2025年11月30日 (日)

「TOKYOタクシー」人生と時代を巡る東京の旅

ある日、個人タクシー運転手の浩二は、老齢のマダムすみれを乗せた。
彼女は東京を去るにあたって、思い出の場所を巡ってみたいと言う。
東京の街を巡りながら、すみれは自分の半生を浩二に語っていく。
葛飾、浅草、上野、千住、渋谷、銀座、新宿・・・。
カメラに写し出されるのは、東京の今の街並み。
昔の面影を残している街もあれば、ガラリと様変わりした場所もある。
すみれの話は戦争の頃から始まる。
幼い頃、空襲によって父親を亡くしたこと。
当時隅田川では炎に追われ、川で溺れ死んだ方も多いと聞く。
そして青春時代の初恋の話。
相手は在日2世で、北朝鮮への帰還事業で祖国に帰ってしまい、その後会うことはなかった。
帰還した在日は夢を持って北朝鮮に渡ったが、行方知れずになった者も多い。
初恋の相手との間には息子を得て、高度経済成長時代にすみれは再婚をし、団地住まいとなる。
しかし、その夫はすみれにも息子にも暴力を振るうようになった。
女性の人権が叫ばれるようになる前である。
そして、すみれは息子を守るために、夫を半殺しの目に合わせてしまう。
彼女は服役をするが、その間に息子を事故により亡くしてしまうのであった。
彼女の人生には時代性が色濃く反映されている。
それを聞く、浩二はどこにでもいるような平凡な男である。
妻と中学生の娘の三人暮らし。
個人タクシーを生業としているが、生活は慎ましい。
娘が私立高校の推薦を受けられそうと聞いて喜ぶが、その学費の額に驚く。
娘は文句なく可愛く、なるべくその願いを叶えてあげたいと思う。
妻とは恋愛結婚だったようだが、今では空気のような存在。
何かと出費が多いため経済的な悩みが多く、妻にはくどくどと金策をするように言われている。
そう、どこにでもいるような平凡な男。
浩二はすみれの話を聞きながら、自分たちの生活が平凡なものながらも、かけがいのないものであることに気づいたのだと思う。
家族というのは毎日接するからため、その存在を当たり前と思ってしまいがちだ。
まさに空気のように。
対してすみれは父親を、初恋の相手を、そして息子を失ってきた。
そういう時代であったと言えば、それまでかもしれない。
でも今の当たり前が通じない時代であったのだ。
そんな時代を生きる中で愛する人々をすみれは失ってきていた。
現在はまた今なりの問題も色々あるが、大切な家族と平凡でも一緒に暮らしていけるのは幸せなことだ。
浩二がすみれの話を聞いて、思わず妻に電話してしまうところが可愛い。
すみれは、昔も悪いところだけではなかったと言う。
商店街はもっと活き活きとしていて、元気だった。
高度成長期という時代背景があるかもしれない。
確かにあの時代は、どんどん豊かになっていくということを疑ってもいない時代であった。
すみれは息子を失ってから、ずっと一人であったのだろう。
事業で成功していたように見える彼女の葬式は思いの外、小さかった。
身寄りがないことがこれからもわかる。
ずっと寂しい、という気持ちを抱えていたのだろう。
人生を終えようとする時に、自分の人生を浩二と共有できたことは彼女にとってどれだけ嬉しかったことか。
何か残せたという気持ちになれたのではないだろうか。
浩二を息子と言うには、ちょっと歳が下かもしれない。
けれど、自分の半生を話し、それに共感してもらったことによって、息子のような感覚を持ったのかもしれない。
だからこそ、もう少し彼と一緒に過ごしたかった。
そして最後に彼のために何かを残してあげたくなったのだ。
時代が変わり、街並みが変わっても、人にとって大切なことは変わらない。
すみれと浩二、その人生の最後と途中において、そのことを共有し合えた。
それはある日の奇跡かもしれない。
暖かな余韻の残る作品でありました。

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2025年10月12日 (日)

「トロン:アレス」サイコガンダム??

