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2023年2月27日 (月)

「シャイロックの子供たち」普通の人

本作は池井戸潤原作、本木克英監督という「空飛ぶタイヤ」と同じ座組となっています。
「空飛ぶタイヤ」は扱っているテーマの重さからか、骨太な社会派ドラマといった印象を持ちました。
またドラマ「半沢直樹」で使われた「倍返し」という言葉が数年前に流行りましたが、池井戸さん原作の映像作品は、やられた方がやり返すカタルシスが特徴である印象もあります。
骨太さ、熱さといった今までの池井戸ドラマのトーンを期待していくと、本作は少し印象が違います。
主演が阿部サダヲさんであるというのは一つそういった印象を持つ大きな要素かもしれないです。
阿部サダヲさんは色々演じられる方ですが、割と飄々としたキャラクターのイメージがあります。
本作で阿部さんが演じる西木もそのようなイメージのキャラクターだと思います。
今までの池井戸ドラマの主人公は割と意志が強い熱い男が多かったかと思います。
彼らは主人公として非常に強いキャラクターでドラマを牽引する力があります。
つまりは彼らはフィクション的であり、現実離れしたキャラクターであるのでしょう。
西木はそれらのタイプとはちょっと違います。
飄々としていていて、情けないところも少々ある。
その反面、人をよく観察していてよく気が付きますし、言うべきところでは言うこともあるしっかりとした側面もある。
掴みどころがないとも言えます。
今までの池井戸ドラマの主人公に比べれば普通の人、なのかもしれません。
とは言いつつ、筋が通らないことは許せないという思いはこれまでの池井戸ドラマの主人公とは共通していて、その思いで後半はドラマを展開させていきます。
西木はこのような強さは持っているのですが、合わせて弱さも持っています。
ラスト前での西木の行動はこの弱さを表しています。
「強さ」一辺倒ではなく、合わせて人間らしい「弱さ」を持っているという点で、今までの池井戸ドラマの主人公に比べ、普通の人という印象を持たせるのかもしれません。
そのためか、カタルシスという点では半沢直樹的なものを期待すると少々物足りないかもしれないですね。

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2023年2月26日 (日)

「『鬼滅の刃』上弦集結、そして刀鍛冶の里へ」炭治郎の強さ

こちらの作品は厳密には映画として制作されたものではなく、「遊郭編」のラスト2話、そして「刀鍛冶の里編」の第1話をそのまま繋げたものとなります。
4月から「刀鍛冶の里編」のテレビ放映がされますので、そのティザー的な役割で公開されたと考えられますが、それでも劇場で見ると感じ方が違います。
やはり大画面と音響の違いは大きいです。
まず遊郭編の第十話ですが、これはほぼ全編、炭治郎ら鬼殺隊と妓夫太郎・堕姫の最終決戦を描きます。
私は元々は配信版をパソコンの画面で見ていて、それでもあまりの超絶作画に驚いたものですが、これを大画面で見るとさらに驚きます。
目で追いきれないほどのスピード感、迫力のあるアングル、緩急を織り交ぜたリズム、どれをとっても超一級品の仕上がりです。
「鬼滅の刃」の場合、手書きとCGを巧みに使い分けているようですが、それらの手法を知り尽くしているからこそ、使いこなせてこのような表現ができているのだと思いました。
これはテレビの画面だけでは収まらない仕上がりです。
そして第十一話です。
こちらは激しい十話から一転して、妓夫太郎・堕姫の悲しい過去のエピソードです。
「鬼滅の刃」は鬼にまつわるエピソードも心を打つものが多いですが、彼らの過去も哀しい。
社会の片隅でひっそりと生き、それでも迫害されて、人を憎み、結果鬼となった二人。
そして何より、彼らを思いばかる炭治郎に涙します。
炭治郎という男は剣が誰よりも強いわけではない。
けれどもその気持ちは決して揺らぐことがない。
それが彼の強さです。
第十話でも仲間が皆倒れ、自身の指の骨も折られたにも関わらず、決して鬼の首を獲ることを諦めなかった。
そして彼は人か、鬼かに関係なく、優しい。
最後に互いに罵り合う妓夫太郎・堕姫の口を塞ぎ、二人が安らかに逝けるようにしてあげました。
どんな状況であろうと、誰であろうと、優しいということに炭治郎は決してぶれません。
それは彼の強さです。
炭治郎の強さが味わえるのも「遊郭編」のラスト2話だと思います。
そうそう、善逸も伊之助のかっこよさを味わえるのもこの2話ですね。
特に善逸はかっこいい。
「刀鍛冶の里」編については、まだ導入編なのでなんとも言えませんが、柱が二人登場するので、どのように話が展開するか楽しみです(原作読んでいないもので)。

