2024年7月13日 (土)

「ブルー きみは大丈夫」邦題がミスリードを引き起こす

のっけから言ってしまうと邦題が良くないと思います。
原題は「IF」ですが、これは「Imaginary Friend(空想上の遊び友達)」の略で、「If(もしも)」との掛け言葉になっています。
主人公の少女ビーは、一時的に祖母の家にやってきますが、その時不思議な生き物(?)たちを見かけます。
それらは本作に登場する人物たちのイマジナリーフレンドで、彼女はその姿が見えるのです。
邦題のブルーもそのようなイマジナリーフレンドの一人(?)なのですが、主人公ビーのIFではありません。
「きみは大丈夫」という言葉はブルーが発するものですが、これもビーに向かって言われた言葉ではありません。
その姿形から「となりのトトロ」のトトロを思い浮かべてしまいますが、そのような重要な役回りではないのですね。
本作の主人公ビーは幼い頃母親を失い、そしてまたもしかすると病気で父親も同じように失ってしまうのではないか、という恐ろしさを感じています。
彼女は幼い頃、彼女と遊んでいたイマジナリーフレンドのことをすっかり忘れていますが、なぜか彼らが見えるようになったのです。
これは憶測ですが、父親を失うかもしれないという不安が、彼女を母親を失った幼子のような気持ちに戻し、そのため彼らが見えるようになったのではないでしょうか。
登場するイマジナリーフレンドたちは、物語が進むにつれ、登場人物たちのかつての相棒であったことがわかります。
彼らは人間たちが忘れてしまっていても、傍らで見守っていたのですね。
ビーたちはイマジナリーフレンドとかつての人間の友達を再開させようと奮闘します。
そこで湧き上がってくる疑問がビーのイマジナリーフレンドは誰なんだろう、ということ。
そここそが本作のラストの趣向なのですが、「ブルー」という邦題がそういうことに目を向けさせにくくしてしまいます。
多くの人はこの邦題を見て、途中まで見るまではブルーこそがビーのイマジナリーフレンドなのではないかと思うのではないでしょうか。
物語だけを見るとそのようなミスリードはさせるような構成にはなっていないのですが、邦題が悪さをしています。
この邦題は誤った方向にミスリードさせる可能性があります。
このミスリードによってラストの趣向が分かりにくくなっているような気がしました。
勿体無い。

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2024年7月12日 (金)

「トラペジウム」イタさも含めて人間らしさ

先日結婚を発表した元乃木坂46の高山一実さんの小説のアニメ化作品です。
そもそもアイドルにはほとんど興味がなかったのですが、予告編を見て気になって見に行ってきました。
タイトルのトラペジウムとは聞きなれない言葉ですが、調べると不等辺四角形という意味のようです。
これは本作の中心となるアイドルグループ「東西南北」の四人のメンバーのことを指しているのでしょう。
また、オリオン星雲の中にある4つの重星もその形からトラペジウムと呼ばれるそうです。
そういえば、映画の中でもオリオン座を映すカットがいくつかありました。
不等辺四角形とは4つあるどの辺も並行でない四角形のことです。
これは四人のメンバーが違った方向に歩んでいくことを意味しているのでしょうね。
主人公であるメンバーの中心人物、東ゆうは本作の中で色々な面を見せてくれます。
彼女は幼い頃より、アイドルになりたい、という夢を持ち続けそれに向かって邁進してきました。
そのための努力は惜しまず、やるべきことがあれば突き進んでいく行動力もあります。
このような面は非常に主人公らしい主人公であると言えます。
けれども、彼女のそういう一面だけではなく、本作では非常に人間らしい側面も描かれます。
彼女はプロデューサー気質で、リーダーとして引っ張っていこうとしますが、メンバーの一人一人に気を配る余裕はありません。
彼女にとって自分の夢が最も優先されるべきであり、メンバーそれぞれがどう考えているか、というところまで思いを馳せることができていないのです。
悪く言えば、打算的であり、メンバーのことを駒の一つとしてしか見ていないとも言えます(そう意識していないにせよ)。
メンバーも自分と同じ夢を見ている、と思い込んでいる節もあります。
これは社会人になってからの通常の会社組織でもあって、部員のベクトルがあっていない事に気づかない管理職はよく見かけます。
これは外から見ていると相当にイタいわけですが、本人はそれに気づくことができないということが割とありますね。
そのような点も含め、ゆうは非常に人間的で、よくあるアニメのような類型化されたキャラクターではなかった点が良かったですね。
キャラクターの絵柄がいわゆる萌え的なタッチだったので、このような展開であるとは思っていなかった分、しっかりと人間のイタい部分まで触れられていて、作品として見応えがありました。

