名前があり、「あれ、出てたっけ?」と思ったのですが、ポストクレジットでの登場でした。
調べたら「鬼平犯科帳」も映画になるのですね。
こちらも期待したいところです。

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2023年4月10日 (月)

「Winny」組織と個人

WinnyとはP2P技術を使ったファイル共有ソフトです。
P2PとはPeer to Peerの略で、クライアントサーバなどを解さずに、端末同士が直接ファイルをやり取りする仕組みです。
現在LINEや仮想通貨などでも使われている技術です。
このソフトが発表されたのは2002年とのことです。
私は仕事柄著作権について気をつけるようにしているので、このソフトを使ったことはなかったのですが、コンピュータの雑誌などで話題になったのは覚えています。
当時このソフトを使って違法に著作物をやり取りした事案が多く発生し、何人か著作権法違反で逮捕者が出ましたが、このソフトの開発者である金子勇さんが逮捕されたことで、大きく取り上げられました。
金子さんは著作権法違反の幇助ということで逮捕されましたが、これが議論を呼びます。
劇中でも例として挙げられますが、包丁で人を刺した時、刺した人間は当然罪になりますが、包丁を作った人間は罪になることはありません。
金子さんについても同様のことが言えるのではないか、ということですね。
警察・検察は、金子さんに著作権という仕組み自体を否定する意思があり、それはすなわち社会テロであるという筋をたていました。
それに対して弁護側は技術者として高いハードルを越えて新しい技術を開発しようとするのは、技術者としての本分であり、このように開発者を逮捕することが前例となれば、未来の技術者が萎縮し、日本が新しい技術を開発しにくい社会になると訴えます。
この事件については私は経緯について、あまり詳しくなかったのですが、本作を見る限り警察・検察は新しい技術による新しい事案に対応しきれなかった感はありますね。
対応しきれなかったので、著作権違反の土壌となっているWinny自体を止めようとしたということでしょうか。
ただこれは非常に乱暴な対応で、結果的にはあまり効果はなかったように思います。
当時の記憶ですが、WInnyと同様の機能を持ったソフトは他にもたくさん出てきていたように思います。
一旦ソフトとして発表されれば、ソースコードをなどを見れば他の技術者も同様のソフトは開発できるでしょう。
検察などは悪い筋であったと途中で思ったとしても、大きな組織ということで止まれなかったのかもしれません。
組織の慣性の法則が働いてしまったのでしょうか。
同様に組織の慣性の法則が働いていた例として、本作には愛媛県警の裏金事件もWinny事件と並行して描かれます。
この事件のことも私は覚えていて、現職警察官が内部告発したことに驚きました。
これも皆が悪いこととしてわかりながらも、組織としてはそれを止めることができなかった、悪い慣性の法則の例だと思います。
組織の慣性の法則は、得てして個人の価値観なども踏み潰します。
個人は大きな組織と対することはなかなかできません。
劇中で金子さんがWinnyを開発することになった動機として、強固な匿名性を挙げていました。
組織と対等に立つための、個人を守るものとしての匿名性。
匿名であれば、組織に対して安心して物を申すことが出来る。
個人を守るための最大の防具ということですね。
これはその通りだと思います。
ただこの防具は、今では武器となっていることも問題になっているようにも思えます。
匿名であれば何もやっても平気、という気分が次第に広がっていったようにも思えます。
いわゆるバイトテロや迷惑系動画などはそのような気分が暴走した事例かもしれません。
おそらく金子さんは性善説でものを見る方だったのでしょうね。
ここまで匿名を使って悪さをする人が増えてくるとは想像もしていなかったのではないでしょうか。
とはいえ、このような状況であってもTwitterやInstagramの開発者を逮捕しよう、などと言い出す人は皆無なわけで、金子さんの逮捕が今の感覚からするとやはりおかしいという感じはしますね。
本作では派手さはないですが、俳優陣も非常にいい演技をしていたと思います。
金子さんを演じていた東出昌大さんは、癖などを再現していて、彼の個性(自分のことを話すのは苦手ながらも、意外とユーモアもある)を醸し出していたように思いました。
金子さんをサポートした壇弁護士を演じていた三浦貴大さんもよかったです。
役作りでしょうか、普段よりはかなりふっくらした体型にしていて、壇さんの思いなどがはっきりと伝わってきました。

