2020年1月13日 (月)

「カイジ ファイナルゲーム」 ハイテンション!

藤原竜也さん主演の「カイジ」シリーズの9年ぶりの新作です。
全2作についても楽しく鑑賞できたので、とても楽しみにしていました。
監督も主演もそのままですので、作品のテイストも変わることがないのが嬉しいところです。
まずは主演の藤原竜也さんです。
元々舞台出身ということもあり、演技はナチュラルというよりもオーバーなのが彼の特徴です。
ですので、こういうハイテンションな作品に藤原竜也さんは非常によく合いますね。
顔を真っ赤にしてセリフを全力で吐き出すように話すところなどは彼らしさがすごく出ていました。
彼のようなタイプの俳優さんは多くはないので、非常に貴重な方だと思います。
カイジは彼のフィルモグラフィの中でもはまり役の一つだと思います。
カイジの相手役となるのは、吉田鋼太郎さん。
今までも香川照彦さん、伊勢谷友介さんが敵役となっていましたが、吉田鋼太郎さんがまた憎らしくて良いです。
藤原竜也さんがハイテンションなので、敵役もやはりそれを受け止められるパワーが絶対に必要です。
吉田鋼太郎さんはシェイクスピアの舞台などをやられていた空ですので、大仰な芝居(良い意味で)は得意とするところ。
最終作での藤原竜也さんとの相手役としては申し分ありません。
ラスボス的な役割として出てくるのは福士蒼汰さん。
今まではあまりこのような悪役は演じられていなかったと思いますが、藤原さんに影響されてからなかなかなハイテンションであったと思います。
描かれるのが非現実的な世界であるので、俳優陣のテンションが作品の全体に大きな影響を与えていると思います。
このシリーズはそれがうまくできている。
ストーリーとしては、前2作に比べると舞台装置としては大きかったものの、緊張感は少なかったようにも思います。
人間秤のパートが長かったからでしょうか、カイジの仕掛けなどの種明かしが後半に集中したので、途中の緊張感がやや今までの作品に比べると薄いようにも感じました。
もっと胃が痛くなるような緊張感があった印象なのですよね。
前作よりはドラマ部分が強化されているような感じがしました。
それはそれで楽しめたので、映画としては全然成立していると思います。
今までの作品のテンションを期待するとちょっと物足りなく感じるかもしれません。

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2020年1月12日 (日)

「カツベン!」 彼らの役割

今年の最初の記事はこちら、「カツベン!」です。
タイトルの「カツベン」とは「活弁」、すなわち「活動弁士」のこと。
かつて日本で映画が「活動写真」と呼ばれサイレントであった頃、それに活弁と呼ばれる弁士が状況やセリフを喋り、説明をしていました。
映画そのものよりも、弁士その人のうまさや人気の方が劇場にとっては重要であったということです。
欧米では活弁という職業はなく、無声映画にはバックにオーケストラがかかっていました。
状況やセリフをいう活弁という日本独自の職業は、浄瑠璃などからくるナレーション文化の流れを汲むものと言われています。
無論、映画がトーキーになってしまえば、その役割は必要なくなってしまいます。
活弁が活躍する時期は40年間程度でしょうか。
私が本作で印象的であったのは永瀬正敏さんが演じる山岡秋声というキャラクターでした。
山岡は主人公染谷俊太郎が憧れていた活弁でしたが、染谷が出会ったときは舞台に上がってもあまり喋らない弁士となっていました。
彼は映画はそれ自体が語りたいことがあるから、活弁が好き放題に面白おかしく説明するのは良くないと考えるようになっていたのです。
もしかすると、彼は映画が自分自身を語り始める(すなわちトーキーになる)ことを予見していたのかもしれません。
とはいえ、無声映画をイキイキとさせ、より人々を楽しめることができた活弁の役割を否定するものでもないと思います。
映画のラストで、事件により多くのフィルムを消失させてしまった染谷たちは、残ったフィルムを繋げ合わせ劇場にかけます。
当然残ったフィルムを繋げただけなので、そこにはストーリーなどはありません。
しかし、辻褄の合わないフィルムを染谷は活写し、観客たちを魅了します。
彼の喋りがただの寄せ集めのフィルムに生命を与えたかがごときでした。
活弁とはいずれ消えていく仕事であったのかもしれません。
映画自体が言いたいこととは異なることを話していたのかもしれません。
しかし、映画が人々の楽しみとして普及していく過程において重要な役割を担ったということは確かであったのだろうと感じました。
現在にも何人か活弁を生業としている方はいらっしゃるようですね。
いつか、彼らの仕事を観てみたいとも思いました。
通常の映画体験とは異なる体験ができそうです。

