2024年2月12日 (月)

「サイレントラブ」想いを行動で

久しぶりに純愛映画を見たような気がします。
過去に自分が起こした事件のために声を失った青年、蒼。
彼は罪を償った後、清掃員として暮らしていました。
事故で視力を失ってしまった音大生、美夏。
彼女は名家の娘で、ピアニストを目指していました。
彼らは暮らす世界が全く異なりますが、二人の運命が交わり、次第に互いに惹かれていきます。
蒼は自分の思いを美夏に言葉で伝えることはできません。
今の時代はどこでも誰でも繋がることができ、言葉を伝えることができます。
気軽に言葉を発することができます。
そのせいか、言葉自体の重みは軽くなっているような気もします。
蒼は言葉を失い、自分の想いを伝えることはできません。
だから、せめて彼は美夏をただ守ります。
その愛を、言葉ではなく、行動で示します。
美夏は蒼の顔や容姿を見ることはできません。
その声も聞くことはできません。
感じることができるのは、彼女が「神の手」と呼ぶ蒼の手の感触。
昨今、世間の恋愛にはとかく見た目が重要です。
男女を問わず、イケメン、可愛い、といったことを気にします。
しかし、美夏にとっては見た目ではなく、その手から伝わってくることがすべてです。
その手が自分のためにしてくれること、そのことから蒼の愛を感じます。
世の中の全てが自分にとって障害となるように感じた彼女にとって、その手だけが救いなのです。
マッチングなど様々なツールが発展し、人との出会いもより手軽にライトになってきています。
その分、言葉や見た目などがただ消費されるだけで軽くなったようにも思います。
蒼や美夏にはそれがない。
自分の想いを媒介するものがない。
だから、ただ彼らは行動します。
相手への想いを、行動で。
綺麗に飾られたものではなく、荒々しかったり、不器用だったりしますが、だからこそ彼らの想いが、純粋であることが伝わってきます。
彼らの想いが伝わり、最後は救われた気持ちになります。

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2024年2月10日 (土)

「『鬼滅の刃』 絆の奇跡、そして柱稽古へ」

昨年に引き続き「鬼滅の刃」ワールドツアーとして、「刀鍛冶の里編」の最終話とこれからオンエアされる「柱稽古編」の第一話がセットで公開されました。
「刀鍛冶の里編」は時透無一郎、甘露寺蜜璃の二柱のそれぞれエピソードが描かれつつ、最終話では禰󠄀豆子の進化が描かれました。
最終話の炭治郎の葛藤はまさにジリジリとするようなもので、それもあって禰󠄀豆子の進化には救われた想いを強く感じるものでした。
炭治郎と禰󠄀豆子が互いを大切に思っていることが、伝わってくる締めくくりであったと思います。
私は原作未読のため、「柱稽古編」についてはどのように展開していくのかは知りません。
今回見た第一話はまだ導入といった様子であり、どのようなものになるかはまだわかりませんでした。
「刀鍛冶の里編」では登場していなかった善逸、伊之助も戻ってきている様子で、コメディ的な要素が強めなのかという印象です。
今まで詳しく描かれてこなかった個性ある柱たちにもフォーカスが当たるようで、この辺りは楽しみなところです。

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2024年2月 8日 (木)

