2024年11月 9日 (土)

「十一人の賊軍」正義と正義の戦い

はみ出し者たちが勝ち目のない戦いに挑むという物語は「七人の侍」をはじめ時代劇に限られずいくつもありますが、燃える設定です。
彼らの運命は破滅に向かう予感が漂いながら、それでもそれぞれが信じるものに従って、生きる。
命を燃やし尽くすという生き様に心が揺さぶられるのでしょうか。
本作もそういう心揺さぶられる作品の一つとなると思います。
特筆したいのは、主人公の一人である鷲尾を演じる仲野大賀が素晴らしく良いです。
今まで数々の作品に出演していて、いずれでもいい味を出しているバイプレイヤーというイメージがありましたが、本作では堂々の主演です。
最後の戦いに挑むときのまさに鬼気迫ると形容できる彼の様子はまさに魂が揺さぶられました。
信じていたものに裏切られ、その上で自分の信念に殉ずる潔さ。
彼はNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」でも主演を務めることが決まっているので、これからも活躍が期待されますね。
本作の舞台となる時代は江戸末期。
異なる価値観が大きくぶつかり合う、激動の時代であり、多くのドラマが生まれています。
正義という言葉はどの立場に立つかで変わるもので、この時代も幕府側に立つか、新政府側に立つかで同じ出来事でも大きく見え方が変わります。
正義というものが立場によって変わるということを示しているのが、阿部サダヲが演じる家老溝口。
彼は小藩である新発田藩が激動の時代の中で生き残るために策を弄します。
彼は藩と領民を守るために動いているため、その立場から見れば正義と言えます。
彼は、彼が信じる正義のためであれば、人として非道であることも断行しようとします。
しかし、本作で描かれる決死隊から見れば、義を通さず、信を裏切る行為です。
彼らから見れば、溝口こそが悪であり、討ち果たさなければならない敵となります。
溝口から見れば、決死隊の面々は悪を成したものであり、最後にその命を正しいことに使うことは何も恥ずることではないと思っているのでしょう。
異なる立場からの正義のぶつかり合いが最後の戦いでヒリヒリとした緊張感のある肌触りとなっていました。

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2024年11月 4日 (月)

「ヴェノム:ザ・ラストダンス」完結作ではあるが、物足りない

「ヴェノム」シリーズは長尺化の傾向があるスーパーヒーロームービーの中にあって、コンパクトな長さの作品です。
それにより見やすくなっているとは思いますが、キャラクターなどの深堀が甘いことにも繋がっていると思います。
本作ではエディとヴェノムのバディムービーで、彼らの別れが描かれます。
彼らは政府から追われる逃亡者です。
政府の目を掻い潜りながら、彼らはニューヨークを目指しますが、その過程はバディムービーによくあるロードムービーのよう。
個人的にはもう少し二人の別れはエモーショナルにしても良かったのでないかという印象です。
尺がコンパクトだったせいもあるかもしれませんが、割とあっさりしていたようにも思います。
完結作ではありますが、少々物足りないですね。
二人の関係性は今までの2作で作られているので、前半はもう少し簡潔にして、後半戦をじっくり描いても良かったのでないでしょうか。
ちょっとバランス悪い感じがしました。
あと、バランスの悪さはキャラクターの描き方にも感じました。
今回エディとヴェノム以外は初出のキャラクターですが、彼らの描き方が中途半端に感じました。
一緒に旅する家族はまだいいのですが、政府側がいかにも中途半端。
シンビオートの研究をしているペイン博士はティーンの頃のトラウマが最初に触れられますが、それ以外彼女のキャラクターは深掘りされません。
過去のエピソードが描かれるため彼女は重要そうなキャラクターに見えますが、出来事に対して彼女の気持ちが深く描かれることはあまりなく消化不良に感じます。
これなら、過去エピソードを入れてこなくてもいいのではないかと思いました。
もう一人パンフレットに名前も出ていないキャラクター、クリスマスの人です。
彼女は自らシンビオートを寄生させ、ヴェノムと共闘しますが、彼女に関してはその動機すら描かれません。
これだと話の都合上のいい宿主でしかなく、キャラクターの扱いとしては乱暴のような気がしました。
また今回登場したヌルについても、ラスボスではなく、こけおどしのような印象です。
サノスのような思わせぶりな登場で、今後SSUの中で重要な役割を背負うのかもしれませんが・・・。
ポストクレジットであったようにSSUでもヴェノムのカケラは残っているようなので、また新しいシリーズが立ち上がる可能性はあるかもしれません。
MCUのアース616にもヴェノムのカケラは残っていたと思うので、あちらの展開も依然として気になります。

