2017年7月18日 (火)

「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」 最後の自由人

予告編でちらっとキーラ・ナイトレイが出てたので、初期作品との関係があるのかなと思ったら、最初にオーランド・ブルームまで出てきてびっくりしました。
1作目は2003年だから15年も経っているんですよね。
キーラ・ナイトレイはその間も美しさをキープしているので、驚きです。
そういえば、若かりし頃のジャック・スパロウもでてきましたが、あれはCGですよね?
ジョニー・デップの演技をモーション・キャプチャーしたのかしらん。

本作は雰囲気的には1作目に近い感じがしましたね。
ヘンリー・ターナーとカリーナ・スミスの関係は、ウィルとエリザベスの関係を彷彿とさせます。
また本作はヘンリー、カリーナそれぞれの親子の物語と、ポセイドンの槍という宝物探しの話が絡み合いながら進んでいき、それに宿敵であるサラザールという海賊ハンターが絡みます。
以前ジャック・スパロウは狂言回しである、といったことを記事に書いたことがありますが、まさに本作もそのような立ち位置でした。
ジャックは物語をかき回して、推進する役割ですが、あまりそれらの物語に積極的に関与していくわけではありません。
ラストでヘンリーとカリーナ、ウィルとエリザベスが大団円をむかえますが、ジャックはそれを見て「くだらない」と言って、自由に航海を続けます。
彼にとって自由で縛られないことこそが最も重要であり、恋人や妻であっても、それは己を縛るものでしかないと感じるのでしょう。
そういえば、仲間が去ると言ったときも、それに対しては何も言わず、仕方ないなといった感じでしたよね。
英語タイトルの副題は「Dead Men Tell No Tales」で「死人に口なし」という意味ですが、日本語の副題は「最後の海賊」でした。
まったくオリジナルと関係ないタイトルですが、大航海時代を経て人々が定住し安定を求め、海賊自体もいなくなっていく時代の中、ジャックだけが自由を求め続けているという意味で、ジャックが「最後の海賊」であるというようにもとれます。
ジャックは最後の自由人なのかもしれませんね。

エンドロール後には恒例のおまけが(これだからこのシリーズは最後まで席を立てない)。
無事エリザベスのもとに戻ったウィルのところに謎の影が・・・。
続編が作られるという話もあるようですが、今度はウィルやエリザベスを中心に物語は進んでいくのでしょうか。

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2017年7月 8日 (土)

「22年目の告白 −私が殺人犯です-」 フィンチャー的なエッジ

知人のオススメがあったので、見にいってきました。
最初から最後まで緊迫感があり、またストーリーも二転三転あったので、飽きることなく見ることができました。
見終わった後、パンフレットを見て知ったのですが、本作の原案は韓国の映画なのですね。
確かにずっと緊張感が続く感じは韓国の犯罪・事件ものの作品に通じるものがあります。
なんというのですかね、いけないものを見せられてしまいそうな緊張感とでもいうのでしょうか。
入江悠監督の作品は今までは「ジョーカー・ゲーム」しか見たことがありません。
「ジョーカー・ゲーム」はこれといって評価する点があまりなかった記憶があります。
ハリウッドのアクションムービーのようなものを作ろうとして失敗してしまったようなイメージです。
しかし、本作は見ごたえがあり、またモダンなエッジが効いていて良かったですね。
韓国映画とか、デイビッド・フィンチャーのような緊張感があります。
こういう緊張感が出せる監督はあまり日本には他にはいないような気がしますので、今後の作品に期待です。

前にも書いたのですが、藤原竜也さんはこういった日常ではない役柄が似合いますね。
藤原さんの演技はナチュラルというよりは、芝居的な演技だと思います。
日常的ではない役柄は下手に演じると、設定自体が嘘くさく感じられてしまうものですが、藤原さんが演じると(あえて言いますが)オーバーな演技により、しっかりと定着できる感じがするのですよね。
割と力技で定着させるイメージなのですが、なかなかこういったことができるタイプの役者さんはいないような気がします。

