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2025年11月30日 (日)

「TOKYOタクシー」人生と時代を巡る東京の旅

ある日、個人タクシー運転手の浩二は、老齢のマダムすみれを乗せた。
彼女は東京を去るにあたって、思い出の場所を巡ってみたいと言う。
東京の街を巡りながら、すみれは自分の半生を浩二に語っていく。
葛飾、浅草、上野、千住、渋谷、銀座、新宿・・・。
カメラに写し出されるのは、東京の今の街並み。
昔の面影を残している街もあれば、ガラリと様変わりした場所もある。
すみれの話は戦争の頃から始まる。
幼い頃、空襲によって父親を亡くしたこと。
当時隅田川では炎に追われ、川で溺れ死んだ方も多いと聞く。
そして青春時代の初恋の話。
相手は在日2世で、北朝鮮への帰還事業で祖国に帰ってしまい、その後会うことはなかった。
帰還した在日は夢を持って北朝鮮に渡ったが、行方知れずになった者も多い。
初恋の相手との間には息子を得て、高度経済成長時代にすみれは再婚をし、団地住まいとなる。
しかし、その夫はすみれにも息子にも暴力を振るうようになった。
女性の人権が叫ばれるようになる前である。
そして、すみれは息子を守るために、夫を半殺しの目に合わせてしまう。
彼女は服役をするが、その間に息子を事故により亡くしてしまうのであった。
彼女の人生には時代性が色濃く反映されている。
それを聞く、浩二はどこにでもいるような平凡な男である。
妻と中学生の娘の三人暮らし。
個人タクシーを生業としているが、生活は慎ましい。
娘が私立高校の推薦を受けられそうと聞いて喜ぶが、その学費の額に驚く。
娘は文句なく可愛く、なるべくその願いを叶えてあげたいと思う。
妻とは恋愛結婚だったようだが、今では空気のような存在。
何かと出費が多いため経済的な悩みが多く、妻にはくどくどと金策をするように言われている。
そう、どこにでもいるような平凡な男。
浩二はすみれの話を聞きながら、自分たちの生活が平凡なものながらも、かけがいのないものであることに気づいたのだと思う。
家族というのは毎日接するからため、その存在を当たり前と思ってしまいがちだ。
まさに空気のように。
対してすみれは父親を、初恋の相手を、そして息子を失ってきた。
そういう時代であったと言えば、それまでかもしれない。
でも今の当たり前が通じない時代であったのだ。
そんな時代を生きる中で愛する人々をすみれは失ってきていた。
現在はまた今なりの問題も色々あるが、大切な家族と平凡でも一緒に暮らしていけるのは幸せなことだ。
浩二がすみれの話を聞いて、思わず妻に電話してしまうところが可愛い。
すみれは、昔も悪いところだけではなかったと言う。
商店街はもっと活き活きとしていて、元気だった。
高度成長期という時代背景があるかもしれない。
確かにあの時代は、どんどん豊かになっていくということを疑ってもいない時代であった。
すみれは息子を失ってから、ずっと一人であったのだろう。
事業で成功していたように見える彼女の葬式は思いの外、小さかった。
身寄りがないことがこれからもわかる。
ずっと寂しい、という気持ちを抱えていたのだろう。
人生を終えようとする時に、自分の人生を浩二と共有できたことは彼女にとってどれだけ嬉しかったことか。
何か残せたという気持ちになれたのではないだろうか。
浩二を息子と言うには、ちょっと歳が下かもしれない。
けれど、自分の半生を話し、それに共感してもらったことによって、息子のような感覚を持ったのかもしれない。
だからこそ、もう少し彼と一緒に過ごしたかった。
そして最後に彼のために何かを残してあげたくなったのだ。
時代が変わり、街並みが変わっても、人にとって大切なことは変わらない。
すみれと浩二、その人生の最後と途中において、そのことを共有し合えた。
それはある日の奇跡かもしれない。
暖かな余韻の残る作品でありました。

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2025年11月24日 (月)

