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2019年3月24日 (日)

「キャプテン・マーベル」 Fearless Girl

「Fearless Girl(恐れを知らない少女)」という少女像をご存知でしょうか。
これはニューヨークのウォール・ストリートにある有名な雄牛の像(チャージング・ブル)の前に2017年に設置された少女の像です(現在は移設)。
巨大な雄牛を恐れずに、腰に手をあて敢然と立ち向かうかのようなこの像は、国際女性デーの前日に設置されました。
実はこれは女性の取締役を増やそうというキャンペーンを行なっている証券会社の依頼により設置されたものなのですが、最も男性的な社会と言われるウォール・ストリートにある、これまた男性の象徴である雄牛に立ち向かう、小さな少女の姿は、ダイバーシティを求める人々の間で大いに話題になりました。
本作「キャプテン・マーベル」はマーベル・シネマティック・ユニバースにおいて初めての女性単独ヒーローが主人公となる作品です。
予告でも出ていましたが、本編の中で最も印象的なシーンはキャプテン・マーベルことキャロル・ダンヴァースが記憶を取り戻し、過去の自分が様々な困難にも負けず立ち上がるシーンでした。
子供の頃から男勝りで何にでも挑戦し、その度に「女には無理だ」と言われ、壁にぶつかりながらも、彼女は何度でも立ち上がりました。
その立ち上がるカットがいくつもオーバーラップするのですが、ここのシーンで私は前述の「Fealess Girl」のことを思い浮かべたのです。
本作の舞台となるのが90年代というのも意味があると思います。
MCU的にはアベンジャーズ以前ということでこの時代に設定されたとも言えるでしょうが、女性の社会進出という視点でも意味があるでしょう。
90年代はアメリカも日本も女性の社会進出という話は出ていましたが、実際には目に見えない壁、いわゆる「ガラスの天井」がありました。
建前的には男女同権ですが、現実では女性はまだまだ差別がされていた時代でした。
そのような環境でも負けずにキャロルは何度でも立ち上がってきました。
MCUにおいて最強と言われるキャプテン・マーベルは異星人によりパワーを授かったわけですが、それゆえに最強なわけではなく、もともと持っている不屈のパーソナリティが彼女を最強にしているのだと感じました。
現時点でMCUの世界はサノスの指パッチンのために最悪の状況となっています。
「インフィニティ・ウォー」のラストで自らが消えゆく中、フューリーはキャプテン・マーベルのポケベルを鳴らします。
最悪の状況を救えるのは彼女しかいないと彼は考えたのでしょう。
それはどのヒーローにも負けないパワーを持っているからではありません。
彼女がどんなに厳しい状況でも諦めない、負けない気持ちを持っているということをフューリーは知っていたからです。
最悪の状況をひっくり返せるのは不屈の心だけ。
そう、もはや男だから、女だからという状況ではないのです。
恐れを知らない彼女にフューリーは世界を託したのです。

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「スパイダーマン:スパイダーバース」奇手でありながら王道

まずこの作品を評価するにあたり最も重要な点はその映像表現でしょう。
まるでアメコミのテイストがそのままアニメーションとなって動き出したかのようです。
それだけでなく、カメラワークなどは実写よりもさらに大胆でアニメーションでなくてはできない動きをしていました。
マイルズがピーター・B・パーカーを抱えながらスイング(というか引きづられている)シークエンスなどは実写じゃできないと思います。
技術的にできないというよりはアニメ的な誇張表現なためです。
それによりとてもポップで、ハイテンポ、かつユーモアのある作品に仕上がっています。
あまりこのようなテイストのアニメーションは見たことがなく、アニメの表現として一つの可能性を切り開いたような気がします。
いわゆるジャパニメーションやディズニーのアニメとはまた違った可能性が提示されたということで画期的であったと思います。
マルチバースを正面切って扱った点も興味深いですね。
アメコミでは一つのキャラクターを長い間使い回す(言い方が悪いけれど)際にマルチバースという概念を都合よく使ったりします。
マルチバースとはいわゆる多元宇宙というものですね。
もしスパイダーマンの物語が一つしかなかった場合、後から作られる作品はどうしてもその前提を守っていかなければ話として成立しません。
それを回避するためにスパイダーマンがいる宇宙が無数にあるという考え方にし、スパイダーマンのいる様々な物語が無数にあるというのがマルチバースの考え方です。
都合がいいと言えばそうなのですが、ファン的にはずっとそのヒーローの活躍を見ることができるので、出版社的にもファン的にもWinWinな考え方なのでしょうね。
日本でいうと平成仮面ライダーのシリーズはちょっと考え方が近いかもしれないです。
「ディケイド」や現在放映中の「ジオウ」などはスパイダーバース的な考え方とも言えなくもありません。
アニメであること、多元宇宙を扱っていることということでこの作品はどちらかというと「スパイダーマン」の映画としては奇手のように感じるところもあるかもしれませんが、とは言え「スパイダーマン」としての王道は外していません。
主人公はマイルスはある日蜘蛛に噛まれてスパイダーマンの能力を得ます。
彼はその能力をどうするべきかがわからない。
「スパイダーマン」というシリーズは特殊な能力を得た若者がその力をどのように使うべきかを悩み、そしてかけがえのない人の死によって人々のために使おうと自覚するということがきっかけになり、ヒーローとして覚醒するのです。
まさに本作は正しく「スパイダーマン」の物語でありました。
マイルスは慕っていた叔父の死、そしてまた別世界から来たピーター・B・パーカーら仲間のスパイダーマンたちとの別れを通じて、スパイダーマンとして生きることを決意します。
まさに「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ということを自覚したわけです。
これは少年が自分の生きる道を見つける物語でもありました。
「スパイダーマン:スパイダーバース」は奇手に見えながら王道であった作品だと思います。

