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2023年6月25日 (日)

「怪物」異質なもの

タイトルの「怪物」。
それが意味するものは本作の中でいくつも描かれていますが、何が正常で、何が異常かということを判断するものの見方へ行き着くような気がします。
まず本作はある小学校の春から夏にかけての出来事を大きく三つの視点から描かれています。
いわゆる「羅生門」的視点で、同じ出来事も関係者それぞれの視点から見ると異なる様相を呈するということが描かれています。
最初は、小学5年生の息子、湊の母親の視点です。
彼女を夫を亡くし、女手一つで息子を愛情深く大切に育ててきました。
彼女はある日怪我をしてきた息子から、教師に暴力を振るわれたと聞き、小学校に抗議に訪れます。
しかし、その対応に出てきた教師たちは、空虚な謝罪を繰り返すだけで、事実確認をしているようにも見えません。
彼女の目には彼らは、報道などで時折取り上げられる無責任教師に見えます。
彼女にとって彼らはまるで異常な怪物に見えたかも知れません。
そして二つ目の視点は、教師たちからの視点です。
湊の母親に体罰を加えたと指摘された担任教師保利は、奇妙なこだわりがあるタイプとはいえ、子供たちを思う教師のように見えます。
保利は体罰を与えるようなタイプの教師ではなく、それを周囲の教師も理解しています。
そして保利は湊が同級生の依里をいじめているということも聞きました。
そこに息子のことで抗議に現れ、教師たちを責め立てる湊の母親は、彼らにとってはモンスターペアレンツのように認識されたのでしょう。
彼らの視点からすれば母親の方が怪物なのです。
三番目の視点は、物語の中心にいる湊そして依里のものになります。
彼らの視点により、いかに親も教師も彼らのことを見れていないかが明らかになります。
彼らは秘密を抱えており、そのため彼らの行動は大人たちからは理解できないこともあります。
理解できないというところで、大人たちにとって子どもたちは怪物的なのです。
人は自分の価値観でものを見たいように見ます。
理解できないものは異質なものとして、理解の外におこうとします。
理解できないもの=怪物なのです。
他にも別の次元で恐ろしい怪物もさりげなく描かれています。
それは噂です。
映画の冒頭は火事のシーンから始まります。
それは地元のガールズバーが燃えたものなのですが、保利がそこに通っていたという噂が立ちます。
実際は火事になった時間に現場近くを彼女と一緒に通りかかったのを、生徒たちに目撃されただけなのですが、いつの間にかそれが事実のように人の口に上がっているのです。
湊の母親もその噂を知り、そのことで保利のことを責めるのです。
また、舞台となる小学校の校長の孫が事故により亡くなったという事実が語られます。
彼女の夫が車庫入れの時に誤って孫を轢いてしまったということです。
そのことにショックを受け、彼女はしばらく学校を休むのですが、これもうわさで実際に轢いたのは、校長なのではないかという話がまことしやかに語られます。
それを聞いた保利は、自分を人身御供のようにして切り捨てた校長を、そのうわさで責めるのです。
真実かどうかはわからずともうわさ自体がいつの間にか事実のように振る舞い始める。
それも一つの怪物と言っていいかもしれません。
そしてもう一つの怪物です。
<ここからネタバレあります>
湊は同級生の依里に惹かれています。
男子なのに女の子っぽい依里は学校でも同級生のいじめの対象となっており、また家に帰れば彼の普通でないところに気づいている父親に虐待をされています。
最初は同情心のようなものだったのかもしれません。
しかし、湊は次第にそれが同情心や友情といったものではないことに気づき始め、自分自身でも混乱をし始めます。
自分は男なのに、男の子を好きになるなんておかしいんじゃないかと。
ここは配役も絶妙で、湊を演じている子は背も高く声変わりもしていて年齢よりもちょっと大人びて見えます。
逆に依里の方は、年齢よりも多少幼く、そして顔つきも女の子のような綺麗な顔をしています。
湊は自分がおかしいのではないかと苦しみますが、それは大人たち、というより社会が当たり前としている強固な固定概念が原因です。
なんら悪気はなく、大人たち(そして子供たちも)固定概念前提で話をします。
湊の母親は、父親を亡くしてしまった負目からか、お父さんのようになって、幸せになってほしいといいます。
お父さんは逞しいラガーマンだったようでうs。
それは本心から言っているのでしょう。
湊と依里が学校で揉めた時、教師の保利は「男らしく握手をしよう」と言います。
しかし、彼らは「男らしい」という固定概念で苦しんでいることに気づきません。
見た目は湊が大人っぽく、依里が幼いのですが、おそらく依里の方が自分自身のことに気づいたのが早かったのか、戸惑う湊に対して、とても大人びても見えます。
湊にとっては自分の中に湧き上がっている知らない感情そのものが、自分にとっての異質なもの=怪物のように感じ、それに支配されることの恐怖を感じたのでしょう。
そのほか細かいところでは、猫の死体のことを保利に報告するの湊の同級生の女の子がいます。
あまり細かく描写はされていないのですが、彼女はおそらく湊に気があるのですが、湊が依里に惹かれていることにも薄々気がついているのではないでしょうか。
そのことは彼女には理解できず、教師に湊の異常さを訴えるように猫のことを話したように思います。
長々と書いてきましたが、本作で描かれる「怪物」とは、自分の価値観とは異なるものに対して理解できないことの恐怖なのかもしれません。
敵は理解できる。
理解できれば対応できる。
しかし、理解できないものに対してはどう対応していいかわからない。
それが恐怖となり、相手を怪物視してしまう。
台風の嵐を越え、湊と依里は二人で青空の下をかけていきます。
湊は自分自身の中の異質なものを受け入れられたのかもしれません。

