2025年12月29日 (月)

「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ 」訪れた混沌

「アバター」シリーズは第3作目で「混沌」を迎えたと言えるかもしれない。
物語としても、シリーズとしても。
前2作は構造としてわかりやすかった。
2つの対立軸があったからだ。
地球人(スカイ・ピープル)とナヴィ。
これは文明と自然という対立軸を表している。
これはまた破壊と調和とも言える。
前2作は文明が自然を侵食していくが、最後には自然によるしっぺ返しを食うという構造になっている。
物語はナヴィ側の視点で語られるため、観客は自然と彼ら側に立つので、最後の大逆転で大きなカタルシスを味わうことになる。
実は本作の話の展開は「ウェイ・オブ・ウォーター」と表面的には似ているのだが(そのため少々既視感がある)、前作ほどの高揚感はない。
なぜか。
それは今までのようなわかりやすい対立軸が揺らいできているからだと思う。
地球人とナヴィの対立軸を、キャラクターでわかりやすく体現しているのが、クオリッチ大佐と主人公ジェイクである。
それぞれ彼らは地球人とナヴィのものの考え方を代表して相容れない敵同士である。
前2作では彼らの対決が物語のクライマックスでもあった。
しかし、本作では驚くほどに彼らが近似していることが描かれる。
彼らは共に海兵隊の出身である。
そもそも規律を重んじ、人々をまとめ上げるリーダーシップを持つ気質も両者似ているのだ。
そしてまた本作では、自分の子であるスパイダーに対するクオリッチの愛情を描かれるシーンが多く見られる。
これにより彼の父親としての面が描かれ、彼が単なる冷酷な軍人ではないということわかる。
さらにはクオリッチはアッシュ族に出会い、彼らにシンパシーを感じ、行動を共にするようになるのだ。
それまでナヴィを野蛮人と毛嫌いしていた彼が、上官に反抗し、アッシュ族風の戦闘化粧をして戦いに挑む様は、明らかに前2作とは変わっている。
反対にジェイクはナヴィの将来のためにスパイダーを手にかけようともする。
これは親子の情を大切にする彼らしくない行動であるが、時折見せる指揮官としての側面が見せる冷酷な判断であったのだろう。
このようにクオリッチとジェイクが立つサイドが違うだけで、実は似ている存在であることが強調される。
また本作ではアッシュ族という部族が登場する。
彼らは火山によって壊滅されたエリアに住む部族で、そのため他部族を襲うことで生活を立てている。
彼らはナヴィたちが信仰する母なる女神・エイワを信じない。
調和を重んじるナヴィの中にあって異質な存在であり、事実スカイ・ピープルから銃を手に入れ、クオリッチらとナヴィを襲う。
地球人=悪、ナヴィ=善とわかりやすく整理されてきた「アバター」シリーズにおいて、その図式を揺るがせる存在である。
他にも対立軸を混沌とさせる変化は起こっている。
ナヴィ側で言えば、彼らは伝統・しきたりを重んじて生きてきていた。
またジェイクは軍隊のように彼らを指揮・統率してきていた(ロアクは父親であるジェイクに「イエス・サー」と答える)。
年長者・上位者が強い力を持つ文化であるが、ここにきて若者たちが台頭してきているのだ。
ロアクやトゥルクンのパヤカンなどは伝統に意見して、立ち上がる。
ナヴィ側も一枚岩ではなくなっているのだ。
地球人も同様である。
地球側は今までまさに軍事組織として描かれていた。
上官の命令は絶対であり、その象徴でもあったのがクオリッチ大佐だ。
しかし前述した通り、クオリッチは上官である将軍に逆らうこととなる。
他にも欲に突き動かされてトゥルクンを狩る者、逆に彼らを保護しようとジェイクを助ける者などがおり、人類側の思惑も一致していない。
このように本作ではわかりやすかった対立軸が揺らいでいるのだ。
そのため今までのような爽快感はなく、何か後味が悪いような混沌とした印象が残る。
これは意図したものなのであろうか。
個人的にはこれは意図したものであろうと考える。
混沌とした「惑星パンドラ」のこの状況は、まるで今の世界のようでもある。
様々な価値観があり、至る所に対立がある。
そこにはまだ解決の道筋も見えない。
カオス(混沌)である。
ギリシャ神話に登場するパンドラは箱を開け、数多くの災厄が放たれた。
これは不可逆的なものであり、災厄がなくなることはない。
しかし、箱には希望が残っていたとも言われる。
人類が惑星パンドラを訪れたことによって、沸き起こった災厄はなくなることはない。
災厄によってもたらされた混沌も続いている。
しかし、希望は残っているかもしれない。
その希望をこのシリーズは語っていくつもりなのではないだろうか。