「果てしなきスカーレット」 許せ

SNS等では批判的な評価が多いと聞く。
確かに今までの細田守監督作品とはかなりテイストが異なるのも確かだ。
作画的には今までの細田作品は手書きのフラットな印象がある。
日本のアニメーションでは立体感を出すために明るい部分と暗い部分を塗り分ける表現が多いが、細田作品はあまりそのような表現を用いてこなかった。
色使いはシンプルなのだが、細田作品はその分、キャラクターがよく動く。
アニメーション的なデフォルメで、表情もくるくるとよく変わるところが魅力的であり、それにより生き生きとしたキャラクター表現ができている。
しかし今回の「果てしなきスカーレット」では、これまでと異なり、かなりの部分でCGを使っている。
この表現は「竜とそばかすの姫」のネット空間での表現の発展系であろう。
3DCGであっても手書き的な雰囲気を残そうとしているが、今までの作品のような表情の豊かさは減じている。
かなり工夫と努力をしているが、手書きに及ばない部分ではある。
しかし、CGの活用によってダイナミックなカメラワークが可能になったことは見逃せない。
本作は今まで細田作品ではなかったような暗い死後の世界を描いていて、大軍勢が衝突するような大規模な戦争シーンもある。
細田監督のイメージを定着するには、通常の手書きでは表現しきれないのだったのだろう。
「鬼滅の刃」の表現でもわかるようにCGの活用は悪いことではない。
もう一つ今までと異なる印象を与えるのは世界観である。
細田作品はファンタジーやSFの要素を持ちながらも、その立脚点のベースはあくまでも日常であった。
日常の中のささやかな営み、特に家族へフォーカスが当たっていた。
しかし、本作においては我々の日常が描かれることはない。
現代の渋谷の街並みが描かれるシーンがあるが、これはスカーレットにとってのファンタジーであり、我々の日常ではない。
本作は死後の世界を舞台にしており、ほぼ荒野のようなシーンが続く。
そしてそこは死者たちが、死んでもなお己の欲望を満たそうとしている絶望的な世界である。
今までも細田作品では世界を揺るがすような危機的な出来事は起こっていた。
しかし、それがなんとかなりそうな楽観が作品にはあった。
本作は終盤に至るまで絶望的な状況が続いていく。
細田作品の楽観さを好きだった人たちは、悲観的な展開に胸が苦しくなったかもしれない。
このような違いから、見た人が「これは違う!」という声をあげたくなるのもわからなくもない。
最後の最後に至るまで本作の着地点が見えないために、不安になるのもわかる。
しかし、ルックスや世界観が今までの細田作品とは大きく異なるものの、私は本作は紛れもなく、細田作品だと感じた。
その理由を二つ述べたい。
細田作品の特徴の一つが、現実世界とリンクしている異世界が影響し合いながら存在している設定である。
「サマーウォーズ」や「竜とそばかすの姫」では異世界はネット空間として描かれる。
本作もその構造は同じだと考える。
違うのはその比率である。
「サマーウォーズ」は基本的には現実世界がベース、「竜とそばかすの姫」では50:50かもしれない。
対して本作はほぼほぼ異世界での物語が大半を占める。
しかし、それは現実世界と繋がっているのだ(最後にわかる)。
そして異世界に住むのは顔の見えない群衆である。
彼らは大勢に流されていく。
我々の現実世界でもあるように、容易く扇動されてしまう。
細田監督の危機感をそこにあると私は感じる。
本作でもスカーレットの仇であるクローディアスは死後の世界でも群衆を煽り、我が意を押し通そうとする。
先導されてスカーレットに襲いかかる兵士たちの大概は、兜で顔が見えないことが多い。
これはネット社会の顔が見えず、匿名であるアバターにも通じる。
その匿名の群衆たちに希望をさし示し、導くのが細田作品のヒロインである。
「サマーウォーズ」しかり「竜とそばかすの姫」しかり。
本作のスカーレットもだ。
希望を指し示せば、心ある人々たちは立ち上がる。
そこに全く希望がないとは思っていない、と細田監督は考えているのだろう。
本作でも終盤の「見果てぬ場所」で同様のことが示される。
続いてもう一つの細田作品の特徴についてである。
「許せ」というキーワードが出てくる。
実弟の陰謀により処刑されたスカーレットの父王が死ぬ間際に口にしたとされる言葉だ。
主人公スカーレットはこの言葉をどういう真意で父が言ったのかを考える。
国を誤って導いた自分の罪を許せと言っているのか、それとも自分を陥れた弟を許せと言っているのか。
その意味は物語が進んでいってもなかなかわからない。
が、スカーレットは最終盤に至った時、天啓のようにその意味を悟る。
これはスカーレットに対し「父親の復讐をやり遂げられなかった自分を許しなさい」と意味だったのだと。
平和だった日々、父王は幼かったスカーレットに、自分がやりたいように、なりたいように生きなさい、と言ってきていた。
親から子へのメッセージだ。
細田監督作品には、彼が経験した人生の、中でも家族に関して感じてきたことが反映されていることがある。
「サマーウォーズ」では細田監督が結婚した時にお相手の方が大家族だったことがアイデアの元になった聞く。
「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」「未来のミライ」は子育てする中で彼が感じ、考えたことが表れている。
家族を持ち、子供を育てるときに、誰でも感じる喜びや葛藤などが作品の中に練り込まれている。
だから、細田作品は共感を生む。
私は本作でもそのような子育てで感じる親の葛藤が描かれているように思う。
小さい頃は、多かれ少なかれ親が正しいと考えるように、子供を導いてきた。
子供たちが大きくなり、自分の意思で決められるようになる年頃。
親はどう思うか。
やはり親が正しいと思うようにやらせるか。
それとも子供がやりたいと思うことをやらせるか。
父王はスカーレットがなりたいように生きなさい、と言う。
彼は自身が死んでしまうことにより、スカーレットが呪いをかけられるのがわかった。
父の復讐をしなくてはいけない、という呪いを。
しかし、そのためにスカーレットは自分の人生を生きられなくなる。
それを恐れ、彼は「許せ」と言ったのだろう。
おそらく細田監督もそのように考えているのだろう。
子供は自分の生きたいように生きてほしい。
彼の親子感、子育て感が語られている。
紛れもなく、「果てしなきスカーレット」は細田作品である。