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2023年4月 6日 (木)

「映画 ネメシス 黄金螺旋の謎」ミステリーとしては乱暴

テレビシリーズは全く見ておらず、鑑賞しました。
キャラクターとそのバックボーンを知らないと少々ハードルが高いですね。
予告編で提示される、夢の中での殺人が現実に起こるという謎、それがどのように解決されるのかということに興味がありました。
ストーリーとしてはかなり複雑に作られていて、シリーズを見ていないということも加わって、理解しにくい部分も多々ありました。
映画の脚本は秦建日子さんということで、ドラマの時の「アンフェア」のような複雑さを感じます。
ドラマであればまだ追いかけやすいのですが、映画という限られた時間だと少々展開が乱暴な感じがします。
提示された謎の解決についても、SF的な要素を持ち込んでいるので、強引さが否めません。
ドラマの方もそのようなことなのかもしれませんが、ミステリーとして見ると、トリックとしては乱暴さは感じます。
ドラマを見ていないとキャラクターに感情移入する暇がない展開ですし、ミステリーとしての乱暴さもあり、結果終わりまで乗り切れないままでいってしまいました。

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2023年3月18日 (土)

「映画ドラえもん のび太と空の理想郷」原作者へのリスペクト

劇場版の「ドラえもん」の最新作で、久しぶりのオリジナルストーリーです。
脚本家は現在大河ドラマ「どうする家康」を執筆している古沢良太さんです。
「ドラえもん」らしくタイムマシンを使った伏線も張ってありますが、この辺は元々デビュー当初から「キサラギ」などでしっかりとした構成力を見せていた古沢さんらしさも感じました。
さて本作ですが、オリジナルストーリーでもありますが、劇場版の「ドラえもん」の多くがそうであるように、日常とは異なる世界(それは過去であったり、宇宙であったり、地底であったりしますが)にのび太たちが冒険に行くという立て付けになっています。
タイトルにある「空の理想郷(ユートピア)」とは、空中都市パラドピアで、この都市は時空を調節する力を持っていて、そこに暮らす人々は平和で穏やかな生活を送ることができています。
本作のテーマは現代らしくズバリ多様性となるでしょう。
パラドピアの人々は皆、優秀で穏やかです。
そこで暮らし続けると、都市を照らす光の影響を受け、皆そのようになっていくのです。
しずかちゃんやジャイアン、スネ夫もその光の影響を受け、みな「いい人」になっていきますが、さすがのび太は一人だけダメな子のままです。
皆が画一化され、管理されている未来都市というイメージは今までも数々のSF映画でも語られてきました。
一見ユートピアに見えるが、その実は人間性を否定したディストピアであるというテーマですね。
本作もそのテーマをなぞっているように思います。
多くのこのテーマの作品は前半よりユートピアの皮を被ったディストピアであることは醸し出されているのですが、本作が巧みであるのは、途中までは本当にユートピアとして見えるように描いていながら、中盤くらいで一気にものの見方を180度変えるような出来事を置いているということでしょうか。
そのため多様性というテーマがより強調してわかりやすくなったと思います。
ラストのスペクタクル感も十分にありましたし、見応えのある劇場版に仕上がっているかなと思いました。
古沢良太さんは原作者の藤子・F・不二雄さんを強くリスペクトしているようで、その思いが伝わってくる作品となっています。

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2023年3月10日 (金)

