2018年10月14日 (日)

「SUNNY 強い気持ち・強い愛」 コギャル文化の特殊性

公開開始後ずいぶん経ってから劇場に行きました。
お客さんは7〜8割くらいは女性だったと思います。
1990年代「コギャル」と呼ばれた女子高生たちがイキイキと文化を牽引していた時代。
そんな時代に「SUNNY」という仲良しグループを結成していた女子高生たち。
それから20数年経ち、彼女たちは一人の仲間をきっかけにして再開します。
隣に座っていた女性は、かなり前半から泣いていました。
確かに、主人公ががんを宣告された友人に出会い、それから他の仲間たちを探していく中で、心に響くエピソードはあります。
けれど泣くほどではなかったと感じたのですが、よくよく考えてみると「あの時代」を自分ゴトとして受け止められるか否かがこの作品の評価につながるのではないかと思いました。
隣の女性は(しっかり顔を見たわけではないですが)30〜40くらいの方だったように思います。
ちょうど主人公くらいの年齢だったのかもしれません。
彼女はちょうど「あの時代」を生きていた人だったのかも。
私は90年代は社会人になったばかりの頃で、「コギャル」と呼ばれた女子高生たちのスタイルは、自分からしてすでに異世界な文化に見えました。
彼女たちの象徴的なアイテムとしてルーズソックスがありますが、なんであれがカワイイのかがわからなかったですからね。
足首の太さを隠すためじゃないかと邪推したものです。
本作に登場する女子高生たちを見ていても「確かにこんな感じの娘たちはいたな」とは思いますが、自分が懐かしむような感覚は持てませんでした。
映画で過去のある時代を描く話というのはいくつもありますが、それによって共感性がないというわけはありません。
例えば自分自身は80年代がティーンだったわけですが、60年代を描いているからといって感動しないわけじゃない。
何かしら時代とは関係がない共通の感覚があって、それが共感性を引き出すのだと思います。
しかし、本作でいうと「コギャル」という存在が文化的にかなり特殊であるというように描かれていて、他の時代を生きた人からすると、その特異性により共感が阻害されているのではないかと感じました。
もちろん普遍的な人の気持ちが描かれていないわけではありません。
ジンとくる場面もいくつかありましたが、でもコギャルの圧倒的な存在感にちょっとひいてしまう感じがしました。
唯一登場キャラクターで共感しやすかったのは奈々でした。
彼女はコギャル文化の中に生きながらも何か冷めたところも持っている子であったので、逆に自分からするとわかりやすく、なじみやすいところがありました。
演じる池田エライザは演技をするのはほとんど初めて見ましたが、いいですね。
モデルをやっている女子高生という役柄ですので、それにあった存在感がありましたし、少し影のある役も似合っていたと思います。
「コギャル」文化の特殊性が際立っているため、個人的には共感が薄かったと書きましたが、この時代をリアルタイムで高校生として過ごしていた方が見たら、違って捉えるのでしょうね。
自分の奥さんはこの時代を生きた人なので、見せて感想を聞いてみたいと思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 1日 (月)

