2018年4月14日 (土)

「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」 乱世の男

昨年クリストファー・ノーランの「ダンケルク」で第二次世界大戦の初期のダイナモ作戦が題材となり、ダンケルクから脱出しようとする兵士たちの姿が描かれました。
本作はちょうど同じ時代、イギリスサイドの話です。
ウィンストン・チャーチルは、それまでドイツに宥和的な態度をとっていたチェンバレンに代わりイギリス首相になりました。
本作を見て感じたのは、チャーチルは極めて政治家らしい政治家であるということ。
政治家としての野心を隠そうとはしませんし、ドイツや政敵にも容赦はしません。
しかしながら、国を思い、国民を思う気持ちは他のどの政治家よりも持っています。
彼は聖人君子ではありません。
ことば巧みに国民を戦争に導く扇動者にも見えます。
彼は複雑な人間であり、一筋縄ではいきません。
フランスが降伏するに至り、チャーチルが追い込まれ庶民の声を聴く場面があります。
彼はドイツには屈服したくないという国民の意見を直接聞き、勇気をもらいます。
人民の声は彼を弱気から救っただとは思いますが、チャーチルはその意見を政治的に利用もします。
その後、閣外大臣に演説をするときにも庶民の声と言っている部分に巧みに自分の意見をのせているのですね。
この辺りは議員たちを自分が進みたい方向に上手に誘導しているわけです。
その後彼らの指示を背景に国会で演説を行い、挙国一致内閣はドイツに対し徹底抗戦の方針を決めます。
彼は彼自身の理想を持ち、強引に、そして犠牲を厭わず邁進します。
しかし、その犠牲にも心を痛め弱気になるところも持ち合わせています。
彼は演説し言葉で人々を先導しますが、また周りの人々の言葉に救われもします。
彼は完璧な人間ではありません。
近くに居たら、非常に扱いにくい人間でしょう。
しかし、強い理想があり、それを推し進める強さがある。
それがかつて見たことのない状況において諦めない力を人々に与えるのでしょう。
彼は乱世に生きる人だったのかもしれません。
彼は第二次世界大戦を戦い抜きドイツを屈服させ、その後戦争終了後は首相の座を追われます。
平和なときには彼の性格は過激に過ぎたのかもしれません。
ただ世の中が混乱しているときは強力な個性、リーダーシップが求められるものです。
確かに、彼は乱世の男だったのです。

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2018年3月30日 (金)

「リメンバー・ミー」 家族の絆

最近は数々3Dアニメーションを作るスタジオが増えてきていて、公開数も多いですが、やはりピクサーの作品は別格な感じがします。
卓越した美しい映像の素晴らしさも一段上のような気がしますが、やはりそれだけにとどまらず、非常にエモーショナルであることがピクサーらしいんですよね。
一言で言えば、必ず心を揺さぶられるところがあるということ。
ピクサーの映画が大人にも子供にも楽しめるというのは、そういうエモーショナルな部分も格別であることからだと思います。
本作は家族の絆を描く物語です。
こう書くと陳腐な感じに聞こえるのですが、誰でも何かしら自分の中に経験があるところを感じられると思います。
若い頃は家族の絆とかいうと、何かこそばゆいというか、斜に構えて見ていたところがあるのですよね。
けれど、子供ができたり、最近父を亡くしたりなんていうことがあったりすると、家族というものを考えたりするようになります。
息子と父というのは、成人になって独立してしまうとなかなかしっかりと話す機会はないものだと思います。
別段不仲というわけでもなかったのですが、それぞれが独立して自分の生活があると改めて話をすることもなかったのですよね。
照れ臭かったのもありますが。
しかし、いざ突然亡くなってしまうと、父親は自分に対してどう思っていたのだろうかと考えたりもしました。
いい息子であったのだろうかなどと。
死んだ人と話をしてみたいという人の気持ちもわからなくはなかったしもします(以前は想像もつかなかった)。
そういう意味では、本作の主人公ミゲルは死者の国に行き、記憶にもなかった先祖と一緒に冒険をします。
先祖が何を考え、何を感じていたか、それを知ります。
それは得難い経験ですよね。
そういう思いがあると、それを何かしら繋げていきたいと思うのだと思います。
繋げていきたいという気持ちが絆なのでしょう。
自分の子供にも何か自分なりに思いを残してあげたいと思いますし。
本作のココが父親を思っていた気持ちのように、娘にも思ってもらえたら嬉しいなと。
ココが最後に父親の思い出を語る場面では思わず涙が出てしまいました。

