2019年8月23日 (金)

「ダンスウィズミー」 自分の解放

「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」の矢口史靖監督の最新作です。
今回の題材はミュージカルです。
ミュージカル映画好きなんですよね。
自分では歌ったり踊ったりするのは苦手なのですが、なぜかミュージカル映画は好きなのです。
でも昔はあまり好きではありませんでした。
主人公の静香が劇中で言っているように、それまで普通に会話していた人たちが歌い出すっていうのに違和感を感じていたのです。
しかし、映画「シカゴ」を観たあたりから好きになって、ミュージカル映画が公開されると劇場に足を運んでしまうのです。
でもなんでミュージカル映画が好きになったのかが本作を観てわかりました。
静香は東京の洒落たマンションに住んでいて、大手の企業に就職できた勝ち組OLです。
仕事もできるらしい。
彼女は幼い頃の大失敗のトラウマからミュージカルが大嫌い。
にも関わらず、ふとしたことから催眠術にかかってしまい、歌を聴くと歌って踊ってしまうミュージカル体質になってしまいます。
仕事中でもデート中でも音楽が流れると踊ってしまう。
それは大層困りもの。
そのため彼女は自分に催眠術を解いてもらおうと催眠術師を探し出すために旅をすることになってしまいます。
彼女は音楽が流れると踊ってしまうという困った体質になってしまいますが、旅を続け、いろいろな人に関わり、歌って踊っているうちに、彼女の表情が次第にイキイキとしていくことに気づきます。
自分でも気づかなかった本当の自分に彼女自身が気づいていくような。
思えば歌うこと、踊ることというのは自己表現なのですね。
自分の娘も3歳になると、日々歌って踊っている。
何か自分の気分を表現したいという衝動があるような感じがします。
大人になるにつれ、恥ずかしさとかを覚えてそういうことはしなくなると思うのですが、歌と踊りには自分を解放するという作用があるのかもしれません。
自分がミュージカル映画が好きなのも、映画を観ている時は、自分も歌って踊っているような気分になれるからかもしれません。
確かにミュージカル映画を観た後は、気分がスッキリしているような気がします。
 
主人公静香を演じているのは子供の頃より子役で活躍している三吉彩花さん。
最近は雑誌のモデルなどをしていたようです。
すらりと背が高く、そして手足が長いので、ダンスをしている時の様子はとても映えますね。
実は彼女は子役の頃をちょっと知っていて、随分と大きくなってそして綺麗になっていて驚きました。
これからの活躍に期待です。

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2019年8月22日 (木)

