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2019年7月29日 (月)

「騎士竜戦隊リュウソウジャー THE MOVIE タイムスリップ!恐竜パニック!!」 さらなる高みへチャレンジ!

「キュウレンジャー」、「ルパンレンジャーVSパトレンジャー」とスーパー戦隊の定石を覆す作品が続いた後なので、「騎士竜戦隊リュウソウジャー」についてはスーパー戦隊シリーズの王道に回帰しているため、個人的には正直食い足りない感があります。
とはいえそれは大人目線なので、子供目線からすると王道の「リュウソウジャー」は魅力的に見えるのかな?
ですので劇場版については大きな期待はしていませんでした。
劇場版といってもスーパー戦隊は正味30分程度なので、ストーリーもなかなか掘り下げるのは難しいですからね。
ですが見てみると、感心するところがいくつもありました。
王道路線とは言いつつも、「リュウソウジャー」は新しい試みにチャレンジしています。
その中でも最も大きなトライはいわゆる「巨大戦(もしくはロボ戦)」の変革でしょう。
スーパー戦隊におけるロボ戦は、怪人態での戦いの後の2回戦というパターンが圧倒的に多いのはご存知の通り。
しかし本作における巨大戦は、怪人態がエネルギーを吸収して巨大化するという設定となっています。
ですので怪人態をやっつける決め技はないのです。
子供たち的には見所が減ってしまう気もしなくもないのですが、その代わりロボ戦をしっかりと盛り上げるというコンセプトなのでしょう。
本作のロボはいつものような箱を組み合わせているような形ではなく、着ぐるみもかなりスマートです。
そのため通常のロボよりもかなりアクションができて、見せどころを作っています。
劇場版でもロボ戦なのに屋外で撮影したシーンもあり、スピード感を感じさせるアクションの演出がありました。
これは今までとは異なる見応えを感じました。
これが一つ感心した点です。
もう一つは本作は屋外でのロケをしっかりとやっているため、スケール感がありました。
本作は恐竜の時代にタイムスリップをするという設定なので、CGとの恐竜との共演となりますが、これがこじんまりとしたシーンだとかえって安っぽさが出てしまいます。
本作ではロケシーンで恐竜をCGで合成していかにも恐竜が地上で暮らしているかのように感じさせています。
それもカメラを動かしたり、ドローンを使ったりしているので難易度は高いのではないかと想像されます。
ハリウッドの大作ではとうに当たり前ではあるのですが、劇場版とはいえテレビシリーズの延長であるスーパー戦隊の映画でこのようなことにトライすることは、チャレンジだと感じました。
お話としては子供でも見やすいものになっているとは思います(とはいえタイムスリップを題材にしているので、意外としっかりと考えてある)。
しかし、子供向けとは言いながらも映像的には今までのスーパー戦隊よりも上を目指そうという意思を感じた作品となっていました。

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2019年7月27日 (土)

