« 2025年5月 | トップページ | 2025年7月 »

2025年6月29日 (日)

「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング 」肉体を感じるアクションへのこだわり

「ミッション:インポッシブル」シリーズの最終作である「ファイナル・レコニング」、ようやく見てきました。
最終作と言われるだけあって過去作からのリンクもいくつか見られますので、ずっとシリーズのファンだった方には楽しめるところが各所ありますね。
しかし、この作品の見どころといえば、やはりイーサン・ハントことトム・クルーズのアクションでしょう。
このシリーズがまさにトム・クルーズのアクションを見る映画ではありますが、本作はその集大成とも呼んでもいいと思います。
中でも特筆すべきアクションは中盤の潜水艦の中のシークエンスと、後半のレシプロ機での空中戦です。
いずれも「ミッション:インポッシブル」らしいタイムリミットありのシークエンスとなっていますが、それぞれ違った趣があります。
潜水艦内でのアクションは派手な動きがあるわけではないですが、時間だけでなく、空間的な制約を受けながら、ミッションを果たすというシチュエーションです。
そもそも深海での作業という不自由な作業であり、空気が切れてはいけないという制約を受けています。
さらには潜水艦がバランスを崩し海溝に転がり落ちそうになり、そのため船内では魚雷がハッチを塞ぎ、退路が断たれてしまう。
生き延びるための選択肢が次々となくなっていく中で、イーサン・ハントは脱出方法を見つけられるのか。
まさに息苦しくなるような圧迫感の中、静かなアクションが進みます。
後半の見せどころとなるのが、レシプロ機でのアクションです。
予告で見ていた時は、レシプロ機ということで「トップガン」などを見た後ではスピード感などがないのではないかと思っていて、物足りないものになっているのではないかと懸念していました。
しかし、そんなことは全くありませんでした。
逆にレシプロ機というのは人が機上でさまざまなアクションができるギリギリの速さの飛行機なのかもしれません(ジェット機では速すぎる)。
人間が生身で対応できる極限の速さの中で繰り広げられるアクロバティックなアクション。
極限というのは「ミッション:インポッシブル」の一つのテーマかもしれません。
どこまで実際に飛行機でアクションをしているのかはわからないのですが、本作のこのシークエンスは人の肉体感を感じるものになっていました。 風圧を、重力を、感じる。
このシークエンスが始まる時にトム・クルーズの顔が風圧でブルブルするようなシーンがあります。
いくらジェット機よりは遅いとはいえ、レシプロ機も飛行機です。
その風圧も含め、肉体を感じられるアクションになっているため、このシークエンスのアクションは見ている我々も、肉体感を感じられるものになっているのです。
最近のアクションはCGで見たことのないものを見せてくれますが、その反面肉体感は感じにくくなっています。
アニメーション的でもあります。
そのような最近の傾向に対するアンチテーゼかのように、本作のこのシーンは、リアルな身体感があり、だからこそ余計に怖い。
「ミッション:インポッシブル」シリーズはCGアクション隆盛のこの時代の中で、肉体的なアクションにこだわり抜いた作品として光っているように思えます。
人を呼べる最後のスターとも言われるトム・クルーズのこだわりが現れているように思います。

| | コメント (0)

2025年6月 8日 (日)

