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2022年12月30日 (金)

「ラーゲリより愛を込めて」本当に生きる

2022年最後の映画鑑賞はこちらの作品。
私が生まれた頃は太平洋戦争が終結してから20年ちょっとで、すでに戦争は昔の話となっていました。
とはいえ、祖父母も、そして親(かなり幼かったと思いますが)戦争は体験しており、全くその影がなくなっていたわけでもありません。
しかし、再びウクライナ戦争により、戦争というものが引き起こす悲劇を目にすることとなっています。
たまたまではありますが、その関係国であるロシア(旧ソ連)が本作では舞台となっており、観客としてもより一層現在とリンクして観てしまいます。
シベリア抑留という出来事は歴史の勉強の中で、知識としては持っていますが、その過酷さは知りませんでした。
まず本作を見て感じるというのは、戦争というものが容易に人間性というものを剥ぎ取ってしまうということです。
日本人もロシア人も戦争という行為の中で命令に従うため、生き延びるため、人間性を捨てます。
劇中で相沢軍曹が言っていたように捨てないと生きていけないのです。
しかし、そのような状況の中で主人公の山本は最後まで人間であることを止めませんでした。
先ほど生きるために人間を捨てると書きましたが、しかしそれで本当に「生きている」と言えるのでしょうか。
自分を捨て、流されるままに生きる。
命令されることを粛々とやるために生きる。
これが「生きている」ということなのか。
山本は彼の生き様を通じて、仲間たちに「本当に生きる」ということを伝えます。
「本当に生きる」ために必要なのは「希望」、そして「希望」がなくともそれでも「生きる」」ことにより「希望」は見つかる。
それにより、彼らは生き抜くことができたのです。
本作の前半はこのような戦争の中での人間性をテーマにしているように思いました。
そして後半はタイトルに関わるテーマにに発展していきます。
タイトル「ラーゲリより愛を込めて」ということから想像していたのは、抑留された主人公が、内地にいる妻に向かって手紙を出し続けるというようなエピソードでした。
ちなみに原作は読んでいません。
しかし、本作ではなくタイトルが意味するのは山本の遺書の話だったのです。
彼は収容所でガンに侵され亡くなってしまいます。
そのため仲間たちは彼に家族に向けた遺書を書くように進めます。
しかし、収容所では日本語で記録された文書はスパイ行為として没収されてしまいます。
遺書も例外ではありません。
そのため、仲間たちは山本の遺書を分割して、4人がそれぞれ記憶し、日本に戻れた暁月には残された家族にメッセージを伝えるということにしたのです。
これは彼らに彼らが生きるための目的を与えたということかもしれません。
山本は死んでも、仲間たちに生きるための希望と目的を与えたのです。
家族にメッセージを伝えた一人松田が記憶したのは山本の母へのメッセージでした。
松田は収容所で母親が亡くなったことを知り、一時期生きる気力を無くしました。
また相沢は山本の妻へのメッセージを託されました。
彼もまた妻と子供を空襲で亡くしていたのです。
彼はそれを知った時、自らの命を断とうとしましたが、山本に止められたのです。
松田も相沢も、山本の家族にメッセージを伝えることができ、その言葉は彼ら自身の亡くなった家族へのメッセージとも重なり、彼ら自身の救いにもなったように感じました。
この脚本のアイデアは素晴らしく、見ていて大きく心を揺さぶられました。
今現在も戦争は続いています。
この映画で描かれた悲劇のようなことは今も起こっているかもしれません。
来年はそのような悲劇が起こらないように、早く戦争が終わることを願いたいです。

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2022年12月27日 (火)

