「湯道」湯の道
タイトルの「湯道」というのは、本作の脚本家である小山薫堂さんが提唱している概念ですが、茶道、花道、香道、柔道、剣道と、文武問わず、とかく日本の文化には「道」という言葉がつくものが多い。
「道」という言葉を辞書で調べると、「芸術・技芸などのそれぞれの分野」などと出てきますが、これはあることの極みに達する道のりということを表しているのでしょう。
茶を飲む、花を生けるという行為は誰でもできますが、その行為の意味を考え、その意味に基づき所作を洗練させていき、極限までに突き詰めていくことが「道」なのでしょう。
行為の意味を極めるということは、自分と他者・環境の関係性を突き詰めて考えるということでもあるかと思います。
「道」は思想でもあるのでしょう。
特に日本人は自分と自然という関係性を深く考えてきた民族であると思います。
小山薫堂さんは諸外国に比べても「お風呂に入る」という行為が好きな日本人の文化が、自分と自然との関係性を見つめる行為として昇華できると考えているのでしょうか。
「道」は個人個人の行為の本質を突き詰めていく中で、意味を象徴的に表した所作、「型」というものに行き着きます。
本作でも「湯道」のさまざまな所作が紹介されていますね(フィクションですが)。
本来は「型」には意味がありますが、えてしてその型ばかり
を追求し、その心が抜けてしまうこともあります。
本作に登場する温泉評論家は温泉を極めて、「温泉は掛け流し」しか認めないという極端な考えを持っています。
しかし、なぜ湯に浸かるのかという行為の意味を見失っています。
お湯に入る時、人は何も身につけず、心を全て解放できる。
そして心の中から温まり、気持ちいいと思う。
だからこそ素直になれる。
そういったお風呂の意味合いを彼は忘れてしまい、スペックだけに気を取られてしまっているのですね。
本作に登場する「湯道」の家元も、そしてその後を継ぐ弟もお風呂の意味合いというものを理解しています。
所作や作法はその意味を表している象徴でしかない。
また「道」の危険なところは、別の考えを認めにくいということもあります。
上で書いたように道は思想なので、違う思想は受け入れにくい。
しかし、そもそもは誰でもできる行為なわけなので、それぞれのやり方があって良いはず。
意味を極めていく中で、型に収斂されていくわけですが、それだけが正しいというわけではありません。
本質的には多様であるわけです。
本作にはたくさんの登場人物が出てきますが、それぞれのお風呂の楽しみ方が描かれています。
その多様性も真実の姿であるとも思います。
小山薫堂さんは食にも造詣が深く、さまざまな著作があります。
食もそうですが、お風呂も誰もが毎日行うことです。
また小山さんは「おくりびと」で誰もが経験する大切なひとを送るという行為も描いています。
小山さんは誰もが経験する行為の本当の意味というものを考え続けている方なのかもしれません。
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