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2024年7月27日 (土)

「朽ちないサクラ」戦いの始まり

警察署の広報職員が主人公というのが、興味深い。
主人公森口泉は捜査権のない行政職員だが、親友の変死をきっかけに事件に関わるようになる。
そして、彼女はその事件の背後にあるさらに大きな陰謀を解き明かしていくことになるのだ。
警察ものでは、主人公の警察官は自分なりの正義があり、それを為すために犯罪者と対峙するというのが、定番である。
しかし、本作の主人公森口には、物語の初めはそのような正義感は感じられない。
どちらかというと、たまたま事務職で就職した先が会社ではなく、警察であったというような。
たまたま職場で見聞きした話を、友人にここだけの話と、言って話してしまうような娘であった。
しかし、友人の死が自分の放った一言が原因であると悔やみ、その贖罪の意識からか、森口は事件の捜査を独自に始める。
この時、彼女にはまだ、正義という行うという意識はなかったと思う。
少しでも自分が行ったことがどのように友人の死につながったのか、ということを明らかにしたいという極めてプライベートな動機であったのだろう。
彼女は友人の死に対する責任を感じているからか、劇中ではほぼ笑わない(ただし友人との回想シーンでは、よく笑っているので、元々そのような性格でないことはわかる)。
しかし、友人の死の真相を追っていく中で、次第に意識が変わっていくようにも思えた。
事件に関わっているらしいカルト教団、そしてさらに事件を影で操っている者の存在・・・。
黒幕と対する時、彼女の佇まいには静かな怒りのようなものがあった。
彼女の中で正義感が目覚めていくように感じた。
物語の最後に森口は警察官を志す決心をする。
私はそれが、彼女の「戦いの始まり」だと思った。
タイトルにあるサクラは、公安を指す隠語であることは、警察小説好きとしてはすぐに察しがついた。
それに「朽ちない」とつくので、おおよその展開は想像がつく。
森口の戦いは彼らとの戦いなのだろうか。

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2024年7月23日 (火)

「ディア・ファミリー」それで、次はどうする?

娘を救いたいという一途で諦めない気持ちが、やがて多くの人を救っていく。
バルーンカテーテルという医療機器があるとはこの映画を見るまで知りませんでした。
血が流れにくなった血管を血管の内側から細いバルーンで広げて、血を流れやすくするものです。
この機器は多くの人を救っています。
本作は日本人の体格にあったバルーンカテーテルを開発した男とその家族の物語です。
主人公宣政は小さなプラスティック製品を製造する町工場を経営しています。
彼の次女、佳美は生まれつき心臓に疾患を抱え、20歳まで生きられないと告げられます。
どの医療機関からも治療は断られた結果、宣政は医療知識はありませんでしたが、自力で人工心臓を開発を決意します。
しかし、その開発は困難を極めました。
なにしろアメリカの最先端の大学ですら、成功していない技術なのです。
それでも宣政は諦めずませんでした。
試行錯誤の末、人工心臓のプロトタイプはできますが、ここに大きな壁が立ちはだかります。
医療機器ですから、実用化をするには臨床試験は欠かせません。
しかし、そのためには莫大な資金がかかり、大学病院の協力が欠かせません。
その協力が得られず、人工心臓は実用化できません。
それはすなわち、娘の佳美を救えないということを意味します。
しかし、佳美は自分の命はいいから、父親の培った技術を使い、多くの人を救ってほしいと言います。
娘の命は救えない。
しかし、娘の願いは叶えられるかもしれない。
宣政は改めてバルーンカテーテルの開発に着手します。
人工心臓の開発時のノウハウはあるにせよ、この開発も困難の連続です。
宣政は娘の願いを叶えられるのでしょうか。
佳美の家族は彼女の命を救いたいと思い、一致団結して宣政の活動を支えます。
それでも彼らの前に多くの困難が立ちはだかります。
その時、彼らはそこから逃げず、前向きにこう言います。
それで、次はどうする?」
いくらやってもうまくいかないことはあります。
その時、そのまま諦めるか、それとも他の方法をトライしてみるか。
娘の命が救えないとわかった時、それは完全に目的を叶えられないとわかった時ですが、その時彼らは真の目的は佳美の思いを叶えることだと考えを変えることができました。
彼女がいたからこそできたことを成し遂げる。
それは彼女が生きたことを残すことにもなるのでしょう。
このように本当に叶えたいことはなんなのか、ということまで考えられることはなかなかできません。
彼ら家族はあくまで前向きに自分たちが直面していることと対峙することができました。
本作が素晴らしいと思ったのは、彼ら家族の思いが、彼らのうちだけにとどまっているものではなかったからです。
宣政が一緒に人工心臓を開発した大学の研究員たちは、プロジェクトが終わった時、それぞれ別の道に進みます。
けれど、やがて宣政が作ったバルーンカテーテルを支持し、それを活用して、多くの人を救います。
そして、本作の冒頭で宣政にインタビューをしていた女性。
物語の最後に彼女も宣政のカテーテルで命を救われた患者であったことが明らかになります。
おそらく宣政と人工心臓を開発した元研究員が救った女性だと思われます。
亡き娘の思いは消えず、広がって、多くの人の命を救い続けていることが伝わってきます。
ラストの一連の描写は、脚本も演出も見事であったと思いました。

