2024年8月20日 (火)

「ツイスターズ」異なる主人公像

1996年の竜巻映画「ツイスター」の続編です。
前作と同様に、竜巻を追うストーム・チェイサーたちが登場しますが、ストーリー的な繋がりはありません。
唯一関係があると見られるのは、主人公ケイトたちが学生の頃に使っていた実験器具が「ドロシー」で、これは前作の主人公であったジョーたちが開発したもの。
彼らのお下がりをケイトたちは使っていたのでしょうか。
ちなみにケイトたちが新しく使う竜巻の解析装置にはスケアクロウ(かかし)、ブリキなど名前が付けられており、「オズの魔法使い」繋がりになっています(ドロシーは竜巻でオズの国に行ったので)。
前作と本作はストーリーとしては繋がりはほぼないわけですが、主人公像は対照的です。
前作の主人公ジョーは幼い頃に大竜巻により、愛する父親を亡くしました。
それが彼女にとってトラウマとなり、竜巻に彼女は固執します。
竜巻を追えば、父親に会えるような気持ちもあったのかもしれません。
そしてまた竜巻は父親を奪った敵でもあり、彼女にとってそれは怒りの対象でもありました。
対して本作の主人公ケイトにとっては、竜巻は恐れの対象です。
血気盛んな学生時代、彼女の判断のミスにより、仲間たち、恋人が竜巻に命を奪われます。
ジョーと同様に、ケイトも愛する者を竜巻に奪われたのです。
ケイトにとっても竜巻はトラウマなのですが、かつての自分が功名心で陥った過ちを見せつけてくる存在なのです。
彼女はそれから逃げ出しました。
ジョーは幼く無力だったため、父親を奪った竜巻に対してなす術はありませんでした。
だからこそ、大人になって対抗する力を持った時、その竜巻を制御しようと思ったのでしょう。
ケイトは竜巻がトラウマになった時、十分に大人であ離ました。
友人たちの命を奪ったのは、無論竜巻でありますが、そのきっかけとなったのは、自分自身だったのです。
ですから彼女の気持ちはジョーのように竜巻に向かうのではなく、自分自身に向かったです。
このように、同じく竜巻を扱い、それらを追うストーム・チェイサーたちを描いていますが、この2作品の主人公の違いを見てみても面白いのではないでしょうか。

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2024年8月16日 (金)