「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」 ゲーム世界からの放出

人生で初めてプレイしたRPGが、大学浪人をしていた時に友人が持っていた「ドラゴンクエスト」の第1作でした。
今までにないゲーム体験でとても驚いたのを覚えています(それまではシューティングゲームばっかりでした)。
受験を控えていたため、自分でファミコンとソフトを買ってしまったらおしまいだという理性は働いたので、大学合格まではお預けにしましたが。
そして社会人になってすぐぐらいにリリースされたのが「ドラゴンクエスV 天空の花嫁」でした。
これもスーパーファミコンを買うきっかけになった作品で、このために何度も徹夜をしたのは言うまでもありません。
さてその「天空の花嫁」を3Dアニメとして映画化したのが、本作品です。
観る前から色々とネガティブな評価を耳にしました。
曰く「原作に対する冒涜だ」などといったようなものです。
コミックでもゲームでもオリジナルが人気作品であればあるほど、その映像化作品は細かいところが気になる人が多いものです。
自分もオリジナルゲームのファンでしたので、そういうところはわかります。
ですので本作を観る前の私のスタンスとしては、あまり期待しすぎないようにしようというものでした。
ということでしたので、見初めて終盤まで行くまでの私の感想としては「意外にも面白いじゃないか」というものでした。
もともとオリジナルのゲームはストーリーとしてもかなり長いものでしたので、それを2時間程度にまとめるというのには脚本でかなり力技が必要だと思います。
本作においてはオリジナルのストーリーの中で省くところは省き、見せるべきところは見せるという判断が的確であったと私は思います。
ゲームをやったのはかれこれ20年以上も前なので細かいところは覚えていないですが、原作のエッセンスは活かしていたと感じました。
お嫁さんを選ぶときのドキドキした気持ちなども思い出しました。
ですので、なんでこの映画が「原作の冒涜」と言われるほど酷評されているのか理由が終盤までわかりませんでした。
ただ終盤のある問題の箇所にきたときに、ひどい評価を得てしまっている理由がわかりました。
個人的にもあのメタな展開になぜわざわざいったのかは疑問です。
素直にあのままエンディングを迎えても十分に面白い作品であったと思いますし、原作ファンもそれほど文句は言わなかったでしょう。
それでは監督はなぜあのような展開にしたのでしょうか。
考えるに決して原作を冒涜するためではなく、ゲームに対するリスペクトであったのではないかと思います。
基本的に映画というメディアでは観客は制作者が決めたストーリーを追うことしかできません。
それを不自由であると考えることはできます。
それに対してゲームは自分の選択によって結末を変えることができます。
特に「天空の花嫁」は中盤の「お嫁さん選び」は自分の人生を左右するような感覚にプレイヤーがなり、ドキドキしたと思います。
プレーヤーの選択によってストーリーが変わる。
それは自由度が高いと言えると思います。
そういったそれぞれのストーリーがある(だからこその<ユア・ストーリー>というタイトル)ということがオリジナルゲームの画期的なところだったのだと思います。
ゲームが持っている映画とは異なる良さを、映画として表現したというのが、あのメタな展開であったのではないかと考えました。
ただ、それが観客が求めていたことと同じだったかどうかは別問題です。
映画よりは自由度が高いとは言いながらも、ゲームとてある一定幅のストーリーラインはあります。
そのストーリーラインに魅力を感じていたファンは、それに身を委ね、あの世界にいるかのような没入感こそが大事だったのではないでしょうか。
本作のメタな展開は、そこからいきなり放り出されるように感じさせるものだったような気がします。
冷や水を浴びせさせるような印象でしょうか。
監督としてはゲームを肯定的に捉えているからこその表現だったかと思いますが、その世界が好きなファンからすると強制的にあの世界から放出されるような感覚は冒涜的であると感じたのではないでしょうか。

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2019年7月21日 (日)

「天気の子」 一筋の陽の光

今年の東京はずっと梅雨が続き晴れ間がありません。
まるで「天気の子」で描かれる東京のように。
物語の中で言われているように天気は人の気持ちを変える力があります。
晴れ上がった朝は人を元気に、雨ばかり続くときはちょっと陰鬱に。
このところちょっとばかり悶々とすることがありましたが、本作を見て少し陽の光が心に差してきたような気がします。
「世界は元々狂っている。」
そうかもしれません。
世界を変えてしまったというのは、彼らの思い込みなのかもしれない。
けれど人を好きになり、そして世界と引き換えにしてもいいと思えるほどに人を愛せるということは何て素晴らしいことなのだろう。
前作の「君の名は。」もそうでしたが、描かれる物語の中心にあるのは若い男女が惹かれ合う気持ちです。
そんなものは世界に比べればとても小さいものです。
だって地球上には何億もの人間がいて、それぞれが恋して、愛して生きている。
その中のたった一つの恋だから。
けれどそのちっぽけな恋は世界と引き換えるほどに大切なものでもある。
愛しているという気持ちは、他の何よりもその人のことを大事だと思うことだから。
誰かを愛している人にとっては、それは自分自身よりも、そして世界よりも大切なことなのです。
帆高にとっては自分よりも世界よりも陽菜のことが大事になったのです。
そこまで人を愛せるのはすばらしい。
眩しい。
ずっと雨が続く東京に、まるで光の回廊のように降りてきた陽の光。
まっすぐでキラキラとしている陽の光は、恋をしている少年のピュアな気持ちを表しているよう。
ちょっと眩しくなるくらいに。
新海誠監督の作品はアニメーションであるのに光の描写が独特で美しい。
まさに本作は彼の特徴的な光の描写の真骨頂です。
雨ばかりの東京にさす一筋の太陽の光。
ベールが剥がされるかのように一気に腫れ上がる空。
ずっと重苦しい天気が描かれる本作の中で、その光の演出はさらに際立ちます。
冒頭に書いたように映画の中で陽が差すだけなのに、自分の心にも暖かい光で満ちてくるような気になります。
映画の中のラストシーンはやはり雨が降っているのですが、心の中は晴れ渡って終われました。

