「ある男」アイデンティティの危機
「アイデンティティ」という言葉があるが、これは自分はこういうものであるという自己認識を意味する。
周囲の何ものにも影響されない確立したアイデンティティを持っている人はいるかもしれないが、多くの人のアイデンティティは帰属意識に関わる。
すなわち、日本人である、誰々の息子である、何々という大学を出ている、など。
大学や会社などは自分で選択はできるが、どこの国の人か、誰の子供であるかなどは自分で選べない属性もある。
本作で窪田正孝さんが演じる谷口大佑(と呼ばれる男)は、殺人を犯した死刑囚の息子であった。
その事実が彼のアイデンティティを非常に不安定なものにしている。
彼が谷口を名乗っていた時期の様子を見るにつけ、彼自身の性格は大人しく、しかし愛情の深い性格のように見える。
しかし、彼は父親が殺人を犯し、そして親と瓜二つの容姿であることから自分の中にも同様の性質があるのではないかということに日々怯えていた。
そのギャップが日々大きくなっていき、彼はアイデンティティの危機(自分が何者かわからなくなる)に陥っていったのだろう。
誰かの息子という事実は普通は変えられない。
追い込まれた彼は、戸籍交換という手段を取るのだ。
自分を一度リセットするために。
谷口の妻に依頼され、彼の出自を追うのが、妻夫木聡さん演じる弁護士の城戸だ。
彼はとても成功している弁護士であり、妻子を持ち、幸せな家庭を築いている。
城戸は谷口の素性を洗っていく中で、次第にそれに惹きつけられるように没頭していく。
実は彼は在日三世であり、日本人に帰化した男であった。
詳しくは語られないが、在日としての苦労は味わってきたのだと思われる。
彼は帰化という手段により、日本人であるという帰属意識を手にいれ、アイデンティティのバランスをとった。
しかし、彼が在日という言葉にあえて無理に反応しないようにしている様子を見るにつけ、彼の奥底では葛藤があるようにも思える。
だからこそ、同じようなアイデンティティの葛藤に苦しんでいた谷口に惹かれたのではないか。
谷口は若い時にアイデンティティの危機に陥ったが、結果的には数年とはいえ、幸せな時間を過ごすことができて、死んでいった。
城戸は日本人となり、誰もが羨むような幸せそうな生活を送っているものの、それが本当の自分ではない、居心地の悪さを感じているのかもしれない。
谷口に対し、城戸は羨みを持っていたのかもしれない。
ラストのバーの場面で、城戸は見知らぬ男に対して、谷口のプロフィールを使い自分のことを紹介していた。
城戸も理想的に暮らしている自分と、内面にある本当の自分の間にあるギャップを感じている。
彼がアイデンティティの危機に向かっていくのではないかという余韻を感じさせる結末であった。
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