「バビロン」デイミアン・チャゼルの映画観
バビロンとは古代メソポタミアの国バビロニアの首都であるが、退廃の都として語られることも多い。
本作がバビロンをタイトルにしているのは、映画がメディアとしてエンターテインメントとして立ち上がった黎明期の熱狂を言い表そうとしているからだろう。
本作は長尺でありながら、密度が高く、見るにもかなりのカロリーがかかる。
冒頭より不快なシーンが多く、気力が萎えそうになるのだが、惹きつけるエネルギーを持った作品だとも思う。
なので、本作は色々な切り口で語られることが多いと思うが、私は本作が監督デイミアン・チャゼルの映画観を語ったものであると感じた。
本作で描かれている時代は、映画がサイレントからトーキーに切り替わろうとしていた時期である。
本作を見て改めて思ったのは、映画という芸術は他(絵画や演劇、音楽)と違いテクノロジーによってアップデートしていくというユニークな特性を持っているということである。
そもそも映画という芸術は、動画を記録することができるフィルムというテクノロジーによって生まれた。
最初はサイレント、次にトーキー、そしてカラー、最近では3DやCG表現などと、映画はアップデートしている。
このような芸術は他にはない。
また映画はこれもほぼ初めて大衆向けの芸術であるということもユニークである。
劇中でも語られるが、演劇はその場にいる者しか味わうことができず、そのため限られた層に向けた芸術であった。
そもそも芸術というのは限られた層しか味わうことができず、芸術が大衆化されたのは映画からと言ってもいいかもしれない。
また劇中でエリノアがジャックに語ったように映画は50年経っても、同じものを味わうことができる永続性を持っている。
演劇はストーリーは同じでも演者も演出も変わるだろうし、音楽も同様だ。
そして、最後に映画という芸術は一人で生み出すことはできず、非常に多くの人が関わるという点も他の芸術とは大きく異なる。
そのためビジネスという側面が非常に色濃くならざるを得ない。
デイミアン・チャゼルは映画という芸術の持つ特徴は永続性であると考えているのではないかと思う。
他の芸術と異なるのは、技法や表現が固定化されるのではなく、テクノロジーによってアップデートしていくという点だ。
ラストでいくつかの映画のモンダージュがあるが、ここを見ても監督がこの点を強く意識していることがわかる。
そして、そのため非常にシステムが大きくならざるを得ず、ビジネスの側面を色濃く持つ。
本作に登場する人物は映画が持つそのような特徴に翻弄される。
本作ではサイレントからトーキーに映画がアップデートされるが、サイレント時代のスター、ジャックは台詞回しを観客に失笑される。
ネリーは黎明期の熱狂の中では光り輝いていたが、次第にシステムとして強化された映画界では爪弾き者となっていく。
映画という芸術がアップデートされるときに、どうしてもその変化についていけず落伍してく者が現れる。
登場人物の一人マニーは映画という大きなものの一部になりたいと、業界に飛び込むが、映画に関わる人間は一部にしかなり得ない。
それはスターであっても。
エリノアはスターは概念であると、ジャックに語るが、スターであっても映画の一部なのだ。
映画という巨大な芸術において、関わるものはその部分の役割を担うことしかできない。
こうなると映画に対して、人は無力感を持つかもしれないが、それでもあまりあるのが映画の永続性と大衆性なのだと思う。
ラストシーンで多くの人が映画を見て楽しんでいる。
古い映画を楽しむ人も多いだろう。
関わった映画が、時代を越え、場所を越え、多くの人に影響を与えている。
たとえ部分であっても、そのような映画に関われることが映画人にとってやりがいを感じることなのだろう。
最後にマニーが涙するのは、それを改めて感じたからではないだろうか。
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