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2022年10月16日 (日)

「バッドガイズ」レッテル破り

「プリキュア」の映画を娘と見に行った時に予告がかかっていて、彼女が行きたいと言ったので一緒に鑑賞。
ドリームワークスのアニメーションはあまり見たことがなかったのですが、同じ3Dアニメーションでもピクサーとはまたちょっと違う質感・タッチで新鮮でした。
ピクサーはキャラクターはデフォルメされていますが、質感は割とリアル志向ですが、本作は質感は3Dアニメとセルアニメの中間くらいな感じです。
最近は3Dで描きながら、表現は2D的にする作品もありますが、それともちょっと違います。
2.5Dくらいという感じかな。
主人公ミスター・ウルフとその仲間ミスター・スネーク、ミス・タランチュラ、ミスター・シャーク、ミスター・ピラニアは銀行強盗。
冒頭から銀行強盗シーンがありますが、その軽妙なテイストは見たことがあるなという印象でした。
そう、私の世代的には「ルパン三世」です。
本作を企画している際に、日本やフランスのアニメを研究したそうで、宮崎駿監督の作品も参考にしたそう。
「ルパン三世」も参考にしたかもしれませんね。
そういえばカーチェイスシーンはルパンっぽいノリは感じられました。
冒頭に書いたトーンもアメリカのゴリゴリの3Dではなく、柔らかいタッチを感じましたが、日本やフランスのアニメの影響かもしれません。
さて、ストーリーですが、主人公たちは、狼・蛇・蜘蛛・鮫、そしてピラニアです。
予告を見ていた時に、なんでこんな動物たちが主人公なのかな?と思ったのですが、見初めて理解できました。
この5種類の動物たちは一般的に嫌われている動物なんですね。
冒頭の銀行強盗シーンでも、彼らは正体を明らかにして盗みますが、人々は彼らの姿を見て、恐るばかりで抵抗しません。
彼らは見た目で人々から恐れられ、結局普通に生きることはできず、バッドガイズとしてしか生きられなかったんです。
まさにこれは現代的なテーマでレッテル貼りですね。
いくらその本人の本質が異なっていても、人々は見た目や所属でその人のことを判断しがちです。
そこからその本人も脱することはしにくい。
そのレッテルに縛られてしまう。
本作はウルフたちが、自分たちに貼られたレッテルから自らを解き放ち、自分らしく生きていこうとする物語です。
まさにレッテル破りです。
ウルフの声を担当していたのは尾上松也さん。
普通の演技は上手いのは知っていましたが、声の演技もなかなか。
声優を本業にしてもいいんじゃないかと思えるくらいの上手さで驚きました。

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2022年10月15日 (土)

「さかなのこ」男か女かはどっちでもいい

「南極料理人」の沖田修一監督がさかなクンの映画を撮ったということで行ってきました。
それも主演がのんさん。
のんさんがさかなクン???
そして作品の冒頭に「男か女かはどっちでもいい」との謎の言葉が。
のんさんが演じるのは魚が大好きなミー坊。
ミー坊の幼い時から物語が始まりますが、それを演じているのはどう見ても子役の女の子。
さかなクンのような魚好きな女の子の話なのね、と思って見ていて、学生時代のミー坊の話になっていよいよのんさんが登場。
ん?男子の学生服を着ているぞ?
顔は可愛い女の子なのに学生服。
一瞬ちょっと混乱をしました。
そこでようやく冒頭の言葉「男か女かはどっちでもいい」の意味がわかりました。
そういえば、幼い頃のミー坊はスカートではなく半ズボンを穿いていた。
まさに「男か女かはどっちでもいい」の言葉通りでこの物語に登場するミー坊は男でも女でもない。
最近、男らしさや女らしさといったステレオタイプ的な生き方に窮屈さを感じる人が増えてきています。
またオタクと言われる人々が市民権を得てきて、というよりリスペクトされる存在になってきていて、まさに「普通」って何?という時代になってきています。
私が育ってきた時代は、なるべく周りからずれないようにという日本人らしい同調圧力があるのが普通でした。
圧力を圧力と感じていなかったかもしれません。
そうすることが「普通」だと。
けれど本作のミー坊は好きなことをして生きていくことに迷いがないですし、そして周りの人々もそんなミー坊をリスペクトしています。
まさに男か女か、普通か普通じゃないか、などということは問題にもなっておらず、魚が大好きなミー坊を皆が大好きだということなんですよね。
今、以前よりはステレオタイプな見方は減ってきたとはいえ、まだまだ多くの場面でそのような見方は残っています。
本作はある種のファンタジーで、ミー坊とその周りの人々がいるような世間はまだまだないですが、このようにお互いにそれぞれが好きなことを大事にし、リスペクトしあえる世の中になるといいなと思いました。
私はこのブログの記事を見ればわかるように、特撮好きですし、ロボット好きなわけなのですが、社会人になった頃は好きとは言えなかったですものね。
「え、こいつオタクか」みたいな感じに見られるのはやはり嫌だったですし。
映画好き(これは嘘ではない)くらいでぼやかしていたりしてました。
今は若い人が会社に入ってくると、ゲーム好きとかアニメ好きとか堂々と言いますからね。
いい時代になったものです。