「散り椿」 日本人の美意識

この作品の前に観たのが「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」。
それぞれの作品が持つ価値観が、あまりに違うのでギャップに戸惑います(笑)。
本作はまさに日本人が(かつて持っていた)生き方の美意識を描こうとしていると言えるでしょう。
大義のために自分の命を犠牲にしようとする。
愛する人の想いを叶えるために自分の人生を賭ける。
友を救うために自分の命を捨てる。
誰かのために自分の想いを伏せる。
本作に登場する人物は皆、人のために自分の大切なものを犠牲にします。
それは自己犠牲的であり、極めてストイックな生き様です。
自由であることを重要視する現代に生きる人から見れば、それはとても不条理に見えるかもしれません。
人に縛られ、家に縛られ、藩に縛られる。
全く自由とはかけ離れているようにも思えます。
しかし、果たしてそうでしょうか。
彼らは皆、その生き方を自分で選んでいます。
人のため、大義のために自分の人生を賭ける。
それを選んでいる。
それはある意味、自由であるようにも思えます。
不自由な生き様に見えながらもその生き方に美しさを感じてしまうのは日本人だからでしょうか。
本作で描かれる映像は一言で言えば「静」でしょう。
人々の佇まいも静かです。
彼らが暮らす家にも街にも自然にも、余計なものはありません。
時代劇ですので殺陣も当然ありますが、極めて抑制的です。
チャンバラではありません。
主人公新兵衛が振るう剣は、一瞬。
瞬間的剣を抜き、相手を斬る。
まるで無駄がありません。
人々の想いもあからさまではありません。
言葉少なに自分の心よりも相手の想いを尊重する生き方。
これも抑制的であると言えるでしょう。
しかし重ねて書きますが、抑圧的ではないのですよね。
本作で描かれているのは余計なものを全て排除した時に残っている人の純な想いと言えるでしょう。
無駄なものが削ぎ落としているからこそ、それが純粋で美しく見える。
それが日本人の美意識なのかもしれません。

冒頭に書いた「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」と比べると全く逆で面白くもあります。
「マンマ・ミーア!」で描かれるのは自分がやりたいように人生を謳歌する自由さが描かれ、劇中ではアップテンポな音楽が流れ、ポップな色彩に溢れています。
対して「散り椿」では、人のために自分の人生を賭けるストイックさが描かれ、劇中の音楽は静かで、色彩のトーンも無彩色のように抑えられています。
どちらの生き方が良いかどうかではなく、作品それぞれの価値観が映画を表現する全てのものに反映されていることが興味深かったです。
このような視点も非常に面白い見方ではないかと思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」 奔放な娘

大ヒットしたミュージカル映画「マンマ・ミーア!」の続編です。
前作が公開されたのがちょうど10年前。
もうそんなに経ってしまったんですね。
始まってちょっとびっくりしたのは前作でメリル・ストリープが演じていたドナが亡くなっているという設定でした。
あれ、予告に出てこなかったっけ?

前作を観たのが10年前だったので、あまり内容を覚えていなかったのですが、女子話で盛り上がっている印象で、そのためかちょっと置いてかれていってしまったような気分だったように思います。
洋楽は全く詳しくないので、ABBAと言われても聞いたことあるなーという感じでしたし。
ですのでミュージカル映画は好きな方なのですが、それほど乗れなかったように記憶しています。
その印象は本作でも同様でした。
本作はドナの遺志を継ぎ娘のソフィアがホテルを改装オープンしようとする現代パートと、ドナが初めて島を訪れてソフィアの3人の「父親」に出会うかこの話を平行に描いています。
前作のドナと友人たちはかなりかしましい感じがありましたが、過去パートで描かれるドナと友人たちも若さもあってか、さらにかしましい。
時代の影響もあるのかもしれないですが、若かりしドナは非常に奔放で自由。
新しいものを見てみたい、自分にふさわしい場所を見つけたいという気持ちで世界をめぐり、ギリシャのある島にたどり着きます。
そこで将来ソフィのパパとなる3人と出会うわけです。
3人がパパ候補ということは、それなりのことはなされているわけで。
ほんと奔放です。
けれどドナは流されるわけではなく、すべて自分の意思と感情に基づいて行動をしています。
誰かのためではなく、自分のため。
それはそれで有意義な人生ですよね。
自分自身が共感できるか、というとそうではないのですけれど。
ですのでキャラクターに共感できて面白かったという印象は持ちませんでした。
これは前作と同様です。
男性と女性では本作の受け止め方は違うのかな。
監督はロブ・パーカーで、私は全く知らない方でした。
ミュージカルは初めてなのかな、ミュージカルパートの演出はいまいちだったような気がします。
ちょっと古臭かったかな。

