2019年7月 2日 (火)

「X-MEN:ダーク・フェニックス」 コレジャナイ

21世紀フォックスが、マーベルを傘下に持つディズニーに買収され、2000年の「X-メン」から続く現行路線は本作で終了となります。
「X-メン」は現在のアメコミ映画ブームの先駆けとなった作品で、それまではマニア向けと思われがちであったアメコミ作品に多くの一般的な観客を呼び込むことができると証明しました。
差別などの社会的な問題をその物語の中に内包して、大人の鑑賞に耐えうる映画としたところも新しかったと思います。
その後、数々の続編またはスピンオフが作られてきました。
ただ個人的には正直言って最初の3作品以降は、強く惹かれるものはありませんでした。
特に「フューチャー&パスト」以降は映画会社として都合よく時間軸を変更しているように思えました。
つまり映画会社としてドル箱の人気シリーズのため、物語を無理やり延命しているように感じたのです(ジャンプの漫画などでもありますよね)
個人的には初期3部作で物語は一区切りついていると思っていて、その後のウルヴァリン単体の映画はスピンオフとして割り切っていました。
「ファースト・ジェネレーション」も公開時はスピンオフとして私は捉えていたのでまだ別物と感じていたためよかったのですが、「フューチャー&パスト」で旧3部作と都合よく物語が融合してしまったためちょっと混乱しました。
というのも、旧3部作と「ファースト・ジェネレーション」以降の作品に共通して登場するキャラクターが性格や立場も異なり、見れば見るほど最近の作品は「コレジャナイ」感が強くなってきたと思うのです(最近見始めた方は感じないかもしれませんが)。
ジェームズ・マカヴォイが演じるプロフェッサーXは過ちも犯す人間味がある存在になっていると思いますが、私としては揺るぎない信念と正当性を持っている賢者というイメージが強いのです。
ですので、本作でも揺らぎ迷うプロフェッサーXが描かれますが、違和感を感じてしまうのです。
本作ではプロフェッサーXは、ミュータントのために戦うという大義ではなく、個人的な承認要求を満たしたいというエゴも見え隠れし未熟な感じがします。
賢者のイメージを持っている自分としては本作のようなプロフェッサーXを見せられるとややイライラしてしまうのです。
「スパイダーマン」のようにリブートしたり、またはっきりと別の物語として描いている「ローガン」のような場合は、全く別物としてキャラクターをとらえるのでいいのですが、「X-MEN」シリーズにおいては混乱をしてしまった感じがあります。
特に本作「ダーク・フェニックス」で描かれるジーンの暴走は、全く同様のことを「ファイナル・ディシジョン」でも題材にしているので「今さら」感をぬぐい切れません。
キャラクターの性格や立場も違いますし、物語も異なってはいるのですが、エッセンスの部分は同じなので新鮮さは感じませんでした。
上でプロフェッサーXの例を述べましたが、旧3部作に比べると最近の「X-MEN」はキャラクターが全般的に若く未成熟な感じがします。
それによって同じ題材を扱っていても、「ファイナル・ディシジョン」に比べ物語がやや浅く軽くなっている気もしました。
映画会社の都合により物語全体、そしてキャラクターが混乱してしまったというのが、最近の「X-MEN」ではないでしょうか。
ディズニーの買収によりいったんリセットされた「X-MEN」。
MCUへの参加も噂されますが、魅力的なキャラクターが多いこのシリーズなので合流がうまくいけば、さらにアメコミ映画も盛り上がることになるかと思います。

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2019年6月30日 (日)

「アラジン」 見たことがない新しい自由な世界

若い頃はディズニーのアニメはほとんど観ることはありませんでした。
「美女と野獣」しかり、「ライオン・キング」しかり。
誰でも知っているほど世間で大ヒットとなった作品でも観たことがありません。
その頃は自分の中ではなんとなくディズニーは子どもや女性向けというイメージがあったのだと思います。
本作のオリジナルのアニメーション「アラジン」も92年なので、観たことがありませんでした。
馴染みもなかったので本作もスルーしようかとも思いましたが、監督がガイ・リッチーと聞いて、気持ちを変えました。
ガイ・リッチーと言えば「シャーロック・ホームズ」など時代ものでもスタイリッシュに描く実績がある監督ですので、アラビアンナイトをどう料理するかが見てみたくなりました。
また、最近のディズニーのアニメの実写化映画の出来が良かったということもあります。
 