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2019年12月30日 (月)

2019年を振り返って<映画>

さて年の瀬も迫りましたので、恒例の今年2019年の映画の振り返りをいたします。
今年の鑑賞本数は57本で、昨年から微増です。
結構劇場に足を運んでいる方だと思ったのですが、昔のようには数はいけないですね。
 
さて今年のベスト10の発表です。
 
今回は洋画に偏っていますね。
邦画は2本しかランクインしていません(1本はアニメーションですし)。
今年は邦画を見ている本数がそもそも少ないということもあるのですが。
1.「アベンジャーズ/エンドゲーム」
まずはこちらです。
20作以上作られているMCUのインフィニティ・サーガを締めくくる大作です。
一部巨匠からは「こんなの映画じゃない」と言われていますが、そもそも彼らが若い頃、彼ら自身もそう言われていたではないか、と言いたくもなります。
いわゆるアートではなく、美術館に飾られるタイプの作品ではないですが、サブカルチャー・ポップカルチャーが評価されている現代においてアートではないという点で非難するというのは頭が硬いと言わざるを得ません。
とは言え、この作品はそのような非難などはモノともせず、圧倒的なストーリーとスケール感のある映像で大シリーズのラストを飾りました。
またインフィニティ・サーガの主人公ともいえるトニー・スタークの最期は、彼がこのシリーズで成長してきた人生そのものを表しているようで、ずっとこのシリーズを見続けている私とっては涙せずにはおれませんでした。
来年の「ブラック・ウィドゥ」からフェーズ4がスタートします。
またMCUはスケール感のある世界を見せてくれることでしょう。
2.「天気の子」
「君の名は。」で一気にメジャーネームとなった新海監督の最新作です。
光を巧みに使った映像は相変わらず美しく、そしてその光がストーリー上でも重要な意味を持ちます。
前作でもそうでしたが、男の子と女の子が互いに大事に思い合う気持ちの強さをテーマとしています。
ピュアであるその気持ちは世界そのものと引き換えにしてもいいと思えるほど強い。
彼らのピュアさがあまりにキラキラとしていてとても眩しく見えました。
3.「スパイダーマン:スパイダー・バース」
これはあまり期待せずに見に行ったのですが、今までのアニメーションにはないポップな映像に目を奪われました。
コミックの「スパイダーマン」では異なるユニバースに異なるスパイダーマンがいることになっていますが、本作では彼らが一同に会します。
本作は批評家的にも興行的にも好評だったようで、続編の企画がスタートしています。
その中で東映版の「スパイダーマン」が登場するという噂もありますが、果たして・・・?(レオパルドンも?)
4.「蜜蜂と遠雷」
邦画の実写で唯一ランクインしました。
非常に美しい映画だと思いました。
世界というものは人によって実は異なる姿で見えているかもしれない。
音楽家や演奏家は音を通じて世界を繊細に捉える。
彼らが感じている世界を少しでも感じることができるのが音楽なのだと思いました。
5.「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」
色々と言われていますが、私はJ.J.エイブラムスの手腕を評価したいです。
それまでの作品の展開を受け、納得できるフィナーレを迎えることができたのは、J.J.がいたからこそだと思います。
5.「イエスタデイ」
最近よく作られているミュージシャンの伝記物ではありません。
音楽をテーマにしていますが、そこで描かれているのは過ちをする自分を含めて、全てを肯定的に捉えるというスタンスです。
スーパーヒーローでも天才でもない普通の人々の人生も捨てたものではないということです。
6.「アド・アストラ」
これは一般受けはしないでしょうけど、個人的な趣味です。
このようなハードSFの作品はなかなか作られないですが、私は大好きなのです。
ハードSFは科学を扱いながらも、そこで描くのは人間の本質を描くことが多いです。
本作においても地球を遠く離れた地で剥き出しにされるその人の本性というものを描きます。
人間を深く考えるにあたり、SFは最適な舞台装置だと思います。
7.「アラジン」
ディズニーのアニメの実写化作品ですが、ガイ・リッチーの演出がさえ、カラフルでテンポの良いエンターテイメントに仕上がっていると思います。
また現代らしくジャスミンの気持ちにも踏み込んだストーリーとなっていて、その点でも共感性が高い作品となっています。
8.「グリーンブック」
これは主演二人の演技がとてもよかったですね。
価値観が異なる二人のロードムービーという設定ですが、彼らが次第に相手をリスペクトしていき、通じ合っていく様子がとても心に響きます。
 
