2018年11月 1日 (木)

「億男」 やはりお金は難しい

「宝くじが当たったら何をする?」なんて話になったりすることもありますが、なかなか答えに困ります。
世界一周旅行?
出不精なので旅行を計画するのが面倒くさかったりするし、海外行くと色々心配しちゃうので気苦労ばかりが多くて、あまり楽しめないので、ちょっと・・・。
高級車?
最近あまり車を運転することがなくほとんどペーパードライバーだし、運転するのは意外と神経使って疲れるので、ちょっと・・・。
ブランド物を買う?
そもそもブランドをよく知らないし、ブランド物身につけている自分が想像できないので、ないかな・・・。
我ながらつまらない男だな、と思いますが、思いつかないものはしょうがない。
宝くじが当たってしまったことによって、身を滅ぼすという話も聞きますし、なんか当たってしまうことも怖い(当たるわけないですが)。
サラリーマンの生涯収入は2.5億円くらいと言われていますが、本作の一男が当たったのは3億円。
一生働かなくても生きていけそうな気がしますが、そうはいかない。
1億円の億ションみたいな大きな買い物をしてしまったら、もう一生分には足りない。
そこまで大きな買い物をしなくても、宝くじが当たってしまうと気が大きくなって、少しづつ高いものを買ってしまいがちになってしまうらしい。
そうなると結局は生涯収入2.5億円で回せるはずが、3億円でも足りないってことになる可能性も。
そう考えると3億円って額はかなり微妙。
大金持っているのに汗かいて働くっていうのは、なかなか意志が強くないとできにくい。
働かないと生きていけないから、それが原動力になる。
生きていくのに必要な金を稼ぐというのは、強いモチベーションの一つ。
それがなくなってしまうと、働くことに別の意義を求めないと務まらないですよね。
そう考えていくと、3億円なんて当たると困りそうなので、買わないというわけです。
お金というのはなければ困るし、ありすぎてもまた別の困ったことがある、なかなか難しいものですよね。
お金は物質的にはただの紙だったり、金属片だったりするわけですが、物質的にそれが価値があるというわけではありません。
印刷されている紙が、いつでもそこに書いてある額に見合った価値のものと交換できるという、皆の共通認識があるからこそ、そこに価値があるわけです。
この共通認識というのが曲者で、お金の額に見合った価値が上がったり下がったりするわけです。
これが為替ですね。
お金は何が起ころうとも変わらない絶対的な価値基準を持っているわけではありません。
例えば、人間が滅びても物理法則が変わらないというような。
絶対的ではないのにも関わらず、現代のすべての人間の活動はお金を基準に営われている。
これがお金をわけわからないものにし、また人を不安な気持ちにさせることなのだと思います。
人間の活動を評価する唯一の価値基準であるのにも関わらず、絶対的ではないので人を不安にさせる。
持っていても不安になる。
だからもっともっとと思ってしまう。
この作品に登場する人物は、それぞれがそれぞれのお金観を持っています。
百瀬はお金を儚いものとして見ているし、千住はお金を万能のものと見ている。
十和子はお金を安心材料として見ている。
どれも正しいように思えるところが、お金が正体不明であるということを表しているのかもしれません。
自分自身もお金のことをどう考えていいのやらわかりませんが、それだけに振り回されてしまうのは嫌だなと思います。
一男の妻が、借金のせいでお金のことしか考えないようになってしまったと言います。
一男の場合は借金ですが、千住などはお金持ちですがお金のことしか考えてません。
これが幸せなのか不幸なのか。
そうかといって生きていく分だけあればいいというように考えるほど、達観しているわけでもないのでもないのですよね、自分は。
なくても困る、あっても困る、やはりお金は難しい。

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2018年10月31日 (水)

