2019年10月27日 (日)

「フット:ザ・ビギニング」 今風でもありクラシカルでもあり

本作は邦題のタイトルは「フット:ザ・ビギニング」ですが、オリジナルのタイトルは「Robin Food」。
ロビン・フッドの映画といえば、ケビン・コスナー主演の1991年の作品、ラッセル・クロウ主演の2010年の作品がありますね。
いずれもスターと著名な監督を起用した大作となっています。
そして両作品ともに歴史物というよりはエンターテイメント性の高い映画として作られており、個人的には両方とも好きです。
ロビン・フッドとは民衆のために悪い代官と戦うヒーローなわけで、定期的に映画化したくなるような題材なのでしょう。
本作「フット:ザ・ビギニング」も過去の作品と同様に歴史物というよりはエンターテイメント性の高い作品として作られています。
邦題に「ビギニング」とあるように、過去の2作品はロビン・フッドは完成された大人として描かれていましたが、ロクスリーがロビン・フッドになる過程を描いている作品となっています。
そのためロビン・フッドのキャスティングはケビン・コスナーやラッセル・クロウよりはやや若めのタロン・エジャトンとなっています。
これは今回の物語からするとまさにぴったりのキャスティングだったと思います。
最初の「キングスマン」は若々しいエージェントが似合っていましたが、最近では「ロケットマン」などでも演技力で魅せていますし、今回の領主でありながらヒーローという役回りに合っていたと思います。
弓を使ったアクションもスピード感があって見応えがありました。
弓矢というと遠距離戦というイメージですが、本作では近接戦闘での弓矢をうまく使うというのが、非常に新鮮でした。
ロビン・フッドというのはおそらく日本で言えば水戸黄門のような時代劇な感じがします。
その場合、やはり悪役は徹底的に悪くないと、最後は溜飲が下がりません。
そういう意味では、今回の敵役の代官は非常に憎らしい。
最近の映画は悪役も色々背景があったりして彼らなりに悪を行う理由があるといったものが多いですが、本作はクラッシックに悪役が悪役らしくていいですね。
アクションなどは現代らしいスピード感があり洗練されたものでありながら、内容の骨子はクラシカル。
娯楽映画としてはこのくらいのさじ加減は見やすいと思います。

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2019年10月23日 (水)

