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2024年8月31日 (土)

「ねこのガーフィールド」ドタバタコメディ、最後にホロり

娘が見たいということで、お付き合いで鑑賞です。
オレンジ色のねこ、ガーフィールド。
見たことはある。
調べてみると、40年以上の歴史もあるねこのキャラクターとのこと。
「映画もあったような・・・」という朧げな記憶もあったのでさらに調べてみると、「ガーフィールド」「ガーフィールド2」と2作ほどありました。
これは実写と3DCGの合成らしい。
なので今回の作品よりもガーフィールドは少しリアルタッチのようですね。
さて、本作です。
感想書きたいところなのですが、すみません、何度か寝落ちをしてしまい・・・。
娘は楽しんでしたようです。
ガーフィールドは完全インドア派で、ソファに座ってテレビを見ながら、カウチポテトするのが大好きというキャラクター。
アメリカンな感じがしますね。
そのガーフィールドが、慣れない外に出ていって大冒険をするという話。
基本は伝統的なアメリカのアニメのようなドタバタコメディで、それに加えて親子のホロリとされるようなエッセンスが入っています。
大人にはちょっと物足りないかな。

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「夏目アラタの結婚」見るものを思い込みを裏切る

こちら試写会で鑑賞です。
主人公夏目アラタは児童相談所の職員ですが、児童との相談を重ねるうち、連続殺人犯からある秘密を聞き出さなければならなくなりました。
その殺人犯、真珠と面接をするも、彼女は得体がしれなく、その本音が引き出せません。
そのため、成り行きで彼女にプロポーズをしてしまいます。
<ここからネタバレあり>
アラタが真珠と初めての面接をした時、彼女がつかみどころなく、何を考えているかわからない印象をアラタも我々観客も受けます。
アラタのモノローグで、真珠のことをトラップをさりげなくかけてくるため、非常に頭が良いと評しています。
ここに本作最初で最大のトリックがあると思いました。
彼女の脈絡のない行動を見ていると、そこに実は裏があるのではないかと勘ぐりたくなります。
そこにはこのようなシチュエーションにふさわしいキャラクターを、見ている人たちはイメージしているのではないでしょうか。
そうです、「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターです。
ご存知のように彼は非常に頭が切れ、獄中に居ながらも、さまざまな謎を明らかにします。
また彼は檻の中から人々の心理を操ります。
そして真性のシリアルキラーです。
見ている側は知らず知らずのうちに真珠にレクターを重ね合わせ、彼女の行動・発言に全て裏があるのではないか、と考えます。
最後に明らかになりますが、彼女は最初から最後までまっすぐ出会ったのですね。
いつか、自分のことをちゃんと見てくれる人が、救い出してくれる、と思ってきた。
ただ、それだけ。
舞台挨拶の時、上映前だったのではっきりとした言い方ではなかったのですが、真珠を演じた黒島結菜さんが「真珠は最初から最後まで変わらない部分があるということを大事に演じた」とおっしゃっていました。
その時は、その言葉の真意がわからなかったのですが、映画を見終わった後に、わかりました。
人は他人を何かしらのレッテルを貼ってみてしまいがちです。
劇中でも真珠は「憐れんだ目で見るな、かわいそうって目で見るな」と言います。
そして「アラタだけが、お前は人殺しだ、と本当の自分をわかってくれた」とも言います。
彼女をサポートする弁護士は、彼女を保護されるべき人という目で見ます。
それもレッテルです。
そして彼女はレクターのような人物である、という見方もレッテルでしょう。
本作は、人は知らず知らずのうちに、レッテルを貼りながら人を見てしまうということを使った、メタなトリックがあると思ったわけです。
これはもう一度、見てみると真珠の行動・発言を貫いている彼女の気持ちが浮かび上がってくるような気もします。
同じく舞台挨拶で堤監督が、本作は今までの作品の中で最も編集に苦労したとおっしゃっていました。
見終わるとそれも理解できます。
ちょっとした表情を変えたり、カットを増やしたり、減らしたりするだけで、真珠の一貫性は保てなくなりそうなバランスの難しさがあるような気もします。
本作はサイコミステリーだと思わせておいて、ボーイミーツガールなラブストーリーでした。
真珠は部屋に入ってきた時から、アラタが自分を救い出してくれる王子様であると確信しました。
全てが見事に回収されて圧巻のラストであったと思います。

