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2024年10月20日 (日)

「ボルテスV: レガシー」同じ熱量

「超電磁マシーン ボルテスV」は1977〜78年にかけて放映されていたいわゆるスーパーロボットアニメ。
個人的には前作である「コン・バトラーV」の方が好きだったのだが、お年頃でこの辺りからスーパーロボットに興味を失った時期に当たるかと思います。
とは言いつつ、主題歌は歌えちゃったりするわけで、一通りは見ていたのでしょう。
さて本作はその「ボルテスV」をCGをふんだんに使った実写ドラマとしてフィリピンでリメイクした作品。
なんでフィリピンかというと「ボルテスV」は彼の地では何度となく再放送をされ、誰でも知っている日本のアニメとしての地位を確立しているのだそう。
知らなかった。
フィリピンのCGなんてどんなもんかいな、という疑問がありましたが、見てみるとなかなかどうしてCGロボットパートはなかなかに見応えがあります。
ここまで技術レベルが上がっているのかと驚きました。
「パシフィック・リム」の影響をもろに受けている感じで、大地を揺さぶる重量感が感じられます。
ボルテスV自体もオリジナルのデザインを残したまま現代的にリファインされていてかっこいい。
ちょうど「マジンガーZ INFINITY」のような感じのアレンジ具合ですね。
元々スーパーロボットなので、あまりリアルにリファインしても良さがなくなってしまうところですが、その辺りの匙がげんもわかっているな、という印象です。
垂涎ものはやはりボルトインのシーン(合体シーン)でしょう。
5つのメカが次々に合体し、巨大ロボットになるシークエンスは男の子なら必ず興奮することは間違いなし。
ああ、このスタッフで「コン・バトラーV」の「レッツ コンバイン」もやってほしい・・・。
ストーリーはベタと言えば、ベタ。
本作はフィリピンではドラマシリーズとして展開されていて、現在公開されているのはその劇場公開用に編集されたもの。
おそらくテレビシリーズの導入数話分をまとめたものだと思われるので、構成はどうしても物足りないところがあります。
ただベタさも含め、私が子供の頃らしい香りがするとも言えます。
そういった雰囲気や、わかっているなという感じがするのはフィリピンの制作者たちが子供の頃から「ボルテスV」に親しんでいたことが大きいのでしょう。
フィルムから熱量が伝わってきます。
見終わった後、劇場で席を立つと、ほとんどの観客は私と同世代(想定50代)。
あの頃子供だった人たちですね。
スタッフと同じく、観客も同じ熱量を持っておりました。

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2024年10月19日 (土)

「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」アイコン

<ネタバレ含みます>
社会現象ともなった「ジョーカー」の続編となります。
先行して公開されたアメリカでは、その賛否が話題になっていました。
賛否の内容は鑑賞前だったので読みませんでしたが、それなりの覚悟を持って見にいきました。
結果的に言うと、私個人としては本作は十分にアリであると思います。
確かにミュージカル的な要素も入っており、前作のジリジリとしたような感触もないので、そのままの雰囲気を期待した方には期待はずれだったかもしれません。
ただ、ジョーカー=アーサー・フレックという人物人物を深く描いていく、という点で本作は十分にその目的を達成できているように思いました。
前作で描かれたようにアーサーは「何者でもない者」でした。
才能もなく、誰からも注目されることなく、迫害されて生きてきました。
社会にとっても、誰にとっても、いなくなっても困らない存在。
それが前作で起こした一連の事件により、彼はカリスマとなりました。
一角の人物になりたかったという彼の願いは期せずして叶えられたのです。
一部の人々はピエロのメイクをし、社会を揺るがすようなことを行なった男を崇めるようになります。
その存在、ジョーカーは彼自身ではなく、はたまた彼の別人格でもありません。
彼は人として認められる存在になりたかったわけですが、結果的にはアーサーとしてではなく、ジョーカーとして認められしまったのです。
そのような中で彼はリーという女性に恋をします。
彼は彼女だけがアーサーという自分を認めてくれていると感じますが、真実は彼女が興味を持っているのはジョーカーでした。
アーサーは薄々それを感じつつも、彼女を手放したくない一心でジョーカーを演じます。
彼にはそれしか選択肢がありません。
祭り上げられたカリスマを演じる。
仮面を被りながら。
裁判所の公判でも、彼はジョーカーとして振る舞います。
そこが舞台かのように。
しかし、かつての友人の証言で彼は揺らぎます。
友人はジョーカーを自分が知っている本当のアーサーではないと言いました。
彼は人々が注目しているのはアーサーではなく、ジョーカーであることを悟ります。
そして、最後は彼は舞台から降りました。
人はアーサーを求めていたわけではなく、ジョーカーというアイコンを求めていたのです。
彼が仮面を外した時、彼を崇めていた人々は離れていきます。
リーも。
彼は再び、ただのアーサーに戻りました。
彼は意味のある存在になりたかった。
自分自身を愛してほしかった。
しかし、母親も誰も彼を愛することはなかった。
最後は結局彼はひとりぼっちとなりました。

