2020年2月23日 (日)

「1917 命をかけた伝令」 超絶技巧の撮影

全編がワンカットで構成された超絶技巧の戦争映画です。
実際はいくつかの長回しを編集したものですが、どこで繋いだのかはなかなかわかるものではないでしょう。
それだけ計算され尽くした撮影だったということです。
通常のカットを重ねていく映画であれば、不都合なところや難しいところは編集でうまく逃れるということができます。
しかし長回しの場合は、演技やカメラの動き、そして天候などのコンディションが合わなかった場合は、それで全てやり直しとなってしまいます。
メイキング映像を見ましたが、前半の延々と続く塹壕でのシーンは模型を作り、俳優とカメラの動きを何度もチェックしたということです。
机上での計算を経て、それを実際のスケールのセットを作り、実際の俳優が要求されるタイミングで演技できるようにリハーサルを重ねます。
非常に根気のいる作業であったと思います。
カメラは俳優たちとともに歩き、時にはカメラマンからワイヤーに、そして自動車に受け渡され、延々と彼らの動きを追っていきます。
ただ単純な長回しでは、観客は退屈してしまいます。
自在なカメラワークがあってこその長回しです。
見ていて驚いたのは戦闘地域の街でのナイトシーンで、闇の中を移動する主人公の周囲に照明弾が次々と上がるシーンでした。
ご存知の通り照明弾は打ち上げれて激しい光を放ち、そしてゆっくりと地上に向かって落ちていくものです。
光源が移動するので、照らされている部分と影の部分も動いていきます。
そしてこの作品は長回しなので、俳優もカメラも動いています。
俳優、カメラ、照明といった画面を構成する全てが動いている。
どれかのタイミングが合わなければ成立しません。
全てを計算し、それを本番でぴったりと再現できたらこそこの表現ができているのです。
長回しは技術的な卓越性を表現するだけのためではいけません。
本作では長回しのカメラが捉えているのは主人公だけです。
基本的にカメラはずっと主人公を追いかけます。
それにより見ている我々も彼と一緒の目線となります。
特に中盤から彼が一人となってからは、彼の焦りと不安をともに感じるようになります。
夜の街の陰から敵が突然現れるかもしれない。
砲撃により吹き飛ばされてしまうかもしれない。
そういった恐怖を感じつつも、進み続ける主人公の強い意思をともに感じることができます。
客観的に描くカメラではできない、臨場感があります。
主観視点のカメラとも違います。
まさに寄り添う視点でのカメラです。
本作は今年のアカデミー賞で撮影賞、視覚効果賞、録音賞を取りましたが、それも納得できる結果だと思いました。

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2020年2月15日 (土)