9.「ジョーカー」
多くの人がもっと上にランクインさせるとは思いますが、私はこのくらい。
非常に考えさせる映画であることは間違いありませんが、見ていてカタルシスはあまりありません。
続編という話もあるようですが、やめておいた方がいいのでは?
さて最後に今年のワーストを3作品です。
全く原作の良さを活かせず、中途半端な設定改編により何をしたい映画なのかがわからなかったです。
「スカイウォーカーの夜明け」を批判する方にはまずこの映画をしっかり評価してほしい。
全くもって新しさを感じられない。
B級だろうと思って見に行ったら、それ以下でびっくりしました。
それでは来年もよろしくお願いします。

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2019年12月29日 (日)

「仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」 新しい時代のスタート

いつしか「平成仮面ライダー」と呼ばれるようになったシリーズを20年分総括した「仮面ライダージオウ」。
奇しくも元号が平成から令和となった今後は「令和仮面ライダー」と呼ばれることとなるであろうシリーズのトップバッターである「仮面ライダーゼロワン」は新たな時代を背負うことになる役割を担わなければなりません。
これからも「仮面ライダー」というブランド、シリーズを続けていくためには失敗を許されないわけです。
「ジオウ」はタイムトラベルという題材、また過去のライダーに様々な点で依拠するため、非常に複雑な設定・ストーリーだったためコアなファンにはディープに楽しめる点が多くありましたが、それによってそうではない人にとっては敷居が高いところがあったとも言えます。
それに対して「ゼロワン」は「仮面ライダー」をまったく知らなくても入っていける分かりやすさ(設定面とエモーショナルな点)があると思います。
劇中で豪華絢爛な風貌のグランドジオウとシンプルでソリッドなデザインのゼロワンが並び立つシーンがありましたが、これはまさにこの2作の作風の違いを表しているようにも思いました。
「ジオウ」はタイムトラベルという設定により比較的なんでもありの展開が可能ですが、「ゼロワン」は基本的にAIテクノロジーが発達した現代というリアリスティックな世界観を持っているため「ジオウ」ほどの自由さは持っていないと思います。
そういう意味ではこの二つの作品は非常に食い合わせが悪いように思います。
「ジオウ」に下手な絡ませ方をしてしまうと「ゼロワン」の世界観が途端にリアルさを失ってしまうような気がします。
10年前の「ディケイド」と「W」に関しても同じような関係だと思いますが、あの時の冬映画は「ディケイド」編と「W」編が同時並行で進み、最後にストーリーが合流するという形式で食い合わせの悪さを巧みに回避していたと思います。
本作は今までの通り前作ライダーと現役ライダーのコラボという体裁となっていますが、タイトルで「令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」とあるようにストーリーとして「ゼロワン」が主体として展開していきます。
あくまで新時代を築いていこうとするライダーを主役として据えるという意思を感じます。
ジオウはタイムトラベルやアナザーライダーという設定を上手に使うために出ているサブの役割であると思いました。
「ゼロワン」は新しい時代の始まりとなるための責任があると書きましたが、テレビシリーズを見る限り見応えのあるドラマを作っていると思います。
「ディケイド」や「ジオウ」は作品自体がギミックのようなものでしたが、「ゼロワン」は基本はドラマを見せる作りになっています。
AIという新しいテクノロジーに対して、様々な考え方をする人物が登場します。
主人公である飛電或人はAIを全面的に肯定し人間のパートナーとして認めています。
AIMSの不破はAIを人類の敵として認知し、また刃は人間の道具として捉えています。
そしてまたAIを自分のために利用しようとする人物も登場しました。
彼らの価値観のぶつかりが一つのドラマとなります。
またAIを搭載した人型アドロイドであるヒューマギアはシンギュラリティをむかえ自我を得ることもあります。
果たして彼らは新しい生き物なのか、それとも敵なのか。
彼ら自身がどう答えを出すかもドラマとなります。
これはこの劇場版でも触れられていますよね。
これら人間とヒューマギアが互いに相手を受け入れるのか、敵対するかというのは全編を通した大きなテーマです。
ふと思うとこのテーマは平成仮面ライダーの一つである「仮面ライダー555」における人間とオルフェノクの関係性にも似ていると思いました。
かつては人間ではあるが、人間とは異なる者としてなってしまったオルフェノク。
見た目は人間のようですが、人間ではないヒューマギアと似ています。
本作のラスト近辺で気になる台詞がありました。
刃唯阿が不破に「私がヒューマギアになったらどうする?」と聞くのです。
「ヒューマギアになる」というのが不思議な感じがしましたが、もしかすると人間のように生きていながら自分でも人間ではないヒューマギアというのも存在するかもしれないとも思ったのです。
「555」では中盤で主人公が敵と同じオルフェノクであるという驚きの展開をしましたが、もしかすると主要登場人物の誰かがヒューマギアであったといううようなこともあるかもしれません。
「ゼロワン」が色々と想像をさせてしまうストーリーの力を持っているというのは間違い無いかと思います。
これからもテレビシリーズの方を期待してみていきたいと思います。