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2024年7月20日 (土)

「違国日記」二人の成長

子供からある時、大人になるっていうものではないのかもしれない。
子供から大人への変化はグラデーションで、徐々に徐々に変わっていく。
主人公の一人、朝はある時、両親の事故により子供から大人にならなければいけない環境に放り込まれます。
けれど、突然大人になれるわけもなく、子供のような不安を抱えながら、もう一人の主人公槙生やさまざまな人々と出逢いながら成長していきます。
朝はとても大事に育てられたようで、周りの高校生に比べてちょっと精神的にも幼い感じもありますが、性格的には非常に素直で交流をしながら、学んでいくのです。
朝を演じている早瀬憩は映画主演は初めてということですが、フレッシュさもありながら、大人にならなけれいけない不安と子供らしい無邪気さを両立させた演技もできており、今後期待できますね。
もう一人の主人公槙生という少女小説家。
彼女は朝の母、つまり自分の姉に対して許せないという気持ちをずっと持ち続けています。
槙生は子供の頃より、普通の人のようにきっちりと物事をやるということができない子で、ひたすら物語を書いていました。
設定では、槙生は発達障害的な要素があるようです。
姉はそんな普通じゃない妹が認められなかったのですね。
そのような自分の境遇からか、槙生は朝に対しては、子供のようには接しません。
子供ではなく、一人の人間として対等に相対します。
いくら子供であっても、槙生は自分の気持ちをごまかさず話します。
自分の中でも整理できないこともなんとか言葉にしようとして、真摯に向き合います。
いいからやりなさい、とは言いません。
朝がさまざまな出来事に直面し、悩み、傷ついても、彼女と対等な立場で意見を言います。
自分が正しいとは言いません。
自分はこう思うと言います。
このようにひとりの人間として朝を扱うことが、結果として朝を成長させていきます。
そして槙生も、次第に朝に対して愛情を感じていくようになっていきます。
憎んでいる姉の娘であっても。
そして朝と暮らしていく中で、姉も娘を深く愛していたことに気づきます。
愛し方は違っても、朝を愛しているという点において、初めて槙生は姉を許容できるようになります。
それは槙生にとっても成長であるかもしれません。
この槙生を演じているのが新垣結衣さんですが、昨年の「正欲」に続いて、明るさを抑えたぶっきらぼうな演技で、最近の新垣さんは新境地を開拓しているように思えます。
自分にも子供がいますが、成長していくに従い自我が強くなり、ぶつかることも出てきます。
親はどうしても、こうしなさい、と言いたくなりますが、やはり子供の個性は潰したくないという思いもあり、グッと堪えようとしてます。
槙生と朝の関係は一つの理想的な関係であるなと思いました。

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2024年7月19日 (金)

「告白 コンフェッション」均衡と不均衡

作品の尺としては1時間15分程度と最近の映画の中ではかなり短い部類となる作品です。
ただ短さは感じさせないような濃密な緊張感がある作品に仕上がっています。
主な登場人物は主人公浅井とその友人のジヨンの二人だけ。
そして舞台が雪山の小さな山小屋という限定されたシチュエーションです。
かなり制約がある状況の中で、何がこのような緊張感を醸し出しているのでしょうか。
一つは二人の登場人物の間の不均衡、アンバランスさであると思います。
浅井は大学時代より登山部のリーダーであり、その容姿の良さから女性の目を引く存在であったようです。
ジヨンが憧れの気持ちを持つ女性さゆりも浅井と付き合っていました。
浅井とジヨンは持つ者と持たざる者の関係です。
その格差は二人の間に埋めきれぬ溝を作ります。
特に持たざる者においては、持つ者に対する劣等感や妬みなどのマイナス感情が澱のよう溜まっていきます。
その檻が溢れ出た時、二人の間の関係は崩壊します。
圧倒的な怒りによりジヨンは狂気的な暴力に走りますが、この狂気により二人の不均衡は逆転します。
これが緊張感を生んでいます。
もう一つ緊張感を生んでいるのが均衡です。
ジオンは怪我自体とその処置ミスによって、ほぼ片足が使えないという状況になっています。
対して浅井は有利かというとそうではなく、彼は高山病にかかり目がよく見えないという状況に陥っています。
舞台となるのは小さな山小屋ではありますが、それぞれに不利な条件を背負っており、思うように行動することができません。
どちらも圧倒的に有利になることができないのです。
その均衡も緊張感を高めている効果があると思います。
この不均衡と均衡がそれぞれに作用して、濃密な緊張感を生み出しています。
さらに浅井だけが知っている真実もあり、それを彼が隠さなければならないということも緊張感を増強しています(詳しくは書けませんが、その秘密も2段重ねくらいになっています)。
このように本作は緻密に計算、構築されており、コンパクトながら濃密な緊張感が味わえる作品となっています。