「AI崩壊」 テーマはタイムリー、しかし・・・

「2001年宇宙の旅」(1968年)のHAL、「ターミーネーター」(
1984年)のスカイネットと、昔から映人間に害を与えようとする人工知能が映画の中で描かれてきました。
しかし、その当時はまだそれは夢物語でしたが、2020年の現在、AI=人工知能はリアルな技術として社会に浸透し始めています。
AIという言葉を聞かない日はないほどですが、HALやスカイネットのように自律的に作動するマシンにはなっておりません。
しかし、シンギュラリティ(技術的特異点:自律的に作動する機械的知性が誕生すること)は間近であるという説もあります。
本作に登場するAI「のぞみ」は人間のヘルスサポートから発展したAIですが、ある日突然暴走し、人間の峻別をしようとします。
それぞれの人が生み出す生産物・効率性、その人が生きるためにかかるコストから算出し、生きるべき人間と、生きていくべきでない人間とを区別し、そして生きていくべきでないと判断された人間を抹殺しようとするのです。
厳密には「のぞみ」は意思を持っているわけではありません。
AIは学習することにより、的確な答えを出していくように成長していくわけですが、「のぞみ」に対して人間のネガティブな面を学習させていくことにより、人間を峻別するという結論に導く悪意が裏にあったのです。
ちょうど現在オンエア中の「仮面ライダー」シリーズの最新作「仮面ライダーゼロワン」もAIがテーマとなっており、その敵となっているAI「アーク」も人間の悪意をラーニングすることにより、人類を抹殺するという結論に達しています。
機械そのものが悪ということではなく、悪を学習させた人間の悪意があるということです。
この二作品は共通のテーマであると言えるでしょう。
また本作は最近見た別の作品と別の観点で共通点があると思いました。
それは「カイジ ファイナル・ゲーム」です。
この作品でも国家が、赤字財政・格差の拡大・貧困の増加などを背景に、下級国民を峻別し搾取する様が描かれています。
本作も生きるべき人とそうでない人を峻別しようとしているという点では同じです。
「上級国民」という言葉が昨年はキーワードとして出てきましたが、国民の中で確実に格差というものが認識されてきているということでしょう。
一億総中流という時代はいまは昔ということです。
映画というのは確実に作られた時代の影響を受けているので、同じような時期に同じようなテーマの作品が作られたということで、今の時代の空気が感じられます。
AI、格差社会といった現代を表すテーマをタイムリーに取り上げ、エンターテイメントとして作ったのは評価できると思います。
しかし、それが映画として面白いかどうかというのは別問題です。
映画としては全体として、御都合主義感を感じる脚本であったと思います。
サスペンスとして盛り上げるためでしょうが、いくつか真犯人ではない人間へのミスリードがあるのですが、あまりにあからさまなので、ミスリードされません。
「カイジ」を見ていると大体背景が想像できるので、真犯人も大体わかってしまいます。
テーマは悪くないだけに、もう少しストーリーはなんとかならなかったのかと思ってしまいます。
最後にAI「のぞみ」のデザインはよかったです。
従来のスーパーコンピュータの無味乾燥さがなく、有機的で美しい。
人間のDNAの二重らせんのようでもあり、花弁のようでもあります。
ライティングにより禍々しくも見えたり、優しくも見えたりもする。
エンティングでピンク色に証明され、それが桜の花びらとオーバーラップするところは演出上の狙いがはっきりと伝わってきました。
返すがえすもストーリーが残念です。

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2020年2月 9日 (日)