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2019年3月23日 (土)

「グリーンブック」 自分は何者であるのか

自分は何者であるのか。
人間にとってこの問いは最も本質的な問題です。
この問いは自分のアイデンティティを問うもので、これに応えられるかどうかで精神的な安定性が得られるかどうかに関わります。
自分は日本人である。
自分は誰それの親である。
自分は◯◯社の社員である。
なんでもいい、自分は何かに属しているということが安心感を生みます。
本作で重要な役割を担うドク・シャーリーはこの問いに答えられませんでした。
自分は黒人なのか。
自分は白人なのか。
自分は何者であるのか。
この作品を観ていて最も印象的であったのは後半でドク・シャーリーが自分の思いを吐露するところです。
彼は言います。
自分は白人でもなく黒人でもない、と。
彼は才能があるピアニストでその実力は白人の成功者たちから評価されているものの、黒人であるがゆえに彼らのコミュニティに受け入れられることは決してありません。
だからと言って同じルーツを持つ黒人たちにも彼は受け入れられない。
南部ツアーのあるときにふと黒人たちが働いている畑に車を止めた時にシャーリーは何を感じたでしょうか。
自分を見つめる冷めた黒人たちの目。
その目は決して自分を受け入れくれている目ではありませんでした。
ドク・シャーリーはどちらのコミュニティからも拒絶されるという孤独を抱えています。
彼のやや高慢にも見える態度は、そういう拒絶に対抗するための彼なりの防御壁なのかもしれません。
彼らに拒絶されているのではない、そうではなく自分は孤高の人であると思いたかったのかもしれません。
その防御壁をトニーは持ち前の屈託のなさでやすやすと飛び越えてみせます。
もちろんトニーもあの時代を生きていた男なので偏見を持っていなかったわけではありません。
しかし、彼にはそういったステレオタイプ的な見方ではなく、人の本質を見る目がありました。
すぐに彼はシャーリーという男の本質を見、彼の才能に感銘を受けるのです。
彼らは長い旅路の中で、黒人である、白人であるという枠組みではなく、ドク・シャーリーとして、トニー・リップとして互いに認めあい、それによって自分の立ち位置を得ることができます。
ドク・シャーリーにとっては黒人・白人という立ち位置ではなく、トニーの友人であるというアイデンティティを得ることができたのだと思います。
自分が属し、自分が存在することを認めてくれる場、コミュニティを人は求めるものです。
ようやくシャーリーはそれを得ることができたのです。
本作品について「白人の救世主」の典型的なパターンと評する意見もありますが、個人的にはそうではないかなと思いました。
シャーリーとトニーの間にある関係性は黒人であるとか白人であるとかという人種による見方を越えてしまい、個として認め合っているように感じました。
人種問題を題材にしていつつも、時折挟まれるユーモアも心地よく無理なく見ることができる良作です。
監督が「メリーに首ったけ」を撮った人であることを後で知り、ちょっとびっくりでした。

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2019年3月21日 (木)