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2024年11月 2日 (土)

「八犬伝」虚と実の対決

原作は山田風太郎の「八犬伝」。
学生の頃、山田風太郎にハマっていて所謂「忍法帖シリーズ」を古本屋で買い集めて読んでいました。
「八犬伝」おそらくその頃、新刊として発売されて手に取った覚えがあります。
「八犬伝」は滝沢馬琴と葛飾北斎の交流が描かれる実の世界と、馬琴が書いた「南総里見八犬伝」の世界が交互に描かれます。
そもそもなぜ、山田風太郎の作品をよく読んでいたかというと、その頃は夢枕獏や菊地秀行といった作家による伝奇ロマンというジャンルが流行っていてよく読んでおり、彼らの原点とも言えるのが山田風太郎作品であったので、そちらにも手をだしたためでした。
伝奇ロマンというジャンルは明確な定義はないと思いますが、SFや時代劇、ファンタジーというジャンルに、オカルト的な妖しげな要素が掛け合わされたものであったと思います。
山田風太郎作品でいえば、「魔界転生」などが挙げられると思います。
そのような伝奇ロマンの日本における原点とも言えるのが、滝沢馬琴による「南総里見八犬伝」です。
ですので「八犬伝」は山田風太郎が、その原点に対して挑んだ意欲作と言えるでしょう。
さて前段が長くなりましたが、映画についてです。
原作を読んだのが何十年も前なのでほぼ記憶にないのですが、映画の展開は原作に則っているように感じました。
虚の八犬伝パートは、非常にわかりやすく描かれており、馴染みがない方にも理解しやすいと思います。
若手が中心に八犬士を演じており、イキイキと描かれていました。
ただ狙いかどうかがわからないのですが、映像としてはやや安っぽいというか、書き割り感もあり、作り物のような印象がありました。
このパートは「虚」なので、この作り物感は意図しているものである可能性もあるのですが、個人的には安っぽさが気になりました。
もう少し、時代劇らしい重厚さがあっても良かったかと思います。
対して、滝沢馬琴と葛飾北斎が登場する「実」のパートは役所広司、内野聖陽というベテランを配置し、動きはないながらもドラマとして見応えありました。
特に感心したシーンは、歌舞伎座の奈落での馬琴と鶴屋南北とのやりとりです。
このシーンは馬琴と南北のそれぞれの「物語る」ということに対する、真逆の価値観がぶつかり合う場面で非常に緊迫感がありました。
馬琴は実の世界には正義はなく、そのために虚の世界で本来あるべき正義の世界を描きたいと考えます。
そのため馬琴は正義がなされる物語「忠臣蔵」を好んでいるわけですが、南北はこのような正義こそそもそもありえないと否定します。
「東海道四谷怪談」は「忠臣蔵」をベースとしておりますが、南北の狙いは「忠臣蔵」で描かれる正義を虚とすることにありました。
彼らの主義のぶつかりは静かながらも、緊張感あるもので見応えがありました。
この場面の演出も冴え渡っていたと思います。
真っ暗な奈落に立っている馬琴に対し、南北は舞台から首だけを出して逆さまのまま馬琴と対峙します。
南北自体が首だけの存在のように見え、虚のような感じもしました。
馬琴が対峙しているものが、悪魔のようにも見えるわけです。
結果、南北の言葉は馬琴に染み入り、彼自身が自分の生き方、価値観に疑問を持つきっかけとなるのです。
ところどころ気になるところはありましたが、2時間半という長尺ながら見せ切るパワーのある作品であったと思います。
改めて原作を読み直したい気分になりました。

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2024年10月20日 (日)

