2017年10月14日 (土)

「亜人」 割り切りがしっかりできていて小気味いい

例によって原作は未読で鑑賞してきました。
最近、原作の映画は結構長尺のものが多くなってきていますよね。
長い原作をコンパクトに映画をするのは大変ですし、登場人物を説明していく段取りなどもあるので、長くなりがちです。
特に登場人物の説明は丁寧にすればわかりやすくはなりますが、展開が遅くなって冗長な感じがしてくるので、バランスが難しいところです。
その点において本作「亜人」はかなり割り切って描いているかなと思います。
オープニングから主人公永井の佐藤による救出作戦が開始され、その後すぐに二人は対立し、バトルシーンに突入します。
ある意味、イントロなしでクライマックスに入った感じもあり、一気に作品世界に引き込まれる感じがしました。
と言いながら、ただバトルをしているだけでキャラクターの背景が全く不明かというとそういうことでもなく、ちょっとしたシーンであったり、台詞であったりでその登場人物がどんな人間なのかを伝えることは行なっていると思います。
永井なり、佐藤なりの過去話など掘ればいくらでも掘れそうだと思いますが、そこをあえて掘らず、映画としての展開のスピードを重視した潔い構成になっていると思います。
亜人研究所とか、政府の黒幕とか色々ありそうですけど、この辺りもあっさり切っていて小気味がいいです。
どうして亜人は存在するのかということなども描きたくなるとは思いますが、そのあたりもそういうものだという割り切りにの中で話が進んでいきますよね。
そのため映画全体は見ていて非常にスピード感があり、また比重の多いアクションについても亜人という特性を活かしたアクションとなっていて見応えがありました。
普通は死んだら負けということが前提にアクションが組み上げられていますが、本作の亜人の戦いは死んだら元々の完璧な状態で復活します。
劇中ではリセットと言っていましたが、まさに言い当てていますよね。
リセットボタンに手をかけながらゲームをしている感じ。
彼らにとって最悪なのは、リセットできない状態になること。
死んではいないけれども、動けない状態になると彼らは負けなのですよね。
ゲームの前提が違うから、アクションも通常のものとは変わるはずです。
そのあたりのルールの違いがよく劇中のアクションシーンで描かれていました。
そういう点では見たことがないアクションになっていたと思います。
割り切りがしっかりできていて、やりたいことが明確になっている作品に仕上がっていると思います。

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2017年9月30日 (土)

「エイリアン:コヴェナント」 ミッシング・リンク

<ネタバレ含みますので、ご注意です>

前作「プロメテウス」は「エイリアン」シリーズの前日譚として、様々な謎が解決されると思いましたが、逆に色々と謎を置いていった印象で、ややスッキリした感じがしなかった印象でした。
本作「エイリアン:コヴェナント」は「プロメテウス」を引き継ぐ内容で、そしてその後の「エイリアン」に続くエピソードとなっており、シリーズのミッシング・リンクであるとも言えます。
本作ではそもそもエイリアンという存在は何ものなのか、なぜあのような生物が存在するのかという謎、そして人類とは何者であるのかという謎が明らかになります。
そもそも人類はエンジニアという異星人が、自分たちの遺伝子を種として地球に蒔いたことが起源となっていました。
彼らが人類の創造主であるわけです。
そして人類は文明を発展させ、やがてアンドロイドという新たな生命というべき存在を産みだしました。
アンドロイドは死なないという点において、人類よりも「完全な」存在と言えます。
そのようなアンドロイドの一体、デイビッドらはプロメテウス号でエンジニアの存在を発見します。
そしてまた、彼らの創造物の一つであるエイリアンとも遭遇するのです。
本作で明らかになるのは、デイビッドがそのエイリアンをさらに改良し、完全なる生命体を作り上げていたということです。
攻撃的な性質、頑強な肉体、強酸性の血液、そして宇宙空間ですら生きることができるパーフェクトな生命体である、エイリアン。
アンドロイドである彼は不完全な存在である人類に作られました。
しかし、より完全であるはずの彼らは、不完全である人類に恭順をしなくてはいけませんでした。
デイビッドの中に人類を越え、さらに完全なる者を生み出したいという欲望が目覚めたのでしょうか。
この欲望は他者を征服し、自分たち以外を排除する弱肉強食の論理です。
デイビッドはその不完全さゆえに人類は存続するべきではないと言っていました。
結果的にはアンドロイドのデイビッドを経由して、自分たちの存在を脅かす存在を生み出してしまったわけです。
そしてそれはエンジニアもそうなのかもしれません。
生物というものはそのように新たな種が前の覇者を駆逐していくものなのでしょうか。