本作からは女性であっても、出自がどうであっても、活躍することは可能であるというメッセージを受け取りました。
オリジナルもそうであったかは観ていないのでなんとも言えないのですが、本作についてはとても現在にふさわしいテーマであると感じました。
女性が活躍する社会と言われて久しいですが、実際にはまだまだ課題があります。
ガラスの天井と言われるように、女性が高い地位につくことがまだ難しい現状というものがあります。
本作のヒロインであるジャスミン王女は、父親を継ぎ、民のための王国を運営したいという夢を持っています。
しかし、父親であるサルタンも娘に婿を迎えて彼に王を継がせたいと考えていますし、その座を狙っているジャーファーも女が国王になるなど以ての外と思っています。
しかし、彼女は彼らが当たり前だと思っている社会の枠組み自体に負けないという意思をはっきりと持っています。
今回そのような場面で流れるのが「Speechless(スピーチレス)」という曲です。
この曲はオリジナルのアニメーションにはなかったということですが、まさにこの実写版が現代にふさわしいテーマを設定しているということを表していると思います。
社会の無言の圧力に対して、しっかりと声を上げるということを高らかに歌い上げるこの曲はまさに現代的な女性の声そのものです。
主人公のアラジンについても同様なことが言えると思います。
彼の出自は孤児であり泥棒です。
けれども彼の心は誠実であり、また正直でもあります。
そんな彼は魔法のランプを手に入れたことにより、今までの立場からより良い立場へステップアップするチャンスを手に入れます。
最初はまやかしの力で得た地位ではありましたが、彼の持ち前の誠実さと正直さにより、彼は認められ本当に彼として王女のパートナーとなります。
正しく自分の能力を活かすことができれば、上がっていくことができるというのもなかなか実際には難しいことではありますが、求められていることだと思います。
現代の社会は自由に見えて、実は社会の上層は二世、三世で固められ固定化しているようにも見ることができます。
アラジンのように実力があれば認められる社会というのは、まだまだ理想であるかもしれません。
ジャスミンとアラジンの二人が魔法の絨毯に乗って世界をめぐる時に流れるのが、「Whole New World」。
「見たことがない世界」と訳せると思います。
文字通り彼らが見たのは見たことがない様々な地域、行ったことがない場所であったとは思いますが、また別の捉え方をすれば、彼らが見たのは、伝統的な社会とは異なる、性別や出自にとらわれない自由な世界という意味であるとも受け止められます。
彼らは二人でそのような自由な世界を共有し、だからこそ惹かれあったのかもしれません。
さすがガイ・リッチーでカラフルでスピーディなテンポで描かれるダンス、アクションは小気味よく飽きさせません。
ウィル・スミスが演じるジーニーは素晴らしくおかしく、いい味を出していました。
最初の登場シーンの歌は弾けていて最高です。
ディズニー映画なのでもちろん子供も楽しめますが、上に書いたような現代的なテーマを考えながら見るのもいいかもしれません。

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2019年6月29日 (土)

「スノー・ロワイヤル」 オヤジ、暴走する

明らかに配給会社は意識していたと思いますが、予告編から受ける印象は同じくリーアム・ニーソン主演の「96時間」。
あの作品は面白かった。
中年というよりは熟年と言ってもいい年頃の男が主人公ながら、キレキレのアクション映画となっていたのが、新鮮でした。
リーアム・ニーソンは「シンドラーのリスト」で名前が知れ渡るようになっていましたので、それまでアクションというイメージはあまりなかったと思います。
しかし、「96時間」以降はアクション映画に数多く出演し、このジャンルのイメージが強くなりました。
ですので、本作も予告を観た時は「96時間」的なアクション映画という印象を受けました。
確かに本作はアクション映画なのですが、観ていると途中から何か座りが悪いようなシュールな印象を受けます。
アクション映画の構造というのは実は単純で、基本的には主人公にとって許しがたい敵を、どうにかして最後はやっつけるという展開なのですね。
しかし、本作はその構造がこれがややずれています。
基本的にはこの作品は主人公は殺された息子の復讐劇となっています。
通常のアクション映画であれば、息子を殺した犯人側が主人公に対抗していくことにより物語は展開していくと思います。
しかし、本作は違う。
主人公は真犯人を追っていくのですが、その過程での殺しを、舞台となる街で対抗するマフィア同士が互いの仕業であると勘違いをし、大きな抗争へ発展してしまいます。
つまり主人公の行動が起点とはなっているのですが、どんどん展開があらぬ方向に転がっていってしまうのです。
主人公の思惑とは関係がないところで、築かれる累々とした死体の山。
不条理と言うべきか、シュール言うべきか。
アメリカの評論では「『96時間』をタランティーノが撮ったらこうなる」というものがあったようですが、言わんとしている事はわかります。
個人的にはタランティーノはそれほど得意な方ではないので、本作についても後味すっきりな感じが少なく、苦手な感じはしました。
上でも書いたアクション映画の定石からややずれるというところが座りの悪いと感じたところなのですが、それこそがこの作品の特徴であるとも言えます。
この展開を、この感覚を楽しめるかどうかで、この作品の評価が分かれると思います。