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」自己肯定

本年度アカデミー賞に最多ノミネートされた本作は、斬新な設定で、色々な要素が詰め込まれています。
まさにカオス。
これをどう消化していいのか考えてしまいます。
マルチバースとカンフーをテーマにしているということだったので、鑑賞する前はSFアクションかと思っていたのですが、これらはメインテーマを描くための設定なのですね。
ではメインテーマは何かというと、これもまた人によって捉え方はあるかと思いますが、私は自己肯定なのかなと思いました。
主人公のエブリンは若い頃に夫と駆け落ちしてアメリカに渡り、今は寂れたクリーニング店の女店主となっています。
店はパッとしないし、役所からは税金に関して呼び出しを受けるし、夫は冴えないし、娘は全く理解できない。
日々懸命に生きてはいるけど何か虚しい、最低の人生だと感じる。
そんなエブリンが税務署を訪れた時、突然夫が別人格のようになり、ある手順を踏むように指示をします。
その指示通りにすると彼女はマルチバースにアクセスし、別世界の夫から世界をカオスに陥れようとする悪ジョブ・トゥパキと戦うよう伝えます。
エブリンがマルチバースにアクセスすると、別ユニバースの彼女の経験・スキルを身につけることができます。
その能力を使い、ジョブ・トゥパキを倒すのです。
別のユニバースのエブリンは、女優であったり、カンフーの達人であったり、腕のいいシェフであったりと様々な能力と地位を持っています。
それに比べ主人公のエブリンは何も持たない。
何もないベースにさまざまな能力をインストールしていく感じでしょうか。
主人公のエブリンは最低ランクのバージョンとも言えます。
一見別ユニバースのエブリンの方が幸福のようにも見えますが、それぞれの彼女にもそれぞれ悩み・苦しみもあります。
女優のエブリンは成功を手にいますが、それは夫になるはずでったウェルモンドと別れたからであり、彼女は成功の代わりに愛を失っています。
指がソーセージの世界の彼女は、主人公エブリンを激しく責める税務官のディアドラと、彼女の世界は恋人となり愛を育みます。
先に書いたようにエブリンはマルチバースにアクセスするとスキルとともに経験もインストールされます。
それにより彼女は様々なバージョンの人生を経験し、自分の人生とそして彼女の周りの人々を俯瞰して様々な視点で見ることができるようになります。
冴えないと思っていた夫は深い優しさで彼女を支えていたこと、厳しい税務官も実は寂しい経験をしていた人であること、そして娘も彼女なりの悩みを持っていたということに気づきます。
そして自分の人生もそれほど悪くないと思います。
自己肯定感です。
そしてもう一人、エブリンの娘、ジョイです。
実は彼女こそが世界の敵であるジョブ・トゥパキです。
彼女が執拗にエブリンを狙ってくる理由がありました。
彼女は幾多のマルチバースにアクセスし、様々なバージョンの自分を経験することにより、自分自身には何もないという感覚になり、虚無感に陥ったように見えます。
本作のマルチバースは現代の我々の周囲にあるインターネットの比喩とも取れます。
インターネット上のSNSを見ると、それこそリア充な発言が飛び交っていて、それを見ているとだんだん自分がつまらない人間だという気分になることもあるかと思います。
本作のジョブ・トゥパキはそれをマルチバースレベルで経験したと言えるかもしれません。
だからこそ、全てを無にしてしまいたいという衝動に駆られているのでしょう。
そんな彼女も実は一人だけ共感を感じている人物がいて、それこそが主人公のエブリンなのです。
彼女もマルチバース上で最低レベルのバージョンで、だからこそ彼女だけが自分と同じような虚無感を感じてくれるとジョブ・トゥパキは思ったのでしょう。
ネタバレになるので詳しくは書かないですが、ラストは多段階で、終わるかと思いきや終わらないという展開になります。
その度ごとにジョブ・トゥパキとエブリンの関係も共感と反発を揺れ動きます。
結果的にはジョブ・トゥパキ自身もエブリンに受け入れられ、救われます。
彼女自身も虚無感から救い出され、自分はそのままで良いという肯定感を得ます。
母親と娘という関係は意外と対立することも多く、それは同性ならでは価値観・人生観の対立とも言えます。
エブリンとジョイ=ジョブ・トゥパキもその価値観の違いから対立をしますが、それぞれに自己肯定感を得て、その結果相手のことも受け入れられるようになったのでしょう。
自己肯定ができなければ、相手の価値観を受け入れる余裕はないですから。
自分が不幸か、不幸じゃないかは、状況・環境ではなく、自分が自分らしく生きていられているという実感があるかどうかなのでしょうね。

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2023年3月 6日 (月)