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2025年12月21日 (日)

「エディントンへようこそ」狂っていく距離感

コロナパンデミックは2019年から2023年までと言われる。
いまだにその時の記憶は生々しい。
人類がかつて経験したことがない規模の疫病の世界的流行であり、多くの感染者が出た。
当初はウィルスについての情報も少なく、どのように感染を食い止めるか、官民ともに手探りであった。
そのような中で正偽が定かでない情報がネットを中心に拡散していったことも記憶に新しい。
本作の舞台となるのはコロナ禍真っ只中のニューメキシコ州の小さな街、エディントンである。
ロックダウンが実施され、住民たちは外出が規制されている。
当然、経済は停滞、また自由もある程度制限される中で、住民たちの間ではストレスが次第に蓄積されていく。
そのような中、主張が全く異なる二人によるエディントン市長選がきっかけとなり、街に不穏な空気が満ちていく。
予告を見た時は、この作品のテーマは「アメリカの分断」なのだろうと予想していた。
コロナを未曾有の危機とする派、そしてただの風邪とする派の対立は日本でもあったが、それが制御できないほどにエスカレートしていく、といったようなイメージだ。
本作を製作したA24は「シビル・ウォー」でも「分断」をテーマにしている。
制御できないエスカレートという点は予想通りではあったが、そこで描かれているのは2派による分断といった単純なものではなかった。
コロナで取られていた対策の一つとして、ソーシャル・ディスタンスがある。
これは感染を防ぐために、人と人の間で安全な距離をとるというものだ。
当時日本でも在宅勤務、リモート授業などが推奨された。
それの最も過激な方法がロックダウンとなる。
人間は社会的な生き物と呼ばれるように、人と人との繋がりの中で生きている。
家族以外の人間と物理的な距離をとるというのは、現代社会においては誰も経験したことがないものであったはずだ。
人間というのは不思議なもので物理的な接触が薄くなると、相手に対しての感情移入はしにくくなっていく。
物理的距離とともに心理的距離も離れていく。
物理的な距離が離れたことによる直接的な情報入手がしにくくなったこと、そしてコロナの正体がよくわからず確からしい情報が入手しにくいことで、人々は情報ソースをネットに求めるようになった。
特にSNSによる情報を人々は頼りにするようになった。
インターネットにより情報伝達には物理的な距離は関係がなくなっている。
またSNSにより、マスコミを介さず、個人でも情報発信ができるようになった。
ある意味、グローバルレベルで情報伝達の障壁が劇的に下がったのだ。
たった一人の意見が、世界レベルで影響を与えることも可能になった。
コロナ禍による物理的接触の制限と、同バーチャルでの情報接触の高濃度化が同時に起こったのだ。
これは全地球規模での情報実験とも言える。
近くにいるはずの人が遠くにいるように感じ、遠くにいるはずの人にシンパシーを感じる。
本来コミュニティというものは物理的距離、そして価値観の共有によって一体感が出るものだが、エディントンではこれが崩壊していく。
人と人の距離感が狂っていくかのように。
コミュニティが崩壊し、人はそれぞれ信じたいものを信じるようになる。
そして法律や道徳といった社会的なルールに加え、様々な思想、すなわち白人至上主義、それに対する反論、さらには陰謀論やスピリチュアルまでがインターネットという情報のごった煮の中でごちゃ混ぜになって語られる。
さらには個人的な願望、または悪意がSNSにアップされ、共有され、切り抜かれ、またさらに共有される。
このような情報のスープの中で誰も正しい判断ができなくなっていく。
それぞれが信じたいものを信じていく中で、解決の手段として暴力が選択されるのだ。
本作の登場人物は滑稽でもある。
情報に翻弄されて、自ら階段を転げ落ちていく。
しかし、それは人ごとではない。
情報のごった煮は、エディントンだけで起こっているわけではない。
自分たちも本作の登場人物のように振る舞ってしまうかもしれない、というところに本当の恐怖がある。