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2024年7月 7日 (日)

「ミッシング」絶望的な無力感

自分にも小さな女の子の子供がいる。
当たり前のように繰り返される平凡な日々が愛おしく思う。
子供ができる前は自分がそのように感じることは想像できなかった。
もし突然、この子がいなくなったら、と想像するだけで身を切られるような思いになる。
本作の主人公沙織里の幼い娘が失踪した。
誰が連れ去ったのか、事故なのかもわからず3ヶ月が過ぎる。
何が起こったのかわかれば、そこに怒りが向けられるだけ楽なのかもしれない。
何もわからないからこそ、行き場のない辛さだけが募る。「もし・・・」という言葉が浮かぶ。
もし、自分がライブに行かなかったら。
もし、弟が家までちゃんと送っていたら。
自分のせい。
誰かのせい。
自分を責め、他人を責める。
自分も傷つけ、他人を傷つける。
自分の中の感情をどこにぶつけていいかわからず、自分の中でどす黒く沈殿していく。
それはマグマのように感情の中にたまり、突如爆発する。
周囲の攻撃から身を守るために暑くなった岩盤を期待は薄くする。
薄くなった岩盤は失望でマグマに破られる。
溢れ出た失望は沙織里に叫び声を上げさせる。
メディアやネットでは自分たちを容赦なく、責め立てる。
当事者の苦しみを理解することなく、原因を論う。
正論を言っているつもりで、当事者を遠慮なく傷つける。
沙織里は彼らにも翻弄される。
傷つけられるのをわかっていながら、それらに縋る。
その中のどこかに希望があるのではないかと望みを持ちながら。
しかし、その望みはしばしば裏切られる。
我が子が見つかったという情報があり警察に駆けつけるが、ガセだとわかり、沙織里は失望のあまり失禁までしてしまう。
この場面は見ていて、あまりに辛い。
沙織里が感じているのは、孤独だ。
我が子を失った悲しみ、それが自分のせいかもしれないという後悔、周りの全てへの怒り・・・。
何が悪かったのか、それすらもわからないことへの無力感。
これは身近な夫とも全ては共有ができないと思っている。
この絶望的な孤独感が全編を通して描かれている。
救われるのは、もう一人沙織里と同じように自分を責めて過ごしてきた弟、圭吾に対して、彼も同じような思いであることに気づけたところだろう。
絶望的な悲しみも後悔も、一人で背負うのでなければ、互いに救われるような気がする。

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2024年7月 4日 (木)

「ルックバック」背中を見ろ!