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2024年10月14日 (月)

「室井慎次 敗れざる者」いまさら感と前振り感

テレビドラマ「踊る大捜査線」は夢中になって見てました。
青島風のモッズコート購入したりして。
当時の刑事ドラマの定石をことごとく無視をして(いい意味で)、新しいスタイルを生み出したと思います。
「踊る大捜査線」は刑事もの、警察ものというジャンルではなく、お仕事ムービーなんじゃないかと思います。
お仕事ムービーは今は一つのジャンルとなっていますが、その先駆けとも言えるかと思います。
シリーズ開始してから27年経ちますが、今になって突然の「踊る大捜査線」のスピンオフが本作になります。
今までも映画やスペシャルドラマなどでこのシリーズのスピンオフは数々作られてきました(スピンオフというものが定着してきたのも本作の功績かも)。
ドラマ好きであれば、リンクやカメオなどで楽しめる要素はあるのですが、作品としてはやはりパワーダウン感は否めない印象です。
やはり「踊る大捜査線」はあの湾岸署のメンバーがあってこそなんだな、と。
なので、正直「いまさら感」は感じながら、本作を見にいきました。
まず説明しておくと本作は2部作となっています。
「敗れざる者」はその前編ということになります。
そういうことなので致し方ない部分はありますが、本作は非常に前振り感ばかりを感じてしまう印象です。
後編で事件が大きく動くのかもしれないですが、そのためのさまざまな伏線らしきものを張っているだけのように見えました。
そして起こっている事件も、過去の作品での出来事が伏線となっています。
ファンにはたまらないのかもしれないですが、正直、過去の遺産で食っているような印象も受けました。
また主人公の室井慎次という男がなかなか扱いにくい。
無口であり、自分の考えを自分から話す人物ではありません。
彼は青島のようなキャラクターに影響を受け、変わっていくことによって生きていくのだと思います。
本作ではそのような人物はいませんし、彼は諦念と後悔も含め、彼の生き方自体は揺るがない男です。
なのでドラマが非常に動きにくい。
そのためか、犯罪によって身寄りを失った子供たちが出てくるのだろうと思いますが、そのような活動をしようとすることにした室井の気持ちに触れられていないため、ドラマを動かすためというような機能が見え、とってつけた感がしてしまいます。
2時間淡々と過ぎていき、感情的な盛り上がりはあまり感じらません。
1本の映画としてはなかなか見れず、後編の前振りのような印象になったというわけです。
このモヤモヤは後編で解決するのでしょうか。
後半の予告的なものはポストクレジットで見れましたが、盛り上がるような印象はありました。
感じているモヤモヤが晴れることを望みます。

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2024年10月13日 (日)