「アントマン&ワスプ:クアントマニア」「アベンジャーズ」への布石

<ネタバレあります>
MCUのフェーズ5の幕開けとなる作品で、「マルチバース・サーガ」のメインヴィランとなる征服者カーンが登場します。
「アントマン」はこれまでは軽妙なコメディタッチで描かれており、MCUの中でも独特のポジションをとっていました。
本作はターニングポイントとなる位置付けのためか、コメディタッチは抑え気味となっています。
今回舞台のほとんどは量子世界となっています。
前作でのジャネット救出でその一端は見ることができましたが、本格的に量子世界が描かれるのは本作が初めて。
そこはまた一つの宇宙のようで様々な民族のごった煮のような世界が描かれます。
その世界観は「スター・ウォーズ」に通じる感じもしますね。
ストーリーとしても「スター・ウォーズ」を思わせるような展開で、量子世界を支配したカーンに対し、アントマンらと量子世界のレジスタンスが協力して戦う、まるでSF戦争映画のような展開です。
そのためか、ストーリーとしては思いのほか単純であり、驚きはあまりありません。
個人的にはアントマンことスコット・ラングとその娘キャシーの関係をもっと掘り下げて欲しいなと感じました。
スコットが失った娘との五年間に関して葛藤がもっとあるのかと思っていたのですが・・・。
また、サノスのさらに上をいく最強の敵と言われる征服者カーンですが、それほどの凶悪さを感じなかったことも物足りなさを感じたところかもしれません。
本作のカーンはドラマシリーズ「ロキ」で登場した「存り続ける者」の変異体です。
冒頭に書いたようにカーンはアベンジャーズの最新作「アベンジャーズ:カーン・ダイナスティ」のメインヴィランです。
本作でも非常に強い力を見せつけ、アントマンらを苦しめますが、最後はアントマンとワスプに封じ込められます。
とはいえ、最凶ヴィランとしてはあっけない印象も受けました。
同じ変異体であれば「存り続ける者」の方が不気味さがありました。
「存り続ける者」は初めてマルチバースを発見し、自分の世界以外へ行き来することができるようになった人物です。
その結果、それぞれの世界の彼の変異体は互いに争うようになりユニバース同士の激しい戦いを巻き起こしました。
そのため「存り続ける者」は自分の世界のタイムライン(神聖時間軸)以外を存在させないことにより、世界間戦争防ぐため、TVAを設立したのです。
しかし「ロキ」の最終話で、ロキの変異体であるシルヴィに「存り続ける者」は殺され、TVAも崩壊、そのためマルチバースが存在することになったということが描かれました。
フェーズ4でさまざまなマルチバースが登場したのはそのためです。
「存り続ける者」は一つのタイムラインしか認めないことにより、世界間戦争を防ぎました。
そして本作のカーンは彼がそのほかの世界を全て征服することにより、世界間戦争を防ごうとしたのです。
しかし、彼はアントマンらによって封印されました。
「アベンジャーズ」の「インフィニティ・ウォー」「エンドゲーム」の驚きのある展開に対して、物足りなさを感じたわけです。
しかし、それは最後のポストクレジットで翻りました。
本作のカーンを量子世界に追放したのは、他のカーンたちだったのです。
無数のユニバースに存在する無数のカーンたちがある場所に集まっています。
そこにいるのはカーンのみ。
彼らを取り仕切っているらしい幹部たちも全てカーンの変異体です。
彼らはまるで一つの国家のよう。
まさにカーン・ダイナスティ(カーン王朝)です。
アベンジャーズが戦うのは、一人のカーンではなく、無数のカーンの変異体なのでしょう。
たった一人のカーンですら、手こずらざるを得なかったわけですから、それが無数となった場合は、非常に難しい戦いになることが想像できます。
確かに、カーンは最凶ヴィランであると、頷けました。
本作はカーンという最強の敵を印象付けるための壮大な前振りという位置付けになったような印象です。
そのためか作品としては少々物足りなさを感じました。

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2022年12月21日 (水)