子供の頃、絵を描くのが好きだった。
クラスの中に一人はよくいる絵の上手い子だったと思う。
クラスの文集のイラストを頼まれたり、教科書の隅にパラパラ漫画などを描いたりしていた。
友達からも上手いと言われたりしていたと思う。
将来漫画家になれたらいいな、と思ったりもした。
けど、クラス変えをした時、もっと絵の上手い子がいて、敵わないなと感じた。
本作を見てそのことを思い出した。
絵を描くにしても、歌を歌うにしても、スポーツをするにしても一緒にやる仲間がいれば心強い。
けれど、そこには裏腹に嫉妬もある。
評価されれば天にも昇る気持ちになるし、負けたと思った時は地獄に落ちた気分になる。
主人公藤野が京本の実力を見せつけられ筆を折る場面、逆に京本にファンだと告げられた雨の日、スキップしながら家路に着くという描写が表す気持ちは、好きなことに邁進するからこそ感じてしまうものなのだろう。
その苦しさから逃れたくてやめる人も多いだろう。
けれど藤野も京本も黙々と机に向かった。
楽しさも苦しさもありながら。
この作品は藤野が机に向かっているところを背中から写すカットが幾度もある。
タイトルの「ルックバック」は後半に「背中を見ろ」という言葉として出てくるが、背中は本作のキーワードだ。
黙々と机に向かう姿は一途に絵に向き合う気持ちを表している。
というよりこれしかない、という気持ちかもしれない。
黙々と漫画に向き合った藤野はある出来事が起こった時に自分の過去を振り返り(ルックバック)激しく後悔する。
しかし「背中を見ろ」というキーワードを受け取った藤野は、歩んできた道は間違ってはいないと許される。
ラストはずっと藤野の背中が映し出されるが、それは過去を自分で認めた上で、友の思いを受けて再び絵を描くことに向かう覚悟が表されたように感じた。
本作は非常に短く、1時間程度。
そうとは思わせない密度のある作品であった。

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2024年6月30日 (日)

「マッドマックス:フュリオサ」ドラマは感じる。もっと狂気が欲しい

思い返せば前作の「マッドマックス 怒りのデスロード」はたった三日間を描いた話だった。
そこには細やかなストーリーなど気にさせないほどのエネルギーと狂気があった。
荒廃した世界で欲望のみに生きる人間の獣のような争いの中で、マックスとフュリオサが戦い抜く。
獣のような人間が登場する中で唯一人間性を持ち、そしてこの野獣のルールの中でも逞しく生きようとしているのがフュリオサであった。
前作では脇役ながらあの世界での唯一無二のキャラクターが光り、主人公を食うほどの存在感を持っていた。
そのフュリオサが本作の主人公となる。
前作はたった三日間の抗争が描かれていたが、本作ではフュリオサという戦士がどのように生まれたのかを描く物語となっている。
彼女の少女時代から前作の時代に至る、フュリオサの人生が描かれるのだ。
彼女の人生は苛烈であった。
度々大切な人を失い、そしてそれに手を下した本人に囲われるという屈辱。
しかし強い意志により、彼女は虐げられた環境から脱出し、復讐と母親の願いを叶えようとする。
まさに生命など全くない砂漠でおいても、強く生きようとするように、枯れることのない生命力が彼女の力であった。
人生を自分の力のみで切り拓こうとするフュリオサのドラマはあまりに過酷であるけれども、その逞しさに目を奪われる。
しかし、そのようなドラマ性は強く感じるものの、その反面前作のような狂気じみたエネルギーはどうしても弱く感じてします。
狙いどころが変わっているのは理解しているものの、前作に魅了された者としては、どうしても物足りなさは感じてしまった。

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2024年6月23日 (日)