「侍タイムトリッパー」滅びゆくもの

「カメラを止めるな」の再来と呼ばれる「侍タイムストリッパー」を見てきました。
少数の劇場からスタートして、次第に大手のシネコンでも公開が始まり、私が見た時も公開からしばらく経っていましたが、かなり人は入っていました。
時代劇というジャンルは衰退期に入っています。
劇中でも言われていましたが、私が子供の頃は毎日のようにテレビでは時代劇が放送されていました。
私の場合も母親が時代劇好きで、学校から帰ってきたらおやつを食べながら再放送の「水戸黄門」やら「大岡越前」を見ていたのを覚えています。
ですので、時代劇というジャンルには個人的にも思い入れがあり、最近時代劇が少ないのはちょっと寂しい気もします。
本作の主人公高坂は会津藩士で、京で討幕を企む長州藩士の動きを探っていました。
長州藩士風見を討とうとした時、突然落雷に見舞われ、気がつくと高坂は現代にタイムスリップしていたのです。
彼はその事実に困惑しながら、偶然知り合った京都撮影所の助監督優子の助けを借りて、時代劇の切られ役として暮らしを始めます。
本作では滅びゆくものへの想いが語られているように思いました。
一つは時代劇です。
冒頭で書いたようにかつては毎日のように放送されていた時代劇ですが、今は斜陽。
それに関わっていた人々もそれは感じつつ、それでしか生きていけないという気持ちと、その文化を守っていきたいという思いを持ちながら生きています。
時代劇を離れるということは、それまでの自分を否定することにもなりますから、辛いですよね。
そしてもう一つは幕府を守りながら滅んでいった会津藩。
数々のドラマや映画で会津藩の顛末については語られています。
幕府に対する恩を感じ、衰退する幕府に殉じていった会津藩士たち。
時代が変わりつつあることを理解しつつも、それに抗った者たち。
時代劇にこだわり続ける人々と会津藩士たちには相通じるものがあります。
そしてその切なさを両方持っているのが主人公高坂なのですね。
高坂は会津藩が信じるものに殉じて滅んでいったことを知ります。
それはもう過去であり、変えることはできない。
そして自分が第二の人生で、愛するようになった時代劇。
それも滅びようとしています。
一つはもう取り戻せない。
自分は何もできなかったという後悔の気持ちが彼にはある。
しかし、もう一つは自分も抗うこともできるかもしれない。
そして、彼の宿敵として立つ風見は、会津を滅ぼした新政府軍の長州藩の藩士であり、そしてまた時代劇を捨てた男でもありました。
高坂は自分が失い、失いそうになるものを滅ぼし、捨てた風見が許せなかった。
それが最後の真剣での勝負につながります。
そして、剣を切り結ぶ中で、風見もまた多くを失ってきた者であるということを理解するのです。
言葉でなく、剣を通じながら相手を理解するという展開も胸が熱くなります。
お二人の演技も熱がありました。
時代劇の熱さを感じさせてくれる作品になっていたと思います。
斜陽と呼ばれるジャンルでも時折、このような熱くなれる映画が作られます。
西部劇などもそうですよね。
それが脈々と文化を繋いでいくように思います。

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2024年10月11日 (金)

「シビル・ウォー アメリカ最後の日」真の分断

社会的分断が課題として語られて数年、ちょうどアメリカは大統領選挙の年でさらにその点についてフォーカスされており、非常にタイムリーなタイミングで公開されました。
ただ本作は何かしらの政治的価値観が語られているわけではありません。
どちらかというと他人の価値観を受け入れられない社会となった場合、どれだけ人が不寛容になってしまうのかということを描いているように思います。
そしてその社会を良い悪いという価値観ではなく、客観的に描いているため、より一層リアリティが増して感じられます。
その語り手としての役を担うのが主人公たち。
彼らはジャーナリストであり、内戦のきっかけを作った大統領への単独インタビューを行うため、ワシントンを目指します。
主人公リーは実績のあるジャーナリストであり、常に客観性持つことを意識しています。
彼女は目の前でどれだけ凄惨な出来事が起ころうとも、冷静にその事実をカメラに収めます。
冷徹とも言えるかもしれません。
戦場カメラマンとして彼らは軍隊とともに活動しますが、本作を見ているとカメラマンと射撃主の使う言葉が同じであることに気づきます。
シュート、リロード・・・。
シャッターを切ることもシュート、引き金を聞くこともシュート。
カメラにフィルムを詰めるのもリロード、銃に弾丸を込めるのもリロード。
彼らはレンズを通して相手を冷静に見つめ、その姿を捉えるという行為は全く同じです。
彼らが目にするのは人間性など感じられない行為かもしれません。
それにレンズを向ける時、人間的な感情は持っては耐えられないのでしょう。
リーたちがワシントンへの旅の中で、排他的な価値観に支配された武装集団と遭遇します。
彼らの理屈は許容できるはずもないのですが、それが何の疑問もなく実行されているところに恐怖を感じます。
彼らは狂っているわけではなく、彼らの価値観において正しく行動しているだけなのです。
正しさというのは、それぞれ基準があり、その基準自体がずれてしまった時、なす術がないということが恐ろしい。
意見を調整するという余地もない。
調整する必要すら感じられていない。
これが真の分断なのでしょう。
結局本作の物語においては、分断を違憲のすり合わせで解決したわけではなく、暴力によって制圧したということになります。
制圧された大統領はファシスト的であったため、見ている我々としては正義が遂行されたように感じますが、もしかすると逆になっている可能性もあるわけです。
現実の世界でも中東は非常にきな臭くなっていますが、それぞれの正義が主張され、調整することなく力で決着しようとしているように見えます。
本作はフィクションですが、ありうる未来とも言えます。
これが現実とならないよう、異なる価値観にも寛容でありたいと思いました。

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