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2019年11月25日 (月)

「イエスタデイ」 伝わってくる肯定感

<ネタバレがあります>
クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」、エルトン・ジョンの「ロケットマン」とアーティストを主人公としたヒットを続けています。
本作「イエスタデイ」は名前から分かるようにビートルズを題材にした作品です。
ただし先の2作とは異なり、ビートルズ自身の物語ではありません。
ある日、突如として世界中が大停電となります。
その時ちょうど事故に遭ってしまい意識を失っていたジャックは、目が覚めてしばらくたった時、世の中からビートルズの存在が消え去っていることに気づきます。
彼は、誰も知らないビートルズの曲を歌い、レコードをリリースして話題となり、一気に時の人となります。
そしてそのままスターダムにのし上がろうとしますが、それと引き換えに大切なものを失ってしまいます。
この流れは先にあげた2作の展開を想起させます。
若者がその才能を見いだされ、皆に注目されて、成り上がり、そしてその成功と引き換えに何かを失ってしまい、孤独となる。
最後は自分が失ったものに気づき、取り戻そうとするが、時はすでに遅い、という展開。
本作においてもこの構造が展開されますが、大きく異なることは主人公にはフレディ・マーキュリーやエルトン・ジョンのような天才的な才能はないということ。
彼らは自分の才能により、その地位を得たとも言えますが、ジャックは違う。
彼自身もそれはわかっています。
フレディやエルトンは自身が才能があることもわかっていて、そしてそれを発露することは才能が持つ者として当然のことで、止めることはできません。
それをやめてしまったら、彼ら自身ではなくなってしまうから。
つまりは天才ゆえに破滅への道も決まっていたとも言えるかもしれません。
けれどもジャックは偶然により、というよりも結果的にはズルにより、自身の才能以上の成功を得てしまった。
そのことに対する罪の意識と、その上に大切なものの喪失感の二つを感じてしまうわけです。
フレディとエルトンの場合は成功は自信に裏付けられていますが、ジャックの場合は成功すればするほど罪の意識を感じてしまう。
その罪への罰として孤独を与えられているようにも彼は感じてしまったのかもしれません。
この作品が粋であると思ったのは、彼の罪の意識を救ってあげた方法です。
劇中でジャックと同様にビートルズの存在を知っていると思しき人間が出てきます。
彼らはついにジャックのコンサートの前に彼のところにやってきます。
ジャックを断罪するかと思いきや、彼らはお礼を述べるのです。
誰も知らなかったビートルズの歌を世の中に残してくれて、と。
彼らにとって、そもそもビートルズの歌はジャックだけのものではないとの思いであったのでしょう。
ビートルズの歌は皆のもの。
誰かがそれによって利益を得るのがどうこうということではない。
皆に聞いてもらうことが大切で、これは人類の財産なのだと。
とても素敵な考え方をするなと思いました。
このストーリーから製作者のビートルズに対する愛を感じました。
ジョン・レノンが登場してきたところも粋でした。
この世界はビートルズのメンバーがいない世界ではない。
なにかボタンがかけ違ってたまたまビートルズが結成されなかったということなのでしょう。
そのために、ジョンは凶弾に撃たれることはなく、幸せに人生をまっとうしようとしていました。
それは私たちが知っているジョンの人生ではないかもしれない。
けれど彼が幸せに生きてこれたのであったら、それはそれで悪い世界ではないのかもしれないと思える。
「ボヘミアン・ラプソディ」や「ロケットマン」では生きていくことの苦しさ、自分の才能で生きていき、自分が選んで生きているのにもかかわらず、次第に追い詰められていく息苦しさを感じました。
しかし本作からは、生きることや世界を受け入れられる、とても肯定的なスタンスが伝わってきました。

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2019年11月23日 (土)

「ターミーネーター/ニューフェイト」 正統な続編ではあるが、越えてはいない

「ターミーネーター2」の正統な続編として宣伝されている本作。
「2」以降のこれまでのシリーズはなかったことにされているわけですが、それは今回に限ったわけではありません。
逆に言えば「2」が革新的であったため、その後の作品がそれを越えることができなかった歴史と言うこともできます。
果たして「正統な続編」である本作は「2」を越えることができたのでしょうか?
興行的には人は入っているようですが、私見では本作は偉大な「2」を越えることはやはりできなかったと思います。
と言うよりは、本作については様々な点で既視感があり、「2」を焼き直したように感じたのです。
「ターミネーター2」が革新的であったのは、成功した一作目をそのまま発展させるのではなく、思い切って新たな切り口を用意して提示したことによります。
一番のポイントは敵役であったアーノルド・シュワルツェネッガー演じるターミーネーターを一転して主人公たちの守護者として描いたことです。
公開当時、私はその展開にとても驚いたことを覚えています。
あまつさえ、そのターミネーターが死ぬ(あえてこう書きますが)シーンでは、泣けてきさえしたのです。
ターミネーターが死ぬシーンで涙を誘われるとは!
もちろん液体金属でできた新型ターミネーターのCGの描写にも驚かされました。
激しい攻撃にも頑丈さで不死身の強さを見せていた旧型ターミネーターに対し、柔軟さと変幻自在さで対抗するというのも発想の転換で面白かったです。
この作品はコンピューターグラフィックスの使い方でその後の作品に計り知れない影響を与えました。
続編に前作とは全く異なるアプローチをするのは、ジェームズ・キャメロンが「エイリアン2」でも見せていたところです。
今まで見たことのないSFホラーとして仕上げられ大ヒットした一作目を、SFミリタリーとし、さらにはリプリーをタフな女性ヒロインとして描きました。
これも予想外の展開でしたが、それゆえに革新的でした。
ジェームズ・キャメロンは「アバター」でも3Dといった新しい表現方法に挑むなど、常に革新的なアプローチをするクリエーターです。
今回は彼がプロデューサーに名を連ねているということで期待もあったのですが、しかしそれは期待通りにはいかなかったと感じました。
本作においての敵である新しいターミネーターは二つに分裂することができるという新しい能力を持っているとは言え、「2」でT-1000が登場したときの衝撃度には全く及びませんでした。
それは本作においてだけではなく、歴代の「ターミネーター」シリーズが越えられなかった点でもあります。
それだけ「ターミネーター2」のアイデアが秀逸であったことの証左でしょう。
未来から刺客が送り込まれ、また未来から来た戦士がそれを守るという構造も今までのシリーズと同様です。
「2」は前作で刺客であったT-800の役割を守護者とし、全く逆にしたところがアイデアとして優れていました。
その後のシュワルツェネッガーが演じるT-800は守護者となり、それは本作でも変わっていません。
そのため細かいディテールは変わっていたとしても、基本的には「ターミネーター2」と同じような物語に見えたのです。
 