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2023年6月21日 (水)

「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」スパイダーマンが背負うもの

MCUにしてもDCUにしても最近はマルチバース化しているのが、先鞭をつけたのが前作「スパイダーマン:スパイダーバース」。
アニメーションの強みを生かし、異なるユニバースのスパイダーマンを作画の手法を変えて表現するという斬新な方法で表現して、大きなインパクトを与えました。
原作のコミックでは描かれていたものの、そもそも無数のマルチバースに存在するスパイダーマンが登場するというアイデア自体がとても新鮮でした。
前作はマイルズのユニバースに他の世界のユニバースのスパイダーズたちが訪れるという設定で、キャラクターのタッチのみで他世界感を描いていました。
本作では他のユニバースにも舞台が映っていきますが、背景そのものもその世界らしいタッチになっています。
後で書きますが、グウェンの世界も描かれますが、そのタッチはコミックの表紙のタッチに合わせられています。
この辺りも前作からグレードアップされていますね。
前作でマルチバースの扉を閉じたため、主人公のマイルズは自分のユニバースにおいて平和を守るために人知れず戦っています。
しかし、それは孤独な戦いでもあります。
彼の脳裏に横切るのはその思いを共有できる仲間、他のユニバースのグウェンをはじめとするスパイダーズのことでした。
そのグウェンは本作において準主人公と言ってもいい扱いになっています。
物語の冒頭、彼女が背負うことになる運命が描かれます。
前作を見た後に興味が出て、スパイダー・グウェンの原作コミックを読みましたが、ほぼ同じ展開でした。
彼女も放射能グモに噛まれて特殊能力を得ます。
彼女の世界にもピーターはいて、彼はいじめに苦しんだ末に自身が開発した薬によりリザードマンになってしまいます。
グウェンはリザードマンを倒しますが、それが大切なピーターであったことを知り、ショックを受けます。
そして警官でもある父にピーター殺しの犯人として追われることになってしまうのです。
それが彼女の背負った運命。
大切な人を救うか、多くの人々を救うかという二択を迫られ、結果大切な人を失い、本当の責務に目覚めるというのが、多くのスパイダーマンの物語で語られてきたポイントです。
そのことが本作では「カノン・イベント」と呼ばれキーとなります。
「ザ・フラッシュ」の記事でも書きましたが、多様性のあるマルチバースの中でも唯一どの世界でも起こるとされるイベントとなります。
そしてこのイベントが起こらない世界では、世界そのものが崩壊する危機に見舞われるということなのです。
従来スパイダーマンで大切な人を失うイベントは、スーパーヒーローの責務を自覚するためと位置付けられていました。
それが本作において、世界の存在と対をなすイベントに昇格したのです。
彼らが背負わなければならない責任が一気に重くなります。
スパイダーマンたちが組織するスパイダー・ソサエティはカノン・イベントを守るためのものですが、それはすなわち全てのユニバースを守るためのもの。
しかし、またそれはある人間に一生後悔し続けるような心の傷を与えることになります。
本作冒頭のグウェン、また「アメイジング・スーパーマン」のピーターのように。
主人公の選択が世界存続に直接的に影響を与えるという点で、セカイ系の匂いもしますが、よりスパイダーマンが背負うものが重くなったのは確かです。
マイルズは世界も大切な人も両方救いたいと思い、そのために全スパイダーズに追われることとなります。
そしてまたグウェンも自分の選択に悩みながら、結果マイルズを救おうと決心をします。
二人の若者の決断は世界を破滅させるのか、それとも救うのか。
といったところで物語は終了。
3部作とは聞いてましたが、かなりなクリフハンガーな終了でちょっと驚きました。