「碁盤斬り」自分の生き方を斬る

草彅剛演じる柳田格之進は故郷である彦根藩を追われ、娘お絹と共に江戸で長屋暮らしをしていた。
日々、身は浪人暮らしとなろうとも、格之進は武士らしく清廉に生きていた。
遊びなど一切しない格之進が唯一嗜むのが碁であった。
その碁は、彼の生き様を表しているようで、その打ち筋は精錬であり、実直だった。
彼が故郷を追われたのは、その実直さ故でもあった。
格之進はその実直さから殿様に重用されていたが、その几帳面さは同僚たちの細かい不正にも目を瞑ることができなかった。
そんな折、城での碁の手合わせの中で、彦根藩随一の碁の名手柴田兵庫と勝負し、その結果刃傷沙汰が起こる。
それを根に持った兵庫が格之進を冤罪に陥れ、彼は藩を追われることとなったのだ。
加えて、格之進は兵庫との不貞を疑われて、自害してしまう。
そのような出来事があっても彼の生き方は揺るがない。
武士らしく、実直で清廉であること。
それは彼の生き方を規定している。
故郷を追われ、妻を失っても、彼は自分の生き方が間違っているとは微塵も思わない。
藩を追われるところは劇中では描かれていないが、彼は自分の主張はしつつ、それが受け入れられないとわかると、静止を振り切って藩を飛び出してきたのだろうと思われる。
一人娘がいるにも関わらずそのような行動に出たのは、自分は間違っていないという思いが強かったのだろう。
やがて江戸で暮らす中で、碁を通じて商人の萬屋源兵衛と親交を結ぶようになる。
そこで番頭見習いで奉公する弥吉と娘のお絹は互いを憎からず思うようになっていく。
しかし、そのような日々の中である事件が起こる。
源兵衛が持っていた50両が紛失したのだ。
その時、彼と一緒の部屋にいた格之進が疑われる。
それに対して格之進は激昂する。
格之進は劇中、ずっと寡黙であり静かな男であった。
しかし、この時の激昂はまるで別人のような様子だった。
清廉潔白であることを常に生きてきた格之進にとって、この疑いは自分自身を否定されるようなものであったのだろう。
激昂した彼は、弥吉に対し、もし疑いが間違っていたならば、自身と源兵衛の首を差し出せと言う。
おりしも、格之進に冤罪をなすりつけ、その後彦根藩を出奔した兵庫が姿を現したという報も受ける。
お絹は自らが吉原に行き50両を用立て、仇討ちに旅立つ格之進を送る。
娘を売ってまで、自らのプライドを通そうとする格之進には狂気すら感じる。
清廉潔白であり、実直であることは素晴らしいことではあるが、そのために融通が効かなくなることにより、周囲の人を苦しめていく。
お絹は父の性格を知った上で愛しており自ら決断するのだが、友人とも言える関係になった源兵衛や、娘が愛する男に対しても苛烈な態度で望むのは常軌を逸しているようにも見える。
結果、格之進は見事仇討ちを果たし、娘の身売りの期限の大晦日にまで吉原に戻ろうとするも間に合わなかった。
なくなっていた50両は煤払いの際に見つかり、格之進の無実は証明された。
そのため格之進は源兵衛と弥吉の首を差し出せと詰め寄る。
源兵衛は跡取り同然の弥吉を庇い、弥吉は父親のような源兵衛を救おうとする。
しかし、格之進はそのような二人の言葉に耳を傾けず、刀を振りかぶる。
そして、振り下ろされた刀が切ったのは二人の首ではなく、源兵衛と格之進が勝負をしていた碁盤であった。
兵庫との仇討ち勝負の際、格之進はかつて藩で彼の実直さにより不正を暴いた同僚たちのその後を聞く。
彼らは皆、職を奪われ、苦しい生活を送っていた。
やったことは悪かったかもしれないが、そこまで追い込まれなくてはいけなかったのか。
初めて格之進は自分自身の生き方に疑問を持つのであった。
彼は源兵衛と弥吉の首を切らなかった。
以前の自分の生き方に不動の自信を持つ格之進であればあり得なかっただろう。
彼の生き方は碁盤のように四角四面で固いものであった。
彼は自らの生き方を象徴するものを、自ら断ち切った。
これから、彼の碁の打ち筋も変わっていくのかもしれない。

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2024年6月 9日 (日)

