「もののけ姫」文明と自然の間で
「もののけ姫」を28年ぶりに鑑賞した。
公開当時「もののけ姫」は社会現象となっていた。
当時、日本歴代興行収入1位を乗り換えたのもうなづける。
宮崎駿、スタジオジブリを世界レベルの認知に引き上げるきっかけとなった作品と言ってもいい。
しかし、初めてこの作品を見た時、個人的には非常に冷めた感想を持ったことを記憶している。
捻くれ者なので、世間が盛り上がるほど冷めてしまったというのもあったかもしれない。
中学生の時からアニメは好きで、「未来少年コナン」あたりから宮崎駿は好きだった。
アニメを作家の作品として見始めた頃だった。
特に「カリオストロの城」は好きでテレビで放映されたものをビデオで録画して何度も見たものである。
当時テレビで放映されたものは放送時間に合わせてカットされていた。
そのため「完全版」はずっと見たことがなく、遠くの大学の映研が文化祭で映写するというのを聞いてわざわざ出かけて行ったのを覚えている。
なので「もののけ姫」が大ブームとなったとき、「何を今さら」と思ったのだった。
我ながら捻くれ者である。
ただ「もののけ姫」は自分が好きであった「コナン」や「カリ城」とはトーンが異なっていることも、もう一つの理由であったと思う。
「風の谷のナウシカ」あたりから宮崎駿の作品からは、ある種の説教くささのようなものが出てきていたように感じていた。
「もののけ姫」はそのトーンが顕著に出てきたように思い、拒否感のようなものを感じたのだと思う。 では、改めて30年近く経って「もののけ姫」を見て、受け止め方は変わったのだろうか。
結論から言うと、変わった、である。
初見の時はエコ的なテーマが押し付けがましく鼻白らんだのだが、自然と文明という2つのベクトルの間で葛藤する人間の存在が描かれていると思った。
本作において自然と文明をそれぞれ象徴する女性がいて、前者がサンであり、後者がエボシ御前となる。
森を焼き、シシ神の首を狙うエボシ御前は、自然の破壊者のように描かれる。
しかし、彼女をそのような側面だけでは説明できない。
彼女は社会の弱者、女性や病人(おそらく癩病)を庇護し、彼らが自立していける社会を目指している。
そのために文明化する必要があり、自分自身を守るために武装化もしなくてはいけないと考えている。
森を焼くことは彼女の大義のために正当化される。
対して、サンは捨てられた子供であり、モロの君に育てられた。
森こそが彼女にとって母であり、家である。
森は多くの生命を生み、育んでいる。
その森を焼く人間たちは、同族であってもサンの敵である。
その首魁であるエボシ御前の首をサンは狙う。
文明も自然も、それぞれの立場に立てば、それぞれの正義がある。
そしてそれは交わらない。
平行線だ。
その二人の間に立つのがアシタカである。
アシタカは村を襲ったタタリ神を倒した時に、呪いを受ける。
そのタタリ神はエボシ御前の放った礫によって傷つき、荒ぶる神となった。
アシタカが受けた呪いは、自然の呪いでもあり、文明の呪いでもある。
森を切り開くことで木々がなくなり、山の保水力がなくなったことによって、土石流が起こる。
化石燃料を使うことにより、温暖化が進み、猛暑が毎年のようにやってくる。
今、起こっていることはアシタカが受けた呪いに重なる。
アシタカは二人の間に立つ。
彼はエボシ御前が目指す弱者も生きていける社会の共感する。
そしてまたサンが森を守ろうとする気持ちも大切にしたいと考える。
そもそも彼も蝦夷の出身で自然と共に生きてきたからだ。
前述した通り、エボシ御前とサンが目指すものは交わらない。
しかし、それでもアシタカはどこかで何か二人ともを救う道がないかを探り続ける。
彼はエボシ御前の町に住み、そしてサンが暮らす森に赴く。
その姿は今も自然と文明のバランスをどう取るべきか足掻く人類に重なる。
このように改めて感想を書いてみると、30年前の自分は浅くしかこの作品を見ていなかったことに気づく。
「もののけ姫」で語られる物語には、まさに今の時代を言い当てている先見の明があったのだ。
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