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2019年12月28日 (土)

「屍人荘の殺人」 現実と非現実のバランス

まったくの予備知識を持たずに鑑賞しました。
基本的にはミステリーもの、特に名探偵ものが好きなので。
探偵者でよくある舞台設定としては、雪山の山荘や孤島など、外部の人が出入りできない場所、いわゆるクローズドサークルがあります。
タイトルからして「屍人荘」がクローズドサークルの舞台となるのだろうと想像はできましたが、そのような状況を作る方法が奇想天外で非常に驚きました。
後から思えば、それもタイトルに書いてあったのですけれども。
不思議なバランスで作られている作品です。
事件が起こり、それがどのように実行されたか、そして犯人が誰なのかということの謎解きでは、とてもオーソドックスに物理的に可能な可能性をロジカルに解いていきます。
この辺のアプローチは古典的な探偵小説のような趣があります。
非常に現実的で曖昧なものが入る余地があまりないように感じられます。
けれどもその推理劇が展開している場所が作られているのは非常に非現実的な理由によるものです。
ここについてはSFサスペンスや怪奇ものといった趣があります。
このような古典的で非常に現実的な要素と、現代的で非現実的な要素が一緒くたになっているというのが不思議な感覚でした。
あくまで非現実的な設定は状況を作るものであって、犯行そのものは論理的に組み立てらているのが、難しいところを逃げていないように感じました。
観ていたとき、ちょっと雰囲気が既視感あるなと思っていたのですが、「TRICK」でした。
よくよく監督名を見てみたら木村ひさしさんで、脚本は蒔田光治さんでした。
まさに「TRICK」のコンビ。
浜辺美波さん演じる剣崎比留子のキャラも奇妙でしたが、これも「TRICK」風ですよね。

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「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」 まさに夜明け

