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2025年10月26日 (日)

「おーい、応為」同士であり、親子

冨嶽三十六景などで知られる浮世絵師葛飾北斎には、その才覚を受け継いだ絵師である娘がいました。
それがお栄、号が葛飾応為です。
応為は「おうい」と読み、これは北斎がお栄をいつも「おーい」と呼んでいたことから付けられたとも言われています。
応為の作品はそれほど残されていませんが、そのいくつかが劇中でも登場しています。
それらが「吉原格子先之図」「夜桜美人図」「百合図」です。
私は応為の絵は見たことがなかったのですが、特に「吉原格子先之図」「夜桜美人図」は光と闇の使い方が印象的かつ特徴的で、レンブラントのようにも思えました。
北斎とはまた違った才能を見ることができます。
応為の作品数が少ないのは、北斎作品と呼ばれているものの中にも、彼女が描いたものもあるとも言われ、実際共作もあったようです。
さて、本作はその応為が主人公となる作品です。
今までも北斎が登場する映画は数々あり、そこには応為も登場していましたが、このようにスポットが当たるのは初めてではないでしょうか。
応為は北斎の弟子と結婚するものの、夫の絵の拙さに我慢がならず貶したところ離縁されたという逸話を持つ女性。
男っぽいものを好み、当時としては破天荒なタイプの女性であったと思います。
江戸時代の女性と言えば、生まれてから親に従い、夫に従い、子供従い、と一生の間、自分では物事を決められない立場でした。
応為は離縁後は北斎の元で、好きな絵を生業として絵師として活躍します。
劇中、応為は北斎のことを「鉄蔵」と呼び、まるで親らしく扱っていません。
一緒に暮らしているものの、北斎、応為はそれぞれの創作に夢中であり、雑多な生活に関わることには無関心の様子です。
親子というよりは、それぞれ自立したアーティストとして生き、刺激を受けているという状況でしょうか。
それぞれの創作を追求するという点では、互いにリスペクトしているようにも思います。
それぞれの口が悪いのは、親子としての屈託のなさでしょうか。
彼らは親子でありつつ、創作に取り憑かれた同士でもあったのでしょう。
北斎は晩年、応為に自分が死んだら、自由に生きていいと伝えます。
彼はアーティストとしての応為を尊敬し、一緒に刺激しながら創作をしてきたことに満足しつつも、親として娘の一生を奪ってきたのではないかと考えたのです。
それに対し、応為は元々自分はこのように生きたいから生きてきたと返します。
親だから世話しなくてはいけないから一緒に暮らしてきたわけではなく、身近にいる最も優れたアーティストとして尊敬する北斎のそばにいて、刺激を受けたかったからだということでしょう。
その当時としての女としての幸せではないかもしれない。
しかし、それは自分が生きたかった人生であると。
応為にとって、北斎はどうしようもない親で目を離せない存在でもありましたが、最も尊敬する芸術家でもあったのでしょう。
応為は、アーティストとしても、女性としても自立した考えを持った人物であったのかもしれません。
北斎の死後、応為の行く末に正説はないようです。
一人になった彼女の作品がどのように変わっていったのか、知りたいですね。

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2025年10月24日 (金)

