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2021年2月22日 (月)

「ファーストラヴ」親とはどうあるべきか

ざわざわとする気持ちを抱きながら、この映画を最後まで見ていました。
予告を見た時の印象では、サイコスリラーのようなものかと思っていましたが、そういう映画的な設定ではなく、もっとリアリティがあるテーマであると感じました。
無論親が人が殺すということ自体は一般的なものではないのですが、親が子にどのように接していくべきかという点では、全ての親への問題提起であるように思いました。
犯人である環菜は、なぜ自分が父親を殺してしまったかがわかりません。
公認心理士である主人公由紀は、そこに彼女が子供の頃に負った心の傷があることを突き止めていきます。
そしてそれは自分自身のトラウマとも向き合っていくことになりました。
環菜の父親は子供を支配する親でした。
そして母親は子供の言うことに耳を貸さない親でした。
少女の環菜は自分の本当の気持ちを誰にも話すことができず、助けを求めることができませんでした。
自分も4歳の娘がいるのですが、人を育てるということを日頃より悩みながら楽しみながら行っています。
言うことを聞いてくれない時もありますから、時々は苛立って叱ったりもします。
ただ意識しているのは、4歳にもなると赤ん坊ではなく人としての自我は十分になるので、一人前として扱ってやること。
何を思っているのか、どうしたいのか聞いてあげるようにしたいと思っています。
聞いてみると4歳なりにしっかりと考えていたりするのですよね。
そのような思いは大事にしてやりたいと思います。
これから大きくなっていく中で、もっと自我が強くなり、親と意見が合わないことも多くなってくるのでしょう。
それでも親は子供のことをちゃんと聞き、大きく包んであげていかなくてはいけないのですよね。
この映画に登場する環菜の親や由紀の父親を見て、その時の子供たちの気持ちを想像すると、胸が苦しくなってきます。
やはり子供は親が救ってあげなくてはいけません。
子供を追い込んでしまう親ばかりが登場してきますが、その中で唯一理想的な親像であるのが、我聞です。
彼は由紀の夫ではありますが、彼女にとっては父親のようなものでもあるのかもしれません。
彼女の全てを受け入れ、彼女を包み込んであげる。
親というものはこうありたいものです。

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