いくつかまだ積み残しの謎もあるように思いました。
本作の結末でコヴェナントが向かうのは元々の目的地であったオリエガ6だと思われます。
「エイリアン」でノストロモ号が到着したのは、オリエガ6なのでしょうか、それとも本作の舞台となっていた惑星なのでしょうか。
エンジニアの宇宙船があるということから本作の惑星であると思うのですが、ノストロモ号乗組員を襲うのはデイビッドの研究室の地下にあったエイリアンの卵なのですかね・・・?
その時デイヴィッドの痕跡が一つもないのはちょっと気になりますが。
そうだった場合は、オリエガ6の方にもデイビッドが持っていったエイリアンが2体いるはずなのですよね。
その後のデイビッドも気になります。
あと、エンジニアは(デイビッドに酷似した)王らしき人物に滅ぼされますが、これがデイビッドの妄想なのか(?)、現実のことなのかはわかりません。
現実のことであると彼は何者であるか、そして彼はその後どうなったのかというのが気になります。
彼はエンジニアたちに生み出されたアンドロイド的なものであったのかもしれません。
そうなると生物というものは自ら自分たちよりも優れたものを生み出し、そして滅ぼされていくという運命にある存在なのかもしれないとも考えられます。
意外と哲学的な話になったものですね。

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2017年9月24日 (日)

「ワンダーウーマン」 彼女はヒロインではなく、ヒーロー

DC作品については、このブログでは割と辛口の意見になってしまうことが多かったのですが、本作についてはとてもポジティブな意見になります。
この作品の一番の成功は、ワンダーウーマン役にガル・ガドットを当てられたことです。
彼女は「ワイルド・スピードMAX」に出演した時に、その美しさに注目していたのですが、その次の作品以降は出演がなくなり残念に思っていました。
「バットマンVSスーパーマン」で、初めてワンダーウーマン役で彼女は登場しましたが、一目見ただけで役にぴったりとはまっているように感じました(バットマンよりハマりがいい)。
その時は、戦士としての経験も積んでいるクールな印象でしたが、本作のガル・ガドットは様々な表情を見せます。
何も知らない無垢な少女のような表情(かわいい)。
恋を知った優しい表情(抱きしめたくなる)。
色っぽさを感じる大人の女性の表情(色っぽい)。
戦いの中での勇ましい戦士の表情(かっこいい)。
この一人の女性の中にある様々な気持ち、そして女性の魅力が彼女の中にあることが感じられます。
女性のヒーローであることの意味がそこにはあります。
他のDCのキャラクターは仏頂面が多く、作品自体も鬱々としている雰囲気なので、彼女の存在が映画に生命力を与えます。
長身で手足が長いガル・ガドットは、あのワンダーウーマンのコスチューム(ちょっと古臭い)を着ている時も、サイコーにかっこいい。
アクションシーンも非常に良くできていました。
DCっぽいCGの人形が高スピードでドタバタやっているというおもちゃ感は多少はあるものの、ガル・ガドットのアクションをしっかりと見せる撮り方をしているのには好感が持てました。
またワンダーウーマンが最後に彼女が信じるのは「愛」だと明言したところも良かったですね。
多くのヒーローは大義のために戦うことが多いですよね。
人類を救うため、世界を救うため。
しかしその為には少ならからず犠牲を覚悟する。
そのことについてはマーベルでは「アベンジャーズ」シリーズで、DCでは「バットマンVSスーパーマン」で触れられていました。
多くのヒーローはその犠牲をやむをえないものとして考えます。
けれどワンダーウーマンは大義、もしくは人類全体というよりは、生きている個々の人々の命を守ることのために戦っているように感じました。
それぞれの人々が持っている誰かに対する想い、愛。
その愛を守るために彼女は戦う。
バットマンなどDCのヒーローは非常にクールで、世界観もダークなのですが、ワンダーウーマンは暗い世界の中に彼女の存在が光となっているような気がします。
これは彼女が女性であることが大きく、作品を意味付けできていると思います。
ダイアナ=ワンダーウーマンはこの作品で多くの経験をして少女から大人の女性に変わりました。
今後登場するDCのシリーズは大人の女性として描かれるのでしょうが、彼女のコケティッシュな魅力もちょっと出して欲しいなとも期待します。