「デッドプール&ウルヴァリン」マーベルの神

昨今スーパーヒーロー疲れ、マーベル疲れと言われ、興行がやや停滞しているMCU。
個人的には全作品追っかけているマーベルファンなので、全然疲れてなどいないのですが、そう世間で言われるのもわからなくもない。
特に最近はマルチバース化して物語も複雑になってきているので、見るのにもエネルギーがかかるのも確か。
さて本作「デッドプール&ウルヴァリン」は公開前から、低迷しているMCUを救うかもと言われており、実際公開後のスタートダッシュは素晴らしく、関係者はホッと胸を撫で下ろしているところでしょう。
ご存知の通り「デッドプール」は20世紀フォックスで1,2作目までは公開されており、ディズニーがフォックスを買収したことにより、MCUに組み込まれました。
なぜ「デッドプール」はMCUを救う救世主となったのでしょうか。
冒頭で触れたようにフェイズ4以降のMCUはマルチバース・サーガと呼ばれているように、マルチバース化が進んでいます。
マルチバース化は大きな可能性を秘めている設定です。
「ロキ」的に言えば、フェイズ3までのMCUは単一の時間軸、すなわち神聖時間軸のみで展開されていました。
これは単一の時の流れなので、見ている我々もその歴史の中にいる感覚で見れるので見ている方としてはわかりやすい。
しかしフェイズ4から導入されたマルチバースは、複数の並行宇宙があるという設定なので、必然的に観客の視座はもっと高次にならざるを得ません。
「ホワット イフ・・・」のウォッチャーのような視座ですね。
あまり深く考えなければいいのですが、ちょっと解釈しようとすると結構頭を使います。
それが見ていてしんどいという感覚になるのかもしれません。
そこでデッドプールです。
このデッドプールは特殊な能力を持っていて、第4の壁を突破することができます。
彼は自分が作り物であることを知っていて、それをメタな話として語ることができるのです。
「デッドプール&ウルヴァリン」という作品はマルチバースとしては結構複雑で複数の世界を股にかけ、かつ時間も越える展開になっています。
なので考え始めるとかなりまた頭を使うのですが、デッドプールがそれら複雑さを皮肉混じりに笑い飛ばしているので、観客もあまり考えずに見ることができます。
マルチバース・サーガとなって一見複雑になってしまっているが、そんなの気軽に見ればいいじゃん、とデッドプールは言っているようです。
デッドプールが長年にわたって積み上げられてしまったMCU敷居の高さをぶっ壊しているように思いました。
とはいえ、この作品は敷居の高さを低くしただけではなく、コアはファンに対しても楽しめる要素を用意しています。
個人的に一番笑えたのは、キャップを演じていたクリス・エヴァンスが登場し、かつ「フレイムオン!」と叫んでくれたところですね。
これについてはすでに色々なところで書かれているので、ネタバレしますが、かつて20世紀フォックス作品として公開された「ファンタスティック4」で若き日のクリスがヒューマン・トーチというヒーローを演じていたことが元ネタになっています。
今までは別の映画会社であったため、大人の事情でMCUでは触れることができませんでしたが、今や同じディズニー傘下なので堂々と触れることができます。
「デッドプール」ならではの愛あるいじり方で、大人の事情も笑い飛ばしてくれます。
そのほかにもエレクトラ、オリジナルのブレイド、チャニング・テイタムが演じるガンビットなども登場し、呆気に取られました。
「ロキ」で登場した「虚無の世界」という設定は、MCUの申請時間軸から剪定された存在が送り込まれる場所と言われています。
つまり、MCUには入れなかったキャラクターたちがいる場所と考えられ、忘れられた存在がいる場所なのですね。
そこにエレクトラやブレイド、ガンビットなどがいるというのはこの設定と実際現実で起きた出来事(フォックスの買収)をうまくリンクさせた、神がかり的な脚本だと思いました。
このように本作はデッドプールというキャラクターの特性を活かしながら、複雑化したMCU、そしてさまざまな現実世界での出来事を、アクロバティックに辻褄を合わせることができた怪作と言えます。
カオス化、無秩序化しそうなMCUをさらにカオスな存在がまとめ上げたとでも言えますでしょうか。
そういう意味でデッドプールはマーベルの神なのかもしれません。

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2024年7月23日 (火)

「ディア・ファミリー」それで、次はどうする?

娘を救いたいという一途で諦めない気持ちが、やがて多くの人を救っていく。
バルーンカテーテルという医療機器があるとはこの映画を見るまで知りませんでした。
血が流れにくなった血管を血管の内側から細いバルーンで広げて、血を流れやすくするものです。
この機器は多くの人を救っています。
本作は日本人の体格にあったバルーンカテーテルを開発した男とその家族の物語です。
主人公宣政は小さなプラスティック製品を製造する町工場を経営しています。
彼の次女、佳美は生まれつき心臓に疾患を抱え、20歳まで生きられないと告げられます。
どの医療機関からも治療は断られた結果、宣政は医療知識はありませんでしたが、自力で人工心臓を開発を決意します。
しかし、その開発は困難を極めました。
なにしろアメリカの最先端の大学ですら、成功していない技術なのです。
それでも宣政は諦めずませんでした。
試行錯誤の末、人工心臓のプロトタイプはできますが、ここに大きな壁が立ちはだかります。
医療機器ですから、実用化をするには臨床試験は欠かせません。
しかし、そのためには莫大な資金がかかり、大学病院の協力が欠かせません。
その協力が得られず、人工心臓は実用化できません。
それはすなわち、娘の佳美を救えないということを意味します。
しかし、佳美は自分の命はいいから、父親の培った技術を使い、多くの人を救ってほしいと言います。
娘の命は救えない。
しかし、娘の願いは叶えられるかもしれない。
宣政は改めてバルーンカテーテルの開発に着手します。
人工心臓の開発時のノウハウはあるにせよ、この開発も困難の連続です。
宣政は娘の願いを叶えられるのでしょうか。
佳美の家族は彼女の命を救いたいと思い、一致団結して宣政の活動を支えます。
それでも彼らの前に多くの困難が立ちはだかります。
その時、彼らはそこから逃げず、前向きにこう言います。
それで、次はどうする?」
いくらやってもうまくいかないことはあります。
その時、そのまま諦めるか、それとも他の方法をトライしてみるか。
娘の命が救えないとわかった時、それは完全に目的を叶えられないとわかった時ですが、その時彼らは真の目的は佳美の思いを叶えることだと考えを変えることができました。
彼女がいたからこそできたことを成し遂げる。
それは彼女が生きたことを残すことにもなるのでしょう。
このように本当に叶えたいことはなんなのか、ということまで考えられることはなかなかできません。
彼ら家族はあくまで前向きに自分たちが直面していることと対峙することができました。
本作が素晴らしいと思ったのは、彼ら家族の思いが、彼らのうちだけにとどまっているものではなかったからです。
宣政が一緒に人工心臓を開発した大学の研究員たちは、プロジェクトが終わった時、それぞれ別の道に進みます。
けれど、やがて宣政が作ったバルーンカテーテルを支持し、それを活用して、多くの人を救います。
そして、本作の冒頭で宣政にインタビューをしていた女性。
物語の最後に彼女も宣政のカテーテルで命を救われた患者であったことが明らかになります。
おそらく宣政と人工心臓を開発した元研究員が救った女性だと思われます。
亡き娘の思いは消えず、広がって、多くの人の命を救い続けていることが伝わってきます。
ラストの一連の描写は、脚本も演出も見事であったと思いました。