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「スペンサー ダイアナの決意」檻の中の雉

エリザベス女王が死去し、何かとお騒がせなハリー王子も話題になったりと、最近注目を浴びることが多い、イギリスロイヤルファミリー。
その歴史の中でもダイアナ元妃の存在は今でも大きいかと思います。
その衝撃的な最後だけでなく、彼女がロイヤルファミリーを離れるという決断をしたことも当時はショッキングな出来事でした。
彼女がなぜそのような決断をしたのかが、この作品では描かれます。
物語の冒頭よりダイアナの行動はやや常軌を逸したように見えます。
その行動は心を病んでいる人のよう。
劇中でもしばしば彼女は幻視を見たり、食べたものをすぐに吐いてしまったりします。
彼女は幸せな気持ちでロイヤルファミリーに嫁いだものの、そこはまるで牢獄のような場所でした。
ダイアナが息子たちと話す場面で、ここ(王室)には未来はなく、過去と現在は同じという言葉が出てきます。
まさに伝統に縛られている王室を言い当てていると思いました。
至る所に敷きたりがありそれを守ることを求められ、プリンセスとしての役割を演じることを強要され、挙句のはてに夫は他の女性へ気持ちが動いてしまう。
彼女は自分自身ではない何者かになってしまったかのように感じたのでしょう。
劇中でしばしば彼女の少女時代の様子が挟み込まれてきます。
それを見ると彼女は、明るく自由に振る舞う少女のように見えました。
実家であるスペンサー家もそのように彼女を育てたのでしょう。
しかし、ロイヤルファミリーでは彼女は自由の翼を折られた鳥のようでした。
王室の男子が狩をする場面があり、そこの狩場に雉が放たれます。
その雉は、狩られるために従順に育てられていました。
これはダイアナの暗示だと思います。
雉の羽は濃緑と濃赤でしたが、そのシーンの近くでダイアナが身につけていた服の色も同じでした。
ロイヤルファミリーでは、伝統に従順にいなくてはいけない。
しかし、ダイアナは狩場へ侵入し、息子たちをその場から連れて行きます。
そして立ち寄ったファストフードで名前を聞かれた時、旧姓であるスペンサーを名乗るのです。
彼女が狩場へ侵入した時、かつて父親が来ていた上着を着ていました。
雉の色をした服ではなく。
彼女が従順な鳥であることを辞め、スペンサー家の普通の女性として生きていこうという決意を暗示しているように感じました。
ダイアナを演じていたクリスティン・スチュアートは劇中ではダイアナにしか見えなかったです。
彼女が追い込まれ病んでいる様子を見事に演じていました。
彼女はバイセクシャルであることを公にしていますが、そのような彼女がお堅いロイヤルファミリーの一員を演じることに意外さを感じましたが、作品を見ると納得しました。
この物語のダイアナは檻の中から飛び出し、自由に自分らしく生きていくことを決意した人物です。
その人物像はクリスティンも共感するところがあったのではないかと思いました。

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2022年10月10日 (月)

