「グリーンブック」 自分は何者であるのか
自分は何者であるのか。
人間にとってこの問いは最も本質的な問題です。
この問いは自分のアイデンティティを問うもので、これに応えられるかどうかで精神的な安定性が得られるかどうかに関わります。
自分は日本人である。
自分は誰それの親である。
自分は◯◯社の社員である。
なんでもいい、自分は何かに属しているということが安心感を生みます。
本作で重要な役割を担うドク・シャーリーはこの問いに答えられませんでした。
自分は黒人なのか。
自分は白人なのか。
自分は何者であるのか。
この作品を観ていて最も印象的であったのは後半でドク・シャーリーが自分の思いを吐露するところです。
彼は言います。
自分は白人でもなく黒人でもない、と。
彼は才能があるピアニストでその実力は白人の成功者たちから評価されているものの、黒人であるがゆえに彼らのコミュニティに受け入れられることは決してありません。
だからと言って同じルーツを持つ黒人たちにも彼は受け入れられない。
南部ツアーのあるときにふと黒人たちが働いている畑に車を止めた時にシャーリーは何を感じたでしょうか。
自分を見つめる冷めた黒人たちの目。
その目は決して自分を受け入れくれている目ではありませんでした。
ドク・シャーリーはどちらのコミュニティからも拒絶されるという孤独を抱えています。
彼のやや高慢にも見える態度は、そういう拒絶に対抗するための彼なりの防御壁なのかもしれません。
彼らに拒絶されているのではない、そうではなく自分は孤高の人であると思いたかったのかもしれません。
その防御壁をトニーは持ち前の屈託のなさでやすやすと飛び越えてみせます。
もちろんトニーもあの時代を生きていた男なので偏見を持っていなかったわけではありません。
しかし、彼にはそういったステレオタイプ的な見方ではなく、人の本質を見る目がありました。
すぐに彼はシャーリーという男の本質を見、彼の才能に感銘を受けるのです。
彼らは長い旅路の中で、黒人である、白人であるという枠組みではなく、ドク・シャーリーとして、トニー・リップとして互いに認めあい、それによって自分の立ち位置を得ることができます。
ドク・シャーリーにとっては黒人・白人という立ち位置ではなく、トニーの友人であるというアイデンティティを得ることができたのだと思います。
自分が属し、自分が存在することを認めてくれる場、コミュニティを人は求めるものです。
ようやくシャーリーはそれを得ることができたのです。
本作品について「白人の救世主」の典型的なパターンと評する意見もありますが、個人的にはそうではないかなと思いました。
シャーリーとトニーの間にある関係性は黒人であるとか白人であるとかという人種による見方を越えてしまい、個として認め合っているように感じました。
人種問題を題材にしていつつも、時折挟まれるユーモアも心地よく無理なく見ることができる良作です。
監督が「メリーに首ったけ」を撮った人であることを後で知り、ちょっとびっくりでした。
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