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2024年7月12日 (金)

「トラペジウム」イタさも含めて人間らしさ

先日結婚を発表した元乃木坂46の高山一実さんの小説のアニメ化作品です。
そもそもアイドルにはほとんど興味がなかったのですが、予告編を見て気になって見に行ってきました。
タイトルのトラペジウムとは聞きなれない言葉ですが、調べると不等辺四角形という意味のようです。
これは本作の中心となるアイドルグループ「東西南北」の四人のメンバーのことを指しているのでしょう。
また、オリオン星雲の中にある4つの重星もその形からトラペジウムと呼ばれるそうです。
そういえば、映画の中でもオリオン座を映すカットがいくつかありました。
不等辺四角形とは4つあるどの辺も並行でない四角形のことです。
これは四人のメンバーが違った方向に歩んでいくことを意味しているのでしょうね。
主人公であるメンバーの中心人物、東ゆうは本作の中で色々な面を見せてくれます。
彼女は幼い頃より、アイドルになりたい、という夢を持ち続けそれに向かって邁進してきました。
そのための努力は惜しまず、やるべきことがあれば突き進んでいく行動力もあります。
このような面は非常に主人公らしい主人公であると言えます。
けれども、彼女のそういう一面だけではなく、本作では非常に人間らしい側面も描かれます。
彼女はプロデューサー気質で、リーダーとして引っ張っていこうとしますが、メンバーの一人一人に気を配る余裕はありません。
彼女にとって自分の夢が最も優先されるべきであり、メンバーそれぞれがどう考えているか、というところまで思いを馳せることができていないのです。
悪く言えば、打算的であり、メンバーのことを駒の一つとしてしか見ていないとも言えます(そう意識していないにせよ)。
メンバーも自分と同じ夢を見ている、と思い込んでいる節もあります。
これは社会人になってからの通常の会社組織でもあって、部員のベクトルがあっていない事に気づかない管理職はよく見かけます。
これは外から見ていると相当にイタいわけですが、本人はそれに気づくことができないということが割とありますね。
そのような点も含め、ゆうは非常に人間的で、よくあるアニメのような類型化されたキャラクターではなかった点が良かったですね。
キャラクターの絵柄がいわゆる萌え的なタッチだったので、このような展開であるとは思っていなかった分、しっかりと人間のイタい部分まで触れられていて、作品として見応えがありました。

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2024年5月20日 (月)