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2024年8月24日 (土)

「フォールガイ」スタント愛

こちらの作品、監督はデヴィッド・リーチ。
彼はもともとスタントマン出身で、今まで「デッドプール2」や「ブレット・トレイン」などのキレキレかつぶっ飛んだアクション映画を撮ってきました。
個人的には「ブレット・トレイン」は大好きで、凝ったアクションシーンも素晴らしいですが、映像の独特のトーンも好きでした。
本作見た時の最初の印象は、これまでの監督の作品の比べて、トーンも物語の展開も含めて王道であるように感じました。
それもそのはずで本作の原作は80年代に放映されていたTVドラマ「俺たち賞金稼ぎ!!フォール・ガイ」ということです(私は見ていませんが)。
本作では、事件が起こって、主人公が巻き込まれ、それと並行してラブロマンスも進んでいく、という展開ですが、これが80年代的なわかりやすいストーリテリングのため、王道的な印象を受けたのだと思います。
設定などは現代に合わせてかなり変わっているようですが、ストーリー展開から感じる懐かしい感じは、もともとの原作が持っている80年代らしさが滲み出ているのかもしれません。
あと懐かしい印象を感じるのは、数あるアクションシーンが、従来のようなフィジカルなスタントで表現されていたことかもしれません。
高所からの落っこち、ヘリコプターアクション、カースタントの大ジャンプなどなど・・・。
「マトリックス」以降、ワイヤーやCGを使った別次元のアクションが生み出されて、それらが定着しましたが、本作はそれ以前のフィジカルなスタントがメインに描かれています。
これはそもそも本作がスタントマンが主人公であること、そしてデヴィッド・リーチ監督がスタント出身であり、思い入れがあるということもあるでしょう。
実際、アクションシーンの際のスタントマンたちの様子も窺える場面もあり、彼らに対するリスペクトも感じます。
期待していたトーンとは異なりましたが、アクションとそれを支えるスタントマンたちのへの愛が感じられる作品です。

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「インサイド・ヘッド2」良いところも、悪いところも自分自身

感情のキャラクター化ということにチャレンジし、見事なストーリーを紡ぎ出した前作「インサイド・ヘッド」。
米国でも日本でも興行は好調のようです。
それもさりありなん、続編である本作も前作同様に見事な出来栄えです。
少女ライリーの頭の中でヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリ、ムカムカはワンチームで、ライリーの幸せのために奮闘していました。
しかし、突然司令室に鳴り響く警報!
それは思春期警報でした。
皆、経験あるように思春期は心の様相が大きく変わる時期です。
そしてそのこと自体に自分自身も翻弄されます。
そんな思春期を迎えたライリーの中に現れたのが、新しい感情たち。
シンパイ、ダリィ、イイナー、ハズカシです。
シンパイはネガティブな未来のことばかりを考えてしまう感情。
これは悪いわけではなくて、予想される未来に対して何か対策をしようという原動力にもなります。
ただ心配ばかりしてしまうと、かえって何も動けなくなったりもします。
ダリィは不貞腐れて、冷めた感情ですね。
これも思春期ならではでわかります。
イイナーは人を羨ましがる気持ち。
憧れる気持ちかもしれません。
これは行動力にもつながるかもしれませんが、空回りしてしまうことも。
そしてハズカシ。
これはあまり目立ちたくないという気持ち。
人と比較してしまい、自分の悪いところ、いけてないところばかりが気になってしまう気持ちですね。
いずれも思春期らしい感情で、それが魅力的なキャラクターになっています。
従来の感情に加え、この新しい感情がバランスをとっていく、というのが大人になっていくということなのでしょう。
でも思春期というのは、そのバランスがうまく取れないという時期なのですね。
その感情の混乱が本作では描かれます。
ヨロコビたちは自分たちがライリーの美しい<ジブンラシサのはな>を守ろうとします。
しかしシンパイたちは新しいライリーの<ジブンラシサの花>を育て始めます。
その花は不安定で、揺らぎがあります。
この揺らぎは思春期の不安定さを表しています。
この時期は自分自身が他の人と比較して、優れていると思えることもあれば、逆に全く箸にも棒にもかからない人間とも思えてしまうことがあります。
最高と最悪の間を揺れ動く感じですよね。
特に最悪の気分の時は、自分が欠点だらけのダメ人間に思えてしまいます。
この最高と最悪を行き来することが、<ジブンラシサの花>の揺らぎで表現されているのでしょう。
ヨロコビたちは完璧な花こそがライリーらしさと初めは考えていますが、いい部分も悪い部分も不安定さも含めてライリーらしさと気づきます。
まさにこれは人が思春期を経て、自分らしさということを見出していく過程でしょう。
良いところも、悪いところも含めて、自分自身として受け入れられる。
それが大人になるということなのですよね。
自分のことで言ってしまうと、自分のインサイドヘッドでは、おそらくシンパイがリーダーのようになっているんだろうなと思います(笑)。
良くも悪くも心配性なので。それでうまくいく場合もしんどい場合もありますよね。
それも自分。