「ワン・バトル・アフター・アナザー」観たことのないカーアクション

ポール・トーマス・アンダーソン(以下PTA)監督のアクション映画ということで大いに話題になっています。
確かに後半のカーアクション(そう呼んでいいのかどうかわからないですが)は、あまり見たことのない画であり、PTAらしい独創性が表れているように思いました。
カーアクションと言われてまず思い浮かぶ派手なカメラワークやスピード感のある演出といったものはほぼありません。
どちらかというとカメラはロングからズームで車を捉えているようなカットが多く、ゆったりと構えている印象です。
上下に波を打つように続く道を走る車を正面から捉えているカットが印象的で、正面からのためスピード感はほぼありません。
しかし、波打つ道に車が隠れ、そして再び表れたりすることで、不思議な緊張感が出てくるのです。
このようなカーアクションはあまり見たことがありません。
唯一、印象として近いと思ったのはスピルバーグの「激突」ですが、彼が本作を続けて3回見たという話も伝わってきていて、何か通じるものを感じたのかもしれませんね。
このようにカーアクションとしての新しい見せ方をしている本作ではありますが、PTAらしい映画でもあると思いました。
私がPTAの作品で見たことがあるのは「マグノリア」と「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の2本のみ。
個人的には、彼の作品は濃厚なドラマと強烈なキャラクターたちという印象が強く、見る側にも非常にエネルギーを要求するイメージがありまして、ちょっと躊躇してしまうところがあります。
それでも今回見に行ったのは、最初に触れたPTJとしてどのようにアクション映画に挑むのかという点に興味があったのです。
本作の中で強烈な印象を残すのは、ショーン・ペンが演じるロックジョーで、この人物はPTA作品にしばしば登場する強い個性を持った登場人物です。
彼は国境警備をする軍人であり、権威主義であり、また白人男性至上主義でもあります。
しかし、その反面、革命家でありペルフィディアに支配されることに快感を求めるアンビバレントな感情を持ち合わせています。
彼は排他的な白人男性至上主義の秘密結社に入ることを望みますが、その時に障害になるのが、ペルフィディアとの間に生まれたかもしれない子供です。
その子の存在は、彼の「純潔」を揺るがすこととなり、彼は執拗にその子ウィラを追いかけます。
ロックジョー、そして彼が所属を望む結社の男たちは、距離をとって眺めると、共通して自分中心の子供ぽさを持っているように思います。
しかし、その彼らは権力を持っているため、こっけいさと怖さを併せ持っており、理解し難い不気味さを感じます。
ディカプリオが演じるボブはかつてペルフィディアの同志であり、そして恋人であり、ウィラを自分の子と信じて育ててきました。
十数年平和に暮らしてきて、怠惰な生活を送っていた彼は、ロックジョーがウィラを狙って行動してきたことをきっかけに、かつての革命家としての闘争心が目覚め始めます。
それと同時に、当たり前の存在としていたウィラを失うかもしれないという危機感に直面し、本当の親として自覚し始めます。
そういう意味で彼は非常にまともであり、観客として共感しやすい人物です。
PTJの作品はクセが強い人物が多いため、自分が共感できる人間を探しにくいのですが、本作は主人公が最も共感しやすいため、他の作品に比べ圧倒的に見やすいと思います。
ロックジョーたちの不気味さが描かれていくほどに、ボブの存在が際立ってきます。 冒頭に触れた荒野でのカーチェイスの表現は、娘に届きそうで届かないボブの不安を表しているようでもあり、アクションシークエンスそのものがボブへの共感を強めていっているようにも思います。 大団円とも言える終わり方であり、もやもやもなくすっきりとした読後感です。
PTJ慣れていない方でも観やすい作品かもしれないです。

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2025年10月12日 (日)

「トロン:アレス」サイコガンダム??