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2017年9月23日 (土)

「ダンケルク」 英雄と卑怯者

クリストファー・ノーランの作品にしては短い!
とは言いながら今回の作品は時間に追われるタイムサスペンス的な色合いも強いので、長くすることを良しとしなかったのでしょうね。
また本作はノーラン初の戦争実話ものなのですが、ただの戦争映画とならず彼らしさも感じられます。
この映画は大きく3つの場面を描きますが、それぞれのシーンの時間の進み方が微妙にずれています。
起きる出来事がそれぞれの場面でリンクしているのですが、同じ事象を映画上の同じ時間に別の場面からの視点で出すということはあまりないので、一瞬戸惑いますね。
映画の時間の進み方の中では、同じ出来事が行ったり来たりしているように見えるということです。
そこさえ慣れてしまえば、最近のノーラン作品よりは見やすいものになっていると思います。

本作には様々な人物が登場します。
描かれているダンケルクという街は、第二次世界大戦中、ドイツ軍に包囲された英仏連合軍が大脱出作戦を行うところです。
刻々と狭まるドイツ軍の包囲網。
そういった状況の中での様々な人々の行動を描きます。
ただただ自分が生き延びるために行動する者。
人々の命を救うために自分の命を投げ出そうとする者。
強き者。
弱き者。
強いからといって、人のために戦う人ばかりではない。
弱いからといって、逃げる人ばかりではない。
高地連隊という戦いの猛者でありながら、生き延びるためによそ者を蹴落とそうとする者。
その時の状況に合わせて機転を利かせて、生き延びようとする者。
か細い少年でありながら、誰かの役に立ち、尊敬されるような男になりたいと考えている者。
屈強の空の戦士であり、兵士たちを救うために一機で戦いを挑む者。
戦争という究極の状況の中、人々は英雄的行動をとったり、卑怯者的な行動をとったりします。
それぞれの心の中で葛藤があり、ちょっとした振れ幅で英雄となったり、卑怯者になったりします。
そしてその振れ幅は彼らのその後の人生に大きく影響を与えることとなるのです。
この映画では「その後」は描かれませんが、そうに違いありません。
ドイツ軍の捕虜となってしまったパイロットは、辛い状況にあっても今後は誇りを持ってそれに立ち向かえるでしょう。
無事イギリスに帰還できた若い兵たちは、今後自分は生き残ってよかったのであろうかと悩むことになるでしょう。
彼らの決断を決める一瞬の振れ幅は誰の中にも起こり得ます。
それは人間の中で常に善と悪が戦い続けているからだと思います。
ノーラン作品にはうちにある善と悪との戦いというのは裏のテーマであると思います。
バットマンはヒーローではありますが、そのうちには悪の要素を抱えて葛藤を続けています。
その悪の部分が表出化したのがジョーカーであり、彼とバットマンは裏表とも考えられます。
このように人の中には英雄と卑怯者が同居しており、ノーランはそれを描き続けてきているのだと思います。

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2017年9月11日 (月)

