「フェイブルマンズ」映画の力
スピルバーグ初の自伝的作品と宣伝されている作品で、鑑賞する前は彼が映画に魅せられ、両親らに見守られながら、その道を歩んでいくという家族のハートウォーミングな作品かと勝手に思っていました。
冒頭だけはそのようなテイストのように感じられもしましたが、何か不穏な雰囲気が最初から漂います。
父親も母親も二人とも子供たちのことを愛しています。
彼らは正反対の性格、価値観を持っており、それで互いに惹かれ合い愛し合ってもいますが、何か根本のところでは通じきれていない感じもします。
二人の関係の微妙な危うさが最初から漂っているのです。
母が時折見せる乾いたような顔、父親の親友であるボビーに対して見せる屈託のない笑顔、愛する妻を敬うように接する父親、そして彼の顔に浮かぶ不安そうな表情。
それらは普段の生活ではあまりに何気なく、それゆえ誰も気づかないようなものです。
しかし、後半で主人公のサミーが自身で言うように「カメラはありのままを写す」のです。
些細なこともフィルムは定着させる。
それは残酷な真実も定着させる。
結果、サミーが偶然に撮影してしまった母親の真実の気持ちを写し込んだフィルムは、彼の家族を崩壊させてしまいます。
このように先ほどあげた「カメラはありのままを写す」という言葉は真実であり、それは暴力的とも言える力を持っていますが、またそれだけではありません。
映画には撮影するということのほかに、編集するという要素もあるのです。
カメラはそのまま写すかもしれませんが、編集には人の意思が入ります。
ストーリーを、人の感じ方をコントロールすることができるのです。
後半のプロムの場面で、サミーは撮影した卒業ムービーを披露します。
そこの中ではサミーを目の敵にしていた男子生徒ローガンはまるで英雄のように描かれます。
皆はローガンのことを喝采しますが、彼自身は屈辱を感じてしまいます。
自分自身がフィルムの中で描かれたほどではないことを彼はわかっていて、そうであることをサミーもわかっていることに気づいたわけです。
サミーが「あえて」そのように編集したことに侮辱を感じたのですね。
編集により人の感じ方をコントロールする、ということもまた暴力的な力を感じます。
母親の事件、そしてプロムの出来事を通じ、サミーは映画の持つ暴力性に気づいたのだと思います。
終盤で彼はフォード監督に映画監督なんて心がボロボロになる仕事なのに、それでもやりたいのかと問われます。
しかし、彼はやりたいと言います。
彼は両親の血を強く引き継いでいます。
母親は「心を満たさなければ、別の自分になってしまう」と言い残し、家族の元を離れました。
父親も自分の仕事に意義を強く持ち、そのために家族を犠牲にしてしまいます。
この一族は自分らしくしか生きられない、という血を持っているのでしょう。
中盤で登場するおじさんは「芸術と家族」の板挟みに合うかもしれないと予言をしました。
まさにサミーはその予言通りの道を歩みます。
母親は彼の元を去る時に「自分らしく生きるように」と言い残しました。
その言葉通り、彼は自分がやりたいことをやっていくという修羅の道を歩み始めたのです。
本作はスピルバーグの自伝的な作品ということで、描かれてた出来事は本当に彼の人生に起こったことかどうかは私はよくわかりません。
しかし、彼が映画というものをどう捉えているかということについて非常によく伝わってきました。
それは私が想像していたものよりも、非常に激しいものであったことに驚きを感じました。
この目線で彼の作品を見直したら、違ったように見えてくるかもしれません。
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