「ミッシング」絶望的な無力感
自分にも小さな女の子の子供がいる。
当たり前のように繰り返される平凡な日々が愛おしく思う。
子供ができる前は自分がそのように感じることは想像できなかった。
もし突然、この子がいなくなったら、と想像するだけで身を切られるような思いになる。
本作の主人公沙織里の幼い娘が失踪した。
誰が連れ去ったのか、事故なのかもわからず3ヶ月が過ぎる。
何が起こったのかわかれば、そこに怒りが向けられるだけ楽なのかもしれない。
何もわからないからこそ、行き場のない辛さだけが募る。「もし・・・」という言葉が浮かぶ。
もし、自分がライブに行かなかったら。
もし、弟が家までちゃんと送っていたら。
自分のせい。
誰かのせい。
自分を責め、他人を責める。
自分も傷つけ、他人を傷つける。
自分の中の感情をどこにぶつけていいかわからず、自分の中でどす黒く沈殿していく。
それはマグマのように感情の中にたまり、突如爆発する。
周囲の攻撃から身を守るために暑くなった岩盤を期待は薄くする。
薄くなった岩盤は失望でマグマに破られる。
溢れ出た失望は沙織里に叫び声を上げさせる。
メディアやネットでは自分たちを容赦なく、責め立てる。
当事者の苦しみを理解することなく、原因を論う。
正論を言っているつもりで、当事者を遠慮なく傷つける。
沙織里は彼らにも翻弄される。
傷つけられるのをわかっていながら、それらに縋る。
その中のどこかに希望があるのではないかと望みを持ちながら。
しかし、その望みはしばしば裏切られる。
我が子が見つかったという情報があり警察に駆けつけるが、ガセだとわかり、沙織里は失望のあまり失禁までしてしまう。
この場面は見ていて、あまりに辛い。
沙織里が感じているのは、孤独だ。
我が子を失った悲しみ、それが自分のせいかもしれないという後悔、周りの全てへの怒り・・・。
何が悪かったのか、それすらもわからないことへの無力感。
これは身近な夫とも全ては共有ができないと思っている。
この絶望的な孤独感が全編を通して描かれている。
救われるのは、もう一人沙織里と同じように自分を責めて過ごしてきた弟、圭吾に対して、彼も同じような思いであることに気づけたところだろう。
絶望的な悲しみも後悔も、一人で背負うのでなければ、互いに救われるような気がする。
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