あと久しぶりにアンディ・ガルシアを観たら、すごいカッコいいおじいさんになっていましたね。
こういう風にカッコよく老けられるといいです。
若い時よりもカッコ良い感じがしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月29日 (土)

「MEG ザ・モンスター」 意外にも王道アクションスリラー

「ジョーズ」の大ヒット以降、人食いザメと人々の戦いを描くスリラーは数多くありますよね。
なぜ多くのサメ映画が作られているのでしょう?
それはスリラーとして魅力的な設定だからなのだと思います。
魅力的である理由の一つは、戦いのフィールドが人間が住まう陸上ではなく、海ということでしょう。
海では人間は努力をしなくては生き続けることはできません。
当たり前ですが水中では呼吸もできませんし、魚のように自由に動くこともできません。
つまり海は人間にとって完全にアウェイな環境であるということです。
また海上では海中に何がいるか全く人にはわからないということですね。
人間にとって目は、敵を捉えるのに最も有効な感覚器官ですがそれが海では封じられるのです。
海上から海中を見通すことはできないですし、海中に入ったら入ったで暗くて何も見えない。
海中に暮らす生物は、音波であったり、水の動きなどを捉えて、敵を捕捉しますが、人間にはそれはできない。
ソナーで敵を捉えることはできるかもしれませんが、見えない分、かえって恐怖は増してきます。
そして最後にサメというのは、生物史上でも最も凶暴と言われる生き物です。
情け容赦などなく目の前にいる生き物を飲み込んでいく殺戮マシーン。
人間などひとたまりもありません。
生存する上で厳しい場所で、状況もわかりにくい中、そして人間が太刀打ちできない凶暴なモンスターと相対する。
スリラーとしては申し分のない状況設定ですよね。
それがスリラー映画の題材としてサメが取り上げらる理由だと思います。
カンのいい方はわかるかもしれませんが、これまでの話の海を宇宙に変えると、「エイリアン」になるのですよね。
まさにスリラーの王道というわけです。

このように数多くあるサメ映画ですが、そうは言ってもその多くはB級映画。
B級にすら届かないトンデモ作品も多くあります。
本作もそのような類かなと思っていたら、意外や意外結構楽しめました。
さすがにA級とは言いませんが、普通にアクションスリラーとして楽しく観ることができました。
それも基本的には「エイリアン」のような王道のスリラーの構成をとっているからでしょうね。
原作は随分前に読んだことがあり、こちらも面白かったと記憶しています(内容はすっかり忘れていますが)。
エンドロールで初めて知りましたが、監督はベテランのジョン・タートルトープ。
しっかり作ってあるのも納得です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月22日 (土)

「プーと大人になった僕」 何にもしないことをする

正直言って、むかーしのディズニーのアニメーションはほとんど見ていません。
「シンデレラ」とか「白雪姫」とか、そして「くまのプーさん」も。
子供の頃は「ウルトラマン」や「仮面ライダー」や日本のアニメの方に夢中だったんですよね。
もちろん、それらディズニーのアニメのお話はしっています。
絵本やら何やらを読んでいたからでしょう。
「くまのプーさん」については絵本を読んだ記憶があります。
はちみつ食べ過ぎて、家から出れなくなったエピソードとか。
赤い風船のイメージもありますね。