「映画 デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ!」大人は穢れか、憧れか

6歳になる娘が大好きな「プリキュア」。
現在放映中の「デリシャスパーティ♡プリキュア」の劇場版に、もちろん娘と一緒に行ってきました。
どのくらい娘が好きかというと、七夕の短冊に将来の夢で「ぷりきゅあになりたい」と書くくらいです。
突然ですが、本作はコメコメが主役と言ってもいい。
コメコメとは主人公の和実ゆい=キュアプレシャスのペア妖精です。
「プリキュア」シリーズはお約束として、プリキュアたちをサポートする妖精が登場するのですが、コメコメもそのような立ち位置になります。
大体の作品においてこの妖精はプリキュアをサポートする立場というか、ガイド役のような存在となります(前作のくるるんは何もしなかったです・・・)。
本作でのガイド役はレギュラーで登場しているローズマリーが担っているので、デパプリの妖精たち、特にコメコメはちょっと立ち位置が違うように感じています。
コメコメだけ人間への変身能力を持っていて、当初は赤ちゃん、そして幼児、本作では少女になっています。
コメコメはキュアプレシャスに憧れており、彼女のようになりたいと願っています。
これはこの映画の主題になります。
まさにコメコメの立ち位置は、私の娘のように「プリキュアになりたい」と思っている子供たちそのものなんですよね。
映画独自キャラクターとしてケットシーという登場人物がいます。
ネタバレにはなりますが、彼は幼い頃から天才であり、大人たちに利用されて研究を続けてきました。
彼は大人たちから逃げ出してきた時に、幼い頃の和実ゆいに出会っています。
彼はその後も大人に利用され続け、やがて大人を憎むようになります。
代わりに(幼いゆいに会ったこともあってか)子供の純真さを絶対視するようになります。
そんな彼が子供たちのために作ったのが、ドリーミアというテーマパークで、ここには大人は入ることができません。
子供たちだけのテーマパークなのです。
コメコメはキュアプレシャスに憧れ、彼女の役に立ちたいと思いますが、幼いからか思うようにいきません。
コメコメは早く大人になりたいと願う少女なのです。
そんなコメコメにケットシーは「そのままでいい」と言いますが、それは彼の過去の経験からくる大人への不信が言わせています。
彼に対する大人の扱いは虐待と言ってもいいでしょう。
彼にとって大人は穢れた存在なのでしょう。
それに対し、コメコメにとっては大人は憧れの存在。
大人と言ってもゆいは中学生なのですが、少女にとっては憧れの大人に見えますよね(本作はプリキュアの年齢設定を非常にうまく使っていると思います)。
ゆいはおばあちゃんに「ご飯は笑顔」と言われ、食べること=生きることを大切に素直に育ってきました。
そんな彼女に憧れるコメコメもとても素直な子です。
大人を穢れと見るか、憧れと見るか。
正反対なケットシーの育てられ方、ゆいの育てられ方を見るにつけ、子供たちの周りの大人たちの日頃の接し方が重要であると思いました。
子供たちが少なくとも、こんな大人になりたいという希望を持てるような接し方をしたいと思います。

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2022年10月 2日 (日)

「ヘルドックス」魅力的なキャラクターたち

原田眞人監督と岡田准一さんが「関ヶ原」「燃えよ剣」に引き続いての3回目のタッグとなる作品です。
お二人は相性がいいのですね。
それまでの2作と異なって本作は現代劇で、かなりバイオレンス色の強い作品となっています。
岡田准一さんはこのところストイックな役が多いですが、本作はその極みのような感じもします。
彼の役所は暴力団組織に潜入する元警察官、兼高。
必要とあらば躊躇なく人を殺すこともできる男です。
岡田さんは終始笑うことなく、ワイルドにこの役を演じていました。
もちろん岡田さんですので、アクションシーンも見せ所が多いです。
「ザ・ファブル」などとは異なり、人を殺すアクションですので、今まで以上に殺気を感じます。
兼高とコンビを組むのが、サイコボーイとあだ名される室岡です。
彼を演じるのは坂口健太郎さん。
坂口さんは今まで割といい青年役が多かった気がしますが、本作は今までにないアブナイ雰囲気を発しています。
優しげな顔つきだけに、キレた時の室岡の異常さが際立って見えました。
坂口さんにとって新境地となったと思います。
本作は主人公コンビである兼高、室岡の物語ですが、もう一人存在感のある人物がいました。
兼高が潜入した暴力団のトップ、十朱です。
彼を演じたのはMIYAVIさん。
私は全く知らない方なのですが、有名なギタリストなのですね。
劇中でハイキックを放つ場面があるのですが、非常にキレが良く、アクション畑の方かと思ってしまいました。
十朱というキャラクターも非常に興味深く、個人的には最も気になる人物でした。
<ここからネタバレあり>
彼は旧態然とした暴力団のトップではなく、ビジネスとして組織を運営し、世界的に影響力を拡大してきました。
見た目もスタイリッシュであり、組長というよりはホストクラブのオーナーといった風情です。
そのようでありながら、彼は組織のメンバーに対しては義理堅く、ファミリーとして扱っています。
まさに「親」ですね。
しかし最終盤に明らかになりますが、彼はかつて警察のアンダーカバーとして組織に潜入した人物でありました。
兼高の前任というわけです。
しかし、彼は警察から組織に鞍替えをしました。
ただ彼は金や権力のためにそうしたわけではありません。
兼高に指令を送る公安幹部の発言からも伝わってきますが、警察組織の方が非常で、潜入捜査している彼を人間とも思わないような扱いをします。
十朱はそのような警察よりも、組織の方が情があり、自分の本音で人間として生きていけるように感じたのでしょう。
組織のメンバーたちとも信頼関係で結ばれ、自分の居場所と感じたのかもしれません。
だからこそ彼は兼高にも同じように期待したのでしょう。
兼高と十朱は裏表であったのかもしれません。
兼高もアウトローで警察に駒のように使われているわけですから、十朱のように感じるようになってもおかしくはありません。
ただ組織の中でもちょっと浮いた存在である室岡とコンビを組み、彼との関係性が彼の中では組織との関係よりは濃いものになっていたのではないかと思います。
だから最後に室岡と対決した時に「お前がいたからこそやり遂げられた」と言ったのではないかと思いました。