「ジョーカー」 共感できる異端者

ジョーカーとは、みなさんご存知の通り「バットマン」に登場する有名なヴィラン(悪役)。
本作はベルリン映画祭で金獅子賞を受賞し、アメコミ映画でありながら、映画通にも高い評価をされている。
過去の「バットマン」作品でも、ジョーカーは非常に印象的なキャラクターとなっていた。
今までそのキャラクターを演じてきたのはジャック・ニコルソン(「バットマン」)、ヒース・レジャー(「ダークナイト」)、ジャレッド・レト(「スーサイド・スクワッド」)。
それぞれが魅力的にエキセントリックなジョーカーというキャラクターを演じてきた。
彼らは同じジョーカーというキャラクターを演じてはいるのだが、監督や彼らの解釈により、違った味わいを持つキャラクターとなっていたと思う。
しかしながら、ジョーカーというキャラクターが持っている本質は共通しているように私は考えている。
私が考えるジョーカーとは、人間社会が持つ秩序・ルール・価値観を根本的に否定する者であるということ。
例えば、ジャック・ニコルソンが演じる「バットマン」のジョーカーはまさに「笑いとばしながら」社会の秩序を破壊していくし、ヒース・レジャーの演じる「ダークナイト」のジョーカーはバットマンの持つ正義・価値観を嬲るように否定する。
「スーサイド・スクワッド」のジョーカーは印象がやや薄いが、ストーリーに対して唐突に現れ、かき回す印象はルールを無視するジョーカーらしいところかもしれない。
ジョーカーは何ら既存の社会の秩序・ルールに対して、価値を感じていない。
守ろうとも思っていないし、壊そうとも思っていない。
どうでもいいものなのだ。
本作はある男がジョーカーになるまでを描いた物語である。
その男アーサーは、すでに強固に組み上げられた社会秩序の最下層に位置していた。
劇中ではずっとアーサーがその社会秩序に虐げられる様を描く。
それでも彼はその社会に適応しようとはするが、社会は彼を受け入れず、社会と彼のズレが次第に大きくなっていく。
そして唯一の拠り所となっていた母親が自分を虐待していたという事実を知り、そして夢であったテレビショーで笑い者にされるという体験を経て、彼は自分自身を否定しようとしたところまで行ったのだと思う。
マレーのショーに出演していたとき、彼は本当に自殺をしようとしていたのだろう。
マレーに関しても殺そうとして殺したのではないように思う。
もう彼にとって社会などはどうでもいい存在となったのではないか。
自分から適応しようとも思わないし、それを壊そうとも思わない。
マレー射殺後、彼は逮捕されるが、彼に影響を受けた市民の暴動のどさくさで解放される。
彼が暴動を煽動しているわけではない。
彼にとって社会はどうでもうよく、彼は道化のように踊っているだけだ。
ラストのシーンはどのように考えるか色々解釈はあるだろう。
私はこの物語はどこからか(おそらくマレーのショーに出たあたり)がアーサーの妄想であったという説をとりたい。
そもそもアーサーは妄想癖があった。
それはアパートの同じ階に住む女性とのエピソードが全て彼の妄想であったということからもわかる。
母親が自分のことを虐待していたという事実をあの時点で知るというのもおかしい。
もしかすると虐待されていた事実から自分自身が逃れる術として妄想に逃げ込んでいたのかもしれない。
またアーサーが一度マレーのショーで舞台に上がったというシーンも彼の妄想であったのだろうと思う。
本作が今までのジョーカーと異なる点は共感性であると思う。
アーサーの状況は同情するにあまりある。
誰もが彼の境遇を不憫だと思うし、彼が幸せになってほしいと思うだろう。
しかし彼は迫害され、その結果、社会を破壊する行動に走る。
これは正しくはないが、わからないわけではないと感じるところであると思う。
アメリカで公開した時、警察などが非常に警戒したという話を聞いた。
その時は大袈裟な、と思ったりもしたが、今はわからないわけでもない。
過去の作品におけるジョーカーは社会を嘲笑うものではあったが、通常の市民ではない異端者であった。
しかし本作では通常の市民が、社会を嘲笑い、秩序を否定する存在となったのだ。
危険は外ではなく、中にいる。
劇中で描かれているように、影響を受け極端な行動に走る者が出たらと警戒するのもうなづける。
本作のジョーカーは異端者ではなく、共感できる者であるがゆえに危険な存在なのだ。

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2019年10月15日 (火)

「蜜蜂と遠雷」 世界の記述

自分は音楽があまりよくわからない。
音楽をじっくり聴くという習慣がない。
映画は人一倍集中して見るにも関わらず。
おそらく音楽のどこを感じてよいのかがわからないのかもしれない。
音楽が好きな人は、音楽はわかるものではない、音楽は感じるものであるというだろう。
音楽がわかる人は、感じている世界が違うのではないかとも思う。
ただ本作を観て、音楽を感じている人がどのように感じているのかがわかったような気がする。
世界は音楽で満ちている。
蜜蜂の羽音。
遥か遠くから響く遠雷の音。
雨音、鳥の声、やかんの音。
劇中でベートーヴェンの「月光」を亜夜と塵が二人で弾くシーンがある。
二人を静かに月に光が照らす。
ここでわかった。
音楽とは音による世界の記述なのだ。
作曲家は音により、自分が感じる世界を記述する。
そして演奏家は、曲かどのように世界を記述したかを読み取り、それを自分を通して出力する。
世界から音楽への変換装置としての人間、作曲家。
音楽から世界のイメージの出力装置としての人間、演奏家。
装置とは言ったが、人間である。
記述するにしても、再現するにしても、そこにはその人そのものが現れてしまう。
世界をどのように観ているか。
もしかすると世界は観る人により異なっているのかもしれない。
海岸で、亜夜とマサルと塵が、砂に刻む足跡で曲の当てっこをする場面がある。
それは音楽がわからない者には意味がわからない。
しかし、彼らには言わずとも伝わる。
その様子を見た明石は言う。
「悔しいけどわからないよ、あっち側の世界は」
彼らにとっては世界は異なるものに見えるのだ。
音を通して。
それは祝福なのだろう。
キリスト教や宗教では音楽が大きな役割を持つ。
それは音楽が世界を記述するものだからだ。
そしてそれができるのはやはり天賦の才を持った者だけなのだろう。
亜夜、マサル、塵は祝福された者たちなのだ。
しかし、彼らも人間であるからには、世界そのものの本質を純粋に掴み取れるわけではない。
本作の主要な四人の登場人物は互いに影響し合う。
明石の演奏は亜夜や塵に影響を与える。
亜夜のピアノがマサルや塵にインスピレーションをもたらす。
そして高みに登る。
音楽は世界とそれをどのように観ているかという人間の関係性を記述する。
世界の記述は個だけではなし得ないのかもしれない。
そして彼らが観た、彼らが記述した世界の姿を、我々に伝えるものが音楽なのかもれない。