「ジョジョ・ラビット」 偏見

第二次世界大戦中のドイツ、少年ジョジョにとってヒトラーはアイドルであった。
彼はファシズムがなんたるかを理解して、ヒトラーを好きになっているわけではない。
大人を含めて世の中が彼に熱狂していたから、ジョジョも熱に浮かされているようにヒトラーを崇拝していたのだろう。
冒頭のナチスの熱狂を表すシークエンスにビートルズなどの音楽を当てているのはうまいアプローチだと思った。
こちら側がビートルズに熱いコールを送ったのと同じように、彼らは「ハイルヒトラー」と声を上げたのだ。
ナチスというと、人間とは違う生き物ほどに違う人々にも思えてくるが、彼らも同じ人間であるということが伝わってくる。
おそらく戦時の日本も同じようなところがあったのだろう。
あまりに大きな熱狂の渦の中にいると、それ以外のものが見えなくなってくる。
同調圧力もあるだろうし、そもそもその他の選択肢の情報が入ってこないので、価値観が単一になってしまう。
ジョジョはそういう熱狂の中で成長してきたので、ヒトラーを崇拝してしまうのも無理もない。
彼にとっての唯一の社会であるヒトラー・ユーゲントでジョジョをいじめる少年たち、また教官のミス・ラームなどはファシズムの思想で凝り固まっているので尚更だ。
ジョジョは気が弱く優しい少年なので、心の奥底ではナチスの思想には共鳴していないのだが、そのような社会の中で馴染めない自分の方が悪いと思ったのだろう。
その結果、イマジナリー・フレンドとしてのアドルフを生み出したのだ。
しかし、彼の唯一無二の価値観を揺るがすのが、壁の中に隠れていたユダヤ人の少女エルサとの出会いだ。
ジョジョが教わってきたユダヤ人像とは全く異なる、賢く美しい少女に彼は惹かれていく。
彼の価値観が次第に綻んでいくのだ。
また熱狂の中にあっても、その渦の中に飲み込まれず自分が信じる視点に立っている者もいる。
ジョジョの母ロージーもその一人だ。
彼女は人知れずエルサを匿い、そして秘密裏にナチスに対しての抵抗運動をしていた。
あの時代のドイツというと全ての人がナチスの思想に支配されているというように思ってしまいがちだが、そうでない人もいたということだ。
よく考えてみれば、日本でも少なからず戦争に反対していた人がいたわけで、ドイツでも同じような人々がいたというのは当たり前なのだ。
しかし、彼らにとっては生きにくい時代であったということは変わらない。
結局ロージーは悲劇的な結末を迎えるようになってしまう。
ジョジョの世界観はエルサとの出会い、そして愛する母との別れによって決定的に変わる。
守りたいものを守りきれなかった経験を経て、彼の中に守りたいものを守ろうという勇気ができたのだ。
感銘を受けたキャラクターがもう一人いる。
ジョジョが所属しているヒトラー・ユーゲントの教官の一人であるキャプテンKだ。
彼はやる気があるのだかないのだかわからない男だが、陰ながらジョジョのことを気にかけている。
彼自身もナチスの思想に共感していないように見えるが、適当な感じを装って生きにくい世の中で生きていっているように感じる。
彼は何度かジョジョのピンチを救うが、最後は彼を救うために「ナチスとして」殺されてしまう。
皮肉的ではあるが、とてもカッコいい男だと思えた。
ナチスがユダヤ人をある種の枠をはめた見方で見て、迫害していたのと同じように、現代の我々もあの時代のドイツ人が全てナチスであったように思いがちである。
しかし、それは実は人々をある型にはめて見ているということでは同じであるということに気づく。
どうしても人はステレオタイプに捉えがちである。
それが偏見なのだが、それはかなり意識しないとなかなか自分がそのようなフィルターで見ているということに気づかない。
本作はコメディようなところもあるが、そういう人間の本質に気づきを与えてくれる作品であると思う。

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2020年1月25日 (土)

「リチャード・ジュエル」 現代にも通じる問題

クリント・イーストウッド監督の40本目(!)の監督作品。
1996年のアトランタオリンピックの際にあった爆破事件に関わる実話が元となっている。
タイトルとなっているリチャード・ジュエルはオリンピックの警備員であったが、担当していた公園で不審物を発見する。
警察と協力して、一般市民を避難させようとするものの、不審物は爆発し、多くの市民が死傷してしまう。
当初ジュエルは爆発物を発見し、市民を守ろうとした英雄として扱われたが、FBIが彼を犯人として疑い始めてから、メディアも彼を犯人扱いを始める。
彼が犯人であるという具体的な証拠はないのにも関わらず、彼と家族と担当弁護士以外の世間は、彼が犯人であるという心象となってしまう。
所謂冤罪なのだが、捜査機関とマスコミという巨大な権威の前では彼らの力はあまりにも小さい。
本作の舞台となっている時代は20数年前であるのだが、これは今の時代の日本にも通じるテーマである。
今の時代にも冤罪はある。
捜査機関の思い込みによる捜査、自白の強要など。
取り調べの可視化などの改革は進んできてはいるものの、欧米に比べるとまだ緒についたばかり。
ゴーン被告の逃亡は問題があるが、彼が日本の司法制度に対して批判しているところはいくつか頷けるものもある。
またマスコミに関しても最近はより一層無責任な報道が多くなっているような気がする。
以前は裏どりなど情報の信憑性を確認する作業がまだされていたような気がするが、最近は未確認なまま報道することも多いように思う。
メディアリンチという言葉が出てくるのもわかる気がする。
そしてジュエルの時代になかった要素として出てきているのが、ネットの普及による一般市民による無責任な噂の拡散だ。
記憶に新しいところで言うと、あおり運転の同乗者の「ガラケー女」であるとして全く関係のない女性が特定され、SNS上で拡散されたという事件があった。
これも不確実な情報による思い込みから端を発する。
今までの冤罪は捜査機関、マスコミなどのパワーを持つものたちによるものであったが、一般市民がネットと言うパワーを持ち始めた現代において、自分たちも同じように冤罪を生み出してしまうこともあるかもしれないという課題意識を持たなくてはいけないと思う。
そういう意味で本作で描かれている課題は現代にも通じるものであり、さらには全く人ごとではないということ、つまりは被害者にも加害者にもなりうるということを自覚しなくてはいけないと感じた。