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2019年6月24日 (月)

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」 地球の守護神

ローランで・エメリッヒ版の「GODZILLA」を観た時に思ったのは「ああ、日本のゴジラの本質は欧米ではわかりにくいのかな」ということでした。
日本のゴジラは人類の脅威であるという存在であると同時に、畏怖の対象でもあると思います。
ゴジラはまさに「荒ぶる神」と言えます。
荒ぶる神は日本の神話にも所々に見られるもので、そのイメージがあるからこそ日本人にとってゴジラが他の何者とも違う特別な存在であるのかもしれません。
日本という小さな島国は、毎年台風の通り道となり、頻繁に地震も起こる土地柄であり、そこに暮らす者にとって自然は自分たちではコントロールできないものとして畏怖の対象となっていたのでしょう。
そしてまた自然は人々に恵みを与え、また敵から守る存在でもありました。
恵みと災害という相反するものを人々に与える自然が、荒ぶる神というイメージにつながっていたのです。
そういった自然に対するスタンスにあるからこそ、日本人にはゴジラは受け入れられるわけですが、そのような自然観がない人々にはゴジラはただの巨大生物に見えるのかもしれません。
私はゴジラのような巨大生物を「モンスター」と呼ぶことに違和感を感じるのですよね。
怪獣は怪物とは何か違う。
これを欧米人に伝えるのはなんとも難しい。
だからこそエメリッヒ版のようなものができてしまう。
「パシフィック・リム」のギレルモ・デル・トロはそれがわかっているからこそ、あえて「KAIJYU」と日本語をそのまま使っているのだと思います。
ただ彼はかなり特別な人間かと思います。
とは言え本作の前の作品である「GODZILLA ゴジラ」はある程度日本の怪獣に理解があるような作りになっていたと思います。
それを受けての本作「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」ですが、総じてみて非常に日本のゴジラについて理解を深くして作られていると感じました。
過去の日本のゴジラ作品からの引用も数多くあり、何よりもゴジラ観が日本のオリジナルに非常に近いと感じました。
本作にはゴジラ以外の怪獣も多く登場します。
最大の敵であるのはもちろんキングギドラ。
オリジナルと同様にギドラ(本作ではギドラと呼ばれる)は宇宙から来た存在であるという示唆があります。
これは最近のアニメ版のギドラも異次元の存在として描かれていますが、基本的には同じスタンスとして扱われていると思います。
すなわしギドラは地球の生命とは異質な存在であるということです。
ギドラの存在により、ゴジラはすべての地球上の生命の守護者、もしくは生命体である地球そのものであるという位置付けが明確になるわけです。
ゴジラは時として人類の脅威となりますが、それはまさに地球という生命を守るための守護神であるからこそ。
だからこそ、異質な存在であるギドラに対しては守護者として戦い人類をそして地球を守ったのです。
元寇の時に台風が敵をなぎ払った時、日本人はそれを「神風」と呼びました。
しかし毎年やってくる台風は人々にとって脅威でもあったのです。
まさにゴジラはそのような存在なのです。
また本作はモスラは「母なる地球」の象徴です。
癒し、再生を司る母神。
これもまた日本神話に登場するモチーフです。
荒ぶる神と母神は対の存在であり、本作でもゴジラとモスラが同じように対で描かれています。
 
このように本作はこれまでのゴジラ作品、そしてその背景にある日本、東洋の考え方についての深い理解に基づいて作られていると感じました。
監督のマイケル・ドハティの母親がベトナム人のハーフということを聞いて、東洋のものの考え方の理解があるのかなと考えたりもしました。
 
本作はある意味、ハリウッドにおけるゴジラ映画の集大成ともいうべき作品に仕上がっていました。
そうなると逆に次回作の「ゴジラVSキングコング」が気になってしまいます。
「怪獣の王」として君臨することとなったゴジラ。
それに対してキングコングという存在をどう位置づけるのか。
ゴジラはあくまで地球の生命の守護者であり、人類の守護者ではない。
つまり人類が地球に対して害をなす存在となった時にゴジラは人類に牙をむく。
対してキングコングは人類の守護者というスタンスになるような気がします。
人類の存在を是とするか否とするか。
次回作ではゴジラが敵役となるかもしれません。

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2019年6月16日 (日)