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2025年10月26日 (日)

「おーい、応為」同士であり、親子

冨嶽三十六景などで知られる浮世絵師葛飾北斎には、その才覚を受け継いだ絵師である娘がいました。
それがお栄、号が葛飾応為です。
応為は「おうい」と読み、これは北斎がお栄をいつも「おーい」と呼んでいたことから付けられたとも言われています。
応為の作品はそれほど残されていませんが、そのいくつかが劇中でも登場しています。
それらが「吉原格子先之図」「夜桜美人図」「百合図」です。
私は応為の絵は見たことがなかったのですが、特に「吉原格子先之図」「夜桜美人図」は光と闇の使い方が印象的かつ特徴的で、レンブラントのようにも思えました。
北斎とはまた違った才能を見ることができます。
応為の作品数が少ないのは、北斎作品と呼ばれているものの中にも、彼女が描いたものもあるとも言われ、実際共作もあったようです。
さて、本作はその応為が主人公となる作品です。
今までも北斎が登場する映画は数々あり、そこには応為も登場していましたが、このようにスポットが当たるのは初めてではないでしょうか。
応為は北斎の弟子と結婚するものの、夫の絵の拙さに我慢がならず貶したところ離縁されたという逸話を持つ女性。
男っぽいものを好み、当時としては破天荒なタイプの女性であったと思います。
江戸時代の女性と言えば、生まれてから親に従い、夫に従い、子供従い、と一生の間、自分では物事を決められない立場でした。
応為は離縁後は北斎の元で、好きな絵を生業として絵師として活躍します。
劇中、応為は北斎のことを「鉄蔵」と呼び、まるで親らしく扱っていません。
一緒に暮らしているものの、北斎、応為はそれぞれの創作に夢中であり、雑多な生活に関わることには無関心の様子です。
親子というよりは、それぞれ自立したアーティストとして生き、刺激を受けているという状況でしょうか。
それぞれの創作を追求するという点では、互いにリスペクトしているようにも思います。
それぞれの口が悪いのは、親子としての屈託のなさでしょうか。
彼らは親子でありつつ、創作に取り憑かれた同士でもあったのでしょう。
北斎は晩年、応為に自分が死んだら、自由に生きていいと伝えます。
彼はアーティストとしての応為を尊敬し、一緒に刺激しながら創作をしてきたことに満足しつつも、親として娘の一生を奪ってきたのではないかと考えたのです。
それに対し、応為は元々自分はこのように生きたいから生きてきたと返します。
親だから世話しなくてはいけないから一緒に暮らしてきたわけではなく、身近にいる最も優れたアーティストとして尊敬する北斎のそばにいて、刺激を受けたかったからだということでしょう。
その当時としての女としての幸せではないかもしれない。
しかし、それは自分が生きたかった人生であると。
応為にとって、北斎はどうしようもない親で目を離せない存在でもありましたが、最も尊敬する芸術家でもあったのでしょう。
応為は、アーティストとしても、女性としても自立した考えを持った人物であったのかもしれません。
北斎の死後、応為の行く末に正説はないようです。
一人になった彼女の作品がどのように変わっていったのか、知りたいですね。

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2025年8月24日 (日)