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「フォードvsフェラーリ」 内なる戦い

1966年のル・マン24時間耐久レースで、フォードのGT40が優勝を重ねていたフェラーリを破り、1・2・3フィニッシュを決めた。
今でも語り草となる伝説のレースである。
タイトルを見ると、王者フェラーリに対する挑戦者フォードの戦いを描く映画のように思える。
もちろんその側面もあるのだが、この映画の中で本当に描かれているのは、伝統と歴史がある企業の中で、イノベーティブな者たちの戦いである。
自分も企業勤めをしているので、感じることがあるのだが、新しいことをやろうとするとき、しばしばそこに抵抗する者たちがいる。
その理由としては今までのやり方を変更したくないという保守性であったり、会社の事情よりは個人の思惑を優先させるようなことなどは現実としてあるのだ。
本作の中ではフォード副社長のレオ・ビーブが代表格だ。
そのような抵抗勢力に対する戦いはタフなものである。
対外抵抗勢力は強い権力を持っていたり、既得権限を持っていたりする。
その防壁の強固さはバカにできるようなものではない。
受け身でいるだけでは、その防壁の前に立ちすくむしかない。
防壁を崩すために最も必要なのは、強い意志だ。
こうすべきであるという強い意志。
イノベーターにはその先にある未来が見えている。
そのビジョンを具現化できる強い意思が必要だ。
そしてそのビジョンを「見える」ようにする力も必要だ。
主人公の一人、シェルビーは「過激な」プレゼンテーションをフォードの社長に行った。
過激ではあったが、百万の言葉を尽くすよりも1発で彼らが見えている世界を伝えることができた。
強い意思と、ビジョンを見えるようにする力、これがイノベーティブな者たちに求められる力なのだと思う。
そしてこれはなかなか一人の力でできるものではない。
スティーブ・ジョブズのようなスーパーマンは別として。
とはいえ、後年はジョナサン・アイブというビジョンを力にできる人間がパートナーとなっていた。
本作で言えば、シェルビーとマイルズがそうだろう。
彼らは性格もアプローチも全く違うが、見えている世界は一緒だった。
シェルビーは彼の立場で、マイルズは彼の立場で彼らが見ている世界を実現しようと一緒に戦ったのだ。
 
レースシーンはものすごく迫力があった。
今回はIMAXで見たので、映像・音響で本当にレース場にいるような気分になれた。
Playstationのゲームで「グランツーリスモ」というレーシングゲームがあるのだが、その中には現実のレースコースも入っており、ル・マンも収録されている(現在のコースも、過去のコースも)。
そのコースの中にユノディエールと呼ばれる直線コースがある。
現在は途中に二箇所のシケインが設けられ、3つの直線コースに分割されているが、この映画の時代はそれらが全て繋がった非常に長いストレートだったのだ。
ゲームでそのコースを走っていてもちょっと速度感がわからなくなるようなことがあった。
その直線の後にかなり急角度のカーブがあり、しばしばコースアウトしてしまうのだ。
本作でもそれと同じシーンは何度も出てきていたが、非常に臨場感があったと思う。
ドラマの部分も見応えはあったが、レースシーンという点でも迫力を感じることができた。
2時間半という長尺の映画だが、その長さは感じなかった。

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2020年1月13日 (月)

「カイジ ファイナルゲーム」 ハイテンション!