「空母いぶき」 リアルではなくファンタジー

小説やコミックの映画化作品の記事の時に、私は原作未読です、と書いていることが多いのですが、「空母いぶき」については原作をしっかりと読んでいました。
ですので、この作品が映画化されると聞き、ちょっと驚きました。
理由の一つとしては、このコミックで描かれる敵国が中国であり、彼らの日本領土への侵入からこの物語が始まるからです。
尖閣諸島の問題など現実的にはかなりセンシティブなものなので、果たして映画化できるのかということ。
もう一つは現代のテクノロジーを駆使した戦闘を描いているので、今の方がの実力で描ききれるかということでした。
一つ目の問題については設定を大きく変更し、敵国を中国ではなく、仮想の国である東亜連邦とすることにより対処していました。
これにより本作は原作の持つ良さを大きく損なったと思います。
確かに中国を敵国として描くのは厳しいでしょう。
しかしそれであれば映画化しなければいいのです。
映画化するということは原作が持つ魅力を映像として描くことが目的であると思うのですが、その根本を変えてしまっては意味がありません。
原作の魅力の一つは、現代の国際環境として日本の政治、軍事をリアルに描くということです。
もし現実に中国が日本の国土を侵略してきた時、日本の政治家、自衛隊はどう対処すべきか、ということを問うシミュレーションです。
シミュレーションであるならば、それは仮想の国であっても構わないのではないかと思うかもしれませんが、原作はあくまで現実的にありえそうな状況を提示することによって、読者にも課題をより現実感を持って捉えて欲しいという意図を感じます。
それをリアリティのない背景を持つ東亜連邦などという仮想国を登場させても原作の持つ緊迫感は出せません。
またこの東亜連邦という国は相手側の描写が一切ありません。
相手も意図がある人間であるということが描かれないため、よりファンタジー感があります。
原作は日本サイド、中国サイドの政治家、自衛官・軍人の描写が描かれているため、彼らの読みの攻防による緊迫感もあるのです。
それが本作では一切ないため、リアルな緊張感は感じませんでした。
関連することですが、原作は日本・中国の間での互いの政治的・軍事的読み合いがあり、その上での戦略・戦術が展開されることを描写しています。
しかし、本作では相手がたの新興国である東亜連邦は現実的ではないほどの軍事力を持っており、それをあまり考えずに逐次投入をしてきています。
それに対し「いぶき」を中心とする自衛隊も応戦しているだけであって、戦略的・戦術的な緊迫感はありません。
一見軍事もののように見える本作ですが、基本的にはファンタジーであると私は捉えました。
それはもともとの原作のスタンスと立ち位置が違うと思います。
日本と東亜連邦の戦闘も、ネットニュースのスクープによる市民の関心の高まり、そして国連の多国籍軍による介入により、収束します。
これはどこかで見たことがある展開だと思いました。
エンドクレジットで企画に福井晴敏さんの名前を見たことで納得しました。
展開が「人類資金」に似ているのですよね。
福井さんの作品は嫌いではないのですけれど、ちょっと苦手なところもあります。
うまく言えないですが、リアルに描こうとするのですが、どこかファンタジーな要素があってそれがリアルさと相殺してしまう感じとでも言いましょうか。
彼自身の初期の作品である「亡国のイージス」「終戦のローレライ」などもそうでした。
最近では「機動戦士ガンダムNT」「宇宙戦艦ヤマト2202」なども同じ匂いがします。
それぞれのオリジナルは世代なのですごく好きなのですけれど、どうもアレンジがファンタジー色が強くなっているので、そこにどうも波長が合わないのですよね。
本作「空母いぶき」に感じた違和感と同じものだと思います。

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「名探偵ピカチュウ」 ピカチュウの声がおっさんである意味

いわゆるポケモンブームが巻き起こった時にはすでに社会人となっていたので、ゲームにしてもアニメにしても個人的には全く馴染みがありません。
そもそもゲームボーイは持っていなかったですし。
「ポケモンGO」がリリースされて大ブームになった時に、初めてポケモンたちを知ることとなりました。
つまりは「ポケモンGO」しか知らないわけで、それぞれのポケモンがどんなキャラクターを持っているのやら、「ポケットモンスター」がどのような世界観なのかがわかっていないわけです。
アメリカで「ポケットモンスター」が実写化される時は、多くの日本人が思ったようにまたもやおかしな映画ができるのではないかということでした(「ドラゴンボール」のような)
ただオリジナルをほとんど知らないわけなので、本作にはフラットな態度で臨むことができました。
予告を見た時にわかったのは、どうも本作は通常の「ポケモン」とは異なる物語であるらしいということ。
「ポケットモンスター」の中で最も重要なポケモンと言えば、門外漢でもピカチュウだと答えるでしょう。
私でもピカチュウだけは知っていて、可愛らしく「ピカーッ」と鳴いているイメージでした。
しかし、本作のピカチュウはと言えば、中年のおっさんの声なのです。
正確に言うと、主人公のティムにしかその声は聞こえず、他の人間にはやはり「ピカーッ」としか聞こえません。
そしてそのピカチュウが探偵であり、主人公とペアとなって事件を解決するということです。
どうも聞いたことがある「ポケモン」とはだいぶ違うような気がするとは思いましたが、それほどオリジナルに思い入れはないのでそれがハードルにはなりませんでした。
それよりピカチュウの声をライアン・レイノルズがやっているということで、そのことの方が何かありそうだという予感に繋がり、見てみようと思いました。
 