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2023年2月23日 (木)

「#マンホール」主人公への共感の逆転

主人公がある危機的な状況下に置かれて、そこから必死の脱出を図るワンシチュエーション・スリラーには、[リミット〕など傑作が多い。
映画としてはシチュエーションが変わらず、画的に変化が出しにくいという点では不利であるではあるが、そのような制約を凌駕するようなアイデアがあるところが、評価が高くなる理由だろうと思います。
本作「#マンホール」もそのようなワンシチュエーション・スリラーの一つとなります。
主人公川村は結婚式の前の晩、同僚たちによるお祝いの宴会の後、酔ったためかマンホールに落ちてしまう。
落ちる際に怪我を負ってしまったため、川村は自力ではそこから脱出できない。
彼は助けを求めるが、次第にこのような状況になったのは誰かが仕組んだためではないかと強く疑いを強めていく・・・。
本作でユニークなのは、現代らしくスマートフォンやネットの力を使って主人公が脱出を試みようとするところでしょうか。
大概このようなワンシチュエーション・スリラーの場合、携帯電話は早々に壊れたり、無くしたり、バッテリーが上がったりして使えなくなることが多いですよね。
万能アイテムなので、設定に制限を加えにくいということで真っ先に封印されるのだと思いますが、本作は違います。
自分が落ちた場所を特定するために、スマホのGPSを使ったり、情報を集めるために偽アカで、ネット民たちに情報を募ったり、今時の使い方で状況の打破を狙います。
しかし、便利さゆえの危うさも描いていて、スマホはすでにハッキングされていてGPSは狂わされていて、主人公はそれに気づかずミスリードされてしまいますし、利用としていたネット民は勝手に暴走し、コントロールから外れていきます。
自分で制御できていると思いきや、かえって翻弄されてしまうというのはネットではよくあることだと思います。
全てをコントロールできているという、自信は本作の主人公川村の特徴だと思います。
冒頭、彼は優秀な営業マンで人々からも人望が厚い人物として描かれます。
しかし、マンホールに落ちてからは徐々に彼の本質が見えてきます。
なかなか探しにこない警察には、かなり強い口調でクレームを言いますし、元彼女に対しても打算的な発言で自分の思い通りに動かそうとしています。
これは冒頭のイメージの人物とは印象がかなり違う。
この違和感が実は伏線になっていたのです。
本作を観ていると、最初はこの主人公を気の毒に思い、助けてあげたいと共感を持ちますが、次第に明らかになっていく彼の本質を見るに従い、徐々に彼から気持ちが離れていく気分になります。
見ている側の主人公に対する感じ方がいつしか真逆にさせていく展開が巧みです。
ラストは想像していない展開で驚きがあります。
主人公への共感が180度ひっくり返った上で、このラストは腹落ち感がありました。「#マンホール」

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2023年2月11日 (土)