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2019年10月 5日 (土)

「アド・アストラ」孤独に焦がれ、孤独を恐れる

本作はスペース・アクションと銘打たれているが、その本質は違う。
確かにオープニングの宇宙エレベーター(?)のシークエンスや、月面車でのチェイスシーンは今まで見たことがない、宇宙でのアクションシーンとは言えるし、舞台の多くは宇宙である。
しかし、本作はそのようなシーンをことさらに見せたかったわけではない。
どちらかと言えば、何が起こっても異常なほどに沈着冷静であるロイというキャラクターを描くためにあったと言ってよい。
私は本作のテーマは「孤独」であると考える。
その反対の「繋がり」であると言ってもいいだろう。
宇宙というシチュエーションはその「孤独」を描き出すには最適の舞台であるがゆえの選択であるように思う。
これが「深海」であっても成立するような気もするが、ただ後に描く理由により、やはり宇宙の方がベターであるだろう。
主人公ロイは孤独な男である。
普通に社会生活をおくれているようであっても、彼はその内面を他の者にされけだすことはない。
妻であった女性にもそれは同じであり、それ故に彼女は彼から離れていった。
ロイは劇中の多くのシーンで宇宙服を着ているが、まさに宇宙服が彼と他の人々との関係性を象徴している。
自分を守る厚い皮膜、直接触れることができない関係性だ。
彼は自身のそのような性向に気づいているものの、それをどのように解消していいかわからない。
またそのような状態でいる方が心地よいとも感じてしまう。
これは個人的にはわからない感覚ではない。
自分もどちらかというと内面をさらけ出す方ではないし、一人を好む性向がある。
直接的な感情表現をする人は付き合っていても苦手であるのだ。
一人になりたいということもしばしばある。
もう一人の主要な登場人物はロイの父親であるクリフォードだ。
彼は地球外生命体の探索のため、遠く海王星まで遠征し、そこで消息を絶った。
彼を探しに行くことが、ロイのミッションとなる。
クリフォードは地球外生命体の探索に異常なほどの熱意を燃やす。
結果、彼の方針についていけないプロジェクトのクルーを殺害してしまったほどだ。
そのプロジェクトは努力にも関わらず、成果をあげられなかったようだ。
すなわち人類以外の知的生命体の痕跡を見つけられなかったということだ。
それは人類がこの宇宙において唯一の知的生命体であったということ意味する。
それをクリフォードは認められない。
なぜか。
彼は人類が「孤独」であることを知るのを恐れたのであろう。
孤独であることは恐怖を伴う。
なぜならば自分が存在することに誰にも気づいてもらえないことを意味するからだ。
そうなると自分が存在する意味はあるのかという根源的な問いに至ってしまう。
一方、クリフォードは妻と子を捨て、宇宙へ旅立った男でもある。
彼は自分のやりたいことのため、しがらみを一切捨てたのだ。
この感覚もわからないではない。
家族は愛しているものの、一人になりたいと渇望することもあるものだ。
つまり人間には孤独になりたくないという気持ちと、孤独になりたいという気持ちは同時に存在しているのだ。
ロイは父親を見つけるために深太陽系を目指す旅の中で、地球から離れるほどに精神的に不安定になる。
より孤独になる環境に向かう中で、人々との繋がりが薄れることによるのだろう。
孤独になりたいという気持ちは遠心力だ。
また繋がりたいという気持ちは引力だ。
ロイは遠心力で深宇宙に旅をしていったが、より孤独が深まる中で、人と人とをつなぐ引力が切望するようになったのかもしれない。
遠心力と引力のバランスが取れた場所が軌道である。
人間は孤独になりたいという気持ちと、孤独になりたくないという気持ちのバランスが取れた軌道を見つけなくてはいけないのかもしれない。
そしてそれはパートナーと同じ軌道に入れることが望ましいのだ。
ロイは旅路の果てにそのバランスを見つけることができた。
クリフォードの場合は正反対になる。
彼が恋焦がれるのは、つまり引力の方向が外宇宙なのだ。
彼は他の生命体とのコネクトを求めている。
その方向性が引力で、地球に向かう方向性は彼からすると遠心力なのだ。
結局、彼は強い引力に引かれ一人宇宙に旅立った。
冒頭に書いた宇宙を舞台にしたことの意味はここにある。
人間の関係性における遠心力と引力を描くためのメタファーとして宇宙が適しているのだ。
人との関係性の遠心力と引力のバランスが取れた軌道を見つけられれば、人は心地よく安らかに生きていけるのだろう。