「ある閉ざされた雪の山荘で」映像化が難しいとは

原作は東野圭吾さんの初期のミステリーで、映画化は難しいと言われていたようです。
ミステリーでは、クローズドサークルという設定が使われることがあります。
これはある山荘や孤島などで交通が遮断された状況の中で殺人事件が起こるというものです。
外部との出入りができないという状況なので、犯人は必ずその閉じられた環(クローズドサークル)の中にいるわけですので、互いに疑い合うという状況となり、緊迫感が生まれる設定です。
本作はクローズドサークルをベースにしながらも、ユニークな設定となっています。
登場人物は皆、役者である山荘にオーディションとして集められます。
主催者からそこは雪で閉ざされた山荘で、誰も外に出ることができないという設定であると告げられます。
そしてそこで起こる出来事に対して、アドリブで対応し、その演技を審査すると言われるのです。
実際には自由に出入りできるのにも関わらず、想像上でクローズドサークルを作るというユニークなアプローチですね。
ユニークな設定なのですが、本作を見ていて、どうにも緊迫感が出てこないという印象を受けました。
そして、そのワケと、映像化が難しいと言われてきた理由もわかりました。
先ほどあげたユニークな設定は、小説だからこそより面白いものであったのだと思います(原作読んでいないんで、想像ですが)。
雪の山荘であるという設定で演技をする役者たちの様子を小説を読んでいる時、我々の頭の中には雪に囲まれている山荘がイメージされているのか、それとも現実の山荘がイメージされているのか。
それは非常に曖昧じゃないかと思います。
時には雪で囲まれているようでもあり、別の時はそうではない。
そのあやふやな感覚は小説ならではないのでしょうか。
対して映像化作品の場合は、すべてが見えてしまう。
雪で囲まれている山荘と、現実の山荘がオーバラップするという演出はところどころで見られましたが、あまり効いていない。
多くの場面では、現実の山荘の中で、役者たちが演技をしているという「様子」が見えてしまいます。
そのためクローズドサークルならではの緊迫感がどうしても薄れてしまいます。
殺人現場でのヒントとなるアイテムに関しても、割とわかりやすく映像として捉えられているので、不自然さには気づきやすい。
小説だとサラッと触れられているだけだと、感度を上げてないとスルーしてしまうため、あからさまには気づきにくい。
設定にしても、ヒントにしても、あまりに「見えすぎる」ので、小説では気が利いている設定でも映像ではあまり効果的にはなっていない気がしました。
映像化が難しいというと、映像で再現ができないというように捉えられがちですが、本作の場合は映像で再現されすぎることでつまらなくなってしまうという意味で、映像化が難しいと言われたのであったのだろうと思いました。

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2024年2月 6日 (火)

「アクアマン/失われた王国」飾れなかった有終の美

前作「アクアマン」が公開された頃、DCのユニバース(DCEU)は方向性を見失っていたように思います。
DCEUはザック・スナイダーが牽引してきていましたが、期待の「ジャスティス・リーグ」などが振るわず、MCUと比べて見劣りする様子がありました。
その中で、「ワンダーウーマン」や前作の「アクアマン」はユニバースとの連携にあまり比重を置かず、独立した作品として見て、充実感のあるものとなっていました。
「アクアマン」は公開時「海中のスター・ウォーズ」とも言われ、派手な戦闘シーンなどが見どころとされ、実際に目を引くようなスペクタクルが展開されました。
よくも悪くもザック・スナイダーは独自のテイストがあり、DCEUはそれに縛られていた感がありましたが、「アクアマン」ではその縛りはほとんど感じなかったように思います。
個人的にはMCUとは違う単体主義の方向性は悪くないと思っていましたが、結果的には再びDCはユニバース化へ舵を切り、ジェームズ・ガンにそれを託すこととなったのです。
その結果、本作「アクアマン/失われた王国」はDCEUの最終作となりました。
最終作として有終の美を飾れたかというと、それはそうではなかったような気がします。
監督はジェームズ・ワンで前作から変わらないのですが、前作ほどの圧倒的な映像の迫力は感じられませんでした。
ストーリーはわかりやすく、典型的なヒーローものの脚本で、無難にまとめられています。
「ワンダーウーマン」「アクアマン」「シャザム!」と単独主義になった頃のDC EUはストーリーもそれぞれにユニークで楽しめたのですが、最近の「ブラックアダム」「シャザム!の続編などもストーリーが陳腐であって、退屈な印象がありました。
本作についても同様の感想を持ちました。
「スーパーヒーロー疲れ」と言われながらも、個人的にはMCUは大きな流れがあり、それが作品それぞれの個性と相まって、惹きつけられるものがあると感じています。
対してDCEUは大きな流れもなく、個々の作品としてのパワーも落ちているため、非常に厳しいと言わざるを得ません。
リブートされる新しいユニバースが、その状況から脱するきっかけになれるのでしょうか。

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2024年2月 5日 (月)

