「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」 未来への目線
平成仮面ライダー20作目である「仮面ライダージオウ」には2つの最終回がある。
現在放映されているテレビシリーズは来月末に最終回を迎えるが、こちらは「ジオウ」という物語の最終回と考えられる。
それに対して、劇場版は「平成仮面ライダーの最終回」とポスターに書かれているように、20作を数える平成仮面ライダーシリーズを総括する作品となっている。
そのため本作の視点にはテレビシリーズよりも、よりメタな平成仮面ライダーを俯瞰する視点が意識されている。
そもそもテレビの「ジオウ」の1クールはメタ視点が強かったが、後半はそれは薄れ「ジオウ」そのものの物語を追っていくようになってきている。
そう意味ではシリーズ後半の方が話は追いやすい。
メタ視点での平成仮面ライダー総括に関しては劇場版で行おうとする制作サイドの精緻な計画があったのだろう。
本作には敵として3人の仮面ライダーが登場することがアナウンスされていた。
仮面ライダーバールクス(BARLCKXS)、ゾンジス(ZONJIS)、ザモナス(ZAMONAS)である。
実はこの3人の仮面ライダーの名称は、過去のライダーのアナグラムとなっているということだ。
すなわち「BARLCKXS」は「BLACK RX」、「ZONJIS」は「SIN、ZO、J」、「ZAMONAS」は「AMAZONS」であるのだ。
ここまでは事前情報で雑誌などから得ていた。
しかし「なぜ」他のライダーではなく、これらのライダーが取り上げられたのかはわからなかった。
しかし、今回の劇場版を見て、なぜ制作サイドがこのライダーを取り上げたのかが理解できた。
それはそのまま本作のテーマであったのだ。
本作を見る前に私は「ジオウ」は平成ライダー20作の総括する作品であると認識していた。
しかし、「ジオウ」は平成ライダーを「総括しない」ということをテーマとしていたのだった。
現在「平成仮面ライダー」シリーズとして一括りにされて認識されているが、そもそも最初からシリーズ化を図って作られたものではない。
おそらく制作サイドがシリーズとしてやっていけるとはっきりと自信を持ったのは第4作である「555」くらいからではないだろうか。
ここまでの作品は「仮面ライダー」という枠組み、そして前作までの枠組みを常に壊すことによって、まさに番組として「生き残ろう」という意志を感じる作品であったと言える。
その後の「ブレイド」「響鬼」「カブト」はある程度定着しつつあったシリーズを枠組みとして固定化しようとしたり、逆に外れてしまおうとしたりといった試みがされており、迷いの時期であったように思う。
そしてその後の「電王」の大ヒットで、シリーズとしての存在感をある程度固めたと言える。
ただ制作サイドはそれでもそれが永続的に続くかどうかの不安を持っており、そのために10年目に「ディケイド」という異端児を放った。
「ディケイド」これは世界観もバラバラであった「クウガ」以降のシリーズを「平成仮面ライダー」シリーズというブランドにまとめ上げるプロジェクトであったと考える。
これによりある種、未来にも続く「平成仮面ライダー」というブランドが確立した。
第2期と言われる「W」以降の「平成仮面ライダー」は実は第1期と比べると、ある程度骨格のフォーマットがしっかりしていると思う。
見た目のビジュアルや、題材などはかなりユニークなものを持ってきているのではあるが、骨格はしっかりとしているのでどの作品も安定した品質を保ててきていた。
ただそれがこのままそのフォーマットが固定化していくことへの危機感もあるように思う。
故に20年目にして「平成仮面ライダー」とはなんだったのかと制作サイドは自らに問いたのだと思う。
その答えは、私もこのブログで何度も書いてきたことではあるのであるが、常に革新であること、変えることを厭わないこと、それを続けていくことこそが平成の仮面ライダーであったのだということなのだろう。
本作で敵として登場するのはQuartzerと呼ばれる者たち。
彼らは時間を管理し、美しく歴史を整えていくことを目的とする。
そういった彼らの物の考え方からすると、「平成仮面ライダー」はシリーズでありながら、一貫した設定もなく、脈絡もなく、奇妙でねじくれているように見える。
だからこそ「綺麗に舗装し直す」ために歴史に介入したのだ。
最初に書いたように彼らが変身する仮面ライダーは、「BLACK RX」、「真、ZO、J」、「アマゾンズ」をモチーフとしている。
これらの作品は「仮面ライダー」の中の歴史の中でも珍しくシリーズ的な展開(厳密には違うのもあるが)がなされている作品なのだ。
Quartzerの視点からすると「美しい」作品なのだろう。
しかし、ソウゴも言ったが「デコボコ」でもいいじゃないかということなのである。
ある意味これは多様性であるとも言える。
後半に突如、驚くべき人物が登場する。
木梨憲武さん演じる木梨猛だ。
「仮面ノリダー」と言った方がわかりやすいだろう。
「とんねるずのみなさんのおかげです」の中のコーナーのひとつであった「仮面ライダー」のパロディに登場する人物である。
正直、これには驚いた。
そしてすぐに映画としての話題盛り上げ用のギミックであると感じ、ちょっと嫌な気分にもなった。
しかし、さらに映画を見続けていると彼の登場には作品のテーマに関わる非常に大きな意味があることに気づいた。
ラスボスとの最終決戦時、歴代の平成仮面ライダーが召喚され死力を尽くす。
ここまでは想定通りではあった。
しかし、それに加えて仮面ライダーブレン(「ドライブ」の敵キャラであったブレンが変身した仮面ライダー。Twitterのエイプリルフールネタから生まれた異色仮面ライダー)、仮面ライダー斬月カチドキアームズ(「凱武」のスピンオフの舞台に登場するフォーム)、仮面ライダーG(スマステの特番の中で稲垣吾郎が変身した仮面ライダー)、そして漫画版のクウガが登場する。
まさになんでもありなのだが、これら異色ライダーが登場するのはまさに「仮面ライダー」という作品はどのような可能性もありで、こうであれねばならないという決め事はないもないということが言いたいのだろうと思う。
前半の戦国時代で信長が我々が知っている信長とは全く異なる生き方をしていたということ、そしてソウゴが魔王ではなかったということ、すべてがこうであるという決めつけは正しいことではないということを示している。
逆に言えば、決めつけることにより、可能性や未来はなくなっていくということなのだ。
これは新しい令和の時代を迎えるにあたっての「仮面ライダー」制作サイドの宣言であると考えられる。
令和になっても「仮面ライダー」はどのような可能性も否定しない、常に新しいことにチャレンジし続ける。
それこそが「仮面ライダー」なのだと。
「ディケイド」はそれまでの過去のライダーを集約し「平成仮面ライダー」というブランドを確立させた。
その目線は過去である。
しかし「ジオウ」はこれから「仮面ライダー」が向かうべき道筋、未来を見ている。
もはや平成、令和という区切りも無意味なのかもしれない。
「仮面ライダー」は未来に向かってただ走り続けるだけなのだから。
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