大人になると時間が限りあるものだと知ってしまいます。
やらなきゃいけないことは山のようにある。
仕事もそうだし、家族のことも、その他のことも。
時間は限られているから、そういうやらなきゃいけないことをやるために細かに計画を立てる。
スケジュールを作る。
けれどもそれでも回らなくなって、何かを犠牲にしてしまう。
時間をうまくコントロールしようとしているのに、逆に時間に振り回されてしまったりする。
子供の頃は、時間が限りあるものなんてあまり思っていなかったかもしれません。
今日できなかったら明日やればいいし。
だからやりたいことを今日やる。
なーんにもやらずに、ゴロゴロしていることもある。
明日やればいいから。
大人になったら、こんなことはできません。
仕事でも効率化と叫ばれ、どれだけ生産性を上げられるかとことを考えてばかりいます(大事なことですけれどね)。
空いてる時間にぼーっとしていると何か悪いことをしている気になってしまう。
いつしか疲れ果てて、なんのために効率化しているのかもわからなくなってしまったりもするかもしれません。
ほんとは自分のしたいことをする時間を作るためだったのに。
「何にもしないことをする」とかつて子供であったクリストファー・ロビンは言いました。
今の時代、ほんとそういう風に覚悟をして「何もしない」ということをすることが大事なのかもしれないですね。
そういう風に時間を使うと、走りながらでは見えないことが見えるかもしれません。
意識的に立ち止まることもしなくてはいけないですね。
まさに「何にもしないことをする」です。

本作は時間が合わず、吹き替え版で観ました。
私は基本的には洋画は字幕派なのですけれども、本作は吹き替え版もよかったですね。
クリストファー・ロビンの声をあてていた堺雅人さんがこのキャラクターのイメージにぴったり。
このキャラクターは大人にはなっているけれど、かつて純粋だった少年の心をかすかに持っているところがあるのですよね。
それが堺さんのイメージと非常に合っていました。
いいキャスティングだったと思います。

あとイーヨーのすごいネガティブなキャラクターが面白かったですね。
全てを悲観的に捉えてる!
ここまでネガティブだと清々しくも感じます。
アニメ版でもこんな感じなのかな。
ちょっとアニメ版見てみたくなりました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「スカイスクレイパー」 粘着テープはなんでもできる

これからは一家に一つは粘着テープは常備ですね!
これはこの映画を観れば、何を言っているかわかります(笑)。
一つだけ言うと、「ミッション:インポッシブル」のトム・クルーズはハイテクの吸盤グローブでしたが、本作のドゥエイン・ジョンソンはローテクの粘着テープってこと。
ドゥエイン・ジョンソン主演のアクション大作なので、細かいことは言いっこなしで楽しむのが良いですね。
ビルの中にテロリストたちが侵入し、その中に閉じ込められた男が家族のために孤軍奮闘するというお話は、かの名作「ダイ・ハード」を彷彿させます。
本作は「ダイ・ハード」ほど脚本が練り上げられているわけではなく、もっとストーリーは荒っぽい。
ストーリーもアクションも見た目も、大衆的なウケを意識しているように派手なのですよね。
これは製作しているレジェンダリーフィルムの元々の傾向ではあるのですが、中国企業に買収されてからは益々その傾向は強まっている気がしますね。
彼の国ではこういうタイプの映画が受ける傾向があります。
それはさておき、本作では”ロック様”が巨体と溢れんばかりの愛を駆使して、ありえないことを成し遂げる姿を堪能するべきでしょう。
いつしかこの方は大衆向けアクション映画のヒーローになりましたよね。
ドゥエイン・ジョンソンはタフネスさと同時に、優しさを感じさせるところがちょっと他の人とは異なるところでしょうか。
大きな体による包容力というか、守られている感じがするというか、そんな頼り甲斐があるのですよね。
この人なら絶対守ってくれる!という感じがします。
それがどんな無理筋の状況でも安心して観れる所以でしょうか。
あまり考えず”ロック様”の愛に身を委ねるのが良いでしょう。
ただし、高所恐怖症の方は要注意。
私は高いところ苦手なので、途中は非常にお尻のあたりがムズムズするような場面がありました(汗)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月17日 (月)

