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2020年1月25日 (土)

「リチャード・ジュエル」 現代にも通じる問題

クリント・イーストウッド監督の40本目(!)の監督作品。
1996年のアトランタオリンピックの際にあった爆破事件に関わる実話が元となっている。
タイトルとなっているリチャード・ジュエルはオリンピックの警備員であったが、担当していた公園で不審物を発見する。
警察と協力して、一般市民を避難させようとするものの、不審物は爆発し、多くの市民が死傷してしまう。
当初ジュエルは爆発物を発見し、市民を守ろうとした英雄として扱われたが、FBIが彼を犯人として疑い始めてから、メディアも彼を犯人扱いを始める。
彼が犯人であるという具体的な証拠はないのにも関わらず、彼と家族と担当弁護士以外の世間は、彼が犯人であるという心象となってしまう。
所謂冤罪なのだが、捜査機関とマスコミという巨大な権威の前では彼らの力はあまりにも小さい。
本作の舞台となっている時代は20数年前であるのだが、これは今の時代の日本にも通じるテーマである。
今の時代にも冤罪はある。
捜査機関の思い込みによる捜査、自白の強要など。
取り調べの可視化などの改革は進んできてはいるものの、欧米に比べるとまだ緒についたばかり。
ゴーン被告の逃亡は問題があるが、彼が日本の司法制度に対して批判しているところはいくつか頷けるものもある。
またマスコミに関しても最近はより一層無責任な報道が多くなっているような気がする。
以前は裏どりなど情報の信憑性を確認する作業がまだされていたような気がするが、最近は未確認なまま報道することも多いように思う。
メディアリンチという言葉が出てくるのもわかる気がする。
そしてジュエルの時代になかった要素として出てきているのが、ネットの普及による一般市民による無責任な噂の拡散だ。
記憶に新しいところで言うと、あおり運転の同乗者の「ガラケー女」であるとして全く関係のない女性が特定され、SNS上で拡散されたという事件があった。
これも不確実な情報による思い込みから端を発する。
今までの冤罪は捜査機関、マスコミなどのパワーを持つものたちによるものであったが、一般市民がネットと言うパワーを持ち始めた現代において、自分たちも同じように冤罪を生み出してしまうこともあるかもしれないという課題意識を持たなくてはいけないと思う。
そういう意味で本作で描かれている課題は現代にも通じるものであり、さらには全く人ごとではないということ、つまりは被害者にも加害者にもなりうるということを自覚しなくてはいけないと感じた。

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