公開後より賛否両論が巻き起こっておりますが、皆さんは「スカイウォーカー・サーガ」の最終作をどう見られたでしょうか?
私個人としては「スター・ウォーズ」シリーズとしてとても楽しめる作品だと思いましたし、この長いサーガを完結させるにあたりこういう終わりか方しかなかっただろうと思いました。
本作をあまり評価しないという方の意見としては、旧来のファンに媚びすぎ旧来の作品の焼き直しのように見えるといったものが多いように思います。
このような意見はその通りだとも思いますが、反面この非難は昨今のハリウッド映画においては「スター・ウォーズ」以外のシリーズでも多く見られることです(最近で言えば「ターミネーター」等)。
そのような多くの作品よりも多く、激しくその点において非難されるのはこのシリーズへの期待の裏返しとも言えます。
私としては旧来のファンにちゃんと目配せしつつ、「スター・ウォーズ」らしさ、世界観はしっかりと守りながら、話をまとめ上げた手腕を評価したいです。
なんとか話をまとめあげることができただけ、という意見も見かけましたが、これだけの大河ストーリーを破綻させずにまとめあげるのがどんなに大変なことか。
新三部作に関してはルーカスの手を離れたため、予定されたゴールはなかったのだと思います。
そのため「フォースの覚醒」は初期三部作を擬えただけという非難を受けました。
個人的には手堅くファンの反応を見ながらリスタートさせることができたと思いました。
次のライアン・ジョンソンによる「最後のジェダイ」は「フォースの覚醒」への非難を受けてか、問題提起型の挑戦的な内容であったと思います。
新三部作の主人公であるレイがスカイウォーカーとは何の縁もゆかりもないと衝撃の事実を提示しました。
ある意味「最後のジェダイ」はそれだけであったとも言えます。
無茶振りともいえるこの課題を本作では非常に見事に回収し、さらには過去の全ての作品を締めくくることができる結末を用意したと言えるかと思います。
 
<ここから先はネタバレ>
 
予告編でパルパティーンの笑い声が聞こえたときは、ちょっと嫌な予感がしました。
それこそ過去三部作をなぞるような結末になるのではないかと。
確かに新三部作のファースト・オーダーは帝国軍の焼き直しに見え、迫力不足であることは確かです。
ただそれでパルパティーンによる帝国の復活が描かれたとしたら、私もこの作品を支持はしなかったでしょう。
前作においてレイはスカイウォーカーとゆかりがないことは明らかになりました。
けれども本作のサブタイトルは「スカイウォーカーの夜明け」です(英語ではTHE RISE OF SKYWALKER」)。
このタイトルが意味するものは・・・。
スカイウォーカー家の血筋ではないのにもかかわらず、なぜレイはジェダイに匹敵するほどのフォースを操ることができるのか。
前作で提示されたこの謎の答えはシンプルではありましたが、意表をついたものでもありました。
かつて多くのジェダイがいたことからわかるように、元々フォースを操れるのはスカイウォーカー家だけではありません。
中でもスカイウォーカー家の血筋の者は強力な力を持ってはいますが。
しかし、スカイウォーカー家と同じほど、いやそれ以上の力を持つもう一つの別の家系がありました。
それこそがパルパティーン。
かつてアナキンをダークサイドへ導き、ダースベイダーとした皇帝パルパティーンはスカイウォーカー家以上の力を持っているのは明らかです。
レイはその血筋であったのです。
今考えると予告のパルパティーンの笑い声は非常にフェアな仕掛けで、レイの出生の謎の答えのヒントでもあったのですね。
完全なるダークサイドであるパルパティーンと、あくまでもライトサイドに踏みとどまるレイの対決は見応えがありました。
カイロ・レンは新三部作においてとても微妙なキャラクターであったと思います。
善と悪の間で揺れ動き、それこそダースベイダーになりきれない子供のような印象がありました。
しかし本作において自分が立つべきポジションをしっかりと見定めることができたのは良かったと思いました。
子供が大人になった時と言えるかもしれません。
ラストの戦いのあたりでは、最後はカイロ・レンとレイが結びつき、新たなスカイウォーカー家が始まるという終わりかたになるかと思いきや、そうはなりませんでした。
結果、カイロ・レンは逝き、スカイウォーカー家は断絶してしまったのです。
全ての戦いが終わり、レイは物語の始まりの場所タトゥイーンのルークの生家を訪れます。
そこで通りかかった老女にレイは名前を尋ねられます。
彼女は「レイ・スカイウォーカー」と答えます。
レイだけがこのシリーズにおいてラストネームを持っていませんでした。
それは彼女が孤児であったからと説明をされていました。
元々そこには意味はなかったと思いますが、その設定を非常にうまく利用したラストシーンであったと思います。
血筋としてのスカイウォーカーは絶えました。
しかし、レイにとってルークは父、レイアは母、そしてカイロ・レンは兄のような存在であるのだと思います。
彼らの意思を彼女は継いでいくという決心をしたのでしょう。
スカイウォーカーはただのラストネームではなく、大いなる役割を持つ称号のようになったのかもしれません。
かつてのジェダイのように。
このシーンではタトゥイーンの二つの太陽の日の出が映し出されます。
まさにこれは夜明け(RISE)であり、新たなるスカイウォーカーの始まりでもあったのだと思います。
プロデューサーのキャスリーン・ケネディが再びスカイウォーカーが登場するかもしれないといった発言があったようですが、可能性としてはあり得ますよね。
私としては期待したいところです。