「ザ・プレデター」 矮小化されていくプレデター

「プレデター」シリーズというのは、もともとB級の映画ではあるのですが、今回のはB級にすら到達していなかったような。
オリジナルの「プレデター」も映画としては、少々乱暴なつくりなのですよね。
前半は「エイリアン」的な未知の生物に襲われ追い込まれていくサスペンス感があり、後半はシュワルツェネッガーらしい「コマンドー」なテイスト。
当たった映画のエッセンスをくっ付けたようで、前半、後半でややトーンが変わっているところが乱暴な感じを受けるところなのですが、プレデターというキャラクターの唯一無二なオリジナリティが雑さを補って余りあるのですよね。
荒っぽいつくりなところがB級映画らしい所以で、だからこそ愛すべき作品になっていると思います。
実際初めて見たときはそれほどぐっとこなかったのですが、何度も観て好きになっちゃったんですよね。
「プレデター2」はシリーズの中では一番好きな作品なのですが、それはこれが一番ストーリーとしてはしっかりとしているから。
人間がプレデターに狩られるというエッセンスは保ったままで、プレデターとは何なのか?という謎に迫ろうとしているのがこの2作目です。
一作目はそもそもシリーズ化しようなどという意図はなかったでしょうからプレデターという存在にはほとんど説明はありません。
獰猛でありながら、知恵とテクノロジーを持った狩猟者。
そこだけ。
しかし、「プレデター2」によってプレデターの設定がしっかりと成された。
それがその後のシリーズ展開に繋がっていきます。
しかし、その後のシリーズは卓越したものはなかったように思います。
「エイリアンVSプレデター」の2作品は映画のシチュエーションとしては驚きましたし楽しめましたが、それだけと言えば、それだけ。
どちらかと言えば、イベントムービーのような趣だったと思います。
「プレデターズ」は観た時は楽しんだと思うのですが、何年か経つとさっぱりストーリーが思い出せない。
あまり印象的な作品ではなかったようです。
さて本作「ザ・プレデター」ですが、観ている時から新しさは感じなかったですね。
アクションはそれなり、キャラクターもそれなりでこれといった惹きつけられるポイントがありませんでした。
「AVP」的なイベント感もありませんでしたし。
たぶんストーリーと設定がいけなかったのではないでしょうか。
戦うために進化していくという設定は、どこかで既視感があります。
プレデターのライバルのエイリアンがそうなのですよね。
あちらも人間の遺伝子を取り込んだハイブリッドが登場しています。
あちらにも通じることなのですが、人間の遺伝子を取り込んで最強になるなんて、人間が一番と思っている思想なのではと思ったりもします。
人間など歯牙にも掛けないモノだからこそ、恐ろしいわけなのですよね。
人間と通じるところが出てくると急に矮小化してしまう。
いくら3メーターのプレデターといっても倒せそうな気がしちゃうわけです。
最初のプレデターは絶対倒せなさそうでしたもん(あれはシュワルツェネッガーだから倒せた!)。
そういう圧倒的な感じがなくなってしまったから、このシリーズはだんだんとこじんまりとしてきたのではないでしょうか。
人間がおよびもつかない存在であるということがやはり緊張感を生み出す。
そう言えば「ゴジラ」もそうでしたね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「アントマン&ワスプ」 ヒーローとダイバーシティ

「アントマン&ワスプ」
本作が公開する前から気になっていたことは、一連のマーベル・シネマティック・ユニバースの時系列のどこに位置付けられているかということ。
アントマンは「シビル・ウォー」には参加していましたが、前作の「インフィニティ・ウォー」では姿を見せず。
本作で語られる物語が、サノスの指パッチンの前なのか後なのかというとことが一つのポイントです。
「インフィニティ・ウォー」にアントマンが参加できなかったことはすぐに語られていて、「シビル・ウォー」の時に当局に捕まってしまったため、ずっと自宅軟禁中だったというわけですね。
なるほど・・・。

