「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」アイコン
<ネタバレ含みます>
社会現象ともなった「ジョーカー」の続編となります。
先行して公開されたアメリカでは、その賛否が話題になっていました。
賛否の内容は鑑賞前だったので読みませんでしたが、それなりの覚悟を持って見にいきました。
結果的に言うと、私個人としては本作は十分にアリであると思います。
確かにミュージカル的な要素も入っており、前作のジリジリとしたような感触もないので、そのままの雰囲気を期待した方には期待はずれだったかもしれません。
ただ、ジョーカー=アーサー・フレックという人物人物を深く描いていく、という点で本作は十分にその目的を達成できているように思いました。
前作で描かれたようにアーサーは「何者でもない者」でした。
才能もなく、誰からも注目されることなく、迫害されて生きてきました。
社会にとっても、誰にとっても、いなくなっても困らない存在。
それが前作で起こした一連の事件により、彼はカリスマとなりました。
一角の人物になりたかったという彼の願いは期せずして叶えられたのです。
一部の人々はピエロのメイクをし、社会を揺るがすようなことを行なった男を崇めるようになります。
その存在、ジョーカーは彼自身ではなく、はたまた彼の別人格でもありません。
彼は人として認められる存在になりたかったわけですが、結果的にはアーサーとしてではなく、ジョーカーとして認められしまったのです。
そのような中で彼はリーという女性に恋をします。
彼は彼女だけがアーサーという自分を認めてくれていると感じますが、真実は彼女が興味を持っているのはジョーカーでした。
アーサーは薄々それを感じつつも、彼女を手放したくない一心でジョーカーを演じます。
彼にはそれしか選択肢がありません。
祭り上げられたカリスマを演じる。
仮面を被りながら。
裁判所の公判でも、彼はジョーカーとして振る舞います。
そこが舞台かのように。
しかし、かつての友人の証言で彼は揺らぎます。
友人はジョーカーを自分が知っている本当のアーサーではないと言いました。
彼は人々が注目しているのはアーサーではなく、ジョーカーであることを悟ります。
そして、最後は彼は舞台から降りました。
人はアーサーを求めていたわけではなく、ジョーカーというアイコンを求めていたのです。
彼が仮面を外した時、彼を崇めていた人々は離れていきます。
リーも。
彼は再び、ただのアーサーに戻りました。
彼は意味のある存在になりたかった。
自分自身を愛してほしかった。
しかし、母親も誰も彼を愛することはなかった。
最後は結局彼はひとりぼっちとなりました。
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