「仮面ライダーギーツ×リバイス MOVIEバトルロワイヤル」インフレしてきているクロスオーバー

恒例の冬のライダー劇場版です。
オンエア中の最新ライダーと前作のライダーのクロスオーバーになっているのは、「仮面ライダーディケイド」と「仮面ライダーW」からの伝統となります(一部例外もありますが)。
「リバイス」は先が予想つかない展開で最後まで楽しましてもらいましたし、「ギーツ」も今までにないストーリーでこちらも毎回見逃せません。
これもそれぞれのライダーの世界観がしっかりと確立しているからであるからこそだと思います。
そのため、冬の劇場版のクロスオーバーは全く違う世界観の作品を接着しなくてはいけないため、かなり無理がかかります。
なので、イベントムービーとしては話題化できても、作品としてはなかなか厳しい評価となってしまいます。
個人的にはうまくいっているのは「仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010」くらいだと思います。
これは「ディケイド」の世界を渡り歩くライダーという世界観がうまく機能しているためですし、また「W」の方は前日譚として非常によくできた話になっていたためだと思います。
そして最近のクロスオーバーは2つの世界観を接着することに加え、別の要素もプラスされています。
昨年であればライダー50周年の要素ですし、今回であれば「仮面ライダー龍騎」の要素です。
要素が増えれば増えるほど説明も必要になりますし、それぞれを描き方も薄くならざるを得ません。
「龍騎」ついては今までも何度か出てきていますが、毎度同じような登場の仕方になっていて新鮮味もありません。
もう少し掘り下げてくれれば、往年のファンも満足できるような気もしますが、結局はただの話題化の要素になってしまっているような気がします。
コロナのために計画が狂い、冬に公開となった「ゼロワン」の単独作品は非常にレベルが高かったように思います。
冬の劇場版はクロスオーバーでなければならぬということも見直ししてもいい頃かもしれません。
本作でも前半の「リバイス」パートは後日談として魅力的な展開であったと思うので、もう少し掘り下げても良かったように思います。
色々興行的に大人の事情もあるかと思いますが、徐々に物語がインフレーションしているので、考えてもらいたいところです。

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2022年12月21日 (水)

「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」段違いの映像表現

13年ぶりに公開される「アバター」の続編となります。
「アバター」はエポックメイキングな作品で、それまでもあった3DCG表現を1段も2段も超えさせた表現で観客を驚かせました。
当時の私の記事を見返してみると、それまでの3DCGとは異なり奥行き感を表現していたと書いていました。
本作ではさらに進化をしていて、空気感のようなものまでも描写できていたと思います。
本作の舞台は海となり、水中での表現もかなり多くなっているのですが、見事に表現をしていました。
海中は厳密には透明ではなく、非常に細かいプランクトンのようなものも漂っていますし、光の透過も空気中とは異なります。
自分の周りに水があるような空気感(変な表現ですが)を表現できているように思います。
また水中にあるものは水の圧力を受けているわけで、空気中とは違う動き方をします。
水の抵抗感のような質感もリアルに再現されていました。
前作が公開された頃は3Dムービー元年と呼ばれ、「アバター」以外にもかず多くの3D映画が作られました。
しかしその多くは通常のカメラで撮ったものをCGで立体視できるように加工したものが多かったように思います。
そのためか、3Dメガネをかけてみた時も、立体感を感じてもナチュラルさは感じにくかったかと思います。
その不自然さからか、見ていると非常に目が疲れるので、いつしか3Dか2Dかだったら2Dを選んで見るようになりました。
おそらく多くの人もそう思ったので、このところ3D上映はほとんど見かけなくなりました。
本作を見るにあたり、3Dにしようか迷いましたが、キャメロン監督がこだわっているので3Dで鑑賞をしました。
監督が執着しているだけあって、3D表現はまさにリアルで没入感が非常に強かったと思います。
水中のシーンでは先ほどの描写の見事さと3D視のナチュラルさで水の中にいるかと思うほどです。
これならばケチらずIMAX3Dで見ればよかったと思いました。
他の作品との格の違いを見せつけた表現力で、それだけでも一見の価値があるかと思います。
ストーリーについてはどうでしょうか。
3時間越えの作品ではありますが、ストーリーは非常にシンプル。
前作ではアバターの設定や惑星パンドラ、ナヴィの設定などを説明する必要がありましたが、本作ではその必要はありません。
そのためジェイクとその家族周辺の物語にフォーカスされています。
本作はストーリーありきというよりは、見せたいシーンのためにストーリーがあるような気がするほどです。
見せたいシーンであるアクションシーンは非常に見応えがあり、特に後半は息を吐く暇もないほどです。
その分、キャラクターの掘り下げなどは薄く、人物描写にはあまり深みを感じません。
元々キャメロン監督は深い人物描写はあまり得意ではないと思いますので、ある種の割り切りも感じます。
こういう作品でもストーリーとキャラクターも重視したいという方にはあまりお勧めできません。
どちらかというと映画の中に没入して、ナヴィたちと一緒にパンドラに居るという気分で見るのが良いでしょう。

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2022年12月17日 (土)