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2024年8月23日 (金)

「クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記」モアおバカ度

「クレヨンしんちゃん」の映画というと割とナンセンスというか、おバカな設定というイメージがあったので、テーマが恐竜と聞いた時は、真っ当だなという印象でした。
子供たちと子供の恐竜の交流というと「ドラえもん」的なイメージがあるんですよね。
普通のサラリーマン一家の家に恐竜がいるっていうのも十分非日常ではあるのですが、ロボとーちゃんとか、世界サンバ化計画とかに比べると、おバカ度が少ないというか・・・。
個人的に「しんちゃん」に期待しているのは、おバカ度がどのくらいかというところがあるので、その点では物足りない印象でした。
「しんちゃん」の映画の魅力はおバカであるのにも関わらず、なぜか泣かされるという落差にあると思っているのです。
本作ももちろん泣かされるところはあります。
ただ、先ほど書いたような落差はないので、「ドラえもん」的な感動といった感じで、「しんちゃん」らしさは薄かったかな。
好きだったのはしんちゃんの愛犬シロの描写で、自分の境遇と重ね合わせて恐竜ナナに気を遣っている様子が、何とも可愛らしかったです。
ラストはしんちゃんより、シロの方に共感してしまいました。
当然、来年も「しんちゃん」の映画はあると思うので、その時はもう少しおバカな感じでお願いしたいものです。

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2024年8月20日 (火)

「ツイスターズ」異なる主人公像

1996年の竜巻映画「ツイスター」の続編です。
前作と同様に、竜巻を追うストーム・チェイサーたちが登場しますが、ストーリー的な繋がりはありません。
唯一関係があると見られるのは、主人公ケイトたちが学生の頃に使っていた実験器具が「ドロシー」で、これは前作の主人公であったジョーたちが開発したもの。
彼らのお下がりをケイトたちは使っていたのでしょうか。
ちなみにケイトたちが新しく使う竜巻の解析装置にはスケアクロウ(かかし)、ブリキなど名前が付けられており、「オズの魔法使い」繋がりになっています(ドロシーは竜巻でオズの国に行ったので)。
前作と本作はストーリーとしては繋がりはほぼないわけですが、主人公像は対照的です。
前作の主人公ジョーは幼い頃に大竜巻により、愛する父親を亡くしました。
それが彼女にとってトラウマとなり、竜巻に彼女は固執します。
竜巻を追えば、父親に会えるような気持ちもあったのかもしれません。
そしてまた竜巻は父親を奪った敵でもあり、彼女にとってそれは怒りの対象でもありました。
対して本作の主人公ケイトにとっては、竜巻は恐れの対象です。
血気盛んな学生時代、彼女の判断のミスにより、仲間たち、恋人が竜巻に命を奪われます。
ジョーと同様に、ケイトも愛する者を竜巻に奪われたのです。
ケイトにとっても竜巻はトラウマなのですが、かつての自分が功名心で陥った過ちを見せつけてくる存在なのです。
彼女はそれから逃げ出しました。
ジョーは幼く無力だったため、父親を奪った竜巻に対してなす術はありませんでした。
だからこそ、大人になって対抗する力を持った時、その竜巻を制御しようと思ったのでしょう。
ケイトは竜巻がトラウマになった時、十分に大人であ離ました。
友人たちの命を奪ったのは、無論竜巻でありますが、そのきっかけとなったのは、自分自身だったのです。
ですから彼女の気持ちはジョーのように竜巻に向かうのではなく、自分自身に向かったです。
このように、同じく竜巻を扱い、それらを追うストーム・チェイサーたちを描いていますが、この2作品の主人公の違いを見てみても面白いのではないでしょうか。

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2024年8月18日 (日)