「ツイスター」かわいい人

この夏、続編「ツイスターズ」が公開されますが、そのオリジナルとなります。
制作総指揮はスティーブン・スピルバーグ、脚本はマイクル・クライトン、そして監督はヤン・デ・ポンという錚々たるメンバーの制作陣です。
ヤン・デ・ポンは「スピード」に続く監督第二作目で、公開当時、非常に期待していたのを覚えています。
最近は異常気象のためか、日本でも竜巻被害が多く見られるようになりました。
何年か前に関東地方でも大きな被害がありましたが、竜巻の通り道に沿って家屋が被害を受けている映像を見て、驚きました。
そんな日本よりも、さらにアメリカの中南部は大規模な竜巻が起こることが多く、被害も甚大です。
そのような竜巻による被害を避けるために、そのメカニズムを解き明かそうとする科学者たちが本作の主人公です。
彼らは「ストーム・チェイサー」と呼ばれ、竜巻に先回りして、小さなセンサーを竜巻に飲み込ませることにより、その構造を明らかにしようとしています。
公開時、先に書いたような陣容だったので、個人的には期待し、かつ楽しめました。
巨大竜巻の表現は現在の目で改めて見ると、アラも見えるのですが、当時としてはかなり頑張っていたように思います。
竜巻自体は自然現象ではあるのですが、禍々しさもあり、モンスターのようにも見えてきます。
人が制御できるところまでは程遠く、日本のゴジラのような存在のようにも見えますね。
ストーリーとしては複雑なところはなく、どんでん返しのような展開はないので、そこがヒットに結び付かなかった要因のようにも思えますが、私が魅力的だと思ったのは、キャラクターです。
特によかったのが、ヘレン・ハントが演じる主人公ジョーです。
ジョーは幼い頃、竜巻被害により実の父親を失いました。
冒頭、その回想シーンが描かれますが、彼女が見た竜巻はまさにモンスターのようでもありました。
彼女はその体験により、竜巻研究にのめり込みます。
劇中ではジョーは、同僚であり師でもある夫ビルと離婚間際な状態です。
ビルは再婚しようと考えており、そのためにジョーに離婚届にサインをさせようとして彼女の元を訪れますが、ジョーはのらりくらりと躱そうとします。
この様子がなんとも可愛いのですね。
彼女にとって、ビルは同じ志を持つ同士でもあり、同じ人生を歩むことができる伴侶です。
ただそれを彼女は素直に表すことができず、非常に不器用なところがとても愛らしい。
また彼女は竜巻が出現すると、のめり込むように危険を度外して竜巻に向かってしまう。
それは子供の頃に父親を失ってしまったことにより、父親を追いかけ続けているのかもしれません。
彼女の行動はそういう意味では非常に幼く、危なっかしい少女のようにも見えます。
ビルはそんな彼女を放っておけず、結局は一緒に巻き込まれていくのですが、彼にとって彼女は守ってあげなければいけない存在のようなのでしょう。
彼女を愛おしく思う気持ちは、今改めて見てみるとさらによくわかるような気がします。
私が当時、本作に惹かれたのは、この点であったのだと思います。
さて、新作はこの夏公開されます。
ビルを演じていたビル・パクストンはもう亡くなっていますし、キャストは全て新しくなるのでしょう。
ストーリーも前作を引き継いでいるものなのか、リメイクなのかはまだわかりません。
とはいえ、30年近く経っての新作ですので、どのような展開になるのか、興味を持って待っていたいと思います。

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2024年4月 7日 (日)