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2025年11月17日 (月)

「君の顔では泣けない」運命共同体

男女入れ替わりと言えば大林宣彦監督の「転校生」がまず思い浮かぶ。
「転校生」では主人公の男女(一夫と一美)の入れ替わりが起こるが、それは中学生のある期間だけで、最後には無事に元に戻ることができる。
本作では入れ替わりが起こった二人(陸とまなみ)はにわかに元に戻ることはできず、その後も入れ替わったままの人生を送っていくことになる。
入れ替わりが起こったのが15歳で、現在の30歳までその状態が続いているのだ。
本作では二人の15年が時間を遡って語られていく。
「転校生」以来、男女入れ替わりというアイデアは数々の映画やドラマで使われてきた。
しかし、入れ替わったまま元に戻れない、というアイデアはありそうでなかったのではないだろうか。
「転校生」の二人と同様にいつか戻るかもしれないと思い、陸とまなみはそれぞれ相手になりきって生活していくことにする。
その生活がずっと続くとは思わずに。
最初のうち、二人は入れ替わっていることがバレないように振る舞っていくことに苦労していた。
しかし、入れ替わり期間が長く続くにつれ、二人は大きなものを背負っていかなくてはならないことを自覚していく。
人生を、いつか戻れることを前提に他人として生きていかなければならない。
それはすなわち、自分自身の人生だけでなく、相手の人生にも責任を持たなくてはいけなくなってしまったのだ。
劇中で陸がこう表現するが、二人は「運命共同体」になってしまったのだ。
入れ替わりによって、二人は相手の人生も背負うだけでなく、普通に人生を生きていれば経験していくはずのことを、相手に奪われてしまうことになってしまう。
初めての恋人、セックス、一人暮らし、結婚・・・。
運命共同体でありながら、入れ替わりが長く続くほどに、相手に自分の人生、大切な時間を搾取されているようにも思えてくるのだ。
陸は自分の居場所を奪われてしまったように感じていく。
まなみは元々の愛想の良さからか、陸の家族とも良い関係を築き、そして本当の親にもまなみの友人の陸として家族のように扱われている。
対して陸は、本当の親には他人として邪険にされ、まなみの親とはチグハグとした関係になってしまう。
陸は、実家で自分の姿をしたまなみが楽しそうにしているのを覗き見、そこから立ち去る。
まなみはまなみで、自分の体を奪われてしまったような感じている。
ずっと借り物の体を生きているかのようだ。
成長していくにつれ、どんどん男になっていく自分の体。
そして女として綺麗になっていく本来の自分の体。
彼女の中で女である精神と男である肉体の不整合のようなものが生じていく。
彼女は次々と相手を変えていくプレイボーイのように暮らしていくが、それは男として振る舞っていかなくてはいけないという、女性である精神のアンバランスさが現れていたのではないだろうか。
「君の顔では泣けない」。
このタイトルに近しいセリフがある場面が2箇所ある。
いずれも二人の真の思いが現れたシーンとなっている。
陸は父親の死を知り、まなみの姿で弔問に訪れる。
しかし、父親への思いが溢れてきても、そこでは陸は泣きたくても泣くことはできない。
なぜならまなみの姿をしているから。
赤の他人の女が、泣くのはおかしなことだから。
いつか戻ることがあると信じ、そしてまなみの人生への責任感もあるから、「君の顔では泣けない」のだ。
これはまなみにしても同様である。
女にできて、男に絶対にできないこととは子を産むことである。
陸は結婚をして妊娠するが、切迫早産となり入院してしまう。
その恐怖のあまり、彼はまなみに電話をする。
まなみは陸を力付けようとするが、その内心はどのようであっただろうか。
このシークエンスの直前、まなみは小さい頃は結婚することが夢であったと語る。
その夢である結婚、そして子をなすことを奪われてしまったともまなみは感じたのではなかったのではなかろうか。
それでもまなみは陸を励ます。
私の顔で泣くんじゃない、と言う。
無事に赤ちゃんは産まれ、陸は新しい居場所を手に入れる。
「入れ替わったのが水村でよかったと思った」
「私も今、同じことを言おうと思ってた」
元に戻れるかもしれない最終チャンスの時、二人はこのような会話を交わす。
二人は互いの人生を生きる運命共同体でありながら、互いに相手に人生を奪われたという思いもある。
それでありながら、このように言えるのは、やはり二人が相手の思いに真摯に向き合おうとしてきたからだろう。
喫茶店でお互いの話をする時、激しいやり取りをする時ですら、二人は相手がどう思っているか、感じているか、聞こうとする。
相手の言うことをちゃんと聞き、自分の中で消化し、自分の思いを口にする。
お互いの思いを尊重しようとしているのだ。
二人は本当の意味で運命共同体であったのだろう。
だからこのような会話ができたのであると思う。
最後のチャンスの結果はわからない。
しかし、どんな結果であろうと、二人の笑顔を見れば、二人にとってよい選択であったのだろうと思えてくる。

