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2019年8月31日 (土)

「ロケットマン」 本当の自分

クイーンの自伝的映画「ボヘミアン・ラプソディー」が昨年大ヒットしたという記憶は新しいですが、本作はエルトン・ジョンの半生を描く作品です。
監督はデクスター・フレッチャー。
「ボヘミアン・ラプソディー」はブライアン・シンガーが監督としてクレジットされていますが、最終盤で解雇されていて、最後の仕上げをしたのはデクスター・フレッチャーなのですよね。
2作連続でイギリスの大ミュージシャンを題材にしている作品を作っています。
エルトン・ジョンを演じるのは「キングスマン」シリーズで主演を務めているタロン・エガートン。
そう言えば、「キングスマン2」でエルトン・ジョンが本人役で出演していましたね。
タロン・エガートンがエルトンを演じるのは運命だったのかも。
エルトン・ジョンの本名はレジナルド・ドワイト。
レジナルドは音楽の才はありましたが、内気な少年でもありました。
そんな少年がド派手な衣装を着て、どうしてサービス精神あふれるステージを見せてくれるエルトン・ジョンになったのか。
少年時代のレジナルドは父親にも母親にも愛されませんでした。
ずっと自分の居場所を見つけることができなかった少年だったのです。
唯一彼が自分自身を解放できるのが、音楽でした。
音楽を通じて親友と呼べる人物と出会うことができ、そして才能を発揮することで多くの人に認められることができた。
内向的で癇癪持ちな男が、ステージに上がると別人のようなパフォーマンスを見せるという描写が本作ではいくつもありました。
才能を認められれば、なりたい自分になれると彼は言われます。
レジナルドは、自分の理想の姿であるエルトン・ジョンという人間を無意識に演じていたのかもしれません。
しかし、それが本当の自分であるのか。
彼は次第にエルトン・ジョンという人物を演じることに疲れていってしまったのかもしれません。
だから酒や薬に手を出し、その葛藤から逃れようとした。
「自分探し」という言葉が以前、流行りました。
しかし自分とは、探して見つかるものなのでしょうか。
そもそも本当の自分ってなんなのでしょうか。
理想の自分と現状の自分のギャップはあるかもしれません。
ただ理想の自分が、本当の自分なのかというとよくわかりません。
レジナルドは理想の自分こそが本当の自分だと思っていたのかもしれません。
普通の人は理想の自分になるというのはなかなか難しい。
才能も必要ですし、もちろんお金も必要でしょう。
でも彼はそれを得てしまった。
理想の自分になることができた。
けれどそれが本当の自分であったのか。
結局すべてを吐き出して、まっさらになって初めて彼は自分自身を見つめることができたのかもしれませんね。

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2019年8月23日 (金)

「ダンスウィズミー」 自分の解放

「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」の矢口史靖監督の最新作です。
今回の題材はミュージカルです。
ミュージカル映画好きなんですよね。
自分では歌ったり踊ったりするのは苦手なのですが、なぜかミュージカル映画は好きなのです。
でも昔はあまり好きではありませんでした。
主人公の静香が劇中で言っているように、それまで普通に会話していた人たちが歌い出すっていうのに違和感を感じていたのです。
しかし、映画「シカゴ」を観たあたりから好きになって、ミュージカル映画が公開されると劇場に足を運んでしまうのです。
でもなんでミュージカル映画が好きになったのかが本作を観てわかりました。
静香は東京の洒落たマンションに住んでいて、大手の企業に就職できた勝ち組OLです。
仕事もできるらしい。
彼女は幼い頃の大失敗のトラウマからミュージカルが大嫌い。
にも関わらず、ふとしたことから催眠術にかかってしまい、歌を聴くと歌って踊ってしまうミュージカル体質になってしまいます。
仕事中でもデート中でも音楽が流れると踊ってしまう。
それは大層困りもの。
そのため彼女は自分に催眠術を解いてもらおうと催眠術師を探し出すために旅をすることになってしまいます。
彼女は音楽が流れると踊ってしまうという困った体質になってしまいますが、旅を続け、いろいろな人に関わり、歌って踊っているうちに、彼女の表情が次第にイキイキとしていくことに気づきます。
自分でも気づかなかった本当の自分に彼女自身が気づいていくような。
思えば歌うこと、踊ることというのは自己表現なのですね。
自分の娘も3歳になると、日々歌って踊っている。
何か自分の気分を表現したいという衝動があるような感じがします。
大人になるにつれ、恥ずかしさとかを覚えてそういうことはしなくなると思うのですが、歌と踊りには自分を解放するという作用があるのかもしれません。
自分がミュージカル映画が好きなのも、映画を観ている時は、自分も歌って踊っているような気分になれるからかもしれません。
確かにミュージカル映画を観た後は、気分がスッキリしているような気がします。
 