日本語版を見たのですが、ミゲルを演じていた子の歌がうますぎてびっくりしました。
まだ13歳だとか。
凄すぎです。

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「ちはやふる –結び–」 一瞬を永遠に

「上の句」「下の句」ともに好きな作品で、2作見終わってから彼らのその後が見たいと思っていたところでした。
確か映画を公開中に続編を作ることが発表され、公開されるのを心待ちにしてい作品でした。
監督も変わらずなので、前作の良さをそのまま引き継いでいる作品になっており、また題材が百人一首であることを踏まえた良いまとめになっていたと思います。
特に今回印象的であったキャラクターが競技かるたの最高峰にいる周防名人ですね。
比較的熱い思いを持ったキャラクターが多い中で、一人冷静でかつ前向きではない人物で非常に印象に残りました。
彼が異質感を持っているというところもありますが、競技かるたのど真ん中にいるにも関わらず、一人離れた位置に立っているとも言える立ち位置みたいなものからくるのかもしれません。
離れた位置に立っているからこそ、物事の真理が見えているのか、彼が話す言葉には非常に重みがありました。
彼が並外れた「感じ」を持っているのは、特異な超能力のようなものではなく、皆が同じように聞いている音の本質を何もフィルターにかけずに聞いているからなのですね。
人は先入観や思い込みなどで、自然にリミッターをかけて、音を峻別してしまう。
そのリミッターを外してしまえば、音の本質が、そのものが聞こえてくる。
これは音に限った話ではないのでしょう。
自分の能力、自分の未来、いろいろなものに自分でリミッターをかけてしまっている。
そのリミッターやフィルターを外せば、一瞬の時も永遠になる。
限界がなくなる。
それは百人一首そのものが示しているのでしょう。
一千年も前の人の詠んだ歌で、今でもその当時の人々の気持ちがそこにあるように思える。
一瞬が永遠になっている。
これは限界がなくなったということなのですよね。
太一は自分の能力の限界をずっと気にしていました。
彼は勉強もスポーツも万能な男ですが、かるたにおいては天才的な新や千早には叶わないとずっと考えていました。
だから彼らの中に本当に入っていけない苦しさを持っていたのですよね。
しかし、それは彼が彼で設定していたリミッターでした。
彼は周防の言葉によって、自分が設定していたリミッターを外すことができました。
また千早はどちらかというと一瞬に生きていた女の子だったかもしれません。
その時、かるたをやっている瞬間が楽しい。
そのために頑張っている。
しかしその自分の一瞬のために人々が力を貸してくれたことに気づいた。
東京予選で負けそうになった時、その一瞬がなくなることに彼女は愕然としました。
しかし仲間の頑張りによって、その一瞬が続くことができるのだと知りました。
彼女は素晴らしい一瞬を永遠につなぐために、頑張ろうと思うようになったのです。
ラストで彼女がやがて先生となり、後輩たちを指導する立場になり、かるたを引き継いでいこうとしていることが示唆されます。
これは良いラストだなと思いました。
限界を取り払い、一瞬を永遠にする。
それだけの可能性を人は持っている。
ただの青春映画ではないメッセージを持っている気がしました。

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2018年3月21日 (水)