「ゴールデンカムイ」全編高密度

原作漫画の再現レベルが高いと評判の本作ですが、私自身は原作は読んでないため、純粋に映画の感想となります。
大正時代の北海道を舞台とし、元軍人の杉元とアイヌの娘アシリパがバディとなり、アイヌの隠された金塊を探します。
彼らと北海道独立を企む鶴見が率いる第七師団と、戊辰戦争の生き残り土方歳三らが三つ巴の戦いを繰り広げられます。
ストーリーの展開は非常に早く、見どころが次から次へと展開されるので飽きることはありません。
まず登場するキャラクターたちが非常に魅力的です。
杉元は日露戦争で何発もの銃弾を受けても必ず生還することから「不死身の杉元」と呼ばれています。
そう聞くと殺伐としたキャラクターのように思えますが、時折見せるユーモアや、アシリパと一緒の時には穏やかな表情を見せ、多面的な魅力を感じます。
主人公杉元を演じているのは「キングダム」でもその再現性が高いと言われている”実写化俳優”山崎賢人さん。
「キングダム」でもそうですが、この方は非常に身体能力が高く、アクションの見栄えが素晴らしい。
アクション映えする俳優としては佐藤健さんも挙げられると思いますが、彼のアクションは非常にスマートであるのに対し、山﨑さんの場合は本作でも鍛えられ上げた肉体を披露していますが、肉や骨の感触を感じるような肉弾戦のイメージがあります。
冒頭の戦闘シーンなどは鬼神格やという形相ですが、先ほどあげたような穏やかな表情も見せ、この辺りの振れ幅は山崎さんならでは。
杉元の相棒となるアシリパを演じるのは山田杏奈さん。
この方はあまり知らなかったのですが、役柄に非常にマッチしていたと思います。
アシリパもシリアスな背景を持ちながらも、時に見せる勇敢な凛々しさ、そして歳相応の可愛らしさもあり、山崎さん同様に幅広いキャラクターを体現できていたと思います。
敵役となる鶴見を演じるのは玉木宏さんで、二枚目俳優である彼が、相当にぶっ飛んだ役を演じるのは観ていて新鮮でした。
戦争で頭に傷を負い、興奮すると髄液が流れてくるなんて狂った役、なかなか演じるのも大変そうですが、非常に生き生きとしていたように思います。
登場するキャラクターたちは、漫画的といえば、その通りなのですが、それらをしっかりと血が通っている人物として俳優陣が演じレているところが、実写化映画として評価されているポイントなのでしょう。
あと、実写映画ならではなのが、監督がこだわったという雪深い北海道の風景でしょう。
やはりリアルな風景はCGなどで作られた風景とは全く違う空気感があります。
この空気感により、そこに暮らしていたアイヌたちの息吹を感じることができたように思います。
もちろんアクションシーンも見せどころが多数あり、冒頭の203高地の戦いしかり、ラストのソリでのチェイスしかり、見応えがありました。
かなり密度の高い作品で、上映時間はあっという間に過ぎた感じがします。
これでもまだ原作の漫画で言うと、まだ序盤ということで。
この後の展開が楽しみです。
しかし、「キングダム」と「ゴールデンカムイ」掛け持ちとなると山崎さんはかなりこれからも肉体的にハードそうですね。

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2024年1月31日 (水)

「パウ・パトロール ザ・マイティ・ムービー」小さくても活躍できる!