「猿の惑星/キングダム」繰り返される所業

リブートされた「猿の惑星」シリーズ3部作に続く、第4作目です。
しかし、前作までの主人公であったシーザーは既に亡くなり、その死から300年が経過しています。
前作でもその予兆があった通り、人間はウイルスに犯され退化して野生化しており、変わって猿たちが地上の覇者となっています。
本作の主人公はノアという名のチンパンジーで、彼の種族は緑豊かな地で平和に暮らしていました。
一方、「キングダム」とタイトルにあるように、シーザーという猿が強権的な王国を築いており、彼は人類が残した遺産(兵器と見られる)を利用し、さらに覇権を広げようとしています。
これまでの3部作では人類VS猿の覇権争いが描かれていましたが、本作では人類の存在は後退し、エイプ同士の戦いが描かれます。
シーザーは人類の善良さも愚かさも知っていた指導者であり、彼はそれを踏まえて平和な世界を築こうとしていましたが、結果的はエイプの中でもかつての人類のような覇権主義の考えを持つ者たちが現れたわけです。
もはや、これは知能というのものは、いずれそのような道を歩まざるを得ないということを表しているのでしょうか。
人類が表舞台を退いても、エイプたちは同じことを繰り返しています。
シーザーがこれを知ったら、どう思ったでしょう?
ノアたち一族がシーザーの王国に移住させられ、強制労働させれられるのはバビロン捕囚のようでもあります。
主人公ノアは、シーザーに比べれば未熟で、猿の王国で自らも同族の仲間たちが虐げられる中、リーダーとして目覚めていきます。
本作はノアの成長譚とも言えるかもしれません。
本作は上記のようなエイプたちの争いが中心に描かれますが、その中で特異な存在がメイという女性で、ノアたちと行動を共にするようになります。
当初は他の人類と同様、退化し言葉を使えないと思われていましたが、実は言葉も操り、かつての人類と同様の高い知能を持っていることが明らかになります。
彼女は彼女の思惑があり、ノアたちと共に行動しており、それがエイプたちの戦いというストーリーに変化を与えています。
彼女の思惑とは何なのか、何のために行動しているのか、というのが、エイプたちとの戦いとは別のもう一方のストーリー上の牽引力となっていると思います。
結果、エンディングでウイルスに侵されていないかつての人類の生き残った子孫たちが存在することが明らかになります。
メイは地球上の各コロニーで生き残った人類たちが、ネットワークで繋がるためのキーを探していたのでした。
人類たちはこれで反撃できる力を得るのでしょうか。
次回作では再び人類とエイプたちの戦いが描かれるのでしょうか。
新展開の期待がされますね。

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2024年6月 6日 (木)

