「ジョーカー」 共感できる異端者
ジョーカーとは、みなさんご存知の通り「バットマン」に登場する有名なヴィラン(悪役)。
本作はベルリン映画祭で金獅子賞を受賞し、アメコミ映画でありながら、映画通にも高い評価をされている。
過去の「バットマン」作品でも、ジョーカーは非常に印象的なキャラクターとなっていた。
今までそのキャラクターを演じてきたのはジャック・ニコルソン(「バットマン」)、ヒース・レジャー(「ダークナイト」)、ジャレッド・レト(「スーサイド・スクワッド」)。
それぞれが魅力的にエキセントリックなジョーカーというキャラクターを演じてきた。
彼らは同じジョーカーというキャラクターを演じてはいるのだが、監督や彼らの解釈により、違った味わいを持つキャラクターとなっていたと思う。
しかしながら、ジョーカーというキャラクターが持っている本質は共通しているように私は考えている。
私が考えるジョーカーとは、人間社会が持つ秩序・ルール・価値観を根本的に否定する者であるということ。
例えば、ジャック・ニコルソンが演じる「バットマン」のジョーカーはまさに「笑いとばしながら」社会の秩序を破壊していくし、ヒース・レジャーの演じる「ダークナイト」のジョーカーはバットマンの持つ正義・価値観を嬲るように否定する。
「スーサイド・スクワッド」のジョーカーは印象がやや薄いが、ストーリーに対して唐突に現れ、かき回す印象はルールを無視するジョーカーらしいところかもしれない。
ジョーカーは何ら既存の社会の秩序・ルールに対して、価値を感じていない。
守ろうとも思っていないし、壊そうとも思っていない。
どうでもいいものなのだ。
本作はある男がジョーカーになるまでを描いた物語である。
その男アーサーは、すでに強固に組み上げられた社会秩序の最下層に位置していた。
劇中ではずっとアーサーがその社会秩序に虐げられる様を描く。
それでも彼はその社会に適応しようとはするが、社会は彼を受け入れず、社会と彼のズレが次第に大きくなっていく。
そして唯一の拠り所となっていた母親が自分を虐待していたという事実を知り、そして夢であったテレビショーで笑い者にされるという体験を経て、彼は自分自身を否定しようとしたところまで行ったのだと思う。
マレーのショーに出演していたとき、彼は本当に自殺をしようとしていたのだろう。
マレーに関しても殺そうとして殺したのではないように思う。
もう彼にとって社会などはどうでもいい存在となったのではないか。
自分から適応しようとも思わないし、それを壊そうとも思わない。
マレー射殺後、彼は逮捕されるが、彼に影響を受けた市民の暴動のどさくさで解放される。
彼が暴動を煽動しているわけではない。
彼にとって社会はどうでもうよく、彼は道化のように踊っているだけだ。
ラストのシーンはどのように考えるか色々解釈はあるだろう。
私はこの物語はどこからか(おそらくマレーのショーに出たあたり)がアーサーの妄想であったという説をとりたい。
そもそもアーサーは妄想癖があった。
それはアパートの同じ階に住む女性とのエピソードが全て彼の妄想であったということからもわかる。
母親が自分のことを虐待していたという事実をあの時点で知るというのもおかしい。
もしかすると虐待されていた事実から自分自身が逃れる術として妄想に逃げ込んでいたのかもしれない。
またアーサーが一度マレーのショーで舞台に上がったというシーンも彼の妄想であったのだろうと思う。
本作が今までのジョーカーと異なる点は共感性であると思う。
アーサーの状況は同情するにあまりある。
誰もが彼の境遇を不憫だと思うし、彼が幸せになってほしいと思うだろう。
しかし彼は迫害され、その結果、社会を破壊する行動に走る。
これは正しくはないが、わからないわけではないと感じるところであると思う。
アメリカで公開した時、警察などが非常に警戒したという話を聞いた。
その時は大袈裟な、と思ったりもしたが、今はわからないわけでもない。
過去の作品におけるジョーカーは社会を嘲笑うものではあったが、通常の市民ではない異端者であった。
しかし本作では通常の市民が、社会を嘲笑い、秩序を否定する存在となったのだ。
危険は外ではなく、中にいる。
劇中で描かれているように、影響を受け極端な行動に走る者が出たらと警戒するのもうなづける。
本作のジョーカーは異端者ではなく、共感できる者であるがゆえに危険な存在なのだ。
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