「バビロン」デイミアン・チャゼルの映画観

バビロンとは古代メソポタミアの国バビロニアの首都であるが、退廃の都として語られることも多い。
本作がバビロンをタイトルにしているのは、映画がメディアとしてエンターテインメントとして立ち上がった黎明期の熱狂を言い表そうとしているからだろう。
本作は長尺でありながら、密度が高く、見るにもかなりのカロリーがかかる。
冒頭より不快なシーンが多く、気力が萎えそうになるのだが、惹きつけるエネルギーを持った作品だとも思う。
なので、本作は色々な切り口で語られることが多いと思うが、私は本作が監督デイミアン・チャゼルの映画観を語ったものであると感じた。
本作で描かれている時代は、映画がサイレントからトーキーに切り替わろうとしていた時期である。
本作を見て改めて思ったのは、映画という芸術は他(絵画や演劇、音楽)と違いテクノロジーによってアップデートしていくというユニークな特性を持っているということである。
そもそも映画という芸術は、動画を記録することができるフィルムというテクノロジーによって生まれた。
最初はサイレント、次にトーキー、そしてカラー、最近では3DやCG表現などと、映画はアップデートしている。
このような芸術は他にはない。
また映画はこれもほぼ初めて大衆向けの芸術であるということもユニークである。
劇中でも語られるが、演劇はその場にいる者しか味わうことができず、そのため限られた層に向けた芸術であった。
そもそも芸術というのは限られた層しか味わうことができず、芸術が大衆化されたのは映画からと言ってもいいかもしれない。
また劇中でエリノアがジャックに語ったように映画は50年経っても、同じものを味わうことができる永続性を持っている。
演劇はストーリーは同じでも演者も演出も変わるだろうし、音楽も同様だ。
そして、最後に映画という芸術は一人で生み出すことはできず、非常に多くの人が関わるという点も他の芸術とは大きく異なる。
そのためビジネスという側面が非常に色濃くならざるを得ない。
デイミアン・チャゼルは映画という芸術の持つ特徴は永続性であると考えているのではないかと思う。
他の芸術と異なるのは、技法や表現が固定化されるのではなく、テクノロジーによってアップデートしていくという点だ。
ラストでいくつかの映画のモンダージュがあるが、ここを見ても監督がこの点を強く意識していることがわかる。
そして、そのため非常にシステムが大きくならざるを得ず、ビジネスの側面を色濃く持つ。
本作に登場する人物は映画が持つそのような特徴に翻弄される。
本作ではサイレントからトーキーに映画がアップデートされるが、サイレント時代のスター、ジャックは台詞回しを観客に失笑される。
ネリーは黎明期の熱狂の中では光り輝いていたが、次第にシステムとして強化された映画界では爪弾き者となっていく。
映画という芸術がアップデートされるときに、どうしてもその変化についていけず落伍してく者が現れる。
登場人物の一人マニーは映画という大きなものの一部になりたいと、業界に飛び込むが、映画に関わる人間は一部にしかなり得ない。
それはスターであっても。
エリノアはスターは概念であると、ジャックに語るが、スターであっても映画の一部なのだ。
映画という巨大な芸術において、関わるものはその部分の役割を担うことしかできない。
こうなると映画に対して、人は無力感を持つかもしれないが、それでもあまりあるのが映画の永続性と大衆性なのだと思う。
ラストシーンで多くの人が映画を見て楽しんでいる。
古い映画を楽しむ人も多いだろう。
関わった映画が、時代を越え、場所を越え、多くの人に影響を与えている。
たとえ部分であっても、そのような映画に関われることが映画人にとってやりがいを感じることなのだろう。
最後にマニーが涙するのは、それを改めて感じたからではないだろうか。

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2023年2月 8日 (水)

「レジェンド&バタフライ」信長を作った女

現在オンエアされている大河ドラマ「どうする家康」の脚本家古沢良太が手掛けるもう一つの戦国ドラマです。
「どうする家康」では食えないタヌキ親父のイメージで語られることが多い家康を、優柔不断で自信がない男という新しいイメージで描いています。
本作では信長を主人公に据えていますが、今まで語り尽くされた感のあるこの男をどのように料理するのでしょうか。
信長は「魔王」と形容されることが多く、苛烈なキャラクターとして描かれることが一般的です。
「どうする家康」の信長もこのようなイメージで描かれていますね。
また信長はそれまでの価値観を大きく変えたビジョンを持つ男として描かれていることも多々あります。
楽市・楽座といった経済の新しい仕組みを作ったり、外国との交易にも積極的であったりという点がそのようなイメージを作ってきたのかもしれません。
しかしながら、本作の信長はそうではありません。
劇中、「魔王」と形容されることはありますが、それは自らの信念を持ってそうなっていったということではありません。
本作の信長は決して愚鈍ではありませんが、ビジョナリーではないように思いました。
しかし、なぜ彼は一介の戦国大名から京まで登り、将軍以上の威光を獲得することができたのでしょうか。
本作ではその答えを信長の妻、濃姫に求めます。
濃姫は織田家が治める終わりの隣国、美濃の斎藤道三の娘で、戦略結婚で信長の妻となりました。
彼女は歴史上ではあまり触れられることがなく、その生涯は明らかではありません。
本作では男まさりの性格であり、また大きな野望を持つ女性として描かれます。
彼女が夫、信長に影響を与えていくのです。
本作は歴史物ではなく、戦国時代を舞台にしていますが、ラブストーリーとだと言えます。
信長は濃姫に恋し(それはあまり態度に表しませんが)、彼女の夢を叶えるために、行動していったと言えます。
信長は、彼女の夢を自分の夢とした。
純で、ある意味苛烈な恋であったのだと思います。
妻の夢を叶えるために、魔王となったわけですから。
しかし、魔王が行った所業に濃姫は心を痛めます。
だから再び、魔王は人に戻りました。
それが恋する妻の望みであったから。
信長がそれに自覚的であったかどうかはわかりませんが、彼女の望みを叶えたいという気持ちで彼は行動し続けた。
ある意味、濃姫が信長を作ったと言えるでしょう。
あまりに信長の思いが純だったので、正直恥ずかしくなるような気分にもなりました。
上で書いたように時代劇というよりは、ラブストーリーであったからです。
前日に見た「仕掛人」がザ・時代劇であったので、落差を感じましたが、こういうテイストであれば今の若い人にも時代劇を受け入れやすいかとも思いました。