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2023年6月18日 (日)

「ザ・フラッシュ」 狭間での絶妙なバランス

<ネタバレあります>
ジェームズ・ガンがDCスタジオのトップに就任し、新しいユニバースが構築されるとアナウンスされている状況の中、「ザ・フラッシュ」は奇しくもDCEUとDCU(新しいユニバース)の接点となる特異点的な作品となりました。
フラッシュはDCEUの「ジャスティス・リーグ」で登場し、その主要なメンバーとして活躍しましたが、メインとなるのは本作が初めて。
彼は高速で移動することができ、さらには光の速度すら超えることにより過去への移動も可能とすることができます。
リチャード・ドナーの「スーパーマン」でも時間を逆回しするという描写がありましたね(あれは地球を逆回転させるというよくわからない理屈でしたが)。
本作ではフラッシュが母親の死を回避しようと過去改変を行うことにより、ユニバース全体を揺るがすような出来事を誘発してしまいます。
タイムトラベルものでは、過去の出来事を変えることにより、未来の出来事が影響を受けてしまうことはよく描かれます。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」しかり(本作でもネタとして使われていました)。
本作のタイムトラベルでユニークな点は過去のある出来事を変えたことにより、未来だけでなくさらに過去の出来事も影響を受けてしまうというところです。
これはあまり聞いたことがありません。
しかし、この理屈により、本作ではマイケル・キートンのバットマンを登場させることを可能にしたのです。
そう、マイケル・キートンのバットマンです!
私がアメコミ映画にハマるきっかけとなった作品が「バットマン」なのです。
この「バットマン」のテーマ音楽が本作でもふんだんに使われていて、ゾクゾクしました。
バットケイブもあの頃の雰囲気を再現していましたよね。
改変された過去に影響を受けたユニバースでは、スーパーマンは幼い頃にゾットに殺されており、彼と戦う役割を担うのがスーパーガールことカーラ・ゾー=エルになります。
スーパーガールと言えば、ロングヘアの金髪のイメージはありますが、本作では黒髪短髪となっていて新鮮でした。
MCUはフェーズ4からマルチバースの概念を取り入れていますが、ようやくフェーズ5に入り本格的にストーリーに組み込まれてきました。
マルチバースの概念をそろりそろりと丁寧に浸透させようとしているように感じます。
対してDCの本作「ザ・フラッシュ」でマルチバース概念を取り入れましたが、かなりガッツリと一気にアクセルを踏んだ印象です。
そこが冒頭に書いた特異点的な作品と感じさせる印象となったのだと思います。
新生DCUはどのように展開されるかわかりませんが、MCUと同じくマルチバース概念を取り入れることになっています。
新しいDCUは今までのDCEUから全てキャスティングもろとも一新ということではないのかもしれません。
継続するキャラクターもいれば、そうではないものもいるということですね(スーパーマンはキャストが変わるという話)。
その場合、本作で展開されるマルチバースの概念は非常に使いやすい。
今まで作られてきたDCコミックの映像作品を全て包含することが可能です。
というより作られていない作品ですら、含むことができるでしょう(何しろニコラス・ケイジ版のスーパーマンですら登場してましたから!)。
ラストのあの人の登場が可能になったのもこの設定のおかげと言えるでしょう。
ややこの設定はご都合主義的な感じがしますが、ジェームス・ガンはDCUはファンタジーと言っているので、これからやろうとしていることにはあっているのかもしれません(対してMCUはあの世界観の中でのリアルさにこだわっている)。
あと印象的な概念として歴史改変をしても、どうしても改変できない出来事があるということですね。
本作でいうと、(マイケル・キートンの)バットマンとスーパーガールの死がそれにあたります。
同時期に公開されている「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」もマルチバースを取り扱っていますが、同様な出来事があります。
MCUでも「ホワット・イフ…?」の闇堕ちしたドクター・ストレンジの回でもクリスティンの死が改変できない出来事(特異点)とされていました。
この概念はドラマを劇的にすることができますし、安易に過去改変すればいいとストーリーを陳腐にすることも防ぐと思います。
書いてきたように本作にはタイムトラベルやマルチバースの概念が非常に多く詰め込まれていますが、際どいながら整理をしてストーリーを作れているように感じました。
しかしながらやや御都合主義感や、過去キャラクターの登場というお祭り感(東映の特撮シリーズでよくやるような)もあり、その辺りはMCUに慣れているとやや安易に感じなくもありません。
結果的にはDCEUとDCUの狭間、リアルとファンタジーの間で絶妙なバランスをとった作品となったと思います。

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2023年6月17日 (土)