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2025年11月16日 (日)

「平場の月」夢みたいなこと

「お前、あの時何考えてたの?」
「夢みたいなことだよ。夢みたいなことをね、ちょっと」
この時、須藤が考えていた「夢みたいなこと」とはなんだったんだろうか。
主人公の青砥は妻と離婚をし、母親の介護もあって、実家に戻り一人暮らしをしていた。
結婚生活は彼にとって相当なストレスだったようで、離婚をした後は慎ましくも平穏な日々を過ごしていた。
そして、青砥の中学校の同級生で初恋の相手であった須藤は、夫と死別し、彼女もまた故郷に戻っていた。
地元に戻った二人はある日偶然再会し、互いに惹かれあっていく。
本作は主人公である青砥の視点で語られていく。
彼の須藤に対する思い、その深さ、切なさ、そして彼が感じる悲しみは、自分自身が男であり、年頃も同じであるからか、深い共感を感じる。
心底、彼には幸せになってもらいたいと思った。
彼が愛する須藤もそのつっけんどんさも含め、可愛らしいとも思う。
しかし、一歩踏み込もうとすると彼女との間に生じるバリアにもどかしさも感じる。
そこで、冒頭にあげた疑問である。
須藤はあの時、何を考えていたのか。
二人は距離を縮めていく中でもお互いの呼び方は、中学生の頃と変わらず「須藤」であり、「青砥」のままの苗字呼びである。
中学生時代、同級生の異性の呼び方は苗字であったというのは誰しも経験があるだろう。
自分でも覚えがあるが、異性であることを意識するし始める年頃で、子供の頃のように名前で呼ぶのが何か気恥ずかしいと思う気持ちがあったように思う。
彼らが苗字呼びをしているのは、一歩踏み込むことを躊躇するような、関係性を深めることを恐れるような気持ちがあるのかもしれない。
互いにいい歳であると言うこと、伴侶と別れているという経験もその理由の一つかもしれない。
しかし、もっと深いところ、特に須藤の内面にその理由があるような気がする。
中学生時代に一度、青砥は須藤に告白をしている。
しかし、須藤はそれを拒絶する。
「ひとりで生きていくと決めている」と。
中学生がこのような発言をするのは余程のことだ。
物語が進むにつれ、回想シーンで須藤の実家の実情が明らかになっていく。
彼女の母親は若い男に夢中になり、父親と自分、そして妹を捨てて出ていってしまった。
そして数年後、男に捨てられたのか再び家に戻りたいと懇願をしてきた。
そんな母親を中学生時代の須藤は冷たい目で見ていた。
青砥に須藤は母親を軽蔑していたと言う。
だからこその「ひとりで生きていくと決めている」という思いであっただろう。
しかし、もしかしたら中学生の頃からすでに、須藤は自分自身でも薄々わかっていたのかもしれない。
母親のようになりたくないのであれば、自分はあのような振る舞いはしないと決心すればいいだけだ。
「ひとりで生きていく」という思いの裏には、誰かといたら、その人に甘え、溺れ、軽蔑する母親のようになってしまうかもしれないという予感があったのかもしれない。
案の定、彼女は大人になり、母親の轍を踏むような行動をとってしまう。
須藤は同僚の夫を愛し、その人を略奪して結婚をする。