「パウ・パトロール ザ・ムービー」から2年を経ての続編となります。
前作はちょうど娘がNetflixでシリーズを夢中になって見てたので、劇場版も一緒に観にいきました。
今は娘も小学生なので「パウ・パトロール」は卒業してい他のですが、劇場で予告編を見たところ「行きたい!」となり、本作も一緒に鑑賞です。
「パウ・パトロール ザ・マイティ・ムービー」ではメンバーの一人、チェイスが主人公の扱いでしたが、本作では女性メンバー、スカイが主人公です。
前作レビューの時に他のメンバーのエピソードも見たいと書いたのですが、その通りになりました。
また本作で大きく変わっている点は、パウ・パトロールメンバー自身が、それぞれ特殊能力を得たということですね。
今までは特殊なメカ・アイテムを使って人々を助けていたパウ・パトロールでしたが、この変化によりスーパーヒーローもののような要素が入ってきたと思います。
今までの知恵と勇気でなんとかする感じも嫌いじゃなかったので、万能感のあるスーパーヒーローになった時、話が変質するのではないかと危惧もしました。
前作ではチェイスが幼い頃のトラウマを克服していく様が描かれており、子供向けのアニメでありながら、キャラクターをちゃんと掘っている印象がありました。
本作では主人公は体が小さいスカイとなり、彼女の抱えるコンプレックスがテーマとなります。
彼女は生まれつき小柄で、そのため引き取り手もなかったというコンプレックスがあります。
パウ・パトロールに加わり、活躍の場を得られていますが、それでも他のメンバーに対して小柄なことにより、できないことも多々あるわけです。
本作では彼女がそのコンプレックスを事件を通じて克服していく様が描かれます。
自分自身を認められるようになっていくのですね。
前作でメンバーに加わった女性メンバーであるジャネットにもスポットは当たっており、他のメンバーに比べてスキルがない彼女が、彼女らしいチームへの貢献の仕方を見つけていきます。
その点で、キャラクターをしっかり描きたいという前作のポリシーはしっかり受け継がれているなと思いました。
小柄だったことをマイティ化することにより安易に解決するようには見せてほしくなかったのですが(それが冒頭で書いた危惧)、そこは制作者側も意識して、安易であると捉えられないよう丁寧に描かれているように感じました。
マイティ化したことにより、アクションシーンは前作よりも一層派手になって見応えは増したと思います。
主人公をスカイにしたことにより、空中戦なども描けるようになったことも派手さに貢献しているかもしれません。
基本子供向けのアニメーションではありますが、ストーリー的にも子供でもわかるメッセージがあり、一緒に見るアニメとして良質に出来上がっていると思います。

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2024年1月28日 (日)

「ゴジラ-1.0/C」モノクロにした効果

日本アカデミー賞でも数多くの賞を受賞し、さらには米国のアカデミー賞でも視覚効果で日本初のノミネートとなった本作、公開からしばらく経っていますが、多くの話題を提供しています。
本作は「ゴジラ-1.0」をモノクロにしたバージョンとなります。
「シン・ゴジラ」でもモノクロ版を公開し好評だったことを受け手のモノクロ版となります。
しかし、ただモノクロに変換しただけではなく、カット毎にモノクロにするために細かい調整をしているとのことです。
基本的にストーリーは変更がありません。
変更があったのは、冒頭の東宝のロゴの白黒バージョンになっているのと、長年山﨑監督作品のプロデューサーを務めていた阿部秀司さんへの追悼文が加わっているところでしょうか。
モノクロになったことにより、いくつかの効果があったように思いました。
1つ目はモノクロで色の情報がなくなったことにより、陰影のみの表現となり、より原始的な恐怖感が出てきたとおもいました。
特に冒頭の大戸島で初めてゴジラと邂逅するシーンは迫力がましたと思います。
シーンは夜なので、ゴジラの姿はカラー版に比べて視認しにくくなっています。
ゴジラのゴツゴツした肌も陰影が強調され、より異形さが増しています。
そのため、見たこともない怪物に襲われているという恐怖感が増し、主人公がどうしても撃てなかったということの納得性を増しているように思えました。
2つ目はドキュメンタリー感がより強くなったことです。
本作で描かれている時代は戦後間も無くであり、まだテレビなどもなかった時代。
その時代を表すにはカラーよりもモノクロの方が、時代性が伝わりやすいように感じました。
特に浩一と典子が暮らすバラックなどのシーンはモノクロの方がより昭和の戦後間も無くの雰囲気が出ていたと思います。
3つ目は典子を演じている浜辺美波さんの美しさが際立って見えたこと。
元々彼女は昭和の女優のオーラを纏っていると評されることが多いですが、よりモノクロになったことにより、かつての昭和の大女優の原節子さんらのような見え方をしていて、それがまた彼女の雰囲気にとてもマッチしているように見えました。
原始的な恐怖を引き起こすゴジラの存在感、その時代のドキュメンタリーを見ているような空気感、浜辺さんの昭和大女優のような佇まいが、より本作の質感を強化しているように思いました。
モノクロ化という点では、「シン・ゴジラ」よりも本作の方がやる意味合いというのを感じましたね。
見る価値はあると思いますので、ぜひご覧ください。
阿部秀司阿部秀司な