デジタル世界を映像化した画期的な作品「トロン」。
数々の映像作品が「トロン」の影響を受けました。
そのシリーズ最新作がこちら「トロン:アレス」です。
今までの2作はデジタル世界に人間が訪れるという展開でしたが、本作では逆。
デジタル世界のプログラムたちが現実世界を侵食します。
ジャレッド・レトが演じる主人公はデリンジャー社のセキュリティプログラム「アレス」。
冒頭よりアレスが学習する過程が描写されますが、現在AIで主流となっている敵対的生成ネットワーク(GAN)でしたね。
敵となるプログラムと戦い、勝てるまで試行錯誤して学習していく。
敵対的生成ネットワークをわかりやすくビジュアル化していました。
今回はデジタル世界のものがリアル世界にやってくるわけですから、その表現の加減が難しかったと思います。
思いっきりCG的なものでは現実世界ではあまりにおもちゃっぽくなってしまいますし、リアルすぎるとそもそもデジタルっぽくない。
デザイン、テクスチャなどの匙加減が上手で、リアル世界の中でデジタル世界のメカが存在感を持って描かれていました。
オリジナルから印象的であったライトサイクルの後ろに発生する光の帯ですが、現実世界ではそれが物理的に存在するようになるという発想は面白い。
予告でも見られた光の帯によってパトカーが真っ二つにされるシーンなどはビジュアル的にもインパクトがありました。
最終盤に現実世界に出現した巨大なメカですが、なんか既視感がありました。
なんだろうと考えたのですが、あれば「Zガンダム」のサイコガンダムですね。
サイコガンダムがモビルフォートレス状態でホンコンシティに来た場面を思い出しました。
ビルの間を宙に浮きながらゆっくりと進んでくる様は、まさにサイコガンダム。
人型でもなんでもないデジタル感のある異質感のある形状も共通しているように感じました。
サイコガンダムにインスパイアされたんじゃないですかね。
ストーリーとしては新味があったようには思いませんでした。
永遠の命を持つ非人間の主人公が人間と触れ合う中で人間性を発見し、自らも人間として生きていく道を選ぶ、というのは今までも繰り返し語られてきた話です。
主人公アレスもあっさりと人間になりたい、という気持ちになりましたが、もう少し葛藤があったらドラマチックになったかもしれません。
ラストで数々の罪を問われたデリンジャー社の社長はデジタル世界に逃亡しました。
次回作はデジタル世界とリアル世界の全面戦争になるのでしょうか。

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2025年10月 5日 (日)

「沈黙の艦隊 北極海大海戦」信条に真摯に行動する

2023年に公開された「沈黙の艦隊」の続編です。
大沢たかおさんが演じる主人公海江田は、「キングダム」とはまた違った、静かなる存在感を出していました。
ですが、元々大作であった原作を踏まえた映画化作品であったので、前作はまさに導入部分といったものでした。
サブタイトルにあるように本作は、東京から国連があるニューヨークを目指す「やまと」の旅路が描かれ、特に北極海でのアメリカとの潜水艦が一つのクライマックスとなります。
潜水艦戦というのは相手が見えない中での戦いであり、心理的な駆け引きが潜水艦映画の見どころとなり、極限の中での人間性が描かれ今までも数々の名作が作られてきました。
しかし本作の主人公海江田というキャラクターは人間離れして冷静沈着であり、動揺する姿を見えないタイプです。
ですので「やまと」側では極限状態を感じるシーンはありません。
その代わり相手側のアメリカ側にはドラマが描かれていて、ここは共感できました。
「やまと」と戦う最新鋭の潜水艦「アレクサンダー」を率いるのはベイツ艦長と言い、名門の海軍一家の養子となった男です。
彼の義理の兄に対する尊敬と愛情、軍人一家としての誇り、そして自分の鑑の部下たちへの責任の中で、大きな決断を迫られる部分は引き込まれる部分がありました。
本作で登場してくる人物の多くはプロフェッショナルです。
軍人も、政治家も、ジャーナリストも。
それぞれに自分の信念を持ち、行動しています。
登場人物たちは、プロであり、そしてかつ人間でもあり、彼らは己が信じる考えに真摯に行動しようとしています。
それぞれの信条は違うかもしれない。
互いにその信条に真摯に行動しようとしています。
海江田とベイツ艦長、衆院選に挑む元与党の政治家たちもそうです。
そしてそれぞれ相手も真摯に行動していることがわかるからこそ、終わった後は互いに尊敬の意を持つことができているのだと思います。
打算ではなく、信条に真摯に行動するというのは、美しくもあります。
本作での最終局面はニューヨーク沖での「やまと」VSアメリカ空母艦隊です。
物量に任せた攻撃を加えるアメリカ海軍に対し、「やまと」は魚雷を撃たずにピンを打つだけにとどめてメッセージを発します。
「戦う意志はない」と。
それは圧倒的に「やまと」に不利な戦いであるのですが、そこでも海江田は己の信条に真摯なのです。
結果、ベネット大統領が言うようにアメリカが一方的に「やまと」を攻撃しているように見える、という構図を作りました。
原作ではこの後、海江田のニューヨークの演説になり、大きな戦闘シーンなどはなかった記憶があります。
3作目はあるのでしょうか。
そこで海江田の理想がどのような形で語られるか、見てみたいですね。

