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2024年9月29日 (日)

「ビートルジュース ビートルジュース」彼が戻ってきた!

自分がティム・バートンを知るきっかけとなり、好きになったのが「ビートルジュース」。
唯一無二とも言えるティム・バートンの不条理な世界観に完全に魅了されました。
その後は彼の作品が公開されれば、劇場に必ず足を運ぶようになりました。
彼の作品は好きな作品はいくつもあるのですが、その中で不条理さと楽しさで言ったら、今でもNo.1なのが「ビートルジュース」。
それがまさかの30数年経っての続編です。
出演者は1作目でリディアを演じたウィノナ・ライダーが同じ役で続投です。
そして彼女の娘アストリッドを演じるのが、ドラマ「ウェンズデー」で主人公を演じたジェナ・オルテガ。
「ウェンズデー」を見た時から、彼女は見た目の雰囲気が絶対にティム・バートン好みだろうと思っていましたが、やはり起用してきました。
そしてビートルジュースを演じるのはマイケル・キートン。
この役は彼でなくてはいけません。
リディアはやはり30数年を経た変化をしていましたが、ビートルジュースは全く変化を感じません。
霊界の住人なので、当たり前です。
映画のテイストはしっかりと前作を踏まえたものになっていて、旧作ファンとしては楽しめました。
監督がこだわったという、以前のようになるべくVFXを使わない映像も味わい深いです。
前作でとても好きだったシーンが「バナナボート」の場面なのですが、それを踏襲したようなシーンも本作にはありますね。
前作好きとしては、好みだった部分を押さえていてくれていてとても嬉しかったのですが、逆にいえば、新たな驚きがあったとは言い難いです。
いくつかのシーンは前作を踏襲したものであり、それはそれで嬉しく思いつつも、マンネリ感は感じました。
またドラマ部分も前作では、心を閉ざしていたリディアがメイトランド夫妻との交流を通じて、心を開いていくという過程が縦軸であり、ドラマとして背骨がしっかりした印象がありました。
本作はリディアとアストリッドの関係、そしてビートルジュースと元妻ドロレスとの関係など複数プロットが走っているので、やや複雑さがあるのと、メインのラインがわかりにくい印象がありました。
続編として変化を出す工夫だったと思いますが、塩梅が難しいですね。
あと最後に気づいたブラックなネタを。
これは制作サイドが意識していたかどうかはわからないですが・・・。
ウィレム・デフォーが演じる霊界の刑事ですが、彼は頭の半分を拳銃で吹っ飛ばされています。
彼は生前は俳優だったらしく、撮影中にダミーではなく実弾で誤射されて亡くなったようです。
1作目の「ビートルジュース」でアダム・メイトランドを演じていたのはアレック・ボールドウィンです。
彼は3年前撮影中に、実弾が込められた銃でスタッフを撃ってしまったという事故を起こします。
責任は銃を管理していたスタッフにあるようですが・・・。
これはかなりブラックなネタだなと思いました。

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2024年9月15日 (日)

「スオミの話をしよう」シチュエーションコメディ止まり

三谷幸喜さんお得意のワンシチュエーションコメディですね。
今まで三谷作品は色々と見てきましたが、中でも「12人の優しい日本人」(脚本)が好きなのですよね。
ストーリーが進むに従って、たくさんいる登場人物たちの本当の気持ちが明らかになっていく過程が、三谷さんならではの緻密な構成です。
本作ではスオミという女性が失踪(誘拐?)し、彼女を救うために5人の夫たちが集合するというシチュエーションです。
しかし、彼らが語るスオミは同じ人物とは思えないほど違います。
どれが本当のスオミなのか?
誘拐(?)事件が進行していく過程で、彼らが話していく中で、スオミ像が次第に明らかになっていきます。
それは、スオミの本当の姿を探っていく過程でありながら、それぞれの夫の本当の生き方・価値観を明らかにしていきます。
これは先ほど挙げた「12人の優しい日本人」にも通じる構成であると思いました。
ただ「12人の優しい日本人」に比べると、それぞれの人物の本当への踏み込みはだいぶ浅いような印象です。
「12人の優しい日本人」では犯人について語りつつ、次第にそれが陪審員たちの本当の気持ちが浮き彫りになり、心を揺さぶられるところがありました。
しかし、本作はそれぞれの登場人物の価値観までは触れに行くものの、彼らの本当の気持ちまではタッチできなかったように思います。
ところどころ彼らの振る舞いに笑わされたものの、気持ちが動くまでは行かなかった印象です。
シチュエーションコメディで止まってしまっていたかな。
ちょっと勿体無いです。

