「正欲」知らない惑星への留学
2024年最初に鑑賞した作品はこちらです。
ダイバーシティが一般的な言葉として語られるようになり、LGBTQについても人々の理解が深まってきています。
本作で登場する人物たちの性癖はそれに比べても特殊で「水フェチ」と呼ばれるものです。
様々な動きの水に性的興奮を喚起されるというものですが、一般的にはなかなか理解されにくい性癖だと思います。
個人的にも説明されればそういう性壁もあるのだと理解できるものの、感覚的にはよくわからないというのが正直なところです。
性的な嗜好についてはほぼ人と話すことはない上に、それが特殊(個性的)であればあるほど、誰とも共有できるものではないと思います。
価値観が違う、ということはよくあると思いますが、これはまだ言葉で説明できるし、いろいろあるというのが前提となっているので、まだマシかもしれません。
性的嗜好、まさに生物として生きることにつながる嗜好で、それが普通でないということは、生き物としておかしいのではないか、と自問したくなる気持ちは理解できます。
自分が他者と異なる、普通ではないということは、強い疎外感を生むことでしょう。
本作の登場人物たちも、そのような自分が社会と隔絶しているように感じ、死のうと思ったり、壁を作ったりして生きています。
主人公の一人、桐生はそれを知らない惑星に一人で留学しているような感覚と言います。
その孤独感たるや。
同じような自分の存在すら疑問に思っていた桐生と佐々木が再会できたのは奇跡でもあり、救いでもあると思いました。
たった一人でもいい、自分を認めて、繋がって、一人じゃないと認識させてくれる人がいてくれればそれは幸せなのだと。
本作では性的嗜好の話にフォーカスしていますが、これはそれだけに限ったことではなく、自分がいていいということを認めてくれられるということがいかに人を生かしてくれるのかということを伝えているのだと思います。
もう一人、水に性的興奮をしてしまう人物として諸橋という大学生が登場します。
彼に対し、神戸という女子大学生が好意を持ちます。
彼女は幼い頃のトラウマで男性に恐怖心を持ってビクビクしながら暮らしていますが、諸橋にだけはそれを感じません。
それは諸橋が女性に興味がないということからきているのかもしれませんが、彼女にとっては自分のことを理解してくれる唯一の男性のように思えたのでしょう。
彼女にとって諸橋を通じて、普通になれると思えた。
しかし、それは諸橋の全てを理解できたことではなく、どうしてもその人自身のフィルターを通しての理解にならざるをえないということがこのエピソードから伝わってきます。
さらには、諸橋のような嗜好が人々に理解できないということを痛烈に印象付けるパートになっていたとも思いました。
登場人物の中で自分でも普通の人間だと認識しているのが、検事の寺井は、子供が不登校になりそれを受け入れることができません。
彼にとって普通の子供は学校に通うもの。
フリースクールに行ったり、不登校の仲間とYouTubeを配信したりなどというのは、彼にとっては異常なことなのです。
彼の普通は許容範囲が狭く、結果、それが家族とのつながりを断ち切ることになりました。
異なることを認められるということと共に、認めるということも人とのつながりにとっては欠かせない。
ラストシーンで桐生と寺井は対面しますが、自分の存在を認めてくれている人がいると自信を持てる桐生と、大切な関係を失ってしまった寺井はどちらが幸せなのか、と考えさせられます。
どうしても理解できないこと、というのはあるものの、理解をしようと努力すること自体をしなくていいわけではないということです。
新年早々いろいろ考えさせてくれた作品でした。
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