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2025年9月28日 (日)

「宝島」希望は失われた

沖縄の基地問題は度々ニュースで報じられていて、沖縄の方々が激しく抗議をしている様子を見てきました。
沖縄だけが基地負担を強いられていることへの怒りは分かりつつも、現在の東アジア情勢を考える限り、基地自体を無くすこともまた難しいと思っています。
なので、どうしてもここまで激しく抵抗をするのだろうか、冷静に考えれば違った答えになるかもしれないのに、と感じていました。
本作では自分も含め多くの内地の人間が知らない、戦後の沖縄が語られています。
戦中の話は、今までも映画や報道なので度々触れてきました。
しかし、本作を見て、戦後から本土復帰までの年月はほぼ知らなかったことに気付かされました。
当時の沖縄はアメリカの占領下でした。
駐留しているアメリカ兵が何か犯罪をしても、ほぼ罪に問われることはありません。
そしてまた日本政府も沖縄返還を目指しつつも、沖縄の人々の苦しみに寄り添っているわけではありません。
沖縄はアメリカと日本に二重に虐げられていたとも言えます。
こういう経験をしてきたのであれば、現在においても沖縄の人々が基地に対して大きな抵抗感を持っているというのは納得できます。
現在の東アジアの状況と合わせて、決着させるのは相当に難儀であるということを改めて認識しました。
主人公たちは、米軍から物資を奪い住民に配っていて、戦果アギヤーと呼ばれていました。
そのリーダーがオンちゃんと呼ばれる若者です。
若者たちが米軍たちへの憂さ晴らし的な意味合いで戦果アギヤーをやっている中、彼の目線は未来へ向かっていました。
得た物資を売り払った金で学校を作ったりしていたのです。
皆で米軍に忍び込んだ時に兵隊に見つかり散り散りになる中、オンちゃんは行方不明になりました。
残った若者たちは、さまざまな道を歩きます。
オンちゃんを探すために刑事なるグスク。
米軍への怒りを晴らすためにヤクザからテロリストとなるレイ。
オンちゃんを待ち続けるヤマコ。
そしてキーとなるのが、彼らが何かにつけ気にかけることになる浮浪児のウタ。
彼はハーフであり身寄りのない子です。
沖縄ですから、アメリカ兵と沖縄の女性の間に生まれ、捨てられた子であろうと思われます。
そういう意味では彼はまさにアメリカと沖縄の歪んだ関係の象徴とも言える存在です。
誤りの子であるとも言えます。
しかし終盤になり、ウタをオンちゃんが育てていたことがわかります。
オンちゃんは、ウタを産みなくなった女性が持っていたペンダントから少なくとも愛しあった二人の間から生まれたということを知ります。
ウタは誤りの子ではなく、愛の子であった。
オンちゃんはウタに希望を見たのではないでしょうか。
不幸な関係にあるアメリカと沖縄にもいつか幸せな関係になれると。
しかし、オンちゃんは亡くなり、またウタも死んでしまいます。
希望が失われてしまった。
幸せな関係は築けなかった。
それは今現在の沖縄の人々がアメリカに抱く感情につながります。
再び、希望を持つことはできるのでしょうか。

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2025年9月27日 (土)

「大長編 タローマン 万博大爆発」思想には共鳴、映像は?