「仮面ライダーガッチャード ザ・フューチャー・デイブレイク」感じないダイナミズム

テレビシリーズはすでに最終版を迎えている「仮面ライダーガッチャード」の劇場版です。
令和ライダーとなってすでに「仮面ライダー」も5作目となっていますが、今期の「ガッチャード」は個人的には最も物語にのれていない作品となってしまいました。
平成以降の「仮面ライダー」は一年間を通して、縦軸のストーリーが非常に強い構成になっています。
対して「スーパー戦隊」シリーズは一話完結的な構成が強い傾向にあります(昨年の「キングオージャー」は例外的に縦軸のストーリーが強かった)。
「仮面ライダー」の縦軸のストーリーは時に驚くべき展開となり、一年間を通してダイナミックさを生み出してきました。
「ガッチャード」はその縦軸のストーリーが相対的に弱い印象です。
主人公宝太郎の全てのケミーと仲良くなる、という願いは縦軸の要素ではありますが、それによって他の人々や世界に大きな変化をもたらすものではありません。
中盤以降、グリオンや冥黒王たちが登場して、ストーリーにテコ入れは入りましたが、彼らの目的もいまいちはっきりとしません。
グリオンの言う黄金境とはどういう世界なのでしょうか。
無論縦軸が弱いのはいけないというわけでありません。
一話完結的なストーリー展開も良い作品はたくさんあります。
「ガッチャード」でも加治木のエピソード(9、10話、44、45話)はとてもエモくて良い話でした(この辺りはさすが長谷川圭一さん)。
「ガッチャード」で気になったのは、冬の映画の時にも書きましたが、あらかじめ映画やスピンオフを見越した展開となっており、それらがあまり本筋には影響を与えないことです。
冬の映画ではテレビで登場した錬金連合の話が劇場版で回収されましたし、本作で再登場したガッチャードデイブレイクもテレビシリーズの登場が前振りのようなものでした。
仮面ライダーレジェンドもスピンオフを見ていなければ、テレビシリーズでは突然登場したキャラクターに見えたことでしょう。
デイブレイクはタイムトラベル、レジェンドは並行世界というギミックを使っていますが、これらの設定も便利に使いすぎだと思います。
「電王」では時を旅するということの意味、記憶というもの意味がテーマになっていましたし、「ディケイド」では並行世界という設定が物語に大きく結びついていました。
本作はタイムトラベルも、並行世界もただの便利なツールのように深く考えられないで作られているように思います。
本作では錬金術が重要な存在ですが、これがもはや何でもありの魔法となっている感じがします。
本来は錬金術ならではの制約(某漫画のような等価交換の法則)などがあった方がより盛り上がったような気がします。
どうも一貫してどのような話にしたいのか、方針があまりきちんと立っていなかったというのが「ガッチャード」の印象です。
ですので、この映画に関しても最初からあまり気持ちは入らず、見てみてもただのスピンオフという程度であまり感心しませんでした。
最近の「仮面ライダー」の劇場版はこのような作品が多く、物足りない印象を持つことが多くなっています。

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2024年8月17日 (土)