「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」 そもそもメジャー狙いが間違い

公開後の評判がものすごく悪い本作、私はたまたまですが初日に観に行っていました。
三木聡監督の作風はちょっと独特なところあります。
不条理な設定や展開だったり、ちょっと世間からズレているキャラクターだったり。
本作でいうと主人公が住んでいる怪しげな人が集まっているエリアとかなどは現実的ではないですよね。
けれど、それが現実の吉祥寺の近くにあるような風に描いている。
何か日常とそこからちょっと斜めにズレているところが同居していう不可解な感じが三木ワールドだと思います。
この独特の不可解さというのは、なかなか一般ウケはしにくいでしょう。
深夜枠で放送するにはいいけど、ゴールデンタイム枠では無理という感じと言いましょうか。
この作品の評判がすごぶる悪いのは、こういう一般ウケしにくい三木ワールドなのにも関わらず、メジャーな売り方をしてしまったということでしょうか。
元々はこういう三木ワールドのテイストにはぴったりな阿部サダヲさんですが、今ではすっかりメジャーな俳優の一人です。
また吉岡里帆さんは今を時めく女優さん。
この二人が主演ですから、メジャーな売り方をしたくなるのはわかります。
けれどそういうメジャーな売り方をしてしまうと、三木ワールドの味わいがわからない人も見てしまうわけです。
普通の邦画を見慣れている人にとっては、なかなかこの作品はうまく味わいにくい。
最近の邦画は予定調和というか、見る側にあまり負担をかけない素直な作り方をしているものが多いですよね。
そのような作品は映画を見慣れていない人が劇場に足を運んでくれるようにするにはいいとは思うのですけれど。
けど、この作品というか、三木監督自体はそういうタイプの監督ではないと思います。
なんというか、歌舞伎町の裏の方でとてもおいしくて知る人ぞ知るの店が、間違って新宿の駅ビルに店を出してしまい「コレジャナイ」と一見のお客に言われてしまった感じというか。

作品の話ではなく、売り方の話をしてしまいましたが、個人的には三木監督の作風はキライじゃないので全くダメということではありません。
とはいえ今までの三木作品に比べると逆に切れ味が少ない感じがしました。
もっと世間とのズレた感があったほうが好きです。
作品もちょっとメジャーな方にずらしたのだけど、中途半端だったというところでしょうか。
三木監督にはTOHOシネマズでかかる映画ではなく、テアトルとかでかかるような作品を目指して欲しいです。

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2018年10月20日 (土)

「食べる女」 女ってたくましい

女性は誰もが「おいしいもの」に目がない。
何人か女性が集まって話していると中身の多くは食べ物の話だったりする。
すなわち「どこの店が美味しかった」とか、「今度どこそこに食べに行こう」とか。
あとは恋バナ。
自分を含め男性だけで集まった時に、食べ物の話でずっと話題が続くなんてことはほぼない。
恋バナもしかり。
根本的に女性と男性は興味関心ごとが違うのではないかと思ってしまう。

当たり前だが「食べる」ことはすなわち「生きる」こと。
食べなければ生き続けることはできない。
恋というのは、セックスにつながり、それは子を産むということにつながる。
これも生命の根本。
いずれもそれを行うことにより心と身体を満たすもので、人間の根源的な欲望だ。
非常に女の人の興味関心というのは、生命というものの本質につながっているような気がする。
それに比べると、男性の興味関心は生きるという根本よりももっと社会的な地位とか名誉とかそういった上っ面なことのようなことが多いように思える。

本作は食べること、そして男と良い関係(セックスを含め)を作るという女性の根本的な欲望について、何人かの女性の生き方を通じて描いている。
彼女たちの生き方は欲望に素直であり、それだから堂々としている。
色々と悩み欲望に素直じゃない女性もいたが、結局それを受け入れることで素敵に輝くように見えた。
そのような女性たちに比べ本作に登場する男たちは何故かいわゆる男性らしいたくましさは感じない。