「ボルテスV: レガシー」同じ熱量

「超電磁マシーン ボルテスV」は1977〜78年にかけて放映されていたいわゆるスーパーロボットアニメ。
個人的には前作である「コン・バトラーV」の方が好きだったのだが、お年頃でこの辺りからスーパーロボットに興味を失った時期に当たるかと思います。
とは言いつつ、主題歌は歌えちゃったりするわけで、一通りは見ていたのでしょう。
さて本作はその「ボルテスV」をCGをふんだんに使った実写ドラマとしてフィリピンでリメイクした作品。
なんでフィリピンかというと「ボルテスV」は彼の地では何度となく再放送をされ、誰でも知っている日本のアニメとしての地位を確立しているのだそう。
知らなかった。
フィリピンのCGなんてどんなもんかいな、という疑問がありましたが、見てみるとなかなかどうしてCGロボットパートはなかなかに見応えがあります。
ここまで技術レベルが上がっているのかと驚きました。
「パシフィック・リム」の影響をもろに受けている感じで、大地を揺さぶる重量感が感じられます。
ボルテスV自体もオリジナルのデザインを残したまま現代的にリファインされていてかっこいい。
ちょうど「マジンガーZ INFINITY」のような感じのアレンジ具合ですね。
元々スーパーロボットなので、あまりリアルにリファインしても良さがなくなってしまうところですが、その辺りの匙がげんもわかっているな、という印象です。
垂涎ものはやはりボルトインのシーン(合体シーン)でしょう。
5つのメカが次々に合体し、巨大ロボットになるシークエンスは男の子なら必ず興奮することは間違いなし。
ああ、このスタッフで「コン・バトラーV」の「レッツ コンバイン」もやってほしい・・・。
ストーリーはベタと言えば、ベタ。
本作はフィリピンではドラマシリーズとして展開されていて、現在公開されているのはその劇場公開用に編集されたもの。
おそらくテレビシリーズの導入数話分をまとめたものだと思われるので、構成はどうしても物足りないところがあります。
ただベタさも含め、私が子供の頃らしい香りがするとも言えます。
そういった雰囲気や、わかっているなという感じがするのはフィリピンの制作者たちが子供の頃から「ボルテスV」に親しんでいたことが大きいのでしょう。
フィルムから熱量が伝わってきます。
見終わった後、劇場で席を立つと、ほとんどの観客は私と同世代(想定50代)。
あの頃子供だった人たちですね。
スタッフと同じく、観客も同じ熱量を持っておりました。

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2024年10月19日 (土)

「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」アイコン

<ネタバレ含みます>
社会現象ともなった「ジョーカー」の続編となります。
先行して公開されたアメリカでは、その賛否が話題になっていました。
賛否の内容は鑑賞前だったので読みませんでしたが、それなりの覚悟を持って見にいきました。
結果的に言うと、私個人としては本作は十分にアリであると思います。
確かにミュージカル的な要素も入っており、前作のジリジリとしたような感触もないので、そのままの雰囲気を期待した方には期待はずれだったかもしれません。
ただ、ジョーカー=アーサー・フレックという人物人物を深く描いていく、という点で本作は十分にその目的を達成できているように思いました。
前作で描かれたようにアーサーは「何者でもない者」でした。
才能もなく、誰からも注目されることなく、迫害されて生きてきました。
社会にとっても、誰にとっても、いなくなっても困らない存在。
それが前作で起こした一連の事件により、彼はカリスマとなりました。
一角の人物になりたかったという彼の願いは期せずして叶えられたのです。
一部の人々はピエロのメイクをし、社会を揺るがすようなことを行なった男を崇めるようになります。
その存在、ジョーカーは彼自身ではなく、はたまた彼の別人格でもありません。
彼は人として認められる存在になりたかったわけですが、結果的にはアーサーとしてではなく、ジョーカーとして認められしまったのです。
そのような中で彼はリーという女性に恋をします。
彼は彼女だけがアーサーという自分を認めてくれていると感じますが、真実は彼女が興味を持っているのはジョーカーでした。
アーサーは薄々それを感じつつも、彼女を手放したくない一心でジョーカーを演じます。
彼にはそれしか選択肢がありません。
祭り上げられたカリスマを演じる。
仮面を被りながら。
裁判所の公判でも、彼はジョーカーとして振る舞います。
そこが舞台かのように。
しかし、かつての友人の証言で彼は揺らぎます。
友人はジョーカーを自分が知っている本当のアーサーではないと言いました。
彼は人々が注目しているのはアーサーではなく、ジョーカーであることを悟ります。
そして、最後は彼は舞台から降りました。
人はアーサーを求めていたわけではなく、ジョーカーというアイコンを求めていたのです。
彼が仮面を外した時、彼を崇めていた人々は離れていきます。
リーも。
彼は再び、ただのアーサーに戻りました。
彼は意味のある存在になりたかった。
自分自身を愛してほしかった。
しかし、母親も誰も彼を愛することはなかった。
最後は結局彼はひとりぼっちとなりました。