「デューン 砂の惑星 PART2」リアリティと幻想

前作の自分のレビューを見てみたら「壮大なプロローグ」というタイトルをつけていましたが、本作を鑑賞してみるとそれは的確に表現をしているなと改めて思いました。
PART2についてはそのようなプロローグを経ることにより、主人公ポールが戦う理由が明確になっており、本作では彼がどのようにハルコネン家と皇帝に対して戦いを挑んでいくかが描かれることにフォーカスされており、2時間半以上の長尺でありながら、非常に見やすいと思いました。
監督は前作に引き続きドゥニ・ヴィルヌーヴです。
彼の映像は独特で「メッセージ」にしても「ブレードランナー2049」にしても現在とは異なる世界を描いていながらも、非常にリアリティがあるのですね。
SF映画というのは昨今は特にCGの発達がすごいので、驚くような映像が作れるのですが、その分、箱庭感のような感触も拭いきれません。
しかし、ドゥニの映像はその世界に立っているような空気感があるように感じます。
多用される実風景を使ったロングショットや、砂埃でむせてしまうような空気感によって、見ている観客もデューンに立っているような感覚にさせてくれます(対局はザック・スナイダーとかでしょう)。
このような空気感を感じさせてくれる監督は最近はめっきり減りましたね。
そういったリアリティもある反面、ドゥニは幻想的なイメージもあります。
「メッセージ」での異星人との非言語によるコミュニケーション、「複製された男」が「ブレードランナー2049」でも不確かな記憶の描写などは非常に幻想的であり、ある種の不安を見ている者に感じさせます。
本作においても予知幻視などは同様の感覚にさせられます。
ドゥニの作品は確固たるリアリティがありながら、そのような幻想的な側面もあるため、より一層今の現実の不確かさが際立ちます。
そのような不確かさの中で主人公がどのような選択をしていくかのドラマが見応えのあるものになっていきます。
またドゥニの撮る映像はどのショットも構図も色も何から何までこだわり抜いているという印象がありますね。
抜き出して1枚絵になりそうなショットがいくつもあります。
アングルや構図にこだわり抜く姿勢は庵野監督などとも通じるもののような気がします。
彼が見せてくれる絵画のようなショットだけでも見る価値があると思います。
ドゥニの映像がリアリティと幻想というある意味逆の要素を持っている話をしましたが、本作の主人公も二つの価値観の中で揺れ動きます。
一つはデューンの民(フレメン)の一員として、帝国に対して反旗を翻し、星を取り戻そうとすること。
もう一つはアトレイデス家の生き残りとして、ハルコネン家と皇帝家への復讐を果たし、代わりに皇帝となること。
この目標は途中経過としてはハルコネン家と皇帝家の打倒ですが、ゴールは違います。
この異なる二つは劇中でも人物として象徴されていて、前者はポールの恋人だるフレメンのチャニであり、後者はポールの母親であるレディ・ジェシカとなります。
ポールは本作ではずっと前者の価値観で行動していたように見えますが、最後予知能力を持つようになってからは、後者の価値観で行動し始めたようにも見えます。
とはいえ、チャニへの思いも残っているようですので、彼の本心はまだ本当のところはわからないですね。
本作はここまででもデューンを開放したということで一旦の結末となったとも言えますが、上で書いたようにポールの真意がわからないという点ではモヤモヤが残ります。
本作は世界的には大ヒットしているということで、なんと先日PART3が制作されるということが発表されました。
ポールが皇帝となった後の物語となるとのことですが、彼の真意がそこではわかるのでしょうか。
何年後になるか分かりませんが、気になりますね。

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2024年3月20日 (水)

「映画ドラえもん のび太の地球交響楽」生命讃歌

今年の「ドラえもん」劇場版は音楽がテーマ。
宇宙や恐竜などの冒険がテーマになることが多い「ドラえもん」シリーズですが、音楽がテーマというのは珍しい印象です。
わかりやすく冒険が描けるわけではないので、なかなか劇場版としてエンターテイメントと仕上げるのが難しそうだと思いましたが、なかなかどうして非常に楽しめる作品に仕上がっていました。
音楽はとても原始的でありながら、人の生命力が表現される芸術であると思います。
原始的であるというのは、この芸術はとても身体的であるからだと思います。
ただ何かを叩んでリズムを刻むというのも音楽ですから。
今回の作品で最終的にドラえもんたちが戦うのは、宇宙の星々を飲み込んでいくノイズという存在。
ノイズは生命が奏でる音楽(ファーレ)が苦手であり、ドラえもんたちは音楽で立ち向かっていきます。
音楽はまさしく生命の象徴。
ドラえもんたちが音楽を演奏しながらノイズと戦っている時に、地球上の人間たちが日常の営みから奏でられる音が重ねられていきます。
お料理を作るときの包丁の音。
家を建てる時のノコギリの音。
人が、生命が生きている時に奏でる音、音楽が、すべての生命を飲み込もうとするノイズに対抗していくのです。
まさに生命讃歌です。
ドラえもんたちがノイズと戦う時の音楽とその映像表現も見事で、なかなか映像化しにくい音楽をダイナミックに表現できていたと思います。
ストーリーとしても凝ってい益田、
のび太たちは共にノイズと戦うことになるミッカという異星の少女と出会います。
ミッカたちはノイズに滅ぼされた星から宇宙船で逃げ出してきて、地球の近くに長年隠れ住んでいた種族です。
古代にその種族は一族を途絶えさせないために、ミッカの妹を地球に送り込みました。
彼女は古代人とやがて結ばれ、そしてそこから地球にもファーレ(音楽)が根付いていくのです。
そしてその子孫である歌姫ミーナも、のび太やミッカに手を貸すことになります。
連綿と続いていく生命、そして音楽。
これもまた生命讃歌ですね。
「ドラえもん」の映画として見ると、ややドラえもんとその秘密道具の印象は薄く、そこを期待した方からすると少々物足りないところもあるかもしれませんが、いつもと異なる冒険を描こうとする心意気は私としては支持次第です。