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2024年1月27日 (土)

「ウィッシュ」視線が過去に向いている

ディズニー100周年記念となる作品と大々的に公開されました。
私は最近はディズニー作品はコンスタントに見ているのですが、子供の頃はあまり見ていませんでした。
本作は100周年記念ということで、今までの作品のオマージュがいろいろと入っているようなのですが、そのためあまりわからなかったです。
日本では割と観客は入っているようなのですが、アメリカなどでは期待ほどには動員数は少なく、また批評的にも芳しくありません。
私が最近ディズニー作品を見ているのも、子供向けであることは基本としつつ、しっかりとキャラクターを描けている点を評価しています。
その点において本作は個人的にも物足りないものとなりました。
本作はディズニー全盛の頃のアニメへのオマージュが強いためか、悪い魔法使いとそれに立ち向かうヒロインという形をとっています。
それ自体は悪いということはないのですが、ヒロインもそれに対する魔法使いも、行動のモチベーションが抽象的です。
最近のディズニーのキャラクターはキャラクター自身の内面の葛藤や望みなどが丁寧に描かれており、そのためどうしてそのような行動をとるかが共感性を持って伝わってきます。
それに対して、本作においては登場人物の行動のモチベーションがそれほど強くは伝わってきません。
主人公アーシャは国民や祖父の夢を取り戻すために、悪い国王へ挑みます。
モチベーションはあるのですが、正義のために戦う、幸せのために戦うといったようなステレオタイプな動機であって、アーシャのもっと個人的な内面から湧き出るような思いのようなものはあまり感じられませんでした。
特に本作はディズニー伝統のミュージカル形式になっており、そのため歌に乗せる想いが弱いのは致命的であるかなと思います。
また対する悪い魔法使いの国王ですが、前半はまだ魅力的に描かれていたように思います。
彼は国民のことを全く考えていないわけではなかったからです。
しかし、魔法の強大な力に呑み込まれてからは、古典的なディズニーの悪い魔法使いのような、これもステレオタイプなキャラクターと化してしまいました。
もう少し善と悪の両面を持つキャラクターとして深みを与えられそうだったのに、もったいないと感じました。
映像表現としては絵画のような質感を持たせたり、楽曲自体は魅力的ではあったと思いますが、ストーリー・キャラクターが100周年の記念作品であるということで過去の集大成としての意識が強く、古典的な風合いを持ってしまったように感じます。
本来記念作品は、過去を踏まえつつも、今後につながる可能性を描くべきで、視線は未来に向けているものであってほしい。
視線が過去に向いていたという点ことが、最近のディズニーのチャレンジの姿勢を感じさせなかったことが残念でした。

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2024年1月 8日 (月)

「エクスペンダブルズ ニューブラッド」一つの時代の終わり

ビックネームなアクションスターたちが共演するというビックな企画「エクスペンダブルズ」、10年ぶりの新作です。
新作を作るにあたっては、スタローンが企画から離れたり、戻ったり、コロナがあったりといろいろあったようですね。
これまではスタローンの人脈からか、信じられないような出演者たちが集結するところが見どころの一つでしたが、本作に関しては、新たに加わったアクションスターとしては「マッハ!」のトニー・ジャー、「ザ・レイド」のイコ・ウワイスくらいでやや物足りない(二人はそれぞれ一級のアクションスターだが)。
元々このシリーズはアクション映画ファンとしては、かつてはライバル的な存在として競っていたアクションスターたちが共演をしている凄さを味わうメタ的な楽しさもあったりしたわけなので、それらの要素がなくなると普通のB級なアクション映画とあまり変わらなくなってしまう。
確かに、今回製作も務めるジェイソン・ステイサムのアクションは未だ健在で見所もあるのですが、それゆえ彼が出演している「いつもの」アクション映画とあまり違った印象に放っていません。
企画として元々持っていた魅力がないことに気づいているからか、終盤脚本的にはどんでん返し的なところが用意されているのですが、それも割とあからさまなので、驚きはありません。
むしろB級アクション映画ではよくある展開とも言えるでしょう。
このシリーズ、80〜90年代のマッチョなアクション映画の遺産で作っているようなものなので、それらを見ていた観客が歳を取ったり、そもそもそのようなアクションスターがいなくなったり(引退したブルース・ウィルスのように)すると、なかなか継続は厳しそうな気がします。
90年後半から00年代はこのような泥臭いアクションよりはスタイリッシュなものにトレンドは移っていったので、このシリーズに出てくれそうな人がいないのですよね(思いつくのはヴィン・ディーゼルとかしかいない)。
一つの時代がとうとう終わったということでしょうか。