「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」段違いの映像表現

13年ぶりに公開される「アバター」の続編となります。
「アバター」はエポックメイキングな作品で、それまでもあった3DCG表現を1段も2段も超えさせた表現で観客を驚かせました。
当時の私の記事を見返してみると、それまでの3DCGとは異なり奥行き感を表現していたと書いていました。
本作ではさらに進化をしていて、空気感のようなものまでも描写できていたと思います。
本作の舞台は海となり、水中での表現もかなり多くなっているのですが、見事に表現をしていました。
海中は厳密には透明ではなく、非常に細かいプランクトンのようなものも漂っていますし、光の透過も空気中とは異なります。
自分の周りに水があるような空気感(変な表現ですが)を表現できているように思います。
また水中にあるものは水の圧力を受けているわけで、空気中とは違う動き方をします。
水の抵抗感のような質感もリアルに再現されていました。
前作が公開された頃は3Dムービー元年と呼ばれ、「アバター」以外にもかず多くの3D映画が作られました。
しかしその多くは通常のカメラで撮ったものをCGで立体視できるように加工したものが多かったように思います。
そのためか、3Dメガネをかけてみた時も、立体感を感じてもナチュラルさは感じにくかったかと思います。
その不自然さからか、見ていると非常に目が疲れるので、いつしか3Dか2Dかだったら2Dを選んで見るようになりました。
おそらく多くの人もそう思ったので、このところ3D上映はほとんど見かけなくなりました。
本作を見るにあたり、3Dにしようか迷いましたが、キャメロン監督がこだわっているので3Dで鑑賞をしました。
監督が執着しているだけあって、3D表現はまさにリアルで没入感が非常に強かったと思います。
水中のシーンでは先ほどの描写の見事さと3D視のナチュラルさで水の中にいるかと思うほどです。
これならばケチらずIMAX3Dで見ればよかったと思いました。
他の作品との格の違いを見せつけた表現力で、それだけでも一見の価値があるかと思います。
ストーリーについてはどうでしょうか。
3時間越えの作品ではありますが、ストーリーは非常にシンプル。
前作ではアバターの設定や惑星パンドラ、ナヴィの設定などを説明する必要がありましたが、本作ではその必要はありません。
そのためジェイクとその家族周辺の物語にフォーカスされています。
本作はストーリーありきというよりは、見せたいシーンのためにストーリーがあるような気がするほどです。
見せたいシーンであるアクションシーンは非常に見応えがあり、特に後半は息を吐く暇もないほどです。
その分、キャラクターの掘り下げなどは薄く、人物描写にはあまり深みを感じません。
元々キャメロン監督は深い人物描写はあまり得意ではないと思いますので、ある種の割り切りも感じます。
こういう作品でもストーリーとキャラクターも重視したいという方にはあまりお勧めできません。
どちらかというと映画の中に没入して、ナヴィたちと一緒にパンドラに居るという気分で見るのが良いでしょう。

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2022年12月 3日 (土)

「ある男」アイデンティティの危機

「アイデンティティ」という言葉があるが、これは自分はこういうものであるという自己認識を意味する。
周囲の何ものにも影響されない確立したアイデンティティを持っている人はいるかもしれないが、多くの人のアイデンティティは帰属意識に関わる。
すなわち、日本人である、誰々の息子である、何々という大学を出ている、など。
大学や会社などは自分で選択はできるが、どこの国の人か、誰の子供であるかなどは自分で選べない属性もある。
本作で窪田正孝さんが演じる谷口大佑(と呼ばれる男)は、殺人を犯した死刑囚の息子であった。
その事実が彼のアイデンティティを非常に不安定なものにしている。
彼が谷口を名乗っていた時期の様子を見るにつけ、彼自身の性格は大人しく、しかし愛情の深い性格のように見える。
しかし、彼は父親が殺人を犯し、そして親と瓜二つの容姿であることから自分の中にも同様の性質があるのではないかということに日々怯えていた。
そのギャップが日々大きくなっていき、彼はアイデンティティの危機(自分が何者かわからなくなる)に陥っていったのだろう。
誰かの息子という事実は普通は変えられない。
追い込まれた彼は、戸籍交換という手段を取るのだ。
自分を一度リセットするために。
谷口の妻に依頼され、彼の出自を追うのが、妻夫木聡さん演じる弁護士の城戸だ。
彼はとても成功している弁護士であり、妻子を持ち、幸せな家庭を築いている。
城戸は谷口の素性を洗っていく中で、次第にそれに惹きつけられるように没頭していく。
実は彼は在日三世であり、日本人に帰化した男であった。
詳しくは語られないが、在日としての苦労は味わってきたのだと思われる。
彼は帰化という手段により、日本人であるという帰属意識を手にいれ、アイデンティティのバランスをとった。
しかし、彼が在日という言葉にあえて無理に反応しないようにしている様子を見るにつけ、彼の奥底では葛藤があるようにも思える。
だからこそ、同じようなアイデンティティの葛藤に苦しんでいた谷口に惹かれたのではないか。
谷口は若い時にアイデンティティの危機に陥ったが、結果的には数年とはいえ、幸せな時間を過ごすことができて、死んでいった。
城戸は日本人となり、誰もが羨むような幸せそうな生活を送っているものの、それが本当の自分ではない、居心地の悪さを感じているのかもしれない。
谷口に対し、城戸は羨みを持っていたのかもしれない。
ラストのバーの場面で、城戸は見知らぬ男に対して、谷口のプロフィールを使い自分のことを紹介していた。
城戸も理想的に暮らしている自分と、内面にある本当の自分の間にあるギャップを感じている。
彼がアイデンティティの危機に向かっていくのではないかという余韻を感じさせる結末であった。