「爆上戦隊ブンブンジャー 劇場BOON! プロミス・ザ・サーキット」自分のハンドルを握れ

「ゼンカイジャー」「ドンブラザーズ」「キングオージャー」と従来のスーパー戦隊シリーズの常識を覆したような作品が続いていました。
コロナ禍という前代未聞の状態の中で、新しい技術も取り入れながら、時代の閉塞感を打破しようという気概が、制作者にもあったのかもしれません。
コロナも落ち着き、平常が取り戻されてきた今年は、スーパー戦隊シリーズも、原点に回帰したような作品を送り出してきました。
それが「爆上戦隊ブンブンジャー」です。
このシリーズを見続けてきている自分としては、原点回帰なのですが、この2、3年でエントリーしてきた子供達には新鮮に見えるかもしれません。
主人公のレッドは頭脳明晰で、仲間を思う気持ちが強いリーダーシップを持つ、範道大也、ブンレッド。
最近のスーパー戦隊の中では、典型的なレッドなキャラクターですね。
他のブンブンジャーもそれぞれがプロフェッショナルな能力と個性があるメンバーが揃っています。
そういう意味では非常にスーパー戦隊らしい構成です。
ただ、今の時代を表しているなと思える部分もあります。
大也は「自分のハンドルを握れ」というセリフをしばしば言います。
これは自分自身がやりたいことを考え、実行していくのが、自分の人生であるということです。
この時代、さまざまな情報が溢れていて、非常に流されやすい。
大也はリーダーではありますが、メンバーのそれぞれの個性を非常に大事にします。
そしてその個性をいかに発揮させることができるか、そしてそのメンバーがイキイキと活躍できるのか、ということを考えています。
これは今の時代の理想の上司像にも通じるものがありますね。
子供たちも流されやすく、人と違ったことをやりたがらない。
おとなよりも同調圧力が強いのではないかと思うほど。
本作はそれぞれが違ってていい、ということを伝えてくれているようにも思います。
ちょっと話題が映画から離れてしまっていますが、映画の方は尺もちょっと短めなので、テレビシリーズの一つのお話、といった体です。
本作に登場する惑星トリクルの王女二コーラも自分の生き方を決められなかった少女です。
彼女はブンブンジャーと出会い、自分がやるべきと考える人生を歩み始めます。
最近の中では王道なスーパー戦隊である、「ブンブンジャー」。
子供達にはどんなメッセージが伝わるでしょうか。
個人的に好きなキャラクターはブンオレンジ。
大人の余裕を感じさせるキャラクターが新鮮です。

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2024年8月16日 (金)

「もしも徳川家康が総理大臣になったら」自分に期待しろ

正直、見る前は色物だと思っていたのですが、意外にも現代政治へのアンチテーゼとも言える作品でした。
本作では我々も経験したようなコロナ禍の中、総理大臣や閣僚が次々に罹患して死亡。
その後、後継の政権としてAIによって過去の偉人たちを復活させ政治を行わせるという奇策が打たれたのです。
すなわち、総理大臣に徳川家康、財務大臣は豊臣秀吉、経済産業大臣に織田信長。
その他にも坂本龍馬、紫式部、北条政子、足利義満、聖徳太子、徳川吉宗に徳川綱吉、といういずれも歴史に名を残した偉人たちが閣僚となり、政治に辣腕を振います。
彼らが行う政策は奇策ではありません。
パンデミックを防ぐための都市封鎖、それにより収入がなくなった人々に向けての大規模な給付金。
その資金の一部は企業に背負わせ、また食料自給と職を増やすために農業振興を行う。
大胆ではありますが、奇策ではありません。
しかし、これには国民それぞれに痛みが伴います。
現実の政治ではこのようなことは行えません。
痛みを真摯に説得できる政治家もいなければ、それを理解しようとする選挙民もいません。
野党はただ反対のための反対をしているだけで、代案を出すことはありません。
政治家が見ているのは国民の顔色で、国民は考えることを放棄して政治家に丸投げをしています。
どうしてこうなってしまったのでしょうか。
本作の中で「自分に期待しろ」というセリフが出てきます。
人々は圧倒的な現実、出来上がってしまったシステムを前にして無力感を持ち、何か課題があっても、自分の力ではどうにもならないという諦念を持っているのかもしれません。
それだからこそ、人まかせになってしまう。
人に任せて無責任になっているから、いくらでも文句は言えてしまう。
だから政治家は国民の顔色ばかり伺い、衆愚政治になっていく。
でもそれで国の良い舵取りができるとも思えません。
やはり国民一人一人が自分なりに考える、ということが必要なのですね。
「自分に期待しろ」という言葉は、自分が何を望んでいて、自分が何ができるのかということを考えるべきということです。
何も考えないから、他人がどうにかしてくれる、と他人に期待してしまうのです。
難しいことを考えられないかもしれないですが、どの人を選ぶのが良いのか、ということくらいは考えてもいいかもしれないです。
そんなことを考える機会を与えてくれた作品でした。
劇中で豊臣秀吉が言っていた「決める、任せる、責任をとる」は上に立つ者が持つべき、考えだなと思いました。
自分的にはこれは仕事でも実践しようと思いました。
勉強になりました。
彼ら偉人ジャーズのテーマソングが「大江戸捜査網」というのも笑いました。
これ、笑える人はある年齢以上ですよね。