「国宝」二人の生き様

吉沢亮、横浜流星という新旧の大河ドラマ主演俳優をメインキャストに配した豪華なキャスティングです。
さすが今、旬の二人だけあって演技はなかなかの見応えでした。
本作は歌舞伎が題材になっており、二人とも数ヶ月も本格的な稽古を積んだということです。
劇中で見られる歌舞伎の所作や声の出し方にその稽古の成果が現れていると思います。
実はこの二人、吉沢亮さんがブレイクしたきっかけとなる「仮面ライダーフォーゼ」で演じた仮面ライダーメテオで共演しています。
当時は横浜流星さんはほぼ無名(その後「トッキュウジャー」でトッキュウ4号に抜擢)でしたが、吉沢亮さんが演じるメテオこと朔田流星の親友という役所でした。
吉沢さんの役名が、横浜さんの名前と一緒というのも何か運命的でもありますね。
横道外れてしまいました。
吉沢さん演じる喜久雄は親が極道でしたが、抗争のため親は死に、その後歌舞伎役者である花井半二郎に引き取られます。
その半次郎の息子であり、後継とみなされてたのが横浜さん演じる俊介。
本作は年が同じであるこの二人の半生が描かれます。
二人とも歌舞伎に魅入られ、その道を極めようとします。
喜久雄は天性の才を持ち、メキメキと頭角を表していくにつれ、俊介は自分の力のなさを感じ、逃げ出します。
また喜久雄は歌舞伎社会という伝統と血が重んじられる社会の中で、自らの出自のためにさまざまな障害で阻まれます。
二人は対立しながらも、お互いを認め合い、唯一無二の関係性を作っていきます。
それぞれが多くのものを犠牲にしながら、芸の道を究めていこうとします。
なぜ、すべてのものを犠牲にすることがわかっていながらも、魅入られるのか。
本人たちにも本当のところはわからないのかもしれません。
何かそこまで行けば、見える景色があるかもしれないという思い。
喜久雄が歌舞伎界から追放されて、地方のドサまわりをしている時の屋上のシーンが秀逸です。
彼は芸しか見えていない。
ずっと彼に付き従ってきていた女性も、自分のことを見ていないことによって去っていってしまう。
全てを失ってしまっても、彼は踊っている。
泣きながら、笑いながら。
それしか彼にはないから。
その時の吉沢さんの演技は鬼気迫るものがありました。
また横浜さんも素晴らしい。
俊介は糖尿病により片足を切断することになっても、なお舞台に立とうとします。
彼と喜久雄が一緒に舞台になった時、喜久雄はもう一方の足も壊死になりかけていることに気づきます。
痛みに耐えながらも俊介は死に物狂いで舞台を務める。
その思いをわかっているから喜久雄も舞台を続けようとする。
この二人の掛け合いが鳥肌が立つほどの緊張感がありました。
歌舞伎の興行を担当する会社の社員、竹野が彼らの舞台を見てつぶやきます。
「あんな生き方はできない」と。
何もかも、自分の命すら犠牲にしながらも、芸の道を極めようとする二人の生き様がそこにはありました。

| | コメント (0)

2025年6月 7日 (土)

「かくかくしかじか」見えるモノをそのままに受け取る素直さ

娘が見に行きたいというので、一緒に行ってきました。 今までは一緒に行くのはずっとアニメばっかりだったのに、ストーリーものの実写を見に行きたいと言ったところに成長を感じたりして。
さて本作は東村アキコさんの自伝的な漫画を原作にしています。
漫画家を目指していた東村さんと、絵の師匠であった日高先生との交流を描いています。
日高先生は現代からするとほぼ絶滅してしまったような人物です。
映画を拝見すると東村さんはほぼ私と同世代。
私が学生だった頃は学園ものにしてもとにかく先生はアツかった。
「金八先生」にしろ「スクールウォーズ」にしろ。
生徒を思うからこそ、その行動は真っ直ぐで。
本作の日高先生もそれに通じるものがあると思います。
生きてきた時代から私はこういう先生の物語を見ると、割と心に響いてくるのですが、現代の子どもたちから見た時、こういう先生はどのように見えるんでしょうね。
今っぽくないと思うのか、それとも逆に新鮮に見えるのか。
うちの娘は、ラストではくすんくすんとしていたので、心には届いているようでした。
そして日高先生は、物事を純粋にそのまましか見れない人でもありますね。
アキコがつく幼稚な嘘にも素直に騙されてしまう。
生徒の一人をチンパンジーに例えてしまうのも、それは揶揄うという意図ではなく、ただ単にそのように見えたということだけで。
これはモノを見てそのままを写しとるという画家の目を持つからこそかもしれません。
裏の意図とかそういうことを見ることはできなくて、ただ目に見えるものをそのまま受け取る素直さというか、そういうところが日高先生にあるのかもしれません。 アキコにとってはその素直さも重いとも思え、逃げ出すように師匠から離れることもありましたが、その真っ直ぐさは彼女が夢を追うことの力ともなったのです。
映画としても非常に素直なストーリーで、真っ直ぐにメッセージが届いてきます。
故に終盤では心にも大きく響いてきます。
本作の監督の関さんの作品はあまり見たことがなかったですが、絵作りが綺麗な印象です。
決して奇抜ではないのですが、画のレイアウトとかキーアイテムの使い方とか上手ですね。
公開前に出演者に関する報道でゴタゴタしていましたが、作品としては素直に感動できるものとして仕上がっていると思います。

| | コメント (0)

« 2025年5月 | トップページ | 2025年7月 »