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2019年3月24日 (日)

「スパイダーマン:スパイダーバース」奇手でありながら王道

まずこの作品を評価するにあたり最も重要な点はその映像表現でしょう。
まるでアメコミのテイストがそのままアニメーションとなって動き出したかのようです。
それだけでなく、カメラワークなどは実写よりもさらに大胆でアニメーションでなくてはできない動きをしていました。
マイルズがピーター・B・パーカーを抱えながらスイング(というか引きづられている)シークエンスなどは実写じゃできないと思います。
技術的にできないというよりはアニメ的な誇張表現なためです。
それによりとてもポップで、ハイテンポ、かつユーモアのある作品に仕上がっています。
あまりこのようなテイストのアニメーションは見たことがなく、アニメの表現として一つの可能性を切り開いたような気がします。
いわゆるジャパニメーションやディズニーのアニメとはまた違った可能性が提示されたということで画期的であったと思います。
マルチバースを正面切って扱った点も興味深いですね。
アメコミでは一つのキャラクターを長い間使い回す(言い方が悪いけれど)際にマルチバースという概念を都合よく使ったりします。
マルチバースとはいわゆる多元宇宙というものですね。
もしスパイダーマンの物語が一つしかなかった場合、後から作られる作品はどうしてもその前提を守っていかなければ話として成立しません。
それを回避するためにスパイダーマンがいる宇宙が無数にあるという考え方にし、スパイダーマンのいる様々な物語が無数にあるというのがマルチバースの考え方です。
都合がいいと言えばそうなのですが、ファン的にはずっとそのヒーローの活躍を見ることができるので、出版社的にもファン的にもWinWinな考え方なのでしょうね。
日本でいうと平成仮面ライダーのシリーズはちょっと考え方が近いかもしれないです。
「ディケイド」や現在放映中の「ジオウ」などはスパイダーバース的な考え方とも言えなくもありません。
アニメであること、多元宇宙を扱っていることということでこの作品はどちらかというと「スパイダーマン」の映画としては奇手のように感じるところもあるかもしれませんが、とは言え「スパイダーマン」としての王道は外していません。
主人公はマイルスはある日蜘蛛に噛まれてスパイダーマンの能力を得ます。
彼はその能力をどうするべきかがわからない。
「スパイダーマン」というシリーズは特殊な能力を得た若者がその力をどのように使うべきかを悩み、そしてかけがえのない人の死によって人々のために使おうと自覚するということがきっかけになり、ヒーローとして覚醒するのです。
まさに本作は正しく「スパイダーマン」の物語でありました。
マイルスは慕っていた叔父の死、そしてまた別世界から来たピーター・B・パーカーら仲間のスパイダーマンたちとの別れを通じて、スパイダーマンとして生きることを決意します。
まさに「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ということを自覚したわけです。
これは少年が自分の生きる道を見つける物語でもありました。
「スパイダーマン:スパイダーバース」は奇手に見えながら王道であった作品だと思います。

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