「映画しまじろう しまじろうとうるるのヒーローランド」 娘の映画体験記第2弾

昨年の「アンパンマン」の映画に引き続き、娘との映画体験第二弾です。
半年前は2歳になったばっかりで、さすがにおとなしく座って見ることができませんでしたが、今回ははたしてどうだったでしょうか。
劇場に入るときに、映画を見ながら使う紙のメガホンを手渡されます。
半年前は同じようなグッズをもらっても、本人は何に使うのかよくわかっていないようでしたが、今回は違いました。
映画が始まる前から口にメガホンをあてて、「しまじろう〜!」と叫んでました。
ずいぶん理解力が上がっています。
椅子にも最初はおとなしく座っていて、映画が始まるのをワクワクして待っている様子。
本編始まる前の予告の間から「まだかな、まだかな」と言っていました。
こういうのは半年前はなかったですね。
「しまじろう」の映画は歌っても踊ってもOKということになっているので、そういう説明が入ります。
娘も「しまじろう〜」と声を上げていました。
いよいよ本編が始まります。
正直、お話としてはたわいがありません。
同じ幼児向けの作品として「アンパンマン」と比べると、向こうの方がストーリーとしても良くできていると思いました。
こちらとしてはかなり寝落ちしそうな状況でしたが、娘の様子をみると食い入るようにみています。
この半年くらいで映画のストーリーの理解もかなりできるようになった気がします。
実は「しまじろう」の映画は途中でトイレ休憩が入ります。
全部でも1時間もない作品だとは思いますが、ウチ的にはこれはちょっと余計な配慮かなと。
せっかくストーリーに入り込んで見ていたのに、途中休憩のせいで娘の集中力が切れました。
後半はメガホンで応援やら歌ったり踊ったりという要素も入ってくるんですが、席に落ち着いて座れなくなってしまいました。
まだまだだな、娘よ。
最後は他の子と一緒に映画館の通路を走り回る始末。
「しまじろう」の映画だから許されるが、まだまだ他の映画には連れていけないな。
次の「アンパンマン」の映画の時まで、おとなしく見れるようになっているといいけれど。
映画が終わって他の方々が劇場を出ているのに、私は駆け回る娘をつかまえるべく走っておりました。
ああ・・・。    

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2019年3月17日 (日)

「移動都市/モータル・エンジン」 スチームパンクの「スター・ウォーズ」

これは予告編がかかった時から観たかった作品です。
巨大な都市が動き、強い都市が小さな街を食らっていく。
「ハウルの動く城」を実写でやっているようなビジュアル。
これぞSF、これぞファンタジーといった設定で、スチームパンクなビジュアルはまさに私の大好物といったところです。
製作にはあのピーター・ジャクソンも入っているので品質も担保されているはず!
みんなも観てみたいだろ!と思っていたら、結構公開館は絞られていて結構驚きました。
うーむ、自分の趣味はやはりマニアックなのかしらん。
人がどう言っているかは別にして、個人的には満足度は高い作品でした。
予告で感じていたような世界観を裏切ることなくさらに見応えがあるようになっていました。
ストーリーも後半はテンション上がる展開になっていましたが、観ていてどっかでこの作品と同じ展開を見たことがあるようなと思っていたら気づきました。
「スター・ウォーズ」ですね、まさに。
映画を観た後にいくつか映画評を見てみると「スチームパンクのスター・ウォーズ」という評もあったので、まさにその通りと思いました。
パクったという話ではなく「スター・ウォーズ」自体も典型的なストーリーなので、本作についてもその王道的な物語で構成されていると考えた方がいいでしょう。
最後の主人公の父親の話はモロ被りだと思いましたが。
監督はピーター・ジャクソンのもとでストーリーボードなどを多く手がけていたクリスチャン・リヴァースで本作が監督デビューとなります。
そのためピーター・ジャクソンの影響を強く感じます。
ピーター・ジャクソンの凄いところはその物語の世界観をビジュアルで徹底的に構築するところだと思っています。
「ロード・オブ・ザ・リング」「ホビット」などは小説からそれぞれの読者の頭の中に浮かび上がってくるイメージを誰でも見える形に具現化しました。
それは物語で描かれる場面(セット)だけというわけではなく、映画で描かれる世界を全て創造しているように思えます。
セットを離れればそこには普通に控え室があったり、小道具が置いてあったりというのではなく、映っていない世界を丸ごと作っているようなイメージがあるのですね。
本作「移動都市/モータル・エンジン」についてもそのような印象を受けました。
全編を貫くスチームパンクな世界観が圧倒的でした。
登場人物についても興味深かったです。
はじめ主人公ヘラについてはそれほど魅力を感じることはなかったのです。
ある意味典型的なキャラクターであると思えたのです。
しかしシュライクのエピソードが絡んできたあたりから彼女の背負ってきた人生が浮かび上がり一気に彼女のキャラクターが深まったと思います。
シュライクとのエピソードについてはもう少し深掘りしてもよかったかなと思いました。
彼女が二人の父親に対して持つ思いについて、もうちょっと描けるとより深い物語になったかと思います。
こちらの原作はシリーズとなっているということで、また本作の終わり方も続編を作れる気配で終わりました。
個人的には続編を観てみたいと思いましたが、興行的にはどうなのでしょうね・・・。