「リトル・マーメイド(2023)」チャレンジしているのが、キャスティングのみ

娘が見たいというので、一緒に鑑賞してきました。
娘と一緒なので吹き替え版での鑑賞です。
と言いつつ、ディズニーアニメの実写化作品はなんだかんだと見に行っていますね。
最近公開されるディズニーアニメは割と鑑賞しているのですが、このところ実写化されるオリジナルのアニメは実は見ていないものが多いのです。
「美女と野獣」「アラジン」「ライオン・キング」・・・。
そのころはあまりディズニーのアニメーションには興味がなかったんですよね。
なので、実写化されたこれらの作品を見るときにオリジナルとどこが変わったという視点ではあまり語れません。
とはいえ実写化されたディズニー作品は、現代の鑑賞に耐えられるようアップデートされているところがあります。
例えば「美女と野獣」のベルや「アラジン」のジャスミンは自立思考のある女性として描かれていて、そこが魅力的であり、物語としても重要なエッセンスとなっていました。
「アラジン」は監督にガイ・リッチーを起用して、映像としても新しさを感じさせてくれました。
逆に「ライオン・キング」は映像的にはフルCGで制作したことがチャレンジではありましたが、ストーリーとしてはあまり意欲的な作りではなかったような気がします。
それでは本作「リトル・マーメイド」はどうだったでしょうか。
主人公アリエルはアニメでは白人女性として描かれていましたが、本作では黒人女性が演じています。
この点について公開前から賛否両論となっていましたが、個人的にはあまり人種にはこだわりはありません。
最近のディズニーの傾向として多様性を重んじる考えがあるので、黒人の起用もありだと思います。
本作については逆にチャレンジしているのが、この点だけであるというのが、物足りないところでしょうか。
映像としては水中の描写はCGで工夫はあるとはいえ、「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」や「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」を見た後だと、それほどのインパクトはありません。
ストーリーとしても目立って現代的にアップデートされた部分は感じませんでした。
主演のハリー・ベイリーは非常に上手な歌手だということで、字幕版で見たらちょっと印象変わったかもしれません。

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2023年6月 7日 (水)

「TAR/ター」権力の誘惑

ケイト・ブランシェット演じる主人公リディア・ターはベルリンフィルハーモニー初の女性指揮者です。
彼女は音楽に対しての深い理解と、その表現において卓越した才能があり、輝かしい経歴を持っています。
そして世界有数のオーケストラの首席指揮者として絶大なる権力を持っています。
彼女自身はその地位は自分の才能に対して相応しいものであるという強い自負を持ちつつも、いつかそこから転落するかもしれないという恐怖感が彼女を苛みます。
自分が理解した通りに音楽を奏でたいという点において、彼女は強欲であり、支配的でもあります。
彼女は音楽にのみ忠実なのです。
そして、彼女はその権力をオーケストラという場だけなく、周囲にも振るうようになっていきます。
長年勤め上げていた副指揮者も彼女の思惑で首にし、長年サポートしていた助手には人参をぶら下げながら献身を求めます。
彼女の周囲も彼女の振る舞いに気付きながらも、それを見て見ぬふりをしていたようにも見えます。
史上初の女性指揮者という看板は興行的にも有利ということもあるでしょう。
彼女に逆らったら居場所がなくなるという恐怖もあるでしょう。
周囲のそのような態度はターが自分の行動が許されるものであると思い込んでいくことにつながっていったかもしれません。
そして教え子であった若手音楽家へセクシャルハラスメントを行い、挙句その若手は自殺をしてしまいます。
そのような出来事により、次第に彼女は精神的に追い込まれていきます。
ストーリーに挟み込まれてくるターの隣人のエピソードがあります。
その隣人は実の母親を椅子に縛り付けて虐待し、挙げ句の果てに殺してしまいます。
それに対してターは激しく嫌悪感を抱きますが、実のところ彼女が周囲に対してやっていることもさほど変わりがありません。
現在の座を約束する代わりに、彼女が思うままにコントロールしようとするわけですから。
本作は権力というものが持つ恐ろしさ、そこに座った者をいかに変えていってしまうかということを描いています。
非常に本作がユニークな点は、今まで権力というものは男性的なものとして描かれることが多かったのですが、女性が権力に溺れてしまうところを描いている点です。
つまり、権力というものは男性であっても、女性であっても、溺れる可能性があるものであるということです。
ターの物言いは女性らしく柔らかいものでありつつも、そこには有無を言わさぬ調子があります。
それこそが権力であり、それに溺れた者は無意識にそれを使ってしまうのです。
権力自身は彼女自身も蝕んでいたのでしょうか。
全てを失った彼女が辿り着いた場所で、タクトを振っている姿は原点に立ち返ったような清々しさを感じました。

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