2017年6月24日 (土)

「キング・アーサー(2017)」 聖剣無双・・・、気持ちはわかる

ガイ・リッチー監督といえば、どんな題材を選んでも彼流に染め上げてしまうように感じます。
「シャーロック・ホームズ」では19世紀を舞台としながらも、アクションシーンは現代的というかロックな感じがバリバリしましたものね。
スーパークイックなカット割り、かと思えばスーパースローを合わせて使う極端な緩急のアクションシーンは、ガイ・リッチーならでは。
最近はどの映画も同じような印象で監督の個性が感じにくいものも多いですが、ガイ・リッチーは見ていても彼らしい感じがにおいますよね。
今回の作品ではアーサーが聖剣エクスカリバーを持って戦うシーンが見どころですが、ここに彼らしいアクションの演出が冴えています。
エクスカリバーを振り回すアーサーは一撃で群がる敵の騎士たちを吹っ飛ばすのですが、このシーンでは「まるで三国無双!」と思ったりしました。
そんなことを考えてたら、後で本作の邦題は「キング・アーサー 聖剣無双」だったと知りました。
急遽公開前にタイトルが変わったようですが、ゲームの開発元からクレームがあったのかな。
でも、映画を見ると「無双」ってタイトルをつけたくなる気持ちもわかる(笑)。
ストーリーについては、大味この上ないのですが、まあアクションシーンは楽しめたのでいいかなという感じですね。

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2017年6月18日 (日)

「パッセンジャー」 自分を必要としてほしい

こちらも旅行中の機内で鑑賞した一本。
公開中に観たかったのですが、タイミングが合わなかったのですよね。
120年かけて5,000人の乗客を移住先へ向かう宇宙船アヴァロン。
この船はトラブルを起こす確率が極少化されており、乗客乗員は全てコールドスリープしている。
しかし、ありえないトラブルが発生し、移住する惑星に到着する90年前に二人の男女が目覚めてしまった。
このまま再び冬眠することができなければ、到着する前に二人は誰知らず死んでしまう・・・。
このくらいしか事前に知らなかったのですっかりサバイバルSF的な作品だと思っていたのですが、設定はSFながら恋愛映画でしたね。
予想に反しましたが、不意を突かれ結構感動してしまいました。
もう公開終了しているので、ネタバレ的なところにも触れますね。
本当にトラブルで目覚めてしまったのは、主人公の一人ジム。
技術者でもある彼は目覚めてから1年間もの間、事態を打開しようと様々な試みをしますが、全て失敗。
孤独に苛まれ、自殺も試みようとしますが、それもできない。
そんな時にあるコールドスリープカプセルに美しい女性を見つけます。
彼女はオーロラ。
作家である彼女の言葉に触れ、ジムは彼女に恋をします。
まるで眠れる森の美女に恋するように。
そしてまた彼はオーロラを目覚めさせる方法も気づいてしまいます。
しかし彼女を目覚めさせるということは、彼女にも過酷な運命を背負わせるということ。
ジムはそんなことはできないと思い悩みますが、結局は孤独に負け、彼女のコールドスリープを解いてしまいます。