主人公静香を演じているのは子供の頃より子役で活躍している三吉彩花さん。
最近は雑誌のモデルなどをしていたようです。
すらりと背が高く、そして手足が長いので、ダンスをしている時の様子はとても映えますね。
実は彼女は子役の頃をちょっと知っていて、随分と大きくなってそして綺麗になっていて驚きました。
これからの活躍に期待です。

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「ライオン・キング」 映像は新しいが、物語は・・・

実写と見まごうばかりのCGによって制作された”実写版”「ライオン・キング」。
ここまでくると実写、アニメというのは垣根がなくなってきているなという感じがしますね。
実際は実写的に表現されたアニメーションであるとは思います。
動物の表情や動きは本物よりはデフォルメされて、人間的なエモーションが演出されていますから。
表現の技術的な進化を感じさせる作品であると思います。
それに対して物語については現代的な新しさはあまり感じられませんでした。
ディズニーはこのところ昔のアニメーションの実写化した作品をリリースしています。
最近では「美女と野獣」、「アラジン」などが挙げられると思います。
これらは昔のアニメーションをただ実写化したというだけでなく、より現代の多様な価値観に配慮したものとなっています。
特に女性の描写ですね。
昔のディズニー映画といえばプリンセスですが、彼女たちはどちらかといえばか弱く、男性を待ち、選ばれる者として描かれていました。
しかし最近のディズニー作品の女性たちは自らの意思をしっかりと持ち、そして行動をします。
「アナと雪の女王」のエルサとアナなどもそうでした。
ですので、「美女と野獣」のベルにしても、「アラジン」のジャスミンにしても、アニメよりもさらに強い意志を持ち、行動力のある女性として描かれています。
「アラジン」のレビューでも書きましたが、実写版で新たに書かれた曲である「Speechless」はその象徴でしょう。
ですので、本作もそのような様々な価値観が込められた現代的な作品になっているかと思いましたが、基本的に物語はアップデートはされていないように感じたので物足りなさを感じたのです。
どうしても青年が王になっていく姿を描く物語ですので、男目線になってしまうのは致し方がないところではあるとは思うのですが。
ですので女性に関してはどうしても男性を支える立場という描かれ方になってしまいます。
その姿はやや昔の女性観のように見えました。
最近のディズニーの作品は多様な価値観を大事にしてきているように感じていたので、本作についてはその点があまり感じられなく、少々物足りなさを感じました。

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2019年8月22日 (木)