話題になっているということで「タローマン」を見てきました。
こちらの作品はNHKの深夜枠で放映されていた特撮ドラマの劇場版ということですが、全く知りませんでした。
1970年ごろに放映されていた特撮ドラマの体で作られていて、デザインや映像、特撮の技術などはその頃のテイストを意識して作り込まれています。
特撮好きの私としては、本来は大好物のジャンルではあるのですが、なぜか本作にはあまり乗れないかったのです。
なぜだろう?
考えますに、70年代の特撮ドラマを再現するというところをかなり真剣にやっているあまりに「あざとい」感じを受けてしまったのかもしれません。
「こういうの好きだよね?」というようなウケ狙いのような印象を受けてしまったようにも思います。
もちろん制作者の方々はそういうやましい気持ちはなかったのだとは思います。
インタビュー記事などを見ると、岡本太郎の思想を表現するのための適切な手法を選んだということなのでしょう。
とはいえ、個人的に(捻くれているのかもしれませんが)、「あざとさ」を感じてしまい乗り切れなかったということになります。
とはいえ、作品の狙い自体には共感するところもありました。
仕事でもなんでも人は皆が考えそうなことで満足しがちです。
そのほうが安心するからでしょうか。
しかし、実際人の心を動かすのは、誰も思いつかなかったことであり、そのような発想は初めて口に出した時は「べらぼう」な印象を与えるものです。
ただし真に人の心を動かすアイデアには、ただ突飛なだけではなく、人の真理のようなものが隠れていたりするのです。
岡本太郎の思想としては、大衆がなんと言おうと、その真理に遠慮なく臆することなくタッチしにいくべきであるということだと思います。
その考え自体には共感しますし、そのため本作のテーマ自体は全く自分もその通りだと思います。
つまりは表現自体が私個人にとっては、あまり性に合わなかったということなのだけかもしれません・・・。
そういえば岡本太郎の思想には共鳴しますが、彼の作品自体は別に好きでも嫌いでもありませんでした・・・。

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2025年7月18日 (金)

「ドールハウス」巧みなストーリテリング

ホラー映画というのは全般的に苦手でして。
血飛沫が出てくるスプラッターは当然ダメなんですが、いわゆるジャパニーズホラーも得意ではありません。
背筋が寒くなる感じがなんとも・・・。
ですので本作は通常だったらスルーするところなんですが・・・、見に行ってきました。
なぜかというと理由は二つ。
まずは娘(8歳)が見に行きたいと言ったからです。
「これ、絶対怖いやつだから。夜トイレに行けなくなるよ」と言ったのですが、何度も見たいと言っていて。
どうも予告で見たアヤちゃんが気になっていたようです。
もう一つの理由は矢口史靖監督だったこと。
矢口監督といえば「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」「ロボジー」など割とコメディの要素もある映画を撮っている監督です。
この映画もホラー映画と思わせておいての、コメディテイストではないかと思ってみたりしました。
ということで、娘と二人で見に行ってきたのですが・・・。
ガチじゃん!
全然コメディ要素なかったです。
前半は人形の得体の知れなさからくる怖さ、そして中盤がは謎が解け始めてから人形がアグレッシブになって迫ってくる怖さ、そして後半は現実が歪んでいくような怖さ。
怖さのてんこ盛り!
書いたように怖さも色々な種類が盛られていて、ただ驚かせるだけ、気持ち悪いだけ、というわけではない巧みさも感じました。
また本作はホラー映画でありながらも、人形の正体を探っていく件はミステリーの要素もあり、また家族を描いている側面もあります。
そのような要素を巧みなストーリーテリングでまとめているのはさすが矢口監督だと思いました。
後半はハッピーエンドかと思ったら「!」、という展開が何度も繰り返されて、まさにジェットコースターに乗っっているようでした。
最終盤、島に行ってからの展開がちょっとわかりにくかったのか見終わった後、娘から質問がありました。
ネットでも「どういうこと?」みたいな意見も見かけたので、私の解釈を書いてみます。
<ネタバレです>
佳恵と忠彦はアヤを母親の墓に納めたと思い込んでいますが、実のところ彼らはアヤを連れて帰ってきていましたのです。
墓に収めようとした時に母親の霊のようなものに襲われた時、それを救ったのが彼らの子供の芽衣の霊でした。
二人は芽衣の霊と共に帰ってきた(三人で手を繋いで島から帰ってくるシーン)と思い込んでいますが、それはアヤだったわけです。
家に帰ってきた後、フラッシュバックのような幻想をみます。
忠彦がドラム式洗濯機(これは現在は違うはず)に閉じ込められている芽衣を救おうと、洗濯機を壊します。
このシーンは島のシーンのフラッシュバックで、ドラム式洗濯機=母親の墓であり、アヤを入れて一旦閉じた墓を彼らはもう一度開けたのではないか、と思います。
最後に二人が芽衣をベビーカーに乗せて外出していくシーンがあります。
うちの娘は鋭くて、「こんな大きいのにベビーカー乗るの変だよね」と小声で言ってました。
それもそのはず、この芽衣は実はアヤなので、歩くことはできないのでベビーカーに乗らざるを得ないのです!
ということで最後はなんとも後味の悪い結末でした。
とはいえ最後までグイグイと引っ張っていく巧みな脚本であったと思います。
最後にうちの娘はどうだったかと言いますと。
見ている途中は、ほんと怖かったようで「怖い、怖い」とずっと言ってました。
ですが、最後の展開はなかなか引きつけられたようで、終わった後色々聞かれたわけです。
挙げ句の果てにもう一回見たい!と言っておりました。
いえいえ、パパはもういいです・・・。