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2019年12月27日 (金)

「ルパン三世 THE FIRST」 もっとワクワクする冒険が見たかった

劇場版の「ルパン三世」は23年ぶりだとか。
3DCGの作品としての久しぶりの登場となります。
私の世代としては「ルパン三世」と言ったら、夕方に再放送されていたのを何度も何度も観た第1シリーズ、いわゆる緑ジャケットのルパンですね。
映画だと「ルパンVS複製人間」と「カリオストロの城」まで。
今回久しぶりに観たら、声優さんも随分と変わっていました。
石川五エ門を演じていた井上真樹夫さんも先日亡くなってしまいました・・・。
逆に次元大介だけ変わらないのは(小林清志さん)すごいと思いました。
ずいぶんおじいさんぽい声になっていましたが。
今回の監督は山崎貴さんで、今年は「ドラゴンクエスト」に引き続き、3DCG作品の監督が続いています。
「ドラゴンクエスト」については最後の「ドラゴンクエスト」ラリからぬ展開で物議を起こしましたが、今回の「ルパン三世 THE FIRST」については、非常に手堅く「ルパン三世」らしい作品として仕上げたように思いました。
逆に言えば、何か新しさを感じるようなところはあまりなかったとも言えます。
ゲストの女性キャラであるレティシアは、現代らしい行動的な女性としては描かれてはいますが、財宝の秘密のキーを持っていて、ルパン側も敵側も追う人物としては「カリオストロ」のクラリスに通じるものがあるかと思います。
ラストシーンなども「カリオストロ」を彷彿させますね。
銭形警部が率いるのは埼玉県警ですし、ルパンはフィアット使いますし、お宝頂戴した時のカードも「カリオストロ」へのオマージュでしょうか。
ですので全編既視感のようなものを感じました。
私が観たことがある劇場版は、「複製人間」にしても「カリオストロ」にしてもTVシリーズとはちょっと違う、今までのルパンとは異なる側面を体験させてくれたものでした。
そういう意味では今回の作品からはそのような新しいルパンを発見できるということはなかったように感じます。
これはかなり欲張りであるということはわかっているのですけれどね。
冒険し過ぎてあまりに外し過ぎてしまうと、これは「ルパン三世」じゃないというように言われてしまうこともわかります(「スターウォーズ」の最新作が色々言われているように)。
それでもルパンであるなら、もっとワクワクするような冒険を見せてもらいたかったと思いました。