「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」 未来への目線

平成仮面ライダー20作目である「仮面ライダージオウ」には2つの最終回がある。
現在放映されているテレビシリーズは来月末に最終回を迎えるが、こちらは「ジオウ」という物語の最終回と考えられる。
それに対して、劇場版は「平成仮面ライダーの最終回」とポスターに書かれているように、20作を数える平成仮面ライダーシリーズを総括する作品となっている。
そのため本作の視点にはテレビシリーズよりも、よりメタな平成仮面ライダーを俯瞰する視点が意識されている。
そもそもテレビの「ジオウ」の1クールはメタ視点が強かったが、後半はそれは薄れ「ジオウ」そのものの物語を追っていくようになってきている。
そう意味ではシリーズ後半の方が話は追いやすい。
メタ視点での平成仮面ライダー総括に関しては劇場版で行おうとする制作サイドの精緻な計画があったのだろう。
本作には敵として3人の仮面ライダーが登場することがアナウンスされていた。
仮面ライダーバールクス(BARLCKXS)、ゾンジス(ZONJIS)、ザモナス(ZAMONAS)である。
実はこの3人の仮面ライダーの名称は、過去のライダーのアナグラムとなっているということだ。
すなわち「BARLCKXS」は「BLACK RX」、「ZONJIS」は「SIN、ZO、J」、「ZAMONAS」は「AMAZONS」であるのだ。
ここまでは事前情報で雑誌などから得ていた。
しかし「なぜ」他のライダーではなく、これらのライダーが取り上げられたのかはわからなかった。
しかし、今回の劇場版を見て、なぜ制作サイドがこのライダーを取り上げたのかが理解できた。
それはそのまま本作のテーマであったのだ。
本作を見る前に私は「ジオウ」は平成ライダー20作の総括する作品であると認識していた。
しかし、「ジオウ」は平成ライダーを「総括しない」ということをテーマとしていたのだった。
現在「平成仮面ライダー」シリーズとして一括りにされて認識されているが、そもそも最初からシリーズ化を図って作られたものではない。
おそらく制作サイドがシリーズとしてやっていけるとはっきりと自信を持ったのは第4作である「555」くらいからではないだろうか。
ここまでの作品は「仮面ライダー」という枠組み、そして前作までの枠組みを常に壊すことによって、まさに番組として「生き残ろう」という意志を感じる作品であったと言える。
その後の「ブレイド」「響鬼」「カブト」はある程度定着しつつあったシリーズを枠組みとして固定化しようとしたり、逆に外れてしまおうとしたりといった試みがされており、迷いの時期であったように思う。
そしてその後の「電王」の大ヒットで、シリーズとしての存在感をある程度固めたと言える。
ただ制作サイドはそれでもそれが永続的に続くかどうかの不安を持っており、そのために10年目に「ディケイド」という異端児を放った。
「ディケイド」これは世界観もバラバラであった「クウガ」以降のシリーズを「平成仮面ライダー」シリーズというブランドにまとめ上げるプロジェクトであったと考える。
これによりある種、未来にも続く「平成仮面ライダー」というブランドが確立した。
第2期と言われる「W」以降の「平成仮面ライダー」は実は第1期と比べると、ある程度骨格のフォーマットがしっかりしていると思う。
見た目のビジュアルや、題材などはかなりユニークなものを持ってきているのではあるが、骨格はしっかりとしているのでどの作品も安定した品質を保ててきていた。
ただそれがこのままそのフォーマットが固定化していくことへの危機感もあるように思う。
故に20年目にして「平成仮面ライダー」とはなんだったのかと制作サイドは自らに問いたのだと思う。
その答えは、私もこのブログで何度も書いてきたことではあるのであるが、常に革新であること、変えることを厭わないこと、それを続けていくことこそが平成の仮面ライダーであったのだということなのだろう。
本作で敵として登場するのはQuartzerと呼ばれる者たち。
彼らは時間を管理し、美しく歴史を整えていくことを目的とする。
そういった彼らの物の考え方からすると、「平成仮面ライダー」はシリーズでありながら、一貫した設定もなく、脈絡もなく、奇妙でねじくれているように見える。
だからこそ「綺麗に舗装し直す」ために歴史に介入したのだ。
最初に書いたように彼らが変身する仮面ライダーは、「BLACK RX」、「真、ZO、J」、「アマゾンズ」をモチーフとしている。
これらの作品は「仮面ライダー」の中の歴史の中でも珍しくシリーズ的な展開(厳密には違うのもあるが)がなされている作品なのだ。
Quartzerの視点からすると「美しい」作品なのだろう。
しかし、ソウゴも言ったが「デコボコ」でもいいじゃないかということなのである。
ある意味これは多様性であるとも言える。
後半に突如、驚くべき人物が登場する。
木梨憲武さん演じる木梨猛だ。
「仮面ノリダー」と言った方がわかりやすいだろう。
「とんねるずのみなさんのおかげです」の中のコーナーのひとつであった「仮面ライダー」のパロディに登場する人物である。
正直、これには驚いた。
そしてすぐに映画としての話題盛り上げ用のギミックであると感じ、ちょっと嫌な気分にもなった。
しかし、さらに映画を見続けていると彼の登場には作品のテーマに関わる非常に大きな意味があることに気づいた。
ラスボスとの最終決戦時、歴代の平成仮面ライダーが召喚され死力を尽くす。
ここまでは想定通りではあった。
しかし、それに加えて仮面ライダーブレン(「ドライブ」の敵キャラであったブレンが変身した仮面ライダー。Twitterのエイプリルフールネタから生まれた異色仮面ライダー)、仮面ライダー斬月カチドキアームズ(「凱武」のスピンオフの舞台に登場するフォーム)、仮面ライダーG(スマステの特番の中で稲垣吾郎が変身した仮面ライダー)、そして漫画版のクウガが登場する。
まさになんでもありなのだが、これら異色ライダーが登場するのはまさに「仮面ライダー」という作品はどのような可能性もありで、こうであれねばならないという決め事はないもないということが言いたいのだろうと思う。
前半の戦国時代で信長が我々が知っている信長とは全く異なる生き方をしていたということ、そしてソウゴが魔王ではなかったということ、すべてがこうであるという決めつけは正しいことではないということを示している。
逆に言えば、決めつけることにより、可能性や未来はなくなっていくということなのだ。
これは新しい令和の時代を迎えるにあたっての「仮面ライダー」制作サイドの宣言であると考えられる。
令和になっても「仮面ライダー」はどのような可能性も否定しない、常に新しいことにチャレンジし続ける。
それこそが「仮面ライダー」なのだと。
「ディケイド」はそれまでの過去のライダーを集約し「平成仮面ライダー」というブランドを確立させた。
その目線は過去である。
しかし「ジオウ」はこれから「仮面ライダー」が向かうべき道筋、未来を見ている。
もはや平成、令和という区切りも無意味なのかもしれない。
「仮面ライダー」は未来に向かってただ走り続けるだけなのだから。