「映画 ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー 復活のテガソード」自由になるなずが不自由に

シリーズ49作目にて「スーパー戦隊」50周年記念の「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」。
今までも「ゴーカイジャー」などキリがいいところでの記念作品はあり、旧戦隊が登場するなどして大いに盛り上がりました。
本作でもそれらの作品と同じように旧戦隊が登場してきます。
しかし、正直言って個人的には「ゴジュウジャー」はいまいち乗り切れていないのです。
意欲的な作りをしていることは理解しています。
従来の型化しているようなスーパー戦隊フォーマットから離れようとしています。
型から解放されるのでストーリーとしては自由になるはずです。
実際いつもの怪人戦→巨大戦というフォーマットには従っていないストーリーになっていますし、戦隊メンバーも厳密にはチームとしての一体感はやや薄く、それぞれの思惑で動いています。
ただ戦隊である限りはチームは描かなくてはならず、自由とはいえロボ戦はやらなくてはいけないわけで、そうなるとフォーマットに沿わない形でそれらを描かなければならなくなっているからか、毎回四苦八苦しているように感じられるのです。
自由になるはずが、不自由になっているというか。
これは基本的には一話完結フォーマットであることは守っているということに起因しているのかもしれないですが。
「仮面ライダー」シリーズは一話完結にこだわっていないため、さまざまな型から自由になったことがいい方向に現れていると思います。
作りとしては王道であった前回作品「ブンブンジャー」の方が全体的なストーリーとしては一話完結は守りながらも大河的でもあり、うまくいっていたような気がします。
劇場版についてはそのようなテレビシリーズの苦しさをそのまま持ってきているようにも感じ、ドタバタしたまま終わってしまったという印象になりました。

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2025年8月23日 (土)

「映画 仮面ライダーガヴ お菓子の家の侵略者」ポップな仮面の下に

現在佳境を迎えている「仮面ライダーガヴ」の劇場版です。
「ガヴ」はお菓子をモチーフとしていてポップなカラーリングが印象的な仮面ライダーですが、そのイメージとは裏腹に設定は最近の「仮面ライダー」シリーズの中でもかなりダークな部類に入ると思います。
ガヴが戦うのはグラニュートという異世界の住人ですが、彼らは人間を攫っては「闇菓子」というお菓子の原料にしているのです。
グラニュートにより人間は「人プレス」という圧縮された状態になり、それがグラニュート界の工場でお菓子の原料とされます。
当然、原料にされてしまうのですからその人間は死んでしまうわけです(人プレスの状態で救い出せれば、人間に戻せる)。
最近の「仮面ライダー」は時代の風潮からからあまり「死」を正面切って描いていませんでした(描けない)。
昭和の「仮面ライダー」では怪人にやられた一般人が溶けて消えるシーンがありましたが、このようなシーンも最近ではあまり見かけなくなりました。
そういう状況の中で「ガヴ」はかなり攻めているといいと思います(「クウガ」はさらに攻めていますが)。
今回の劇場版はテレビシリーズ以上に攻めている感じがしました。
映画では新たな異世界である、我々の世界に似たお菓子の世界が登場します。
ここはテレビシリーズの「ガヴ」よりもさらにポップな世界なわけなのですが、ここの世界が抱えている闇はそれ以上に深い。
この世界を支配するカリエスはガヴを参考にしてベルトを作り、自分の力としていました。
そのために彼はガヴを腹に植え付けた人間の子供育て、そしてガヴが大きくなった時にそれを切除して自分に装着するということをしています。
この描写は子供向けの映画としてもかなり攻めた表現になっていたと思います。
こういうことをするカリエスという敵は同情の余地なしの絶対悪だと思いますが、こういう敵も最近では珍しい。
現実の世界でも悲しいことに許し難い絶対的な悪意のある事件が起こったりします。
「ガヴ」にはそのような非人間的な絶対的な悪意に対する怒り、そして戦う覚悟がポップな世界観の裏に隠されているのだと思います。
これは現在大ヒットしている「鬼滅の刃」にも共通する要素かもしれません。
主人公ショウマは敵を倒す前に「二度と闇菓子に関わらないか、この場で俺に倒されるか」と聞きます。
そして敵が闇菓子に関わり続けるといった場合は容赦せず、相手を滅するのです。
「仮面ライダーガヴ」はポップな仮面の下に、悪を絶対に許さない激しい気持ちを隠しているのです。

 

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2025年7月22日 (火)