「インフィニティ・ウォー」でかなりシリアスな展開になった後の最新の作品が本作「アントマン&ワスプ」。
この作品はトーンが全体的に明るいので、深刻さがちょっと緩和されてシリーズ全体でいうと一服のお茶のようなホッとした感じがありますよね。
アントマン=スコット・ラングの友人であるルイスが自白剤をうたれて、ペラッペラ喋るくだりはバカバカしくて結構好き。
なかなかああいうテイストは「アベンジャーズ」ではできないですよね。
この作品タイトルが「アントマン&ワスプ」なのですが、主人公はアントマンというよりは、タイトルのまんまワスプも加えたダブル主人公という感じがしました。
エピソードはピム博士とその妻、そしてホープ(=ワスプ)の家族の話が中心なので、どちらかといえばワスプの方が主人公ぽい。
ちょいとアントマンは影薄いかな。
そういう点でいうと実は本作はマーベルの一連のマーベル・シネマティック・ユニバースの中ではターニングポイントとも言える作品かもしれません。
アメコミヒーロー物というと、今までは男性、そして白人が主人公のものが多かったですよね。
最近は「ブラックパンサー」でマーベル初の黒人ヒーローが登場していますし、DCですが「ワンダーウーマン」がヒットしたのも記憶に新しいところ。
だんだんとヒーローの世界もダイバーシティを意識し始めているのかもしれません。
今後登場が予定されているのは「キャプテン・マーベル」でこちらは、マーベル初の女性ヒーローの単独作品です。
こちらは若き日のニック・フューリーも登場するということで、マーベル・シネマティック・ユニバースとしても重要な位置づけになりそうです。
大きくフェーズも変わろうとしている中で、ヒーローの有り様も変わっていくというタイミングなのかもしれないですね。

あと一つ残っていた疑問は、指パッチンの前か後かということですけれども、それは最後に明かされます。
ネタバレになるので、ここでは記しませんが。
アントマンが今後のインフィニティ・ウォーにおいて、大きな役割を果たしそうなことが伺えます。
ますます楽しみになりますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 8日 (土)

「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」 このシリーズの見方

最新作の「ミッション:インポッシブル」の監督は前作「ローグ・ネイション」に引き続きクリストファー・マッカリーが担当です。
「ミッション:インポッシブル」は毎回新しい監督の血を入れて、鮮度を保ってきたので、この判断は意外でした。
「アウトロー」でもトム・クルーズと一緒でしたらから、二人はよほど相性がいいのかもしれません。
調べてみるとクリストファー・マッカリーは「ワルキューレ」「ミッション・インポッシブル/ゴースト・プロトコル」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」「ザ・マミー」などトム・クルーズ主演・製作作品の脚本も担当していて、彼の信頼が厚いことがわかります。
「ミッション:インポッシブル」シリーズの最大の見せ所であるところのアクションは前作から引き続き、肉体を駆使したリアリティ感のあるものになっています。
最近のアクション映画はグリーンバックなどでCGを駆使したものも多いですが、本作ではパリでのカーチェイスシーン、ヘリのアクションシーンなどは実景のものが多いです。
やはりこのように撮っているものはCGとは異なりやはり空気が違う感じがして、それが見ている側にも伝わってくると思います。
私はガジェットを駆使するスパイ映画らしいアクションも好きなのですが、本作のようなタイプのものも緊張感があるので、食い入って見てしまいます。
ラストの山でのアクションシークエンスは、ほんとにこれでもかこれでもかと畳み掛けるシーンの連続でした。
鑑賞時には横に外国人の方が座っていたのですが、「オーマイガー!」「ジーザス!」とかずっと言っていましたもん(笑)。
本作はIMF、CIA、ソロモン・レーン、ジョン・ラークなど敵味方が入り乱れて進んでいく意外と複雑な脚本なのですが、途中で誰と誰が組んでいるかといった展開をついていこうとも諦めました。
どちらかというと映画の流れに身を任せて、次から次へとやってくる危機をイーサン・ハントと仲間達がいかにくぐり抜けていくかということを楽しんでいけばいんのですよね。
それが「ミッション:インポッシブル」シリーズの見方なのかもしれません。
本作が今までとちょっと異なるのは、過去の作品に登場したキャラクターたちが何人か出てくることですね。
それもイーサン・ハントに関わりが深い人々が。
そのためシリーズを総括している感がなくもないのですけれども、まだまだ続きますよね。
トム・クルーズが頑張れる限りは続けてもらいたいシリーズです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2018年9月 2日 (日)