<ここから先はネタバレあり>
ピカチュウの声をおっさんであるライアン・レイノルズがやっているというのが、想像以上にストーリーにとって大事であることが終盤に明らかになり、そのアイデアにとても感心しました。
事件の黒幕は人間とそのパートナーであるポケモンを一体化することにより、ポケモンの力を人間が手に入れることができるようにし、それによって強制的に人間を進化させようとします。
ピカチュウがおっさんの声であるのは、ティムの父親であるハリーがピカチュウと一体化させられてしまったためであることがわかります。
そのため、ピカチュウの声を聞き取れるのは息子であるティムだけということなのですよね。
ピカチュウが口にしていた「I like that. I like that very well.」という口癖はハリーも口にしていました。
子供向けの映画かと思いきや、意外とストーリー的にもしっかり練られていましたし、映像的にも頑張っていて好感が持てる作品でした。
こんな風に丁寧に実写化してくれるとありがたいですね。

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2019年6月 3日 (月)

「キングダム」 馴染みない中国史であったが、シンプルに描き出す

「GANTZ」「アイアムアヒーロー」「いぬやしき」などコミックの実写版映画を多く手がける佐藤信介監督の最新作は、これまた大人気のコミック「キングダム」です。
私は例によって原作は未読なのですが、秦の始皇帝の話だということは知っていました。
私は本も映画も歴史ものが好きで、三国志などもよく読んでいたので中国史などには馴染みがあったのですが、普通の人はそういうものにあまり興味がないと思っていたので、始皇帝の話の漫画などあまりうけないと思っていたので、コミックの「キングダム」が人気であることを聞いた時、意外に思いました。
昨年その「キングダム」が実写映画化するということを聞いた時も、ちょっと驚きました。
まずは壮大な中国という大陸国家が持つスケールを、ハリウッドならいざ知らず、邦画の規模で描ききれるかということ、また中国人を日本人のキャストで演じるということで不自然にならないかということが気になりました。
ただ今までも実写化が難しいと言われた原作ものを確実に描き切ってきた佐藤監督でしたので、期待もしていました。
私は原作を全く読んでいないので、原作に対してどうだったかという評価はできないのですが、結果的には非常に上手にまとめ上げたという印象です。
まず評価できるのはストーリーを極力シンプルにしたということでしょう。
今回は原作の1〜5巻という最初期のパートを基にしているということなのでそのためかもしれませんが、基本的に国を簒奪された王が家来とともにそれを取り戻すという展開です。
視点としては基本的には将来始皇帝の将軍となる信という青年のものが基本線として話が一本道で進むので、わかりやすい。
多くの観客に馴染みのない古代中国の話なので(人物の名前が馴染めないということも含めて)あまり複雑なストーリーだとついていけなくなる懸念はあったと思います。
三国志などはどうしても複数視点でないと描けないので、馴染みのない方にはついていきにくいですよね。
主人公を後に始皇帝となる王政ではなく、戦争孤児である信であるということもわかりやすい一因かもしれないですね。
信は将来実在の人物である李信という将軍になるというキャラクターですが、基本的には我々にとっては知らない人物なので、逆に歴史などに強くない人でも馴染みやすい。
キャラクター造形としても現代的で若いやすいですからね。
このキャラクターを演じるのは山崎賢人さんですが、鑑賞前は個人的な印象としてはあまり歴史ものには合わなさそうな感じがしていました。
ただ実際に見てみると、その現代的な感じが歴史もの特有のとっつきにくさ感を払っていたような気もします。
他のキャラクターの配役などについてもそのような印象を受けました。
心配していたスケール感についても、物語の設定上少数で城内に切り込み、その中での戦いがメインになるため、大軍団同士がぶつかり合うというようなシーンがなかったために大陸らしさが感じられないようなことはありませんでした。
適所で中国でのロケのシーンも入っていたので、上手にスケール感を補得ていたかと思います。
アクションシーンについては城内での戦いになるのでこじんまりするかと思いきや、個人対個人の戦いをアクロバチックに見えることで迫力は出ていたと思います。
魅せるアクションについては「GANTZ」「図書館戦争」などでも確かな手腕を見せてくれた佐藤監督なので見せどころをいくつも用意していました。
原作好きな人の評価は聞いていないのですが、邦画としてはかなり人が入っているということなので、ファンにも評判が良いということでしょうか。
続編を、という話も聞こえてきますが、期待はできますね。
本作で大沢たかおさんが演じていた王騎というキャラクターがクセがあって興味深かったので、もう少し彼と信が絡むと面白そうですね。
次回あるならばどうしても軍団同士の戦いは見せないわけになりそうなので、その時のスケール感をどうするかは課題かとは思います。
とはいえ佐藤監督ならしっかりまとめてくれることでしょう。
期待を込めて。