「青春18×2 君へと続く道」人生は旅

2006年、台南で暮らすジミーは、大学受験に挑みつつ、小遣いを稼ぐカラオケ屋のバイトに勤しみ、友人と夜中までテレビゲームをして過ごすような、ごく一般的な青年でした。
そんな彼が、その夏、日本から来て台湾に滞在していたアミと出会い、恋に落ちます。
その恋が彼の人生の道筋を作りました。
アミはジミーに自分の夢を語ります。
その夢は彩りに溢れた鮮やかなものでした。
好きな絵を描きながら、世界中を旅していきたい。
それがアミの夢でした。
まだ夢を持っていなかったジミーにとって、彼女の夢はとても眩しく、それが彼女への想いを深くしていったのかもしれません。
しかし、彼の恋は実らず、アミが日本に帰らなくてはいけない時がやってきます。
二人が別れる時、アミとジミーは約束をしました。
二人が夢を叶えたら、また会おう、と。
この約束がジミーの生き方を決めたのです。
ジミーは夢を叶えるために邁進し、そしてその夢を果たしました。
そして、挫折します。
彼が夢を捨て、挫折した時、彼の人生を決めた約束を思い出し、そして初恋の人の母国を訪れる旅に出ます。
それは自分の人生を振り返る旅であったのかもしれません。
この物語は夢を失い日本を旅するジミーと、彼がアミと出会った日々が並行して描かれます。
そして、アミがどのような運命に向き合っていたのか、見ている我々は進んでいく物語の中で知ります。
そして、ジミーは彼女の死を夢を叶える前にすでに知ってしまったことも、観客である私たち知ります。
私がふと不思議に思ったのは、なぜジミーはアミのその後の運命を知っていたのに、彼女の故郷を直接訪れるのではなく、回り道をして行ったのだろうかということでした。
結末はわかっているにしても、その悲しい事実に向かい合う勇気がなかったからでしょうか。
それもあったのかも知れません。
彼の日本への旅は彼自身の生き方を見直す旅であったのでしょう。
そして彼の生き方を決定づけたのはアミの存在でした。
彼はアミの夢、異国の地を回って、人々と出会いたい、ということをなぞることにより、彼女の気持ちに触れたかったのかも知れません。
ジミーは日本を旅する中で、様々な出会いを経験します。
その出会いにより、ジミーはアミを、そして自分自身を、深く感じ、考えるようになりました。
彼はその出会いにより、癒されていったのです。
それはかつてアミが台湾で経験したことだったのかもしれません。
ジミーはそのような出会いを経て、彼女の故郷に辿り着きました。
彼が知りたかったけど、知るのも怖かったのが、アミが台湾を訪れ、そしてジミーと出会ったことが、彼女を幸せにすることができたのか、ということだったのだと思います。
彼女が最後に描いたスケッチを彼は目にし、彼女の最後の時間の中で、台湾の日々がとても眩しく描かれていたことを知ります。
彼女は世界中を回ることはできなかったけど、台湾で素晴らしい出会いを得ました。
それは彼女の人生は短かったけれど、彼女は夢を叶えられたのかもしれません。
ジミーは夢を叶える途中で、アミの死を知り、少し脱線をしてしまったのかもしれません。
ただ彼の人生はまだ続きます。
アミのスケッチを見たことにより、再び彼は自分の夢を叶える人生の旅のスタートに立ちました。
まさに、人生も旅、なのですね。

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2024年5月20日 (月)

「ツイスター」かわいい人

この夏、続編「ツイスターズ」が公開されますが、そのオリジナルとなります。
制作総指揮はスティーブン・スピルバーグ、脚本はマイクル・クライトン、そして監督はヤン・デ・ポンという錚々たるメンバーの制作陣です。
ヤン・デ・ポンは「スピード」に続く監督第二作目で、公開当時、非常に期待していたのを覚えています。
最近は異常気象のためか、日本でも竜巻被害が多く見られるようになりました。
何年か前に関東地方でも大きな被害がありましたが、竜巻の通り道に沿って家屋が被害を受けている映像を見て、驚きました。
そんな日本よりも、さらにアメリカの中南部は大規模な竜巻が起こることが多く、被害も甚大です。
そのような竜巻による被害を避けるために、そのメカニズムを解き明かそうとする科学者たちが本作の主人公です。
彼らは「ストーム・チェイサー」と呼ばれ、竜巻に先回りして、小さなセンサーを竜巻に飲み込ませることにより、その構造を明らかにしようとしています。
公開時、先に書いたような陣容だったので、個人的には期待し、かつ楽しめました。
巨大竜巻の表現は現在の目で改めて見ると、アラも見えるのですが、当時としてはかなり頑張っていたように思います。
竜巻自体は自然現象ではあるのですが、禍々しさもあり、モンスターのようにも見えてきます。
人が制御できるところまでは程遠く、日本のゴジラのような存在のようにも見えますね。
ストーリーとしては複雑なところはなく、どんでん返しのような展開はないので、そこがヒットに結び付かなかった要因のようにも思えますが、私が魅力的だと思ったのは、キャラクターです。
特によかったのが、ヘレン・ハントが演じる主人公ジョーです。
ジョーは幼い頃、竜巻被害により実の父親を失いました。
冒頭、その回想シーンが描かれますが、彼女が見た竜巻はまさにモンスターのようでもありました。
彼女はその体験により、竜巻研究にのめり込みます。
劇中ではジョーは、同僚であり師でもある夫ビルと離婚間際な状態です。
ビルは再婚しようと考えており、そのためにジョーに離婚届にサインをさせようとして彼女の元を訪れますが、ジョーはのらりくらりと躱そうとします。
この様子がなんとも可愛いのですね。
彼女にとって、ビルは同じ志を持つ同士でもあり、同じ人生を歩むことができる伴侶です。
ただそれを彼女は素直に表すことができず、非常に不器用なところがとても愛らしい。
また彼女は竜巻が出現すると、のめり込むように危険を度外して竜巻に向かってしまう。
それは子供の頃に父親を失ってしまったことにより、父親を追いかけ続けているのかもしれません。
彼女の行動はそういう意味では非常に幼く、危なっかしい少女のようにも見えます。
ビルはそんな彼女を放っておけず、結局は一緒に巻き込まれていくのですが、彼にとって彼女は守ってあげなければいけない存在のようなのでしょう。
彼女を愛おしく思う気持ちは、今改めて見てみるとさらによくわかるような気がします。
私が当時、本作に惹かれたのは、この点であったのだと思います。
さて、新作はこの夏公開されます。
ビルを演じていたビル・パクストンはもう亡くなっていますし、キャストは全て新しくなるのでしょう。
ストーリーも前作を引き継いでいるものなのか、リメイクなのかはまだわかりません。
とはいえ、30年近く経っての新作ですので、どのような展開になるのか、興味を持って待っていたいと思います。