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2024年1月 6日 (土)

「正欲」知らない惑星への留学

2024年最初に鑑賞した作品はこちらです。
ダイバーシティが一般的な言葉として語られるようになり、LGBTQについても人々の理解が深まってきています。
本作で登場する人物たちの性癖はそれに比べても特殊で「水フェチ」と呼ばれるものです。
様々な動きの水に性的興奮を喚起されるというものですが、一般的にはなかなか理解されにくい性癖だと思います。
個人的にも説明されればそういう性壁もあるのだと理解できるものの、感覚的にはよくわからないというのが正直なところです。
性的な嗜好についてはほぼ人と話すことはない上に、それが特殊(個性的)であればあるほど、誰とも共有できるものではないと思います。
価値観が違う、ということはよくあると思いますが、これはまだ言葉で説明できるし、いろいろあるというのが前提となっているので、まだマシかもしれません。
性的嗜好、まさに生物として生きることにつながる嗜好で、それが普通でないということは、生き物としておかしいのではないか、と自問したくなる気持ちは理解できます。
自分が他者と異なる、普通ではないということは、強い疎外感を生むことでしょう。
本作の登場人物たちも、そのような自分が社会と隔絶しているように感じ、死のうと思ったり、壁を作ったりして生きています。
主人公の一人、桐生はそれを知らない惑星に一人で留学しているような感覚と言います。
その孤独感たるや。
同じような自分の存在すら疑問に思っていた桐生と佐々木が再会できたのは奇跡でもあり、救いでもあると思いました。
たった一人でもいい、自分を認めて、繋がって、一人じゃないと認識させてくれる人がいてくれればそれは幸せなのだと。
本作では性的嗜好の話にフォーカスしていますが、これはそれだけに限ったことではなく、自分がいていいということを認めてくれられるということがいかに人を生かしてくれるのかということを伝えているのだと思います。
もう一人、水に性的興奮をしてしまう人物として諸橋という大学生が登場します。
彼に対し、神戸という女子大学生が好意を持ちます。
彼女は幼い頃のトラウマで男性に恐怖心を持ってビクビクしながら暮らしていますが、諸橋にだけはそれを感じません。
それは諸橋が女性に興味がないということからきているのかもしれませんが、彼女にとっては自分のことを理解してくれる唯一の男性のように思えたのでしょう。
彼女にとって諸橋を通じて、普通になれると思えた。
しかし、それは諸橋の全てを理解できたことではなく、どうしてもその人自身のフィルターを通しての理解にならざるをえないということがこのエピソードから伝わってきます。
さらには、諸橋のような嗜好が人々に理解できないということを痛烈に印象付けるパートになっていたとも思いました。
登場人物の中で自分でも普通の人間だと認識しているのが、検事の寺井は、子供が不登校になりそれを受け入れることができません。
彼にとって普通の子供は学校に通うもの。
フリースクールに行ったり、不登校の仲間とYouTubeを配信したりなどというのは、彼にとっては異常なことなのです。
彼の普通は許容範囲が狭く、結果、それが家族とのつながりを断ち切ることになりました。
異なることを認められるということと共に、認めるということも人とのつながりにとっては欠かせない。
ラストシーンで桐生と寺井は対面しますが、自分の存在を認めてくれている人がいると自信を持てる桐生と、大切な関係を失ってしまった寺井はどちらが幸せなのか、と考えさせられます。
どうしても理解できないこと、というのはあるものの、理解をしようと努力すること自体をしなくていいわけではないということです。
新年早々いろいろ考えさせてくれた作品でした。

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