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「ハクソー・リッジ」 信念を貫く

いくら自分なりの考えを持っていようと、報道や社会の大きなうねり、周囲の人々の意見などによって、容易に流される。
むしろ流されることの方が多いと思う。
選挙などで雪崩を打ったように一方の勢力に票が入ることもあるし、または誰かへのバッシングなども一気に高まることもある。
社会の空気とか、うねりとかそういう見えない力があって、それに抗うことはなかなかに難しい。
特に戦争などといった状態であれば、さらにそうだ。
後から歴史を紐解けば、なぜそのようなことになったのだろうと思うことがあっても、その時に生きる人々、社会の中においては、大きなうねりに逆らうことは困難なのだろう。
本作「ハクソー・リッジ」では第二次世界大戦の激戦の中でも決して銃を取らず、人の命を奪わず、衛生兵として人を救い続けたデズモンド・リズの物語である。
戦場においては人の命を奪うことというのは兵士にとっては避けられないものである、ということは多くの人の理解であろう。
戦争という事態が良いか悪いか別にして、そういう状態になった場合、兵士の役割を否定できるものではない。
しかし、デズモンドは兵士が国を守るために戦い、人を殺さねばならないことそのものは否定はしないが、自分自身は人を殺すことを拒絶する。
人によってはそれは虫が良い話に聞こえるかもしれない。
けれども彼は自分の命をかけて、戦場に赴き、人を救おうとする。
己だけ人を殺すことの禁忌を避けているようにも見えなくはないが、彼が歩もうとする道もまた簡単なものではない。
多くの人の非難、奇異に見る目を受け、自分の信念を貫き通す。
彼の信条自体が良いか悪いかという議論は置いておいて、強い社会のうねりがある中で、それとは異なる自分の信念を貫くというのが、いかに困難であるかは容易に想像がつく。
これは戦場という場の話だけではないと思う。
東芝事件にしても電通事件にしても、社内で問題がある行為を許容する空気ができていた場合、それに一人の社員が異を唱えることがいかに難しいかがわかるだろう。
そう考えるとデズモンドが自分の信念を守るということに対して、強い胆力を持っていたということが実感できる。
さらに当時においても米軍はそういった一般の兵士とは違う価値観を持つ者(良心的兵役拒否者)を許容する懐の深さを持っていたということである。
最近でこそ逆に価値観の許容が狭められている気もするが、それでも日本よりは懐は深いのではないだろうか。
デズモンドが信念を貫き通すには、異なる価値観を受け入れる度量がある組織があるということが必要であったのかもしれない。
対して、当時の日本軍においてはそのような多様な価値を受け入れる余地はなかった。
現代においても日本の組織はまだまだそのような度量があるようには思えない。

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2017年6月24日 (土)

「キング・アーサー(2017)」 聖剣無双・・・、気持ちはわかる

ガイ・リッチー監督といえば、どんな題材を選んでも彼流に染め上げてしまうように感じます。
「シャーロック・ホームズ」では19世紀を舞台としながらも、アクションシーンは現代的というかロックな感じがバリバリしましたものね。
スーパークイックなカット割り、かと思えばスーパースローを合わせて使う極端な緩急のアクションシーンは、ガイ・リッチーならでは。
最近はどの映画も同じような印象で監督の個性が感じにくいものも多いですが、ガイ・リッチーは見ていても彼らしい感じがにおいますよね。
今回の作品ではアーサーが聖剣エクスカリバーを持って戦うシーンが見どころですが、ここに彼らしいアクションの演出が冴えています。
エクスカリバーを振り回すアーサーは一撃で群がる敵の騎士たちを吹っ飛ばすのですが、このシーンでは「まるで三国無双!」と思ったりしました。
そんなことを考えてたら、後で本作の邦題は「キング・アーサー 聖剣無双」だったと知りました。
急遽公開前にタイトルが変わったようですが、ゲームの開発元からクレームがあったのかな。
でも、映画を見ると「無双」ってタイトルをつけたくなる気持ちもわかる(笑)。
ストーリーについては、大味この上ないのですが、まあアクションシーンは楽しめたのでいいかなという感じですね。