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2019年7月21日 (日)

「天気の子」 一筋の陽の光

今年の東京はずっと梅雨が続き晴れ間がありません。
まるで「天気の子」で描かれる東京のように。
物語の中で言われているように天気は人の気持ちを変える力があります。
晴れ上がった朝は人を元気に、雨ばかり続くときはちょっと陰鬱に。
このところちょっとばかり悶々とすることがありましたが、本作を見て少し陽の光が心に差してきたような気がします。
「世界は元々狂っている。」
そうかもしれません。
世界を変えてしまったというのは、彼らの思い込みなのかもしれない。
けれど人を好きになり、そして世界と引き換えにしてもいいと思えるほどに人を愛せるということは何て素晴らしいことなのだろう。
前作の「君の名は。」もそうでしたが、描かれる物語の中心にあるのは若い男女が惹かれ合う気持ちです。
そんなものは世界に比べればとても小さいものです。
だって地球上には何億もの人間がいて、それぞれが恋して、愛して生きている。
その中のたった一つの恋だから。
けれどそのちっぽけな恋は世界と引き換えるほどに大切なものでもある。
愛しているという気持ちは、他の何よりもその人のことを大事だと思うことだから。
誰かを愛している人にとっては、それは自分自身よりも、そして世界よりも大切なことなのです。
帆高にとっては自分よりも世界よりも陽菜のことが大事になったのです。
そこまで人を愛せるのはすばらしい。
眩しい。
ずっと雨が続く東京に、まるで光の回廊のように降りてきた陽の光。
まっすぐでキラキラとしている陽の光は、恋をしている少年のピュアな気持ちを表しているよう。
ちょっと眩しくなるくらいに。
新海誠監督の作品はアニメーションであるのに光の描写が独特で美しい。
まさに本作は彼の特徴的な光の描写の真骨頂です。
雨ばかりの東京にさす一筋の太陽の光。
ベールが剥がされるかのように一気に腫れ上がる空。
ずっと重苦しい天気が描かれる本作の中で、その光の演出はさらに際立ちます。
冒頭に書いたように映画の中で陽が差すだけなのに、自分の心にも暖かい光で満ちてくるような気になります。
映画の中のラストシーンはやはり雨が降っているのですが、心の中は晴れ渡って終われました。