そして夫の死後、若い男に夢中になり、彼に貢いで財産の大半を失ってしまう。
おそらく、須藤は思っただろう。
自分も、母親と同じじゃないか、と。
「自分を一番軽蔑している」と須藤は、青砥に言っている。
須藤のことを周りの男たちは「太い」と例える。
これは意志の強さ、揺るぎない感じ、どんなことをしても倒れないような、まさに根を張って大地に力強く立っている太い木のようなイメージなのだろう。
しかし、それは須藤の本質ではないと思えてくる。
彼女の本質は、愛情が深く、相手を愛しすぎてしまうことなのではないか。
愛しすぎてしまうが故に、周りが見えなくなってしまう。
愛している時間そのものは彼女にとって幸せである。
しかし、それによって周りの人々を不幸にしてしまう。
それでは自分が軽蔑している母親と何も変わらない。
だからこそ、彼女は「一人で生きていく」。
自分の周りにバリアを張る。
揺るぎないイメージを身に纏う。
苗字呼びで距離を確保する。
しかし、青砥は彼女の内面の葛藤をはっきりとではなくても、感じ取っていたのではないかと思う。
彼はその葛藤を丸ごと受け止めたいと思った。
彼女が自分自身に感じている恐れ、それを感じているからこそ、無理やりに距離を詰めようとはしない。
彼女に寄り添って、穏やかな時間を過ごそうとする。
だからこそ、須藤は徐々に青砥に対して心を開いていったのだろうと思う。
そして最初の問いである。
須藤が考えていた「夢みたいなこと」とはなんだったんだろうか。
彼女にとっては、好きな人といっしょに穏やかに暮らすということが、夢のようなことだったのだろう。
強すぎる愛情によって嵐のようになってしまうのではなく、あくまで穏やかに静かに。
これこそが彼女が考える「夢のようなこと」なのではないだろうか。
青砥は須藤に月のヘッドがついたペンダントを渡した。
彼女はこれを喜び、お守りのように身につけていた。
なんでもない平穏な日々、まさに平場の上にポツンと浮かぶ月が彼女にとって幸せの象徴であったのかもしれない。
やがて須藤は自身の癌が再発したことを知る。
しかし、そのことを青砥には告げず、二度と合わないと言う。
青砥は動揺するものの、須藤の思いを受け入れ一年待つと告げるのだ。
中学時代の二人の回想シーンで、青砥は「すごい大人になる」と言う。
それを須藤は微笑みながら聞いている。
男はロマンチストであり、女はリアリストなのだ。
男は未来に対して夢を見る。
金持ちになる、すごい発明をする、好きな女と一緒にいつまでも幸せに暮らす。
しかし、女は現実的だ。
好きな人と暮らしたくとも、それは長続きしないだろう。
自分が持っている業のようなものある、そして自分の体のこともある。
それを言っても青砥なら、それでも一緒に暮らして支えたいと言うだろう。
男はロマンチストだから。
しかし須藤はその過程で、お互いに不幸になってしまうことを恐れる。
女はリアリストなので、不幸な結末が見えてしまう。
青砥を不幸にしたくない。
そして自分も幸せであった日々を、そのままにしておきたい。
互いに思いやるが故に、不器用な二人。
二人には幸せになってほしかった。

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2025年11月14日 (金)