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2024年10月14日 (月)

「室井慎次 敗れざる者」いまさら感と前振り感

テレビドラマ「踊る大捜査線」は夢中になって見てました。
青島風のモッズコート購入したりして。
当時の刑事ドラマの定石をことごとく無視をして(いい意味で)、新しいスタイルを生み出したと思います。
「踊る大捜査線」は刑事もの、警察ものというジャンルではなく、お仕事ムービーなんじゃないかと思います。
お仕事ムービーは今は一つのジャンルとなっていますが、その先駆けとも言えるかと思います。
シリーズ開始してから27年経ちますが、今になって突然の「踊る大捜査線」のスピンオフが本作になります。
今までも映画やスペシャルドラマなどでこのシリーズのスピンオフは数々作られてきました(スピンオフというものが定着してきたのも本作の功績かも)。
ドラマ好きであれば、リンクやカメオなどで楽しめる要素はあるのですが、作品としてはやはりパワーダウン感は否めない印象です。
やはり「踊る大捜査線」はあの湾岸署のメンバーがあってこそなんだな、と。
なので、正直「いまさら感」は感じながら、本作を見にいきました。
まず説明しておくと本作は2部作となっています。
「敗れざる者」はその前編ということになります。
そういうことなので致し方ない部分はありますが、本作は非常に前振り感ばかりを感じてしまう印象です。
後編で事件が大きく動くのかもしれないですが、そのためのさまざまな伏線らしきものを張っているだけのように見えました。
そして起こっている事件も、過去の作品での出来事が伏線となっています。
ファンにはたまらないのかもしれないですが、正直、過去の遺産で食っているような印象も受けました。
また主人公の室井慎次という男がなかなか扱いにくい。
無口であり、自分の考えを自分から話す人物ではありません。
彼は青島のようなキャラクターに影響を受け、変わっていくことによって生きていくのだと思います。
本作ではそのような人物はいませんし、彼は諦念と後悔も含め、彼の生き方自体は揺るがない男です。
なのでドラマが非常に動きにくい。
そのためか、犯罪によって身寄りを失った子供たちが出てくるのだろうと思いますが、そのような活動をしようとすることにした室井の気持ちに触れられていないため、ドラマを動かすためというような機能が見え、とってつけた感がしてしまいます。
2時間淡々と過ぎていき、感情的な盛り上がりはあまり感じらません。
1本の映画としてはなかなか見れず、後編の前振りのような印象になったというわけです。
このモヤモヤは後編で解決するのでしょうか。
後半の予告的なものはポストクレジットで見れましたが、盛り上がるような印象はありました。
感じているモヤモヤが晴れることを望みます。

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2024年10月13日 (日)

「侍タイムトリッパー」滅びゆくもの

「カメラを止めるな」の再来と呼ばれる「侍タイムストリッパー」を見てきました。
少数の劇場からスタートして、次第に大手のシネコンでも公開が始まり、私が見た時も公開からしばらく経っていましたが、かなり人は入っていました。
時代劇というジャンルは衰退期に入っています。
劇中でも言われていましたが、私が子供の頃は毎日のようにテレビでは時代劇が放送されていました。
私の場合も母親が時代劇好きで、学校から帰ってきたらおやつを食べながら再放送の「水戸黄門」やら「大岡越前」を見ていたのを覚えています。
ですので、時代劇というジャンルには個人的にも思い入れがあり、最近時代劇が少ないのはちょっと寂しい気もします。
本作の主人公高坂は会津藩士で、京で討幕を企む長州藩士の動きを探っていました。
長州藩士風見を討とうとした時、突然落雷に見舞われ、気がつくと高坂は現代にタイムスリップしていたのです。
彼はその事実に困惑しながら、偶然知り合った京都撮影所の助監督優子の助けを借りて、時代劇の切られ役として暮らしを始めます。
本作では滅びゆくものへの想いが語られているように思いました。
一つは時代劇です。
冒頭で書いたようにかつては毎日のように放送されていた時代劇ですが、今は斜陽。
それに関わっていた人々もそれは感じつつ、それでしか生きていけないという気持ちと、その文化を守っていきたいという思いを持ちながら生きています。
時代劇を離れるということは、それまでの自分を否定することにもなりますから、辛いですよね。
そしてもう一つは幕府を守りながら滅んでいった会津藩。
数々のドラマや映画で会津藩の顛末については語られています。
幕府に対する恩を感じ、衰退する幕府に殉じていった会津藩士たち。
時代が変わりつつあることを理解しつつも、それに抗った者たち。
時代劇にこだわり続ける人々と会津藩士たちには相通じるものがあります。
そしてその切なさを両方持っているのが主人公高坂なのですね。
高坂は会津藩が信じるものに殉じて滅んでいったことを知ります。
それはもう過去であり、変えることはできない。
そして自分が第二の人生で、愛するようになった時代劇。
それも滅びようとしています。
一つはもう取り戻せない。
自分は何もできなかったという後悔の気持ちが彼にはある。
しかし、もう一つは自分も抗うこともできるかもしれない。
そして、彼の宿敵として立つ風見は、会津を滅ぼした新政府軍の長州藩の藩士であり、そしてまた時代劇を捨てた男でもありました。
高坂は自分が失い、失いそうになるものを滅ぼし、捨てた風見が許せなかった。
それが最後の真剣での勝負につながります。
そして、剣を切り結ぶ中で、風見もまた多くを失ってきた者であるということを理解するのです。
言葉でなく、剣を通じながら相手を理解するという展開も胸が熱くなります。
お二人の演技も熱がありました。
時代劇の熱さを感じさせてくれる作品になっていたと思います。
斜陽と呼ばれるジャンルでも時折、このような熱くなれる映画が作られます。
西部劇などもそうですよね。
それが脈々と文化を繋いでいくように思います。