「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」 ゲーム世界からの放出

人生で初めてプレイしたRPGが、大学浪人をしていた時に友人が持っていた「ドラゴンクエスト」の第1作でした。
今までにないゲーム体験でとても驚いたのを覚えています(それまではシューティングゲームばっかりでした)。
受験を控えていたため、自分でファミコンとソフトを買ってしまったらおしまいだという理性は働いたので、大学合格まではお預けにしましたが。
そして社会人になってすぐぐらいにリリースされたのが「ドラゴンクエスV 天空の花嫁」でした。
これもスーパーファミコンを買うきっかけになった作品で、このために何度も徹夜をしたのは言うまでもありません。
さてその「天空の花嫁」を3Dアニメとして映画化したのが、本作品です。
観る前から色々とネガティブな評価を耳にしました。
曰く「原作に対する冒涜だ」などといったようなものです。
コミックでもゲームでもオリジナルが人気作品であればあるほど、その映像化作品は細かいところが気になる人が多いものです。
自分もオリジナルゲームのファンでしたので、そういうところはわかります。
ですので本作を観る前の私のスタンスとしては、あまり期待しすぎないようにしようというものでした。
ということでしたので、見初めて終盤まで行くまでの私の感想としては「意外にも面白いじゃないか」というものでした。
もともとオリジナルのゲームはストーリーとしてもかなり長いものでしたので、それを2時間程度にまとめるというのには脚本でかなり力技が必要だと思います。
本作においてはオリジナルのストーリーの中で省くところは省き、見せるべきところは見せるという判断が的確であったと私は思います。
ゲームをやったのはかれこれ20年以上も前なので細かいところは覚えていないですが、原作のエッセンスは活かしていたと感じました。
お嫁さんを選ぶときのドキドキした気持ちなども思い出しました。
ですので、なんでこの映画が「原作の冒涜」と言われるほど酷評されているのか理由が終盤までわかりませんでした。
ただ終盤のある問題の箇所にきたときに、ひどい評価を得てしまっている理由がわかりました。
個人的にもあのメタな展開になぜわざわざいったのかは疑問です。
素直にあのままエンディングを迎えても十分に面白い作品であったと思いますし、原作ファンもそれほど文句は言わなかったでしょう。
それでは監督はなぜあのような展開にしたのでしょうか。
考えるに決して原作を冒涜するためではなく、ゲームに対するリスペクトであったのではないかと思います。
基本的に映画というメディアでは観客は制作者が決めたストーリーを追うことしかできません。
それを不自由であると考えることはできます。
それに対してゲームは自分の選択によって結末を変えることができます。
特に「天空の花嫁」は中盤の「お嫁さん選び」は自分の人生を左右するような感覚にプレイヤーがなり、ドキドキしたと思います。
プレーヤーの選択によってストーリーが変わる。
それは自由度が高いと言えると思います。
そういったそれぞれのストーリーがある(だからこその<ユア・ストーリー>というタイトル)ということがオリジナルゲームの画期的なところだったのだと思います。
ゲームが持っている映画とは異なる良さを、映画として表現したというのが、あのメタな展開であったのではないかと考えました。
ただ、それが観客が求めていたことと同じだったかどうかは別問題です。
映画よりは自由度が高いとは言いながらも、ゲームとてある一定幅のストーリーラインはあります。
そのストーリーラインに魅力を感じていたファンは、それに身を委ね、あの世界にいるかのような没入感こそが大事だったのではないでしょうか。
本作のメタな展開は、そこからいきなり放り出されるように感じさせるものだったような気がします。
冷や水を浴びせさせるような印象でしょうか。
監督としてはゲームを肯定的に捉えているからこその表現だったかと思いますが、その世界が好きなファンからすると強制的にあの世界から放出されるような感覚は冒涜的であると感じたのではないでしょうか。

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2019年8月18日 (日)

「ワイルド・スピード/スーパーコンボ」 ファミリーというDNA

「ワイルド・スピード」シリーズ初のスピンオフ作品。
とは言っても、2作目も3作目もスピンオフ的ではあったのですよね。
だからもしこの作品をシリーズ9作目と言われても全く不思議な感じがしません。
初期3作を受けて4,5,6作目を監督したジャスティン・リンが、サイドストーリーも許容できる懐が深いシリーズ、サーガとして確立したのが大きな功績であると思います。
それでは「ワイルド・スピード」らしさというのは何なのでしょうか?
アクションムービーで長年続いているシリーズは世にいくつかあります。
例えば「007」シリーズであったり、「ミッション・インポッシブル」であったり。
これらのシリーズの「らしさ」を成立させているものの大きな一つとして主人公のキャラクターがあげられると思います。
それがジェームズ・ボンドであり、イーサン・ハントであるわけですが、これらのシリーズは主人公が変わってしまうと成立しないと考えられます。
物語のトーンを具現化しているのが、主人公キャラクターとなっているので、外すことができないのですよね。
それに対して「ワイルド・スピード」シリーズは主人公すら変わっている時があります。
主要キャラクターも出入りがある。
それでも一つのシリーズとして成立しているというのは、かなり珍しいと思います。
それでは主人公キャラクターに変わってシリーズのトーンを作っているのは何なのでしょうか。
それは今までのこのシリーズのレビューでも取り上げてきた「ファミリー」という概念でしょう。
本作の登場人物たちは世界を救うために悪人と戦うというわけではなく、自分にとっての大切な家族を守るために戦っています。
結果的にそれが世界を救うことにつながる。
ファミリーが最も重要な要素だからこそ、主人公が変わっても、あるキャラクターが登場できなくなっても作品のトーンは継続できるというわけです。
本作においてホブスにしてもショウにしても戦うための理由の第一は家族です。
そこは「ワイルド・シリーズ」サーガの一つの作品としては外せない。
外さないからこそ、シリーズの1作として成立しているのです。
ずっとシリーズを牽引していたポール・ウォーカーが不慮の死を迎えた時、その後のこのシリーズがどうなるかを心配した人は多かったと思います。
私もその一人でした。
しかし、このシリーズはますますスケールアップをして続いています。
ファミリーという要素が中心に据えられているからこそ、それができたと思います。
本作では今までのシリーズの中で脇であったキャラクターを主人公にしても成立することを証明しました。
逆に言えば、ファミリーという要素さえしっかりと守っていれば「ワイルド・スピード」シリーズは末永く続けていくことできるかもということなのかもしれません。