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「沈黙のパレード」 共感への巧みな誘導

「ガリレオ」シリーズの劇場版第3弾です。
前作が公開されたのはもう9年も前なんですね!
天才ガリレオ湯川学の相棒はやはり内海薫のイメージが強いのですが、同役で柴咲コウさんが14年ぶりに復帰です。
14年経ったとは思えないコンビぶりでした。
原作は未読です。
ある若い女性が殺害されたもののその容疑者は不起訴になります。
その女性は家族や周りの人々から愛されており、人々はそこに不条理と怒りを感じます。
そして、しばらくしてその犯人が殺されてしまう。
犯人は誰なのか・・・。
予告を見たときは、「オリエント急行殺人事件」のような展開なのかもしれないと思いました。
単独犯ではなく、容疑者へ怒りを持つ人々が皆で彼に罪を贖わせようとしたのではないかと。
映画が始まると、その女性の生涯が描かれます。
生まれた時から、家族や周りの人々にとても愛されていました。
見ている自分は彼女の運命を知っています。
自分にも娘がいるので、見ていて切なくなり、アバンのところですでに泣いてしまいました。
ここで私は彼女の周りの人々に一気に共感してしまいました。
殺人そのものが悪いということは分かりつつも、容疑者に復讐をしてもらいたいと思ったりもし、彼らにその本懐を遂げてほしいとも思いました。
本作の中で主人公の湯川よりも、存在感があり、もう一人の主役と言ってもいいのが、草薙です。
彼は湯川の大学時代からの同期で刑事をしており、今までも彼と協力して事件を解決してきました。
彼は以前この事件の容疑者を同じように自白が取れなかったということで、起訴できなかったという過去があります。
そのためにこの事件を起こしてしまったという悔恨の念を持っており、そのため彼自身も被害者の家族への共感を持っています。
しかし彼は刑事であり、法のもとで犯人を裁かなければいけません。
もし家族の誰かが殺害したのであれば、その人物を逮捕しなくてはいけないのも彼の役目です。
彼は家族たちへの疑いを深めていく中で、彼らへの共感と申し訳なさ、自分の職務への責任感の狭間で、憔悴していきます。
彼の苦しみは、見ている我々、つまりは冒頭の描写で、家族への共感を強く持ってしまった我々も同じように感じることができます。
最初は家族へ共感していきましたが、見ているうちに草薙の苦しみとも共感を強くしていきます。
湯川は、友人を苦しみから解放するために真実を明らかにしていきます。
疑いのままにいるからこそ、彼は狭間で苦しみ続ける。
真実が明らかになれば、プロである草薙はやるべきことを果たすことができる。
湯川にはそれがわかっているからこそ、真実を明らかにしようとしたのだと思います。
容疑者を殺害した犯人にしても、真実が明らかになれば少しは救われるところがあったと思います。
本作は登場人物への共感への誘導が非常に巧みで、そのため見ていて苦しいところもありましたが、最後は救いも感じられるものでした。

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