「ブラックパンサー」 手の届く範囲

久しぶりに単体ヒーローでシンプルな作品を観れたなという感じがしました。
たくさんヒーローが出てくる「アベンジャーズ」のようなタイプの映画も楽しいですが、本作のように一人のヒーローの活躍をじっくり見れる作品も良いですね。
ブラックパンサー(ティ・チャラ)は「シビル・ウォー」でマーベル・シネマティック・ユニバースには初登場していますが、主人公となるのは初めて。
本作では彼が父の後を継ぎ、ブラックパンサーとなる過程を描いています。
彼はワカンダ王国の国王としてなるべく育てられた、それにより高潔な精神性と強い肉体を持った男です。
まさにヒーローになるべくしてなる人物で、それがかえって現在のヒーロームービー花盛りの時代においては珍しく見えるかもしれません。
最近のヒーローはヒーローになる、もしくはなってしまったことに葛藤するというタイプが多かったですから。
高潔な精神性と様々なテクノロジーを駆使する財力を持っているという点は、キャプテン・アメリカとアイアンマンを足しているようなイメージでもありますね。
ある意味、ヒーローとしては完璧であった彼ですが、その彼にも課題がなかったわけではありません。
彼は彼の葛藤があり、それが本作のドラマとなります。
彼が守ろうとしているのは、彼の祖国ワカンダのみでした。
彼の一族は人間というものの危険性を知っており、それらから自分たちを守るためにだけ卓越したテクノロジーを使ってきました。
そのためワカンダ王国は長年に渡り、平和な生活を維持できたわけですが、知っての通り外界は戦争や貧困など様々な問題が続いています。
人々を守るために存在するという意識はブラックパンサーは高い。
しかし、その「人々」とは誰なのか。
ワカンダ王国の人々だけで良いのか。
外界には苦しんでいる人々がいるのに。
それらを救う力を持っているのに、救わないのか、と。
ブラックパンサーはその視野を問われるのですね。
最近のスーパーヒーロー映画はヒーローの内面の葛藤を描くことが常道となっていますが、その切り口としては今までと異なる葛藤であったと思います。
自分の手(力)が及ぶ範囲をどこまで広げて戦うのか。
もちろん、その範囲を広げれば広げるほど困難な戦いになることはわかっている。
それでもやろうとする気持ちがヒーローらしいと思います。
次回のマーベル映画は「アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー」でそちらにもブラックパンサーは出演します。
戦いの相手は宇宙最大のビラン、サノス。
一気に宇宙規模の戦いになります。
その時にブラックパンサーは何を考えるのか。
自分が守ろうとする人々をワカンダから地球へ、そして宇宙へと広げることができるのか。
そういった視点でも「アベンジャーズ」の次回作を見てみようと思います。

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2018年3月11日 (日)

