「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ 」訪れた混沌
「アバター」シリーズは第3作目で「混沌」を迎えたと言えるかもしれない。
物語としても、シリーズとしても。
前2作は構造としてわかりやすかった。
2つの対立軸があったからだ。
地球人(スカイ・ピープル)とナヴィ。
これは文明と自然という対立軸を表している。
これはまた破壊と調和とも言える。
前2作は文明が自然を侵食していくが、最後には自然によるしっぺ返しを食うという構造になっている。
物語はナヴィ側の視点で語られるため、観客は自然と彼ら側に立つので、最後の大逆転で大きなカタルシスを味わうことになる。
実は本作の話の展開は「ウェイ・オブ・ウォーター」と表面的には似ているのだが(そのため少々既視感がある)、前作ほどの高揚感はない。
なぜか。
それは今までのようなわかりやすい対立軸が揺らいできているからだと思う。
地球人とナヴィの対立軸を、キャラクターでわかりやすく体現しているのが、クオリッチ大佐と主人公ジェイクである。
それぞれ彼らは地球人とナヴィのものの考え方を代表して相容れない敵同士である。
前2作では彼らの対決が物語のクライマックスでもあった。
しかし、本作では驚くほどに彼らが近似していることが描かれる。
彼らは共に海兵隊の出身である。
そもそも規律を重んじ、人々をまとめ上げるリーダーシップを持つ気質も両者似ているのだ。
そしてまた本作では、自分の子であるスパイダーに対するクオリッチの愛情を描かれるシーンが多く見られる。
これにより彼の父親としての面が描かれ、彼が単なる冷酷な軍人ではないということわかる。
さらにはクオリッチはアッシュ族に出会い、彼らにシンパシーを感じ、行動を共にするようになるのだ。
それまでナヴィを野蛮人と毛嫌いしていた彼が、上官に反抗し、アッシュ族風の戦闘化粧をして戦いに挑む様は、明らかに前2作とは変わっている。
反対にジェイクはナヴィの将来のためにスパイダーを手にかけようともする。
これは親子の情を大切にする彼らしくない行動であるが、時折見せる指揮官としての側面が見せる冷酷な判断であったのだろう。
このようにクオリッチとジェイクが立つサイドが違うだけで、実は似ている存在であることが強調される。
また本作ではアッシュ族という部族が登場する。
彼らは火山によって壊滅されたエリアに住む部族で、そのため他部族を襲うことで生活を立てている。
彼らはナヴィたちが信仰する母なる女神・エイワを信じない。
調和を重んじるナヴィの中にあって異質な存在であり、事実スカイ・ピープルから銃を手に入れ、クオリッチらとナヴィを襲う。
地球人=悪、ナヴィ=善とわかりやすく整理されてきた「アバター」シリーズにおいて、その図式を揺るがせる存在である。
他にも対立軸を混沌とさせる変化は起こっている。
ナヴィ側で言えば、彼らは伝統・しきたりを重んじて生きてきていた。
またジェイクは軍隊のように彼らを指揮・統率してきていた(ロアクは父親であるジェイクに「イエス・サー」と答える)。
年長者・上位者が強い力を持つ文化であるが、ここにきて若者たちが台頭してきているのだ。
ロアクやトゥルクンのパヤカンなどは伝統に意見して、立ち上がる。
ナヴィ側も一枚岩ではなくなっているのだ。
地球人も同様である。
地球側は今までまさに軍事組織として描かれていた。
上官の命令は絶対であり、その象徴でもあったのがクオリッチ大佐だ。
しかし前述した通り、クオリッチは上官である将軍に逆らうこととなる。
他にも欲に突き動かされてトゥルクンを狩る者、逆に彼らを保護しようとジェイクを助ける者などがおり、人類側の思惑も一致していない。
このように本作ではわかりやすかった対立軸が揺らいでいるのだ。
そのため今までのような爽快感はなく、何か後味が悪いような混沌とした印象が残る。
これは意図したものなのであろうか。
個人的にはこれは意図したものであろうと考える。
混沌とした「惑星パンドラ」のこの状況は、まるで今の世界のようでもある。
様々な価値観があり、至る所に対立がある。
そこにはまだ解決の道筋も見えない。
カオス(混沌)である。
ギリシャ神話に登場するパンドラは箱を開け、数多くの災厄が放たれた。
これは不可逆的なものであり、災厄がなくなることはない。
しかし、箱には希望が残っていたとも言われる。
人類が惑星パンドラを訪れたことによって、沸き起こった災厄はなくなることはない。
災厄によってもたらされた混沌も続いている。
しかし、希望は残っているかもしれない。
その希望をこのシリーズは語っていくつもりなのではないだろうか。

最近のコメント