« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »

2020年1月25日 (土)

「リチャード・ジュエル」 現代にも通じる問題

クリント・イーストウッド監督の40本目(!)の監督作品。
1996年のアトランタオリンピックの際にあった爆破事件に関わる実話が元となっている。
タイトルとなっているリチャード・ジュエルはオリンピックの警備員であったが、担当していた公園で不審物を発見する。
警察と協力して、一般市民を避難させようとするものの、不審物は爆発し、多くの市民が死傷してしまう。
当初ジュエルは爆発物を発見し、市民を守ろうとした英雄として扱われたが、FBIが彼を犯人として疑い始めてから、メディアも彼を犯人扱いを始める。
彼が犯人であるという具体的な証拠はないのにも関わらず、彼と家族と担当弁護士以外の世間は、彼が犯人であるという心象となってしまう。
所謂冤罪なのだが、捜査機関とマスコミという巨大な権威の前では彼らの力はあまりにも小さい。
本作の舞台となっている時代は20数年前であるのだが、これは今の時代の日本にも通じるテーマである。
今の時代にも冤罪はある。
捜査機関の思い込みによる捜査、自白の強要など。
取り調べの可視化などの改革は進んできてはいるものの、欧米に比べるとまだ緒についたばかり。
ゴーン被告の逃亡は問題があるが、彼が日本の司法制度に対して批判しているところはいくつか頷けるものもある。
またマスコミに関しても最近はより一層無責任な報道が多くなっているような気がする。
以前は裏どりなど情報の信憑性を確認する作業がまだされていたような気がするが、最近は未確認なまま報道することも多いように思う。
メディアリンチという言葉が出てくるのもわかる気がする。
そしてジュエルの時代になかった要素として出てきているのが、ネットの普及による一般市民による無責任な噂の拡散だ。
記憶に新しいところで言うと、あおり運転の同乗者の「ガラケー女」であるとして全く関係のない女性が特定され、SNS上で拡散されたという事件があった。
これも不確実な情報による思い込みから端を発する。
今までの冤罪は捜査機関、マスコミなどのパワーを持つものたちによるものであったが、一般市民がネットと言うパワーを持ち始めた現代において、自分たちも同じように冤罪を生み出してしまうこともあるかもしれないという課題意識を持たなくてはいけないと思う。
そういう意味で本作で描かれている課題は現代にも通じるものであり、さらには全く人ごとではないということ、つまりは被害者にも加害者にもなりうるということを自覚しなくてはいけないと感じた。

| | コメント (0)

「フォードvsフェラーリ」 内なる戦い

1966年のル・マン24時間耐久レースで、フォードのGT40が優勝を重ねていたフェラーリを破り、1・2・3フィニッシュを決めた。
今でも語り草となる伝説のレースである。
タイトルを見ると、王者フェラーリに対する挑戦者フォードの戦いを描く映画のように思える。
もちろんその側面もあるのだが、この映画の中で本当に描かれているのは、伝統と歴史がある企業の中で、イノベーティブな者たちの戦いである。
自分も企業勤めをしているので、感じることがあるのだが、新しいことをやろうとするとき、しばしばそこに抵抗する者たちがいる。
その理由としては今までのやり方を変更したくないという保守性であったり、会社の事情よりは個人の思惑を優先させるようなことなどは現実としてあるのだ。
本作の中ではフォード副社長のレオ・ビーブが代表格だ。
そのような抵抗勢力に対する戦いはタフなものである。
対外抵抗勢力は強い権力を持っていたり、既得権限を持っていたりする。
その防壁の強固さはバカにできるようなものではない。
受け身でいるだけでは、その防壁の前に立ちすくむしかない。
防壁を崩すために最も必要なのは、強い意志だ。
こうすべきであるという強い意志。
イノベーターにはその先にある未来が見えている。
そのビジョンを具現化できる強い意思が必要だ。
そしてそのビジョンを「見える」ようにする力も必要だ。
主人公の一人、シェルビーは「過激な」プレゼンテーションをフォードの社長に行った。
過激ではあったが、百万の言葉を尽くすよりも1発で彼らが見えている世界を伝えることができた。
強い意思と、ビジョンを見えるようにする力、これがイノベーティブな者たちに求められる力なのだと思う。
そしてこれはなかなか一人の力でできるものではない。
スティーブ・ジョブズのようなスーパーマンは別として。
とはいえ、後年はジョナサン・アイブというビジョンを力にできる人間がパートナーとなっていた。
本作で言えば、シェルビーとマイルズがそうだろう。
彼らは性格もアプローチも全く違うが、見えている世界は一緒だった。
シェルビーは彼の立場で、マイルズは彼の立場で彼らが見ている世界を実現しようと一緒に戦ったのだ。
 
レースシーンはものすごく迫力があった。
今回はIMAXで見たので、映像・音響で本当にレース場にいるような気分になれた。
Playstationのゲームで「グランツーリスモ」というレーシングゲームがあるのだが、その中には現実のレースコースも入っており、ル・マンも収録されている(現在のコースも、過去のコースも)。
そのコースの中にユノディエールと呼ばれる直線コースがある。
現在は途中に二箇所のシケインが設けられ、3つの直線コースに分割されているが、この映画の時代はそれらが全て繋がった非常に長いストレートだったのだ。
ゲームでそのコースを走っていてもちょっと速度感がわからなくなるようなことがあった。
その直線の後にかなり急角度のカーブがあり、しばしばコースアウトしてしまうのだ。
本作でもそれと同じシーンは何度も出てきていたが、非常に臨場感があったと思う。
ドラマの部分も見応えはあったが、レースシーンという点でも迫力を感じることができた。
2時間半という長尺の映画だが、その長さは感じなかった。

| | コメント (0)

2020年1月13日 (月)

「カイジ ファイナルゲーム」 ハイテンション!