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「トイ・ストーリー4」 幸せの多様性

「トイ・ストーリー3」が非常に綺麗な形で収まっていただけに、その続編はどのようになるのか、興味深さと心配とが入り混じった気持ちで見に行ってきました。
見終わった後の気持ちとしては、ちょっとした困惑でしょうか。
おそらく今までの3作とはちょっと違った視点を入れてこの作品を見てみないと、整理できないかもしれません。
今までの3作は「おもちゃにとって子供に愛されることこそが幸せ」というのが、一貫したテーマであったと思います。
初期の2作はその「子供」がアンディであったわけですが、「3」でアンディが大人になり、おもちゃたちがボニーにもらわれて行くことによって、その「子供」の定義の範囲が拡大し、子供は変わっても愛され続ければおもちゃは幸せになれる、と締めくくられたわけです。
子供たちが「卒業」しても、おもちゃたちが幸せであり続けられることを示したことにより、彼らの未来が暗くはないということが感じられ、ハッピーな気持ちで見終えられたのだと思います。
フォーキーという新キャラクターがポイントになります。
このフォーキーは、ボニーが使い捨てのスプーンやモールなど捨ててしまうようなもので作られた手作りおもちゃです。
このフォーキーがボニーにとっては一番のお気に入りのおもちゃとなりました。
もともといらないものから作られた彼はおもちゃとしての自覚はなく、自分をゴミだと思い、隙あらば自らゴミ箱に飛び込もうとするのです。
それをウッディを中心におもちゃたちが止めようとします。
彼らからすればあんなにボニーから愛されているのに、なぜ自分をゴミだと思い込むのかがわからないのです。
この「おもちゃとしての自覚」がポイントなのです。
おもちゃの幸せは子供に愛されること。
それを当たり前の常識として受け入れているのがおもちゃなのです。
フォーキーの存在が、ウッディの価値観(おもちゃとしての自覚)を少し揺るがします。
そしてもう一人。
それは以前に一緒にアンディの家にいたボー・ピープというアンティーク人形です。
彼女はアンディの家からもらわれていき、それから幾人もの手を経て、アンティークショップにたどり着きました。
彼女は自ら誰かのものとなるという道から外れ、幾人かの仲間と共にノラのおもちゃとなることを選びます。
子供に愛されるのがおもちゃとしての幸せという価値観を捨て去っているのが彼女なのですね。
ウッディの価値観を揺るがしたのがフォーキーであり、そして決定的にパラダイムシフトをかけたのが、ボーなのです。
おもちゃの幸せは一つしかない、それは子供たちに愛されること。
しかし愛されないおもちゃは幸せではないのか。
この作品はそういうわけではない、ということを言っているような気がしました。
これは結婚して子を産むことが幸せで、そうでない人は不幸せであるといった固定化したものの見方に物申しているというようにも思えたのです。
(ウッディの考え方にパラダイムシフトをかけたボーが大人の自立した女性のイメージで描かれていることはそのためかもしれません)
本作は何を幸せと思うかというのはそれぞれ個人によるのであり、決して誰かに決められるものではないということを言っているような気がします。
子供に愛されることを幸せと思うこともよし、自分で行く道を決めていくことを幸せと感じることもよし。
どちらがいいということはない。
幸せの多様性ということでしょうか。
フォーキーが次第におもちゃとしての自覚を持っていくことも、決してウッディが以前持っていた価値観を否定するのではないということを表しているのだと思います。
本作を見て感じた最初の戸惑いは、当たり前だと思っていた価値観を少し揺さぶられたからだと色々考えて思いました。
子供から愛されるのがおもちゃの幸せという範疇であるならば、全3作でしっかりと完結していると思います。
この4作目はその枠組みすらを飛び越えた視点で物語られているのだと考えます。
私と同じように困惑した方は、ちょっと視点を変えて見てみると、また別の評価になってくるかもしれません。