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2019年8月15日 (木)

「アルキメデスの大戦」 鎮めるために沈められた戦艦

日本対アメリカ。
動員力、工業生産力、石油等の資源力、どれをとっても勝ち目のない戦いであった。
それらを冷静に数値を使って分析し、評価できる人であれば、そう考えたであろう。
しかしそうはならなかった。
データはそろっていたのにも関わらず。
人は見たいものだけを見たいように見る者なのだ。
本作の主人公、櫂は帝大で100年に一度の天才と呼ばれた男だった。
彼は、太平洋戦争へ邁進する海軍の象徴となるであろう巨大戦艦の建造を阻むべくその数学の才を駆使する。
折しも海軍では大艦巨砲主義と航空主兵主義の二つの主張がぶつかり合っていた。
大艦巨砲主義とは大口径の主砲と重装甲を持つ戦艦を艦隊の中心とする考え方であり、それに対して航空主兵主義はリーチのある航空機を主戦力とし、それらを搭載する空母を艦隊の中心とする考え方である。
現在のアメリカ海軍を見ればわかるように航空主兵主義の方が現代的な戦略である。
劇中で櫂が指摘しているように大艦巨砲主義は非常に効率が悪い。                
敵艦の速度・加速度・進行方向、自艦の速度・加速度・進行方向、風力・風向などの環境の数値を分析し、着弾する時の敵艦の位置を正確に予想できるかどうかがポイントなのだ。
砲弾は発射した後は、何もできないためだからだ。
太平洋戦争当時、それらの数値を瞬時に計測し、弾道計算をできるようなコンピューターなどは存在しなかったため、砲撃は非常に効率が悪いものだったのである。
航空機は砲弾よりもリーチがあり、その時の状況に合わせて対応可能であるため有利であることは論理的に考えれば明白であるが、当時の海軍ではそちらは主流とはならなかった。
大艦巨砲主義とは武者と武者との戦いのようであり、それに対し航空戦は鉄砲を持ち込んだようなものだったと思う。
圧倒的に国力の差があるアメリカに戦いを挑んだこと、また航空主兵主義が主流とならなかったことは論理的な考え方からすると受け入れがたいものではあるが、そういう道理が通らず、精神論的なものの見方がまかり通っていたのが当時の日本なのである。
櫂らは巨大戦艦建造計画を見積もりの不正確性をつく事により、頓挫させようとする。
櫂はそれに成功し、さらには巨大戦艦の構造上の欠陥をも指摘する。
しかしそれでも巨大戦艦建造計画は止まらなかった。
論理を精神論が越えてしまったのである。
この物語で興味深いのは櫂の試みが失敗してからである。
彼は巨大戦艦の建造責任者である平山中将に呼び出される。
櫂は彼から本当の巨大戦艦建造の目的を聞かされるのである。
平山は巨大戦艦を沈めるために作っていたのだ。
日本が戦争に邁進していくのは軍部だけが望んでいるからではなく、国民全体が望んでいるからである。
その流れは止まらない。
戦いになれば日本人はとことんまで戦い、国は焦土と化して滅んでしまうかもしれない。
それならば国の象徴とも言える巨大戦艦を建造し、それが敵国に無残に沈めらることを持って戦争の無謀さ、己の考えのおかしさに国民が気づくことのきっかけにできるのではないかというのが平山の考えであったのだ。
だからこそこの巨大戦艦に古の日本の名前、大和と名付けるのだと。
戦艦大和は日本の国の依り代であると。
沈めるために作られた戦艦。
まさに国民を鎮めるために。
数字、論理は何事にも揺るがされない事実である。
しかし人間は事実だけで判断するわけではない。
愚かしいがそれが人間なのである。
そのことに櫂は最初は気づかなかった。
それは彼が理想に燃える若者であったからであろう。
平山は彼に比べ人間の本質を知っていたのだ。
このところ隣の国が騒がしい。
こちらから見ると感情的で非論理的に見えるのだが、よく考えてみるとこの映画で描かれている時代では、日本がそのように見えていたかもしれない。
非論理的な思考で無謀な戦いに挑んだのだから。
まだ日本は冷静に振舞えている。
ちょっとは大人になったということであろうか。

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