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「アリータ:バトル・エンジェル」 違和感はダイバーシティを描くため

「ターミネーター」「アバター」のジェームズ・キャメロン製作で、「デスペラード」「シン・シティ」のロバート・ロドリゲス監督のSF。
原作は日本のコミック「銃夢」ですが、こちらは未読です。
予告を観たときの印象としては、この作品に対してはあまりいい印象を持ちませんでした。
一番の要因としては主人公アリータのビジュアルです。
原作にはまったく思い入れがないので、それとは違うというといったことではありません。
以前にもこちらのブログでも触れた「不気味の谷」問題ですね。
アリータはサイボーグなので、映像はCGで作られていて、他の人間のキャストと絡むこととなります。
最近のCGの発達もありアリータの動き、肌の質感などはほとんど不自然さを感じることはありません。
しかし顔のルックスが少しばかり人間をカリカチュアされているのですよね。
コミックスの印象を残そうとしたのか目が非常に大きい。
他の顔の要素の質感がリアルなので、かえって不自然なくらいに目の大きさが目立ちます。
人間に近づいているけれでも完全ではないことからくる「不気味の谷」問題が発生してしまい、どうも気色の悪さを予告編では感じました。
この印象が作品の評価に大きく影響を与えるのではないかというのが、事前の心配だったのです。
けれども観終わってみるとそれは杞憂であったと感じました。
というよりもそのようなアリータのビジュアルはあえてそうしているように思えたのです。
アリータは何百年も前にあった戦争の時の戦闘用サイボーグでした。
破壊されて遺棄されていたのを、イド博士がリブートしたのです。
つまりはアリータはこの映画で描かれている世界においては最初から異分子であったのです。
人間ではない戦闘マシーン。
その持って生まれていて決して変えることができない異質感を表現するために、あえて「不気味の谷」的な違和感を残しているようにも思えてきました。
この物語はそのような異分子であるアリータが人々に受け入れられ、愛されるようになっていく過程を描いている物語なのです。
人々に受け入れられていく過程の中でアリータ自身も人を想い、愛することを学んでいきます。
後半になると当初感じていたビジュアル的な違和感のようなものはなくなり、アリータのことを受け入れていることを自分自身で気づきました。
外見上の際などは関係なく、その人間性こそが人の本質であるということがこの作品のメッセージなのかもしれません。
ザラムを支配し全てを見通すノヴァたちの方がよほど人間性に欠けた異質感を感じる存在に見えてくるようになります。
アイアンシティは生身の人間も大部分を機械化されたサイボーグが混在していきている街です。
まさにダイバーシティを体現している世界なのですね。
そこから隔絶されているザラムはそれを否定している。
現在まさに課題となっているダイバーシティがこの作品の一つのテーマと言えるでしょう。
映像的にも見ごたえはありました。
さすがキャメロンが関わっているだけあってアクションシーンなどは迫力があります。
とはいえ、これだけCGが発達している時代なので、「アバター」の時のように今までに観たことのない映像で衝撃を受けるというところまでではありません。
ラストは次回作も作れるような終わり方でしたね。
興行が良かったら、次回作にチャレンジするのでしょうか。

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2019年3月 2日 (土)