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2025年3月23日 (日)

「映画ドラえもん のび太の絵世界物語」ひみつ道具、大活躍

<多少ネタバレあります。> 子供の頃「ドラえもん」のテレビ放映が始まり、劇場版の1作目「のび太の恐竜」をワクワクして見てました。
いつしか「ドラえもん」を卒業し、子供ができてまた再び見にいくようになりましたが、自分が子供の頃のようにワクワクしては見れませんでした。
が、本作は期待以上に面白く、久々に「ドラえもん」の映画でワクワクドキドキしました。
まずは脚本が凝っています。
のび太たちが訪れた中世の世界で不穏な企みが進んでいますが、その敵に到達するまでがワクワクドキドキ。
ミスリーティングも誘いながら、敵まで辿り着きますが、そこからさらに巨大な敵が現れて・・・。
この辺のストーリー展開はなかなかです。
なんと言っても今回、のび太やドラえもんの敵となる存在は圧倒的に強い。
その存在によって、仲間たちも次々倒れていきます。
起死回生の作戦として、水が苦手な敵に対して、モーゼステッキで湖の水を割る、というところまでやってのけますが、それも通じない。
とうとう、ドラえもんまで倒れます。
万事休すのその時に、冒頭に使ったひみつ道具が効いてきます。
なんとまあ、見事な伏線でした。
昨年の「ドラえもん」の劇場版は面白くはあったものの、ひみつ道具はあまり活躍していない印象でしたが、本作ではひみつ道具がまさにキーアイテムとして効いているんですよね。
これぞ「ドラえもん」の劇場版です。 藤子先生が書いていた「ドラえもん」の長編はひみつ道具とタイムマシンなどがかけ合わさって、伏線として効いてくるという展開がしばしばありましたが、同じような感覚を味わった気がします。 他にもクレアがかるがるつりざおを先に使っていた結果、ジャイアンとスネ夫を助けることにつながったり、とひみつ道具を効果的に使っていましたよね。 このシーンもアクションはなかなかの見せ所があり、後半の巨大な敵との戦いとの空中戦も作画的にかなりの熱が入っていたように思います。
ストーリーだけでなく、作画としても見せ所がありました。
他の方のレビューを見ても、かなり高評価が多く、個人的にも納得できます。
来年が楽しみになりました。

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2024年8月20日 (火)

「ツイスターズ」異なる主人公像

1996年の竜巻映画「ツイスター」の続編です。
前作と同様に、竜巻を追うストーム・チェイサーたちが登場しますが、ストーリー的な繋がりはありません。
唯一関係があると見られるのは、主人公ケイトたちが学生の頃に使っていた実験器具が「ドロシー」で、これは前作の主人公であったジョーたちが開発したもの。
彼らのお下がりをケイトたちは使っていたのでしょうか。
ちなみにケイトたちが新しく使う竜巻の解析装置にはスケアクロウ(かかし)、ブリキなど名前が付けられており、「オズの魔法使い」繋がりになっています(ドロシーは竜巻でオズの国に行ったので)。
前作と本作はストーリーとしては繋がりはほぼないわけですが、主人公像は対照的です。
前作の主人公ジョーは幼い頃に大竜巻により、愛する父親を亡くしました。
それが彼女にとってトラウマとなり、竜巻に彼女は固執します。
竜巻を追えば、父親に会えるような気持ちもあったのかもしれません。
そしてまた竜巻は父親を奪った敵でもあり、彼女にとってそれは怒りの対象でもありました。
対して本作の主人公ケイトにとっては、竜巻は恐れの対象です。
血気盛んな学生時代、彼女の判断のミスにより、仲間たち、恋人が竜巻に命を奪われます。
ジョーと同様に、ケイトも愛する者を竜巻に奪われたのです。
ケイトにとっても竜巻はトラウマなのですが、かつての自分が功名心で陥った過ちを見せつけてくる存在なのです。
彼女はそれから逃げ出しました。
ジョーは幼く無力だったため、父親を奪った竜巻に対してなす術はありませんでした。
だからこそ、大人になって対抗する力を持った時、その竜巻を制御しようと思ったのでしょう。
ケイトは竜巻がトラウマになった時、十分に大人であ離ました。
友人たちの命を奪ったのは、無論竜巻でありますが、そのきっかけとなったのは、自分自身だったのです。
ですから彼女の気持ちはジョーのように竜巻に向かうのではなく、自分自身に向かったです。
このように、同じく竜巻を扱い、それらを追うストーム・チェイサーたちを描いていますが、この2作品の主人公の違いを見てみても面白いのではないでしょうか。