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「デッドプール&ウルヴァリン」マーベルの神

昨今スーパーヒーロー疲れ、マーベル疲れと言われ、興行がやや停滞しているMCU。
個人的には全作品追っかけているマーベルファンなので、全然疲れてなどいないのですが、そう世間で言われるのもわからなくもない。
特に最近はマルチバース化して物語も複雑になってきているので、見るのにもエネルギーがかかるのも確か。
さて本作「デッドプール&ウルヴァリン」は公開前から、低迷しているMCUを救うかもと言われており、実際公開後のスタートダッシュは素晴らしく、関係者はホッと胸を撫で下ろしているところでしょう。
ご存知の通り「デッドプール」は20世紀フォックスで1,2作目までは公開されており、ディズニーがフォックスを買収したことにより、MCUに組み込まれました。
なぜ「デッドプール」はMCUを救う救世主となったのでしょうか。
冒頭で触れたようにフェイズ4以降のMCUはマルチバース・サーガと呼ばれているように、マルチバース化が進んでいます。
マルチバース化は大きな可能性を秘めている設定です。
「ロキ」的に言えば、フェイズ3までのMCUは単一の時間軸、すなわち神聖時間軸のみで展開されていました。
これは単一の時の流れなので、見ている我々もその歴史の中にいる感覚で見れるので見ている方としてはわかりやすい。
しかしフェイズ4から導入されたマルチバースは、複数の並行宇宙があるという設定なので、必然的に観客の視座はもっと高次にならざるを得ません。
「ホワット イフ・・・」のウォッチャーのような視座ですね。
あまり深く考えなければいいのですが、ちょっと解釈しようとすると結構頭を使います。
それが見ていてしんどいという感覚になるのかもしれません。
そこでデッドプールです。
このデッドプールは特殊な能力を持っていて、第4の壁を突破することができます。
彼は自分が作り物であることを知っていて、それをメタな話として語ることができるのです。
「デッドプール&ウルヴァリン」という作品はマルチバースとしては結構複雑で複数の世界を股にかけ、かつ時間も越える展開になっています。
なので考え始めるとかなりまた頭を使うのですが、デッドプールがそれら複雑さを皮肉混じりに笑い飛ばしているので、観客もあまり考えずに見ることができます。
マルチバース・サーガとなって一見複雑になってしまっているが、そんなの気軽に見ればいいじゃん、とデッドプールは言っているようです。
デッドプールが長年にわたって積み上げられてしまったMCU敷居の高さをぶっ壊しているように思いました。
とはいえ、この作品は敷居の高さを低くしただけではなく、コアはファンに対しても楽しめる要素を用意しています。
個人的に一番笑えたのは、キャップを演じていたクリス・エヴァンスが登場し、かつ「フレイムオン!」と叫んでくれたところですね。
これについてはすでに色々なところで書かれているので、ネタバレしますが、かつて20世紀フォックス作品として公開された「ファンタスティック4」で若き日のクリスがヒューマン・トーチというヒーローを演じていたことが元ネタになっています。
今までは別の映画会社であったため、大人の事情でMCUでは触れることができませんでしたが、今や同じディズニー傘下なので堂々と触れることができます。
「デッドプール」ならではの愛あるいじり方で、大人の事情も笑い飛ばしてくれます。
そのほかにもエレクトラ、オリジナルのブレイド、チャニング・テイタムが演じるガンビットなども登場し、呆気に取られました。
「ロキ」で登場した「虚無の世界」という設定は、MCUの申請時間軸から剪定された存在が送り込まれる場所と言われています。
つまり、MCUには入れなかったキャラクターたちがいる場所と考えられ、忘れられた存在がいる場所なのですね。
そこにエレクトラやブレイド、ガンビットなどがいるというのはこの設定と実際現実で起きた出来事(フォックスの買収)をうまくリンクさせた、神がかり的な脚本だと思いました。
このように本作はデッドプールというキャラクターの特性を活かしながら、複雑化したMCU、そしてさまざまな現実世界での出来事を、アクロバティックに辻褄を合わせることができた怪作と言えます。
カオス化、無秩序化しそうなMCUをさらにカオスな存在がまとめ上げたとでも言えますでしょうか。
そういう意味でデッドプールはマーベルの神なのかもしれません。

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2024年8月15日 (木)