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2019年4月20日 (土)

「ダンボ」 ティム・バートンらしくもあり、らしくもない

ティム・バートンがあの「ダンボ」を実写映画化ということで期待して見に行ってきました。
彼が今まで撮ってきた映画の中に常に持っているテーマと「ダンボ」は親和性が高いと思ったのですよね。
ご存知の通りダンボは耳が非常に大きな子象で、その外見によってバカにされます。
しかしその大きな耳を翼のように使うことによって空を飛べることができるようになり、それによってダンボはサーカス団のスターになるのです。
ティム・バートンがその作品の中で描いてきたのは、異端者です。
彼らは外見や性格や趣味が他の人々とは異なるということだけで、のけもの扱いをされ、恐れられます。
ティム・バートンは彼らのその異質な点こそを良さと認めます。
人と違うことを気にするのではなく、そここそを自分らしさと認め、自分自身を受け入れるようにするということです。
これは彼自身の体験も反映されているのでしょう。
彼の物語は、異なった個性を受け入れられて幸せになるパターンと、結局は誰にも受け入れられず不幸せになるパターンとがありますが、何れにせよティム・バートン自身は異端者に寄り添っています。
そういうティム・バートンですので、ダンボにも非常に共感をしていたのではないかと思われます。
その点において本作実写版の「ダンボ」はティム・バートンらしい異端者への寄り添いが感じられる作品となっていました。
ダンボ自身が異端であることを恐れていたところで、周りの彼を助けてくれる人々の力をもらって彼は勇気を持って飛びます。
それによりダンボは自分自身を認めることができました。
とてもティム・バートンのスタンスが感じられ、かつディズニーらしい仕上がりになっていたと思います。
ただ残念なのはティム・バートンらしいスタンスが現れている作品であるとは思いますが、彼らしいトーンであったかというとやや疑問です。
ティム・バートンといえば、やはりややダークで非現実的な異質感を持っているトーンなのですが、その辺りはやや抑え気味であったかなと。
サーカス団のショウの中の描写でいくつからしさを感じるところもありましたが、全体としては非常にお行儀がよかったかなと感じました。
この作品は子供層も意識しているところでしょうから、ディズニーらしい健全なところを求められたのかもしれません。
ティム・バートンの世界観が好きな自分としては少々物足りなくもありました。

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2018年10月20日 (土)

「食べる女」 女ってたくましい

女性は誰もが「おいしいもの」に目がない。
何人か女性が集まって話していると中身の多くは食べ物の話だったりする。
すなわち「どこの店が美味しかった」とか、「今度どこそこに食べに行こう」とか。
あとは恋バナ。
自分を含め男性だけで集まった時に、食べ物の話でずっと話題が続くなんてことはほぼない。
恋バナもしかり。
根本的に女性と男性は興味関心ごとが違うのではないかと思ってしまう。

当たり前だが「食べる」ことはすなわち「生きる」こと。
食べなければ生き続けることはできない。
恋というのは、セックスにつながり、それは子を産むということにつながる。
これも生命の根本。
いずれもそれを行うことにより心と身体を満たすもので、人間の根源的な欲望だ。
非常に女の人の興味関心というのは、生命というものの本質につながっているような気がする。
それに比べると、男性の興味関心は生きるという根本よりももっと社会的な地位とか名誉とかそういった上っ面なことのようなことが多いように思える。

本作は食べること、そして男と良い関係(セックスを含め)を作るという女性の根本的な欲望について、何人かの女性の生き方を通じて描いている。
彼女たちの生き方は欲望に素直であり、それだから堂々としている。
色々と悩み欲望に素直じゃない女性もいたが、結局それを受け入れることで素敵に輝くように見えた。
そのような女性たちに比べ本作に登場する男たちは何故かいわゆる男性らしいたくましさは感じない。