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2022年10月10日 (月)

「映画 デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ!」大人は穢れか、憧れか

6歳になる娘が大好きな「プリキュア」。
現在放映中の「デリシャスパーティ♡プリキュア」の劇場版に、もちろん娘と一緒に行ってきました。
どのくらい娘が好きかというと、七夕の短冊に将来の夢で「ぷりきゅあになりたい」と書くくらいです。
突然ですが、本作はコメコメが主役と言ってもいい。
コメコメとは主人公の和実ゆい=キュアプレシャスのペア妖精です。
「プリキュア」シリーズはお約束として、プリキュアたちをサポートする妖精が登場するのですが、コメコメもそのような立ち位置になります。
大体の作品においてこの妖精はプリキュアをサポートする立場というか、ガイド役のような存在となります(前作のくるるんは何もしなかったです・・・)。
本作でのガイド役はレギュラーで登場しているローズマリーが担っているので、デパプリの妖精たち、特にコメコメはちょっと立ち位置が違うように感じています。
コメコメだけ人間への変身能力を持っていて、当初は赤ちゃん、そして幼児、本作では少女になっています。
コメコメはキュアプレシャスに憧れており、彼女のようになりたいと願っています。
これはこの映画の主題になります。
まさにコメコメの立ち位置は、私の娘のように「プリキュアになりたい」と思っている子供たちそのものなんですよね。
映画独自キャラクターとしてケットシーという登場人物がいます。
ネタバレにはなりますが、彼は幼い頃から天才であり、大人たちに利用されて研究を続けてきました。
彼は大人たちから逃げ出してきた時に、幼い頃の和実ゆいに出会っています。
彼はその後も大人に利用され続け、やがて大人を憎むようになります。
代わりに(幼いゆいに会ったこともあってか)子供の純真さを絶対視するようになります。
そんな彼が子供たちのために作ったのが、ドリーミアというテーマパークで、ここには大人は入ることができません。
子供たちだけのテーマパークなのです。
コメコメはキュアプレシャスに憧れ、彼女の役に立ちたいと思いますが、幼いからか思うようにいきません。
コメコメは早く大人になりたいと願う少女なのです。
そんなコメコメにケットシーは「そのままでいい」と言いますが、それは彼の過去の経験からくる大人への不信が言わせています。
彼に対する大人の扱いは虐待と言ってもいいでしょう。
彼にとって大人は穢れた存在なのでしょう。
それに対し、コメコメにとっては大人は憧れの存在。
大人と言ってもゆいは中学生なのですが、少女にとっては憧れの大人に見えますよね(本作はプリキュアの年齢設定を非常にうまく使っていると思います)。
ゆいはおばあちゃんに「ご飯は笑顔」と言われ、食べること=生きることを大切に素直に育ってきました。
そんな彼女に憧れるコメコメもとても素直な子です。
大人を穢れと見るか、憧れと見るか。
正反対なケットシーの育てられ方、ゆいの育てられ方を見るにつけ、子供たちの周りの大人たちの日頃の接し方が重要であると思いました。
子供たちが少なくとも、こんな大人になりたいという希望を持てるような接し方をしたいと思います。

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