「F1/エフワン」究極のチームスポーツ

2ヶ月ほど前、生まれて初めてカーレース(e-フォーミュラ)を見てきました。
お台場の街中を走るレースだったため、道路に面した観客席から見る、走り抜けていくレースカーは想像以上に間近でエキサイティングでした。
私は自分で車を運転するのは好きじゃない(色々気を使うのが疲れる)のですが、レースゲームは好きだったりします。
何度かこちらでも書いてるのですが「グランツーリスモ」は長年に渡ってやっていて、この映画でレーサーたちが転戦していく実際のサーキットはゲーム上で何度も走ったことがあります。
主人公ソニーのチームメイトであるジョシュアがクラッシュするモンツァ・サーキットのコーナーは「グランツーリスモ」をプレイしていてもなかなかやりにくいところなんですよね。
ハイスピードを出せる直線の後にくる割とRが大きいカーブで、Rもカーブの途中で変わるので、減速の加減が難しい。 緩めのRなので高速でも入れるかと思うのですが、Rがキツくなったりするので、早すぎると劇中にあるようにすぐコースアウトしてしまうんですよ。
さて本作は「トップガン マーベリック」の製作スタッフが関わっているということで、レースのリアルさにも徹底的にこだわったと聞いています。
レーシングカーのコクピットから見る景色などは本当にレースしているかのような迫力があり、鳥肌が立ちました。
最近でレースを扱った映画というとゲームを映画化した「グランツーリスモ」がありますが、あちらはあちらでゲーム的な映像センスも入っていてカッコよかったのですが、本作はリアリティを重視していてそこにいるかのような感覚になりました。
レースシーンだけでも一見の価値があると思います。
さてストーリーとしても見応えありました。
ソニーは若かりし頃、レース中に大事故に遭い生死の境を彷徨います。
その後、レースからは離れていましたが、結局はレースが好きであることに気づき、その後様々なレースを流しのように参加していきます。
そしてかつてのチームメイトがオーナーを務める弱小F1へ参加することになります。
本作を見て改めて思ったのはF1レースは究極のチームスポーツであるということです。
車を走らせるのはレーサーですが、いくら彼の腕が良くても勝てません。
車を設計するエンジニア、状況の変化に合わせて車をセッティングする、メカニック。
また刻々と変わる戦況に合わせて、作戦を変えていく戦略性も必要です。
いつピットに入らせるのか、タイヤのセッティングはどうするか、二人のチームレーサーのどちらを勝たせるか・・・。
ツアー最終戦のバトルはレース描写自体の迫力もさることながら、この戦略性も描ききっていました。
このような戦略性を描いているレース映画はあまり記憶がありません。
彼らは一つのゴールを目指して、連携していかなくてはなりません。
誰かがミスをしてもそれを他で埋め合わせるようなことも必要です。
ソニーが入る前は彼らはバラバラでした。
彼がチームの勝利に固執する様を見て、チームメンバーも次第に志を一つにしていくのです(ソニーはレース前にコースをランニングをするのを習慣としていて、最初は一人で孤独に走っていましたが、次第にメンバーが参加していく様子が描かれています)。
ツアーの最終戦、壮絶なバトルの結果、ソニーがチェッカーフラッグを受けます。
チームメイトでずっと対立していたジョシュアがソニーに声をかけます。
「You did it」(お前やったな!)
それに対して
「Yes,we did it」(ああ、俺たちがやった)
と答えます。
これこそがF1がチームスポーツであることを表しています。
ブラット・ピット演じるソニーは最終戦後チームを一人離れていきます。
そして再びレースを渡り歩く生活へ。
なんだかカーボーイのようでもありました。

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2025年4月27日 (日)