デジタル世界を映像化した画期的な作品「トロン」。
数々の映像作品が「トロン」の影響を受けました。
そのシリーズ最新作がこちら「トロン:アレス」です。
今までの2作はデジタル世界に人間が訪れるという展開でしたが、本作では逆。
デジタル世界のプログラムたちが現実世界を侵食します。
ジャレッド・レトが演じる主人公はデリンジャー社のセキュリティプログラム「アレス」。
冒頭よりアレスが学習する過程が描写されますが、現在AIで主流となっている敵対的生成ネットワーク(GAN)でしたね。
敵となるプログラムと戦い、勝てるまで試行錯誤して学習していく。
敵対的生成ネットワークをわかりやすくビジュアル化していました。
今回はデジタル世界のものがリアル世界にやってくるわけですから、その表現の加減が難しかったと思います。
思いっきりCG的なものでは現実世界ではあまりにおもちゃっぽくなってしまいますし、リアルすぎるとそもそもデジタルっぽくない。
デザイン、テクスチャなどの匙加減が上手で、リアル世界の中でデジタル世界のメカが存在感を持って描かれていました。
オリジナルから印象的であったライトサイクルの後ろに発生する光の帯ですが、現実世界ではそれが物理的に存在するようになるという発想は面白い。
予告でも見られた光の帯によってパトカーが真っ二つにされるシーンなどはビジュアル的にもインパクトがありました。
最終盤に現実世界に出現した巨大なメカですが、なんか既視感がありました。
なんだろうと考えたのですが、あれば「Zガンダム」のサイコガンダムですね。
サイコガンダムがモビルフォートレス状態でホンコンシティに来た場面を思い出しました。
ビルの間を宙に浮きながらゆっくりと進んでくる様は、まさにサイコガンダム。
人型でもなんでもないデジタル感のある異質感のある形状も共通しているように感じました。
サイコガンダムにインスパイアされたんじゃないですかね。
ストーリーとしては新味があったようには思いませんでした。
永遠の命を持つ非人間の主人公が人間と触れ合う中で人間性を発見し、自らも人間として生きていく道を選ぶ、というのは今までも繰り返し語られてきた話です。
主人公アレスもあっさりと人間になりたい、という気持ちになりましたが、もう少し葛藤があったらドラマチックになったかもしれません。
ラストで数々の罪を問われたデリンジャー社の社長はデジタル世界に逃亡しました。
次回作はデジタル世界とリアル世界の全面戦争になるのでしょうか。

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2025年10月 5日 (日)

「沈黙の艦隊 北極海大海戦」信条に真摯に行動する

2023年に公開された「沈黙の艦隊」の続編です。
大沢たかおさんが演じる主人公海江田は、「キングダム」とはまた違った、静かなる存在感を出していました。
ですが、元々大作であった原作を踏まえた映画化作品であったので、前作はまさに導入部分といったものでした。
サブタイトルにあるように本作は、東京から国連があるニューヨークを目指す「やまと」の旅路が描かれ、特に北極海でのアメリカとの潜水艦が一つのクライマックスとなります。
潜水艦戦というのは相手が見えない中での戦いであり、心理的な駆け引きが潜水艦映画の見どころとなり、極限の中での人間性が描かれ今までも数々の名作が作られてきました。
しかし本作の主人公海江田というキャラクターは人間離れして冷静沈着であり、動揺する姿を見えないタイプです。
ですので「やまと」側では極限状態を感じるシーンはありません。
その代わり相手側のアメリカ側にはドラマが描かれていて、ここは共感できました。
「やまと」と戦う最新鋭の潜水艦「アレクサンダー」を率いるのはベイツ艦長と言い、名門の海軍一家の養子となった男です。
彼の義理の兄に対する尊敬と愛情、軍人一家としての誇り、そして自分の鑑の部下たちへの責任の中で、大きな決断を迫られる部分は引き込まれる部分がありました。
本作で登場してくる人物の多くはプロフェッショナルです。
軍人も、政治家も、ジャーナリストも。
それぞれに自分の信念を持ち、行動しています。
登場人物たちは、プロであり、そしてかつ人間でもあり、彼らは己が信じる考えに真摯に行動しようとしています。
それぞれの信条は違うかもしれない。
互いにその信条に真摯に行動しようとしています。
海江田とベイツ艦長、衆院選に挑む元与党の政治家たちもそうです。
そしてそれぞれ相手も真摯に行動していることがわかるからこそ、終わった後は互いに尊敬の意を持つことができているのだと思います。
打算ではなく、信条に真摯に行動するというのは、美しくもあります。
本作での最終局面はニューヨーク沖での「やまと」VSアメリカ空母艦隊です。
物量に任せた攻撃を加えるアメリカ海軍に対し、「やまと」は魚雷を撃たずにピンを打つだけにとどめてメッセージを発します。
「戦う意志はない」と。
それは圧倒的に「やまと」に不利な戦いであるのですが、そこでも海江田は己の信条に真摯なのです。
結果、ベネット大統領が言うようにアメリカが一方的に「やまと」を攻撃しているように見える、という構図を作りました。
原作ではこの後、海江田のニューヨークの演説になり、大きな戦闘シーンなどはなかった記憶があります。
3作目はあるのでしょうか。
そこで海江田の理想がどのような形で語られるか、見てみたいですね。

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