「検察側の罪人」 法の限界

正義というものは、一人一人で少しづつ異なっているものです。
それぞれがそれぞれの正義を押し通そうとした時、様々な争いが生まれるわけで、正義をある基準で定めたものが法律ということなのかもしれません。
しかし、法律も万能ではなく、全ての人々の正義を満たせるものではなく、また曖昧さも持ち合わせているものなので、解釈でも人により差が出てくるものです。
「検察側の罪人」という作品では、正義の基準を守るべき人々が己の正義の基準を優先させて一線を越えていってしまうことを描いた物語です。
まずは木村拓哉さん演じる最上検事。
彼の執務室に飾ってあったのがガベルです。
これは洋画を見ていると裁判のシーンで見慣れている、判事が判決を申し渡す時にコンコンと叩く小槌です(日本の裁判所では使われていませんが)。
検察官の仕事は立件することですが、もちろん立件したからといって罪が確定するわけではありません。
裁くのはあくまで裁判所です。
しかし、最上は、いつしか裁くことができるのは自分であるという錯覚に陥っていたのかもしれません。
判決を言い渡すことの象徴であるガベルを飾っていることがそれを表しています。
また訴追することは検事の仕事ですが、それはあくまで検事という立場に与えられた権限です。
当然のことながらそれはその個人に付託されたものではありません。
そしてまた刑を執行することも検事の仕事ではありません。
法律の壁によって犯罪を犯した者を裁くことができないと感じた時、最上は自らの手で罪を償わそうとします。
心情的に彼の気持ちはわかります。
一人の少女が、ただ欲望を晴らすためだけに殺された。
許されていいわけがありません。
しかし、法律を逸脱してしまっては、社会の基準が崩れて行ってしまう。
その基準が崩れていってしまうと、社会は混乱していってしまうでしょう。
状況的には罪を犯していると思われるのに、それを証明することができない場合は罪を負わせることはできません。
これを崩してしまうと法治国家ではなくなります。検察官としての正義とは、あくまで法律に則って罪を問うというものでなくてはいけません(法の解釈である程度の幅はあると思いますが)。
「俺の正義の剣を奪うのがそれほど大事か」と最上は言いますが、これはすでに一線を越えてしまった者の危険さを伺わせます。
沖田については物語では最上に対抗するヒーローのような役回りとなっていますが、彼も自分が信じる正義のためにルールを逸脱しているという点は同様のことがあると思います。
検事などの職務には、仕事の中で知り得た秘密は例え辞めたとしてもそれを漏らしては行けないというルールがあります。
沖田は最上の暴走を止めるために、そのルールを破っています。
これもまた自身の正義を行うために、決められたルールの一線を越えているわけです。
また橘にしても、同様です。
彼女は友人が味わった冤罪による苦しみから、検察という組織が持つ冤罪を作り上げる体質を告発したいというために検察庁という組織に入庁しました。
彼女が目にしたのは、彼女が予想とした通りのいくつかの歪んだ検察の体質でした。
当然彼女も検察庁の人間ですから、知り得た秘密を外部に漏らすことはできません。
しかし、彼女はマスコミと接触していました。
検察の闇を暴くためということであれば、本来なら内部告発などという手法をとるべきなのだと思います。
おそらくそうするともみ消されたりなどということがあると思ってのことなのだろうと思いますが、やはりこれもルールを逸脱しているのです。
社会のルールをであるところの法を守る人々である検察官が、それぞれの考える正義を行うために、その一線を越えてしまう。
それらは正しいことを行いたいという思いから発せられている。
そういう思いを全て満たしきれない法律の限界もあるのかもしれません。
しかし法に変わる方法を我々は持ち合わせていないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