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2024年7月13日 (土)

「ブルー きみは大丈夫」邦題がミスリードを引き起こす

のっけから言ってしまうと邦題が良くないと思います。
原題は「IF」ですが、これは「Imaginary Friend(空想上の遊び友達)」の略で、「If(もしも)」との掛け言葉になっています。
主人公の少女ビーは、一時的に祖母の家にやってきますが、その時不思議な生き物(?)たちを見かけます。
それらは本作に登場する人物たちのイマジナリーフレンドで、彼女はその姿が見えるのです。
邦題のブルーもそのようなイマジナリーフレンドの一人(?)なのですが、主人公ビーのIFではありません。
「きみは大丈夫」という言葉はブルーが発するものですが、これもビーに向かって言われた言葉ではありません。
その姿形から「となりのトトロ」のトトロを思い浮かべてしまいますが、そのような重要な役回りではないのですね。
本作の主人公ビーは幼い頃母親を失い、そしてまたもしかすると病気で父親も同じように失ってしまうのではないか、という恐ろしさを感じています。
彼女は幼い頃、彼女と遊んでいたイマジナリーフレンドのことをすっかり忘れていますが、なぜか彼らが見えるようになったのです。
これは憶測ですが、父親を失うかもしれないという不安が、彼女を母親を失った幼子のような気持ちに戻し、そのため彼らが見えるようになったのではないでしょうか。
登場するイマジナリーフレンドたちは、物語が進むにつれ、登場人物たちのかつての相棒であったことがわかります。
彼らは人間たちが忘れてしまっていても、傍らで見守っていたのですね。
ビーたちはイマジナリーフレンドとかつての人間の友達を再開させようと奮闘します。
そこで湧き上がってくる疑問がビーのイマジナリーフレンドは誰なんだろう、ということ。
そここそが本作のラストの趣向なのですが、「ブルー」という邦題がそういうことに目を向けさせにくくしてしまいます。
多くの人はこの邦題を見て、途中まで見るまではブルーこそがビーのイマジナリーフレンドなのではないかと思うのではないでしょうか。
物語だけを見るとそのようなミスリードはさせるような構成にはなっていないのですが、邦題が悪さをしています。
この邦題は誤った方向にミスリードさせる可能性があります。
このミスリードによってラストの趣向が分かりにくくなっているような気がしました。
勿体無い。

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2024年7月12日 (金)

「トラペジウム」イタさも含めて人間らしさ

先日結婚を発表した元乃木坂46の高山一実さんの小説のアニメ化作品です。
そもそもアイドルにはほとんど興味がなかったのですが、予告編を見て気になって見に行ってきました。
タイトルのトラペジウムとは聞きなれない言葉ですが、調べると不等辺四角形という意味のようです。
これは本作の中心となるアイドルグループ「東西南北」の四人のメンバーのことを指しているのでしょう。
また、オリオン星雲の中にある4つの重星もその形からトラペジウムと呼ばれるそうです。
そういえば、映画の中でもオリオン座を映すカットがいくつかありました。
不等辺四角形とは4つあるどの辺も並行でない四角形のことです。
これは四人のメンバーが違った方向に歩んでいくことを意味しているのでしょうね。
主人公であるメンバーの中心人物、東ゆうは本作の中で色々な面を見せてくれます。
彼女は幼い頃より、アイドルになりたい、という夢を持ち続けそれに向かって邁進してきました。
そのための努力は惜しまず、やるべきことがあれば突き進んでいく行動力もあります。
このような面は非常に主人公らしい主人公であると言えます。
けれども、彼女のそういう一面だけではなく、本作では非常に人間らしい側面も描かれます。
彼女はプロデューサー気質で、リーダーとして引っ張っていこうとしますが、メンバーの一人一人に気を配る余裕はありません。
彼女にとって自分の夢が最も優先されるべきであり、メンバーそれぞれがどう考えているか、というところまで思いを馳せることができていないのです。
悪く言えば、打算的であり、メンバーのことを駒の一つとしてしか見ていないとも言えます(そう意識していないにせよ)。
メンバーも自分と同じ夢を見ている、と思い込んでいる節もあります。
これは社会人になってからの通常の会社組織でもあって、部員のベクトルがあっていない事に気づかない管理職はよく見かけます。
これは外から見ていると相当にイタいわけですが、本人はそれに気づくことができないということが割とありますね。
そのような点も含め、ゆうは非常に人間的で、よくあるアニメのような類型化されたキャラクターではなかった点が良かったですね。
キャラクターの絵柄がいわゆる萌え的なタッチだったので、このような展開であるとは思っていなかった分、しっかりと人間のイタい部分まで触れられていて、作品として見応えがありました。