藤原竜也さん主演の「カイジ」シリーズの9年ぶりの新作です。
全2作についても楽しく鑑賞できたので、とても楽しみにしていました。
監督も主演もそのままですので、作品のテイストも変わることがないのが嬉しいところです。
まずは主演の藤原竜也さんです。
元々舞台出身ということもあり、演技はナチュラルというよりもオーバーなのが彼の特徴です。
ですので、こういうハイテンションな作品に藤原竜也さんは非常によく合いますね。
顔を真っ赤にしてセリフを全力で吐き出すように話すところなどは彼らしさがすごく出ていました。
彼のようなタイプの俳優さんは多くはないので、非常に貴重な方だと思います。
カイジは彼のフィルモグラフィの中でもはまり役の一つだと思います。
カイジの相手役となるのは、吉田鋼太郎さん。
今までも香川照彦さん、伊勢谷友介さんが敵役となっていましたが、吉田鋼太郎さんがまた憎らしくて良いです。
藤原竜也さんがハイテンションなので、敵役もやはりそれを受け止められるパワーが絶対に必要です。
吉田鋼太郎さんはシェイクスピアの舞台などをやられていた空ですので、大仰な芝居(良い意味で)は得意とするところ。
最終作での藤原竜也さんとの相手役としては申し分ありません。
ラスボス的な役割として出てくるのは福士蒼汰さん。
今まではあまりこのような悪役は演じられていなかったと思いますが、藤原さんに影響されてからなかなかなハイテンションであったと思います。
描かれるのが非現実的な世界であるので、俳優陣のテンションが作品の全体に大きな影響を与えていると思います。
このシリーズはそれがうまくできている。
ストーリーとしては、前2作に比べると舞台装置としては大きかったものの、緊張感は少なかったようにも思います。
人間秤のパートが長かったからでしょうか、カイジの仕掛けなどの種明かしが後半に集中したので、途中の緊張感がやや今までの作品に比べると薄いようにも感じました。
もっと胃が痛くなるような緊張感があった印象なのですよね。
前作よりはドラマ部分が強化されているような感じがしました。
それはそれで楽しめたので、映画としては全然成立していると思います。
今までの作品のテンションを期待するとちょっと物足りなく感じるかもしれません。

| | コメント (0)

2020年1月12日 (日)

「カツベン!」 彼らの役割

今年の最初の記事はこちら、「カツベン!」です。
タイトルの「カツベン」とは「活弁」、すなわち「活動弁士」のこと。
かつて日本で映画が「活動写真」と呼ばれサイレントであった頃、それに活弁と呼ばれる弁士が状況やセリフを喋り、説明をしていました。
映画そのものよりも、弁士その人のうまさや人気の方が劇場にとっては重要であったということです。
欧米では活弁という職業はなく、無声映画にはバックにオーケストラがかかっていました。
状況やセリフをいう活弁という日本独自の職業は、浄瑠璃などからくるナレーション文化の流れを汲むものと言われています。
無論、映画がトーキーになってしまえば、その役割は必要なくなってしまいます。
活弁が活躍する時期は40年間程度でしょうか。
私が本作で印象的であったのは永瀬正敏さんが演じる山岡秋声というキャラクターでした。
山岡は主人公染谷俊太郎が憧れていた活弁でしたが、染谷が出会ったときは舞台に上がってもあまり喋らない弁士となっていました。
彼は映画はそれ自体が語りたいことがあるから、活弁が好き放題に面白おかしく説明するのは良くないと考えるようになっていたのです。
もしかすると、彼は映画が自分自身を語り始める(すなわちトーキーになる)ことを予見していたのかもしれません。
とはいえ、無声映画をイキイキとさせ、より人々を楽しめることができた活弁の役割を否定するものでもないと思います。
映画のラストで、事件により多くのフィルムを消失させてしまった染谷たちは、残ったフィルムを繋げ合わせ劇場にかけます。
当然残ったフィルムを繋げただけなので、そこにはストーリーなどはありません。
しかし、辻褄の合わないフィルムを染谷は活写し、観客たちを魅了します。
彼の喋りがただの寄せ集めのフィルムに生命を与えたかがごときでした。
活弁とはいずれ消えていく仕事であったのかもしれません。
映画自体が言いたいこととは異なることを話していたのかもしれません。
しかし、映画が人々の楽しみとして普及していく過程において重要な役割を担ったということは確かであったのだろうと感じました。
現在にも何人か活弁を生業としている方はいらっしゃるようですね。
いつか、彼らの仕事を観てみたいとも思いました。
通常の映画体験とは異なる体験ができそうです。

| | コメント (0)

« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »