「ナポレオン」肥大化したエゴ
アマゾン、アップル、ネットフリックスと最近はネットの配信大手が映画制作へ進出してきています。
マーティン・スコセッシやリドリー・スコットは旧来の映画映画業界に対し、ヒットが確実されるシリーズものなどへ傾注しすぎていると批判をしています。
そういう映画製作者の一つの受け皿として冒頭に挙げた配信大手がなってきているのでしょう。
劇場での興行が収入の主軸であれば、どれだけ動員できたかが業績を左右します。
しかし配信大手は配信が稼ぎの柱なので、旧来の映画業界よりもチャレンジングなことができるのかもしれません。
実際、アップルが製作したマーティン・スコセッシの「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」は大傑作でしたし、そのため同じアップル製作であり巨匠リドリー・スコットの「ナポレオン」には期待が高まりました。
しかし蓋を開けてみると、傑作とは程遠いできであったと思います。
主人公はかの有名なナポレオン。
フランスの激動期を生きた英雄。
地方出の小貴族ながら、フランス皇帝まで成り上がり、そしてまたその地位を追われたという激動の人生を送りました。
波乱に満ちた人生ですので、映画として非常にダイナミックなものになると予想していましたが、残念ながら単調な物語に見えました。
リドリー・スコットは英雄としてナポレオンを描くのではなく、エゴが肥大した男として彼を描写しました。
そしてまた彼は妻ジョセフィーヌの前では矮小な男にすら見えました。
彼の最後の言葉は「フランス、アーミー、ジョセフィーヌ」だったと言われます。
これらは彼の自己が肥大化した末に、自分と同一視したものではないかと思います。
フランスはまさに彼自身と同一化され、だからこそ皇帝となり、世継ぎが生まれないことが国の危機とさえ、彼には思えました。
またアーミー(軍隊)については、彼は軍をまさに自身の手足のように操り、類まれな戦術により多くの戦争で敵を撃破していったのです。
そして最後のジョセフィーヌは、彼はまさに彼女と一体であると感じていて、だからこそ思うように動かない彼女に対してイライラしながらも、離れることはできないという関係性になっていたのだと思います。
世継ぎが生まれないと状況では、彼はフランスという国か、ジョセフィーヌかという選択に迫られ、結果フランスを選びます。
劇中でも描写されたように、彼は泣く泣くジョセフィーヌと別れるのです。
まさに半身を切るようなことであったのでしょう。
ナポレオンは尊大でありながらも矮小である男であるというのは新しい視点ですが、それを語る語り口が淡々としていて抑揚がないのが残念です。
| 固定リンク
コメント