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2024年8月16日 (金)

「デッドプール&ウルヴァリン」マーベルの神

昨今スーパーヒーロー疲れ、マーベル疲れと言われ、興行がやや停滞しているMCU。
個人的には全作品追っかけているマーベルファンなので、全然疲れてなどいないのですが、そう世間で言われるのもわからなくもない。
特に最近はマルチバース化して物語も複雑になってきているので、見るのにもエネルギーがかかるのも確か。
さて本作「デッドプール&ウルヴァリン」は公開前から、低迷しているMCUを救うかもと言われており、実際公開後のスタートダッシュは素晴らしく、関係者はホッと胸を撫で下ろしているところでしょう。
ご存知の通り「デッドプール」は20世紀フォックスで1,2作目までは公開されており、ディズニーがフォックスを買収したことにより、MCUに組み込まれました。
なぜ「デッドプール」はMCUを救う救世主となったのでしょうか。
冒頭で触れたようにフェイズ4以降のMCUはマルチバース・サーガと呼ばれているように、マルチバース化が進んでいます。
マルチバース化は大きな可能性を秘めている設定です。
「ロキ」的に言えば、フェイズ3までのMCUは単一の時間軸、すなわち神聖時間軸のみで展開されていました。
これは単一の時の流れなので、見ている我々もその歴史の中にいる感覚で見れるので見ている方としてはわかりやすい。
しかしフェイズ4から導入されたマルチバースは、複数の並行宇宙があるという設定なので、必然的に観客の視座はもっと高次にならざるを得ません。
「ホワット イフ・・・」のウォッチャーのような視座ですね。
あまり深く考えなければいいのですが、ちょっと解釈しようとすると結構頭を使います。
それが見ていてしんどいという感覚になるのかもしれません。
そこでデッドプールです。
このデッドプールは特殊な能力を持っていて、第4の壁を突破することができます。
彼は自分が作り物であることを知っていて、それをメタな話として語ることができるのです。
「デッドプール&ウルヴァリン」という作品はマルチバースとしては結構複雑で複数の世界を股にかけ、かつ時間も越える展開になっています。
なので考え始めるとかなりまた頭を使うのですが、デッドプールがそれら複雑さを皮肉混じりに笑い飛ばしているので、観客もあまり考えずに見ることができます。
マルチバース・サーガとなって一見複雑になってしまっているが、そんなの気軽に見ればいいじゃん、とデッドプールは言っているようです。
デッドプールが長年にわたって積み上げられてしまったMCU敷居の高さをぶっ壊しているように思いました。
とはいえ、この作品は敷居の高さを低くしただけではなく、コアはファンに対しても楽しめる要素を用意しています。
個人的に一番笑えたのは、キャップを演じていたクリス・エヴァンスが登場し、かつ「フレイムオン!」と叫んでくれたところですね。
これについてはすでに色々なところで書かれているので、ネタバレしますが、かつて20世紀フォックス作品として公開された「ファンタスティック4」で若き日のクリスがヒューマン・トーチというヒーローを演じていたことが元ネタになっています。
今までは別の映画会社であったため、大人の事情でMCUでは触れることができませんでしたが、今や同じディズニー傘下なので堂々と触れることができます。
「デッドプール」ならではの愛あるいじり方で、大人の事情も笑い飛ばしてくれます。
そのほかにもエレクトラ、オリジナルのブレイド、チャニング・テイタムが演じるガンビットなども登場し、呆気に取られました。
「ロキ」で登場した「虚無の世界」という設定は、MCUの申請時間軸から剪定された存在が送り込まれる場所と言われています。
つまり、MCUには入れなかったキャラクターたちがいる場所と考えられ、忘れられた存在がいる場所なのですね。
そこにエレクトラやブレイド、ガンビットなどがいるというのはこの設定と実際現実で起きた出来事(フォックスの買収)をうまくリンクさせた、神がかり的な脚本だと思いました。
このように本作はデッドプールというキャラクターの特性を活かしながら、複雑化したMCU、そしてさまざまな現実世界での出来事を、アクロバティックに辻褄を合わせることができた怪作と言えます。
カオス化、無秩序化しそうなMCUをさらにカオスな存在がまとめ上げたとでも言えますでしょうか。
そういう意味でデッドプールはマーベルの神なのかもしれません。