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「アナと雪の女王2」 新しい価値観の提示

一人で字幕版を、続いて日本語吹き替え版を娘と一緒に、都合2回観てきました。
そう言えば前回も字幕版と吹き替え版を1回ずつ観たような。
正直言うと、個人的には2作目よりも1作目の方が好きではあるのですが、評判を聞くといろいろですね。
同僚の女子二人は「2」の方を圧倒的に支持していました。
私の娘の場合は「1」の方がしっかりと観ていた気がします。
歌は「1」の方が歌いやすそうですよね。
さてなぜ私と女子二人の評価が別れてしまったかですが、今回の作品におけるエルサとアナに現代を生きる女性が共感しやすい要素があったのではないかと思いました。
今回の「2」でエルサがどうしてあのような特殊な力を得たのか、秘密が明らかになります。
ただそのエピソードが彼女たちの心を掴んだのではなく、二人の生き様が共感性を呼んだのではないかと考えました。
エルサはその能力と長女ということで、女王として大きな責任を背負っています。
彼女は非常真面目な性格であり、その危険を伴うかもしれない責任を自分一人で背負おうとします。
社会に出て、以前に比べて責任感のあるポジションにつくこともあったり、家庭のことについてもいまだに多くの部分を背負っている彼女たちは、エルサの感じているプレッシャーを自分ごとのように捉えたのかもしれません。
またアナについては、エルサとは異なり特殊な能力を持っているわけではない普通の女性です。
彼女の性格はとてもポジティブで前向きではあるますが、エルサと比べると何でもない人間であるという自覚があります。
それでも何かをしなくてはいけないという思いは強く、挫けそうになりながらも一歩一歩進んでいこうとします。
この辺りも現代の女性が共感しやすい点であるような気がします。
本作についてはエルサとアナは途中から別行動をとりますが、それぞれが歩む道筋で彼女たちは自分たちの責任感、使命感を試されます。
そして家族や友への思いも。
それらを力にして、彼女たちは進み続けます。
決して挫けずに。
昔に比べ女性も色々と背負うものが増え、そして前進することが求められる。
みなプレッシャーを感じていると思うのですが、本作のエルサとアナの姿を観ると、少し前向きな気持ちになれるのかもしれません。
また本作については自分たちのいる環境が、古い価値観により築き上げられたものであったということをエルサとアナは知ります。
それは男性的なものの考え方で築き上げらた価値観であったと言えます。
それを二人は文字通りぶち壊します。
女性らしい多様なものを受け入れる新しい価値観を新しい王国に二人は導入するのです。
鉄壁のように作られた男性主体の価値観に対しての彼女たちの新しい生き方の提示なのですね。
その辺りも女性に支持された理由ではないかと思いました。

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2019年12月15日 (日)

「ゾンビランド:ダブルタップ」 全員揃う奇跡

ホラー映画は苦手なのですが、前作は知り合いのお勧めもあって行ってきたのでした。
昨年の「カメラを止めるな!」もあってか、日本でも今となってはゾンビコメディ映画は市民権を得ている感もありますが、当時はまだまだマイナーな存在。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」という知る人ぞ知る名作はありましたが。
公開していたのも渋谷の単館だったと思います。
出ている人も作っている人もマイナーな人ばかり。
しかし、蓋を開けてみれば非常に面白い。
コメディなので基本的に笑える映画なのですが、ロードムービーの体裁を取っていて、意外と情感もある。
当時のレビューを見てみると、名作「ミッドナイト・ラン」になぞらえていました。
先ほど出ている人はマイナーな人ばかりと書きましたが、主人公ら4人のメンバーと言えば、ジェシー・アイゼンバーグ、ウディ・ハレルソン、エマ・ストーン、アビゲイル・ブレスリンと錚々たるメンバーばかり。
公開当時は子役でブレイクしていたアビゲイル・ブレスリンが一番有名だったのではないでしょうか。
ジェシー・アイゼンバーグは前作の翌年の「ソーシャル・ネットワーク」のマーク・ザッカーバーグでブレイクし、ウディ・ハレルソンは「ハン・ソロ」や「ハンガー・ゲーム」などのメジャー映画や「スリービルボード」などの渋めの作品まで広く活躍中です。
エマ・ストーンに至っては「ラ・ラ・ランド」でアカデミー主演女優賞を獲得しているスターとなっています。
「ゾンビランド」の続編があると聞いたときは、今となってはスターとなった彼らがこんなB級映画(失礼!)に出演するのだろうかと思ったのですが、全員揃っていることにびっくりです。
出演者が10年前から変わって現在ではブレイクしたと書きましたが、制作者も同様です。
監督のルーベン・フィッシャーは昨年公開の「ヴェノム」を監督し大ヒットさせました。
そして脚本家のレット・リースとポール・ワーニックは「デッドプール」を書いています。
このように輝かしいキャリアを進んできた出演者も制作者もオリジナルメンバーがここまで揃うのは奇跡ですね。
じゃあ、作品が変わってしまったかというと、そういうわけではありません。
いや、もうバカバカしい役はやれないと出演者が言ったりしないかと他人事ながら心配していたわけです。
10年後の設定というのに、前回と変わらない(成長が感じられない)キャラクターにホッとしたりしました。
基本的には前作とトーンは大きく変わっていないので、前作を初めて観た時の衝撃はなかったのは正直なところではあります。
けれども期待していたことはしっかりやってくれているというところはあり、裏切られたということではありません。
変わらない4人が相変わらずいてくれてただ嬉しかったですね。
次回また10年後よろしくお願いします。