主人公敦子の家の庭にある枯れ井戸は「女」そのものを象徴しているのだと思う。
枯れているように見えても、底の下には脈々と水が流れている。
年を取っても、男なんてもうウンザリと思っても、幸せすぎる環境でも、心底おいしいと思える恋を、男を求める心はやはり脈々と女の身体の奥底にはあるのだ。
それは女の性でもあり生でもある。
根源的なことだからこそ、強い。
たくましい。
そもそも小学生の女の子たちから物語はスタートし、彼女たちが脈々と流れる地下水の話をする。
そもそも女という存在が、そういった生きることに基づく性を生まれながらに持っていることの象徴でもあるのかとも感じた。
どんな状況でも、女性たちは生に基づく欲望に忠実な限り、たくましく生きているのだと思った。
これは男性にはないたくましさなのだと思う。

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2018年10月14日 (日)

「SUNNY 強い気持ち・強い愛」 コギャル文化の特殊性

公開開始後ずいぶん経ってから劇場に行きました。
お客さんは7〜8割くらいは女性だったと思います。
1990年代「コギャル」と呼ばれた女子高生たちがイキイキと文化を牽引していた時代。
そんな時代に「SUNNY」という仲良しグループを結成していた女子高生たち。
それから20数年経ち、彼女たちは一人の仲間をきっかけにして再開します。
隣に座っていた女性は、かなり前半から泣いていました。
確かに、主人公ががんを宣告された友人に出会い、それから他の仲間たちを探していく中で、心に響くエピソードはあります。
けれど泣くほどではなかったと感じたのですが、よくよく考えてみると「あの時代」を自分ゴトとして受け止められるか否かがこの作品の評価につながるのではないかと思いました。
隣の女性は(しっかり顔を見たわけではないですが)30〜40くらいの方だったように思います。
ちょうど主人公くらいの年齢だったのかもしれません。
彼女はちょうど「あの時代」を生きていた人だったのかも。
私は90年代は社会人になったばかりの頃で、「コギャル」と呼ばれた女子高生たちのスタイルは、自分からしてすでに異世界な文化に見えました。
彼女たちの象徴的なアイテムとしてルーズソックスがありますが、なんであれがカワイイのかがわからなかったですからね。
足首の太さを隠すためじゃないかと邪推したものです。
本作に登場する女子高生たちを見ていても「確かにこんな感じの娘たちはいたな」とは思いますが、自分が懐かしむような感覚は持てませんでした。
映画で過去のある時代を描く話というのはいくつもありますが、それによって共感性がないというわけはありません。
例えば自分自身は80年代がティーンだったわけですが、60年代を描いているからといって感動しないわけじゃない。
何かしら時代とは関係がない共通の感覚があって、それが共感性を引き出すのだと思います。
しかし、本作でいうと「コギャル」という存在が文化的にかなり特殊であるというように描かれていて、他の時代を生きた人からすると、その特異性により共感が阻害されているのではないかと感じました。
もちろん普遍的な人の気持ちが描かれていないわけではありません。
ジンとくる場面もいくつかありましたが、でもコギャルの圧倒的な存在感にちょっとひいてしまう感じがしました。
唯一登場キャラクターで共感しやすかったのは奈々でした。
彼女はコギャル文化の中に生きながらも何か冷めたところも持っている子であったので、逆に自分からするとわかりやすく、なじみやすいところがありました。
演じる池田エライザは演技をするのはほとんど初めて見ましたが、いいですね。
モデルをやっている女子高生という役柄ですので、それにあった存在感がありましたし、少し影のある役も似合っていたと思います。
「コギャル」文化の特殊性が際立っているため、個人的には共感が薄かったと書きましたが、この時代をリアルタイムで高校生として過ごしていた方が見たら、違って捉えるのでしょうね。
自分の奥さんはこの時代を生きた人なので、見せて感想を聞いてみたいと思いました。

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2018年10月 1日 (月)

