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2020年12月19日 (土)

「ミセス・ノイズィ」 客観的な見方とは?

この作品には不思議なご縁がありまして。
まずこちらの作品の製作関係者の一人が私の妻の友人であるということ。
そして本作の主演の一人と言ってもいい「布団おばさん」を演じている大高洋子さんがかつてOLであったときにお仕事をご一緒させていただいていたということです。
そういう縁もありましたので、本作については見なくてはならないと思い、劇場に足を運びました。
色々繋がりがある作品ではありますが、そのようなことを抜きにして作品として非常に面白いと思いました。
物事というのは見る人によって見え方が変わるものです。
名作である「羅生門」がまさしくそうですが、本作もそのような視点が変わることにより大きく出来事の見え方が変わるというところが非常に面白い。
主人公真紀からのものの見え方、そしてその隣人である美和子からのものの見え方が全く違う。
起こった出来事は同じでも、それぞれの人物が背負っている背景や価値観・先入観で違った見え方・感じ方をしてしまいます。
これは関係者のそれぞれの立場によってものの見え方が変わるという話なのですが、それではそれを客観的に見ている関係者ではない者の見方がまさしく「客観的」であるかというと決してそうではないということに気づかせられます。
この二人のトラブルをネット民やマスコミが取り上げますが、彼らの見方は客観的ではありません。
彼らはこれをエンターテイメントとして出来事を消費します。
ですので、彼らの見方は客観的ではなく、非常に気分屋的なものの見方をしているのですね。
そのため何か出来事が起こると、被害者が加害者に、加害者が被害者に180度逆転をしてしまうということが起こります。
これはマスコミでもネットでもしばしば見られる現象です。
二人の間での問題であれば、直接冷静に話ができれば誤解を解くことは可能かもしれません。
しかし不特定多数の相手になる場合は、一度世間がそういう「気分」になってしまうと一個人ではその流れを食い止めるのは難しい。
今年はネットでの誹謗中傷による有名人の自殺などの事件がありましたが、ある種の「空気」を相手にするという恐ろしさが現代的でもあります。
個人としてはどうしようもない無力感を感じてしまう世間に対し、結果的には仇同士であった真紀と美和子が共闘する形になるのが爽快です。
マスコミやネットに袋叩きにあう真紀を美和子の一喝が救う場面は胸がすく思いになりました。
真紀にしても美和子にしても、そして世間にしても、いずれにせよものの見え方は、それぞれによる価値観によって変わってしまいます。
自分とは異なる価値観を持つ人の立場で物事を考えることというのはなかなかできるものではありませんが、そうする力はやはり大事ですね。

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