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2024年7月23日 (火)

「ディア・ファミリー」それで、次はどうする?

娘を救いたいという一途で諦めない気持ちが、やがて多くの人を救っていく。
バルーンカテーテルという医療機器があるとはこの映画を見るまで知りませんでした。
血が流れにくなった血管を血管の内側から細いバルーンで広げて、血を流れやすくするものです。
この機器は多くの人を救っています。
本作は日本人の体格にあったバルーンカテーテルを開発した男とその家族の物語です。
主人公宣政は小さなプラスティック製品を製造する町工場を経営しています。
彼の次女、佳美は生まれつき心臓に疾患を抱え、20歳まで生きられないと告げられます。
どの医療機関からも治療は断られた結果、宣政は医療知識はありませんでしたが、自力で人工心臓を開発を決意します。
しかし、その開発は困難を極めました。
なにしろアメリカの最先端の大学ですら、成功していない技術なのです。
それでも宣政は諦めずませんでした。
試行錯誤の末、人工心臓のプロトタイプはできますが、ここに大きな壁が立ちはだかります。
医療機器ですから、実用化をするには臨床試験は欠かせません。
しかし、そのためには莫大な資金がかかり、大学病院の協力が欠かせません。
その協力が得られず、人工心臓は実用化できません。
それはすなわち、娘の佳美を救えないということを意味します。
しかし、佳美は自分の命はいいから、父親の培った技術を使い、多くの人を救ってほしいと言います。
娘の命は救えない。
しかし、娘の願いは叶えられるかもしれない。
宣政は改めてバルーンカテーテルの開発に着手します。
人工心臓の開発時のノウハウはあるにせよ、この開発も困難の連続です。
宣政は娘の願いを叶えられるのでしょうか。
佳美の家族は彼女の命を救いたいと思い、一致団結して宣政の活動を支えます。
それでも彼らの前に多くの困難が立ちはだかります。
その時、彼らはそこから逃げず、前向きにこう言います。
それで、次はどうする?」
いくらやってもうまくいかないことはあります。
その時、そのまま諦めるか、それとも他の方法をトライしてみるか。
娘の命が救えないとわかった時、それは完全に目的を叶えられないとわかった時ですが、その時彼らは真の目的は佳美の思いを叶えることだと考えを変えることができました。
彼女がいたからこそできたことを成し遂げる。
それは彼女が生きたことを残すことにもなるのでしょう。
このように本当に叶えたいことはなんなのか、ということまで考えられることはなかなかできません。
彼ら家族はあくまで前向きに自分たちが直面していることと対峙することができました。
本作が素晴らしいと思ったのは、彼ら家族の思いが、彼らのうちだけにとどまっているものではなかったからです。
宣政が一緒に人工心臓を開発した大学の研究員たちは、プロジェクトが終わった時、それぞれ別の道に進みます。
けれど、やがて宣政が作ったバルーンカテーテルを支持し、それを活用して、多くの人を救います。
そして、本作の冒頭で宣政にインタビューをしていた女性。
物語の最後に彼女も宣政のカテーテルで命を救われた患者であったことが明らかになります。
おそらく宣政と人工心臓を開発した元研究員が救った女性だと思われます。
亡き娘の思いは消えず、広がって、多くの人の命を救い続けていることが伝わってきます。
ラストの一連の描写は、脚本も演出も見事であったと思いました。

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