本当の孤独というのはどれほどまでに苦しいものなのでしょうか。
孤独とは何なのでしょうか。
人はおそらく他の誰かに必要とされたいという欲求があります。
その欲求が叶えられない時に孤独と感じるのかもしれません。
ジムは技術者ですが、彼の話を聞いているとその頃の地球は本当の技術者は必要とされなくなっていたように思えます。
コンピュータは高性能化し、システムはユニット化されて、壊れたら修理するのではなく、すぐ交換。
個としてのスキルが重要とされる時代ではないのかもしれません。
AIが進むにつれ、人間の仕事が奪われるという研究が話題になりましたが、そういう話かもしれません。
ジムは自分のスキルでやっていける場所を求め、移住プロジェクトに申し込みをしたのでしょう。
かたやオーロラは父親が著名なノンフィクションライターであり、彼女自身もその才能を持っていた。
しかし10代に目標とする父親は病で亡くなってしまった。
彼女にとっては超えて本当に自分が自分として評価されるきっかけを失ってしまったのかもしれません。
だからこそ彼女も新天地をリポートするという誰もやったことのない試みをしようとした。
そのために友人たちと永遠に別れるとしても。
ジムにしてもオーロラにしても社会に自分というものが必要とされているという実感が欲しかったのかもしれません。
しかし、彼らは新しい社会を作る前に、人々よりも90年早く目覚めてしまった。
そこには彼らしかいないとも同じ状況です。
そしてそこで彼らは愛し合いました。
大きな試練を乗り越える過程において彼らは本当にお互いに必要とし、必要とされるのかを確かめることができました。
90年後二人以外の乗員が目覚めた時、彼らを不幸な事故の犠牲者と見るでしょうか。
たった二人で生きなければいけなかったジムとオーロラを。
けれどオーロラのメッセージにあるようにむしろ二人は幸福であったのですよね。
本当に自分が必要とし、必要としてくれる相手を見つけることができたのだから。
多くの人が暮らす社会の中で暮らしていても、そこまで自分の存在意義を実感できている人はそうそうはいないような気もします。
その点において彼らは幸福だったのです。

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「パトリオット・デイ」 強くあれボストン

記憶に新しい2013年のボストンマラソン大会における爆破テロを題材にした作品。
タイトルの「パトリオット・デイ」はこのマラソン大会がアメリカの「愛国者の日」に開催されたことによる。
アクション映画やサスペンスでは、昔では共産圏のあの国や、秘密組織が仮想敵となっていたが、ベルリンの壁崩壊以降は、そういった役回りはテロ組織が担うようになってきた。
そういうこともあるので、テロリストというとちょっと映画の向こうのお話、言うなればフィクションのようなイメージがあった。
また日本というテロにはあまり縁がない(オウム真理教事件はあったが)国で暮らしているからかもしれない。
けれど、最近急速に世界の各地で起こっているテロは以前とは次元が異なるものとなっており、普通に生活していても巻き込まれる可能性が格段に上がっているように思う。
昔はテロが起こりそうなところにさえ行かなければ、巻き込まれることはなかったのだが、今ではどこがターゲットになるかわからない。
誰がマラソン大会で、コンサート会場でテロに合うなどと思うだろうか。
また無差別テロはまさに無差別で老若男女問わずターゲットになる可能性がある。
本作で描かれる事件でもそうだし、先日のイギリスの事件でも子供が犠牲になった。
自分に子供ができたからかもしれないが、小さい子がこういった事件で命を落とすことを聞くと、今まで以上に恐ろしさを感じる。
テロリストにも何かしらの社会に対しての言い分があるのかもしれないが、誰も人の生活や命を奪っていいものではない。
テロリズムの語源はテラー(非常な恐怖・terror)である。
一般人を含む社会に恐怖を与えることにより、社会的な動揺を誘い、自分たちの要求を通そうという考え方だ。
いかに立派な理想的な社会を築こうとしていても、その為に無関係な人々の人生を犠牲にしても良いという考えは正しくないと、やはり思う。
この作品で描かれる犯人たちには全く同情する余地がない。
彼らの犯行の理由は独りよがりな怒りからくるものであり、またその行動もずさんの一言である。
愚かとも言える彼らのために4人の命が失われ、何十人もの人々の生活が破壊されたことは許しがたい。
先にも書いたようにボストンマラソンの事件以降も世界でテロリズムが頻発している。
各国の警察もテロ封じに力を注いでいるとは思うが、完全に封じ込めるのは難しいと言える。
これからもテロが起こらなくなることはないのかもしれない。
武力だけでは解決できないかもしれない。
「強くあれボストン」というスローガンがこの映画の中で紹介されていた。
事件の犠牲者を悼むことは忘れない。
けれどもテロリストには屈しない。
なぜならその屈する可能性が見えれば、彼らはもっとそれに乗じてくるから。
テロリズムには「恐怖では社会は動じない」と見せつけるしかないのだろう。
とても勇気がいることであるとは思うが、そういう態度でいることがテロリストへの抑止力となるのかもしれない。

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2017年6月17日 (土)