藤原竜也さん主演の「カイジ」シリーズの9年ぶりの新作です。
全2作についても楽しく鑑賞できたので、とても楽しみにしていました。
監督も主演もそのままですので、作品のテイストも変わることがないのが嬉しいところです。
まずは主演の藤原竜也さんです。
元々舞台出身ということもあり、演技はナチュラルというよりもオーバーなのが彼の特徴です。
ですので、こういうハイテンションな作品に藤原竜也さんは非常によく合いますね。
顔を真っ赤にしてセリフを全力で吐き出すように話すところなどは彼らしさがすごく出ていました。
彼のようなタイプの俳優さんは多くはないので、非常に貴重な方だと思います。
カイジは彼のフィルモグラフィの中でもはまり役の一つだと思います。
カイジの相手役となるのは、吉田鋼太郎さん。
今までも香川照彦さん、伊勢谷友介さんが敵役となっていましたが、吉田鋼太郎さんがまた憎らしくて良いです。
藤原竜也さんがハイテンションなので、敵役もやはりそれを受け止められるパワーが絶対に必要です。
吉田鋼太郎さんはシェイクスピアの舞台などをやられていた空ですので、大仰な芝居(良い意味で)は得意とするところ。
最終作での藤原竜也さんとの相手役としては申し分ありません。
ラスボス的な役割として出てくるのは福士蒼汰さん。
今まではあまりこのような悪役は演じられていなかったと思いますが、藤原さんに影響されてからなかなかなハイテンションであったと思います。
描かれるのが非現実的な世界であるので、俳優陣のテンションが作品の全体に大きな影響を与えていると思います。
このシリーズはそれがうまくできている。
ストーリーとしては、前2作に比べると舞台装置としては大きかったものの、緊張感は少なかったようにも思います。
人間秤のパートが長かったからでしょうか、カイジの仕掛けなどの種明かしが後半に集中したので、途中の緊張感がやや今までの作品に比べると薄いようにも感じました。
もっと胃が痛くなるような緊張感があった印象なのですよね。
前作よりはドラマ部分が強化されているような感じがしました。
それはそれで楽しめたので、映画としては全然成立していると思います。
今までの作品のテンションを期待するとちょっと物足りなく感じるかもしれません。

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2020年1月12日 (日)

「カツベン!」 彼らの役割

今年の最初の記事はこちら、「カツベン!」です。
タイトルの「カツベン」とは「活弁」、すなわち「活動弁士」のこと。
かつて日本で映画が「活動写真」と呼ばれサイレントであった頃、それに活弁と呼ばれる弁士が状況やセリフを喋り、説明をしていました。
映画そのものよりも、弁士その人のうまさや人気の方が劇場にとっては重要であったということです。
欧米では活弁という職業はなく、無声映画にはバックにオーケストラがかかっていました。
状況やセリフをいう活弁という日本独自の職業は、浄瑠璃などからくるナレーション文化の流れを汲むものと言われています。
無論、映画がトーキーになってしまえば、その役割は必要なくなってしまいます。
活弁が活躍する時期は40年間程度でしょうか。
私が本作で印象的であったのは永瀬正敏さんが演じる山岡秋声というキャラクターでした。
山岡は主人公染谷俊太郎が憧れていた活弁でしたが、染谷が出会ったときは舞台に上がってもあまり喋らない弁士となっていました。
彼は映画はそれ自体が語りたいことがあるから、活弁が好き放題に面白おかしく説明するのは良くないと考えるようになっていたのです。
もしかすると、彼は映画が自分自身を語り始める(すなわちトーキーになる)ことを予見していたのかもしれません。
とはいえ、無声映画をイキイキとさせ、より人々を楽しめることができた活弁の役割を否定するものでもないと思います。
映画のラストで、事件により多くのフィルムを消失させてしまった染谷たちは、残ったフィルムを繋げ合わせ劇場にかけます。
当然残ったフィルムを繋げただけなので、そこにはストーリーなどはありません。
しかし、辻褄の合わないフィルムを染谷は活写し、観客たちを魅了します。
彼の喋りがただの寄せ集めのフィルムに生命を与えたかがごときでした。
活弁とはいずれ消えていく仕事であったのかもしれません。
映画自体が言いたいこととは異なることを話していたのかもしれません。
しかし、映画が人々の楽しみとして普及していく過程において重要な役割を担ったということは確かであったのだろうと感じました。
現在にも何人か活弁を生業としている方はいらっしゃるようですね。
いつか、彼らの仕事を観てみたいとも思いました。
通常の映画体験とは異なる体験ができそうです。