「シェイプ・オブ・ウォーター」 本当の強さ

ロマンティックでありながらも何か不穏さも感じるギレルモ・デル・トロ監督らしい予告編で魅了されて鑑賞に行ってきました。
20世紀フォックスサーチライトの映画なので、割とマニアックな部類の作品ですが、結構大きな映画館でもかかっていましたね。
そうしたらアカデミー作品賞受賞!
興行的にもかなり期待されていたのでしょうか。
デル・トロらしくオタク心もありつつ、グロテスクさもありつつつ、そしてまたロマンティックでもあるという彼らしさの出ている作品でした。
そういった作品で作品賞を取れたのですから、デル・トロ監督も本望でしょう。
彼の作品では、異形のものへの愛情が溢れています。
「ヘルボーイ」シリーズもヒーローらしからぬ異形のヘルボーイをヒーローとして描いていて、荒々しい外見に関わらず彼は信頼がおける男であり、またガールフレンドのリズへの恋心などには奥手なキャラクターとして描かれています。
そういえば「ヘルボーイ」ではテレパシー能力があり、心優しい半魚人エイブが登場しますが、これがもしかすると本作にも影響をしているかもしれませんね。
デル・トロは普通でないものへの偏愛がある監督ですが、それが普通の人から見ると奇異に見えることを知っているのでしょう。
そういった普通でないものへの世間の懐の狭さも。
本作においては世間の普通とは異なった者たちが主人公です。
主人公のイライザは言葉を話すことができない女性。
もう一人の主役は半魚人です。
その他の登場人物では、イライザの同居人はホモセクシャルの作家、友人は黒人女性。
描かれている時代は昔の時代なので、彼らもいまほどには世間では受け入れられる存在ではありませんでした。
差別的な表現もいくつか描かれます。
彼らを迫害する軍人、ストリックランドは彼らかすれば「まともな男」です。
「まともである」ということは劇中でもしばしば使われてる言葉ですが、これは何か既存の価値観に縛られているということなのでしょうね。
その価値観から外れた外見、行動をしてしまった時、その価値観を重視する社会からドロップアウトしてしまう。
そうすることに常に恐怖を感じているのが、ストリックランドなのかもしれません。
その恐怖が彼の攻撃的な行動に現れているのでしょう。
そういう意味では彼は本当は弱い。
自分が立っている基本が崩れた時、彼はどのように生きていくのでしょうか。
ラストシーンで彼は半魚人に襲われます。
しっかりと描かれているわけではないですが、喉を傷つけられたので、今後は声を出すことはできなくなると思われます。
まさに彼が迫害をしていたイライザや半魚人と同じくなるのですね。
彼はそういった立場になった時、どのように感じるのでしょうか。
その点においてはイライザは強い。
自分の心だけを信じ、行動をする。
目に見えるもの、聞こえるものを信じるのではなく、自分の心がどう感じるのかだけを信じる。
余計なものには惑わされない。
最初は弱者に見えたイライザが最後には最も強い人に見えてきます。
ストリックランドは逆に追い込まれて、もろく崩れそうに見えmした。
人の本質的な強さは、自分の気持ちに素直になり、それを信じることなのかもしれません

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2018年3月 4日 (日)

「空海−KU-KAI− 美しき王妃の謎」 豪華絢爛な映像と異質感のある演技

夢枕獏さんの「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」を原作として、チェン・カイコーが映画化した作品です。
原作は随分前に読んだので、細かいストーリーは忘れてしまったのですが、かなりボリュームのある作品であったと記憶しています(厚いハードカバーで4巻くらい)。
なので、映画化する時にはかなりイメージが変わるのではないかと思いました。
この作品の原題「妖猫传(Legend of the Demon Cat)」から受ける印象は、日本のタイトルの「空海」とは異なり、怪しげな猫が引き起こす事件そのものをテーマにしているように思います。
確かに内容もその通りで、空海はその謎を紐解くナビゲーターのような役割になっているかと思います。
その方がボリュームのある原作をまとめるには都合がいいかもしれませんね。
ただ日本のタイトルの印象で身始めるとあまり空海が主役っぽく見えないかもしれません。
空海と白楽天の関係性は夢枕獏さんの作品にある典型的なパターンですね。
例えば「陰陽師」シリーズの安倍晴明と源博雅の関係性が近しいと感じました。
非常に論理的で様々な道理に詳しい安倍晴明と、対照的に己の心に素直に物事を眺めることができる源博雅の関係は、そのまま空海と白楽天の関係に映し出されているように思います。
そういう意味では夢枕獏さんの作品の忠実な映画化作品であるなと感じました。
しかし映像スタイルとしては、非常に中国的で豪華で圧倒的なものになっているので、邦画とはまた異なる感じがしますね。
画面全体がキラキラしている感じと言いましょうか。
また俳優さんの演技のスタイルもちょっと芝居っ気がある感じなのですよね。
京劇の影響とかがあるのでしょうか。
そのようなテイストとしてはあまり得意な方ではなかったので、作品としてはちょっと好きかというとそうでもない感じです。
ただ日本とは異なる感覚を感じますので、そういうところを楽しめばいいのであるのだろうと思いました。
ちょっとひどいなと思ったのは、吹き替えですかね。
有名な俳優さんたちが吹き替えをしていたのですが、あまり皆さんうまくない。
そういうところで人を呼びたいというのはわかるのですが、やはりここは得意な声優さんとかにやってもらった方が良かったのではないでしょうか。
特に向こうの俳優さんの演技が日本とはちょっと違うので、そこに割と平坦な声を当ててしまうとなんか盛り上がらない感じを受けたのですね。
だったら字幕の方が良かったです。
とはいえ、日中合作の大作ですので、これがうまくいって次に続くといいですね。