「グレートウォール」 才能の無駄使い

公開時には劇場に行けなかったのですが、旅行中の飛行機内で鑑賞しました。
結論から言ってしまうと、お金を払って観るほどの作品ではなかったということです。
監督はチャン・イーモウで、それが公開時に観に行こうかと思ったポイントであったのですが、本作には今までの彼の作品らしさというものが感じられなく、数多あるハリウッド映画のバッタもんといった印象でした。
彼の作品を全て観ているわけではないのですが、「HERO」「LOVERS」などのアクション映画においても、画作りが非常に美しいというのが、特徴であったかと思います。
鮮やかな色を配色した画面、スピードやカメラを巧みに使った独特なリズム。
アクションシーンであってもまるで絵画のような印象を持たせる彼の作風は、他の監督にはない特徴でありました。
しかし、本作においてはそのような彼の画作りの特徴はほとんど感じられませんでした。
万里の長城を守る禁軍の軍団がそれぞれ赤、青、紫と鎧の色が鮮やかにつけられているのは彼の作品らしいところではあります。
しかし、アクションシーンはチャン・イーモウらしい緩急をつけた華麗さはなく、安っぽいモンスターのCGも相まって、まるでハリウッドのモンスター映画のようでした。
バブル景気の時期に日本の企業がハリウッドに投資をしたのはよく知られていますが、最近では中国企業の進出が目立ちます。
本作の製作はレジェンダリー・ピクチャーズですが、この企業も中国企業に買収されました。
レジェンダリー・ピクチャーズは大衆受けするブロックバスタームービーを得意としますが、この手の作風は中国本土でも人気があるようです。
そのため、ハリウッドとしても中国マーケットを無視するわけにはいけません。
ただし、中国では海外の作品を公開する本数に制限があるようなので、中国企業が作った中国の映画であることも、中国で成功するには必要なのでしょう。
しかし、チャン・イーモウのように世界と勝負できる独自のスタイルを持っている監督にハリウッド映画的な作品を作らせるというのはいかがなものかと思います。
もし中国マーケットへ供給させるためのハリウッド映画的なものが必要なのであれば、他の監督に撮らせればいいかなと。
ま、チャン・イーモウ自体がこういう映画を撮りたいのであれば、仕方がないですが、才能の無駄使いのような感じがしてなりません。

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2017年6月10日 (土)

「メッセージ」 時間の呪縛

冒頭、主人公ルイーズと娘ハンナのエピソードがフラッシュバックのように描かれる。
生まれたばかりのハンナ。
物心ついた時のハンナ。
反抗期のハンナ。
そして死にゆくハンナ。
そう、ルイーズはハンナの最期を看取るのだ。
この映像が本編を通じて、唐突に差し込まれていく。
これが意味するものは・・・。

娘ができたせいか、冒頭のシーンで泣けてしまった。
自分よりも先に子供が逝ってしまうなんて、考えたくもない。
その時に味わうであろう気持ちなど想像したくもない。
ルイーズの気持ちはいかばかりか・・・。

本作はテッド・チャンのSF小説「あなたの人生の物語」。
タイトルは知っていたが、読んだことはなかった。
本編の中で、人は言語によって思考を形作られるということが語られていた。
人類の話す言語はすべからく、リニア(線形)である。
どの言語も時制について細かな言い方があるが、これは人類が過去があって、現在があって、未来があるという、時の流れを認識することに関係しているかもしれない。
もしノンリニア(非線形)の言語があるとしたら、時間に関する認識は人類とは違うものかもしれない(卵が先か、鶏が先かという議論はあるが)。
本作に登場するエイリアン、ヘプタポッドはノンリニアな言語を話す種族であった。
その言語を学ぶうちにルイーズの認識力に変化が現れていく。
もし、二次元しか認識できない種族(平面で生きる種族)が三次元の世界にいて、我々とコミュニケーションを取ろうとしたらどのようになるのだろうか。
彼らから見たら、高さ方向の認識は我々の時間についての認識に似ているかもしれない。
三次元で暮らす我々にとっては、縦も横も高さも同質のものであるが、彼らにとっては違う。
同じようなことが人類とヘプタポッドにも言えるかもしれない。
ヘプタポッドからすれば時も空間も同質に見えるのかもしれない。
3000年後という時間は、彼らにとっては空間のある地点というのと変わらない認識なのだろう。
ルイーズは彼らの言葉を学ぶことにより、彼らのものの見方というのを習得していく。
それが時をフロー(流れゆくもの)として見るのではなく、過去も現在も未来も同列に見るという見方である。
ある意味、それは未来が見えるということにもなるであろう。