「散り椿」 日本人の美意識

この作品の前に観たのが「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」。
それぞれの作品が持つ価値観が、あまりに違うのでギャップに戸惑います(笑)。
本作はまさに日本人が(かつて持っていた)生き方の美意識を描こうとしていると言えるでしょう。
大義のために自分の命を犠牲にしようとする。
愛する人の想いを叶えるために自分の人生を賭ける。
友を救うために自分の命を捨てる。
誰かのために自分の想いを伏せる。
本作に登場する人物は皆、人のために自分の大切なものを犠牲にします。
それは自己犠牲的であり、極めてストイックな生き様です。
自由であることを重要視する現代に生きる人から見れば、それはとても不条理に見えるかもしれません。
人に縛られ、家に縛られ、藩に縛られる。
全く自由とはかけ離れているようにも思えます。
しかし、果たしてそうでしょうか。
彼らは皆、その生き方を自分で選んでいます。
人のため、大義のために自分の人生を賭ける。
それを選んでいる。
それはある意味、自由であるようにも思えます。
不自由な生き様に見えながらもその生き方に美しさを感じてしまうのは日本人だからでしょうか。
本作で描かれる映像は一言で言えば「静」でしょう。
人々の佇まいも静かです。
彼らが暮らす家にも街にも自然にも、余計なものはありません。
時代劇ですので殺陣も当然ありますが、極めて抑制的です。
チャンバラではありません。
主人公新兵衛が振るう剣は、一瞬。
瞬間的剣を抜き、相手を斬る。
まるで無駄がありません。
人々の想いもあからさまではありません。
言葉少なに自分の心よりも相手の想いを尊重する生き方。
これも抑制的であると言えるでしょう。
しかし重ねて書きますが、抑圧的ではないのですよね。
本作で描かれているのは余計なものを全て排除した時に残っている人の純な想いと言えるでしょう。
無駄なものが削ぎ落としているからこそ、それが純粋で美しく見える。
それが日本人の美意識なのかもしれません。

冒頭に書いた「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」と比べると全く逆で面白くもあります。
「マンマ・ミーア!」で描かれるのは自分がやりたいように人生を謳歌する自由さが描かれ、劇中ではアップテンポな音楽が流れ、ポップな色彩に溢れています。
対して「散り椿」では、人のために自分の人生を賭けるストイックさが描かれ、劇中の音楽は静かで、色彩のトーンも無彩色のように抑えられています。
どちらの生き方が良いかどうかではなく、作品それぞれの価値観が映画を表現する全てのものに反映されていることが興味深かったです。
このような視点も非常に面白い見方ではないかと思いました。

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「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」 奔放な娘

大ヒットしたミュージカル映画「マンマ・ミーア!」の続編です。
前作が公開されたのがちょうど10年前。
もうそんなに経ってしまったんですね。
始まってちょっとびっくりしたのは前作でメリル・ストリープが演じていたドナが亡くなっているという設定でした。
あれ、予告に出てこなかったっけ?

前作を観たのが10年前だったので、あまり内容を覚えていなかったのですが、女子話で盛り上がっている印象で、そのためかちょっと置いてかれていってしまったような気分だったように思います。
洋楽は全く詳しくないので、ABBAと言われても聞いたことあるなーという感じでしたし。
ですのでミュージカル映画は好きな方なのですが、それほど乗れなかったように記憶しています。
その印象は本作でも同様でした。
本作はドナの遺志を継ぎ娘のソフィアがホテルを改装オープンしようとする現代パートと、ドナが初めて島を訪れてソフィアの3人の「父親」に出会うかこの話を平行に描いています。
前作のドナと友人たちはかなりかしましい感じがありましたが、過去パートで描かれるドナと友人たちも若さもあってか、さらにかしましい。
時代の影響もあるのかもしれないですが、若かりしドナは非常に奔放で自由。
新しいものを見てみたい、自分にふさわしい場所を見つけたいという気持ちで世界をめぐり、ギリシャのある島にたどり着きます。
そこで将来ソフィのパパとなる3人と出会うわけです。
3人がパパ候補ということは、それなりのことはなされているわけで。
ほんと奔放です。
けれどドナは流されるわけではなく、すべて自分の意思と感情に基づいて行動をしています。
誰かのためではなく、自分のため。
それはそれで有意義な人生ですよね。
自分自身が共感できるか、というとそうではないのですけれど。
ですのでキャラクターに共感できて面白かったという印象は持ちませんでした。
これは前作と同様です。
男性と女性では本作の受け止め方は違うのかな。
監督はロブ・パーカーで、私は全く知らない方でした。
ミュージカルは初めてなのかな、ミュージカルパートの演出はいまいちだったような気がします。
ちょっと古臭かったかな。