<ここからネタバレ>
 
見る前にエドワード・ファーロングが出ているといった噂を聞いていて、本作を観始めた冒頭で、なるほどこれか、と驚きました。
さらにはその後の展開ではさらに驚きました(悪い意味で)。
「エイリアン3」を観たときのざわざわした気持ちになったのですよね。
あの映画でも「エイリアン2」でリプリーが必死な思いをして救った少女ニュートがいきなり死んだことにされていました。
本作でもそうです。
「エイリアン2」も「ターミネーター2」にも思い入れが強くあり、登場するキャラクターにも深い愛着を感じていたので、このような展開をされるとぞんざいに作品を扱われた感じをしてしまいます。
その時点で私の本作に対しての心象は悪くなったことは否定しません。
 
「ターミネーター2」と同じような話が繰り返された意味を深く解釈してみましょう。
「2」でサラ・コナーはジョンを守り抜くことにより、「審判の日」を回避することができました。
しかし本作では「審判の日」を迎えなかった未来からの刺客が別の人間を殺すためにやってくるのです。
ターミネーターを作ったのはスカイネットではなく、別の覚醒したAIでした。
つまりいくらターミネーターを作ったコンピューター(AI)を破壊したとしても、いずれ別のAIが覚醒し人類を滅ぼうそうとするということになるのではないかということです。
つまりニューフェイトとは、人類が進むであろう運命、それも悲劇の運命を表しているとも読めるかもしれません。
昨今AIの開発が進み、近い未来にシンギュラリティが訪れるとも言われています。
その時にコンピューターは人類をどう見るのか。
そういうことを考えると、「今」を掴んだテーマであるかもしれません。

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2019年11月21日 (木)

「マレフィセント2」 与える愛と奪う支配欲

前作「マレフィセント」の記事では何を書いていたのか忘れていたので、確認をしたらエル・ファニングが破壊的に可愛いと書いてありました。
本作を観ても、その可憐さは健在です。
オーロラ姫はピュアでありながらも芯の強さを持つ女性として描かれていますが、その役柄にエル・ファニングはぴったりです。
前作は「眠れる森の美女」をベースとしながらも、主人公を魔女にした点が新鮮でした。
過去のディズニー作品では女性は守られる者、愛を与えられる者として描かれることが多かったですが、最近のディズニー作品に登場する女性は自立しています。
最近多く作られるアニメの実写化作品でも、女性キャラクターに関しては再解釈され今の時代にあった自立した存在措として描かれています。
「マレフィセント」ではただのヴィランであった魔女・マレフィセントが裏切られ愛を失った者として位置付け、その彼女が「真実の愛」を得て再生する物語を描いたのでした。
マレフィセントがオーロラに呪いをかけるに至ったのは、愛する者が野望に心を支配され裏切ったからです。
前作のテーマは愛とは与えられるもの、ましては奪うものではなく、与えるものということであったのではないでしょうか。
マレフィセントとオーロラの間にある「真実の愛」は、互いに相手に愛を与えられることによって成されたものであったのだと思います。
与える愛に対立するのは、全てを奪おうとする支配欲です。
本作においてもマレフィセントとオーロラが対峙するのは巨大な支配欲です。
それを体現しているのが、ミシェル・ファイファーが演じるイングリス王妃。
彼女は幼い頃の体験から、全てを支配したいという欲望に囚われています。
その欲望により、再びマレフィセントはオーロラとの間にある愛を奪われ、またオーロラも自身の国の民を失おうとしています。
オーロラはただ守られるだけの姫ではなく、強く自分の意志を持った女性として描かれているのは、前述した最近のディズニー作品の傾向の通り。
エル・ファニングが成長して大人の女性の側面が出ているところも役柄に合っていました。
物語的にも前作よりはオーロラの比重が高まっていたように思います。
その分、マレフィセントはややキャラクターとして深みがなくなった気がしました。
彼女に関わるエピソード・新設定に関してはややご都合主義的な感が否めません。
映画として物語を派手にする側面はありましたが、前作のような良い心と悪い心の間にあるような深さがなくなったのが残念です。

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