「蜜蜂と遠雷」 世界の記述
自分は音楽があまりよくわからない。
音楽をじっくり聴くという習慣がない。
映画は人一倍集中して見るにも関わらず。
おそらく音楽のどこを感じてよいのかがわからないのかもしれない。
音楽が好きな人は、音楽はわかるものではない、音楽は感じるものであるというだろう。
音楽がわかる人は、感じている世界が違うのではないかとも思う。
ただ本作を観て、音楽を感じている人がどのように感じているのかがわかったような気がする。
世界は音楽で満ちている。
蜜蜂の羽音。
遥か遠くから響く遠雷の音。
雨音、鳥の声、やかんの音。
劇中でベートーヴェンの「月光」を亜夜と塵が二人で弾くシーンがある。
二人を静かに月に光が照らす。
ここでわかった。
音楽とは音による世界の記述なのだ。
作曲家は音により、自分が感じる世界を記述する。
そして演奏家は、曲かどのように世界を記述したかを読み取り、それを自分を通して出力する。
世界から音楽への変換装置としての人間、作曲家。
音楽から世界のイメージの出力装置としての人間、演奏家。
装置とは言ったが、人間である。
記述するにしても、再現するにしても、そこにはその人そのものが現れてしまう。
世界をどのように観ているか。
もしかすると世界は観る人により異なっているのかもしれない。
海岸で、亜夜とマサルと塵が、砂に刻む足跡で曲の当てっこをする場面がある。
それは音楽がわからない者には意味がわからない。
しかし、彼らには言わずとも伝わる。
その様子を見た明石は言う。
「悔しいけどわからないよ、あっち側の世界は」
彼らにとっては世界は異なるものに見えるのだ。
音を通して。
それは祝福なのだろう。
キリスト教や宗教では音楽が大きな役割を持つ。
それは音楽が世界を記述するものだからだ。
そしてそれができるのはやはり天賦の才を持った者だけなのだろう。
亜夜、マサル、塵は祝福された者たちなのだ。
しかし、彼らも人間であるからには、世界そのものの本質を純粋に掴み取れるわけではない。
本作の主要な四人の登場人物は互いに影響し合う。
明石の演奏は亜夜や塵に影響を与える。
亜夜のピアノがマサルや塵にインスピレーションをもたらす。
そして高みに登る。
音楽は世界とそれをどのように観ているかという人間の関係性を記述する。
世界の記述は個だけではなし得ないのかもしれない。
そして彼らが観た、彼らが記述した世界の姿を、我々に伝えるものが音楽なのかもれない。
| 固定リンク
コメント