主人公敦子の家の庭にある枯れ井戸は「女」そのものを象徴しているのだと思う。
枯れているように見えても、底の下には脈々と水が流れている。
年を取っても、男なんてもうウンザリと思っても、幸せすぎる環境でも、心底おいしいと思える恋を、男を求める心はやはり脈々と女の身体の奥底にはあるのだ。
それは女の性でもあり生でもある。
根源的なことだからこそ、強い。
たくましい。
そもそも小学生の女の子たちから物語はスタートし、彼女たちが脈々と流れる地下水の話をする。
そもそも女という存在が、そういった生きることに基づく性を生まれながらに持っていることの象徴でもあるのかとも感じた。
どんな状況でも、女性たちは生に基づく欲望に忠実な限り、たくましく生きているのだと思った。
これは男性にはないたくましさなのだと思う。

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2018年10月 1日 (月)

「散り椿」 日本人の美意識

この作品の前に観たのが「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」。
それぞれの作品が持つ価値観が、あまりに違うのでギャップに戸惑います(笑)。
本作はまさに日本人が(かつて持っていた)生き方の美意識を描こうとしていると言えるでしょう。
大義のために自分の命を犠牲にしようとする。
愛する人の想いを叶えるために自分の人生を賭ける。
友を救うために自分の命を捨てる。
誰かのために自分の想いを伏せる。
本作に登場する人物は皆、人のために自分の大切なものを犠牲にします。
それは自己犠牲的であり、極めてストイックな生き様です。
自由であることを重要視する現代に生きる人から見れば、それはとても不条理に見えるかもしれません。
人に縛られ、家に縛られ、藩に縛られる。
全く自由とはかけ離れているようにも思えます。
しかし、果たしてそうでしょうか。
彼らは皆、その生き方を自分で選んでいます。
人のため、大義のために自分の人生を賭ける。
それを選んでいる。
それはある意味、自由であるようにも思えます。
不自由な生き様に見えながらもその生き方に美しさを感じてしまうのは日本人だからでしょうか。
本作で描かれる映像は一言で言えば「静」でしょう。
人々の佇まいも静かです。
彼らが暮らす家にも街にも自然にも、余計なものはありません。
時代劇ですので殺陣も当然ありますが、極めて抑制的です。
チャンバラではありません。
主人公新兵衛が振るう剣は、一瞬。
瞬間的剣を抜き、相手を斬る。
まるで無駄がありません。
人々の想いもあからさまではありません。
言葉少なに自分の心よりも相手の想いを尊重する生き方。
これも抑制的であると言えるでしょう。
しかし重ねて書きますが、抑圧的ではないのですよね。
本作で描かれているのは余計なものを全て排除した時に残っている人の純な想いと言えるでしょう。
無駄なものが削ぎ落としているからこそ、それが純粋で美しく見える。
それが日本人の美意識なのかもしれません。

冒頭に書いた「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」と比べると全く逆で面白くもあります。
「マンマ・ミーア!」で描かれるのは自分がやりたいように人生を謳歌する自由さが描かれ、劇中ではアップテンポな音楽が流れ、ポップな色彩に溢れています。
対して「散り椿」では、人のために自分の人生を賭けるストイックさが描かれ、劇中の音楽は静かで、色彩のトーンも無彩色のように抑えられています。
どちらの生き方が良いかどうかではなく、作品それぞれの価値観が映画を表現する全てのものに反映されていることが興味深かったです。
このような視点も非常に面白い見方ではないかと思いました。

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2018年6月10日 (日)

「デッドプール2」 無駄遣いな笑い(いい意味で)

やはり他の映画よりも外国人の観客が多かったような・・・。
字幕を観ながらの鑑賞だと、英語を話す彼らと微妙に笑うタイミングが違うのですよね(苦笑)。
マーベルの中でも「アベンジャーズ」や「X-MEN」とは異なる方向を目指している異端児作品、「デッドプール」の続編です。
映画のマニアックな小ネタや、悪ノリお下品トークなどがふんだんに入り笑わされてくれた前作でしたが、本作もそのノリは継続しています。
個人的には前作よりも楽しめたかもしれません。
「デッドプール」の世界観に慣れてきたからかな。
前作ではまだ慣れておらず、どのように受け止めていいかがわからなかったところもありました。
本作はいくつも笑えるところや、面白かったところがあります。
なんというかむやみに無駄遣いな笑いがいいですよね。
いくつか自分のツボにはまったところを書いていきましょう。