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「トイ・ストーリー4」 幸せの多様性

「トイ・ストーリー3」が非常に綺麗な形で収まっていただけに、その続編はどのようになるのか、興味深さと心配とが入り混じった気持ちで見に行ってきました。
見終わった後の気持ちとしては、ちょっとした困惑でしょうか。
おそらく今までの3作とはちょっと違った視点を入れてこの作品を見てみないと、整理できないかもしれません。
今までの3作は「おもちゃにとって子供に愛されることこそが幸せ」というのが、一貫したテーマであったと思います。
初期の2作はその「子供」がアンディであったわけですが、「3」でアンディが大人になり、おもちゃたちがボニーにもらわれて行くことによって、その「子供」の定義の範囲が拡大し、子供は変わっても愛され続ければおもちゃは幸せになれる、と締めくくられたわけです。
子供たちが「卒業」しても、おもちゃたちが幸せであり続けられることを示したことにより、彼らの未来が暗くはないということが感じられ、ハッピーな気持ちで見終えられたのだと思います。
フォーキーという新キャラクターがポイントになります。
このフォーキーは、ボニーが使い捨てのスプーンやモールなど捨ててしまうようなもので作られた手作りおもちゃです。
このフォーキーがボニーにとっては一番のお気に入りのおもちゃとなりました。
もともといらないものから作られた彼はおもちゃとしての自覚はなく、自分をゴミだと思い、隙あらば自らゴミ箱に飛び込もうとするのです。
それをウッディを中心におもちゃたちが止めようとします。
彼らからすればあんなにボニーから愛されているのに、なぜ自分をゴミだと思い込むのかがわからないのです。
この「おもちゃとしての自覚」がポイントなのです。
おもちゃの幸せは子供に愛されること。
それを当たり前の常識として受け入れているのがおもちゃなのです。
フォーキーの存在が、ウッディの価値観(おもちゃとしての自覚)を少し揺るがします。
そしてもう一人。
それは以前に一緒にアンディの家にいたボー・ピープというアンティーク人形です。
彼女はアンディの家からもらわれていき、それから幾人もの手を経て、アンティークショップにたどり着きました。
彼女は自ら誰かのものとなるという道から外れ、幾人かの仲間と共にノラのおもちゃとなることを選びます。
子供に愛されるのがおもちゃとしての幸せという価値観を捨て去っているのが彼女なのですね。
ウッディの価値観を揺るがしたのがフォーキーであり、そして決定的にパラダイムシフトをかけたのが、ボーなのです。
おもちゃの幸せは一つしかない、それは子供たちに愛されること。
しかし愛されないおもちゃは幸せではないのか。
この作品はそういうわけではない、ということを言っているような気がしました。
これは結婚して子を産むことが幸せで、そうでない人は不幸せであるといった固定化したものの見方に物申しているというようにも思えたのです。
(ウッディの考え方にパラダイムシフトをかけたボーが大人の自立した女性のイメージで描かれていることはそのためかもしれません)
本作は何を幸せと思うかというのはそれぞれ個人によるのであり、決して誰かに決められるものではないということを言っているような気がします。
子供に愛されることを幸せと思うこともよし、自分で行く道を決めていくことを幸せと感じることもよし。
どちらがいいということはない。
幸せの多様性ということでしょうか。
フォーキーが次第におもちゃとしての自覚を持っていくことも、決してウッディが以前持っていた価値観を否定するのではないということを表しているのだと思います。
本作を見て感じた最初の戸惑いは、当たり前だと思っていた価値観を少し揺さぶられたからだと色々考えて思いました。
子供から愛されるのがおもちゃの幸せという範疇であるならば、全3作でしっかりと完結していると思います。
この4作目はその枠組みすらを飛び越えた視点で物語られているのだと考えます。
私と同じように困惑した方は、ちょっと視点を変えて見てみると、また別の評価になってくるかもしれません。

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2019年7月20日 (土)