あと久しぶりにアンディ・ガルシアを観たら、すごいカッコいいおじいさんになっていましたね。
こういう風にカッコよく老けられるといいです。
若い時よりもカッコ良い感じがしました。

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2018年9月29日 (土)

「MEG ザ・モンスター」 意外にも王道アクションスリラー

「ジョーズ」の大ヒット以降、人食いザメと人々の戦いを描くスリラーは数多くありますよね。
なぜ多くのサメ映画が作られているのでしょう?
それはスリラーとして魅力的な設定だからなのだと思います。
魅力的である理由の一つは、戦いのフィールドが人間が住まう陸上ではなく、海ということでしょう。
海では人間は努力をしなくては生き続けることはできません。
当たり前ですが水中では呼吸もできませんし、魚のように自由に動くこともできません。
つまり海は人間にとって完全にアウェイな環境であるということです。
また海上では海中に何がいるか全く人にはわからないということですね。
人間にとって目は、敵を捉えるのに最も有効な感覚器官ですがそれが海では封じられるのです。
海上から海中を見通すことはできないですし、海中に入ったら入ったで暗くて何も見えない。
海中に暮らす生物は、音波であったり、水の動きなどを捉えて、敵を捕捉しますが、人間にはそれはできない。
ソナーで敵を捉えることはできるかもしれませんが、見えない分、かえって恐怖は増してきます。
そして最後にサメというのは、生物史上でも最も凶暴と言われる生き物です。
情け容赦などなく目の前にいる生き物を飲み込んでいく殺戮マシーン。
人間などひとたまりもありません。
生存する上で厳しい場所で、状況もわかりにくい中、そして人間が太刀打ちできない凶暴なモンスターと相対する。
スリラーとしては申し分のない状況設定ですよね。
それがスリラー映画の題材としてサメが取り上げらる理由だと思います。
カンのいい方はわかるかもしれませんが、これまでの話の海を宇宙に変えると、「エイリアン」になるのですよね。
まさにスリラーの王道というわけです。

このように数多くあるサメ映画ですが、そうは言ってもその多くはB級映画。
B級にすら届かないトンデモ作品も多くあります。
本作もそのような類かなと思っていたら、意外や意外結構楽しめました。
さすがにA級とは言いませんが、普通にアクションスリラーとして楽しく観ることができました。
それも基本的には「エイリアン」のような王道のスリラーの構成をとっているからでしょうね。
原作は随分前に読んだことがあり、こちらも面白かったと記憶しています(内容はすっかり忘れていますが)。
エンドロールで初めて知りましたが、監督はベテランのジョン・タートルトープ。
しっかり作ってあるのも納得です。

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2018年9月22日 (土)

「プーと大人になった僕」 何にもしないことをする

正直言って、むかーしのディズニーのアニメーションはほとんど見ていません。
「シンデレラ」とか「白雪姫」とか、そして「くまのプーさん」も。
子供の頃は「ウルトラマン」や「仮面ライダー」や日本のアニメの方に夢中だったんですよね。
もちろん、それらディズニーのアニメのお話はしっています。
絵本やら何やらを読んでいたからでしょう。
「くまのプーさん」については絵本を読んだ記憶があります。
はちみつ食べ過ぎて、家から出れなくなったエピソードとか。
赤い風船のイメージもありますね。