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2023年10月22日 (日)

「沈黙の艦隊」満を持しての実写化

コミック「沈黙の艦隊」は学生から社会人になった20代の頃、リアルタイムに読んでいました。
そのストーリーは現実に米ソの間の冷戦構造と核抑止があるという時代をベースに作られていましたが、まさに連載中にソ連崩壊、それに伴う冷戦構造の終結という大きな変化の中で展開されていきました。
その後、世界は米国への一極化、そしてテロ事件の勃発などがあり多極化へ変化していきます。
本作が映像不可能と言われてきたのは、潜水艦そして艦隊との戦いを描くのが難しいのもありますが、現実世界の状況が原作の頃と大きく変わってきたのもあったかと思います。
しかし、ロシアが仕掛けたウクライナ戦争により、再び核による恫喝が現実的になってきたということもあり、再び本作で語られてきた考え方に注目がいくようになったのでしょう。
映像についても、今回は自衛隊の協力が得られたこと、そしてCGなどの技術の発達がありクリアでき、まさに満を持しての実写化ということでしょう。
主人公海江田を演じるのは大沢たかおであり、考えを読ませない得体の知れなさをうまく表現していたと思います。
「キングダム」もそうですが、大沢さんはコミックのキャラクターを再現するという点で、非常にテクニックを持っていると思います。
ストーリーも終始緊張感を持たせながら展開しており、ややもすると政治色が強くなり会議室での会話劇が中心になりがちなところ、バランスよく潜水艦戦、艦隊戦を入れてきているので、エンターテイメントとしても見やすくできているかと思います。
惜しいのは、というより長い原作を映画化するということで仕方がないところはあるのですが、本作で描かれるのはほんのさわりのところで、本作だけでは海江田の意図というのはほとんど分かりません。
まさに導入部分というところなので、本作の評価は本作だけではできないように思います。
次回作ができるかどうかのアナウンスは聞こえてこないのですが、この作品の本当の評価は次回作を観て、ということになるでしょうね。

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2023年8月16日 (水)