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2019年5月20日 (月)

「バイス」 日米の政治観の違い

ジョージ・W・ブッシュ大統領の時の副大統領であったディック・チェイニーを主人公とした作品。
チェイニーの名前は当時の報道などで聞いていて、副大統領であったこと、あとはネオコン(新保守主義)に属する政治家であることは知っていました。
イラク戦争などを開始したことでアメリカが大きく変わり、それによって世界が変わっていこうとしていた時で、ネオコンという考え方にやや危険なものに感じていたので、覚えていたのだと思います(現在の方がさらに危険な匂いを感じますが)。
とはいえ、具体的にチェイニーが何をしたかということはよくは知ってはいませんでした。
予告を見た時は、大統領ではなく副大統領に目を付けるとは渋いところをついてくるなといった印象でした。
どちらかといえばクリスチャン・ベールがまるで見た目が違うチェイニーになりきって演じている様子に興味を持ちました。
彼はいつも役に合わせて、変幻自在に見た目から何から変えてきますが、その技を見たかったというのが鑑賞理由の第一でした。
確かにクリスチャン・ベールのなりきりっぷりは抜群でした。
「ウィンストン・チャーチル」でチャーチルになりきったゲイリー・オールドマンも素晴らしかったですが、クリスチャンもさすがです。
これも特殊メイクということですが、普段の彼の容貌がわからないくらいの変貌ぶりでした。
彼が演じるチェイニーと、本物のチェイニーの写真を比べれば確かに違うのですが、劇中の彼を見ていると印象はまさに本物のよう。
喋り方なども似せてきているのですよね。
容貌を寄せるだけではなく、その人物の特徴を巧みに捉える技はさすがです。
日本ではなかなか「バイス」のような実際の政治をテーマにした作品は見当たらないですよね。
色々と気を使うことがあるのでしょうが、こういうある政治的なスタンスが明らかな作品も作られるというのがアメリカらしいところだと思います。
どちらかといえば、アメリカで映画を作るような人々の多くはリベラルなので、ネオコンとは逆の立ち位置にいる方が多いかと思うので、この作品のようなスタンスの作品が作られるのだと思いますが。
本作はコメディのような笑いであったり、アイロニーを含んだ描かれ方をしています。
個人的にはアイロニーが効きすぎている気もしましたが、この目線も日本にはあまりない視点です。
日本では政治を笑い飛ばすと不謹慎であるという雰囲気がありますよね。
それは歴史的に政治は社会上高位にある人々が行ってきたという背景があり、庶民は口出ししてはいけないというイメージがあるのかもしれません。
日本では政治が身近ではないとよく言われますが、政治家だけの問題ではなく、一般人も何か遠いものと見るスタンスがあるのではないでしょうか。
アメリカは建国時から民主的な選挙で社会の代表を選び、政治を行ってもらうという体制をとった世界初の国です。
ですので、政治はそもそもが民衆のものという考えがあるのでしょう。
民衆の代表が政治を行っているわけですから、その中には時折おかしなことを言う者も出てくるというのが社会的には折り込み済みなのかもしれません。
ですから、そのようなものが出てくるとからかったり笑い飛ばしたりする。
それは彼らもそもそもが民衆の一人であるからという基本的なスタンスからきているような気がします。
政治とは関わるのは面倒くさい存在というより、大いに関わりあうべき存在なのでしょう。
日米の政治観の違いというのを感じた一作でした。

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2019年5月 4日 (土)

「アベンジャーズ/エンドゲーム」 文句なしの大傑作!

マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の第22作目であり、ひとまずのフィナーレとなる本作、観る前に事前情報をなるべくシャットアウトして劇場に足を運びました。
まさに期待以上の大傑作と言えるでしょう。
全てのMCU作品を観てきた私としましては大満足の結果でした。
そもそも「アイアンマン」からスタートした一つの世界観を共有するヒーロームービーの連作であるMCUという壮大な実験は少なからずエンターテイメント映画に多くの影響を与えたと言えるでしょう。
 
<ここからは大いにネタバレするので未見の方はご注意です>
 
前作「インフィニティ・ウォー」の衝撃的な結末を観た時、この話をどのように収束させるのか想像もつきませんでした。
いや、収束させるだけならまだ簡単かもしれません。
難しいのは今まで10年以上続けてきたこのシリーズのキャラクターたちのそれぞれのファンたちが納得できる、全てのキャラクターの結末を用意することが至難の技であったのだと思います。
結論からするとその困難な試みを本作のスタッフ及び出演者は成功することができたと感じました。
まず前作のラストでほとんど半分のヒーローが姿を消してしまうという衝撃的な結末に対し、どのようにその事態を解決するかということです。
まず私が感心したのは、この手のアメコミ映画でよく使われるタイムトラベル、もしくはマルチユニバース的な解決方法を安易に用いなかったことです。
マルチユニバースについてはそれをやってしまうと単独の世界観を共有するというMCUの試み自体を自己否定してしまうことになるので、この方法は取れなかったのだと考えます。
本作で用いているのはもう一つのタイムトラベル的な解決方法ですが、安易な過去改変による現在の問題を無かったことにするという考え方ではありませんでした。
劇中でも簡単にバナーやエンシェント・ワンが説明していましたが、過去を改変してしまうとそこで新たな時間軸が発生してしまうということになります。
その新たな世界では問題はなかったことになっていますが、もともといた時間軸ではその問題は何も解決をしていません。
いわばタイムトラベルと言っても別世界に行っているようなものなのですね。
本作ではそのような考えはとらず、あくまでサノスの指パッチンはあったという事実はなくならず、そこで存在しなくなってしまった者たちをいかに取り戻すことができるかということをトライしています。
タイムトラベルという世界間移動をしてしまうと、先ほどのマルチユニバース的な解決方法をとった場合と同じジレンマを抱えることになります。
このような考えにいたったスタッフたちは、私たちが考えている以上にこのMCUの世界を大事に思っていると感じました。
彼らにとってはMCUが描く世界こそが唯一の大切な世界だということです。
 
本作をもって多くの初期にMCUのヒーローたちが引退することとなります。
特にアイアンマン、キャプテン・アメリカはこの10年MCUを引っ張ってきた2大キャラクターですから、彼らのファンが納得できる幕引きをしなくてはいけません。
これも相当難易度が高いことであったと思いますが、これも成功したと思います。
まずアイアンマンことトニー・スターク。
彼は初登場作では鼻持ちならない大富豪でありましたが、ヒーローとして自覚を持ち人々のために戦うということを決心します。
基本的にプライドが高く自己中心的なところもありますが、人々を守りたいという強い意志を持ち今まで戦ってきました。
しかし前作でサノスの強大な力の前に屈し、彼は絶望を覚えます。
しかし彼は無事に生還し、また愛するポッツとも再会でき、そして彼女との間に娘を授かることもできました。
彼自身だけのことを考えれば、幸せと言えるかもしれません。
彼が戦えないと言っても誰もそれに文句は言えないでしょう。
けれども彼は多くの人々を助けることができ、自分の家族も守る可能性があるのであれば戦うと、立ち上がります。
彼には自分だけが幸せになってしまっていいのかという思いもあったはずです。
息子のように、弟子のように世話をしていたピーター・パーカーは彼の腕の中で消えてしまいました。
その時に感じた無力感、絶望感は、現在の幸せだけでは埋めがたかったのかもしれません。
失われた人々を助け、そしてサノスから世界を守るための戦いの中、彼は究極の選択を決断します。
人々を守るために自分の命を捧げることを。
彼はあそこで指パッチンをすれば自分が死ぬことはわかっていた。
そうなれば自分の家族と暮らすささやかな幸せを失うことも。
それでも彼は指を鳴らした。
元々は自分の為にだけ生きていた男が人のために自分の命を捧げた瞬間でした。
そしてキャプテン・アメリカ。
彼はそもそも自分ではなく人々を守りたい救いたいという思いのためだけに戦ってきました。
そもそも登場作品で彼はヒドラの野望から世界を守るために自分の命を捧げようとしたわけですから。
そういう意味ではトニー・スタークとは対照的です。
この対照性がその後の「シビル・ウォー」におけるスタンスの違いにつながるわけです。
本作においても希望をなくしてしまった世界で彼は少しでも人を救いたいと活動をしています。
そして多くの人を取り戻せる可能性が出てきた時、彼は迷わずそれを叶えようとします。
まさに人々のために戦ってきたキャプテン・アメリカです。
そしてサノスを食い止め、世界を救った時、あるべき場所にインフィティ・ストーンを戻すために再び過去に戻りますが、彼は結局戻ることはありませんでした。
そのまま過去に留まったのです。
彼は過去で生き別れとなってしまったマーガレットと再会し、彼女と幸せに暮らしていたのでした。
「自分の人生を生きてみたいと思った」と彼は言いました。
それまで人のために生きていた彼が、最後にこう言ったことに心が震えました。
アイアンマンとキャプテン・アメリカ。
対照的であった二人がそれぞれ彼らなりの生き様を見せてくれたラストに感激をしました。
ブラック・ウィドウやソーについても色々語りたいところもあるのですが、長くなるのでこれまでとしたいと思います。
「インフィニティ・ウォー」の指パッチンで消えたメンバーは最近のヒーローが多かったとは思いましたが、それは本作において勇退する初期のヒーローたちを描くことにフォーカスしたかったということと私は理解しました。
それは正解であったと思います。
これだけのドラマを彼らに用意できたのですから。
ラストバトルで消え去ってしまったヒーローたちも再び集結しサノスたちと戦うシーンも鳥肌ものでした。
これでこういう勇姿が見れなくなると思うと悲しくもあるのですが、仕方がないですよね。
こんなに素晴らしい物語を見せてくれたスタッフ、出演者に感謝したいです。
MCUはまだまだ続き、新たなサーガが始まります。
それはどのような物語かはまだわかりませんが、このスタッフたちが作るのであるならば何も心配することはないでしょう。
次の「スパイダーマン」の新作を心待ちにしたいと思います。