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2019年11月25日 (月)

「イエスタデイ」 伝わってくる肯定感

<ネタバレがあります>
クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」、エルトン・ジョンの「ロケットマン」とアーティストを主人公としたヒットを続けています。
本作「イエスタデイ」は名前から分かるようにビートルズを題材にした作品です。
ただし先の2作とは異なり、ビートルズ自身の物語ではありません。
ある日、突如として世界中が大停電となります。
その時ちょうど事故に遭ってしまい意識を失っていたジャックは、目が覚めてしばらくたった時、世の中からビートルズの存在が消え去っていることに気づきます。
彼は、誰も知らないビートルズの曲を歌い、レコードをリリースして話題となり、一気に時の人となります。
そしてそのままスターダムにのし上がろうとしますが、それと引き換えに大切なものを失ってしまいます。
この流れは先にあげた2作の展開を想起させます。
若者がその才能を見いだされ、皆に注目されて、成り上がり、そしてその成功と引き換えに何かを失ってしまい、孤独となる。
最後は自分が失ったものに気づき、取り戻そうとするが、時はすでに遅い、という展開。
本作においてもこの構造が展開されますが、大きく異なることは主人公にはフレディ・マーキュリーやエルトン・ジョンのような天才的な才能はないということ。
彼らは自分の才能により、その地位を得たとも言えますが、ジャックは違う。
彼自身もそれはわかっています。
フレディやエルトンは自身が才能があることもわかっていて、そしてそれを発露することは才能が持つ者として当然のことで、止めることはできません。
それをやめてしまったら、彼ら自身ではなくなってしまうから。
つまりは天才ゆえに破滅への道も決まっていたとも言えるかもしれません。
けれどもジャックは偶然により、というよりも結果的にはズルにより、自身の才能以上の成功を得てしまった。
そのことに対する罪の意識と、その上に大切なものの喪失感の二つを感じてしまうわけです。
フレディとエルトンの場合は成功は自信に裏付けられていますが、ジャックの場合は成功すればするほど罪の意識を感じてしまう。
その罪への罰として孤独を与えられているようにも彼は感じてしまったのかもしれません。
この作品が粋であると思ったのは、彼の罪の意識を救ってあげた方法です。
劇中でジャックと同様にビートルズの存在を知っていると思しき人間が出てきます。
彼らはついにジャックのコンサートの前に彼のところにやってきます。
ジャックを断罪するかと思いきや、彼らはお礼を述べるのです。
誰も知らなかったビートルズの歌を世の中に残してくれて、と。
彼らにとって、そもそもビートルズの歌はジャックだけのものではないとの思いであったのでしょう。
ビートルズの歌は皆のもの。
誰かがそれによって利益を得るのがどうこうということではない。
皆に聞いてもらうことが大切で、これは人類の財産なのだと。
とても素敵な考え方をするなと思いました。
このストーリーから製作者のビートルズに対する愛を感じました。
ジョン・レノンが登場してきたところも粋でした。
この世界はビートルズのメンバーがいない世界ではない。
なにかボタンがかけ違ってたまたまビートルズが結成されなかったということなのでしょう。
そのために、ジョンは凶弾に撃たれることはなく、幸せに人生をまっとうしようとしていました。
それは私たちが知っているジョンの人生ではないかもしれない。
けれど彼が幸せに生きてこれたのであったら、それはそれで悪い世界ではないのかもしれないと思える。
「ボヘミアン・ラプソディ」や「ロケットマン」では生きていくことの苦しさ、自分の才能で生きていき、自分が選んで生きているのにもかかわらず、次第に追い詰められていく息苦しさを感じました。
しかし本作からは、生きることや世界を受け入れられる、とても肯定的なスタンスが伝わってきました。

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