「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」私を月に連れてって

人類が初めて月に到達したアポロ11号の着陸映像がフェイクであるという都市伝説を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
本作はそんな都市伝説をもとに、実際にそのようなプロジェクトがアポロ計画の裏で進行していたらというお話。
スカーレット・ヨハンソンが演じる主人公ケリーは敏腕のマーケティングの専門家。
彼女は手段を選ばず、時には嘘を巧みに使いながら、人の心を誘導します。
嘘をつくのは、天涯孤独の彼女がそれしか生きる術がなかったからです。
もう一人の主人公コールはNASAのミッション責任者。
彼はプロセスを重要視します。
ロケット打ち上げは一つ一つのプロセスの積み重ねで成り立っており、そのどれかがうまくいかなければ、ミッションの成功は叶わないのです。
コールはアポロ1号の火災事故が起こったミッションにも関わっており、それが彼が手順を重視することにも影響を与えています。
ケリーと時には嘘をつくことも必要であると考えており、対してコールはたった一つの齟齬も許せない。
性格としては全く逆ではありますが、二人は互いに惹かれます。
そんな時、ケリーは政府関係者モーより米国の威信をかけたアポロ11号計画の裏で、もし月面着陸が失敗した時のために、フェイク映像を作るミッションを任されます。
入念な準備をして人が望む夢を作るこのミッションとはPR専門家としてのケリーの仕事の集大成とも言え、プロとしてやりがいのあるのものであったでしょう。
そして先に書いたようにいいように話を作って生きて来ざるを得なかった彼女の人生をも表しています。
しかし、そんな彼女は誠実に自分のなすべき事に向きあっているコールに惹かれ、そんな彼を騙していることに罪の意識を感じます。
コールの生き様は本当はケリーもそうでありたかった姿なのかもしれません。
彼女が嘘と真実、今までの生き様とありたい姿の中で揺れ動きながらも、アポロ11号プロジェクトと、フェイク映像プロジェクトが並行して進んでいく様は見応えありました。
陰謀論をベースにしたアイデアながら、60年台らしいポップさと全編包み込むコメディタッチが軽快さを生んでいて、気軽に見れる作品となっています。

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2024年8月13日 (火)

「怪盗グルーのミニオン超変身」食わず嫌い払拭

「怪盗グルー」シリーズは今まで何作か見ましたが、あまり個人的には波長が合わない印象がありました。
アメリカの3Dアニメーションというとピクサーの印象が強く、凝ったストーリー、卓越した映像で大人の鑑賞に耐えられるものイメージがありました。
ピクサーに比べると「グルー」シリーズは子供の見るもの、という先入観があったように思います。
実際、前作「ミニオンズ フィーバー」は子供にせがまれて一緒に行きましたが、何ヶ所か寝落ちした始末・・・。
ですから、「グルー」シリーズに対しては笑いのツボが合わないのかもしれないと思っていたのですが、本作は結構楽しめました。
「グルー」が変わったというより、自分の方の先入観が変わったのかもしれません。
「グルー」を制作しているイルミネーションはいくつものアニメーション作品を作っていますが、そのうちの一つで春に公開された「FLY!/フライ」については以前レビューにも書きましたが、かなり楽しめました。
そこで書いたのは、イルミネーションの作品はスラップスティック的なおかしさがあるということです。
特にこのシリーズはミニオンズたちが狂言回し的な役回りとなって、勝手に笑いをわき起こしていきます。
ストーリー的にはミニオンズのドタバタはあまり関係ないのですが(とはいえ最後には効いてくる)、彼らがお構いなしにわちゃくちゃやっている様子を見ていると次第にクセになってきます。
次第にミニオンズ、イルミネーションのおかしさに気づいてきた私。
食わず嫌いせず、他の作品も見てみようかな。