大人になると時間が限りあるものだと知ってしまいます。
やらなきゃいけないことは山のようにある。
仕事もそうだし、家族のことも、その他のことも。
時間は限られているから、そういうやらなきゃいけないことをやるために細かに計画を立てる。
スケジュールを作る。
けれどもそれでも回らなくなって、何かを犠牲にしてしまう。
時間をうまくコントロールしようとしているのに、逆に時間に振り回されてしまったりする。
子供の頃は、時間が限りあるものなんてあまり思っていなかったかもしれません。
今日できなかったら明日やればいいし。
だからやりたいことを今日やる。
なーんにもやらずに、ゴロゴロしていることもある。
明日やればいいから。
大人になったら、こんなことはできません。
仕事でも効率化と叫ばれ、どれだけ生産性を上げられるかとことを考えてばかりいます(大事なことですけれどね)。
空いてる時間にぼーっとしていると何か悪いことをしている気になってしまう。
いつしか疲れ果てて、なんのために効率化しているのかもわからなくなってしまったりもするかもしれません。
ほんとは自分のしたいことをする時間を作るためだったのに。
「何にもしないことをする」とかつて子供であったクリストファー・ロビンは言いました。
今の時代、ほんとそういう風に覚悟をして「何もしない」ということをすることが大事なのかもしれないですね。
そういう風に時間を使うと、走りながらでは見えないことが見えるかもしれません。
意識的に立ち止まることもしなくてはいけないですね。
まさに「何にもしないことをする」です。

本作は時間が合わず、吹き替え版で観ました。
私は基本的には洋画は字幕派なのですけれども、本作は吹き替え版もよかったですね。
クリストファー・ロビンの声をあてていた堺雅人さんがこのキャラクターのイメージにぴったり。
このキャラクターは大人にはなっているけれど、かつて純粋だった少年の心をかすかに持っているところがあるのですよね。
それが堺さんのイメージと非常に合っていました。
いいキャスティングだったと思います。

あとイーヨーのすごいネガティブなキャラクターが面白かったですね。
全てを悲観的に捉えてる!
ここまでネガティブだと清々しくも感じます。
アニメ版でもこんな感じなのかな。
ちょっとアニメ版見てみたくなりました。

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「スカイスクレイパー」 粘着テープはなんでもできる

これからは一家に一つは粘着テープは常備ですね!
これはこの映画を観れば、何を言っているかわかります(笑)。
一つだけ言うと、「ミッション:インポッシブル」のトム・クルーズはハイテクの吸盤グローブでしたが、本作のドゥエイン・ジョンソンはローテクの粘着テープってこと。
ドゥエイン・ジョンソン主演のアクション大作なので、細かいことは言いっこなしで楽しむのが良いですね。
ビルの中にテロリストたちが侵入し、その中に閉じ込められた男が家族のために孤軍奮闘するというお話は、かの名作「ダイ・ハード」を彷彿させます。
本作は「ダイ・ハード」ほど脚本が練り上げられているわけではなく、もっとストーリーは荒っぽい。
ストーリーもアクションも見た目も、大衆的なウケを意識しているように派手なのですよね。
これは製作しているレジェンダリーフィルムの元々の傾向ではあるのですが、中国企業に買収されてからは益々その傾向は強まっている気がしますね。
彼の国ではこういうタイプの映画が受ける傾向があります。
それはさておき、本作では”ロック様”が巨体と溢れんばかりの愛を駆使して、ありえないことを成し遂げる姿を堪能するべきでしょう。
いつしかこの方は大衆向けアクション映画のヒーローになりましたよね。
ドゥエイン・ジョンソンはタフネスさと同時に、優しさを感じさせるところがちょっと他の人とは異なるところでしょうか。
大きな体による包容力というか、守られている感じがするというか、そんな頼り甲斐があるのですよね。
この人なら絶対守ってくれる!という感じがします。
それがどんな無理筋の状況でも安心して観れる所以でしょうか。
あまり考えず”ロック様”の愛に身を委ねるのが良いでしょう。
ただし、高所恐怖症の方は要注意。
私は高いところ苦手なので、途中は非常にお尻のあたりがムズムズするような場面がありました(汗)。