「トランスフォーマー/ビースト覚醒」エモーショナルと派手さのバランス

「トランスフォーマー」シリーズも早いもので第7作目となリマス。
第1作目を見た時は自動車がロボットにガチャガチャと変形するCGに度肝を抜かれましたが、その後はこの手の映像も見慣れてしまい、新鮮味が薄れてしまいました。
シリーズを追うごとにストーリーもスケールアップしていき、いつしか人類置いてけぼりの大風呂敷を広げた状態となり収拾がつかなくなってきた感もありました。
そうなってくるとマイケル・ベイの迫力のある演出もやや大味にも感じられ、食傷気味となったのも事実です。
これは皆が持った印象だったのか、前作ではリブート的な位置付けで「バンブルビー」が公開されました。
こちらの作品はマイケル・ベイ的な派手な演出は抑えられ、少女とバンブルビーの間の友情が描かれるハートウォーミングなジュブナイルとなっていました。
これはこれで非常に新鮮で、新たな「トランスフォーマー」を見せてくれたと思います。
そして本作「ビースト覚醒」ですが、タイムライン的には「バンブルビー」の後のようです。
80年代的であった「バンブルビー」から本作は90年代的な要素を持った作品になっています。
「バンブルビー」は少女とバンブルビーに焦点を絞ったため、従来の「トランスフォーマー」的な派手なアクションは少なかったと思いますが、本作はリブート版の人間とオートボットの繊細な関係性と従来路線の派手さのバランスを上手に取ろうと苦労した感じがしています。
加えて新しい要素として動物型のトランスフォーマーも登場し、描くべき要素は格段に前作から増していると思います。
その苦労は概ね成功しているのはないでしょうか。
主人公ノアとオートボットミラージュの関係性は力を入れて描かれており、クライマックスでの二人のコラボレーションへの納得性を高めています。
後半のユニクロンと人間、オートボット、マクシマルとの戦いは従来の「トランスフォーマー」的な派手さがあり、映像的に見応えありました。
今までの作品でもラストバトルでは、どうしても人間が置いてきぼりになりがちなのを、ノアがミラージュを装着することで回避するというのもなかなかのアイデア。
これがクレジットの時の映像に繋がるというのも興味深かったです。
本作の制作にはトランスフォーマーを販売しているハズプロが入っていますが、ここの主力商品にG.I.ジョーがあります。
「G.I.ジョー」については今までも何度か映画化されていますが、本作で「トランスフォーマー」とクロスオーバーする可能性が示唆されています。
これはマーベル的なユニバースを狙っているということでしょうか。
また風呂敷を大きくして、畳めなくなってしまうという懸念はありますが、期待もしてしまいますね。

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2023年6月 7日 (水)

「TAR/ター」権力の誘惑

ケイト・ブランシェット演じる主人公リディア・ターはベルリンフィルハーモニー初の女性指揮者です。
彼女は音楽に対しての深い理解と、その表現において卓越した才能があり、輝かしい経歴を持っています。
そして世界有数のオーケストラの首席指揮者として絶大なる権力を持っています。
彼女自身はその地位は自分の才能に対して相応しいものであるという強い自負を持ちつつも、いつかそこから転落するかもしれないという恐怖感が彼女を苛みます。
自分が理解した通りに音楽を奏でたいという点において、彼女は強欲であり、支配的でもあります。
彼女は音楽にのみ忠実なのです。
そして、彼女はその権力をオーケストラという場だけなく、周囲にも振るうようになっていきます。
長年勤め上げていた副指揮者も彼女の思惑で首にし、長年サポートしていた助手には人参をぶら下げながら献身を求めます。
彼女の周囲も彼女の振る舞いに気付きながらも、それを見て見ぬふりをしていたようにも見えます。
史上初の女性指揮者という看板は興行的にも有利ということもあるでしょう。
彼女に逆らったら居場所がなくなるという恐怖もあるでしょう。
周囲のそのような態度はターが自分の行動が許されるものであると思い込んでいくことにつながっていったかもしれません。
そして教え子であった若手音楽家へセクシャルハラスメントを行い、挙句その若手は自殺をしてしまいます。
そのような出来事により、次第に彼女は精神的に追い込まれていきます。
ストーリーに挟み込まれてくるターの隣人のエピソードがあります。
その隣人は実の母親を椅子に縛り付けて虐待し、挙げ句の果てに殺してしまいます。
それに対してターは激しく嫌悪感を抱きますが、実のところ彼女が周囲に対してやっていることもさほど変わりがありません。
現在の座を約束する代わりに、彼女が思うままにコントロールしようとするわけですから。
本作は権力というものが持つ恐ろしさ、そこに座った者をいかに変えていってしまうかということを描いています。
非常に本作がユニークな点は、今まで権力というものは男性的なものとして描かれることが多かったのですが、女性が権力に溺れてしまうところを描いている点です。
つまり、権力というものは男性であっても、女性であっても、溺れる可能性があるものであるということです。
ターの物言いは女性らしく柔らかいものでありつつも、そこには有無を言わさぬ調子があります。
それこそが権力であり、それに溺れた者は無意識にそれを使ってしまうのです。
権力自身は彼女自身も蝕んでいたのでしょうか。
全てを失った彼女が辿り着いた場所で、タクトを振っている姿は原点に立ち返ったような清々しさを感じました。

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