「アマチュア」スパイの成長

アクションスパイ映画というと「007」「ミッション・インポッシブル」「ボーン・アイデンティティ」などが浮かびます。
これらの主人公は超絶な肉体的能力・スキル、明晰な頭脳、そして精神力を持った、いわばスーパーマンです。
ですので、ありとあらゆるピンチでも彼らは自分の能力を最大限活かして、その危機を乗り越えます。
見ている方としては彼らがスーパーマンなのは知っているので、ある意味、安心して彼らのピンチを楽しめます。
対して本作の主人公はCIAの分析官チャーリー。
彼は天才的な頭脳は持っているものの、基本はデスクワーカーであり、スパイの現場に赴いたことはありません。
しかし、彼は出張に出かけた妻がテロに巻き込まれて死んでしまったことをきっかけに、テロリストたちに復讐を誓います。
しかし、彼が持つのは頭脳だけ。
肉体的・スキル的にもスパイには向かない平凡なデスクワーカーであり、タフネスを支えるのは妻への愛だけです。
彼は組織にテロリストを追ってほしい、と願いでますが、受け入れられず、単独行動を取り始めます。 冒頭に書いたようにスパイ映画の主人公たちは、絶対に死なないという安心感がありますが、チャーリーはそこが担保されていません。
いつ殺されてもおかしくない。
それが他の作品にはない緊張感を生み出します。
また、逃亡しながらテロリストを追っていく中で、彼自身も変わり始めます。
肉体的な能力は変わりませんが、明らかにタフネスさを身につけていく。
辛い別れも経験しつつ、修羅場を乗り越えていく中で、精神的にも逞しく、一人前のスパイとして成長していきます。
明らかに完成しているスパイヒーローとは異なり、その変わってく過程がこの作品をユニークにしていると思います。

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2025年4月 6日 (日)

「映画おしりたんてい スター・アンド・ムーン」魅力的なキャラクターたち

やはり永遠のライバルのような関係の名探偵と怪盗はいいですよね。
古くは明智小五郎と怪人二十面相、シャーロック・ホームズとモリアーティ教授と枚挙に暇はありません。
「おしりたんてい」で言えば、それはおしりたんていと怪盗Uでしょう。
彼らは永遠のライバルですが、お互いに不思議なリスペクトがあります。
本作の原作はちょうど先日、新刊が発売されていまして、ユニークな2冊同時刊行となっていました。(先に娘は原作を読んでいたため、一緒に見ていた時、ネタバレを言いそうになるのを止めるのに難儀しました・・・)
一つがスターサイドと言って、おしりたんていを中心としたストーリー。
もう一つがムーンサイドと言って、怪盗U中心のストーリーになっています。
映画はこれらを合体させたものになっています。
テレビシリーズの方では、アルファベットのつく怪盗たちが登場してきています。
怪盗Bや怪盗K、怪盗Zなどといったように。
それぞれユニークなキャラクターとなっていますが、彼らはみんな「怪盗アカデミー」という機関の卒業生になります。
そして本作はそのアカデミーの出身者である怪盗Gがおしりたんていの敵となります。
前作はおしりたんていの過去に触れたストーリーとなっていましたが、本作では怪盗U、そして助手のブラウンの過去に触れていきます。
そして怪盗Uの正体にもチラリと垣間見ることができます。 敵となる怪盗Gについても、彼は彼なりにある作戦を進める理由があり、そのこと自体には共感できる部分もあります。
そのように、今回はさまざまなキャラクターに関して掘り下げられており、ストーリーとしても見応えあるものに仕上がっていると思います。 怪盗Uに関してはまだまだ語られるべきストーリーもありそうなので、こちらも今後に期待したいですね。

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2025年3月27日 (木)