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2024年9月14日 (土)

「わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー!ドキドキ❤︎ゲームの世界で大冒険!」「大好き!」を伝えられる幸せ

昨年の「プリキュア」の劇場版「プリキュアオールスターズF」は娘と合計4回も見にいくほどにどハマりしました。
「F」は「プリキュア」の周年記念だったので、かなりのスケール感で描かれた作品でしたが、本作は現行シリーズである「わんだふるぷりきゅあ!」の単独作品となります(過去プリキュアのカメオはありますが)。
今回はタイトルにあるようにゲームの世界で展開されるお話なので、昨年に比べるとやや子供向けのテイストになると予想していました。
その予想自体は間違っていません。
プリキュアやこむぎ、ユキが2頭身キャラになり、3DCGで描かれていますし、ゲームの世界で行われる数々のゲームも子供向けな内容ではあります。
ただ、それだけで単なる子供向けと片付けられないのは「プリキュア」らしいところ。
そもそも今回の「わんだふるぷりきゅあ!」は動物が変身するというトリッキーなアイデアが特徴です。
主人公のこむぎは犬の時は、可愛らしい小型犬で、その言動もかなり幼い。
この設定からも今シリーズは、いつもより低年齢層を意識しているのではないかと思いました。
しかし、シリーズを見ていて、さらにはこの映画を見て、それは表面的な見方であり、テーマはもっと深いのではないかと考えました。
今回の「プリキュア」は従来のシリーズに比べ、いろはとこむぎ、まゆとユキというペアが強調されています。
飼い主とペットという関係ですが、本シリーズはこの二組のペアの間にある「友情」がテーマなのだと思います。
よくよく考えると二人の間の友情というのは、初期の「プリキュア」では重要なテーマであったはずですが、数人のチームという体制になってからは、少し薄くなっていたかもしれません。
そういう意味では本作は原点回帰しているのかもしれません。
とはいえ、この時代、大上段に友情とか、いうのは非常に恥ずかしい印象もあります。
仲が良い友達の間でも「大好き!」という言葉もなかなかに恥ずかしい。
しかし、本作では飼い主とペットという関係性となっているので、この「大好き!」という言葉が発しやすい。
この映画でもこむぎは「大好き!」という言葉を何度も言っています。
ストレートに友達に「大好き!」と言える関係に清々しさも感じます。
映画に登場したキャラクター、ナツキは子供の頃、唯一心を許したたぬきをゲームの中でキャラクターにしました。
ナツキはそのたぬきと心を通じていると思っていましたが、当然のことながらたぬきとは話はできません。
そのもどかしさがムジナを生んだのかもしれません。
言葉を発せなくても、気持ちは通じる。
けれど、好きであることを言葉を通じて伝えられればもっと幸せになれる。
いろはの友人であるさとるくんもペットの大福と、いろはとこむぎのように話ができるといいと望んでいました。
彼の願いは、この映画で叶います。
その時の彼の嬉しそうなことと言ったら。
好きな人と気持ちをきちんと言葉で伝え合えることは、幸せなのですね。
大福とさとるくんが変身したのは超びっくりしました。
それに大福はイケボだったのね・・・。

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2024年9月 8日 (日)