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2018年2月24日 (土)

「グレイテスト・ショーマン」 THIS IS ME

音楽は全く詳しくないのですが、ミュージカル映画は好きという私ですが、予告編でミュージカル映画らしい高揚感を感じた本作を観に行ってきました。
予告編で使っていた「THE GRATEST SHOW」という曲でオープニングが始まります。
うん、ヒュー・ジャックマンがカッコいい。
「レ・ミゼラブル」で彼がミュージカル映画に相性が良いことがわかりましたが、ダンスもきびきびしていて絵になります。
彼が演じるのは、P.T.バーナムという興行師。
全く知らなかったのですが、実在の人物でサーカスという興行を確立させたのが、彼だったのですね。
予告を観た時は、彼が挫折から這い上がり、栄光を手にするアメリカン・ドリームの映画だと思っていました。
もちろん、そういう側面もありますし、また彼の家族愛を描く面もあります。
成功、家族愛といったアメリカ映画の王道のテーマの映画と言えるわけですが、もうひとつ大きなテーマがありました。
それが先に書いたサーカスという場にあります。
サーカスは昔は見世物小屋的な言われ方をし、普通ではない人々(奇形者など)を見せる悪趣味な興行という見方をされていました。
彼らはその見た目から差別され、忌避されていた存在であったわけです。
違うということを白眼視してしまうことは人にはあります。
そしてそのように見られる立場になかなかなることはできません。
自分の目の前に立つなと言われる気持ちとはどのようなものなのか。
自分の存在を否定される言葉や目線に晒される気持ちとはどのようなものなのか。
この映画では他の人とは異なる外見も個性であると言います。
そのような考え方は今、だんだんと浸透してきていますが、まだまだ色々な意見を持っている人がいるテーマであります。
なかなか難しいテーマを選んだチャレンジングな作品であると思いました。
そのような難しいテーマを選びながらも、高揚感を感じ、重苦しくないのは、彼らユニークな個性をもつ人々の気持ちを描いた歌「THIS IS ME」があったからかなと思います。
この歌は、自分たちが他の人とは異なることを自分らしさと認め、それに恥じることなく、堂々と生きていくという気持ちを歌い上げたものです。
この歌は非常に堂々としていて、自分自身を認める気持ちというのは、だれでも共感できるのではないでしょうか。
誰でも人とは違う、人より劣っていると思い、くよくよすることはあるかと思います。
けれどもそれでもいい、そういう自分も認めてあげるという気持ちは非常に前向きなんですよね。
これが多くの人に共感を呼んだポイントではないかと思います。
違う人を哀れむとか、差別をしてしまってはいけないという視点で語るのではなく、みんなが自分のことのように感じることができるこの歌の力は強かったと思いました。
バーナムの描き方も一つ間違うと金儲けのために奇形者を利用する山師的なものに見えてしまいそうですが、そのような人物には見えなかったですね。
彼は確かに成功を求める男でしたが、ただそれだけに純粋に成功を求めていたから、彼らユニークな人々も同等に扱っていた。
途中成功に酔い、それを忘れてしまった時期もありましたが、彼は失敗を通じて学びました。
彼も出身により差別された男でもあったわけです。
だから自分自身だけを信じ、がむしゃらに突っ走った。
そういう意味ではサーカスのファミリーとバーナムもいっしょなわけですね。
おそらく誰でもコンプレックスなり、引け目なりがあるのだと思います。
しかし、それこそが個性、それこそが自分と認めることが前向きに生きていくことにつながるのかなと感じました。