しかし、これが可能であるとういうことは、この世界は決定論的であるということになる。
全てはすでに決まっている。
あるべくしてある。
人間の「人生」(時間が大きな要素になっている)という概念は大きく揺らぐであろう。
時間に呪縛されている人類は、それから解き放たれるのか。

そしてまた最初の話に戻る。
自分の子供が自分よりも先に死んでしまうということがわかっていながらも、子をなそうと考えることができるのであろうか。
ルイーズはそうした。
これは真の意味での決定論を受け入れているということなのだろう。
娘はいずれ死ぬ。
だからこそ彼女といる時間を大切にしたい、彼女と出会いたいということなのだろうか。
彼女は夫イアンと離婚したという。
イアンは完全にはヘプタポッドの言語を理解したわけではないのだろう。
愛し合っていても、世界の見方が異なるルイーズとイアンではやはり決定的に価値観が異なってしまう。
イアンからすれば(というより普通の人間からすれば)、娘の将来は不確定であり、もしルイーズがハンナが死ぬと言ってもなんとかそれを回避することはできるのではないかと考えたいであろう。
しかし、ルイーズは全てを受け入れられる。
決定論の見方を受け入れているから。

ここまで書いてみて、ちょっと思ったこと。
禅などの考え方もヘプタポッドのものの見方に近いかもしれない。
彼らは古代にも地球を訪れ、地球人と接触したのかもしれないとも考えてしまった。

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2017年6月 4日 (日)

「ローガン」 人としてのローガン

ヒュー・ジャックマンのウルヴァリンが観れるのは、本作が最後になるそう。
タイトルが「ウルヴァリン」ではなく「ローガン」であるのは、ヒーローであるウルヴァリンではなく、人としてのローガンそのものを描こうという制作サイドの意思の表れであろうか。
「X-MEN」シリーズは大勢のヒーローが出てきて、舞台装置も派手にという見せ方が多くの人々に受け、現在のアメコミ映画全盛のきっかけを作った。
しかし、本作はそういった余計な要素を削り、ローガン一人を深く描けるような舞台設定となっている。
時は今よりも未来。
ミュータントたちの多くはいなくなり、ローガン自身もアダマンチウムの影響により、かつてのような治癒能力がなくなりかけていた。
そのためローガンは若々しさを失い、中年のような姿となっている。
ローガンはかつては獣であった。
持って生まれたヒーリングの力、そして人間によって埋め込まれたアダマンチウムによる戦闘能力により、人間とは異なる存在となり、多くの迫害を受けた。
生き残るために彼は多くの人々を傷つけた。
彼は孤独であった。
獣であった。
しかし、プロフェッサーXに出会い、多くのミュータントの仲間を得ることができた。
彼は信頼、愛といった人間らしい感情を再び手に入れ、家族のような存在を得ることができた。
しかし、それも人間たちの攻撃により失われていってしまう。
彼のヒーリング能力は彼だけを生かしてしまい、愛する人々は先に逝ってしまうことをただ見送るだけとなってしまった。
やはり彼は孤独であった。
おそらく失ってしまうだけであるならば、もう人を愛するようなことはすまいと彼は思ったのであろう。
人との関係を持たず、隠遁しているような生活を送るのは彼のそういう気持ちの表れである。
唯一、彼が関係を持っているのはかつて彼を導いてくれたプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビア。
彼はローガンにとっての擬似的な父親であるのだろう。
しかし、そういった彼は謎の少女ローラに出会う。
彼女はかつてのローガンのようであった。
自分に手を出す者どもを全て斬り殺す。
彼女も獣。
ローガンは彼女に自分と同じものを見出した。
それもそのはず、彼女はローガンの遺伝子によって能力を移植された人工的なミュータントであったのだ。
チャールズの言葉もあり、ローラと一緒に逃避行を続けるローガン。
彼の中でかつて味わったことない感情が芽生えていく。
ローラを逃がすために、彼は治癒能力が失いかけている肉体で敵と戦う。
彼の戦いはまるで子を命がけで守ろうとする獣のようだ。
そして致命的な傷を負ったローガンは、ローラの腕の中で「そうか、こういうことなのか」とつぶやき、息をひきとる。
ローガンは初めて、人間として親として、大事な存在を手に入れることができた。
もうただ己のために戦う獣ではなかった。
本当の家族を手に入れることができた。
かつて味わったことのない気持ちをローガンは感じることができたのであろう。
自分が親になったとうこともあったためか、すごくこの場面ではぐっときてしまった。
子供のためであればなんでもするという気持ちはやはり親は持つものだ。
その感情はとても深く強い。
それをローガンは最後に味わうことができた。
本作はヒーローウルヴァリンを描いた作品ではない。
人間ローガンを描いた作品である。