「関ヶ原」 青年VS大人

歴史を題材にした作品のベースになるのは史実であるのですが、それは文書などによる記録であるため、(私的な書簡を以外では)そこに記載されている人物がどのような性格で、どのように考えていたのかというのは実際のところ想像するしかありません。
だからこそ物語の語り手によって、その人物のキャラクターが想像力により膨らませられていくので、語り手ごとに解釈が変わるわけで、それが歴史ものの面白いところと言っていいでしょう。
日本の歴史において戦国時代というのは、歴史の大きな転換点であり、そのため数々のドラマがあります。
そのためいくつもの小説、映画、ドラマでもこの時代が扱われているのはみなさんがご存知の通りです。
その中でもクライマックスと思われるのが、いわゆる「天下分け目の関ヶ原」です。
数え切れぬほどの作品が関ヶ原を扱っています。
この戦いに参加した大名の中でも、それぞれの作品において描かれ方が全く違うことが多いのが、本作の主人公である石田三成でしょう。
徳川方の見方による物語においては、家臣でありながら豊臣家を思うがままに操る佞臣であったりします。
逆に豊臣方から見れば、多くの大名が豊臣を見捨てる中で、最後まで忠義を尽くす者として描かれます。
立場が変わればその人物を評する意見も異なるということの良い例でしょう。
本作の視点はどちらかといえば、豊臣側のものになります。
ですので岡田准一さん演じる三成は、忠義の士として描かれます。
しかしこの三成はなかなかに生きるのが不器用な男です。
忠義であり、自分を律することができる男なのですが、それと同じレベルを周りの者にも要求するところがあります。
なんというか融通の利かない男なのですね。
三成に対する家康が、計算高く狡猾で、また手練手管を駆使できる男として描かれているので、余計にその融通のなさが目立ちます。
人というのは正論だけで動くものではないということが、自分が真面目なだけあって、わからないというのがこの作品における三成像のように見えました。
それでもその青臭さに惹かれる者はいるわけで、それが島左近であり、大谷刑部であり、初芽であったのでしょう。
初芽に対する三成の想いは、まさに少年のようでもあり、それが本作における三成の青臭さをより強めているようにも思います。
想いに純であり、生真面目である。
だから老練で、ずるい大人に勝つのはなかなかに難しい。
生きるためにだんだんと汚れていったのが家康であったのであったのであるならば、三成は汚れていかなかったために死ぬ運命だったのかもしれないですね。

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2017年9月 2日 (土)

「トランスフォーマー/最後の騎士王」 ここまできたら最後まで付き合います

「トランスフォーマー」シリーズもすでにもう5作目。
あと2作は作るということになっているので、もうここまできたら最後まで付き合います。
しかし、相変わらずの盛り混み具合で、ここまで盛り込むのはマイケル・ベイか、ローランド・エメリッヒかというくらいですよ。
オープニングは「トランスフォーマー」らしからぬアーサー王と円卓の騎士たちの戦いが描かれます。
実は人類の歴史にトランスフォーマーは大きく関与していたということらしい。
いやいや、それはもう後付けだよね、とツッコミたくなりますが、このシリーズについては野暮というもの。
そうなのねー、と寛大な気持ちで受け止めてあげましょう。
映像的にはすごいことになっているますが、一作目を観たときほどの衝撃はすでにありません。
最初はこういう密度感があるCGというのは新鮮でしたが、他の作品でもこういう映像は多く使われるようになり、もう見慣れてしまったというのもあります。
あとはもう画面の動きが早すぎちゃって人の認識の速度を超えちゃってます。
最近のこのシリーズは人間が主人公というよりも、オプティマス・プライムが主人公という描かれ方をしていますが、個人的にはこれになかなか馴染めません。
巨大ロボットが主人公という発想に馴染めない(これは日本のアニメなどのイメージが刷り込まれているからかもしれません)。
もうすでに描かれ方としてはロボットというよりは、金属の鎧的なものを身につけている異星人という感じですよね。
ロボットを抜きにしてもオプティマスの性格があまりに高潔で面白みがないからかもしれないです。
真面目すぎるのよ、彼は。
アメリカ人はこういう理想のリーダーというキャラクターが好きなのかもしれないですが、キャラクターに面白みが感じられません。
お話的にはあまりツッコミを入れることを諦めたので、この作品においては思いの外、途切れず見ることができました。
マーク・ウォールバーグなど随所に演技で魅せられる人を入れているからかもしれませんね。
書いて見ると文句ばかりな感じになりますが、ここまできたら最後まで見て観たくなりますね。
どうやって収拾つけるのかなー。