「もののけ姫」文明と自然の間で

「もののけ姫」を28年ぶりに鑑賞した。
公開当時「もののけ姫」は社会現象となっていた。
当時、日本歴代興行収入1位を乗り換えたのもうなづける。
宮崎駿、スタジオジブリを世界レベルの認知に引き上げるきっかけとなった作品と言ってもいい。
しかし、初めてこの作品を見た時、個人的には非常に冷めた感想を持ったことを記憶している。
捻くれ者なので、世間が盛り上がるほど冷めてしまったというのもあったかもしれない。
中学生の時からアニメは好きで、「未来少年コナン」あたりから宮崎駿は好きだった。
アニメを作家の作品として見始めた頃だった。
特に「カリオストロの城」は好きでテレビで放映されたものをビデオで録画して何度も見たものである。
当時テレビで放映されたものは放送時間に合わせてカットされていた。
そのため「完全版」はずっと見たことがなく、遠くの大学の映研が文化祭で映写するというのを聞いてわざわざ出かけて行ったのを覚えている。
なので「もののけ姫」が大ブームとなったとき、「何を今さら」と思ったのだった。
我ながら捻くれ者である。
ただ「もののけ姫」は自分が好きであった「コナン」や「カリ城」とはトーンが異なっていることも、もう一つの理由であったと思う。
「風の谷のナウシカ」あたりから宮崎駿の作品からは、ある種の説教くささのようなものが出てきていたように感じていた。
「もののけ姫」はそのトーンが顕著に出てきたように思い、拒否感のようなものを感じたのだと思う。 では、改めて30年近く経って「もののけ姫」を見て、受け止め方は変わったのだろうか。
結論から言うと、変わった、である。
初見の時はエコ的なテーマが押し付けがましく鼻白らんだのだが、自然と文明という2つのベクトルの間で葛藤する人間の存在が描かれていると思った。
本作において自然と文明をそれぞれ象徴する女性がいて、前者がサンであり、後者がエボシ御前となる。
森を焼き、シシ神の首を狙うエボシ御前は、自然の破壊者のように描かれる。
しかし、彼女をそのような側面だけでは説明できない。
彼女は社会の弱者、女性や病人(おそらく癩病)を庇護し、彼らが自立していける社会を目指している。
そのために文明化する必要があり、自分自身を守るために武装化もしなくてはいけないと考えている。
森を焼くことは彼女の大義のために正当化される。
対して、サンは捨てられた子供であり、モロの君に育てられた。
森こそが彼女にとって母であり、家である。
森は多くの生命を生み、育んでいる。
その森を焼く人間たちは、同族であってもサンの敵である。
その首魁であるエボシ御前の首をサンは狙う。
文明も自然も、それぞれの立場に立てば、それぞれの正義がある。
そしてそれは交わらない。
平行線だ。
その二人の間に立つのがアシタカである。
アシタカは村を襲ったタタリ神を倒した時に、呪いを受ける。
そのタタリ神はエボシ御前の放った礫によって傷つき、荒ぶる神となった。
アシタカが受けた呪いは、自然の呪いでもあり、文明の呪いでもある。
森を切り開くことで木々がなくなり、山の保水力がなくなったことによって、土石流が起こる。
化石燃料を使うことにより、温暖化が進み、猛暑が毎年のようにやってくる。
今、起こっていることはアシタカが受けた呪いに重なる。
アシタカは二人の間に立つ。
彼はエボシ御前が目指す弱者も生きていける社会の共感する。
そしてまたサンが森を守ろうとする気持ちも大切にしたいと考える。
そもそも彼も蝦夷の出身で自然と共に生きてきたからだ。
前述した通り、エボシ御前とサンが目指すものは交わらない。
しかし、それでもアシタカはどこかで何か二人ともを救う道がないかを探り続ける。
彼はエボシ御前の町に住み、そしてサンが暮らす森に赴く。
その姿は今も自然と文明のバランスをどう取るべきか足掻く人類に重なる。
このように改めて感想を書いてみると、30年前の自分は浅くしかこの作品を見ていなかったことに気づく。
「もののけ姫」で語られる物語には、まさに今の時代を言い当てている先見の明があったのだ。

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2025年11月10日 (月)