「ザリガニの鳴くところ」彼女の強さ

主人公はノースカロライナの湿地帯で、親兄弟に捨てられ一人で暮らしてきた少女カイア。
彼女は街の人々から「湿地の少女」と呼ばれ、異質な者として謂れのない差別を受けて生きていました。
彼女にとって湿地帯は、自らが生きるための糧でもあり、彼女を守る城でもあり、生きる術を教えてくれる教師でもありました。
本作はたった一人で逞しく生き抜いていくカイアの成長を描く物語でもあり、また人がいかにレッテルで他人を見てしまっているかということの問題提起もしています。
またミステリーとしての面白さも併せ持っていて、様々な視点で興味を引くことができる傑作となっています。
ですので、色々な視点で本作を語ることができると思いますが、ミステリー的な視点で見てみたいと思います。
<ここからネタバレあり>
ある時、湿地帯で街の若者チェイスの死体が発見されます。
当初は事故と思われていましたが、カイアが殺人者として逮捕されてしまいます。
一時期カイアとチェイスは恋人のような関係になっていましたが、実のとことはチェイスには婚約者がおり、彼にとっては遊びであることが露呈して、破局していたという経緯があったからです。
彼女はその事実が明らかになった時、チェイスに詰め寄りますが、かえって彼から酷い暴力行為を受けます。
そして彼は街の有力者の息子であり、彼女を破滅させる力も持っています。
彼女には動機はあったのです。
さらにはカイアは「湿地の少女」と呼ばれる異質な者であり、街の人々は当初は根拠のないまま彼女を犯人扱いしていました。
しかし、裁判を通じて彼女の凄まじい半生が明らかになり、また弁護人の巧みな論述により、彼女は無罪を勝ち取ります。
検察側の思い込みによる犯行経緯の筋書きの荒っぽさも影響与えたと思われます。
作品を見ている我々も彼女に対し、陪審員ように彼女に同情的になっていきます。
カイアは将来夫となるテイトにアドバイスをもらい、彼女の湿地の生物に対する知識を紹介する本を出版することになりました。
チェイスに暴力を振るわれた後に、編集者とカイアが打ち合わせの場ででホタルについて語るところがあります。
カイア曰くホタルの光り方には2種類あるとのこと。
一つは交尾をする相手を引き寄せるため。
もう一つは生きるために相手を捕食するため。
編集者はそれを聞き恐ろしいですね、とコメントをしますが、カイアはその時「生き物には生きるために善悪の観念はないのかも」と言います。
私はこの言葉におやっと思いました。
彼女に取って沼地はまさに教師そのものであり、生きる術をそこから学びました。
また本作のタイトル「ザリガニの鳴くところ」は非常にユニークですが、これもカイアの母親が夫に暴力を振るわれた時に、子供たちに「ザリガニの鳴くところまで逃げなさい」と言います。
そこまでは追いかけてこないから、と。
彼女にとって、自分を破滅させようとするチェイスの存在そのものが生存の危機の原因であり、「ザリガニの鳴くところ」まで逃げるためにはチェイスそのものを消し去らなければいけません。
カイアは湿地帯以外では生きられないのですから。
個人的には編集者との会話でカイアは非常に怪しいと思いつつも、かたや陪審員と同じく同情心は持ちましたし、検察側の飛躍的な推論にも無理があると感じました。
そのように思わせる構成が巧みであり、最後はやはり彼女は無実だったのだと結局は思いました。
ですが、物語の最後のあの展開です。
やはり、とも思いましたが、衝撃的でありました。
彼女は湿地に育てられた生き抜くための強さを持った「湿地の少女」であったのです。

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2022年12月11日 (日)

「ブラックアダム」DCUの行く先は?