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2017年8月27日 (日)

「ナミヤ雑貨店の奇跡」 自分の人生の意味

こちらは試写会で鑑賞しました。
原作は東野圭吾さんですが、未読です。
まずは見終わった時の感想ですが、脚本がパズルように絶妙なバランスで組み立てられているなということです。
本作は誰か一人の主人公の物語というよりは、何人かの登場人物の人生が絡み合いながら描かれるアンサンブルになっています。
そして現代や過去のエピソードが重なり合いながら描かれるので、かなり複雑な構成です。
けれどもそれでもちゃんとわかるように組み立てらているのですよね。
一緒に行った方は「原作読んでいるから自分はわかったけど、未読で理解できた?」と言いました。
途中ちょっと戸惑うことはありましたが、十分理解できます。
原作からはカットされていたり、加えられたところもあるようですが、2時間強でよく収めたなという感じがしますね。
脚本は斉藤ひろしさんで、この方は「黄泉がえり」を書いた方なので、複雑な物語をわかりやすく構成するのが上手な方なのだなと思いました。

先に書いたように原作は読んでいません。
東野圭吾さんの作品をたくさん読んでいるわけではないのですが、映画化された作品を中心に少し読んだことがあります。
彼の作品に共通しているのが、自己犠牲ということなのではないかなと思います。
自己犠牲というと重々しいのですが、自分の人生がどこか誰かのためになっていると感じられる人生というのは、とても幸せなことだということです。
自分の人生というものは自分のものではあるのですが、自分だけで自分の人生ができているわけではありません。
誰かの人生の影響を受けるし、誰かに影響も与える。
どうせ生きて死んでいくのであれば、誰かの人生に良い影響を与えることができたのならば、いい人生であると言えるかもしれません。
自分だけのための人生は虚しさが残るかもしれませんね。
本作の登場人物たちは、結果色々ですが、共通しているのは自分が誰かのために良い影響を与えられて、そして自分の行為が誰かのために役立ったということを実感することができたということだと思います。
悲劇的な結末を迎えた人もいれば、幸せな人生を送った人もいる。
まだまだ人生これからの人もいる。
けれど誰かによって生かされて、誰かを生かしているということに気づくことができた。
これは幸せなことですよね。
自分の人生が何か意味がある、と思えるから。
人生が虚しいと感じてしまうのは、自分がいる意味を感じられないからかもしれません。
どんなに小さなことでも人の役に立てるということは、自分の人生を豊かにすることなのだなと改めて感じました。

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「スパイダーマン/ホームカミング」 ティーンエイジャー・ヒーロー