まず笑わせてもらったのは「007」風のオープニング。
そもそも「007」っぽいオープニングってなんなんでしょうね。
ムードがある音楽と超スローモションな映像。
女性の肉体と武器のモチーフ。
幾何学的で抽象的なレイアウト・・・。
いろいろあると思うのですが、スタイルがあるからこそ出ているのがデッドプールでも「007」っぽいって見えるのですよね。
ところどころ「フラッシュダンス」も織り込んでくるし・・・(笑)。

せっかく集めたXフォースの面々が次から次へと脱落していくのも面白い。
ピーター以外は何かしらの超能力を持っているはずなのに、それを発揮するまもなく、あっさりと・・・。
まさに無駄遣い。
ピーターも実は何かあるのかなと思ったら、本当に何もなかったでしたねえ。
やっぱり無駄遣い。

あとはデッドプールが下半身を吹き飛ばされつつも、それが再生していく過程ですね。
下品と言えば下品なんですけれどね。
「クララが立った!」的なところはバカバカしくてサイコーでした。

もちろん「グリーンランタン」ネタも相変わらずで良かったです。
ライアン・レイノルズ的には無くしてしまいたい黒歴史なのですね。
いつまでもネタに使えるいい作品ではありますが(苦笑)。

新登場のキャラクターについてもケーブルはただの悪役かと思っていたら、存外いい奴でしたね。
ジョシュ・ブローリンは「インフィニティ・ウォー」のサノスといい、ただの悪役ではない味わい深い役が多いですね。
続編が作られるとしたら、Xフォースのメンバーとしてレギュラー定着ですかね。

あとドミノも良かったですね。
運がいいのが、超能力っていう。
デッドプールとは別の意味で絶対やられないというのが、新しいアイデアだと思いました。
だからこそアクションなど今までとは一風変わったアクションになっていたと感じました。

おちゃらけたところだけでなく、ストーリー的にもちょいといい感じのところがあるのもいいアクセントでした。
最初にデッドプールが「ファミリー映画だ!」と言ったところは、?と思いましたが、終わってみると確かにファミリーをテーマにした作品になっていました。
デッドプールが誰かのために戦うようになるとは思わなかったですが、作品に深みが出たと思います。

デッドプールがトニー・スタークにアベンジャーズに入りたいといって断られたというネタがネットに出ていましたが、それも20世紀フォックスがディズニー(マーベルが傘下)に買収されたら、実現しちゃうかもしれないですね。
されなくても、スパイダーマンみたくコラボしてもおもしろいかも!?

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2018年3月30日 (金)

「ちはやふる –結び–」 一瞬を永遠に

「上の句」「下の句」ともに好きな作品で、2作見終わってから彼らのその後が見たいと思っていたところでした。
確か映画を公開中に続編を作ることが発表され、公開されるのを心待ちにしてい作品でした。
監督も変わらずなので、前作の良さをそのまま引き継いでいる作品になっており、また題材が百人一首であることを踏まえた良いまとめになっていたと思います。
特に今回印象的であったキャラクターが競技かるたの最高峰にいる周防名人ですね。
比較的熱い思いを持ったキャラクターが多い中で、一人冷静でかつ前向きではない人物で非常に印象に残りました。
彼が異質感を持っているというところもありますが、競技かるたのど真ん中にいるにも関わらず、一人離れた位置に立っているとも言える立ち位置みたいなものからくるのかもしれません。
離れた位置に立っているからこそ、物事の真理が見えているのか、彼が話す言葉には非常に重みがありました。
彼が並外れた「感じ」を持っているのは、特異な超能力のようなものではなく、皆が同じように聞いている音の本質を何もフィルターにかけずに聞いているからなのですね。
人は先入観や思い込みなどで、自然にリミッターをかけて、音を峻別してしまう。
そのリミッターを外してしまえば、音の本質が、そのものが聞こえてくる。
これは音に限った話ではないのでしょう。
自分の能力、自分の未来、いろいろなものに自分でリミッターをかけてしまっている。
そのリミッターやフィルターを外せば、一瞬の時も永遠になる。
限界がなくなる。
それは百人一首そのものが示しているのでしょう。
一千年も前の人の詠んだ歌で、今でもその当時の人々の気持ちがそこにあるように思える。
一瞬が永遠になっている。
これは限界がなくなったということなのですよね。
太一は自分の能力の限界をずっと気にしていました。
彼は勉強もスポーツも万能な男ですが、かるたにおいては天才的な新や千早には叶わないとずっと考えていました。
だから彼らの中に本当に入っていけない苦しさを持っていたのですよね。
しかし、それは彼が彼で設定していたリミッターでした。
彼は周防の言葉によって、自分が設定していたリミッターを外すことができました。
また千早はどちらかというと一瞬に生きていた女の子だったかもしれません。
その時、かるたをやっている瞬間が楽しい。
そのために頑張っている。
しかしその自分の一瞬のために人々が力を貸してくれたことに気づいた。
東京予選で負けそうになった時、その一瞬がなくなることに彼女は愕然としました。
しかし仲間の頑張りによって、その一瞬が続くことができるのだと知りました。
彼女は素晴らしい一瞬を永遠につなぐために、頑張ろうと思うようになったのです。
ラストで彼女がやがて先生となり、後輩たちを指導する立場になり、かるたを引き継いでいこうとしていることが示唆されます。
これは良いラストだなと思いました。
限界を取り払い、一瞬を永遠にする。
それだけの可能性を人は持っている。
ただの青春映画ではないメッセージを持っている気がしました。

