「鳩の撃退法」 映画ならではの難しさ
かつて直木賞を受賞したこともある小説家津田は久しぶりに作品を書き上げようとしていました。
それを編集者に読ませていますが、彼には実際あった出来事を作品を発表し、当事者とトラブルになったという前科がありました。
そこで書かれている物語はフィクションなのか、それとも実際の出来事なのか・・・。
原作小説は未読なので小説も映画と同じ構造なのかがわかりませんが、ちょっと構成的にわかりにくい作品ですね。
物語は津田の小説で描かれているフィクションパートと実際の津田の現在のリアルを描くパートと、大きく2つのパートで語られていきます。
彼の小説で描かれていることがフィクションか否かが一つの映画のポイントとして置かれていますが、実際見ているとこの構成が効いてくるのは、ラストシーンだけなのですよね。
津田の小説で描かれている事件そのものもかなり複雑なので、リアルパートがあるとさらに複雑な印象になります(とはいえ、事件そのものには直接的にはタッチしていないので実際は複雑ではない)。
これは映画というビジュアルメディアならではの弊害かもしれません。
両パートに共通して出てくるのは主人公津田ですが、あまりビジュアル的にも変わらないので、どっちのパートかちょっと戸惑うところもあります(一緒にいる人物で判別するわけですが)。
これが小説であれば、もう少しわかりやすいのかもしれません(原作も同様な構成をしていれば、の話ですが)。
津田が小説で語る出来事は、それが事実であれば彼が実際に見聞きしたものでなければなりません。
文章であれば、叙述トリック的な手法を含め、色々仕掛けを施すことができるかと思います。
しかし、映画だとどうしても「見えてしまう」ので、そのような文章上の仕掛けを行うのは難しくなってしまうのですよね。
その辺がうまく処理できず、複雑な印象を持たせてしまったような気がします。
富山の事件についてはそれだけでもドラマがあるので、そこにフォーカスしてもよかったのかなと思いました。
その事件のキーマンとなる秀吉自体には娘を持つ身としてとても共感するところはありました。
主人公の津田を演じるのは藤原竜也さん。
このところ、「カイジ」をはじめ、こういったクズ男を演じることが多いですが、ハマりますよね。
なかなか他の人ではこの感じは出ません。
強い人にボコボコにされているときの情けない感じはこの人ならではです(褒めてます)。
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