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2018年2月 5日 (月)

「スリー・ビルボード」 怒りと後悔と

DVな夫と別れ、二人の子供を育てている母親、ミルドレッド。
ある日彼女の娘、アンジェラがレイプされた上に殺されてしまう事件が起こる。
所轄署が事件を捜査するものの、操作は進展しない。
半年以上経った時、ミルドレッドは道路沿いの3枚のビルボードに署長ウィロビー宛の広告を掲出する。
その広告がミズーリの田舎町に様々な波紋を引き起こす。

ミルドレッドは娘が殺された日に、たわいもないことで喧嘩をする。
売り言葉に買い言葉。
ティーンの娘を持つ母親なれば、誰も経験があるような口喧嘩だ。
しかし、言ってしまった言葉にミルドレッドはその後、激しい後悔をする。
自分があんなことを言ってしまったから、悲劇が娘に起こってしまったのかもしれない、彼女はそのように思ったかもしれない。
いたたまれない、そんな自分自身への怒りを、彼女は何かに向かって吹き出さずにはおられなかったのだろう。
その怒りは事件を解決することができない警察へ向いたのだ。
しかし警察の署長は業務怠慢なわけではなく、むしろ住民に愛される善人であった。
そして彼は癌を患い、死を目前にしていた。
ミルドレッドの容赦のない攻撃は、署長に味方する人々の怒りを引き起こす。

「怒りは怒りをきたす」という言葉が劇中で引用される。

まさにミルドレッドの自己への怒り、そしてそれが翻った他社への怒りが、また他の者の怒りを引き起こしてしまう。
例えば、警官のディクソンのように。
彼は親愛する署長を攻撃するミルドレッドに敵意を燃やす。
そのような中、ウィロビーは自死をしてしまう。

ミルドレッドは自らが断罪したウィロビー署長の自殺と彼の手紙によって、自分の怒りを見つめ直す。
またディクソンは自らが怒りに任せて広告業の男レッドを突き落としたことを、自分が炎で焼かれ、憐れみをかけられた時に悔いる。
彼らが感じているのは後悔だ。
怒りに任せて振る舞った自分の行為に対する後悔。

けれど怒りの炎は己では完全には消す事はできない。
なぜなら後悔がまた自己への激しい怒りを生んでいるからだ
怒りが怒りを産み、後悔をもまた生む。
そして後悔が怒りを生む。
まさに怒りは怒りをきたす、だ。

同じような怒りと後悔を持った二人が最後に行く道を同じくするのは、必然であったのかもしれない。

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2018年1月29日 (月)