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2019年9月30日 (月)

「ヘルボーイ(2019)」 原作の雰囲気に忠実ではあるが凡庸

原作者のマイク・ミニョーラが脚本にタッチしているからか、ギレルモ・デル・トロの「ヘルボーイ」よりも原作の雰囲気が出ているような気がします。
というよりも、今思うとデル・トロの「ヘルボーイ」はデル・トロ色が強いのかもしれません。
ヘルボーイとリズの恋などは、異形の者との愛を描く「シェイプ・オブ・ウォーター」に通じるものを感じたりします。
ヘルボーイ自身が人間と悪魔の間に生まれたという異形の者ですが、さらにリズなどの描き方は常人とは異なる能力を持つことによる疎外感を感じさせます。
異形の者への愛情というのが、デル・トロの作品には通底していることで、それが「ヘルボーイ」という題材と相性が良く、彼らしさが出ていたのだと思います。
本作はデル・トロ版よりも原作が持つオカルティックな雰囲気を素直に描ことしていたように感じました。
R指定の作品となっており、残酷めな描写も多々ありますが、それもまた原作に忠実な印象を受けました。
「ヘルボーイ」の原作コミックは何冊か持っているのですが、「ヘルボーイ 百鬼夜行」の中のエピソードをベースにしていると思います。
ストーリーは違うのですが、登場するキャラクターやシーンなどに共通な要素が見受けられます。
このエピソードは、他のものよりも更にオカルト色が強いように感じました。
そのような原作が持つ特色を大切にしたのだろうと思われます。
「ヘルボーイ」の映画化作品としては、誠実に作られているように思いますが、卓越したレベルに仕上がっているかと言われるとそこまではいきません。
デル・トロ版が、原作の持つ雰囲気を持ちつつも、彼の作家性を強く出し、個性的であったのに比べると、本作は凡庸であると言わざるをえません。
作中でいくつか次回作に向けた種まきをしていましたが、次に繋げることはできますでしょうか。

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2019年9月29日 (日)

「記憶にございません」 生き方を変えるファンタジー

人生も半ば過ぎまで生きてきて、それが子供の頃想像していた将来の姿と同じかと言われると全然違うものですよね。
個人的にはそれはそれで悪くない人生であったと思ってるわけですが、こんなはずじゃなかったと思う人もいますよね。
それでは、人生を改めてやり直すことができるのかというと、既にいろんなしがらみがあって、そのようなことは無理なわけです。
本作は政治コメディの体裁ですが、政治の風刺というよりは、人生をやり直すことができたらということをテーマにしたファンタジーと言えるかもしれません。
ただし本当にファンタジーでない限りは失われた時を取り戻すわけにはいかないので、人生をやり直すというよりは、生き方をリセットするということを描いていると言えるでしょう。
過ぎ去った時間は取り戻すことはできなくても、生き方を変えれば、その後の人生は別のものに変えることができるかもしれません。
しかし、生き方を変えるというのもなかなかの至難の業。
それまで生きてきて積み重ねてきたものが自分の中にも、自分の周囲の人々のなかにもあり、それが自分というものを作り上げているからです。
自分の中はあるきっかけがあれば変えることができたとしても、しがらみがそうさせてくれない。
本作の主人公である黒田は政権の支持率がかつてないほど低い、多くの国民に嫌われている内閣総理大臣です。
国会や記者会見では暴言を吐く、強引な政権運営をする、汚職まがいなことを裏ではしている、そして不倫なども・・・。
好きになるのが土台無理そうな悪徳政治家です。
どこかの国にもいるような感じが致しますが。
さて、その首相が演説の最中に頭にくらってしまった石礫のおかげで、記憶喪失になってしまいます。
子供の頃は別にして、政治家になった頃からの記憶がまったくない。
それに伴ってか、何故か人格までがとってもいい人になってしまうのです。
そんな彼が自分が嫌われ者であったときのことを知るにつけ、このままで政治を放っておいていけない、しがらみがなくなってしまったからこそ自分には失うものがないと様々な改革を実行していきます。
 
<ここからネタバレがあります>
 
よくよく考えると記憶喪失になることにより、悪人から善人に性格までが変わってしまうのはそもそもおかしい。
ポイントは失った記憶が政治家になってから以降であったということです。
ということは、黒田はそもそもはいい人であったということなのですよね。
元々いい人であったはずですが、政治の世界で生きていくため、性格が変わってしまったのか、それともそのような政治家を演じてきたのかはわかりませんが、石飛礫によって性格がもとのいい人に戻ったということなのですよね。
実は彼は途中から記憶が戻っていましたが、記憶喪失のままでいようとそれを演じてきていたのです。
このあたりは百戦錬磨の政治家らしい。
もともとは夢を持って政治を志していたのにもかかわらず、いつしか生き抜くことが目的となり初志を忘れてしまっていたということに彼は気づいたのでしょう。
記憶喪失になったことによって、皮肉にも忘れていた志を思い出したとも言えます。
だからこそ記憶喪失という苦難を自分が変わり、そして周囲もそれに納得してもらえる一世一代のチャンスにかけたのでしょう。
この辺りも勝負師らしいです。
本当の人生、そんなに生き方を変えられれるかという話にはなるとは思いますが、それはこの物語はやはりファンタジーなのだと思います。
だからこそハッピーな気分になれる。
なかなか自分で自分の生き方を変えることは難しい。
けれど、ほんとのほんとにやる気になれば、できるかもしれない。
そんな希望を持たせてくれる映画のような気がしました。

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2019年9月15日 (日)

「SHADOW/影武者」 陰陽変転

「HERO」「LOVERS」などの武侠アクションで有名なチャン・イーモウの最新作です。
いままでの作品は鮮烈な色彩を上手に使っているイメージがありましたが、今回の「SHADOW」は水墨画のようなタッチを感じさせる作品になっています。
彼の今までの作品はアクションも優美でありましたが、本作ではさらに一層東洋的な美しさ感じられるようになっています。
映像は水墨画のように白と黒で描かれてますが、それは作品のテーマにも通底します。
作品の中にしばしば太極図(陰陽魚)が登場しますが、これは道教のシンボルです。
陰と陽とはしばしば入れ替わり、また陰の中にも陽があり、陽の中にも隠があるということを表していると言われています。
まさにこれはこの作品のテーマです。
主人公の影武者は、都督が身の危険を感じたため、その代わりとなって表の舞台に出ていきます。
そこは敵国とのせめぎ合い、そしてまた自国の中での権力争いにより陰謀術中渦巻く世界でした。
影武者は都督として振る舞い、常に命の危険にさらされながらも彼自身の機転によって何度も危機を乗り越えます。
都督は命の危険にさらされているからか、また権力への妄執ゆえか、精神的に歪みはじめていました。
都督は影武者の母親の行方を知っているということを材料に影武者を操っていました。
国のものには彼は国王と違い清廉の士と思われていましたが、彼もまた権力の亡者であったのです。
影武者は都督の妻に心を奪われ、そして彼女も影武者である彼に惹かれ、二人は身を重ねてしまいます。
都督はその様子も覗き見をしていました。
彼の心に去来するものはなんだったのでしょうか。
もはや妻を抱けなくなったことを影武者が代理となることで埋め合わそうとしているのか、また影武者が自分が思うように行動することによって、自分が人を操ることの満足感を得ているのか。
彼は陽のように見えながらも陰でありである存在です。
彼らが仕える王もそのようなものの一人です。
愚王のように見えながらも、実は策士であることが終盤に明らかになります。
しかし彼の策により、彼の大事な者は命を落としました。
彼も陰陽併せ持つ男でありました。
そしてまた主人公である影武者も。
陰陽が激しく入れ替わる展開の中、彼もまた変転していきます。
しかしその変転した先には幸なのか不幸が待っているのか。
人の世は正義と悪を明確に定義できるものではありません。
清はその中に濁を持ち、濁はその中に清を持つ。
まさに太極図が表している考え方が、本作を貫いています。
だからこそ映像が水墨画のようなタッチで描かれることとなったのでしょう。