「プレデター:バッドランド」弱者としてのプレデター

荒涼とした惑星に一人立つ戦士の姿。
それは人間ではない、プレデターだ。
本作では、今まで圧倒的なヴィランとして人間を狩ってきたプレデターを主人公とするシリーズ初の試みがなされた。
このシリーズは1987年の「プレデター」を端緒とする。
当時アクションスターとして最盛期を迎えていたアーノルド・シュワルツェネッガーを追い詰めていくプレデターは、それまで見たことがないヴィランだった。
人類を超えた科学力、強靭な肉体、そして凶暴な攻撃性。
どれもとっても人間が叶う相手とは思えず、さすがのシュワルツェネッガーでも叶わないのではないかと思われたほどだ(だからこそ後半の逆転劇は大きなカタルシスを生んだ)。
「プレデター」は好評を得て、その後多くの作品がシリーズとして制作されていくことになる。
同じようにシリーズ化されたものとしては「エイリアン」がある。
「エイリアン」と「プレデター」は今までもクロスオーバー作品も作られており(「エイリアンVSプレデター」「AVP2」)、また本作でも登場するウェイランド・ユタニ社は元々は「エイリアン」で登場していて、2つのシリーズは部分的に設定を共有している。
圧倒的な人類の敵としてエイリアンとプレデターは存在するが、大きく異なる点が一つある。
それは知性だ。
エイリアンは食いたい、殖えたいという本能に従って行動する。
それは人間に原初の恐怖を味合わせる。
対してプレデターは意思ある者として、人を狩る。
それは名誉であったり、楽しみであったりするのだが、圧倒的な科学・知性によって、人間は敵わないという諦めを感じさせるのだ。
この意思を持って狩りをするという点で、プレデターを主人公とする余地が出てくる。
エイリアンは凶悪であるが、猛獣と変わらない存在とも言え、物語の主人公にはなり得ない。
しかし、プレデターを主人公とすることにより、超越的な存在が、人間スケールに矮小化されてしまう恐れもあり、その点をどうしていくかが鑑賞前に心配していた点であった。
第1作目の「プレデター」はシンプルな言い方をすれば、弱者が圧倒的な強者に対して、知恵と工夫で打倒し、勝利するというストーリーである。
上段で書いたように、この構造がカタルシスを生む。
実は本作もこの構造をそのまま踏襲している。
主人公デクはプレデター一族の中でも最弱と呼ばれ、そのため長である父親にも疎んじらている。
プレデターでありながら、弱者としたこの設定が効いている。
彼は父親を見返すために、最強の戦士ですら難しいと言われるカリスクを狩ろうとする。
しかし、カリスクが生息する星は惑星全体の植物・動物が訪問者に牙を剥くバットランドだった。
その上、ウェイランド・ユタニ社も大量のアンドロイドを投入し、カリスクを捕獲しようとしていた。
そのような状況において、デクは圧倒的に弱者である。
装備は惑星に墜落した際に散逸し、ほぼ一つである。
バットランドに着いた後に出会ったアンドロイド、ティアから情報は得られるものの身一つであることは変わらない。
中盤までデクは、星の生物やアンドロイドたちに圧倒される。
しかし、「プレデター」のダッチと同様、デクはゲリラ戦に活路を見出す。
彼を苦しめてきた毒矢を放つ植物や、カミソリのような歯を持つ草、爆発する虫などを利用し、ウェイランド・ユタニの基地を強襲する。
まさに弱者が強者に対して、知恵と工夫で対抗するという展開だ。
これはカタルシスを生み、いつしかプレデターであるデクに感情移入している自分に気づく。
ティアと同型のアンドロイドで今回の敵役となるティアが操縦する大型のパワーローダーとの戦いは見どころがある。
このパワーローダーは「エイリアン2」で登場した機体よりも一回りも蓋回りも大きいサイズである。
大型ロボット対プレデターの戦い、という構図はSFファン、特撮ファンからすれば垂涎のものだ。
結果的に冒頭に挙げた懸念点は巧みに回避されたと思う。
プレデターはある意味、人間サイズに矮小化された。
デクが画面に登場した時にプレデターとしては貧相だと感じた(印象的なドレッドヘアも少ない)。
が、それゆえに感情移入できる対象としてなり得た。
「プレデター」シリーズとして新たな可能性を開いたかもしれない。

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2025年11月 8日 (土)

「『爆弾』」スズキタゴサクは何者なのか?