「それいけ!アンパンマン きらめけ!アイスの国のバニラ姫」さりげなく盛り込まれている教訓

昨年に引き続き、娘と「アンパンマン」の映画に行ってきました。
一年前は映画館そのものが初体験だったので、彼女も落ち着きなかったですが、今年は昨年よりはお行儀は良かったですね。
でも、小さい子がフラフラと歩き出すと釣られて歩き回ったり・・・。
「アンパンマン」の映画だから許されますが、まだ他の映画に一緒に連れて行くのは厳しいですかね・・・。
去年の映画はアンパンマンその人が物語の中心にいたのですが、今回の映画ではアンパンマンというよりはゲストキャラクターのバニラ姫とコキンちゃんが主人公とも言えるようなストーリーでした。
バニラ姫はアイスの国の女王を引き継ぎましたが、魔法のスプーンでアイスを生み出すことができません。
なんどもなんども練習してもできるようにならないため、彼女はアイスの国を逃げ出してしまいます。
その途中でバニラ姫はコキンちゃんと出会い仲良くなります。
しかしその間、バニラ姫がいなくなったアイスの国はばいきんまんに乗っ取られてしまいました。
それを知ったバニラ姫とアンパンマンたちは取り戻そうとしますが、やっぱりバニラ姫は魔法のスプーンを使いこなすことができません。
それで苦しむバニラ姫を見て、コキンちゃんはなんと魔法のスプーンを捨ててしまうのです。
バニラ姫が辛いのだったら、無理して女王の役割などをやることはないということです。
自分のやりたいことに忠実に素直に生きるコキンちゃんならではですよね。
コキンちゃんが人気があるのは、一見わがままに見えつつも、自分がやりたいことに素直であるという点かもしれません。
一度、魔法のスプーンを失い、またアイスの国のために戦ってくれるアンパンマンたちの姿を見ているうちにバニラ姫の中で女王としての自覚が目覚めます。
そして魔法のスプーンを扱えるようになるのです。
彼女に足りなかったのは、女王としての自覚と他の誰かの喜ぶ顔が見たいという気持ちだったのですね。
毎度のことながら「アンパンマン」のお話にはそういった教訓がさりげなく入っているから子供に見せるのにも安心です。
まあ、そういう教訓に我が娘が何か学び取ったのかは不明ですが・・・。
彼女はなかなかアンパンマンが出てこないので、「アンパンマンはどこ?」とずっと言っておりました。

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2019年7月19日 (金)

「スパイダーマン ファー・フロム・ホーム」 スパイダーマンのDNA

「アベンジャーズ:エンド・ゲーム」に引き続き公開されている「スパイダーマン」の最新作。
MCUのフェイズ3の最終作として位置づけられています。
「エンド・ゲーム」のレビューの時にMCUはマルチバース的な安易な解決法を取らなかったと書きました。
ですので本作の前半でミステリオが登場し、彼が別のユニバースである「アース833」からやってきたと言った時、ちょっと驚きました。
マーベルのコミックはマルチバースは公式の設定となっていて、幾つものユニバースがあり、そのそれぞれにナンバーが付いています。
しかしマーベル・シネマティック・ユニバースでは今までマルチバースの設定は頑なに避けていたので、どうしてフェイズ3の最後の最後で安易な方向に行ってしまったのかとややがっかりもしました。
マルチバースそしてタイムトラベルは様々な矛盾や厄介ごとを一気に解決してしまうことができる魔法の杖ではあるのですが、これを安易に使ってしまうと物語の緊張感が一気になくなってしまうのですよね。
まさになんでもありになってしまうので。
MCUは非常に注意深く組み立てられてきているサーガであるからこその魅力もあったわけで、それが台無しになってしまうようにも感じたのです。
「エンド・ゲーム」が見事に作り上げられていたので、なおさら。
しかし!
そういうこちらの気持ちがわかっていたかのような、まさかの後半の展開には驚きました。
やはりMCUは安易な解決策に飛びつきはしなかった!
そこを書いてしまうとネタバレになってしまうので、そこには触れません。
ぜひ皆さんの目で確かめてください。
今回登場するミステリオというキャラクターをジェイク・ギレンホールが演じているというのがポイントです。
彼は一癖も二癖もあるキャラクターを演じるのが非常に上手い人です。
まさにミステリオは彼にぴったりのキャラクターであると言えるとだけ言っておきましょう。
 