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2018年1月27日 (土)

「デトロイト」 疑心暗鬼の戦場

「ハート・ロッカー」「ゼロ・ダーク・サーティ」といった非常に硬派な作品を作っている女性監督キャスリン・ビグローの最新作です。
今回の作品のベースとなった出来事は今から40数年前のデトロイトで起こりました。
警察の取り締まりから端を発した小競り合いから、一部の市民が暴徒化し、やがて大規模な暴動となったのです。
州政府は事態を収拾するために、州警察や州兵なども投入し、まさにデトロイトは戦場のようになったということです。
本作の後半は、デトロイトのモーテルで白人警官が黒人を射殺した事件を中心に扱っています。
今も(というより最近はまた分断が顕在化している)アメリカで問題となっている、人種差別をテーマとしているとも言えるのですが、この記事ではそこは語りません。
今回は監督キャスリン・ビグローについて書きたいと思います。
本作も入れた直近の3作はいずれも政治色の強い作品となっています。
とはいえ、何が正しいかということを言っている作品ではありません。
人々の価値観や主義主張の違い、そしてその違いによる疑心暗鬼が噴出するのが、戦場であるとするならば、いずれの作品も戦場をテーマにしています。
彼女の作品はどの作品も半端なく緊張感があります。
本作も長尺で140分以上もあるのですが、長いにもかかわらず、ずっと高い緊張感で作品を見続けることになります(なので、終わるとどっと疲れます)。
その緊張感というのは、なにがどうなっていくかわからないという不安と緊張なのかなと感じました。
まさに疑心暗鬼ということですね。
「ハート・ロッカー」にしてもいつどこで爆弾が爆発するかもしれないという緊張感。
「ゼロ・ダーク・サーティ」はアメリカが対するのは今まで相手をしていたとは異なるアルカイダというゲリラ。
今までのやり方が通用しないという緊張感があります。
そして本作「デトロイト 」ですが、この作品においては登場人物たちが白人も黒人も相手が何を考えているかわからないという緊張感の中でひと夜を過ごしています。
白人警官も差別主義者であり、暴力的であったわけですが、逆に多くの黒人たちが自分たちに逆らってきたらどうしようもないという恐怖感があったのではないかと感じます。
だから暴力に訴えてしまう。
黒人からすれば、暴力的に振る舞う白人の心に恐怖があるとは想像できません。
暴力を振るわれる自分たちがそう感じることがあっても、相手もそう思っているとはわかりませんよね。
これは今もなおアメリカで続いてることであるかと思います。
疑心暗鬼で作られた戦場。
そして戦争のテンションの中では、さらに疑心暗鬼が深まっていく。
アメリカだけでなく、まさに世界中で同じことが進んでいるような気もします。

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