「ウィキッド ふたりの魔女」負けた者たちの物語

予告を見た娘が見たいということで、一緒に行ってきました。
尺は2時間40分程度とかなりの長尺で、最後まで娘が耐えられるかなと心配ではありましたが、しっかり楽しんだようです。
始まって驚いたのは「Part1」と入っていたタイトル。
2部構成であるんですね!
物語の幕が上がるとオズの国の風景が描写されます。
広大な土地の間に走る道にはドロシーらしき一行の姿が見えます。
いずれドロシーたちも出てくるのでしょうか。
「オズの魔法使い」には良い魔女と悪い魔女が出てきますが、本作はこの二人が主人公となります。
彼女たちは若かりし頃、同じ魔法学校で学ぶ同窓生でした。
のちに西の魔女と呼ばれるようになるエルファバは生まれながらにして肌が緑色で強い魔力を持っており、父親から厭まれていました。
彼女は自分のために家族が不幸になったと思い、一歩引くように生きてきました。
かたや良い魔女と呼ばれることになるグリンダは良い家に育ち、自信に満ち溢れた女性です。
すぐに仲間を作り、彼らの中心になるようになるような人物。
つまりエルファバとグリンダは正反対の女性であったのですね。
当然彼女たちは最初は反目します。
エルファバの力を見出した学部長マダム・モリブルは彼女に特別授業を施します。
モリブルに憧れるグリンダとしては面白いはずもありません。
グリンダは華やかな女性ではありますが、ちょっとした意地悪さもあり、完璧な良い人物ではありません。
「オズの魔法使い」では良い魔女、悪い魔女とレッテルを貼られている二人ですが、若かりし頃はそのようなレッテルとは異なっていたというところが興味深いですね。
その頃、オズの国では人間以外の生き物たちが排斥されようとしていました。
オズの魔法使いがより王国の支配を強固にしようとするためです。
エルファバは彼女自身の経験もあり、動物たちに共感し、それを実行しようとする人々に反発します。
やがてエルファバはオズの魔法使いに呼ばれ、首都にグリンダと共に向かいますが、そこで彼の本当の目的を知ります。
彼はそもそも魔法の力は持っておらず、そのため強力なエルファバの力を使って、動物たちを抑圧しようとしてい他のです。
エルファバは彼の本当の意図を知り、反発をします。
モリブルはそんな彼女を反逆者、邪悪な魔女とし、王国の敵とします。
これが「悪い魔女」の誕生の瞬間です。
エルファバは王国がまとまるための共通の敵として、「悪い魔女」にされてしまった。
本来は動物たちを解放しようとした英雄であったのに。
エルファバ=悪い魔女はいずれ滅ぼされます(本作のオープニングでもその描写があります)。
勝者が歴史を作ると言います。
歴史は勝者に都合の良いように語られる。
「オズの魔法使い」は勝者によって語れれた歴史なのかもしれません。
本作は負けた者たち、の視点で描かれる物語なのでしょう。
「邪悪な魔女」と呼ばれたエルファバは何を思い、その役割を果たしたのか。
その時グリンダはどのような気持ちであったのか、それがPart2で描かれるのでしょう。

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2025年3月23日 (日)

「映画ドラえもん のび太の絵世界物語」ひみつ道具、大活躍

<多少ネタバレあります。> 子供の頃「ドラえもん」のテレビ放映が始まり、劇場版の1作目「のび太の恐竜」をワクワクして見てました。
いつしか「ドラえもん」を卒業し、子供ができてまた再び見にいくようになりましたが、自分が子供の頃のようにワクワクしては見れませんでした。
が、本作は期待以上に面白く、久々に「ドラえもん」の映画でワクワクドキドキしました。
まずは脚本が凝っています。
のび太たちが訪れた中世の世界で不穏な企みが進んでいますが、その敵に到達するまでがワクワクドキドキ。
ミスリーティングも誘いながら、敵まで辿り着きますが、そこからさらに巨大な敵が現れて・・・。
この辺のストーリー展開はなかなかです。
なんと言っても今回、のび太やドラえもんの敵となる存在は圧倒的に強い。
その存在によって、仲間たちも次々倒れていきます。
起死回生の作戦として、水が苦手な敵に対して、モーゼステッキで湖の水を割る、というところまでやってのけますが、それも通じない。
とうとう、ドラえもんまで倒れます。
万事休すのその時に、冒頭に使ったひみつ道具が効いてきます。
なんとまあ、見事な伏線でした。
昨年の「ドラえもん」の劇場版は面白くはあったものの、ひみつ道具はあまり活躍していない印象でしたが、本作ではひみつ道具がまさにキーアイテムとして効いているんですよね。
これぞ「ドラえもん」の劇場版です。 藤子先生が書いていた「ドラえもん」の長編はひみつ道具とタイムマシンなどがかけ合わさって、伏線として効いてくるという展開がしばしばありましたが、同じような感覚を味わった気がします。 他にもクレアがかるがるつりざおを先に使っていた結果、ジャイアンとスネ夫を助けることにつながったり、とひみつ道具を効果的に使っていましたよね。 このシーンもアクションはなかなかの見せ所があり、後半の巨大な敵との戦いとの空中戦も作画的にかなりの熱が入っていたように思います。
ストーリーだけでなく、作画としても見せ所がありました。
他の方のレビューを見ても、かなり高評価が多く、個人的にも納得できます。
来年が楽しみになりました。

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