「ワンダーウーマン 1984」 過去の人々の振る舞いというヴィラン
久しぶりに洋画を劇場で見ました。
アメリカでは劇場と同時にオンラインでも公開となった「ワンダーウーマン 1984」ですが、やっぱり劇場で見るのは鑑賞体験として違うと思うのですよね。
さて前作「ワンダーウーマン」はMCUに対抗できず迷走する一連のDC映画の中で転換点となった作品でした。
すなわちユニバースではなく、単品作品で勝負していくという方向に切り替えるきっかけとなったと思います。
近年スーパーヒーローものは多くの作品が作られていますが、女性が主人公のものはほぼありませんでした。
そんな中で「ワンダーウーマン」は非常に画期的であったと思います。
個人的にも評価が高かった作品でしたので、続編である本作には大いに期待していました。
前作は女性主人公でありましたが、ワンダーウーマンの強さが圧倒的である種の爽快感がありました。
男性であるとか、女性であるということではなく、非常に真っ直ぐに正しいことを行おうとするワンダーウーマンがとても魅力的に見えました。
前作ではイノセントであった彼女が、愛を知り、成長していく姿が描かれており、初々しさがありましたが、本作のワンダーウーマンは長い間人間の社会で暮らしてきたということもあり、すっかり成熟した女性となっています。
前作に見られた単純に真っ直ぐなイノセントさはなく、彼女は本作では自分が望む愛と、自分の使命の狭間で気持ちが揺れ動きます。
女性らしい乙女チックな気持ちの揺れではあり、人間的に彼女がなったという見方もできるのですけれども、個人的には前作の真っ直ぐさが彼女の魅力でもあったように思えるので、前作で感じたような爽快感はありません。
女性が見たら、共感することもあるのかもしれないですけれども。
今回ワンダーウーマンの敵となるのはマックスという男(演じるのはペドロ・パスカル、マンダロリアンですね!)。
この敵が今までのアメコミ映画に登場してきたヴィランとは少々趣が違います。
彼が行なっているのは人々の願いを叶えることです。
ただし、その願いを叶えることにより人が代償を払わなければならないことは言いません。
代償を払わせるとはいえ、人々の願いを叶えるのであればいいのではないかと思うかもしれませんが、それぞれの欲望は相反することもあり、次第に社会が混乱に陥っていきます。
本作が舞台となっている1984年はロサンゼルスオリンピックが開催した年で、冷戦がピークを迎えていた時代でもあります。
米ソ対立はありましたが、世界的には常に前進しているという幻想を皆が持っていた時代だと思います。
日本もバブル前夜だった頃ですね。
ですので、人々も欲望を持ち、願いを叶えることに貪欲であった時代です。
しかし、その結果、環境破壊や格差拡大などの諸問題が起こる素地となったことも確かです。
皆が欲望を追求した結果が現代の状況です。
本作のヴィランであるマックスですが、彼の存在はすなわちあの頃生きていた人々の欲望全体の象徴とも言えます。
現代過酷な状況を生きる我々にとって過去の彼らの行動がヴィラン的であったとも言えるわけです。
スウェーデンのグレタさんが環境破壊の責任を大人たちにあると言っていますが、それと同様の見方のようにも見えます。
過去の人々の振る舞いが我々の生活にも影響を与え、我々の行動が未来の人々の生活にも関わっていく。
そのようなことを示唆しているようにも見えました。
そのためか、ヴィランとしては少々分かりにくく、これも前作のような爽快感が出ていないことにもつながっている様に思いました。
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