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2019年12月30日 (月)

2019年を振り返って<映画>

さて年の瀬も迫りましたので、恒例の今年2019年の映画の振り返りをいたします。
今年の鑑賞本数は57本で、昨年から微増です。
結構劇場に足を運んでいる方だと思ったのですが、昔のようには数はいけないですね。
 
さて今年のベスト10の発表です。
 
今回は洋画に偏っていますね。
邦画は2本しかランクインしていません(1本はアニメーションですし)。
今年は邦画を見ている本数がそもそも少ないということもあるのですが。
1.「アベンジャーズ/エンドゲーム」
まずはこちらです。
20作以上作られているMCUのインフィニティ・サーガを締めくくる大作です。
一部巨匠からは「こんなの映画じゃない」と言われていますが、そもそも彼らが若い頃、彼ら自身もそう言われていたではないか、と言いたくもなります。
いわゆるアートではなく、美術館に飾られるタイプの作品ではないですが、サブカルチャー・ポップカルチャーが評価されている現代においてアートではないという点で非難するというのは頭が硬いと言わざるを得ません。
とは言え、この作品はそのような非難などはモノともせず、圧倒的なストーリーとスケール感のある映像で大シリーズのラストを飾りました。
またインフィニティ・サーガの主人公ともいえるトニー・スタークの最期は、彼がこのシリーズで成長してきた人生そのものを表しているようで、ずっとこのシリーズを見続けている私とっては涙せずにはおれませんでした。
来年の「ブラック・ウィドゥ」からフェーズ4がスタートします。
またMCUはスケール感のある世界を見せてくれることでしょう。
2.「天気の子」
「君の名は。」で一気にメジャーネームとなった新海監督の最新作です。
光を巧みに使った映像は相変わらず美しく、そしてその光がストーリー上でも重要な意味を持ちます。
前作でもそうでしたが、男の子と女の子が互いに大事に思い合う気持ちの強さをテーマとしています。
ピュアであるその気持ちは世界そのものと引き換えにしてもいいと思えるほど強い。
彼らのピュアさがあまりにキラキラとしていてとても眩しく見えました。
3.「スパイダーマン:スパイダー・バース」
これはあまり期待せずに見に行ったのですが、今までのアニメーションにはないポップな映像に目を奪われました。
コミックの「スパイダーマン」では異なるユニバースに異なるスパイダーマンがいることになっていますが、本作では彼らが一同に会します。
本作は批評家的にも興行的にも好評だったようで、続編の企画がスタートしています。
その中で東映版の「スパイダーマン」が登場するという噂もありますが、果たして・・・?(レオパルドンも?)
4.「蜜蜂と遠雷」
邦画の実写で唯一ランクインしました。
非常に美しい映画だと思いました。
世界というものは人によって実は異なる姿で見えているかもしれない。
音楽家や演奏家は音を通じて世界を繊細に捉える。
彼らが感じている世界を少しでも感じることができるのが音楽なのだと思いました。
5.「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」
色々と言われていますが、私はJ.J.エイブラムスの手腕を評価したいです。
それまでの作品の展開を受け、納得できるフィナーレを迎えることができたのは、J.J.がいたからこそだと思います。
5.「イエスタデイ」
最近よく作られているミュージシャンの伝記物ではありません。
音楽をテーマにしていますが、そこで描かれているのは過ちをする自分を含めて、全てを肯定的に捉えるというスタンスです。
スーパーヒーローでも天才でもない普通の人々の人生も捨てたものではないということです。
6.「アド・アストラ」
これは一般受けはしないでしょうけど、個人的な趣味です。
このようなハードSFの作品はなかなか作られないですが、私は大好きなのです。
ハードSFは科学を扱いながらも、そこで描くのは人間の本質を描くことが多いです。
本作においても地球を遠く離れた地で剥き出しにされるその人の本性というものを描きます。
人間を深く考えるにあたり、SFは最適な舞台装置だと思います。
7.「アラジン」
ディズニーのアニメの実写化作品ですが、ガイ・リッチーの演出がさえ、カラフルでテンポの良いエンターテイメントに仕上がっていると思います。
また現代らしくジャスミンの気持ちにも踏み込んだストーリーとなっていて、その点でも共感性が高い作品となっています。
8.「グリーンブック」
これは主演二人の演技がとてもよかったですね。
価値観が異なる二人のロードムービーという設定ですが、彼らが次第に相手をリスペクトしていき、通じ合っていく様子がとても心に響きます。
 