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2017年6月 3日 (土)

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」 チームというよりファミリー

超サイコーに面白かった!
実は前作の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」はそれほど面白いとは思わなかったのだけれど、今回はツボにはまった。
前作の時のレビューを読み直してみると、「紹介編?」というタイトルになっていました。
おそらく初出のそれぞれのキャラクターを紹介していることに尺を取られて、あまりストーリーに深みを感じなかったということだったのかな。
その点、2作目である本作ではキャラクターやガーディアンズのメンバーの関係性を紹介する必要はないので、そのぶんお話に深みがあったように思います。
キャラクターもそれぞれがより個性が強くなっていっているようで、いわゆるキャラが立ってきた感じがします。
ドラックスはあんなに筋肉バカみたいな感じだったけとか、ガモーラのツンツンぶりも際立ってきているなとか、ありますが、後々合流するといわれる「アベンジャーズ」の面々にも負けない個性が出てきたかと思います。
個性強すぎのガーディアンズのメンバーで、それぞれがお互いのことをクソみそに言っていますが、その裏には強い信頼感があるというのが、窺えるのが本作の魅力。
なんだかんだと言って、お互いのことを心配しているのですよね。
本作はファミリー(もしくはチーム)っていう要素がかなり強く描かれている気がします。
意外とこれは他のマーベル作品ではなかった要素かもしれません。
「アベンジャーズ」のようなチームはありますが、あれはそれぞれの主義・考えで集まった大人の集団。
ガーディアンズはそういう頭で考えて集まったチームというよりは、ファミリーという印象が強い。
今回のメインに描かれる、クイルとエゴのエピソードがそれを強く印象付けます。
血でつながっているから本当の親子なのか、ファミリーなのか。
それよりもお互いの情の強さが、ファミリーの絆を作っているのではないのか。
ガーディアンズの面々は生まれも育ちも人種(?)すら違うけれども、強い結束力を持っています。
まさにファミリーと言えるほどに。
このファミリーの絆を持つメンバーと、アベンジャーズとの対比というのが、合流した時の見どころの一つになるかもしれませんね。
前作のレビューではただのスペースオペラと書いていましたが、本作はスペースオペラが本気になっていました。
実際最近ではスペースオペラ的な作品というのはほとんど見かけません。
「スターウォーズ」はスペースオペラ的ではありましたが、最近の作品はもっとまじめな感じがします。
スペースオペラという言葉の持つ派手さ、荒唐無稽さみたいなものを本作は持っていて、ワクワクドキドキしながら楽しめました。
しかし何と言っても、オープニングのアクションシーンでのベビー・グルートの無邪気っぷりに瞬殺されました。
彼が本作の影の立役者でしょう。
エンディングで登場した思春期のグルートもなかなかに興味深い。
次回作はひねくれたグルート少年とクイルのエピソードになるのかな。

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2017年5月20日 (土)

