「エディントンへようこそ」狂っていく距離感
コロナパンデミックは2019年から2023年までと言われる。
いまだにその時の記憶は生々しい。
人類がかつて経験したことがない規模の疫病の世界的流行であり、多くの感染者が出た。
当初はウィルスについての情報も少なく、どのように感染を食い止めるか、官民ともに手探りであった。
そのような中で正偽が定かでない情報がネットを中心に拡散していったことも記憶に新しい。
本作の舞台となるのはコロナ禍真っ只中のニューメキシコ州の小さな街、エディントンである。
ロックダウンが実施され、住民たちは外出が規制されている。
当然、経済は停滞、また自由もある程度制限される中で、住民たちの間ではストレスが次第に蓄積されていく。
そのような中、主張が全く異なる二人によるエディントン市長選がきっかけとなり、街に不穏な空気が満ちていく。
予告を見た時は、この作品のテーマは「アメリカの分断」なのだろうと予想していた。
コロナを未曾有の危機とする派、そしてただの風邪とする派の対立は日本でもあったが、それが制御できないほどにエスカレートしていく、といったようなイメージだ。
本作を製作したA24は「シビル・ウォー」でも「分断」をテーマにしている。
制御できないエスカレートという点は予想通りではあったが、そこで描かれているのは2派による分断といった単純なものではなかった。
コロナで取られていた対策の一つとして、ソーシャル・ディスタンスがある。
これは感染を防ぐために、人と人の間で安全な距離をとるというものだ。
当時日本でも在宅勤務、リモート授業などが推奨された。
それの最も過激な方法がロックダウンとなる。
人間は社会的な生き物と呼ばれるように、人と人との繋がりの中で生きている。
家族以外の人間と物理的な距離をとるというのは、現代社会においては誰も経験したことがないものであったはずだ。
人間というのは不思議なもので物理的な接触が薄くなると、相手に対しての感情移入はしにくくなっていく。
物理的距離とともに心理的距離も離れていく。
物理的な距離が離れたことによる直接的な情報入手がしにくくなったこと、そしてコロナの正体がよくわからず確からしい情報が入手しにくいことで、人々は情報ソースをネットに求めるようになった。
特にSNSによる情報を人々は頼りにするようになった。
インターネットにより情報伝達には物理的な距離は関係がなくなっている。
またSNSにより、マスコミを介さず、個人でも情報発信ができるようになった。
ある意味、グローバルレベルで情報伝達の障壁が劇的に下がったのだ。
たった一人の意見が、世界レベルで影響を与えることも可能になった。
コロナ禍による物理的接触の制限と、同バーチャルでの情報接触の高濃度化が同時に起こったのだ。
これは全地球規模での情報実験とも言える。
近くにいるはずの人が遠くにいるように感じ、遠くにいるはずの人にシンパシーを感じる。
本来コミュニティというものは物理的距離、そして価値観の共有によって一体感が出るものだが、エディントンではこれが崩壊していく。
人と人の距離感が狂っていくかのように。
コミュニティが崩壊し、人はそれぞれ信じたいものを信じるようになる。
そして法律や道徳といった社会的なルールに加え、様々な思想、すなわち白人至上主義、それに対する反論、さらには陰謀論やスピリチュアルまでがインターネットという情報のごった煮の中でごちゃ混ぜになって語られる。
さらには個人的な願望、または悪意がSNSにアップされ、共有され、切り抜かれ、またさらに共有される。
このような情報のスープの中で誰も正しい判断ができなくなっていく。
それぞれが信じたいものを信じていく中で、解決の手段として暴力が選択されるのだ。
本作の登場人物は滑稽でもある。
情報に翻弄されて、自ら階段を転げ落ちていく。
しかし、それは人ごとではない。
情報のごった煮は、エディントンだけで起こっているわけではない。
自分たちも本作の登場人物のように振る舞ってしまうかもしれない、というところに本当の恐怖がある。
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