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2024年5月 5日 (日)

「陰陽師0」晴明と博雅の関係性は良い

このところ「キングダム」や「ゴールデン・カムイ」など原作の映画化作品の主演を務め、大ヒットを連発している山崎賢人さんが安倍晴明を演じているのが、この作品。
上記の作品は非常にアグレッシブなアクションが売りで動的な印象でしたが、本作ではどちらかというと静的で優美なアクションを披露しています。
原作は夢枕獏さんの「陰陽師」シリーズで、タイトルに「0」とあるのは、まだ晴明が陰陽師になる前の学生(がくしょう)の頃を描いているためです。
「陰陽師」シリーズは野村萬斎さん主演で2度映画化されていますが、私はそちらは未見です。
が、原作の方は数冊読んでいます。
「陰陽師」シリーズは夢枕獏さんらしい独特の世界観を持っているのと、もう一つ、安倍晴明と源博雅の深いつながりがシリーズを通して描かれているところが魅力です。
晴明は古今の知恵と呪術に精通していて、それを持って京の街で起こる怪異に向き合います。
そもそも怪異というのは、本作でも触れられる「呪」のように、自分でも気がつかないうちに持ってしまった思い込みによって、歪んでしまった目で世界を見ることにより引き起こされます。
時折、晴明ですら、その歪みに囚われることもあるわけです。
源博雅という男は非常に素直な人間で、そのため騙されることも多いのですが、その素直なものの見方が時として歪みを払ってくれることがあり、それによって何度か晴明は救われています。
このように晴明と博雅の友情は固く結び付けられており、小説でも二人が酒を酌み交わす場面がしばしば描かれています。
映画化するにあたり、この二人の関係性は大事にしてもらいたいと思っていましたが、原作者の夢枕獏さんもかなり関与しているということで、ちゃんと描かれていましたね。
博雅のキャスティングは染谷将太さんで少々意外でしたが、素直で愛すべき彼になっていました。
山崎賢人さんはかなりがっしりしているイメージで合うかな、と思っていたのですが、こちらも静かでありながら揺るぎない晴明にあっていたと思います。
ストーリーとしてもシンプルでありながら「陰陽師」の世界観を捉えていて、かつ先に書いた二人の関係性もしっかりと押さえていたので、よかったですね。
残念だったのは、幻想的な世界を見える形にするVFXで、少々物足りないところがありました。
今回は深層心理の世界なので、舞台としては複雑なものではなくなるのだと思うのですが、もっと幻想的であっても良いかなと思いました。
独特の世界観をもう少し作り上げられたら、より個性的になったのではないでしょうか。

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