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2024年10月11日 (金)

「シビル・ウォー アメリカ最後の日」真の分断

社会的分断が課題として語られて数年、ちょうどアメリカは大統領選挙の年でさらにその点についてフォーカスされており、非常にタイムリーなタイミングで公開されました。
ただ本作は何かしらの政治的価値観が語られているわけではありません。
どちらかというと他人の価値観を受け入れられない社会となった場合、どれだけ人が不寛容になってしまうのかということを描いているように思います。
そしてその社会を良い悪いという価値観ではなく、客観的に描いているため、より一層リアリティが増して感じられます。
その語り手としての役を担うのが主人公たち。
彼らはジャーナリストであり、内戦のきっかけを作った大統領への単独インタビューを行うため、ワシントンを目指します。
主人公リーは実績のあるジャーナリストであり、常に客観性持つことを意識しています。
彼女は目の前でどれだけ凄惨な出来事が起ころうとも、冷静にその事実をカメラに収めます。
冷徹とも言えるかもしれません。
戦場カメラマンとして彼らは軍隊とともに活動しますが、本作を見ているとカメラマンと射撃主の使う言葉が同じであることに気づきます。
シュート、リロード・・・。
シャッターを切ることもシュート、引き金を聞くこともシュート。
カメラにフィルムを詰めるのもリロード、銃に弾丸を込めるのもリロード。
彼らはレンズを通して相手を冷静に見つめ、その姿を捉えるという行為は全く同じです。
彼らが目にするのは人間性など感じられない行為かもしれません。
それにレンズを向ける時、人間的な感情は持っては耐えられないのでしょう。
リーたちがワシントンへの旅の中で、排他的な価値観に支配された武装集団と遭遇します。
彼らの理屈は許容できるはずもないのですが、それが何の疑問もなく実行されているところに恐怖を感じます。
彼らは狂っているわけではなく、彼らの価値観において正しく行動しているだけなのです。
正しさというのは、それぞれ基準があり、その基準自体がずれてしまった時、なす術がないということが恐ろしい。
意見を調整するという余地もない。
調整する必要すら感じられていない。
これが真の分断なのでしょう。
結局本作の物語においては、分断を違憲のすり合わせで解決したわけではなく、暴力によって制圧したということになります。
制圧された大統領はファシスト的であったため、見ている我々としては正義が遂行されたように感じますが、もしかすると逆になっている可能性もあるわけです。
現実の世界でも中東は非常にきな臭くなっていますが、それぞれの正義が主張され、調整することなく力で決着しようとしているように見えます。
本作はフィクションですが、ありうる未来とも言えます。
これが現実とならないよう、異なる価値観にも寛容でありたいと思いました。

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2024年9月29日 (日)

「ビートルジュース ビートルジュース」彼が戻ってきた!