またスパイダーマンそのものの物語としても見応えがあります。
「エンド・ゲーム」で師匠とも父とも言えるアイアンマンことトニー・スタークを失ってしまい、失意を覚えるピーター・パーカー。
アイアンマンは幾人もいるスーパーヒーローの中でも特別な人でありました。
人々もそう思っています。
そのスーパーヒーローの中でも最高のスーパーヒーローを失ってしまった人々はポストアイアンマンを求めます。
フューリーもその一人。
しかしピーターはその重荷を背負うことができないと、彼を避けます。
スパイダーマンは「親愛なる隣人」と呼ばれますが、ピーター自身も背負うことができるのは自分の身の回りの手がとどく範囲で精一杯と思っています。
世界を救うなどということは到底できないと。
サム・ライミ版、マーク・ウェブ版の「スパイダーマン」はピーターがスパイダーマンになるところを1作目で描きました。
どちらも彼は叔父さんの「大いなる力には大いなる責任が伴う」という有名な言葉でスーパーヒーローとして自覚します。
MCU版の「スパイダーマン」はこの有名なベン叔父さんのエピソードを採用していません。
本作を見て思ったのは、MCU版の「スパイダーマン」は2作目にして、スパイダーマンがヒーローとしての自覚を持つということを描こうとしているのだということです。
つまりはトニー・スタークは、ある意味ベン叔父さんと同じ位置付けであるのではないかということです。
トニー・スタークはあからさまに自覚を持てと言ったわけではないのですが、彼が残したメッセージから感じるのは、自分がいなくなった後の世界を任せたいという気持ちです。
ピーターはその重荷から逃げ回っていました。
しかしその結果、世界を危険な目に合わせてしまいました。
自分の弱さを自覚し、それだからこそ自らが持っている力とその責任を自覚することができたのです。
過去の「スパイダーマン」のピーターと同じように、ヒーローとして成長します。
その成長こそが「スパイダーマン」らしさ、「スパイダーマン」のDNAなのかもしれません。
<ここから先はネタバレ>
最後の最後でスパイダーマンの正体がバレるというのには驚きました。
ただこの衝撃はMCUの記念すべき第1作「アイアンマン」のラストでトニー・スタークが自分こそがアイアンマンであると宣言することにも通じる気がしました。
正体がバレたピーター・パーカーはより一層その力と責任を自覚しなくてはいけない立場となったのです。
まさにポストアイアンマンとしてピーターはその責を担うことができるのか、そこが第3作のポイントになるのではないでしょうか。

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「ザ・ファブル」 二人の関係

これは面白かった。
事前に大きな期待をもって見たわけではなかったので、余計に得した気分になりました。
オープニングシークエンスからしてかっこいい。
今回岡田准一さんが演じるのは「ファブル」と呼ばれる殺し屋。
彼はどんな相手でも6秒以内に殺すと言われているほどの伝説の殺し屋です。
冒頭のシークエンスでは、彼が依頼を受け、ヤクザとロシアンマフィアの会合を襲うというシーンが描かれますが、これが見応えがあります。
今までも数々の作品で見せてきた岡田さんの身体能力もさることながら、「ボーン・アイデンティティ」などにも関わったファイトコレオグラファーが担当しているということで、本作のアクションはスピーディで洗練されています。
一瞬で状況を判断し、相手の急所を狙っていく様をスタイリッシュなグラフィックで描いているのにも監督のセンスを感じました。
このオープニングで一気に魅了されました。
後半のアクションシーンもなかなかに見応えがありました。
人を殺してはいけないと言われた佐藤は、大勢のやくざ者や殺し屋が襲いかかってくる中でも頑なにその命令を守ります。
いくら6秒で人を殺すことができる男であっても多勢に無勢。
そして守らなければならない人間を背負っての戦いです。
息もつけないほどの緊張感がありながら、センスが感じられるアイデアを盛り込んでいる切れ味の良いアクションでした。
このまま岡田さんのアクションをみせていく作品かと思いきや、ちと違う。
岡田さん演じる佐藤の育ての親とも言うべき、ボスから彼は一年間殺しを封じ、ただの一般人として生活せよという命令を受けます。
とはいえ、彼は子供のころより殺し屋として育てられた身。
いわゆる一般人の生活にはいまひとつ馴染みがないのです。
そんな彼のチグハグな行動が笑いを誘います。
佐藤の思考は、ある目的に最適で確実な方法をとるということと、状況変化に対応して臨機応変に対処するということが基本にあると思います。
ある意味、非常に無駄がない。
とはいえ人間というものは普通はとても無駄があったり、矛盾があったりする行動をとるものなので、だからこそ佐藤の行動が何かおかしさを伴うのではないかと思います。
本人はいたって真面目なのに笑いを誘うという佐藤を演じる岡田さんの芝居のニュアンスも絶妙だと思いました。
佐藤にとってボスの命令は絶対。
人を殺せという命令も。
こう書くと、彼とボスは冷たい関係のように聞こえます。
佐藤はボスに洗脳されたのではないのではないかと。
しかし本作を見ているとこの二人の関係はそのようなものではないと思えます。
佐藤がボスに寄せる気持ちは絶対的な信頼だと感じられます。
洗脳され、刷り込まれてしまったというわけではないようです。
まさに親を子が信頼するような気持ちに近い。
またボスにしても、陰ながら佐藤を守り、支えています。
おそらくずっと自分も殺し屋として生きてきたと思われるボス。
彼がある日、出会った子供の佐藤は一人では生きていけない状態であった。
彼が自分一人で生きていく術を彼は教えたいと思ったのでしょう。
しかし、ボスが教えられるのは殺すということだけ。
彼はそれを佐藤に教えた。
一人で生きていけるようにするために。
そして佐藤もそれを感じ、だからこそ絶対的な信頼を持つようになったのでしょう。
しかし、ある時ボスは佐藤を普通の人間として生きていけるようにしたいと考えたのです。
何がきっかけであったのかはわかりません。
自分のように殺し屋として一生を終えるようにはしたくなかったということなのでしょうか。
もしかしたらボス自身の寿命が尽きようとしているのかもしれないのかなとかも考えました。
自分がいなくなる前に、佐藤が普通の人間として生きていけるようにしたいと思ったのかもしれません。
もうちょっとこの二人の関係性を見てみたいと思いました。

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2019年7月 2日 (火)

「X-MEN:ダーク・フェニックス」 コレジャナイ

21世紀フォックスが、マーベルを傘下に持つディズニーに買収され、2000年の「X-メン」から続く現行路線は本作で終了となります。
「X-メン」は現在のアメコミ映画ブームの先駆けとなった作品で、それまではマニア向けと思われがちであったアメコミ作品に多くの一般的な観客を呼び込むことができると証明しました。
差別などの社会的な問題をその物語の中に内包して、大人の鑑賞に耐えうる映画としたところも新しかったと思います。
その後、数々の続編またはスピンオフが作られてきました。
ただ個人的には正直言って最初の3作品以降は、強く惹かれるものはありませんでした。
特に「フューチャー&パスト」以降は映画会社として都合よく時間軸を変更しているように思えました。
つまり映画会社としてドル箱の人気シリーズのため、物語を無理やり延命しているように感じたのです(ジャンプの漫画などでもありますよね)
個人的には初期3部作で物語は一区切りついていると思っていて、その後のウルヴァリン単体の映画はスピンオフとして割り切っていました。
「ファースト・ジェネレーション」も公開時はスピンオフとして私は捉えていたのでまだ別物と感じていたためよかったのですが、「フューチャー&パスト」で旧3部作と都合よく物語が融合してしまったためちょっと混乱しました。
というのも、旧3部作と「ファースト・ジェネレーション」以降の作品に共通して登場するキャラクターが性格や立場も異なり、見れば見るほど最近の作品は「コレジャナイ」感が強くなってきたと思うのです(最近見始めた方は感じないかもしれませんが)。
ジェームズ・マカヴォイが演じるプロフェッサーXは過ちも犯す人間味がある存在になっていると思いますが、私としては揺るぎない信念と正当性を持っている賢者というイメージが強いのです。
ですので、本作でも揺らぎ迷うプロフェッサーXが描かれますが、違和感を感じてしまうのです。
本作ではプロフェッサーXは、ミュータントのために戦うという大義ではなく、個人的な承認要求を満たしたいというエゴも見え隠れし未熟な感じがします。
賢者のイメージを持っている自分としては本作のようなプロフェッサーXを見せられるとややイライラしてしまうのです。
「スパイダーマン」のようにリブートしたり、またはっきりと別の物語として描いている「ローガン」のような場合は、全く別物としてキャラクターをとらえるのでいいのですが、「X-MEN」シリーズにおいては混乱をしてしまった感じがあります。
特に本作「ダーク・フェニックス」で描かれるジーンの暴走は、全く同様のことを「ファイナル・ディシジョン」でも題材にしているので「今さら」感をぬぐい切れません。
キャラクターの性格や立場も違いますし、物語も異なってはいるのですが、エッセンスの部分は同じなので新鮮さは感じませんでした。
上でプロフェッサーXの例を述べましたが、旧3部作に比べると最近の「X-MEN」はキャラクターが全般的に若く未成熟な感じがします。
それによって同じ題材を扱っていても、「ファイナル・ディシジョン」に比べ物語がやや浅く軽くなっている気もしました。
映画会社の都合により物語全体、そしてキャラクターが混乱してしまったというのが、最近の「X-MEN」ではないでしょうか。
ディズニーの買収によりいったんリセットされた「X-MEN」。
MCUへの参加も噂されますが、魅力的なキャラクターが多いこのシリーズなので合流がうまくいけば、さらにアメコミ映画も盛り上がることになるかと思います。

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