ある晩、名乗る冴えない中年男が野方署に連行された。
酔っ払って酒屋の自動販売機を壊し、その上店員にも暴行を働いたという。
その男は「スズキタゴサク」と名乗るが、取り調べをしていく中で「自分は霊感が強い」と言い、何かが起こると予言をし始める。
彼の言葉通り秋葉原で爆弾が爆発し、その後も次々と彼の予言通り東京の各所で爆発が起こっていく。
予告を見た時の本作の印象は、山田裕貴演じる捜査一課の類家と、佐藤二朗が演じる犯人スズキとの1対1のサイコサスペンスだった。
しかしいざ蓋を開けてみると、犯人スズキに対して、警察サイドは総掛かりで挑んでいる。
最初にスズキに対応するのは、野方署の刑事等々力で、次は捜査一課で類家の上司である清宮、そして最後に類家となる。
最後の類家とて、スズキの計画に肉薄するものの、事件を止めることはできない。
それほどまでに神がかった計画を立てたスズキタゴサクとは何者なのか?
普段から職場や学校に通うときに通っている道。
喉が渇いて目についた自動販売機でジュースを買った瞬間、爆発が起こり、吹き飛ばされる。
なんとも不条理である。
吹き飛ばされた人間に意識があれば、「なんで自分が」と思うだろう。
残された家族も「なんで彼が」と思うだろう。
不条理である、と。
本作には不条理に翻弄される人物が多く登場する。
野方署の巡査長矢吹もその一人。
彼は同僚に手柄を横取りされた結果、憧れの刑事になれず交番勤務を続けている。
彼にとっては不条理なことである。
彼が捜査の中で無鉄砲な行動をとりがちなのも、その不条理を取り消したいと考えるからであろう。
矢吹の同僚倖田は劇中でスズキに怒りに任せて迫る場面があるが、彼女の気持ちを動かしているのは不条理を許したくないという思いだろう。
これらの物語の発端となる野方署の長谷部の家族がその最たるものだ。
彼らは長谷部の起こした不祥事により、見知らぬ人々から心無い非難を浴びる。
確かに長谷部がしたことは恥ずべきことかもしれない。
しかし、だからと言ってこれほどまでに迫害されるほどのことなのか。
不条理である。
長谷部とコンビを組んでいた等々力にも同じような思いはあったろう。
不適切行為があったとはいえ、長谷部自身の刑事の力量や功績まで否定されるべきものではない。
その思いから出た言葉によって、また言われなく等々力自身も責め立てられる。
当事者は不条理と感じるが、実は当事者でない者にとってはそのように感じることはない。
部外者である彼らは、事件とは安全な距離を取れており、だからこそ無責任に推論し、勝手に発言する。
そしてそれが当事者たちをさらに苦しめるのだ。
しかし、スズキの行動は彼ら部外者を一気に当事者にした。
いつどこで、爆破に巻き込まれるかわからない。
不条理がいつ襲いかかってくるのか。
不条理、ということは理由がないと言うことである。
なぜそうなったか、ということが説明できない。
たまたま?偶然?
人は説明ができないことに対して、不安を抱く。
説明ができれば解決できる。
逆に言えば、説明ができないことは対処できない。
それは神の技かもしれない。
スズキの行為は神の視座とも言える。
彼はある意味、人を超越している。
彼は人間の良い面も悪い面も、強さも弱さも、そして人間こそが持つ矛盾も、深く理解している。
だからこそ人を翻弄できる。
スズキが等々力を好ましく思っているのは、彼が人の強さ、弱さ、矛盾を併せ持った人間らしい人物だからではないだろうか。
この映画の登場人物の中で、スズキの視座に迫れる唯一の人物が類家だ。
彼も鋭い観察眼、深い洞察力で犯人の本質に迫ろうとする。
彼は思考を深めていく過程で、スズキの視座に上がっていこうとする。
スズキもそれを楽しんでいるようだ。
しかし、類家自身が言っているように彼は人であることに「踏みとどまる」。
彼にとっては他人がどうしようもなくバカに見える。
自分の思考についてこれないことについて、イラつく。
しかし、それでも類家は人を超越しない。
神の視座には上がらない。
だからこそ、類家はスズキに勝てない。
スズキが仕掛けた最後の爆弾は結局見つからなかった。
事件に関わった者たちは、誰も容疑を認めていない。
類家の、警察の敗北である。
スズキタゴサクは何者なのか。
彼は不条理そのものである。

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2025年11月 1日 (土)

「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ ウルズハント -小さな挑戦者の軌跡-」良くも悪くも総集編

「鉄血のオルフェンズ」のオンエア開始からもう10年。 物語が進むに従って、どんどん悲劇に向かって追い込まれていく三日月らの軌跡から目が離せませんでした。
オンエア終了後、アプリとしてリリースされたのが「ウルズハント」でした。
興味はあったものの、アプリという特殊な公開方法のため、見ることができませんでした。
それが「鉄血のオルフェンズ」10周年ということで、劇場版と公開されました。
「ウルズハント」は元々は12話あったようで、本作はそれらの総集編となります。
そのためかなりナレーション頼りに物語は進められており、描かれる場面も端折られているようです。
私が若い頃の「ザブングルグラフィティ」のような印象です。
ですので、単体の映画として見るとかなりついて行くのが難しい。
無論ストーリーは追えるのですが、主人公を含め登場するキャラクターたちに感情移入をする余裕がないのですね。
なので、目の前で淡々とストーリーが進んでいくという冷めた視点になってしまいます。
おそらくガンダム瑞白星とモビルアーマー戦は、ガンダムバルバトスのそれと匹敵するようなアクションであったと思うのですが、そこも淡白になってしまい残念です。
キャラクターたちももっと詳しく知ることができれば魅力的に見えたはず。
できれば、12話をあらためて配信してくれるとありがたいです。 おまけであった「鉄華団」のエピソードは短いながら、良かったですね。
彼らの一番幸せな日々を見させていただきました。

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