9.「ジョーカー」
多くの人がもっと上にランクインさせるとは思いますが、私はこのくらい。
非常に考えさせる映画であることは間違いありませんが、見ていてカタルシスはあまりありません。
続編という話もあるようですが、やめておいた方がいいのでは?
さて最後に今年のワーストを3作品です。
全く原作の良さを活かせず、中途半端な設定改編により何をしたい映画なのかがわからなかったです。
「スカイウォーカーの夜明け」を批判する方にはまずこの映画をしっかり評価してほしい。
全くもって新しさを感じられない。
B級だろうと思って見に行ったら、それ以下でびっくりしました。
それでは来年もよろしくお願いします。

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2019年12月29日 (日)

「仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」 新しい時代のスタート

いつしか「平成仮面ライダー」と呼ばれるようになったシリーズを20年分総括した「仮面ライダージオウ」。
奇しくも元号が平成から令和となった今後は「令和仮面ライダー」と呼ばれることとなるであろうシリーズのトップバッターである「仮面ライダーゼロワン」は新たな時代を背負うことになる役割を担わなければなりません。
これからも「仮面ライダー」というブランド、シリーズを続けていくためには失敗を許されないわけです。
「ジオウ」はタイムトラベルという題材、また過去のライダーに様々な点で依拠するため、非常に複雑な設定・ストーリーだったためコアなファンにはディープに楽しめる点が多くありましたが、それによってそうではない人にとっては敷居が高いところがあったとも言えます。
それに対して「ゼロワン」は「仮面ライダー」をまったく知らなくても入っていける分かりやすさ(設定面とエモーショナルな点)があると思います。
劇中で豪華絢爛な風貌のグランドジオウとシンプルでソリッドなデザインのゼロワンが並び立つシーンがありましたが、これはまさにこの2作の作風の違いを表しているようにも思いました。
「ジオウ」はタイムトラベルという設定により比較的なんでもありの展開が可能ですが、「ゼロワン」は基本的にAIテクノロジーが発達した現代というリアリスティックな世界観を持っているため「ジオウ」ほどの自由さは持っていないと思います。
そういう意味ではこの二つの作品は非常に食い合わせが悪いように思います。
「ジオウ」に下手な絡ませ方をしてしまうと「ゼロワン」の世界観が途端にリアルさを失ってしまうような気がします。
10年前の「ディケイド」と「W」に関しても同じような関係だと思いますが、あの時の冬映画は「ディケイド」編と「W」編が同時並行で進み、最後にストーリーが合流するという形式で食い合わせの悪さを巧みに回避していたと思います。
本作は今までの通り前作ライダーと現役ライダーのコラボという体裁となっていますが、タイトルで「令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」とあるようにストーリーとして「ゼロワン」が主体として展開していきます。
あくまで新時代を築いていこうとするライダーを主役として据えるという意思を感じます。
ジオウはタイムトラベルやアナザーライダーという設定を上手に使うために出ているサブの役割であると思いました。
「ゼロワン」は新しい時代の始まりとなるための責任があると書きましたが、テレビシリーズを見る限り見応えのあるドラマを作っていると思います。
「ディケイド」や「ジオウ」は作品自体がギミックのようなものでしたが、「ゼロワン」は基本はドラマを見せる作りになっています。
AIという新しいテクノロジーに対して、様々な考え方をする人物が登場します。