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2024年7月 7日 (日)

「ミッシング」絶望的な無力感

自分にも小さな女の子の子供がいる。
当たり前のように繰り返される平凡な日々が愛おしく思う。
子供ができる前は自分がそのように感じることは想像できなかった。
もし突然、この子がいなくなったら、と想像するだけで身を切られるような思いになる。
本作の主人公沙織里の幼い娘が失踪した。
誰が連れ去ったのか、事故なのかもわからず3ヶ月が過ぎる。
何が起こったのかわかれば、そこに怒りが向けられるだけ楽なのかもしれない。
何もわからないからこそ、行き場のない辛さだけが募る。「もし・・・」という言葉が浮かぶ。
もし、自分がライブに行かなかったら。
もし、弟が家までちゃんと送っていたら。
自分のせい。
誰かのせい。
自分を責め、他人を責める。
自分も傷つけ、他人を傷つける。
自分の中の感情をどこにぶつけていいかわからず、自分の中でどす黒く沈殿していく。
それはマグマのように感情の中にたまり、突如爆発する。
周囲の攻撃から身を守るために暑くなった岩盤を期待は薄くする。
薄くなった岩盤は失望でマグマに破られる。
溢れ出た失望は沙織里に叫び声を上げさせる。
メディアやネットでは自分たちを容赦なく、責め立てる。
当事者の苦しみを理解することなく、原因を論う。
正論を言っているつもりで、当事者を遠慮なく傷つける。
沙織里は彼らにも翻弄される。
傷つけられるのをわかっていながら、それらに縋る。
その中のどこかに希望があるのではないかと望みを持ちながら。
しかし、その望みはしばしば裏切られる。
我が子が見つかったという情報があり警察に駆けつけるが、ガセだとわかり、沙織里は失望のあまり失禁までしてしまう。
この場面は見ていて、あまりに辛い。
沙織里が感じているのは、孤独だ。
我が子を失った悲しみ、それが自分のせいかもしれないという後悔、周りの全てへの怒り・・・。
何が悪かったのか、それすらもわからないことへの無力感。
これは身近な夫とも全ては共有ができないと思っている。
この絶望的な孤独感が全編を通して描かれている。
救われるのは、もう一人沙織里と同じように自分を責めて過ごしてきた弟、圭吾に対して、彼も同じような思いであることに気づけたところだろう。
絶望的な悲しみも後悔も、一人で背負うのでなければ、互いに救われるような気がする。

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2024年7月 4日 (木)

「ルックバック」背中を見ろ!

子供の頃、絵を描くのが好きだった。
クラスの中に一人はよくいる絵の上手い子だったと思う。
クラスの文集のイラストを頼まれたり、教科書の隅にパラパラ漫画などを描いたりしていた。
友達からも上手いと言われたりしていたと思う。
将来漫画家になれたらいいな、と思ったりもした。
けど、クラス変えをした時、もっと絵の上手い子がいて、敵わないなと感じた。
本作を見てそのことを思い出した。
絵を描くにしても、歌を歌うにしても、スポーツをするにしても一緒にやる仲間がいれば心強い。
けれど、そこには裏腹に嫉妬もある。
評価されれば天にも昇る気持ちになるし、負けたと思った時は地獄に落ちた気分になる。
主人公藤野が京本の実力を見せつけられ筆を折る場面、逆に京本にファンだと告げられた雨の日、スキップしながら家路に着くという描写が表す気持ちは、好きなことに邁進するからこそ感じてしまうものなのだろう。
その苦しさから逃れたくてやめる人も多いだろう。
けれど藤野も京本も黙々と机に向かった。
楽しさも苦しさもありながら。
この作品は藤野が机に向かっているところを背中から写すカットが幾度もある。
タイトルの「ルックバック」は後半に「背中を見ろ」という言葉として出てくるが、背中は本作のキーワードだ。
黙々と机に向かう姿は一途に絵に向き合う気持ちを表している。
というよりこれしかない、という気持ちかもしれない。
黙々と漫画に向き合った藤野はある出来事が起こった時に自分の過去を振り返り(ルックバック)激しく後悔する。
しかし「背中を見ろ」というキーワードを受け取った藤野は、歩んできた道は間違ってはいないと許される。
ラストはずっと藤野の背中が映し出されるが、それは過去を自分で認めた上で、友の思いを受けて再び絵を描くことに向かう覚悟が表されたように感じた。
本作は非常に短く、1時間程度。
そうとは思わせない密度のある作品であった。

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