「エイリアン:ロムルス」強かった1作目のプロット

1979年の「エイリアン」は衝撃的でその後のSF映画に大きな影響を与えました。
この作品はSF映画の世界観でありながら、ホラー映画のようなスリラー的なエッセンスも盛り込んだという意味で新しかったように思います。
その後「エイリアン2」はジェームズ・キャメロンがさらに進化させ、スリラーというよりは戦争アクション映画としてアプローチしました。
2作目が1作目とは異なるアプローチをするというのは、斬新であったと思います。
その後、3、4と続編が作られましたが、勢いは失速。
それぞれの監督が新基軸で挑戦していることは理解しつつも、リプリーが神がかったきたりなど、やや方向性としては迷走していたように感じます。
その後、リドリー・スコットがエイリアンの始まりを描く「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」を送り出しましたが、哲学的な内容ということもあり、そもそもの「エイリアン」が持っていたテイストは薄かったように思います。
本作「エイリアン:ロムルス」は時代的には「エイリアン」と「エイリアン2」の間に位置するということで、そもそもの始まりである「エイリアン」に原点回帰した内容となっています。
本作の冒頭で「エイリアン」でリプリーがエイリアンと死闘を繰り広げたノストロモ号の残骸が登場します。
リプリーが始末したはずのエイリアンをウェイランドユタニ社が回収し、秘密裏に研究をしていたのです。
本作の主人公たちは劣悪な環境の植民地星から脱出をしようとしている若者たち。
彼らは廃棄された宇宙船を使い脱走しようとしますが、その宇宙船こそウェイランドユタニ社がエイリアンを研究していた施設だったのです。
施設は破壊されひとっこ一人いません。
彼らが乗り込んだことにより、再びフェイスハガーたちが活動を初め、彼らに襲い掛かります。
基本的にプロットは1作目とほぼ同じです。
圧倒的なエイリアンたちに対して、若者たちは無力です。
仲間たちが少しずつ倒されていく中で、主人公のレインが生き残りをかけた戦いをサバイブしていきます。
そもそもレインはどちらかというと慎重派で、植民地からの脱出についても流されていった感じがあります。
しかしサバイバルを通じて、より生に執着し、そのために戦うということで、覚醒していく様はリプリーに通じます。
つまりは同じプロットを繰り返ししているわけではありますが、決してつまらないわけではありません。
どのように彼らがエイリアンと戦っていくかという部分は本作ならではのアイデアもあり、飽きさせません。
元々のプロットが非常に強かったということでしょう。

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2024年9月 1日 (日)

「劇場版 アナウンサーたちの戦争」背負う十字架

本作はNHKスペシャルで放映されたドラマの劇場版となります。
劇場で公開されるまで、このようなドラマがあったことは知りませんでした。
現代でも世界各地で戦争は行われていて、以前よりもさらにも増して重要になってきているのが、情報戦です。
インターネットを使って虚偽情報を流したり、敵国の世論を誘導したり、また自国に対しては不利な情報を隠匿したり。
原始的な手法では、韓国が北朝鮮に対して、韓流ドラマが収録されたDVDを蒔くというのもありました。
太平洋戦争においても、旧日本軍は情報戦に力を入れていました。
圧倒的に物理的な戦力が足りない中、欺瞞情報や敵国の戦意喪失へ、情報戦、特にラジオを使った電波戦は有効であると考えたのです。
当時、そのような軍の方針に従ったのが、現在のNHK、日本放送協会です。
軍が占領地を東南アジアに広げていくのに従い、日本放送協会のアナウンサーたちが前線での電波戦に駆り出されました。
そして、また日本に残ったアナウンサーたちは国民の戦意高揚のためにその声を使ったのです。
本作では戦争というものに巻き込まれていったアナウンサーたちの姿を描きます。
アナウンサーの言葉は真実を伝えるべきものであるのに関わらず、軍の都合が良いことを話さなければならないことに苦悩する人。
言葉の力に溺れ、日本国のために言葉を武器として使おうとする人。
そして言葉の無力さを思い知った人。
自ら望むと望まらずにも関わらず、当時のアナウンサーたちは戦争に加担しなくてはいけない状況でした。
それは否定できないこと。
彼らの言葉によって、戦地に向かっていた者も多くいたことでしょう。
このような物語を、そこに関与していたNHKが語るというのは勇気がいることだと思います。
当時の人々はすでにいないわけですが、自組織の汚点を語るわけですから。
ただ組織として、しでかしてしまったことを、反省する気持ちを表する事は大切な事だと思います。
昨今、テレビ局などがいろいろしでかしてしまった不始末が多くあります。
普段、誰かが起こした事件などは根掘り葉掘り報道するわけなのに、自組織のしでかしたことに対しての反省は驚くほど弱い。
そのほとんどは民放が多いのですが、彼らは全て戦後作られた組織です。
NHKが背負っている、戦争に加担してしまったという十字架は彼らにはない。
逆にNHKは十字架があるからこそ、その態度は真摯にならざるを得ない。
この違いが、不手際が起こった時の、各社の態度に出ているような気がしました。

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