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2019年8月31日 (土)

「ロケットマン」 本当の自分

クイーンの自伝的映画「ボヘミアン・ラプソディー」が昨年大ヒットしたという記憶は新しいですが、本作はエルトン・ジョンの半生を描く作品です。
監督はデクスター・フレッチャー。
「ボヘミアン・ラプソディー」はブライアン・シンガーが監督としてクレジットされていますが、最終盤で解雇されていて、最後の仕上げをしたのはデクスター・フレッチャーなのですよね。
2作連続でイギリスの大ミュージシャンを題材にしている作品を作っています。
エルトン・ジョンを演じるのは「キングスマン」シリーズで主演を務めているタロン・エガートン。
そう言えば、「キングスマン2」でエルトン・ジョンが本人役で出演していましたね。
タロン・エガートンがエルトンを演じるのは運命だったのかも。
エルトン・ジョンの本名はレジナルド・ドワイト。
レジナルドは音楽の才はありましたが、内気な少年でもありました。
そんな少年がド派手な衣装を着て、どうしてサービス精神あふれるステージを見せてくれるエルトン・ジョンになったのか。
少年時代のレジナルドは父親にも母親にも愛されませんでした。
ずっと自分の居場所を見つけることができなかった少年だったのです。
唯一彼が自分自身を解放できるのが、音楽でした。
音楽を通じて親友と呼べる人物と出会うことができ、そして才能を発揮することで多くの人に認められることができた。
内向的で癇癪持ちな男が、ステージに上がると別人のようなパフォーマンスを見せるという描写が本作ではいくつもありました。
才能を認められれば、なりたい自分になれると彼は言われます。
レジナルドは、自分の理想の姿であるエルトン・ジョンという人間を無意識に演じていたのかもしれません。
しかし、それが本当の自分であるのか。
彼は次第にエルトン・ジョンという人物を演じることに疲れていってしまったのかもしれません。
だから酒や薬に手を出し、その葛藤から逃れようとした。
「自分探し」という言葉が以前、流行りました。
しかし自分とは、探して見つかるものなのでしょうか。
そもそも本当の自分ってなんなのでしょうか。
理想の自分と現状の自分のギャップはあるかもしれません。
ただ理想の自分が、本当の自分なのかというとよくわかりません。
レジナルドは理想の自分こそが本当の自分だと思っていたのかもしれません。
普通の人は理想の自分になるというのはなかなか難しい。
才能も必要ですし、もちろんお金も必要でしょう。
でも彼はそれを得てしまった。
理想の自分になることができた。
けれどそれが本当の自分であったのか。
結局すべてを吐き出して、まっさらになって初めて彼は自分自身を見つめることができたのかもしれませんね。

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2019年8月23日 (金)