「サムライマラソン」時代劇の魅力を引き出せていない

佐藤健さん主演で、外国人のバーナード・ローズが監督の時代劇「サムライマラソン」。
演技にストイックな佐藤さん、そして外国人の目線で描くということで新しい時代劇になりそうな予感がし、期待して見に行きました。
見終わった時の印象をひとことで言うと凡庸であったということです。
時代劇というジャンルに期待される要素には様々なものがあると思います。
エンターテイメント的な部分で言えばチャンバラ。
佐藤健さんが緋村剣心を演じた「るろうに剣心」は新時代のチャンバラを創出した作品であったと思います。
逆に日本人の心情を描くというのも時代劇の真骨頂だと思います。
山田洋次監督の時代劇三部作などは、殺陣などはあまりない静かな作品ですが、日本人の精神を描けていたと思います。
他にも時代劇の魅力はいくつもあって、いい時代劇というのはそれらをうまく捉え、新しい視点で進化させていったものだと思います。
そういうことを私は「サムライマラソン」に期待していたのですが、あまりそのような印象を持つことはできなかったですね。
いろいろなことを大切に思い作っていることは伝わります。
主人公の甚内は隠密ですから、その素性を明らかにすることはできません。
人々の中に紛れ、目立つことなく生きなければなりません。
そういうことを理解した佐藤さんのストイックな演技もあり、この主人公は劇中でとても静かで目立つことがありません。
それゆえ、物語をドライブしていく役回りには少々辛い。
それを解決する役が雪姫なのだと思いますが、こちらはリアルに隠密というものを追いかけた甚内という役に比べると、とてもファンタジーな印象があります。
囲われた姫が城を逃げ出し、男装して遠足に参加する。
「バレるだろ!」とツッコミを入れたくなりますが、そのあたりは触れないこととなっています。
甚内が知らない隠密が安中藩に紛れ込んでいて、彼らもそれぞれに動き始めているが、それが誰かはわからないというのはミステリー仕立てで面白い設定だと思いましたが、そこはあまり引っ張られなかったですね。
甚内の生き様みたいなものをもっと深掘りすれば、日本人の伝統的な精神などを描けたかもしれません。
殺陣も緊迫感のある場面もありましたけれども、ほんの一瞬なので、それだけではちょっと食い足りない。
ちょいちょいと時代劇として面白そうになる要素はあるものの、いずれも中途半端であるという印象です。
もったいないです。

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「ファースト・マン」 閉塞感と解放

最初から最後まで見ていて息がつまるような印象がある作品でした。
まず冒頭の大気圏脱出のテストフライトのシーン。
個人的に飛行機とかジェットコースターとかがとても苦手なので、手に汗握るというよりも脂汗をかくような気持ちで見ていました。
中盤のジェミニ計画の中の一つドッキングミッションの場面もそうですね。
宇宙船のバランスが狂い、高速度で機体が回転を始めてしまうが、それを止められない。
このシーンは見ていて途中でもう止めてと思うほどでした。
初期の宇宙船は作品の中で描かれているようにペラペラな金属の殻で覆われているだけで、かつとても狭い空間。
そしてその薄い隔壁の外には真空の世界があります。
これは圧倒的な閉塞感です。
そう、この作品のテーマは閉塞感があると思います。
作品の冒頭で、主人公ニールは愛娘を病気で失います。
この時彼の気持ちは外界と何か壁のようなもので覆われてしまったように感じました。
娘を失ったという現実からの逃避かもしれません。
引きこもってしまうわけではありません。
妻や息子たちとも話はします。
同僚たちとお酒を一緒に飲んだりもします。
けれど、ニールの本当の気持ちは何かベールに覆われているかのように見ていて感じます。
それは妻のジャネットにも伝わっていて、彼女は夫と確かなコミュニケーションを得られないことにずっと苛立ちを感じています。
ニールは決して妻や子供たちを愛していないわけではありません。
でも娘の死をきっかけに、それらをはっきりと自分の外に気持ちを出すことができなくなってしまったのかもしれません。
このようなニールの心情も閉塞感であると思います。
作品を通してもやもやとした閉塞感が続き、ずっと重い緊張感が存在しています。
その閉塞感が様々な意味で解放されるのが、月面着陸でした。
何年にもわたるミッションが成功を迎えたその時。
極度に狭い宇宙船から広い月面に降り立ったその時。
ニールの気持ちはそれまで彼の心と外界を隔てていたベールが払われた気持ちになったのではないでしょうか。
娘の思い出の品をそっと月面に置いた時、ようやく娘を失ってしまったという現実から解放された。
長く心を支配していた閉塞感から解放された時であったのでしょう。
月面着陸は人類が月面に立つまでの長い旅路が終わった瞬間でした。
そしてまたニールの心の中にあったわだかまりがなくなった瞬間でもありました。
地球帰還後、ニールは防疫室から窓越しで妻に面会します。
ニールから妻に向かって手を差し出します。
彼はようやく自分の殻から出ようとしているところなのかもしれません。

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