主人公である飛電或人はAIを全面的に肯定し人間のパートナーとして認めています。
AIMSの不破はAIを人類の敵として認知し、また刃は人間の道具として捉えています。
そしてまたAIを自分のために利用しようとする人物も登場しました。
彼らの価値観のぶつかりが一つのドラマとなります。
またAIを搭載した人型アドロイドであるヒューマギアはシンギュラリティをむかえ自我を得ることもあります。
果たして彼らは新しい生き物なのか、それとも敵なのか。
彼ら自身がどう答えを出すかもドラマとなります。
これはこの劇場版でも触れられていますよね。
これら人間とヒューマギアが互いに相手を受け入れるのか、敵対するかというのは全編を通した大きなテーマです。
ふと思うとこのテーマは平成仮面ライダーの一つである「仮面ライダー555」における人間とオルフェノクの関係性にも似ていると思いました。
かつては人間ではあるが、人間とは異なる者としてなってしまったオルフェノク。
見た目は人間のようですが、人間ではないヒューマギアと似ています。
本作のラスト近辺で気になる台詞がありました。
刃唯阿が不破に「私がヒューマギアになったらどうする?」と聞くのです。
「ヒューマギアになる」というのが不思議な感じがしましたが、もしかすると人間のように生きていながら自分でも人間ではないヒューマギアというのも存在するかもしれないとも思ったのです。
「555」では中盤で主人公が敵と同じオルフェノクであるという驚きの展開をしましたが、もしかすると主要登場人物の誰かがヒューマギアであったといううようなこともあるかもしれません。
「ゼロワン」が色々と想像をさせてしまうストーリーの力を持っているというのは間違い無いかと思います。
これからもテレビシリーズの方を期待してみていきたいと思います。

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2019年12月28日 (土)

「屍人荘の殺人」 現実と非現実のバランス

まったくの予備知識を持たずに鑑賞しました。
基本的にはミステリーもの、特に名探偵ものが好きなので。
探偵者でよくある舞台設定としては、雪山の山荘や孤島など、外部の人が出入りできない場所、いわゆるクローズドサークルがあります。
タイトルからして「屍人荘」がクローズドサークルの舞台となるのだろうと想像はできましたが、そのような状況を作る方法が奇想天外で非常に驚きました。
後から思えば、それもタイトルに書いてあったのですけれども。
不思議なバランスで作られている作品です。
事件が起こり、それがどのように実行されたか、そして犯人が誰なのかということの謎解きでは、とてもオーソドックスに物理的に可能な可能性をロジカルに解いていきます。
この辺のアプローチは古典的な探偵小説のような趣があります。
非常に現実的で曖昧なものが入る余地があまりないように感じられます。
けれどもその推理劇が展開している場所が作られているのは非常に非現実的な理由によるものです。
ここについてはSFサスペンスや怪奇ものといった趣があります。
このような古典的で非常に現実的な要素と、現代的で非現実的な要素が一緒くたになっているというのが不思議な感覚でした。
あくまで非現実的な設定は状況を作るものであって、犯行そのものは論理的に組み立てらているのが、難しいところを逃げていないように感じました。
観ていたとき、ちょっと雰囲気が既視感あるなと思っていたのですが、「TRICK」でした。
よくよく監督名を見てみたら木村ひさしさんで、脚本は蒔田光治さんでした。
まさに「TRICK」のコンビ。
浜辺美波さん演じる剣崎比留子のキャラも奇妙でしたが、これも「TRICK」風ですよね。

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