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2019年4月20日 (土)

「シャザム!」 DCも快進撃中!

一時はマーベルに遅れをとっていた感もあったDCですが、「ワンダーウーマン」「アクアマン」と当ててきて、勢いがついてきている気がします。
マーベル・シネマティック・ユニバースに対抗し、現在DCはDCエクステンデッド・ユニバースを展開していますが、最近はややユニバースとしての縛りを緩めてきていると思います。
初期のDCエクステンデッド・ユニバースは非常にザック・スナイダーの個性が強く出ていたがために、それぞれのヒーローの個性がやや抑えられていたようにも感じます。
これはMCUが一つの大河ドラマとして機能しつつも、それぞれの作品についてはチャレンジングな監督起用をすることにより、単独作品としての個性も大切にするということと対照的です。
最近ヒットしているDC作品については以前よりも、それぞれのヒーローの世界観を重視しているように思え、それが観客にも受け入れられうまくいっているように感じられます。
そのような流れの中での本作「シャザム!」です。
初期のDCエクステンデッド・ユニバースのザック・スナイダー的なダークなトーンとは全く相いれない作品の登場です。
個性的という点ではマーベル映画の中の「デットプール」的な位置付けじゃないですかね(あっちほど下品ではないですが)。
本作はスーパーヒーローものと言いつつも、基本的にはコメディであり、スーパーヒーローのパロディとも言えます。
ですので、スーパーヒーロー作品への造詣が深いほど楽しめる作品になっています(しかし、知らなくても全く問題がない)。
本作のヒーロー、シャザムの姿はまさに古典的なヒーローそのもの。
ムキムキ筋肉にぴっちりタイツ、そしてマント。
ぶっちゃけこれはスーパーマンのパロディです。
しかしこの作品がイケてるのは、いかにもヒーローなその姿に宿っている精神が14歳の少年であるということです。
シャザムはスーパーパワーを持っていますが、中身は14歳の少年なので、いたずらなどにも使っちゃう。
見かけと精神のアンバランスさが本作のコメディのエッセンスです。
肉体と精神が入れ替わったりでアンバランスな行動が笑いとなるというのは様々にありますが、それをヒーロー映画でやったのが新しいところですね。
コメディ映画とはなりますが、ヒーロー映画としてもしっかりとしています。
シャザムの力を受け継いだ少年ビリーはその力の意味を全く分かっていませんでした。
しかしスパイダーマンの「大いなる力には大いなる責任が伴う」ではないですが、その力がことによれば人を傷つけ、そしてまた人を救うことができるということに気づきます。
また彼の力を奪おうとするヴィランが登場し、彼自身が何のためにその力を使いたいのかということを考えるきっかけを与えます。
彼はその力を身近な大切な人を守りたいという決心をするわけですが、そこはヒーロー映画らしい胸が熱くなる展開となっています。
最後のヴィランとの対決についても、あっと驚くような展開となります(ネタバレになるので書きません)。
主人公ビリーの境遇やシャザムの力の謎などの設定が一気に回収されるので、この辺も小気味いいですね。
マーベルに負けず劣らず、DCも快進撃を続けています。
次にも期待ですね。

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