「祈りの幕が下りる時」隠された切ない想い

東野圭吾さんの人気シリーズ「加賀恭一郎」シリーズの完結作の映画化作品です。
テレビドラマの「新参者」から阿部寛さんの加賀がスタートしたので、「新参者」シリーズとも言われますね。
私はその「新参者」シリーズの初劇場作品の「麒麟の翼」が初めての「新参者」シリーズでした。
確か「泣けるミステリー」と言われていたと思いますが、宣伝通りにとても泣けたのを記憶しています。
それからテレビシリーズやスペシャル版をレンタルして全部観たのですが、どれも泣けてくるのですよね。
東野圭吾さんの作品はミステリーといってもトリックだけが重要ではありません。
それよりも、事件の背後にある人の情を描いているのですよね。
悪意で事件が起きるのではなく、誰かが誰かのことを大切に思い、そのことによって事件が起きてしまう。
その隠された想いが加賀の手によって明らかにされていき、その想いの深さによって心が揺さぶられるのだと思います。
「麒麟の翼」でも父親の子供への想いがキーとなっていました。
そして本作もやはり親と子の想いがキーとなります。
本作は加賀シリーズの完結作というだけあって、彼がなぜ日本橋署にいるのか、そして「赤い指」でも触れられた母親の失踪にも話が及びます。
この事件では加賀自身の親子関係、そしてその想いが重要なファクターです。
そしてもうひとつの親子の想いも。
「麒麟の翼」を観たときは、独り身であったのですが、それから時が経ち、自分自身が結婚して、子供もできました。
幼い子供を見ていると、月並みですが何ものにも代え難いという思いになります。
子供を守るためならば、なんでもしたいと思います。
独身の時は想像しかできなかったのですが、自分がそういう立場になると、まさにそのとおりだと感じます。
本作ではある親子の互いへの強い想いが描かれます。
親はまさに自分の人生を欠けて子を守ります。
子はその想いに答えようと生き、そして最後は親の願いを叶えようとします。
それが悲劇につながってしまうのですが、そこの強い思いに心が揺さぶられました。
今の自分の立場でまた「新参者」シリーズを見直したら、印象が変わって受け止めるかもしれません。
また東野圭吾さんの原作にもチャレンジしてみたくなりました。

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2018年1月27日 (土)

「デトロイト」 疑心暗鬼の戦場

「ハート・ロッカー」「ゼロ・ダーク・サーティ」といった非常に硬派な作品を作っている女性監督キャスリン・ビグローの最新作です。
今回の作品のベースとなった出来事は今から40数年前のデトロイトで起こりました。
警察の取り締まりから端を発した小競り合いから、一部の市民が暴徒化し、やがて大規模な暴動となったのです。
州政府は事態を収拾するために、州警察や州兵なども投入し、まさにデトロイトは戦場のようになったということです。
本作の後半は、デトロイトのモーテルで白人警官が黒人を射殺した事件を中心に扱っています。
今も(というより最近はまた分断が顕在化している)アメリカで問題となっている、人種差別をテーマとしているとも言えるのですが、この記事ではそこは語りません。
今回は監督キャスリン・ビグローについて書きたいと思います。
本作も入れた直近の3作はいずれも政治色の強い作品となっています。
とはいえ、何が正しいかということを言っている作品ではありません。
人々の価値観や主義主張の違い、そしてその違いによる疑心暗鬼が噴出するのが、戦場であるとするならば、いずれの作品も戦場をテーマにしています。
彼女の作品はどの作品も半端なく緊張感があります。
本作も長尺で140分以上もあるのですが、長いにもかかわらず、ずっと高い緊張感で作品を見続けることになります(なので、終わるとどっと疲れます)。
その緊張感というのは、なにがどうなっていくかわからないという不安と緊張なのかなと感じました。
まさに疑心暗鬼ということですね。
「ハート・ロッカー」にしてもいつどこで爆弾が爆発するかもしれないという緊張感。
「ゼロ・ダーク・サーティ」はアメリカが対するのは今まで相手をしていたとは異なるアルカイダというゲリラ。
今までのやり方が通用しないという緊張感があります。
そして本作「デトロイト 」ですが、この作品においては登場人物たちが白人も黒人も相手が何を考えているかわからないという緊張感の中でひと夜を過ごしています。
白人警官も差別主義者であり、暴力的であったわけですが、逆に多くの黒人たちが自分たちに逆らってきたらどうしようもないという恐怖感があったのではないかと感じます。
だから暴力に訴えてしまう。
黒人からすれば、暴力的に振る舞う白人の心に恐怖があるとは想像できません。
暴力を振るわれる自分たちがそう感じることがあっても、相手もそう思っているとはわかりませんよね。
これは今もなおアメリカで続いてることであるかと思います。
疑心暗鬼で作られた戦場。
そして戦争のテンションの中では、さらに疑心暗鬼が深まっていく。
アメリカだけでなく、まさに世界中で同じことが進んでいるような気もします。

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