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2023年2月 4日 (土)

「仕掛人・藤枝梅安(一)」情を描く

何度か書いていますが、親が時代劇好きだったので、子供の頃からこのジャンルは馴染みが深いのです。
「水戸黄門」や「大岡越前」などは夕方の再放送をよく見ていたので親しみがありますが、「必殺!」シリーズなども好きで小学生の高学年の頃から見てました(今、考えると小学生が見るには色々過激だったような気もしますが)。
最近はテレビでも映画でもこのような時代劇はほとんど絶滅していますが、本作「仕掛人・藤枝梅安」は池波正太郎生誕100周年の記念作品として、制作されました。
「必殺!」シリーズのベースとなった「仕掛人・藤枝梅安」の何度目かの映像化作品になります。
「必殺!」シリーズは「仕掛人」から始まりましたが、独自なエンターテイメント作品として進化していきましたが、本作は原作に近い印象となるかと思います。
最近も時代劇作品は時折作られてはいますが、現代的な解釈がされているものが多く、あの頃の時代劇のテイストは失われていルように感じます。
しかし、本作はあの頃の時代劇らしさが味わえるものとなっています。
あの頃の時代劇らしさとはなんでしょうか。
一言で言うと「情」ではないかと思います。
ここで言う「情」とは人の「欲」や「恨み」そして「思いやり」などの人間の感情の根源の方にあるものです。
正でも負でも人間を動かす根源的な動力源のようなもの、これが情ではないでしょうか。
本作は人の「情」を深く描いており、これもかつての時代劇で味わえた感覚です。
池波正太郎が生み出した「仕掛人」という設定は非常によくできたものだと思います。
「水戸黄門」や「大岡越前」は勧善懲悪で、悪をお上が裁くという非常にわかりやすい構造となっていますが、「仕掛人」は違います。
彼らは金をもらって人を殺すことを生業とする者で、常識的には悪人です。
しかし、彼らはお上が裁くことができない悪をなす者を始末してるという点で正義を貫いているとも言えます。
梅安にしても彦次郎にしても仕掛人である己の立場をわきまえていて、だからこそ二人はいつ死ぬかもしれないという思いで生きています。
彼らは悪でありながら善であるという二つの側面を持っていますが、虐げられる者であり、裁く者であるという二つの側面を持っているとも言えます。
梅安も彦次郎も仕掛人として悪を裁いてはいますが、かつては底辺の生活を送っており、そういう意味では虐げられる者でもありました。
「仕掛人」シリーズはそのような両面を持つ立場を持つ者を主人公にしているからこそ、勧善懲悪の構造では描ききれない、虐げられるものの思い、情を深く描写することができているのだと思います。
本作の主要な登場人物であるおみのは、かつて虐げられる者でしたが、今は虐げる者の側になっている点では、梅安とは異なるものの二つの側面を持つ人物と言えるかもしれません。
もしかすると梅安も同じような立場になったかもしれないし、おみのも梅安のようにもなれたかもしれません。
しかしそれは言っても詮無いことで、過去を変えることはできず、己の行ったことは己で背負わなければならない、と梅安は考えています。
梅安はそこに情を差し込むことは決してせず、己がすべきことをする。
しかし、彼の佇まいには無情でありながらも、情を感じることができます。
その情を描き切るのが、時代劇。
時代劇らしさを堪能できた作品でした。

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