「仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」 新しい時代のスタート
いつしか「平成仮面ライダー」と呼ばれるようになったシリーズを20年分総括した「仮面ライダージオウ」。
奇しくも元号が平成から令和となった今後は「令和仮面ライダー」と呼ばれることとなるであろうシリーズのトップバッターである「仮面ライダーゼロワン」は新たな時代を背負うことになる役割を担わなければなりません。
これからも「仮面ライダー」というブランド、シリーズを続けていくためには失敗を許されないわけです。
「ジオウ」はタイムトラベルという題材、また過去のライダーに様々な点で依拠するため、非常に複雑な設定・ストーリーだったためコアなファンにはディープに楽しめる点が多くありましたが、それによってそうではない人にとっては敷居が高いところがあったとも言えます。
それに対して「ゼロワン」は「仮面ライダー」をまったく知らなくても入っていける分かりやすさ(設定面とエモーショナルな点)があると思います。
劇中で豪華絢爛な風貌のグランドジオウとシンプルでソリッドなデザインのゼロワンが並び立つシーンがありましたが、これはまさにこの2作の作風の違いを表しているようにも思いました。
「ジオウ」はタイムトラベルという設定により比較的なんでもありの展開が可能ですが、「ゼロワン」は基本的にAIテクノロジーが発達した現代というリアリスティックな世界観を持っているため「ジオウ」ほどの自由さは持っていないと思います。
そういう意味ではこの二つの作品は非常に食い合わせが悪いように思います。
「ジオウ」に下手な絡ませ方をしてしまうと「ゼロワン」の世界観が途端にリアルさを失ってしまうような気がします。
10年前の「ディケイド」と「W」に関しても同じような関係だと思いますが、あの時の冬映画は「ディケイド」編と「W」編が同時並行で進み、最後にストーリーが合流するという形式で食い合わせの悪さを巧みに回避していたと思います。
本作は今までの通り前作ライダーと現役ライダーのコラボという体裁となっていますが、タイトルで「令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」とあるようにストーリーとして「ゼロワン」が主体として展開していきます。
あくまで新時代を築いていこうとするライダーを主役として据えるという意思を感じます。
ジオウはタイムトラベルやアナザーライダーという設定を上手に使うために出ているサブの役割であると思いました。
「ゼロワン」は新しい時代の始まりとなるための責任があると書きましたが、テレビシリーズを見る限り見応えのあるドラマを作っていると思います。
「ディケイド」や「ジオウ」は作品自体がギミックのようなものでしたが、「ゼロワン」は基本はドラマを見せる作りになっています。
AIという新しいテクノロジーに対して、様々な考え方をする人物が登場します。
主人公である飛電或人はAIを全面的に肯定し人間のパートナーとして認めています。
AIMSの不破はAIを人類の敵として認知し、また刃は人間の道具として捉えています。
そしてまたAIを自分のために利用しようとする人物も登場しました。
彼らの価値観のぶつかりが一つのドラマとなります。
またAIを搭載した人型アドロイドであるヒューマギアはシンギュラリティをむかえ自我を得ることもあります。
果たして彼らは新しい生き物なのか、それとも敵なのか。
彼ら自身がどう答えを出すかもドラマとなります。
これはこの劇場版でも触れられていますよね。
これら人間とヒューマギアが互いに相手を受け入れるのか、敵対するかというのは全編を通した大きなテーマです。
ふと思うとこのテーマは平成仮面ライダーの一つである「仮面ライダー555」における人間とオルフェノクの関係性にも似ていると思いました。
かつては人間ではあるが、人間とは異なる者としてなってしまったオルフェノク。
見た目は人間のようですが、人間ではないヒューマギアと似ています。
本作のラスト近辺で気になる台詞がありました。
刃唯阿が不破に「私がヒューマギアになったらどうする?」と聞くのです。
「ヒューマギアになる」というのが不思議な感じがしましたが、もしかすると人間のように生きていながら自分でも人間ではないヒューマギアというのも存在するかもしれないとも思ったのです。
「555」では中盤で主人公が敵と同じオルフェノクであるという驚きの展開をしましたが、もしかすると主要登場人物の誰かがヒューマギアであったといううようなこともあるかもしれません。
「ゼロワン」が色々と想像をさせてしまうストーリーの力を持っているというのは間違い無いかと思います。
これからもテレビシリーズの方を期待してみていきたいと思います。
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