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2017年6月18日 (日)

「パッセンジャー」 自分を必要としてほしい

こちらも旅行中の機内で鑑賞した一本。
公開中に観たかったのですが、タイミングが合わなかったのですよね。
120年かけて5,000人の乗客を移住先へ向かう宇宙船アヴァロン。
この船はトラブルを起こす確率が極少化されており、乗客乗員は全てコールドスリープしている。
しかし、ありえないトラブルが発生し、移住する惑星に到着する90年前に二人の男女が目覚めてしまった。
このまま再び冬眠することができなければ、到着する前に二人は誰知らず死んでしまう・・・。
このくらいしか事前に知らなかったのですっかりサバイバルSF的な作品だと思っていたのですが、設定はSFながら恋愛映画でしたね。
予想に反しましたが、不意を突かれ結構感動してしまいました。
もう公開終了しているので、ネタバレ的なところにも触れますね。
本当にトラブルで目覚めてしまったのは、主人公の一人ジム。
技術者でもある彼は目覚めてから1年間もの間、事態を打開しようと様々な試みをしますが、全て失敗。
孤独に苛まれ、自殺も試みようとしますが、それもできない。
そんな時にあるコールドスリープカプセルに美しい女性を見つけます。
彼女はオーロラ。
作家である彼女の言葉に触れ、ジムは彼女に恋をします。
まるで眠れる森の美女に恋するように。
そしてまた彼はオーロラを目覚めさせる方法も気づいてしまいます。
しかし彼女を目覚めさせるということは、彼女にも過酷な運命を背負わせるということ。
ジムはそんなことはできないと思い悩みますが、結局は孤独に負け、彼女のコールドスリープを解いてしまいます。

本当の孤独というのはどれほどまでに苦しいものなのでしょうか。
孤独とは何なのでしょうか。
人はおそらく他の誰かに必要とされたいという欲求があります。
その欲求が叶えられない時に孤独と感じるのかもしれません。
ジムは技術者ですが、彼の話を聞いているとその頃の地球は本当の技術者は必要とされなくなっていたように思えます。
コンピュータは高性能化し、システムはユニット化されて、壊れたら修理するのではなく、すぐ交換。
個としてのスキルが重要とされる時代ではないのかもしれません。
AIが進むにつれ、人間の仕事が奪われるという研究が話題になりましたが、そういう話かもしれません。
ジムは自分のスキルでやっていける場所を求め、移住プロジェクトに申し込みをしたのでしょう。
かたやオーロラは父親が著名なノンフィクションライターであり、彼女自身もその才能を持っていた。
しかし10代に目標とする父親は病で亡くなってしまった。
彼女にとっては超えて本当に自分が自分として評価されるきっかけを失ってしまったのかもしれません。
だからこそ彼女も新天地をリポートするという誰もやったことのない試みをしようとした。
そのために友人たちと永遠に別れるとしても。
ジムにしてもオーロラにしても社会に自分というものが必要とされているという実感が欲しかったのかもしれません。
しかし、彼らは新しい社会を作る前に、人々よりも90年早く目覚めてしまった。
そこには彼らしかいないとも同じ状況です。
そしてそこで彼らは愛し合いました。
大きな試練を乗り越える過程において彼らは本当にお互いに必要とし、必要とされるのかを確かめることができました。
90年後二人以外の乗員が目覚めた時、彼らを不幸な事故の犠牲者と見るでしょうか。
たった二人で生きなければいけなかったジムとオーロラを。
けれどオーロラのメッセージにあるようにむしろ二人は幸福であったのですよね。
本当に自分が必要とし、必要としてくれる相手を見つけることができたのだから。
多くの人が暮らす社会の中で暮らしていても、そこまで自分の存在意義を実感できている人はそうそうはいないような気もします。
その点において彼らは幸福だったのです。

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「パトリオット・デイ」 強くあれボストン

記憶に新しい2013年のボストンマラソン大会における爆破テロを題材にした作品。
タイトルの「パトリオット・デイ」はこのマラソン大会がアメリカの「愛国者の日」に開催されたことによる。
アクション映画やサスペンスでは、昔では共産圏のあの国や、秘密組織が仮想敵となっていたが、ベルリンの壁崩壊以降は、そういった役回りはテロ組織が担うようになってきた。
そういうこともあるので、テロリストというとちょっと映画の向こうのお話、言うなればフィクションのようなイメージがあった。
また日本というテロにはあまり縁がない(オウム真理教事件はあったが)国で暮らしているからかもしれない。
けれど、最近急速に世界の各地で起こっているテロは以前とは次元が異なるものとなっており、普通に生活していても巻き込まれる可能性が格段に上がっているように思う。
昔はテロが起こりそうなところにさえ行かなければ、巻き込まれることはなかったのだが、今ではどこがターゲットになるかわからない。
誰がマラソン大会で、コンサート会場でテロに合うなどと思うだろうか。
また無差別テロはまさに無差別で老若男女問わずターゲットになる可能性がある。
本作で描かれる事件でもそうだし、先日のイギリスの事件でも子供が犠牲になった。
自分に子供ができたからかもしれないが、小さい子がこういった事件で命を落とすことを聞くと、今まで以上に恐ろしさを感じる。
テロリストにも何かしらの社会に対しての言い分があるのかもしれないが、誰も人の生活や命を奪っていいものではない。
テロリズムの語源はテラー(非常な恐怖・terror)である。
一般人を含む社会に恐怖を与えることにより、社会的な動揺を誘い、自分たちの要求を通そうという考え方だ。
いかに立派な理想的な社会を築こうとしていても、その為に無関係な人々の人生を犠牲にしても良いという考えは正しくないと、やはり思う。
この作品で描かれる犯人たちには全く同情する余地がない。
彼らの犯行の理由は独りよがりな怒りからくるものであり、またその行動もずさんの一言である。
愚かとも言える彼らのために4人の命が失われ、何十人もの人々の生活が破壊されたことは許しがたい。
先にも書いたようにボストンマラソンの事件以降も世界でテロリズムが頻発している。
各国の警察もテロ封じに力を注いでいるとは思うが、完全に封じ込めるのは難しいと言える。
これからもテロが起こらなくなることはないのかもしれない。
武力だけでは解決できないかもしれない。
「強くあれボストン」というスローガンがこの映画の中で紹介されていた。
事件の犠牲者を悼むことは忘れない。
けれどもテロリストには屈しない。
なぜならその屈する可能性が見えれば、彼らはもっとそれに乗じてくるから。
テロリズムには「恐怖では社会は動じない」と見せつけるしかないのだろう。
とても勇気がいることであるとは思うが、そういう態度でいることがテロリストへの抑止力となるのかもしれない。

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2017年6月17日 (土)

「グレートウォール」 才能の無駄使い

公開時には劇場に行けなかったのですが、旅行中の飛行機内で鑑賞しました。
結論から言ってしまうと、お金を払って観るほどの作品ではなかったということです。
監督はチャン・イーモウで、それが公開時に観に行こうかと思ったポイントであったのですが、本作には今までの彼の作品らしさというものが感じられなく、数多あるハリウッド映画のバッタもんといった印象でした。
彼の作品を全て観ているわけではないのですが、「HERO」「LOVERS」などのアクション映画においても、画作りが非常に美しいというのが、特徴であったかと思います。
鮮やかな色を配色した画面、スピードやカメラを巧みに使った独特なリズム。
アクションシーンであってもまるで絵画のような印象を持たせる彼の作風は、他の監督にはない特徴でありました。
しかし、本作においてはそのような彼の画作りの特徴はほとんど感じられませんでした。
万里の長城を守る禁軍の軍団がそれぞれ赤、青、紫と鎧の色が鮮やかにつけられているのは彼の作品らしいところではあります。
しかし、アクションシーンはチャン・イーモウらしい緩急をつけた華麗さはなく、安っぽいモンスターのCGも相まって、まるでハリウッドのモンスター映画のようでした。
バブル景気の時期に日本の企業がハリウッドに投資をしたのはよく知られていますが、最近では中国企業の進出が目立ちます。
本作の製作はレジェンダリー・ピクチャーズですが、この企業も中国企業に買収されました。
レジェンダリー・ピクチャーズは大衆受けするブロックバスタームービーを得意としますが、この手の作風は中国本土でも人気があるようです。
そのため、ハリウッドとしても中国マーケットを無視するわけにはいけません。
ただし、中国では海外の作品を公開する本数に制限があるようなので、中国企業が作った中国の映画であることも、中国で成功するには必要なのでしょう。
しかし、チャン・イーモウのように世界と勝負できる独自のスタイルを持っている監督にハリウッド映画的な作品を作らせるというのはいかがなものかと思います。
もし中国マーケットへ供給させるためのハリウッド映画的なものが必要なのであれば、他の監督に撮らせればいいかなと。
ま、チャン・イーモウ自体がこういう映画を撮りたいのであれば、仕方がないですが、才能の無駄使いのような感じがしてなりません。

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2017年6月10日 (土)

「メッセージ」 時間の呪縛

冒頭、主人公ルイーズと娘ハンナのエピソードがフラッシュバックのように描かれる。
生まれたばかりのハンナ。
物心ついた時のハンナ。
反抗期のハンナ。
そして死にゆくハンナ。
そう、ルイーズはハンナの最期を看取るのだ。
この映像が本編を通じて、唐突に差し込まれていく。
これが意味するものは・・・。

娘ができたせいか、冒頭のシーンで泣けてしまった。
自分よりも先に子供が逝ってしまうなんて、考えたくもない。
その時に味わうであろう気持ちなど想像したくもない。
ルイーズの気持ちはいかばかりか・・・。

本作はテッド・チャンのSF小説「あなたの人生の物語」。
タイトルは知っていたが、読んだことはなかった。
本編の中で、人は言語によって思考を形作られるということが語られていた。
人類の話す言語はすべからく、リニア(線形)である。
どの言語も時制について細かな言い方があるが、これは人類が過去があって、現在があって、未来があるという、時の流れを認識することに関係しているかもしれない。
もしノンリニア(非線形)の言語があるとしたら、時間に関する認識は人類とは違うものかもしれない(卵が先か、鶏が先かという議論はあるが)。
本作に登場するエイリアン、ヘプタポッドはノンリニアな言語を話す種族であった。
その言語を学ぶうちにルイーズの認識力に変化が現れていく。
もし、二次元しか認識できない種族(平面で生きる種族)が三次元の世界にいて、我々とコミュニケーションを取ろうとしたらどのようになるのだろうか。
彼らから見たら、高さ方向の認識は我々の時間についての認識に似ているかもしれない。
三次元で暮らす我々にとっては、縦も横も高さも同質のものであるが、彼らにとっては違う。
同じようなことが人類とヘプタポッドにも言えるかもしれない。
ヘプタポッドからすれば時も空間も同質に見えるのかもしれない。
3000年後という時間は、彼らにとっては空間のある地点というのと変わらない認識なのだろう。
ルイーズは彼らの言葉を学ぶことにより、彼らのものの見方というのを習得していく。
それが時をフロー(流れゆくもの)として見るのではなく、過去も現在も未来も同列に見るという見方である。
ある意味、それは未来が見えるということにもなるであろう。