「ワイルド・スピード ICE BREAK」 ファミリーという軸

何気にどんどん出演者が豪勢になっていくこのシリーズ。
シリーズが進むにつれてトーンダウンしていくものが多いなか、逆にどんどんパワーアップしていく「ワイルド・スピード」シリーズを出世魚シリーズと言いたい。
今回の敵役はシャーリーズ・セロンで、さらにはヘレン・ミレンも登場。
二人とも主役級の女優だし、豪勢です。
前回敵役のジェイソン・ステイサムもかなり見せどころがありましたし、もしかするとレギュラーになるのかと思う活躍っぷり。
ジェイソン・ステイサム好きなんですよ、実は。
刑務所を脱走する場面とか、飛行機の中のアクションは魅せてくれましたよ、キレキレでカッコいいです。
レギュラーであったポール・ウォーカーの死を乗り越えた前作ではアクション映画でありながらも、ジンと来るものがありました。
とはいえ、主役の一人がいなくなってシリーズを続けられるのかと思いましたが、本作はパワーダウンすることなくテンションアゲアゲでいってしまうところはやはり「ワイルド・スピード」らしい。
今となって車を使う「ミッション・インポッシブル」のようになって世界を股にかけているシリーズとなりましたが、毎回よくいろいろ考えるなと思うくらい、カーアクションもスケールアップしていますね。
次はどんなところに車で行ってしまうのかと期待してしまいます(海とか宇宙とか行っちゃうんじゃないか)。
派手なカーアクションがこのシリーズの見せどころであるのは間違いはないとは思うのですが、ここまで続いているのはシリーズを通してのテーマというか軸がしっかりと出来ているところでしょう。
最初の3作まではそれほど意識はされていなかったと思いますが、4作目以降に次第に強くなってきているのは、「ファミリー」というテーマですね。
これがあるからこそ「ワイルド・スピード」というシリーズは息が長いのでないかと思います。
主人公のドムが口にする「ファミリー」という概念は、ただ血縁があるというだけではなく、心の底から信頼できる仲間を包含しています。
このシリーズでは、すべての作品に出ているキャラクターはいないのではないのでしょうか。
しかし、ドムやブライアンを中心にして本当に信頼できる仲間たちが事あるごとに集まってくる。
それぞれは独立しているけれど、心が繋がっているからこそ、距離が離れていても決して絆は切れない。
だから登場人物が多少出たり出なかったりしても、シリーズとしては「ファミリー」という概念で繋がっている。
これは後付けのテーマかもしれないですが、非常に重要なものとなっています。
今回も前回の敵役であったデッカードとも強い絆をドムは結びました。
前までの敵が仲間になるって、「少年ジャンプ」の漫画かよとも思いますが、いいんです。
男の子はこういうの好きなのですから。
キャラクターを大事にしている感じがありますよね。
本作でもドムが自分の子供にブライアンて名前をつけた時、ホロリときてしまいましたよ。
ここまで続いてきているこのシリーズ、どんどん作っていってほしいと思いますが、実はあと2作らしい。
本作はシリーズ完結の3部作の1作目らしいです。
どんな結末を迎えるのでしょうか。
最後は今までのメンバー全員でてほしい。
期待して待ってます。

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2017年5月 6日 (土)