自分がティム・バートンを知るきっかけとなり、好きになったのが「ビートルジュース」。
唯一無二とも言えるティム・バートンの不条理な世界観に完全に魅了されました。
その後は彼の作品が公開されれば、劇場に必ず足を運ぶようになりました。
彼の作品は好きな作品はいくつもあるのですが、その中で不条理さと楽しさで言ったら、今でもNo.1なのが「ビートルジュース」。
それがまさかの30数年経っての続編です。
出演者は1作目でリディアを演じたウィノナ・ライダーが同じ役で続投です。
そして彼女の娘アストリッドを演じるのが、ドラマ「ウェンズデー」で主人公を演じたジェナ・オルテガ。
「ウェンズデー」を見た時から、彼女は見た目の雰囲気が絶対にティム・バートン好みだろうと思っていましたが、やはり起用してきました。
そしてビートルジュースを演じるのはマイケル・キートン。
この役は彼でなくてはいけません。
リディアはやはり30数年を経た変化をしていましたが、ビートルジュースは全く変化を感じません。
霊界の住人なので、当たり前です。
映画のテイストはしっかりと前作を踏まえたものになっていて、旧作ファンとしては楽しめました。
監督がこだわったという、以前のようになるべくVFXを使わない映像も味わい深いです。
前作でとても好きだったシーンが「バナナボート」の場面なのですが、それを踏襲したようなシーンも本作にはありますね。
前作好きとしては、好みだった部分を押さえていてくれていてとても嬉しかったのですが、逆にいえば、新たな驚きがあったとは言い難いです。
いくつかのシーンは前作を踏襲したものであり、それはそれで嬉しく思いつつも、マンネリ感は感じました。
またドラマ部分も前作では、心を閉ざしていたリディアがメイトランド夫妻との交流を通じて、心を開いていくという過程が縦軸であり、ドラマとして背骨がしっかりした印象がありました。
本作はリディアとアストリッドの関係、そしてビートルジュースと元妻ドロレスとの関係など複数プロットが走っているので、やや複雑さがあるのと、メインのラインがわかりにくい印象がありました。
続編として変化を出す工夫だったと思いますが、塩梅が難しいですね。
あと最後に気づいたブラックなネタを。
これは制作サイドが意識していたかどうかはわからないですが・・・。
ウィレム・デフォーが演じる霊界の刑事ですが、彼は頭の半分を拳銃で吹っ飛ばされています。
彼は生前は俳優だったらしく、撮影中にダミーではなく実弾で誤射されて亡くなったようです。
1作目の「ビートルジュース」でアダム・メイトランドを演じていたのはアレック・ボールドウィンです。
彼は3年前撮影中に、実弾が込められた銃でスタッフを撃ってしまったという事故を起こします。
責任は銃を管理していたスタッフにあるようですが・・・。
これはかなりブラックなネタだなと思いました。

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2024年9月15日 (日)

「スオミの話をしよう」シチュエーションコメディ止まり

三谷幸喜さんお得意のワンシチュエーションコメディですね。
今まで三谷作品は色々と見てきましたが、中でも「12人の優しい日本人」(脚本)が好きなのですよね。
ストーリーが進むに従って、たくさんいる登場人物たちの本当の気持ちが明らかになっていく過程が、三谷さんならではの緻密な構成です。
本作ではスオミという女性が失踪(誘拐?)し、彼女を救うために5人の夫たちが集合するというシチュエーションです。
しかし、彼らが語るスオミは同じ人物とは思えないほど違います。
どれが本当のスオミなのか?
誘拐(?)事件が進行していく過程で、彼らが話していく中で、スオミ像が次第に明らかになっていきます。
それは、スオミの本当の姿を探っていく過程でありながら、それぞれの夫の本当の生き方・価値観を明らかにしていきます。
これは先ほど挙げた「12人の優しい日本人」にも通じる構成であると思いました。
ただ「12人の優しい日本人」に比べると、それぞれの人物の本当への踏み込みはだいぶ浅いような印象です。
「12人の優しい日本人」では犯人について語りつつ、次第にそれが陪審員たちの本当の気持ちが浮き彫りになり、心を揺さぶられるところがありました。
しかし、本作はそれぞれの登場人物の価値観までは触れに行くものの、彼らの本当の気持ちまではタッチできなかったように思います。
ところどころ彼らの振る舞いに笑わされたものの、気持ちが動くまでは行かなかった印象です。
シチュエーションコメディで止まってしまっていたかな。
ちょっと勿体無いです。

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