しかし、これが可能であるとういうことは、この世界は決定論的であるということになる。
全てはすでに決まっている。
あるべくしてある。
人間の「人生」(時間が大きな要素になっている)という概念は大きく揺らぐであろう。
時間に呪縛されている人類は、それから解き放たれるのか。

そしてまた最初の話に戻る。
自分の子供が自分よりも先に死んでしまうということがわかっていながらも、子をなそうと考えることができるのであろうか。
ルイーズはそうした。
これは真の意味での決定論を受け入れているということなのだろう。
娘はいずれ死ぬ。
だからこそ彼女といる時間を大切にしたい、彼女と出会いたいということなのだろうか。
彼女は夫イアンと離婚したという。
イアンは完全にはヘプタポッドの言語を理解したわけではないのだろう。
愛し合っていても、世界の見方が異なるルイーズとイアンではやはり決定的に価値観が異なってしまう。
イアンからすれば(というより普通の人間からすれば)、娘の将来は不確定であり、もしルイーズがハンナが死ぬと言ってもなんとかそれを回避することはできるのではないかと考えたいであろう。
しかし、ルイーズは全てを受け入れられる。
決定論の見方を受け入れているから。

ここまで書いてみて、ちょっと思ったこと。
禅などの考え方もヘプタポッドのものの見方に近いかもしれない。
彼らは古代にも地球を訪れ、地球人と接触したのかもしれないとも考えてしまった。

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2017年6月 4日 (日)

「ローガン」 人としてのローガン

ヒュー・ジャックマンのウルヴァリンが観れるのは、本作が最後になるそう。
タイトルが「ウルヴァリン」ではなく「ローガン」であるのは、ヒーローであるウルヴァリンではなく、人としてのローガンそのものを描こうという制作サイドの意思の表れであろうか。
「X-MEN」シリーズは大勢のヒーローが出てきて、舞台装置も派手にという見せ方が多くの人々に受け、現在のアメコミ映画全盛のきっかけを作った。
しかし、本作はそういった余計な要素を削り、ローガン一人を深く描けるような舞台設定となっている。
時は今よりも未来。
ミュータントたちの多くはいなくなり、ローガン自身もアダマンチウムの影響により、かつてのような治癒能力がなくなりかけていた。
そのためローガンは若々しさを失い、中年のような姿となっている。
ローガンはかつては獣であった。
持って生まれたヒーリングの力、そして人間によって埋め込まれたアダマンチウムによる戦闘能力により、人間とは異なる存在となり、多くの迫害を受けた。
生き残るために彼は多くの人々を傷つけた。
彼は孤独であった。
獣であった。
しかし、プロフェッサーXに出会い、多くのミュータントの仲間を得ることができた。
彼は信頼、愛といった人間らしい感情を再び手に入れ、家族のような存在を得ることができた。
しかし、それも人間たちの攻撃により失われていってしまう。
彼のヒーリング能力は彼だけを生かしてしまい、愛する人々は先に逝ってしまうことをただ見送るだけとなってしまった。
やはり彼は孤独であった。
おそらく失ってしまうだけであるならば、もう人を愛するようなことはすまいと彼は思ったのであろう。
人との関係を持たず、隠遁しているような生活を送るのは彼のそういう気持ちの表れである。
唯一、彼が関係を持っているのはかつて彼を導いてくれたプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビア。
彼はローガンにとっての擬似的な父親であるのだろう。
しかし、そういった彼は謎の少女ローラに出会う。
彼女はかつてのローガンのようであった。
自分に手を出す者どもを全て斬り殺す。
彼女も獣。
ローガンは彼女に自分と同じものを見出した。
それもそのはず、彼女はローガンの遺伝子によって能力を移植された人工的なミュータントであったのだ。
チャールズの言葉もあり、ローラと一緒に逃避行を続けるローガン。
彼の中でかつて味わったことない感情が芽生えていく。
ローラを逃がすために、彼は治癒能力が失いかけている肉体で敵と戦う。
彼の戦いはまるで子を命がけで守ろうとする獣のようだ。
そして致命的な傷を負ったローガンは、ローラの腕の中で「そうか、こういうことなのか」とつぶやき、息をひきとる。
ローガンは初めて、人間として親として、大事な存在を手に入れることができた。
もうただ己のために戦う獣ではなかった。
本当の家族を手に入れることができた。
かつて味わったことのない気持ちをローガンは感じることができたのであろう。
自分が親になったとうこともあったためか、すごくこの場面ではぐっときてしまった。
子供のためであればなんでもするという気持ちはやはり親は持つものだ。
その感情はとても深く強い。
それをローガンは最後に味わうことができた。
本作はヒーローウルヴァリンを描いた作品ではない。
人間ローガンを描いた作品である。