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2018年9月17日 (月)

「ザ・プレデター」 矮小化されていくプレデター

「プレデター」シリーズというのは、もともとB級の映画ではあるのですが、今回のはB級にすら到達していなかったような。
オリジナルの「プレデター」も映画としては、少々乱暴なつくりなのですよね。
前半は「エイリアン」的な未知の生物に襲われ追い込まれていくサスペンス感があり、後半はシュワルツェネッガーらしい「コマンドー」なテイスト。
当たった映画のエッセンスをくっ付けたようで、前半、後半でややトーンが変わっているところが乱暴な感じを受けるところなのですが、プレデターというキャラクターの唯一無二なオリジナリティが雑さを補って余りあるのですよね。
荒っぽいつくりなところがB級映画らしい所以で、だからこそ愛すべき作品になっていると思います。
実際初めて見たときはそれほどぐっとこなかったのですが、何度も観て好きになっちゃったんですよね。
「プレデター2」はシリーズの中では一番好きな作品なのですが、それはこれが一番ストーリーとしてはしっかりとしているから。
人間がプレデターに狩られるというエッセンスは保ったままで、プレデターとは何なのか?という謎に迫ろうとしているのがこの2作目です。
一作目はそもそもシリーズ化しようなどという意図はなかったでしょうからプレデターという存在にはほとんど説明はありません。
獰猛でありながら、知恵とテクノロジーを持った狩猟者。
そこだけ。
しかし、「プレデター2」によってプレデターの設定がしっかりと成された。
それがその後のシリーズ展開に繋がっていきます。
しかし、その後のシリーズは卓越したものはなかったように思います。
「エイリアンVSプレデター」の2作品は映画のシチュエーションとしては驚きましたし楽しめましたが、それだけと言えば、それだけ。
どちらかと言えば、イベントムービーのような趣だったと思います。
「プレデターズ」は観た時は楽しんだと思うのですが、何年か経つとさっぱりストーリーが思い出せない。
あまり印象的な作品ではなかったようです。
さて本作「ザ・プレデター」ですが、観ている時から新しさは感じなかったですね。
アクションはそれなり、キャラクターもそれなりでこれといった惹きつけられるポイントがありませんでした。
「AVP」的なイベント感もありませんでしたし。
たぶんストーリーと設定がいけなかったのではないでしょうか。
戦うために進化していくという設定は、どこかで既視感があります。
プレデターのライバルのエイリアンがそうなのですよね。
あちらも人間の遺伝子を取り込んだハイブリッドが登場しています。
あちらにも通じることなのですが、人間の遺伝子を取り込んで最強になるなんて、人間が一番と思っている思想なのではと思ったりもします。
人間など歯牙にも掛けないモノだからこそ、恐ろしいわけなのですよね。
人間と通じるところが出てくると急に矮小化してしまう。
いくら3メーターのプレデターといっても倒せそうな気がしちゃうわけです。
最初のプレデターは絶対倒せなさそうでしたもん(あれはシュワルツェネッガーだから倒せた!)。
そういう圧倒的な感じがなくなってしまったから、このシリーズはだんだんとこじんまりとしてきたのではないでしょうか。
人間がおよびもつかない存在であるということがやはり緊張感を生み出す。
そう言えば「ゴジラ」もそうでしたね。

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