「美女と野獣(2017)」 愛の理想形

ディズニーアニメの「美女と野獣」が大ヒットした時(かれこれ25年以上前)、多くの人が観に行ったと思うのですが、自分は劇場には足を運びませんでした。
それからDVDとかでも観てないんですよね。
その頃はディズニーのアニメというと、言い方は悪いですが「女子供が観るもの」という先入観があったのですよね。
もちろん今はそんなことはなく、ディズニーアニメのクオリティは信頼していて、新作ができると観にいくようになったのですけれども。
「美女と野獣」については、最近フランスで作られた実写版も観なかったので、ストーリーもよく知りません。
という前提でこの作品の感想を書きますが、思っていたよりもよくて感動してしまいました。
元々のストーリーがとてもよくできているのでしょうね。
「美女と野獣」は愛というものの本質を正面切って描いているところに多くの人が感動をするのでしょうね。
人を好きになる時、見かけというのは重要なきっかけにはなるとは思うのですけれど、やはり愛することを続けていくには相手の内面を好きになれるかどうかというのが大事なのですよね。
見た目があまり良くなかったり、人とは違う趣味で変人と思われたりといった世間の評価というのは気になるものです。
「なんでこんな人と付き合っているの?」って言われるのが嫌というのは素直であると思います。
けれど「そんなの関係ない、この人がいいの!」と言い切れる自信にも皆憧れるところはあるのではないでしょうか。
それは相手の良いところを見つけられているという自分の判断に対する揺らぎなさみたいなものをなかなか人は持ちにくいからかもしれません。
だからこそベルや野獣が相手の良さを見つけ、それを愛することができるということに憧れるのでしょう。
あと、愛の本質という点では、自己犠牲でしょうか。
自分自身のことよりも相手のことを優先できるかどうか。
野獣は父親思いのベルの気持ちを大事にして、彼女を自由にしてあげた。
ベルは野獣を守るために危険が待っている城に戻っていった。
現実にはなかなか相手のためだけに行動するということはできないものです。
愛する人が相手でも利己的な気持ちは出てしまうもの。
ベルも野獣もなかなかできないことをやっているということで、理想を体現しているわけで、憧れになるのでしょうね。
「美女と野獣」は愛の本質、理想の姿を直球で描いているという点が共感できるところなのかもしれないです。
今の時代、ちょっとひねた目線で物事、愛などに関しても見てしまいがちですが、理想をまっすぐに描くというのはかえって目新しく、新鮮に感じるように思えました。

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2017年4月29日 (土)

「無限の住人」 派手ではあるが大味

久しぶりに試写会にて映画を鑑賞。
5月に公開予定の三池崇史監督の「無限の住人」です。
最近、テレビ番組の中でも宣伝してますよねえ。
三池作品ははちゃめちゃな感じがあって好きなのですけれど、最近の作品(「極道大戦争」「テラフォーマーズ」とか)は脱線感がありすぎて、観ている方が置いてきぼりになってしまった印象がありました。
「無限の住民」は不死となった剣士、万次がバッタバッタと敵を切り殺していくチャンバラが見どころの時代劇です。
激しいチャンバラが見どころの三池監督の時代劇と言えば、「十三人の刺客」がありました。
この作品は結構好きで、最後の決戦の長いチャンバラシーンにはカタルシスを覚えました。
「無限の住人」もラストで圧倒的な数の差の敵味方による大剣劇があります。
これはこれで見応えはあるとは思うのですが、観ていて疲れる・・・。
なんでなんだろうと観終わったあと考えたのですが、この作品のチャンバラは迫力はあるのですけれど、大味なのです。
万次は不死なわけなので、切られても死なない。
なので、命をかけた緊迫感が今ひとつ感じにくい。
命をかけた勝負においては、相手の動き方、自分の動き方、ちょっとしたことで命がやりとりされてしまうことがあるでしょう。
だからこそ剣と剣との間にはピリピリとした緊迫感がある。
昔のチャンバラは激しく剣を交わらせるところと、静かに相対するところとがあったように思います。
緩急とでも言いますか、これが緊張感を演出していたように思います。
けれども本作のチャンバラは敵も味方を刀をブンブン振り回しているだけのように見え、派手ではあるのですけれど、緊迫感は感じにくかったです。
本作についてはチャンバラシーンが非常に多い。
それを売りにしているとは思いますし、三池監督なのでサービス精神が満載なのでしょう。
けれども先ほど書いたような大味さがあるので、最後の方にはお腹いっぱいな気分になってきました。
作品全体でも2時間半弱であったと思うので、長尺な上に大味という・・・。
おそらく最初に編集した時は3時間くらいになっていたのではないでしょうか。
ドラマ部分で、ジャンプしているような箇所が散見されたので、かなりカットされているように見受けられました。
そのためにチャンバラパートがさらに比重が高く感じられたような気がします。
サービス精神旺盛で三池監督らしいなと思いつつも、やや大味感に食傷してしまったという印象です。

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