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2017年6月 3日 (土)

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」 チームというよりファミリー

超サイコーに面白かった!
実は前作の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」はそれほど面白いとは思わなかったのだけれど、今回はツボにはまった。
前作の時のレビューを読み直してみると、「紹介編?」というタイトルになっていました。
おそらく初出のそれぞれのキャラクターを紹介していることに尺を取られて、あまりストーリーに深みを感じなかったということだったのかな。
その点、2作目である本作ではキャラクターやガーディアンズのメンバーの関係性を紹介する必要はないので、そのぶんお話に深みがあったように思います。
キャラクターもそれぞれがより個性が強くなっていっているようで、いわゆるキャラが立ってきた感じがします。
ドラックスはあんなに筋肉バカみたいな感じだったけとか、ガモーラのツンツンぶりも際立ってきているなとか、ありますが、後々合流するといわれる「アベンジャーズ」の面々にも負けない個性が出てきたかと思います。
個性強すぎのガーディアンズのメンバーで、それぞれがお互いのことをクソみそに言っていますが、その裏には強い信頼感があるというのが、窺えるのが本作の魅力。
なんだかんだと言って、お互いのことを心配しているのですよね。
本作はファミリー(もしくはチーム)っていう要素がかなり強く描かれている気がします。
意外とこれは他のマーベル作品ではなかった要素かもしれません。
「アベンジャーズ」のようなチームはありますが、あれはそれぞれの主義・考えで集まった大人の集団。
ガーディアンズはそういう頭で考えて集まったチームというよりは、ファミリーという印象が強い。
今回のメインに描かれる、クイルとエゴのエピソードがそれを強く印象付けます。
血でつながっているから本当の親子なのか、ファミリーなのか。
それよりもお互いの情の強さが、ファミリーの絆を作っているのではないのか。
ガーディアンズの面々は生まれも育ちも人種(?)すら違うけれども、強い結束力を持っています。
まさにファミリーと言えるほどに。
このファミリーの絆を持つメンバーと、アベンジャーズとの対比というのが、合流した時の見どころの一つになるかもしれませんね。
前作のレビューではただのスペースオペラと書いていましたが、本作はスペースオペラが本気になっていました。
実際最近ではスペースオペラ的な作品というのはほとんど見かけません。
「スターウォーズ」はスペースオペラ的ではありましたが、最近の作品はもっとまじめな感じがします。
スペースオペラという言葉の持つ派手さ、荒唐無稽さみたいなものを本作は持っていて、ワクワクドキドキしながら楽しめました。
しかし何と言っても、オープニングのアクションシーンでのベビー・グルートの無邪気っぷりに瞬殺されました。
彼が本作の影の立役者でしょう。
エンディングで登場した思春期のグルートもなかなかに興味深い。
次回作はひねくれたグルート少年とクイルのエピソードになるのかな。

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