「スパイダーマン」シリーズの二度目のリブート作品になります。
「アメイジング・スパイダーマン」(以下「アメイジング」)シリーズは三部作シリーズだと聞いていたのですが、結果打ち切りとなりました。
理由はサム・ライミ版(以下オリジナル)よりも興行成績が悪かったからか、また長いものには巻かれろ(「アベンジャーズ」)ということか、その両方か・・・。
個人的には「アメイジング」はあまり評価をしていなかったので、この結論は歓迎ですけれども。
私は断然オリジナルが好きなのですが、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という作品の中で語られる言葉を体現している物語だからです。
ピーターは得てしまった力を誰かのために使う、しかしそのためには様々な犠牲を払わなければならないというジレンマに常に悩みます。
今でこそ悩むヒーローというのは当たり前になりましたが、その先鞭をつけたのがオリジナルだと思います。
けれども「アメイジング」はオリジナルのピーターよりも、現代的でかつ幼く描かれています。
なんというか、チャラいんですよね。
原作はどちらかといえば幼いとは思いますし、多数出てきた他のスーパーヒーローたちとは異なり10代らしさというのは差別化ポイントであったりします。
けれどもストーリーとしてはオリジナルのように「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ということがテーマにはなっており、「アメイジング」のピーターのキャラクターとのマッチングがよくなかった気がします。
それなのに「アメイジング」の2作目のラストは非常に悲劇的な結末であり、ピーターに自覚を持たせるということだったのかもしれませんが、後味が悪かった感じがします。
今回の再リブートの「スパイダーマン」もさらにティーンエイジャー化が進んでいます。
しかし、今回は成功していると思いました。
あえて「スパイダーマン」が対するのは自分の手の届く範囲の事件です。
原作の「スパイダーマン」は「親愛なる隣人」という愛称がありますが、これは世界を救うヒーローのように遠い存在ではなく、身近な事件の中で人々を救っているのがスパイダーマンであるということを言い表せています。
ティーンエイジャーは大人になりかけていると言っても、見えている範囲はやはり自分の身近なところになります。
今回10代であるスパイダーマンを描くという時に、世界を救うという大きなテーマとせず、身近に起こった犯罪ということにしたのは、距離感が近いヒーローであるということを表現するには良かったと思いました。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」オリジナルや「アメイジング」ほどの葛藤ではなく、今回のスパイダーマンの葛藤も10代らしいものです。
自分が追いかけている犯罪者が好きな女の子の父親だったら?
犯罪者を捕まえたら、女の子は悲しむ。
けれど野放しにしたらたくさんの人が悲しむ。
人の生き死や人生をかけたほどの重さではありませんが、それでも10代にとっては人生を左右すると思えるほどの葛藤です。
その頃合いが今回のティーンエイジャーのスパイダーマンという立ち位置にあっていると思いました。
今後はスパイダーマンは身近な事件を解決していく「親愛なる隣人」でいるのでしょうね。
「アベンジャーズ」には適宜絡んでいくのでしょう。
それはそれで楽しみ。

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2017年8月26日 (土)

「カーズ/クロスロード」 成長を見守る喜び

人気のピクサーのアニメ「カーズ」の第三作目です。
一作目はマックイーンが主人公で、二作目では彼の友人のメーターが主役。
今回の三作目では再びマックイーンが主役になっています。
三作目まで観ると、二作目はサイドストーリーのような感じに見えてきますね。
それで一作目、三作目を一つのシリーズとして見ると、マックイーンの人生の物語のように感じられます。
まるで「ロッキー」もしくは「スターウォーズ」を見ているような。
才能ある若者が自分の道を見つけられないでいるときに師に出会い、自分の進むべき道を見つけて栄光を勝ち取る。
しかし、その栄光は永遠には続かず、やがて若者も歳をとり、再び自分の進むべき道を決めなくてはいけない時期がやってくる。
そのとき才能ある若者に出会い、彼は自分の持っているものを全て教えようとする
「ロッキー」シリーズであれば、師はミッキーで、弟子はドニー(「クリード」)、「スターウォーズ」であるならば、師はヨーダで、弟子はレイになるでしょうか。
これは映画に限らず誰しもが直面する普遍的な話なのですよね。
自分の行く道に迷い、そしてまた退くときに迷う。
退くときに自分が身につけていた技術、知恵、または想い(実はこれが一番大切)というものを、後進たちに引き継げればいかに幸せか。
それはすなわち前線に立っていなくても、自分もそこにい続けていられるような気がするから。
この気分は自分でもわかるんですよね。
この歳になると、現場の仕事はなくなりマネージメントに仕事は写ってきています。
若手と一緒に仕事をしますが、彼らに自分の得てきたものをなんとか伝えたいと思うようになってきました。
それで彼らが活躍して成果を出せればとても嬉しいし、そういうことに喜びを感じることができるんだとも思うようになりました。
おそらくマックイーンもクルーズの中に才能を見つけ、彼女が成長して成果を出せることに喜びを感じられるようになったのでしょう。
ピクサーのアニメって、見た目は子供向けなのですけれど、それが描いている本質の部分はとても大人の心をがっちり捕まえるものになっているのですよね。
だから多くの人に見られる作品になっているのだと思いました。