「ダンスウィズミー」 自分の解放

「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」の矢口史靖監督の最新作です。
今回の題材はミュージカルです。
ミュージカル映画好きなんですよね。
自分では歌ったり踊ったりするのは苦手なのですが、なぜかミュージカル映画は好きなのです。
でも昔はあまり好きではありませんでした。
主人公の静香が劇中で言っているように、それまで普通に会話していた人たちが歌い出すっていうのに違和感を感じていたのです。
しかし、映画「シカゴ」を観たあたりから好きになって、ミュージカル映画が公開されると劇場に足を運んでしまうのです。
でもなんでミュージカル映画が好きになったのかが本作を観てわかりました。
静香は東京の洒落たマンションに住んでいて、大手の企業に就職できた勝ち組OLです。
仕事もできるらしい。
彼女は幼い頃の大失敗のトラウマからミュージカルが大嫌い。
にも関わらず、ふとしたことから催眠術にかかってしまい、歌を聴くと歌って踊ってしまうミュージカル体質になってしまいます。
仕事中でもデート中でも音楽が流れると踊ってしまう。
それは大層困りもの。
そのため彼女は自分に催眠術を解いてもらおうと催眠術師を探し出すために旅をすることになってしまいます。
彼女は音楽が流れると踊ってしまうという困った体質になってしまいますが、旅を続け、いろいろな人に関わり、歌って踊っているうちに、彼女の表情が次第にイキイキとしていくことに気づきます。
自分でも気づかなかった本当の自分に彼女自身が気づいていくような。
思えば歌うこと、踊ることというのは自己表現なのですね。
自分の娘も3歳になると、日々歌って踊っている。
何か自分の気分を表現したいという衝動があるような感じがします。
大人になるにつれ、恥ずかしさとかを覚えてそういうことはしなくなると思うのですが、歌と踊りには自分を解放するという作用があるのかもしれません。
自分がミュージカル映画が好きなのも、映画を観ている時は、自分も歌って踊っているような気分になれるからかもしれません。
確かにミュージカル映画を観た後は、気分がスッキリしているような気がします。
 
主人公静香を演じているのは子供の頃より子役で活躍している三吉彩花さん。
最近は雑誌のモデルなどをしていたようです。
すらりと背が高く、そして手足が長いので、ダンスをしている時の様子はとても映えますね。
実は彼女は子役の頃をちょっと知っていて、随分と大きくなってそして綺麗になっていて驚きました。
これからの活躍に期待です。

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「ライオン・キング」 映像は新しいが、物語は・・・

実写と見まごうばかりのCGによって制作された”実写版”「ライオン・キング」。
ここまでくると実写、アニメというのは垣根がなくなってきているなという感じがしますね。
実際は実写的に表現されたアニメーションであるとは思います。
動物の表情や動きは本物よりはデフォルメされて、人間的なエモーションが演出されていますから。
表現の技術的な進化を感じさせる作品であると思います。
それに対して物語については現代的な新しさはあまり感じられませんでした。
ディズニーはこのところ昔のアニメーションの実写化した作品をリリースしています。
最近では「美女と野獣」、「アラジン」などが挙げられると思います。
これらは昔のアニメーションをただ実写化したというだけでなく、より現代の多様な価値観に配慮したものとなっています。
特に女性の描写ですね。
昔のディズニー映画といえばプリンセスですが、彼女たちはどちらかといえばか弱く、男性を待ち、選ばれる者として描かれていました。
しかし最近のディズニー作品の女性たちは自らの意思をしっかりと持ち、そして行動をします。
「アナと雪の女王」のエルサとアナなどもそうでした。
ですので、「美女と野獣」のベルにしても、「アラジン」のジャスミンにしても、アニメよりもさらに強い意志を持ち、行動力のある女性として描かれています。
「アラジン」のレビューでも書きましたが、実写版で新たに書かれた曲である「Speechless」はその象徴でしょう。
ですので、本作もそのような様々な価値観が込められた現代的な作品になっているかと思いましたが、基本的に物語はアップデートはされていないように感じたので物足りなさを感じたのです。
どうしても青年が王になっていく姿を描く物語ですので、男目線になってしまうのは致し方がないところではあるとは思うのですが。
ですので女性に関してはどうしても男性を支える立場という描かれ方になってしまいます。
その姿はやや昔の女性観のように見えました。
最近のディズニーの作品は多様な価値観を大事にしてきているように感じていたので、本作についてはその点があまり感じられなく、少々物足りなさを感じました。

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