順調に拡大を続けているMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)に対し、DCの作品は迷走を続けている感があります。
一時期はザック・スナイダーの元、DCEU(DC・エクステンデッド・ユニバース)として展開されていましたが、次第に空中分解してっているような印象があります。
もちろん単独で見ればいい作品(例えば「ワンダーウーマン」や「アクアマン」など)も多いのですが、MCUのような世界観は提示されるには至っていません。
MCUのケビン・ファイギのような卓越したプロデューサーがいないためと言われ、最近では大幅な組織改革の末に、ジェームズ・ガンとピーター・サフランがDCユニバースの再建を任されました。
最近の報道ではその方針に合致しないということで、予定されていた「ワンダーウーマン3」はキャンセルされたということです。
DCの作品では、DCU(最近はエクステデッドを取ったこの言い方になっているらしい)に属さない独立した「ジョーカー」や「ザ・バットマン」なども高評価を得ているので、個人的には無理やりユニバースにしなくてもいいのではないかとも思っています。
さて、本作「ブラックアダム」はユニバースに属しているのか、独立しているのかと言えば、前者にあたります。
「シャザム!」や「スーサイド・スクワッド」にも登場しているキャラクターが本作にも登場していることがわかりますし、最後の最後に超有名なあの人もサプライズで出てきます。
MCUのユニバースは緻密に組み立てられていて、新しい登場人物が出てくる時も、それまでの流れを押さえた上で計算されているので、違和感や突然感はあまりありません。
対してDCUは「ジャスティス・リーグ」もそうでしたが、かなりキャラクターの投入の仕方が荒っぽい。
本作でもブラックアダムに対抗する新たなヒーローチームJSAが登場しますが、ここに属するヒーローは我々にとって初めて会う人たちばかり。
彼らについて掘り下げる時間がないため、ブラックアダムに当てるためのその他大勢的な印象は拭えず、魅力的には見えませんでした。
ブラックアダム自身については、彼の出自も含めしっかり語られているので、現在なぜああいうアンチヒーロー的な立場になっているのかも理解でき、感情移入もできるようになっていると思います。
ただ、DCの作品のヒーローというのは、割とスーパーマン的なマッチョタイプなステレオタイプのものが多く、ブラックアダムのその亜流に見えてなりませんでした。
劇中で登場人物のセリフの中に「スーパーヒーロー」や「チャンピオン」という言葉がダイレクトに出てくるところに興が削がれます。
MCUのヒーローが近年、多様性を相当に意識し、それゆえユニークな物語を生み出せているのに対し、どうしても過去のスーパーヒーロー像に縛られ、新しさを出しきれていないのがDCUな気がしてなりません。
新しいリーダーによるDCUはどのように変わるのでしょうか?
ジェームズ・ガンは「ザ・スーサイド・スクワッド」でもいい仕事してくれていたので、期待したいところです。

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2022年12月 3日 (土)

「ある男」アイデンティティの危機

「アイデンティティ」という言葉があるが、これは自分はこういうものであるという自己認識を意味する。
周囲の何ものにも影響されない確立したアイデンティティを持っている人はいるかもしれないが、多くの人のアイデンティティは帰属意識に関わる。
すなわち、日本人である、誰々の息子である、何々という大学を出ている、など。
大学や会社などは自分で選択はできるが、どこの国の人か、誰の子供であるかなどは自分で選べない属性もある。
本作で窪田正孝さんが演じる谷口大佑(と呼ばれる男)は、殺人を犯した死刑囚の息子であった。
その事実が彼のアイデンティティを非常に不安定なものにしている。
彼が谷口を名乗っていた時期の様子を見るにつけ、彼自身の性格は大人しく、しかし愛情の深い性格のように見える。
しかし、彼は父親が殺人を犯し、そして親と瓜二つの容姿であることから自分の中にも同様の性質があるのではないかということに日々怯えていた。
そのギャップが日々大きくなっていき、彼はアイデンティティの危機(自分が何者かわからなくなる)に陥っていったのだろう。
誰かの息子という事実は普通は変えられない。
追い込まれた彼は、戸籍交換という手段を取るのだ。
自分を一度リセットするために。
谷口の妻に依頼され、彼の出自を追うのが、妻夫木聡さん演じる弁護士の城戸だ。
彼はとても成功している弁護士であり、妻子を持ち、幸せな家庭を築いている。
城戸は谷口の素性を洗っていく中で、次第にそれに惹きつけられるように没頭していく。
実は彼は在日三世であり、日本人に帰化した男であった。
詳しくは語られないが、在日としての苦労は味わってきたのだと思われる。
彼は帰化という手段により、日本人であるという帰属意識を手にいれ、アイデンティティのバランスをとった。
しかし、彼が在日という言葉にあえて無理に反応しないようにしている様子を見るにつけ、彼の奥底では葛藤があるようにも思える。
だからこそ、同じようなアイデンティティの葛藤に苦しんでいた谷口に惹かれたのではないか。
谷口は若い時にアイデンティティの危機に陥ったが、結果的には数年とはいえ、幸せな時間を過ごすことができて、死んでいった。
城戸は日本人となり、誰もが羨むような幸せそうな生活を送っているものの、それが本当の自分ではない、居心地の悪さを感じているのかもしれない。
谷口に対し、城戸は羨みを持っていたのかもしれない。
ラストのバーの場面で、城戸は見知らぬ男に対して、谷口のプロフィールを使い自分のことを紹介していた。
城戸も理想的に暮らしている自分と、内面にある本当の自分の間にあるギャップを感じている。
彼がアイデンティティの危機に向かっていくのではないかという余韻を感じさせる結末であった。

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