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2017年8月22日 (火)

「劇場版 仮面ライダーエグゼイド トゥルー・エンディング」 大切な人のためにできること

現在放映中の「仮面ライダーエグゼイド」の単独映画です。
テレビのほうは来週(8/27)に最終回を迎える予定ですが、その前後にまたがる形での劇場版を公開するという珍しい状況になっています(例年は9月末がテレビの最終回でした)。
今まで「仮面ライダー」の劇場版は公開がテレビ本編終了の直前であることが多いことから、テレビの展開との整合性を避けるためパラレルワールドとかアナザーストーリーという設定であることが多いのですが、本作は「トゥルー・エンディング」とタイトルにあるように、テレビ本編と地続きの世界観となっています。
時系列としてはテレビ本編の最終回の1年後という設定のようです。
この劇場版で特徴的なのは、映画に登場する少女まどかが小児脳腫瘍になっており、余命がないかもしれないという設定でしょう。
テレビシリーズ「仮面ライダーエグゼイド」は医療とゲームをモチーフとして作られている作品です。
医療を題材としていますが、テレビシリーズは基本的に子供たちを対象にしているため、直接的に「死」というものを描いているわけではありません(なかなか難しい匙加減であったと思いますが)。
しかし劇場版ではあえて踏み込んで具体的に死を感じさせる病気を具体的に取り上げています。
まどかは手術が非常に難しい脳腫瘍を患っています。
そのような中、突如現れた仮面ライダー風魔は人々とまどかをVRゲーム空間に引き込み、そこで現実とは異なる仮想現実を作ります。
実は仮面ライダー風魔こそ、まどかの実の父親の南雲影成であり、彼は余命いくばくもないまどかが最後は苦しまず楽しい時を過ごせるように仮想空間を作ったのでした。
けれどもその仮想空間は他の人々の人生を犠牲にして成立しているため、仮面ライダーエグゼイドらはそれを阻止すべく戦い、やがて仮想空間はっ消滅します。
けれども消滅する仮想空間のなかで、まどかひとりだけはそこにとどまろうします。
彼女の病気は天才外科医である鏡飛彩の手術により治せるのですが、そのためには意識が現実世界に戻らなければなりません。
まどかは彼の実の父親が彼女のために仮想空間を作ったと知っており、父親が喜ばせるためにそこにとどまろうとしたわけです。
やり方が間違っているにせよ父親がわが子のことを想い、また子も親のことを想う。
テレビシリーズとは異なり死というもの間近に描き、そういう状況においても親と子がそれぞれに想い合うというところに、ほろりときてしまいました。
自分に子供ができたからかもしれません。
親が子供のためにすべてを犠牲にしても何かを行おうとする、そういうことを描く物語は今までもいくつも見たわけですが、それを頭ではわかっていても、子供がいなかったときはそれを実感として感じられていたかというと疑問です。
やはり実際に子供ができると、理屈を抜きにしてそのように子供を想うということが身に染みてわかるようになりました。
また子供からもそのように自分のことを想ってもらえたと感じられたとき、どんなに幸せな気持ちになるかということも。
「エグゼイド」という作品は登場人物が多く、物語も複雑なので、テレビシリーズも劇場版も表面的にはとっつきにくいところがあります。
またゲームという題材の側面からくるポップさ、トリッキーさみたいなところも目立つのですが、その根本は医療からくる命の大切さ、人々がそれぞれを想う気持ちにあるように思います。
大切な人のために自分は何ができるのか、ということ。
それが「エグゼイド」のテーマかなと。
そのテーマが強く出ていた劇場版となっていました。

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