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「キングダム 大将軍の帰還」大将軍の視座

「キングダム」シリーズの4作目、最終章という触れ込みの本作、タイトルにあるように大将軍王騎が実質的な主人公とも言える物語でした。
今までの3作でも出番は少ないながらも圧倒的な存在感があった大将軍王騎、今回は自ら得物を持って、宿敵龐煖と戦います。
今までは指揮をしている姿しか見たことがなかった王騎ですが、戦士としての闘いぶりも圧倒的です。
王騎と龐煖の一騎打ちはそれだけで見る価値があるものになっています。
王騎は常に顔に微笑を浮かべ、そして冷静に戦況を把握し、指揮をする。
彼の心の奥底は微笑の影に隠されていますが、本作で彼が抱えてきた心の傷が明らかになります。
本作は王騎から信への継承の物語でもあります。
王騎は信に大将軍の器を感じ、今まで彼に思い課題を与え、そして将軍になるための心構えを解いてきました。
信はその教えを吸収し、100人隊を指揮するまでに成長します。
一騎当千となる戦士は、数は少ないながらもいます。
しかし、その中で将軍になれるものはその一部、そしてさらに大将軍になるのはほんの一握りです。
何がその違いを生むのか。
それは視座であると思います。
戦士は目の前にいる強敵だけを見る。
敵をいかに倒すかだけを考える。
将軍になれば、視座は少しは上がるでしょう。
それでもそれは自分の部隊が接する敵の軍団にまでしか及びません。
本作に登場した蒙武という将軍は、猪突猛進型の将軍でそれが秦の部隊を聞きに落とします。
大将軍の視座とは、戦場だけに限らず、その先の国と国と情勢まで、見通す目であると思います。
王騎が自分の死を確信した時、信を馬上にあげます。
そして何が見えるか、と問います。
これは王騎から信への最後の教えで、視座を高く置けということであるのでしょう。
ずっと王騎は信のことを「童(わらべ)信」と読んでいましたが、最後の時、彼を「信」と呼びました。
一人前の将軍候補として認めたということでしょうか。
秦の宿敵である趙には李牧という戦略家が現れます。
彼もまた遠くを見通すことができる大将軍の器と言えます。
やがて信と李牧が激突するのでしょう。
その時、信は大将軍の視座を獲得できているのでしょうか。
本作は最終作と言われていましたが、5作目の撮影開始が近いとの噂もあります。
ここまできたら信の行く末を追っていきたいですね。
噂が本当になることを祈りたいです。

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2024年8月10日 (土)

「フェラーリ」夫と妻の物語

マイケル・マン監督らしく骨太な見応えがある作品となっています。
フェラーリと言えば、最近の映画だと「フォードvsフェラーリ」を思い浮かべます。
実はマイケル・マンは「フォードvsフェラーリ」では制作総指揮を務めています。
マンはフェラーリに惹かれているのでしょうか。
「フォードvsフェラーリ」でも本作の主人公であるエンツォ・フェラーリは登場していて、経営危機に陥っていた際にフォードから買収を持ちかけられた時に、契約直前で破談をしたところが描かれます。
これは、フォードがレースに反対した場合はフェラーリはレースから撤退するという内容が契約にあったためと言われています。
このエピソードからもエンツォ・フェラーリのレースに対するこだわりが感じられますが、まさに本作はエンツォのレースに対する情熱が描かれます。
「フォードvsフェラーリ」でも登場人物は魅力的に描かれていましたが、本作は主人公エンツォの人物を深く掘り下げます。
そこが本作の骨太感につながっていると思います。
エンツォは心に深い闇を抱えています。
それは愛息ディーノが夭逝してしまったことの喪失感
でした。
エンツォはレーサーであり、技術者でした。
何か困難なことがあったとしても、分析し、解決方法を考え、実践していく。
そうして様々な危機を乗り越えてきました。
しかし、ディーノが患った難病に対しては為す術がありません。
彼は敗北したのです。
彼の敗北感が彼をレースにのめり込めさせます。
レースは勝ち負けがはっきりしている。
そして勝利は努力をした者にもたらされる。
彼は息子を失った敗北感をレースで取り戻そうとしていたのかもしれません。
エンツォは息子の死から逃れるためにレースだけでなく、妻ラウラから距離を置き、別の女性リナとの間に子をもうけます。
エンツォはフェラーリ社においてレースと技術的な部分を見ていますが、ラウラは経理など事務系を管轄しています。
彼らは会社においてはビジネスライクな関係で、うまく分担できているように見えますが、夫婦関係としては全くうまくいっていません。
エンツォは自分の喪失感を無意識のうちにレースと他の女性との家庭で満たそうとしていますが、ラウラ自身は喪失感を抱えたままです。
本来は夫とそれを分かち合いたいのに、それができないことがラウラを苛立たせます。
優勝したレースで、フェラーリのレースカーが観客を巻き込んだ大事故を起こし、マスコミからエンツォは非難を浴びます。
その危機を救ったのはラウラでした。
エンツォを鼓舞し、マスコミを封じ込めるための資金を提供しました。
エンツォは喪失感のため、家庭から、ラウラから逃げましたが、ラウラは危機的な状況でも夫を支えながら立ち向かいます。
本作はエンツォ・フェラーリの物語でありながら、ラウラ・フェラーリの物語でもありました。

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