「スパイダーマン ファー・フロム・ホーム」 スパイダーマンのDNA
「アベンジャーズ:エンド・ゲーム」に引き続き公開されている「スパイダーマン」の最新作。
MCUのフェイズ3の最終作として位置づけられています。
「エンド・ゲーム」のレビューの時にMCUはマルチバース的な安易な解決法を取らなかったと書きました。
ですので本作の前半でミステリオが登場し、彼が別のユニバースである「アース833」からやってきたと言った時、ちょっと驚きました。
マーベルのコミックはマルチバースは公式の設定となっていて、幾つものユニバースがあり、そのそれぞれにナンバーが付いています。
しかしマーベル・シネマティック・ユニバースでは今までマルチバースの設定は頑なに避けていたので、どうしてフェイズ3の最後の最後で安易な方向に行ってしまったのかとややがっかりもしました。
マルチバースそしてタイムトラベルは様々な矛盾や厄介ごとを一気に解決してしまうことができる魔法の杖ではあるのですが、これを安易に使ってしまうと物語の緊張感が一気になくなってしまうのですよね。
まさになんでもありになってしまうので。
MCUは非常に注意深く組み立てられてきているサーガであるからこその魅力もあったわけで、それが台無しになってしまうようにも感じたのです。
「エンド・ゲーム」が見事に作り上げられていたので、なおさら。
しかし!
そういうこちらの気持ちがわかっていたかのような、まさかの後半の展開には驚きました。
やはりMCUは安易な解決策に飛びつきはしなかった!
そこを書いてしまうとネタバレになってしまうので、そこには触れません。
ぜひ皆さんの目で確かめてください。
今回登場するミステリオというキャラクターをジェイク・ギレンホールが演じているというのがポイントです。
彼は一癖も二癖もあるキャラクターを演じるのが非常に上手い人です。
まさにミステリオは彼にぴったりのキャラクターであると言えるとだけ言っておきましょう。
またスパイダーマンそのものの物語としても見応えがあります。
「エンド・ゲーム」で師匠とも父とも言えるアイアンマンことトニー・スタークを失ってしまい、失意を覚えるピーター・パーカー。
アイアンマンは幾人もいるスーパーヒーローの中でも特別な人でありました。
人々もそう思っています。
そのスーパーヒーローの中でも最高のスーパーヒーローを失ってしまった人々はポストアイアンマンを求めます。
フューリーもその一人。
しかしピーターはその重荷を背負うことができないと、彼を避けます。
スパイダーマンは「親愛なる隣人」と呼ばれますが、ピーター自身も背負うことができるのは自分の身の回りの手がとどく範囲で精一杯と思っています。
世界を救うなどということは到底できないと。
サム・ライミ版、マーク・ウェブ版の「スパイダーマン」はピーターがスパイダーマンになるところを1作目で描きました。
どちらも彼は叔父さんの「大いなる力には大いなる責任が伴う」という有名な言葉でスーパーヒーローとして自覚します。
MCU版の「スパイダーマン」はこの有名なベン叔父さんのエピソードを採用していません。
本作を見て思ったのは、MCU版の「スパイダーマン」は2作目にして、スパイダーマンがヒーローとしての自覚を持つということを描こうとしているのだということです。
つまりはトニー・スタークは、ある意味ベン叔父さんと同じ位置付けであるのではないかということです。
トニー・スタークはあからさまに自覚を持てと言ったわけではないのですが、彼が残したメッセージから感じるのは、自分がいなくなった後の世界を任せたいという気持ちです。
ピーターはその重荷から逃げ回っていました。
しかしその結果、世界を危険な目に合わせてしまいました。
自分の弱さを自覚し、それだからこそ自らが持っている力とその責任を自覚することができたのです。
過去の「スパイダーマン」のピーターと同じように、ヒーローとして成長します。
その成長こそが「スパイダーマン」らしさ、「スパイダーマン」のDNAなのかもしれません。
<ここから先はネタバレ>
最後の最後でスパイダーマンの正体がバレるというのには驚きました。
ただこの衝撃はMCUの記念すべき第1作「アイアンマン」のラストでトニー・スタークが自分こそがアイアンマンであると宣言することにも通じる気がしました。
正体がバレたピーター・パーカーはより一層その力と責任を自覚しなくてはいけない立場となったのです。
まさにポストアイアンマンとしてピーターはその責を担うことができるのか、そこが第3作のポイントになるのではないでしょうか。
| 固定リンク
コメント